目次
在宅ホスピスは実現するのか②
前回書いてから、かなり時間が空いてしまったが・・・
あいかわらず「在宅ホスピス」は急激に増えており、代表的な施設がチェーン化して、多くのブランチが出来上がった。それなりの需要があるということなのだろう。
一方で在宅で最期の時を迎える患者さんもずいぶん増えたという実感もある。
とくに平和病院周辺には、自分が緩和ケアを始めたころに比べれば、我々と同じ症状緩和が殆ど可能な在宅療養支援診療所もずいぶん増えた。
以前は診療所の院長先生が単独で対応するケースがほとんどであったが、現在では多くの常勤、非常勤の医師が勤務する施設も増え、医師の負担はそれなりに分散され、昔のように、一人の先生が朝から晩まで一人で往診や看取りまで行うことはずいぶん減ってきた。
在宅療養支援診療所もグループ化して、それぞれのブランチに別れ,診療圏を広げている
平和病院緩和ケア科から巣立った緩和ケア医も3人が在宅医に転身している。
通常の有料ホームや療養施設などでは、医療用麻薬の使用になれていなかったり、
夜間の看護体制が充分でなかったりすることで、がん終末期の患者さんの入所ができにくいケースもあるが、
その点、在宅ホスピスでは癌の終末期で医療用麻薬を使用していても入所可能な場合が殆どで
そこに訪問診療、訪問看護が入り込んで対応してくれることになる。
ただ、多くの場合が、その施設と関連のある訪問診療、訪問看護が対応することが多く、
いわゆる「地域」の連携に通常はかかわっていない場合もあり
患者さんやご家族は、今までの地域の中での連携から外れるような感じで新たな療養の場に移っていくこと多い。
我々からすれば、今までかかわってきた患者さんを、あまり知らない先生にお任せすることになる。
平和病院から地域の連携の先生にお願いして自宅に帰る場合は、「顔の見える連携」が構築されており、
また状態が悪化したときなど、あるいはご家族の介護疲れなどのには、また平和病院に戻る場合もあるが・・・
在宅ホスピスでしっかり見守ってくれているせいだからだとは思うが・・・
今まで症状コントロール目的や終末期にもどってきた例はない。
ただ、その結果がフィードバックされることもほとんどないのが、もやもやするところではある。
新しい病院を建てた時には緩和ケア病棟ができ、連携の先生方も増え、これで地域の緩和ケア連携も完成に近づいたかと思っていたが・・・連携の枠の中に、どうしても「在宅ホスピス」が入っていないのが気になっている
ただ、在宅ホスピスの数はここ数年驚くほどの勢いで増えている…ということはそれだけ需要があるということなのだろう。
最近、今までかかわっていた在宅の先生がそのまま継続で在宅ホスピスにかかわるケースを目にした。
ただ、まだまだこのようなケースは少ない状況が続いている
実は、平和病院緩和ケア科でも以前から緩和ケア病棟に入院継続できない患者さんの受け皿として
自分達あるいは連携の在宅の先生方が継続してかかわっていく施設を造れたらと考えていた。
(株)東芝が平和病院を運営をしていた時代は新病院建設のための借入金が重くのしかかり、
経営を圧迫していたこともあり、とても新たに施設を作る余裕もなかったが・・・
現在、平和病院はCHCPという組織が運営するようになっており、この構想に理解を示してくれており、何回か話し合いも行ない、自分が平和病院にかかわっている間に何とか完成させることが長年の夢だった、地域の中で支え合う在宅ホスピすが実現し、理想の緩和ケア地域連携の完成が・・・と期待したのだが・・
(つづく)
在宅ホスピスは実現するのか①
緩和ケア病棟は、以前はがんの患者さんが残された時間を穏やかに過ごす場所として運営されていたが…何年か前
在宅で最期まで過ごせる患者さんを増やそうという基本的な国の方針のもと
つらい症状を持つ患者さんを、できるだけ早く受入れ、症状の緩和ができたら在宅に復帰させることが求められるようになった
診療報酬上も入院期間によって差が付けられるようになり、「誘導」が行われた
病院の収益上で入院期間によって差が付けられるようになったわけだ
もともと平和病院緩和科は通常の外来診療を、治療中から治療病院との併診で行うことを目指してきたので、入院は緊急入院が多く、8割程度になる
緩和ケア病棟は16床なので満床のことが多く,一般病棟でも患者さんを受け入れているので,基本的に入院が必要な状況での受入れは確実に受け入れている。
治療によって症状が緩和されれば,在宅に戻れる患者さんも多い。
平均在院日数は2週間程度で維持されてきた
緩和ケア科を独立させてからもう15年以上になった。緩和ケア科の連携在宅療養支援診療所は、この間ずいぶん増えた。
鶴見区・神奈川区・港北区、川崎市には安心して患者さんをお任せし、当院でできる緩和治療がほぼすべて可能な先生方も多く
100%確実なバックアップを担保し、われわれが対応できない地域の患者さんをお願いすることも多くなった。
とくにコロナの感染が広がると、その病院でも「面会制限」がもうけられ、現在は緩和ケア病棟に限っては面会時間内に登録していただいた3人までが面会出来るようになっている。
4人ではだめなのか・・とか、最期のお別れのときにも会わせられないのか・・・とかご家族からは厳しい声も聴かれ
私を含めたスタッフも辛い思いで対応することが続いている。
外出や外泊も許可出来ていない現状では
もうお別れが「日単位」になった患者さんが、ぎりぎりの状態で自宅に帰ることも多くなった。
在宅の先生や訪問看護、訪問介護、ケアマネなどの在宅スタッフの皆さんには、この数年ずいぶん苦労をかけることも多くなっている。
以前在宅スタッフに行ったアンケートで、困っていることで一番多く挙げられたのが、「準備不十分のままぎりぎりの状況で在宅に戻ってくること」であった
まさに、「急なお願い」をすることも増え、以前のような状況に戻れることを願うばかりだ。
一方で、症状が安定しいわゆる「介護」が主になった患者さんで、ご家族の体制が整わず、在宅復帰ができない患者さんをどうすればいいのか・・・
という問題も出てきている。そこで最近増えてきたのがいわゆる「在宅ホスピス」と呼ばれる施設(住居)だ
(2022年10月16日)
お看取りの場が変わる!
コロナの感染が始まる前、緩和ケア病棟ではお別れが近い患者さんのご家族は制限なく面会ができ、友人・家族などが病室を訪れ、患者さんとのたいせつな時間を共に過ごしていただくことができていた。
また、外出・外泊も頻回に行われ、1日だけでも家に帰りたい・・との思いもかなえることができていた。
2020年3月2日、平和病院は面会制限の体制となり、いっさいの面会ができなくなった。
ただ、緩和ケア病棟に限っては1名のみは特別に面会時間内には面会を許可し,いよいよお別れが近くなった場合には
あらかじめ登録していただいた4名までは面会を許可するという体制とした。ただ・・・
5人ではだめなのか…、1日だけでも外泊できないか…など、ご家族からの強い希望も聞かれ、我々スタッフも自分たちの気持ちと、病院で設定したルールのはざまで、つらい思いを強いられていた。
ただ、厳しい制限のためもあり、スタッフ、患者さんに感染の広がりはなく、その意味では対策は効果を上げている
最期はたくさんの家族に囲まれて過ごしたい…との思いが緩和ケア病棟で十分にできなくなってしまったいま、緩和ケア病棟から、非常に厳しい状況で退院する患者さんが増えてきた。
昨年度はこのような患者さんは、多少遠方でも自分たちが訪問診療・往診を行いご自宅での看取りを援助してきたが、
今年度は常勤医師が減少したこともあり、また、平和会の訪問看護も夜間対応が難しくなり在宅医療への対応が弱体してしまっている。このため、ぎりぎりの患者さんを連携の在宅療養支援診療所の先生方に御願いせざるを得ないことになり、また、それを支える在宅ケアスタッフにもご苦労をかけてしまうことになっている。
幸い、平和病院は多くの在宅の先生方との良好な連携を構築してきており、当院でできる治療はほとんどすべての治療をそのまま引き継げる場合も多く、また、長年行ってきた在宅ケアスタッフ向けの緩和ケアスキルアップ研修を受けた在宅スタッフも育ってきており、何とかコロナの時代の新しい連携、新しいお看取りの形が出来上がりつつある。
ワクチン接種が広がりつついま、緩和ケア病棟の患者さんの流れは元の戻るのだろうか?
1日の早く以前の様に患者さん、ご家族の穏やかな時を我々スタッフも病棟でともに支えられるような日が来れば・・・どんなに素敵だろう!(2021年6月25日)
あいしてる
Mさんは乳がん、肝転移で都内のがん治療病院から紹介されてきた
肝臓はほとんど腫瘍で置き換わっているような状況だったが、何回かは外来通院もできていた
しかし、腹部の膨満感と倦怠感が強くなり、通院が困難になってきた
病気のことは十分理解されており、本人も在宅で最期まで…との希望も強く、夫も妻を支える覚悟で退職し,
ずっとそばにいられる態勢を整えた
自宅は当院の訪問診療圏内でもあり、自分が引き続きご自宅に毎週訪問するようになった
夫はギターを買ったばかりで、これから弾き語りなどをやってみたい・・・ということで、
自分もバンドでギターを弾いて歌っていることも話し
Mさんの誕生日には訪問に同行している外来看護師が、自分のCDをプレゼント代わりに持参した
(迷惑でなかったことを願っているが・・・)
介護申請、訪問看護の導入などもすすめ、しばらくは苦痛のコントロールも良好で過ごせていたが・・・
しだいに黄疸が進行、内服も困難になったため、疼痛コントロールは貼付剤に変更、持続注射も必要かと思われた。
「入院の方がよければいつでも入院はできますよ」
「いえ、だいじょうぶ・・このまま家にいたいです」
夫も「それでお願いします」
とのことだったが、次の定期訪問までは頑張れないと判断したため、帰り際、
夫には、おそらく数日以内にお別れになることを伝え
夜間でも必ず対応することも伝えた
それから12時間後、深夜に久しぶりに「ライディーン」が鳴った
(もう呼び出し音は携帯電話を持つようになってから一度も変えていない。私にとってはライディーンは進軍ラッパのようなイメージがある。以前は夜間毎日のように鳴っていたが、最近は医師も増え、また当直医にお別れの確認をお願いするようになってからは、なることはずいぶん鳴ることは減った)
訪問看護師からで、呼吸が止まったようだ・・・と
自宅までの道はかなり細く、いったん病院に行って訪問診車に乗り換えていこうと思ったが・・・
病院に行く途中にあったので、自分の車で直接往診した
Mさん穏やかな顔で横たわっていた
「1時間ごとに起きて様子を見ていたんです・・呼吸が荒くなって・・・妻を少しびっくりさせてしまったかもしれないんです。
いつもそんなことは言わないんですけど・・・
もうお別れだと思ったんで、愛してるよ・・・って言ったんです。そしたら、
あ・・・・い・・・・まで口を動かして、そのまま息をしなくなりました」
夫が目に涙をためてそんなことを教えてくれた
ご夫婦には長い歴史があり、いろいろな出来事があったと思う、楽しいこと、つらかったこと・・・
いつも元気な時の会話の雰囲気は、本当に『仲良いご夫婦』という言葉がぴったりだった
そんな長い歴史の中で語られた多くの言葉の最期が「愛してる」・・・
まるでドラマを見ているような感じだった
我々は多くのご夫婦のお別れに立ち会う、それぞれの夫婦にはそれぞれの歴史がある
お別れの時に来院しないご夫婦もある
感動的なお別れもあれば、残念ながらそうでない場合、一人寂しく亡くなられる場合もある
人は生きてきたように死んでいく・・・ということはいつも感じていることではあるが・・・
もし自分が妻と別れるとき、こんな会話が交わせるだろうか・・・・
これからどれだけのお別れに立ち会うか・・・
お別れは悲しいことに違いはないが、少しでもMさんのようなご夫婦が多ければ・・・
先日グリーフケアの講演を行った時、お別れの後の悲嘆を左右するのは、病気になり、医療者がかかわるずっと前、
その人が生まれ、育ち、出会い、結ばれ・・
共に生きてきたキセキのような人生が大きく影響することをお話した
今までの生活は変えられないからこそ、今日、これからの人生を大切にしたい・・・と
あらためて教えてくださったMさんとのお別れだった。(
(2020年11月6日)
このまま家で
新形コロナウィルスが猛威を振るっている
病院は感染を避けるために面会の制限を設ける施設がほとんどで、平和病院でも基本的に面会はすべてお断りしている
ただし、病状の変化に対する説明が必要な場合などに限って、家族には連絡をして病室ではない場所で対応している
緩和ケア病棟においても同様の対応が感染対策上は望ましいのだが・・・
残された時間が少なくなった患者さんも多く、最期の時間を共に過ごしたいと思う気持ちは、本人にも家族にも強い場合も多い
かといって、何人もの家族が家族、親戚、友人などが次々に来院するのは明らかに望ましくない
家族ばかりでなく、スタッフも「会わせてあげたい」との思いも強いが・・・
感染予防とのはざま」「でなやみ、ストレスも感じている
通常ならそのまま緩和ケア病棟で穏やかに最期を迎えられるような患者さんも、残された時間が短くなってから、
在宅への復帰を希望するケースが増えてきた
「このままでは家族に会えないままお別れになってしまう」
「このままでは会いたがっている親戚に合わせてあげられない」
外来通院中の患者さんも、体調が悪化しそろそろ入院が必要な場合でも・・・
「今入院したら誰にも会えないから、家にいたいです」
「今入院したら面会にもこられなくなってしまうのでもう少し頑張ります・・・」と、
以前は体調悪化の場合には入院を希望されていた場合も、在宅療養を希望する場合も多い
それでも通院が厳しい時には訪問診療、訪問看護を導入するが、介護保険の対応が間に合わない場合も多い
先日の夜、外来通院中の患者さんの家族が利用している訪問看護師さんから突然連絡があった
Tさんの呼吸が止まりそうだ・・・と
家族は、このまま最期まで家にいさせてあげたい…と言っている
どうしましょう・・・と
もう間もなく呼吸が止まりそうだとのことなので、「これから行くから」と、往診に出かけた
いったん病院によって訪問診療車で行くのでは間に合わない可能性もあるので、自宅から直接Tさん宅に出かけて行った
すでに自宅には多くの家族が集まっていた
7人ほどの家族、訪問看護師、自分・・・
部屋は広いわけではない、完全に「3蜜」の状況になっていた
病棟、病室でこの家族が全員揃ってしまうことは今の状況では、厳しいと言わざるを得ない
結局Tさんは苦痛もないまま呼吸が止まりそのまま自宅でのお別れになった
最後の外来受診の時には「通院がリハビリなので・・・」といっていたのだが・・・
自分は以前から「どこで亡くなるか」は、おおきな問題ではなく、
それまで「誰とどのようにかかわってきたか」の方がが大切だと考えているし、今も考えてはいるが・・・
病院での面会制限が厳しく行われている場合には・・・
お看取りの「質」は在宅の方がはるかに高くなっている感じがする
平和病院緩和ケア科では訪問診療にも対応しているので、普段外来や、入院時に病棟で対応する医師がそのまま在宅に移行する強みがある
感染の状況はまだ先が見通せない状況の中・・・
自分たちが行う「看取りの場」にも変化が出てくるような気がしている・・・(2020年5月8日)
嘘つき!
Tさんは都内の大学病院からの紹介で平和病院を受診した
20年近く前に乳がんの手術を受け、順調に経過していたが、7年前に再発、肺転移、骨転移も見つかりホルモン治療
転移に対しては放射線治療も行われていたが・・・
嚥下困難、複視が出現、髄膜播種と診断され、
積極的な治療は終了、在宅復帰は困難と判断され転院の依頼になった。
以前は緩和ケア科の紹介は、このように治療が終了し、残された時間が少なくなった患者さんが、「転院」の目的で紹介されることがほとんどだったが・・・
最近では治療早期からの患者さんの紹介がほとんどになり、直接転院の紹介は、全体の1割程度までになっている
結局Tさんは年の暮れ、あと10日ほどで新年という頃に転院になった
意識レベルは低下していたが、電解質の補正や疼痛コントロールを行うと、状態はいったん改善してきた
しかし、正月には嚥下も困難となり、疼痛コントロールは持続皮下注に変更せざるをえなかった
症状にはムラがあったが、体調がよくなると在宅復帰の希望があり、海外に住んでいた娘さんの協力もあり
在宅サポートを整え、訪問診療は自分が行うことにして退院となった
最近は自分たちで訪問診療を対応する患者さんも増えてはいるが、Tさんの自宅はかなり遠方であったので
本来は連係の在宅支援診療所の先生にお願いするのだが・・・・
なかなか状態が悪い患者さんを新規に紹介するのも申し訳なく、また、
状態は急激に悪化することも予想されており、「少しの間でも・・・」
という思いもあっての在宅復帰であり、最期は病院でとのご希望もあったので、移動には時間がかかるが
自分で対応することになった
持続注射のままでの退院であり、週に1回は訪問が必要であり、毎週水曜にはTさんの自宅にでかけた
初めは不安そうだった娘さんはとても頑張ってTさんのお世話に取り組み、
Tさんは初回の訪問の際には暖かな日差しが差し込む部屋で、にこにこしながら休まれていた
ご主人もそばのソファーで過ごされ、思い切って退院していただいてよかった・・・と思えた。
娘さんには、残された時間は短いと伝えており、自分も2回程度の訪問後は入院になるだろうと思っていたが・・・
Tさんは予想に反し4回目の訪問の時には車いすに乗って洗面所に行けるほどになっていた。
娘さんからは、「先生は嘘つきですね!・・2回くらいっておっしゃってたのに、もう1か月にもなって驚いています。
どうしましょう!}と笑いながら言われた
確かに、予想はいいほうに外れていた。
ただ・・・
5回目の訪問の時には、また状態は悪化してきており、ポータブルトイレへの移動も難しくなっていた
自分の考えは、いったん在宅に復帰したから、何が何でも最期まで自宅で・・と、こだわるつもりはなく、
本人やご家族が入院を希望したらいつでも戻ってこられるようにしているし、最期の場所がどこか・・・が問題なのではなく
それまでの時間をだれと、どのように…苦痛の除去を行いながら過ごすか・・・が重要だと考えている
Tさんは動けなくなったら娘に迷惑をかけることを気にしていた
その日、娘さんには、本人やほかのご家族とよく相談し、入院を希望されるようなら連絡してほしいことを伝えた。
帰るとき、Tさんから「大丈夫?まだお迎えは来ない?」と聞かれた
「何言ってんの!まだ大丈夫、来週また来るし」と返事をして帰ってきた
でも・・・それから数日後、Tさんは緊急で入院になってしまった
月曜日に病室に行った時には、もう呼吸も止まりかけており・・・そのままお看取りになってしまった
病室にはご家族がそろっていた。
娘さんは「先生はほんとに嘘つきでした・・こんなに長く自宅で見れるとは思いませんでした、
本当にありがとうございました」と、言ってくださった
「Tさんにも、このまえ『大丈夫』ってうそをついてしまいましたね・・・」
確かに予想より本当に頑張っていたが、それでも自宅でのいい時間はもっと続くんじゃないかと思っていたので、
自分としても結構気持ちが揺らいだ
お別れの時間を確認する前、ご家族と自宅での療養の思い出を語ったとき、声が震えて涙が出そうになった
最近、あんまりこんな感じになることはなかったので自分でも驚いた
あと何時間か早く入院していたら、当直明けの自分がまだ病院に残っていたのに…という思いもあった
いい方に外れた嘘と悪い方に外れた嘘・・・
たぶん」Tさんも、向こうで「嘘つき」って言っているかもしれない・・・
30年近くのお付き合い
Kさんは私が外科医として着任した平成3年に胃がんの手術を受けた
それ以来、長い間私の外科外来に通院し、またそのご主人も私の患者として長年のお付き合いをしていた。
ただ私が外科から緩和ケア科にシフトしてからは直接の診察を行うことなく経過していたが
(現在も特殊外来として20名近くの患者さんは2か月に1回だけ診察している)
何年か前まで外来で時々お顔は拝見していた
ある日、看護師から相談があり、Kさんが浮腫みの検査で尿を調べた時、悪性を疑われる細胞が出たとのことで、
主治医を誰にということになり、Kさんと、そのご主人もできれば私に主治医になってもらいたいとの希望があるとのことであった
緩和ケア科の初診外来で相談していただくことにして、本当に久々の診察になったが・・・
Kさんのあまりの変わりように驚いた!
以前はふくよかな顔で笑顔が素敵だったが、久しぶりに見た姿は、一気に年を取った印象で、
背中は曲がり、車いすで診察室に入ってきた
まずは泌尿器科の受診を勧め、精査をしてもらった結果は、腎臓がん、膀胱がんの診断となった。
平和病院の泌尿器科は非常勤医師のみであったため、その医師のいる大きな病院で手術をすることになった
手術の2週間ほど前、Kさんは自宅で転倒、動けなくなって緊急受診、そのまま入院になった
外傷、骨折はなかったので、手術までの待機期間を平和病院で過ごしてもらうことになったが・・・
その後急激に衰えた印象があり、食事もほとんど食べられず、とても手術に耐える体力はないのでは…と思われた
手術予定の数日前、土曜の当直の夕方、Kさんの病室を訪ねた
「ああ、先生、本当にお世話になりました。もう30年もの間お世話になって本当に感謝しています
もう私はだめだと思います」
発見された癌はそれほど進行している状況でもなく、遠隔転移もなかったのだが・・・
「もうお別れですね・・・」
「そんな感じがするんですか?どこか体でつらいところはありますか?」
「いえ、特にありません。でももうお別れだおと思います」
「手術が近づいて、ご心配になったんでしょうかね、ご心配ならご主人に連絡して来てもらいますか?」
「ええ、お願いします。息子にも連絡するよう伝えてください」
確かに手術は延期が望ましいとは思ったが、そんなにすぐお迎えが来るとも思えなかったので、
ご主人にKさんが会いたがっていることを連絡して、来院していただくよう伝えて部屋をあとにした
その夜、Kさんの意識レベルは急激に低下した、日曜の朝、訪室した時にはすでに下顎呼吸で、ご主人が付き添っていた
「昨日はご主人に会いたいっておっしゃって…30年間ありがとうございますって私におっしゃって・・・
もうご自分が厳しいことが分かったんでしょうか・・・」
「そんなことがあったんですか・・・最近弱気なことばかり言うので、またいつものことかって思ってしまって・・すぐに来てやればよかったですね」
それからほどなくして、Kさんは静かに息を引き取った
前日私に話したようにそのままお別れになってしまった
ご自分の最期の直前にKさんのように自らの寿命を悟り(本当にそうなのかはわからないが・・・)
感謝の気持ちを伝えてお別れになるケースは、実はそんなに多くはない
テレビドラマのように、お別れの時に周りにいる家族や知人に感謝の気持ちやお別れを告げて、そのまま静かに‥というのは
感覚的に100人に1人くらいなのではないだろうか・・・
初めてお会いした時の印象に比べ、体も半分くらいに小さくなってしまったKさんだが・・・
私の当直の時を選んで旅立たれたのか・・
外科医だったころや緩和ケアを始めたころのお看取り」は
自分が手術をして経過を追って、再発、転移をして…お看取りになる・・・というように、お付き合いの時間がかなり長い患者さんが多かったが・・・
今も何年も通院している患者さんもいることはいるが、そんな患者さんも少なくなっている
自分も年を取った分、昔手術をした患者さんも同じように年を取っている
患者さんとのお別れのエピソードのことを何人も書いてきてはいるが・・・
お付き合いが短くなっている分、濃厚な思い出も少なくなってしまっている気がする
時代が違う…といえばそれまでなんだろうが、お別れする患者さんが多くなってしまっていることも原因なのかとも思う
それぞれのお別れがのイメージが希薄になっているのだとすれば、望ましいことではないような気がするし
今の人数の患者さん、ご家族に昔のようなかかわりをしていけば、自分の気持ちが持たないような気もする・・・
正確に数えたわけではないが、いままでには5000人以上のお別れを経験しているはずだし、今でも平和病院緩和ケア科では毎年400人近くのお別れがある
講演などで、「私たちにとって患者さんとのお別れは多くのお付き合いの中の一人であってもご家族にとってはたった1回のお別れになる、お看取りりになれてはいけない」
といつも伝えている。
自らも意識しなくてはいけないことだと改めて思う
自分はこの世を去るとき、Kさんのように時期を悟り、大切な人たちに思いを伝えられるのだろうか・・・
(2020年2月2日)
どこで逝くのが幸せか?
平和病院緩和ケア科では年間約400人の患者さんとのお別れがある
緩和ケア病棟だったり、一般病棟だったり、在宅だったり・・・
お別れする場所は様々だ
緩和ケア病棟は「お看取りの場ではない」ことは以前から患者さんにも、ご家族にも伝えている
もちろん、お看取りをしないということではなく、その時のお相手も重要な役割だということは理解しているが・・・
最近は緩和ケア病棟からの在宅復帰率も国の方針で重要視され、
緩和ケア病棟の入院の判定基準などが変わってきている施設も多い
次の診療報酬改定では、今の基準はもっと厳しくなり、在宅での看取りへの誘導がますます行われるだろう
私たちは、訪問診療も行っており、在宅でお看取りすることも少なくないが、確かに住み慣れた環境で、ご家族に囲まれながら最期まで時間を過ごすことはとても素敵なことだと思うし実際、その場のご家族の表情には、
つらいながらもやり遂げた達成感のような表情も見て取れることも多い、
できれば自分もそうなりたいとは思うが・・・
家族の負担を考えて入院を望む患者さんも多いし、ご自宅でつらそうな姿を見ることができないとのことで
入院を希望する場合も多い
在宅での療養を支えるスタッフが、緩和ケアに関する基礎的な知識や経験を積むことは重要になっているが
我々はその教育の役目も担うべきだと考え、医師会とも協力して、長年力を入れてきた
患者さんやご家族の気持ちは、日々変わっていく
肝心なのは「どこで逝くか」という場所ではなく、「だれと、どのように最期の時を迎えるか」であり、もっと言えば、
その時まで誰と…どのようにその人が人生を歩んできたかが大切だと思っている
「人は生きてきたように死んでいく」
私たちは短いかかわりの中で、その人、ご家族の生きざまを理解するのは難しいことはわかっているが・・・
多くのお別れをるたびに感じることでもある
我々が目指すのはいつ、どんなに気持ちが変わっても、どうにでも療養の場を提供できる体制を構築していくことであり
シームレスな在宅と入院の移動が可能になることを目指しているため
平和病院緩和ケア科ではいわゆる「入退院を繰り返す」ケースも多い
その分緊急入院も多く、確かにスタッフの苦労をかけている
緩和ケア病棟が「緩和ケア科の病棟」であり、単にお看取りの場を提供するものではないことは、ぜひ多くの患者さんやご家族に知ってもらいたいといつも思っている(2019年10月25日)
緩和ケアはこわくない⑭
がんは、患者さんひとりで戦うものではなく、まわりにはご家族や多くのスタッフがいて患者さんを支えていきます
がんと闘うとき、これからどうなるのか…という思いで不安になることは避けられないのかもしれません
ただ、患者さんやご家族は決して孤立無援で戦っていくわけではありません
入院中でも、在宅でも、地域の中にはみなさんを支える多くのスタッフがいます
私は、緩和ケアは『個人戦』ではなく『団体戦』だと思っています
はじめにお話したように、緩和ケアは人生の最期で待ち構えているものではありません
平和病院緩和ケア科のある横浜市鶴見区近隣では、鶴見区医師会や多くの在宅スタッフとともに、緩和ケア地域連携を以前から強化してきました
私たちはこれからも、緩和ケアでの『団体優勝』が出来るよう、地域の多くのスタッフの皆さんとともに患者さん、ご家族を支えていきたいと思っています
がんになってどうしていいかわからないとき、不安でいっぱいの時には、ほんの少しだけ周りを見てください
今まで気づくことが出来なかった、ささやかな幸せに気付くことが出来たり、少し目を開ければ、多くの人たちがあなたに微笑みかけているのに気づくかもしれません
おしまいに「小さな花」という歌の歌詞を添えて、このシリーズの終わりにしたいと思います
(H31年2月11日)
『小さな花』 曲・詞 たかはしおさむ 歌:ハッピータイム
いつも何気なく歩いている道ばたに、小さな花が咲いているのに
僕らはそれを見ることもしないで通り過ぎる
大きな幸せや夢、追いながら
いつも氷のように吹き付ける冬の風の中、春を告げる香り隠れてるのに
僕らはそれに気づくことも出来ずに襟を立てて
指をおり春を待ち続けている
心がつぶされそうな とてもつらい時だって
一人ぼっちになったみたいに さみしい時だって
ほんの少し空を見上げれば、ほらそこに、小さな星が輝いているでしょう
いったいどこに行けばいいのか わからなくなったって
明かりが見えなくなって 道に迷った時だって
ほんの少しだけ目をあければ、すぐそこにある、小さな幸せに気がつくでしょう
ほんの少しだけ笑顔を見せて、ふりかえれば、みんなが君に微笑んでいるでしょう
ほんの少しだけ手を伸ばせば、ほらそこに、小さな花が咲いているでしょう
確かにどんな医療でもそうですが、高いスキルを持つ医師が患者さんやご家族に対応することは素晴らしいことかもしれません
ただ、ブラックジャックのようなカリスマ医師が鮮やかなメスさばきを見せても、それだけでは患者さんやご家族を支えていくことはできません
がんと闘っていくときには、体の事だけではなく、生活のすべてを支えていく体制づくり、サポートが必要です
素晴らしいテクニックで病巣を取り除く手術手技はもちろん大切でしょうが、それだけで闘いが終わるわけではありません
入院して、病院での療養を続けるとき、その医師の行う治療の効果を最大限に高めるためには、看護師、看護補助者、薬剤師、理学療法士、管理栄養士、MSW、臨床心理士、臨床検査技師などな、また、療養環境を支える清掃の担当、施設維持を行う職員、事務職・・・数え上げればきりがないほど多くの職種のスタッフが患者さんやご家族を様々な方向から支えていくことが必要になります
このことは『がん』ばかりではなく、すべての病気で同じことが言えます
一つの病院の中に限ってもいわゆる『多職種連携』が求められており、それを高めることが療養の質の向上につながります
また在宅での療養になれば『一つの診療所』『一つの訪問看護ステーション』だけで患者さんやご家族を支える役割を果たすことはできません
療養を支えるケアマネ、訪問看護スタッフ、調剤薬局のみなさん、訪問リハのみなさん、介護用品に係る事業者さん、行政、福祉関係のみなさん・・・これまた多くの職種のスタッフが在宅療養を支えていきます
緩和ケアでは、患者さんひとりが病気と戦うものではなく、まわりには多くのスタッフがいて患者さんやご家族を支えていきます。
決して孤独で闘う『個人戦』ではありません!(H31年2月11日)
緩和ケアはこわくない⑪
こんなイメージはどうでしょう?
リレーです!
患者さんやご家族を『バトン』と考えてみてください
がん治療医がバトンを握りしめ、全力疾走してきます
待ち構える緩和ケア医
がん治療医は息を切らせて緩和ケア医にバトンを渡します
「後は頼んだぞお~!」
「よっしゃあ~~、あとは引き受けたあ!」バトンを手渡しされた緩和ケア医がそこから全力疾走を始めます
なんかいいような気もしますか?
今迄は、『いいんじゃない』って思ってた方も、これまで書いてきた文を読んでくださっていたら、『あれ、ちょっと違うかな?』って思ってほしいんです!
もちろん、この時にバトンミスがあって、バトンを落っことしてしまい、緩和ケア医にバトンが伝わらないようでは困りますが(実際の現場では珍しいことではありません)、スタートの時にはしっかりしていたバトンが、手渡しされた時にはもうフニャフニャになっていたりすることだってあります
確かに治療の早い時期から緩和ケアが関われなかった場合には、リレーのように、せめて治療医から手渡されたバトンを緩和ケア医が全力で支え、走っていくことが必要なことは否定しません
確かに病気の進行に伴って、治療の選択肢が限られてきたり、体調が落ちてきたときには、治療を継続することで、かえって体調を崩す場面も出てくるかもしれません
「体調はつらい、でも治療をやめると病気が進んでしまうのが心配でやめられない」 こんな思いを持ちながら治療を続ける場面もよく見かけます
そんな迷いや弱気につけ込んで、ネットに書かれているような、「がんが治る」などのうたい文句につられ、高額な民間治療にのめり込んでしまう場面も少なくありません
治療中でもいろいろなつらさは感じます
『がん治療と緩和ケアの関係』を伝える時、少し前までは、講演のスライドなどで『ダブルス』の写真を使用していました
治療医と緩和ケア医が、同じ試合をペアーで戦う、感覚的にはいい感じなのかなと思っていたのですが、ダブルスの時、卓球でもテニスでもそうですが、ボールを打つ時は一人です。同じコートに立ってはいますが『交互』に相手に向かっていきます
もちろん二人の気が合わなかったり、ペアーを組む相手の動きが悪ければ試合には勝てません
ある時は前衛になり、ある時は後衛で戦う。まあ、いいのかもしれませんが、もっとしっくりくるようなイメージは、と考えたとき、やはり『二人三脚』が一番しっくりくるように感じました
「よーいドン」で肩を組んで一緒に走り出す。足並みが乱れてバランスが崩れると転んでしまいます
歩調を合わせて病気に打ち勝つゴールに一緒ににたどり着けばすばらしいですよね
でも残念ながら、すべての患者さんが、ずっと二人三脚のままゴールまでたどり着けるわけではありません
ある場面では前回のリレーのように、緩和ケア医が単独で走っていくことも必要になってきます
ただ強調したいのは、『緩和ケアは治療とともにかかわっていくいくものだ』ということなのです
さて、癌治療と緩和ケアを考える中で、大事なことがもう一つあります
以前に書いたように、がんの治療中には様々なつらさが患者さん、ご家族を巻き込んでいきます
いままで『緩和ケアは治療が終わってから開始するものではない』ことを強調してきました
そこで、がん治療と緩和ケアの関係についてもう少し考えてみます
がんの治療医が、緩和ケアの十分な知識と経験を持って診療を行えば、それは素晴らしいことです!
日本緩和医療学会では、がん診療にかかわるすべての医師に、緩和ケアの基本的な知識を身に着けてもらうための研修会を開催し、がん診療拠点病院においてはその指定の必須条件にもなっており、受講率100%を目指しています
『治療もできれば緩和もできる』
二刀流で有名な宮本武蔵のような医師も確かにいますが・・
治療する主治医が「緩和ケアマインド」を持ち合わせていても、積極的な治療を行う病院は、患者さんも多く、ゆっくり不安や辛さに向き合いたくても、なかなかできない現実があります
もちろん「緩和ケアチーム」や相談窓口があり、がんのつらさに対するサポートを行うことはありますが、依頼により初めて介入することも多く、すべての患者さん、ご家族をカバーすることはできません
どうしても治療する医師と緩和ケア医の『連携』が必要になるのですが・・・(つづく)
そして
緩和ケアが提供されなくてはならないのは・・・
治療が終わった時ではなく、患者さんがどこにいようが
『今!』なんです
患者さんが病気と闘う場所は、その時期や、状況によって様々です
がん診療拠点病院、大学病院など、積極的にがん治療を行う病院、
地域の一般病院、療養型の病院、緩和ケア専門施設、介護施設、また入院、入所であったり在宅だったり・・
どこにいても、病気になった患者さんやご家族は、様々なつらさを感じています
積極的な治療中だろうが、積極的な治療が終了した状態だろうが、介護が主になった状況だろうが、
お別れが迫っている状況だろうが、
入院していようが、自宅にいようが、施設にいようが、
つらさに対する『治療やケア』は場所にかかわらず適切に提供されなくてはなりません
緩和ケアは『緩和ケア専門施設だけ』で提供されるものではありませんし、そうであってはいけないんです!
緩和ケアは患者さんがいる『すべての場所』で提供される必要があります!
緩和ケアの専門スタッフが、緩和ケア病棟だけで緩和ケアを提供しているようではだめで、
限られた施設にたどり着けた患者さんやご家族に『私たちはこんなに充実した緩和ケアを提供できた』と納得していてはだめなんです!
患者さん、ご家族にかかわるすべてのスタッフが、基本的な緩和ケアのスキルを身に着けなければいけません
それぞれの地域全体で、基礎的な緩和ケアのスキルアップをめざしてて行かなくてはなりませんし、緩和ケア提供専門施設はその責任を担う必要があります
もっと言えば、患者さんや、ご家族が感じる『つらさ』は、『がん』ばかりではないのですから、
緩和ケアは、すべての医療、看護、介護の基礎になるものだと思いますし、『緩和ケアマインド』はすべての医療者の持つべき魂だと思います!
(H30年9月2日)
緩和ケアはこわくない⑦
病気とどうやって付き合っていくのかを考えるとき
がんの臨床経過について少し考えてみましょう
もちろん必ず全員がこの通りに経過していくわけではありませんが…
ある日、何か体の調子が悪いと感じます。だるかったり、痛かったり、息切れがしたり、それは疾患によってまちまちです
症状はどんどんひどくなる場合もあれば、気にならなくなったりもします
心配になったあなたは病院に行き、医師に症状を訴えます
いろいろな検査が行われ、結果が出るまでは、「まあ大丈夫だろう」と思ってはいても、気が気ではありません
主治医に「大事な話がありますから次回はご家族と一緒に…」なんて言われたら心臓はバクバクします
診断結果を聞きに行く日、主治医の顔は、心なしか険しいような気がします
「この前の検査の結果ですが・・」少しの沈黙が流れます
「ご心配だったでしょう・・残念な結果ですが・・」
告知が行われ、あなたの頭の中は一瞬で真っ白、医師の声が遠くで響くような感じがします
もちろん症状も何もなく検診で偶然見つかることもありますが、その後は同じような経過になります
病気に対する治療の方針が提示され、手術だったり、抗がん剤だったり、放射線治療だったり
治療はつらくないのか・・自分はどうなる・・など前に書いたような心配が、頭を巡りながらも治療が開始されます
もう治療はやらない!と自分で決める患者さんもいれば、どんなに体調がつらくても徹底抗戦を決める人もいます
早い時期に病気が見つかったりした場合はこの初回の治療で病巣は消え去り、「完治」する人もたくさんいます
がんになったら必ず命を落とすわけではありません!
新しい治療法もどんどん出てきていて、私が医師になりたてのころと比べれば驚異的な進歩があります
追加治療が行われ、治療後経過観察の目的で、ある程度の期間外来受診が行われ、無事「卒業」になる人も多く見られます
でも、残念ながら、ある時期の検査で再発や転移が見つかってしまう人もいます
再発や転移の病巣に対する治療が再開され、効果の確認、治療の変更、効果の確認・・・
幾通りかのエビデンスのある治療法が提案され、あなたはそれを受け入れていきます
何の副作用もなく効果が最大であればいいのですが、必ずしもそうではありません
効果はあっても副作用でつらい思いをする人も少なくはありません(中にはうさんくさい民間療法にのめりこんでしまう人もいます)
再発、転移の告知は、はじめて病気を告知され、治療が開始される前に比べれば、気持ちのダメージ、つらさは、はるかに大きいと思います
病気を『完全に無くしてしまう』というよりは、『何とか抑え込んで生活の質を落とさないようにすること』に重点がおかれます。
この時点でも治療の効果が劇的で、元気になる方も大勢います
ただ、効果が期待通りにはいかず、病気の勢いがさらに増し、体調が悪くなる人もいます
今までできていたことが、簡単にできにくくなったり、痛みやだるさが強くなっていきます
これからどうなってしまうのかという不安も大きくなりますし、ご家族も「頑張って!」といいながらも、同じように不安な気持ちになっていきます
自分でできていたことを、ほかの人にサポートしてもらうことは、勇気が必要になることもあります
さらに、つらい思いをしてきた治療が効果の限界を迎え、ある日主治医から「もう有効な治療はありません」と言われてしまいます
この時点で、主治医が初めて「そろそろ緩和ケアを考えましょう!」と付け加えたりすることがまだまだ無くならないのです
このこと自体が、多くの人たちが緩和ケアを誤解する大きな原因となってきましたし、今でも後を絶ちません
『治療法がなくなったから緩和ケア』
この、まるで『敗戦処理』のような悪いイメージは、毎日毎日緩和ケア科の外来で説明しても、講演などで伝えても、なかなか払拭できません!
さらに病状が進行すれば、患者さんとご家族のお別れの日が訪れます
残されたご家族はご遺族となり、大切な人を失った悲しみは長く続きます。
どうしても緩和ケアが担当するのは『四角に囲まれた部分』と考えている人が、まだまだほとんどのような気がします
でも、前にも書いたように、緩和ケアは『病気と闘うすべてのステージ』で、そのいろいろな辛さ、体のつらさ、気持ちのつらさなどを和らげることを目的としています
診断されたときはつらくないんでしょうか?
治療中はつらさはないのでしょうか?
つらさは治療がなくなってから急に出てくるのでしょうか?
決してそんなことはありません!(H30年9月2日)
もちろん一生がんにかからない人もいます
でも…初めに書いたように、今では二人に一人はがんになる時代になっています
「なんでなっちゃったんだろう…」
いろいろ考えてしまうことも当たり前のことだということもお伝えしました
でも・・やっぱり、なっちゃったものはしょうがないんです!
こんなことを書くと「なに無責任なこと言ってんだ!」と怒られるかもしれませんが・・・
とりあえず私は自分でもがんの体験者なので、あえて書いています
つらいこと、驚くこと、怖いこと…いろいろな思いが頭を駆け巡っても、考えなくてはならないことは・・・
じゃあ、自分の中にできちゃったがんと、『どうやってうまく付き合っていくのか』ということになります。
手術をしてきっぱり縁を切ってしまったり、抗がん剤や、放射線治療などで、おとなしくさせたり、
なかなか別れられない場合は、体力を落とさないようにどうやって自分の体の中でおとなしくさせていくか・・・
見つかった時期やできた場所など、いろいろな条件で、付き合う方法は100人いれば100通り・・・
どんな時期に、どんな付き合い方をするにしても、その付き合いの根底にあり、大切にしなければならないなのは、
この厄介な病気と付き合う時に、『出来るだけつらい思いをしない、させないこと』だと思っています
そして、そのサポートを行うのが『緩和ケア』なんです!
やっと本題に入ってきましたが・・(つづく)
緩和ケアはこわくない⑤
がんになってよかった!
こんな言葉を時々耳にします
今まで気づかなかったことに気づくことができたから・・・
家族や、友人の大切さ、優しさに気づけたから・・・
人生に対する考えが変わったから・・・
確かに、ある意味では正しいかもしれません
自分のことを考えても、手術の後で旅行に出かけた時、
今までだったらそのまま見過ごすような何気ない景色にものすごく感動したこともありました
手術を受けた病院のスタッフの優しさから受けた感動
こんなさりげない言葉、ちょっとした笑顔が、こんなに患者にパワーを与えられるんだときづけた事
患者の立場に立ったことで、患者さんやご家族への接し方が少し変わったかもしれないこと
また、これは後悔ともいえるのかもしれませんが、子供の運動会などの行事など、家族との時間の大切さ
運動会がある土曜日は、いつも外来担当でしたので、子供たちは、ずっとお昼のお弁当は妻だけと一緒でした
『わるいな、外来があるから間に合わないよ!』
その年の子供の運動会はその時だけなのに!
なんで自分の目に焼き付けておかなかったんだろう、そんなチョットの時間を取らなかったんだろう!
そんなことを考えたからか、手術を受けて1週間後、退院した日はちょうど子供の授業参観日でした
今から行けば少しでも間に合う!
かえって家に荷物を置いて休む間もなく息子の通う学校へ急ぎました
体はむちゃくちゃしんどくて、歩くと息が切れて、傷が痛んで、でもきつい坂を登って学校に行きました
子供が自分の姿を見つけた時の笑顔、あの時子供が駆け寄って来て言った『父さん、お帰り!』の言葉は絶対忘れることはできません
そんな事を考えると、『がんになったから初めて分かった』というのは、確かにその通りで、よかったことなのかもしれませんが
だからといって....
やっぱり癌になんか、ならないで済むなら絶対にならないほうがいいに決まってると思います!
でも.....(つづく)
元気で長生き!
多くの人たちがそれを望みます...
きんさん、ぎんさんのこと、覚えている方も多いでしょう。
長寿の双子姉妹は「きんは百歳、ぎんも百歳!」と、テレビのCMなどにも出ていました。
でも、きんさんにも、ぎんさんにもお迎えは来てしまいました。
「長生き音頭」なんていう替え歌があるのを最近知りました!
鉄道唱歌(と言っても若い人はもう知らないかもしれませんが・・・)のメロディーで歌うんだそうです(この前の公開勉強会では歌っちゃいました!)
♪♪ まだまだ若い まだ若い
70なんてまだ若い ひょっとして迎えに来たならば
ただ今お留守と言いなさい ♪♪
♪♪ まだまだ若い まだ若い
80なんてまだ若い ひょっとして迎えに来たならば
これからお風呂と言いなさい ♪♪
こんなで感じで、「いくつになってもまだ若い!」と、歌は続きます
ただ、どんなに長生きを望んでも、「人間の死亡率」は・・・
そう、100%なんですよね
今では長寿社会になって、100歳を超えても元気な方は珍しくなくなってきました。
でも、長生きする人はいても、仙人のように永遠に生き続けることはできません
いつ、どんな時にお迎えが来るのかは、予想することはなかなか難しく、まして、若ければ若いほど、遠い先のことのように思えるでしょうし、
想像すらできないことも多いと思います
また、お迎えが来た後どうなってしまうのか、その時にどうなるのか、その時はつらくないのか、どんなことを感じるのか・・・は誰にもわかりません
自分もその時でないと分からないでしょうし、わかった時にはお伝えすることはできないでしょう
ただ、そうなる前のいろいろなつらさを全力で和らげようとすること、そのサポートはできると思っています
以前、私の患者さんで、戦争中、自分で敵兵を銃撃して、亡くなる人を見てきた方がいました
その患者さんが、ご自分が病気になって入院したとき、私に話してくださったことがあります
「先生、俺は戦争で死んでいく人をたくさん見てきました。その時、ああ、この人たちは今どんな気持ちなんだろうって、
死んじゃうときって何考えてんだろうって・・・いつも考えてました。
でも、考えても考えてもわかんなかった。今、自分のこと考えて、これからどうなっちゃうんだろう、
その時自分は何考えんだろうって…考えても考えても、やっぱりわかんないんだなあ・・・」
(実際は方言の強い方で、今でもその語り口や抑揚をはっきり覚えています)
もちろん、仏教やキリスト教など、熱い信仰を持っている人たち、「死生学」を学んだ人たちは、その先のことをしっかりイメージできるのかもしれません
ただ、私のように、お寺に行っては拝んだり、初詣に神社に行って昇殿し、2礼2拍手1礼で拝んだり、
クリスマスには「メリークリスマス!」と叫びながら、サンタのコスプレでうかれたりする者にとってはなかなかイメージすることはできません
でも、何人かの患者さんからの話を聞いて、漠然としたイメージは持っています。
少し本題から外れるかもしれませんが、次はその話を少しだけ(つづく)
私たちは、毎日毎日が過ぎていき、夜になり、次の日の朝になり・・
そんなことの繰り返しは、「当たり前のこと」と考え、あまり意識することもありません...
ただ、ひとたび「がん」と告げられた時、その「あたりまえ」が実は「あたりまえのことではない」ことに気が付きます
自分の場合は告知される前にCTの所見を自分でみて病気を悟りました
今、この文章は「緩和ケアの誤解を解く」ために書き始めていて、自分の「闘病記」ではないので、詳しくは書きませんが、
このサイト http://inchou.sakura.ne.jp/ (「雑感」のページの「入院、手術体験記」)には、病気を告知され、手術をうけ、退院し、その後のことがその時の感情のまま書いてあります。もしご興味があればのぞいてみてください
それまでは多くの人たちに「がん」の告知をしていたのに、自分のことになると、冷静な気持ちを保つのは困難でした。
自覚症状があったわけではなく、体のつらさは全くありませんでしたが、心のつらさはじわじわと広がっていきました
これは何かの間違えなのかもしれない
もう一度CT検査をすれば、影は消えているかもしれない
なんで自分が
自分が何をしたっていうんだ
自分はどうなってしまうんだろう
これからの生活はどうなるんだろう
家族はどうなるんだろう
家族にはどう伝えればいいんだ
まだ子供は小学生じゃないか
治療はどうなるんだ・・手術か、抗がん剤か
治療のつらさに耐えられるのか
自分がいなくなって仕事は、病院はどうなる
いつまで生きられるんだろう
まるで、出られない迷路に迷い込んだように、答えのない思いがぐるぐる頭の中にあらわれては消え、また浮かんできます
自分の命の長さに「限りがあるものだ」ということを思い知らされます
でもそんなことにはお構いなく、毎日の時間は繰り返されていきます
今考えると気持ちもずいぶん荒んでいたような気がします
日常の診療の中での何気ない会話や風景にさえ、ピリピリした棘を感じました
ご高齢の患者さん
「先生、私はもうこんな年になっちゃってから病気になって、もう早くお迎えが来てほしくてしょうがないですよ・・・」
こんな言葉を聞いても
「あなたは80過ぎまで生きていられたじゃないか・・何を贅沢言ってるんだ!自分はもう長く生きられないかもしれないっていうのに」と思ってしまったり
入院何日か前、手術後に着る予定の浴衣生地の寝巻が、ハンガーにかけられて干してありました。
風に揺れる寝巻を見ているうちに、なんだか自分自身がつるされているような気持になり、
「他の見えないところに干してくれないか!」理不尽に声を荒げたこともありました
今迄は何とも思わなかった何気ない日常、
特に刺激的なことが起こらないような日常が、実は「ものすごくありがたいものだ」ということが、
いやというほどわかると同時に、今まで過ごしてきた日々を思い返し、
ああしておけばよかった、こうしておけばよかった・・・との思いも次から次に浮かんできます(つづく)
私が医者になったころ、もうずいぶん昔、昭和53年のころには、がんの告知は当たり前のことではありませんでした
自分の父親は、私が17歳の時に胃の肉腫で他界しましたが、
はじめに病気が見つかったのは、自分がまだ小学生の時でした。...
父親は外科医でしたので、同僚の先生方は他の患者さんのレントゲン写真を父の名前に変えて見せたようです
「胃潰瘍」の診断で手術は行われましたが、再発、転移があれば、外科医ですから、
さすがに胃潰瘍の症状でないことは分かっていたでしょう・・・
その時父が何を感じたのか・・今となっては知ることはできません
私が千葉大学第一外科(現在の臓器制御外科)医局の人事で平和病院に着任したのは平成3年
その時でも告知は当たり前のことではありませんでした
ただ、自分が外科医として手術を行い、術後も長くおつきあいしていた患者さんに再発、転移が出現し、再入院になり、
体調が悪くなっていくことに対して、どう接していけばいいのか、かなり悩んだことは、いま緩和ケア医にシフトした下地になりました
今では体調が悪くて病院を受診し、検査をした時、あるいは検診などでたまたま病気が見つかった時、
診察室に入り、画像を見せられ、いきなり「あなたの病気は〇〇癌です」と言われることは当たり前のことになりました
残された時間さえ、厳しい内容を突きつけられることも珍しくありません
もちろん、ご高齢で認知能力が低下した患者さんなどには、ご家族だけが呼ばれ、病名を告知される場合もあります
患者さんの中には、自分の体のことなんだから、どんなに悪い知らせでも、ありのままを聞いておきたいと考える方も多いのですが、
自分は悪い知らせを直接聞きたくないと考える人もいます
講演で話をさせていただく時などで「自分ががんになったらすべてを知りたいですか…」と聞くと、ほとんどの方が手を上げるのに、
「大切なご家族ががんになったら、すべてを知らせますか・・・」と尋ねると、手をあげる人の数はずいぶん減ってしまいます。
いきなり病名を剛速球のように投げ込まれてしまうと、多くの人は驚愕します
そのあとに伝えられた、こまごまとした治療に関しての説明などに関しては、ほとんど頭の中が真っ白になり、覚えていない場合も多いようです。
今は二人に一人はがんになる時代といわれています
皆さんの周りを見ても、家族、友人、また本人もがんになったという人が必ずと言っていいほどいるはずで、
けっして「珍しい病気」ではないにもかかわらず
「がん」という響きは、どうしても、今まであまり意識しなかった「自分の、あるいは大切な人の命の長さ」をむりやり意識させられ
そのことが告知された時のつらさ、恐怖につながります(つづく)
先日、平和病院の院内勉強会で患者さんやご家族に向けての勉強会を開催し、
「今までの緩和ケアのイメージと違っていた!」とのご意見も多くいただきました
今ではがん治療病院から、治療中の患者さんの紹介も、以前に比べれば多くなってきました。
ただ、まだまだ緩和ケア外来の初診の時、初めてドアを開けるときの患者さんやご家族の顔は固い表情のことがほとんどです
自分はまだ治療を頑張っているのに、なんで「緩和ケア科なんかに」紹介されてしまったんだ!
もう自分は最期の時が近いんですね・・・
治療の先生に「匙を投げられた!」
こんなところに来たくはなかった! などなど...・・・
どうしても『緩和ケア』のイメージは、
がんの治療ができないほど進行したり、いままで治療を頑張って、頑張ってきたのに、残念ながら効果がなくなって、治療方法がなくなって「仕方なしに」たどり着くところ
なんだか恐ろしいところ!(写真みたいに)
人生の最期にたどり着くところ・・・
そんなふうに思っている方たちがほんとに多いと感じています
今回の勉強会も、そんな誤解を少しでも解きたいと思って開催したのですが・・・
せっかくFBもやっているんですから、コスプレ写真ばかりではなく、たまには少しまともなお話もしようかなと思いつき、
FBには連載とまではいきませんが、自分の緩和ケアに関する考えを書き始めました
このHPをご覧になっている方からは、時々「私はFBやってないので、少しは更新してください…と時々言われるので
何回かに分けて私たち平和病院緩和ケア科が考えている緩和ケアに関してお伝えできたらと思います。(平成30年2月18日)
年末年始の休みが近くなると緩和ケア科の入院患者さんが増える
当院の外来通院中の患者さん、連携の在宅支援診療所で対応してくださっている患者さんやご家族が、長い休みに入ると、
「何かあったらどうしよう・・・」との不安が強くなるせいもあるのか、入院を希望される場合も多い。
また、このあわただしい時期に、入院中の患者さんを在宅の先生方にお願いするのも申し訳ないので、休み明けまでは入院継続という場合もある
特に、この時期は、がん治療施設で積極的な治療ができなくなり、状態もかなり厳しく、すでに入院中の患者さんの転院依頼(初診で)も急増する
治療病院には、早い時期から併診させていただくようお願いし、最近は以前に比べれば、状態悪化してからの転院依頼はずいぶん減ってきてはいるが、
まだまだなくならない
確かに病気が発見された時にはすでに状態が悪化しており、在宅体制を整える時間もない患者さんがいるのは理解できるのだが・・・
救急病院はどの施設でも年末年始の緊急受け入れのためのベッドを確保しなくてはならない。
「治療がなくなった患者さん」が長く入院を続けることはできない。何とか早く転院してほしいという気持ちもわかる
診療情報提供書に「予後は1か月以内」と書かれてあれば、何とか早く受け入れてあげたいと思う
早くしないと『たどりつけなかった』事で後悔することがあるかもしれない、とも思ってしまう
平和病院緩和ケア科では、緩和ケア病棟だけで患者さんを受け入れているわけではない。
急がなくてはならない患者さんや、バックアップ患者さんの受け入れ要請には一般病棟で対応する。
初回面談で、ご家族に話を聞く・・・
どう考えても、すぐにもお別れが近い状況、いつ急変してもおかしくない状況。
それでも入院中の病院は早目の転院を求める。
ご家族には・・・「状況をお聞きした限りでは、かなり厳しいと思います。残された時間はごくわずかと判断します。
病院の移動が体調への負担になる場合もあります。もちろん、受け入れたからには、私たちはつらさを取るためには全力を尽くします。
でも、転院直後に状態が悪化した場合、ご家族の中には、移動したから具合が悪くなった・・と考える場合もあります。
それはご家族にとっても、私たち受け入れ側にとっても望ましいことではありません。
よく担当の先生に状況をお聞きして納得の上で転院するようにしてください」と、伝えても・・・
結局は紹介元の施設からは「厳しい状況はどこにいても同じ、どうせなら緩和ケア専門施設に一刻も早く移るほうが患者さんのためになる」
と言われてバタバタと転院が決まる
その結果、転院した当日や、翌日にお別れになる場合もある!
病状が悪いことは、ご家族も理解していても、あわただしいお別れとなれば・・・
「転院なんてしなければ・・・平和病院に来なければもっと長生きできたのでは・・・いい病院だって聞いてきたのに」との後悔の気持ちがわいてしまう
スタッフはどんなに状態が悪くても懸命にケアを行う。
それでも入院したすぐ後でお別れになってしまえば、十分に患者さんやご家族とかかわる時間もなく、
バタバタとあわただしいケア、症状緩和だけに追われてしまい、つらい思いもする。
そんな時にご家族から「ここに来なければよかった!」と言われれば、スタッフのダメージも大きい。
急いで受け入れたことでスタッフにもつらい思いをさせてしまったのではと、自分もやるせない気持ちになる。
あまりにも状態が悪く、もうすぐお別れになってしまうような初診の患者さんは、そのまま転院をうけいれず、慣れたスタッフのもとで過ごしていただくほうがいいのでは、
無理して受け入れるメリットはないのではとも思ってしまうが、今の医療制度はそれがなかなかできない事情もある。
数日前と、昨日、続けて同じようなことになり、同じようなことを言われてしまった
自分たちが、ご家族のやり場のない悲しみの矛先になることは、ある程度は仕方のないことだと思うし、気持ちも十分理解できる
「そんなこと言われても・・・」と、ご家族をせめるつもりも、もちろんないが、このやり場のない気持ちはどうにもならない
かといって、いわゆる「ホスピスイメージ」だけの平和病院緩和ケア科に変えるつもりもない。地域の緩和ケアはバタバタと野戦病院のような部分がどうしても必要だと思っている
自分たちのスタッフはどこに出しても恥ずかしくないという自負もある!
でも・・・「ここに来なければよかったって言われちゃいました」と言うスタッフのつらそうな顔を見るのはせつない
何が違うのか
平和病院緩和ケア科では毎年400人くらいの患者さんとのお別れがある
そんなに・・・と驚かれる方も多いかもしれないが、
在宅で連携の先生方にお願いし、当院がバックアップしている患者さんも年々増えており、
そのままご自宅で最期を迎える患者さんも含めればもっと多いことになる。
緩和ケア病棟は、状態が悪くなった患者さんが、ゆったりと穏やかに最期の時を迎えるまで過ごすというイメージではなく、
ある程度状態が厳しくなってから他の病棟からの転棟してくる患者さんのほうが多く、また
結構ぎりぎりまでご自宅で過ごされる患者さんも多いので、緩和ケア病棟の平均在院日数は14日程度しかないのが現状になっている
お別れが近くなると、ほとんどの患者さんで出てくる症状というか、状態があるので、
それに関しての説明をご家族に行う時の冊子も準備されているのだが・・・
いわゆる終末期せん妄で、混乱や、異常行動などが出て、ご家族とゆっくりとした会話も出来なくなったりする患者さんの場合
ご家族の不安は強くなり、ご自宅にもどる障害になる場合も多い
もちろん、われわれもつらい症状は全力を挙げて取るよう努力は行うが・・・
テレビドラマのように、大切な人たちに囲まれ、一人一人に想いを伝え、最期にす~っと目を閉じる…というような場面は実はあまり見ることはできない。
ただ、医療用麻薬も使用していないのに、痛みもなく、つらさも訴えず、
「つらいところや困っていることはありませんか?」と聞いても
「大丈夫です」と微笑んでくださり、ただ食事は食べられなくなり、眠ることが多くなり、本当に、自然に枯れていくようにす~っと最期を迎える患者さんがいる。
同じ病気でも、そうなる人と、そうでない人がいる
苦痛を取る方法は同じ施設、同じ医師が見るので差もないのだから・・・
患者さんの要因であることは間違いないと思われるが、、なぜそうなるのかが分からない!
昔から「我慢強い」から苦痛を訴えないのか、意思が強く、ご家族に心配かけまいとして気丈にされているのか・・・
でもそうでもないように思える
ご家族にも「全身の状態は確実に弱まってはいますが・・・本当に珍しいくらい穏やかに経過されています」と説明する
もちろんすべての患者さんがこうなるのであれば・・・
「死」に対してのイメージもずいぶん変わるのかもしれないが、残念ながらそうでもない。
たまたま、ごく一部の患者さんがそうなるのであって、どうすればその仲間入りができるのかはわからない
もしかしたら、病気になるまでの「行い」だとか??・
自分は特別の宗教を信じているわけでもないが・・・やはり図り知れない「なにか」が作用しているとしか思えない
それはお別れの時ばかりではなく、病気が見つかるタイミングであったり、治療の結果にも影響するのかもしれない
多くの方とのお別れをして行くと、理屈では説明し切れないことも多く体験してくる
自分はその時をいつ迎えるかはわからないが、少なくとも、がんを経験して手術をした自分が今、こうしてまだ生きていられるのも、
発見した時点では「偶然が左右している」のは確かだし、その偶然がなぜ起こったのかはいくら考えても分からないし、誰のおかげなのかもわからない
その時は(今も?)自分を守ってくれる何か(Something Great)がいたのかもしれない。
他界した父親だったのかもしれないし・・・
先日も同じような患者さんと穏やかにお別れしたし今も緩和ケア病棟にはそんなTさんが入院している。
今日も廻診の時、穏やかな笑顔を見せてくださった。
看護師から、Tさんがこの病院を選んだのは、先生と外来で初めてあった時の先生の声が理由なんですって…と聞かされた
なにも苦痛を訴えないが、確かに病状は進行してはいるし、お顔も痩せてきているが、薬を使うこともなく、穏やかに過ごされている・・・
「眠るように」最期を迎えていただけるよう、油断はできないが、このままそうなるような予感はする
緩和ケア医としてのテクニックは全く不要、スタッフの介護とご家族のかかわりだけが必要な状況で過ごされている
自分もこんな最後になれたら・・と思うが、はたして「何か」はそれを許してくれるのだろうか・・・・
(平成29年12月17日)
延命処置
ずっと前、自分が医師になりたての頃には大学病院でも終末期がん患者さんのお看取りも多かった。
そんな時には必ず心臓マッサージと、カウンターショック、マスクを使った補助呼吸が行われていた。
さすがに呼吸器をつけるケースは多くはなかったが、気管内挿管も当たり前のように行われた。
若い医師への救急時の蘇生のトレーニングの意味もあったと思う。
長いときは、誰も助かるとは思っていない「儀式」が延々と続けられ、肋骨が明らかに音を立てて折れることも何度も経験してきた。
今では告知も当たり前だし、癌の終末期の場合、急変時のいわゆるDNRも確認され、延命処置が行われることはほとんどなくなった。
ただ、ご家族の中には気持ちではわかっていても、いざその時になると「出来るだけのことはしてください」との発言も聞かれ
救急車を要請した場合には、救命処置が行われることになる
癌の終末期、残された時間がひと月を切っていると思われる場合、この「延命処置」が、どこまでのことを言うのか、の線引きが微妙になることがある。
ひとつが「輸血」だ。
明らかに貧血があり、ふらつき、動機、息切れが出ている場合など、輸血をすれば一時的には状態が改善する可能性もないわけではないが・・・
輸血をしてもまたすぐに貧血が進む場合(出血などがあり)、貴重な「医療資源」である血液を、効果のないとわかっているのに行うことが果たしていいのかどうか・・・
実際の場面でも迷うこともある。
緩和ケア科では、つらい症状をとる為には、どんなに状態が悪くなっていても全力を尽くすことにしている。
そういう意味でとらえれば、輸血をすれば症状が和らぐのであれば、症状緩和の一つの手段としての「輸血」はどう考えるのか
あるいは、食道の狭窄が著明で水分も摂れなくなったときに、「栄養」のことを考えた高カロリー輸液を、太い血管にカテーテルを入れて行うのか・・・
そこまでしなくても末梢のラインを確保して補液を行うのか、その量は…など微妙な問題が生じてくる
さらに複雑なのが、本人の意思と、家族の意志が食い違うとき
本人が望まなくても家族が土壇場での延命を希望するとき
家族の中で意見が食い違うとき
いつもかかわっていた家族が望まなくても、土壇場で現れた遠くに住む親族が、「なぜ点滴しないんだ!」
「なぜ救命処置を行わないんだ」と迫ってくる場合など・・・
実際の現場では一人ひとりの細やかな対応が必要で、
患者さんや御家族にとっても穏やかな最期を迎えていただくために、入院中は何回もご家族に説明が必要になり、
その頻度は決して多すぎることはない。
もちろん、スタッフが声をかけても、ご家族から「もう十分わかっていますから、大丈夫です」と、重ねての説明は不要と伝えてくる場合もある
入院してから徐々に状態が悪化する場合はあまりトラブルになることはないが、
「がん」と分かっていても急激な状態悪化の場合、例えば急に呼吸状態が悪くなったり、意識状態が低下したり、
さっきまで話していたのに急に呼吸が止まってしまうなど・・・
こちらが見ても「えっ」というようなタイミングでお別れになる場合もある。
退院した後から、最期の時がどうなっていたのか、詳しく説明がききたい・・・と何回も繰り返しの説明を求められることもある
平和病院緩和ケア科はいわゆるホスピスのイメージではない!
外来通院の患者さん、在宅の連携の先生方にお願いしてバックアップしている患者さんなど
救急車を使った緊急入院は、他の診療科よりもずっと多いのが現状で、入院後すぐにお別れになる場合も多いため、
「延命処置」に関しては常に気を配らなければならないデリケートな部分になっている。
いま、「エンディングノート」やのように、自分の最後をどのように過ごしたいか、事前の意思表示の重要性が取り上げられている。
この中に、DNARが含まれ、それに基づいてのDNR(救命処置は行わない)になる
またもっと広い意味で、患者さん、ご家族だけでなく、それを支えるスタッフも含めた、
どのように病気と向かい合うかを決める「アドバンスケアプランニング」という言葉も広く聞かれるようになっている。
言葉はともかく、自分が重い病や急な病気になった時のイメージを予めもっていること、家族にも伝えていくことくらいはしておくべきだが、
実際に健康な時には、自分や家族の病んだイメージを持つことはなかなか難しい(自分の時もそうだった)
家族は「奇跡が起こること」を願うし、「奇跡」は可能性が低いからこそ「奇跡」なのだから、
これからも「延命処置」に関してのかかわりは、ず~~っと続いていくのだろう。(平成29年8月3日)
タラレバ
平和病院緩和ケア科が常に目指しているのが「バリアフリー緩和」だ
いつでも、どこでも緩和ケアが提供される体制を地域の中で作っていくことをずっと目指していた。
患者さんや、ご家族の療養の場所への希望はその状況によって変わることは珍しくはない。
最後まで自宅で過ごしたい、自宅で看取ってあげたいと思っていても、土壇場で入院になる場合もよくあることだ
この秋に開催される日本在宅医療学会では、緩和ケア科の川田が、緊急入院後短い期間でお看取りとなったケースの検討を行い
発表することを目指しているが・・・
在宅にいても、苦痛のコントロールをしっかり行い、今後起こりうる状況の説明をしっかり伝えていけば、ぎりぎりで入院する必要はなかったのでは・・・
と、思うこともある。
特に入院時の状況が、今日、明日にもお別れになるような場合であれば、なおさらだ。
在宅でかかわっていただいている先生や、訪問看護師さんが、状況を判断し、患者さんやご家族の想いをくんだうえで
入院要請があればお断りすることはない。夜でも休みでも確実な受け入れをお約束している。
なかには、ご家族や在宅スタッフからの連絡を受け、診察することなく 「平和病院に連絡するように」 との指示が出たり、
ご家族や、状況変化に慌てた在宅スタッフが、医師の指示を受ける前に救急要請をしてしまうケースもある。
正直にいえば・・・
入院後数時間でお看取りになる場合などでは、最期まで自宅ですごせたのではないか・・・?と思うこともある。
鶴見区、神奈川区、港北区、川崎南部には、在宅でしっかりと緩和ケアを提供してくださる先生方も多く、
緩和ケア科の連携訪問診療施設は48施設にもなっている。
長年緩和ケア科の外来に通院していた患者さんが、状態の変化により通院がしんどくなった場合などには
連携の先生方に管理をお願いし、われわれがバックアップに回ることも年々増えてきている。
自分たちが外来で診療していた患者さんは、在宅療養も自分たちで支えたいとの想いもあるし、
実際、昨年度の初めには土曜日に緩和ケア科の訪問診療枠を設けたのだが・・・
院内の業務に追われ、積極的な展開が出来なかった。
自分は緩和ケア科が独立する何年も前から訪問診療を行っており、
それほど多くはないが、緩和ケア科の患者さんもその枠に組み込み、往診にも対応しており・・・
ほとんどが在宅でのお看取りになっていたのだが・・・
先日のこと
外来通院していた膵臓がんのTさんの体力が低下して、通院が困難になってきた。
もともと訪問看護は導入されていたし、ご自宅も病院の近くだったので、訪問診療に組み込んだ。
初回訪問時、既に介護ベッドも搬入されており、奥様のベッドもすぐわきに並んでいた。
胃瘻も増設されていたので、必要な薬剤は投与することは可能だった。
まだトイレは行けているが、ポータブルトイレも準備されていた。
在宅酸素も手配し、穏やかにベッドで横になっており、笑顔もみられていた。
このままいけば最後まで自宅で過ごすことも可能だろうと判断していたが・・・
2週間ほどたったある日、担当の訪問看護師さんから自分の携帯に連絡が入った。
その日はたまたま非番だったので、自宅にいたが、ご家族から訪問看護ステーションに臨時の訪問依頼があったらしい。
苦痛の増強というより奥様の介護不安が強くなり、もう限界とのことだった。
数日前に往診もしていたので、かなり状況が悪化していることや、呼吸が乱れたりしてきた場合は、連絡するように奥様には伝え
そろそろお別れが近いことも説明した。
終末期のせん妄も出現してきており、奥様の不安がつよくなってしまったらしい。
往診に行くことも伝えたが・・・
「これから夜になると思うと不安でたまりません・・
辛さをとるお薬を使おうとしても、私の手を払いのけたりするようになって・・・」
夜間も対応可能であることも話したが、「入院させてやってください」とのことだった。
ご本人の意識レベルは低下しており、療養の場の希望をその時に言える状況でもなかった。
病院に連絡して部屋の確保を依頼し、緊急入院受け入れを行ったが、
自分の気持ちのなかでは「入院しなくても、このままいけたんじゃないか・・・との思いも強かった。」
もともと自分が在宅で見ていたので、入院したからと言って大きく治療方針が変わるわけでもない。
違うことと言えば、やはり「安心感」なのか・・・
自宅であれば、奥様は状態の悪い中、たった一人でTさんを見守ることになる。
病院にいればボタン一つでスタッフは部屋にやってくる。
自分は在宅でのお看取りが、入院でのお看取りよりいいと思っているわけではない。
各々いい点、悪い点がある。
「患者さんやご家族の希望に沿った療養の場を提供できることが重要であり
何処で亡くなるのかが重要なのではなく、お別れまでの時間を患者さんとご家族が、また、
私たちと患者さん、ご家族がどのようにかかわっていくかが重要なのです」
と、自分が講演などで繰り返し言っていることではあるのだが・・・
「う~ん入院になってしまったか・・・」という想いはすてられない。
自分がもう少し症状を取っていれば・・・不安な内容に対しての情報提供を綿密にしていれば・・・などの想いが湧いてくる。
「緩和ケアにはどうしてもタラレバ・・・がつきまといます。ですから私たちは『その瞬間』を大切にして精いっぱい関わっていくことが大切です」
このことも自分の講演の際にはよく話すことでもある。
何人の患者さん、何人のご家族とかかわっても、お別れした後、「うん、これでよかったんだ」と感じられることはほとんどない。
在宅緩和ケアの奥は深い。
平和病院緩和ケア科のスタッフが増え、若い医師たちが地域の中での役割を安定して果たせるようになったら、
自分は少し外の世界で緩和ケアにかかわってみたい。(H29年6月2日)
最後のチャンス
平和病院緩和ケア科の特徴は、緩和ケア病棟だけで患者さんを診療しているだけではなく、
外来機能もきちんと果たし(抗癌治療病院との併診で年単位で通っている患者さんもいる)、在宅の先生方との連携を強固にし
いちどでも関わった患者さんに対しては、24時間、365日の受け入れをお約束し、確実なバックアップを行い
一般病棟、療養病棟にも患者さんが入院していることだと考えている
自分で訪問診療も行ってもいる。
「最期まで在宅ですごせる」ことをめざし、地域の連携を深めることは必要だと思うし、
その連携構築の中心になって動いているという自負もある
どんな状況でも在宅で最期まで過ごせるという考えに反対するつもりはない、その通りだと思う。
在宅での生活が不安だからと言って、すべての患者さんが入院すれば、
病院のベッドはあっという間にうまってしまう
患者さんやご家族が初診の外来を受診された時には、どこで、どのように過ごしていきたいかを必ず聞くことにしているが・・
多くの方が、「できるだけ」家で暮らしたいと返事をされる。
ただ、この「できるだけ」は患者さんやご家族によっては千差万別で、
それこそ最後の最後まで…という覚悟を話されるケースは必ずしも多くはない
歩ける間は・・・とか、食事が食べられる間は…トイレに行ける間は…など、そのハードルもいろいろある。
それでも連携の強化により、鶴見区周辺では連携の先生方にお願いして在宅で過ごしている患者さんの「在宅死」の数は、
以前に比べると、かなり高くなってきている。
それは、在宅に係るすべてのスタッフの努力のたまものでもあり、いざとなったら絶対に入院が出来る場所を担保していることも大きいとも思っている。
ただ、外来通院の患者さんや、在宅の先生方がかかわっていた患者さんが状態の悪化によって入院した場合、
病院から再度在宅に戻るときには、かなりの覚悟が必要のようで・・・
このまま入院を継続させてもらいたい・・という声を聞くことも多い。
本人も、家族も帰りたい、退院させたいと思っている場合は、問題はなく、
本人はどちらでもよくて、家族は自宅ですごさせたい…との場合もスムーズな在宅復帰の調整を行うことが出来るのだが・・・
「本人は帰りたくても家族が不安が強い」ばあい、あるいは「本人も家族も入院を続けたい…」という場合は対応が複雑になる
状態が悪くなれば、いつでも入院できることを保証し、在宅のサービスを構築しても時間ばかりが過ぎていき、結局帰れない場合も多い。
「今は状態が安定しています、帰るとしたら今が最後のチャンスです!」という場合も多いが、
確かに、病状がどんどん良くなることは基本的にはないので・・
退院してもあっという間に再入院になる場合も少なくない。
再入院した場合、家に帰ってどうだったかを聞くと、「やはり家が良かった・・」という場合もあれば
結局何もできず、「しんどかった、つらかった、心配だった」といわれることも多い
在宅で過ごすというイメージは確かに素晴らしいことではあり、
自分も出来ればそうしたいとは思うが、送り出す立場の者としては、
機械的に帰れるから帰す・・という考えでいると、かえって患者さんやご家族につらい思いをさせる場合もあることは感じている。
「帰った時のその患者さんの生活をイメージしてから送り出す」ことが必要で、しっかりと体制の構築を行わないと
在宅復帰した、家ですごせた…という事実だけが先行し、悪く言えば自己満足に走ってしまう可能性もある。
在宅の先生方、スタッフは信頼できるし、安心してお任せはしているが、在宅復帰してからの患者さん、ご家族の療養の情報は
逐次入ってくるわけではないので、この情報共有が必要だと感じている
病院の緩和ケア医の中でも同じ患者さん、ご家族に接していても、在宅復帰に関する考えが、すべて一致するわけではない。
患者さんやご家族へのかかわり方であったり、在宅療養に関しての理解の程度であったり
色々なことで方針が食い違うこともある
症状の緩和、苦痛の除去に対する薬剤の使用などは、大きく食い違うことはないが
療養の場所に関してはそれぞれの施設の状況でも違うだろうし、ベッドの空き具合でも違うだろうし
結局は何が正しいのかを、比べるわけにもいかないのでその分受け入れ側のストレスも大きくなる。
十分それぞれのケースで、内部のスタッフの考えを統一し、患者さんやご家族に接していくことが出来るのが理想ではあるが、
残念ながら、今の平和病院緩和ケア科は、かかわる患者さんやご家族に対して常勤医師が少なすぎる
基本的には責任医師である自分の考えが優先されるが、他の医師が下した判断に関しては覆すことはない(と思っている)
残念ながら、現在の常勤医師の林医師から、3月で退職の希望が出た。(さいわい4月からは新たに入職がいるので結局増員にはなるが)
一時は4人いた(2か月間だけ)常勤も、加藤医師が在宅に転身し、連携の診療所に移動てから、1年以上二人で切り抜けてきた。
この点では林医師には感謝しているが、入退院に関するこの微妙な考えの違いは、なかなかすべて一致することはない
「最期のチャンスだから、家に帰りましょう・・・」
確かにその通りだと思うし、すべての人がハッピーになるなら文句はない。
やっぱり家に帰ってよかった、不安だったけど、退院させてよかった
みんながそう思ってくださることが理想ではあるが、その見極めは非常に難しく、とくに「最期」と思われる場合は
期間も短い場合が多く、在宅スタッフへのバトンタッチも準備不足になりがちとなる
家に帰るという事実だけを「錦の御旗」にすることは決して良いことではないというのが自分の考えであり
逆に、そんなことを考えているから在宅に返せなくなる…という批判を受けるかもしれない
この悩みはこれからもずっと続くであろうし、これでよかったのだろうか、退院してもらえばよかったのか・・・
退院させるべきではなかったのか・・・との考えは、
この仕事を続ける限り付きまとう葛藤になる。
ベースになる考えはあっても、患者さん、ご家族はすべて条件が違い、翻弄される!
さいわい、今は、治療早期から関わらせていただく患者さんも多くなっている。
早い時期から先のことを考え、どこで、どうなったら、どのように過ごしていくか・・・
アドバンスケアプランニングを患者さん、ご家族、在宅に係るスタッフの皆さんと構築していくことが結局の解決策なのだろう。
緩和ケア病棟にスタッフにも、病棟だけで完結する医療、ケアではなく、
時間・地域の面でもっと広い視野に立って患者さん、ご家族と接するようになってくれることを願っている。(平成28年1月25日)
続・どうすればよかったんだろう?
先日緩和ケア科の新患外来に、患者さんが受診した。息子さんが一緒に付き添ってこられたが
もし、急に具合が悪くなったときにはどうすれば…との話題になった
一度ご相談いただいた患者さんは、365日、24時間で対応していること、
救急要請しても必ず受け入れることをお話した。
ただ、平和病院に連れて行ってくれるように、きちんと救急隊員に話すことも念を押した。
それでも、状況によっては、「救急」と判断されて救急病院に搬送されてしまう場合もあることも話し、
実は先日も・・と、今回あった事例に関して話したが・・・
息子さんが
「その患者さんを搬送したのはたぶん私です・・・」と話し出した。
え~~っ!
よく話を聴いてみると、確かに状況は見事に一致!
息子さんは救急隊員の仕事をしているとのこと
世の中狭いものだという感じもしたが、その息子さんも、今回の件では、ずいぶん迷いがあったことを話してくれた。
自分の母親が、もし同じようなことになったら・・・という思いもあったのかもしれない。
救急の現場では、今回のような終末期、延命処置をしても助からない患者さんが搬送され、
実際に救急処置を行えば助かる命に対応できないケースもふえてきているらしい。
自分の人生、病気になった場合、どこで、どのように過ごしていくのかということを、元気なうちから考えていくことが求められる
アドバンスケアプランニング、と呼ばれているものだが
リビングウィルも含め、自分の人生の終わり方を考え、それに携わるご家族、医療、介護のスタッフがその筋書きに沿うような
サポートをしていくことを目指していかなければならないが
それでも、これでよかった・・と思える看取りはまだ多いとは言えない(平成27年10月4日)
どうすればよかったんだろう?
Hさんは近隣のがん診療拠点病院から紹介していただき、10日ほど前に初診になった。
ご本人は状態も悪く、ご主人のみの初診相談だった。
婦人科の悪性腫瘍で抗がん剤治療、放射線治療を行ったが、病状は進行し、肺転移、腹膜播種となり、腸閉塞になった。
積極的な治療は困難となり、この時点での紹介であった。
状態は厳しいと思われたので、初診の5日後には緩和ケア病棟での受け入れになった。
入院後も嘔吐を繰り返しており、CTでも腸管拡張もあるため、胃管を挿入させていただき、一気に1700mlもの流出を認めた。
その後は吐き気もおさまり、疼痛コントロールも行い、表情も穏やかになった。
「先生、一度自宅に帰りたいんです」
「家でやりたいことがあるんですね?」
「はい、主人とゆっくり話してきたいんです」
「ご自分の状況はご理解されているんですね・・・」
Hさんは静かに微笑みながら頷いた
「そのほかには何をやりたいですか?」
「管を抜いて素麺とか・・食べたいです」
外泊というご希望でもあり、状況から見ても最後のチャンスとも思われたので、翌日に外泊となった。
また吐き気が出ることをお話ししたが、胃管の抜去を望まれ、外泊に出かけた。
翌日の夜、自分が当直だったが、夜の10時ころご主人から連絡があった。トイレで意識をなくした・・・とのことだった。
夜勤の看護師が聞くと、呼吸はしており、手足も動かしているとのことだった。ただタクシーはきついとのことだったので救急要請をして至急戻ってくるようにお話した。
何が起こったのか・・・待つこと1時間、サイレンが聞こえない。遅すぎる
ご自宅は病院から比較的近く、15分もあれば到着する距離だ。
11時、こちらからご主人に連絡をした。
「平和病院に搬送をお願いしたんですが、T病院に搬送されました」
あわててT病院の救急部に連絡した。
当直のDRから状況を聞くと
「今搬送されましたが、すでに心肺停止状況です」
「その患者さんは現在、当院の緩和ケア病棟に入院されているんです。搬送を待っていたんですが、
いつまでたっても来ないと思っていたんです。どうしてそちらに搬送されたんでしょうか?」
「救急車内で心肺蘇生は行われていましたが、もう手のほどこしようがありません」
「えっ、ということは・・挿管とか、心マとか…されたんですね・・・」
なぜそうなったのか・・・緩和ケア病棟に入院中の患者さんが、心肺蘇生を行われ最後の時を迎えるという、考えられないような結果になった!
Hさんの病室はそのまま・・・帰れない患者さんを待っていた。
翌朝、あわただしいと思われる中、ご主人が病棟に来てくださった。
顔を見た途端、涙を流された。
「平和病院にといったんですが、私も動揺してしまって・・・」
時間を取って状況をお聞きし、外泊中の様子もうかがった。
「今迄の結婚生活の思い出などをゆっくり話しました。彼女もありがとう・・と言ってくれました。私も感謝の思いを伝えることができました」
「夕方、一回もどしたんです。その時に連れて帰ってくれば、こんなことにはならなかったかもしれませんね・・」
ご主人の判断は決して間違っていなかったこと、Hさんは自分に、家でご主人に感謝の思いを伝えたいとおっしゃっていたことをお伝えした。
その後、ご主人は病室の荷物を片付け、Hさんの元に戻って行かれた。
外泊を許可したことは間違ったとは思わない。ただ・・胃管を入れておけばよかったのか、外出だけ許可すればよかったのか、
はじめにご主人から連絡があった時に、必ず平和病院に連れてくるよう救急隊員のお願いするようもっともっと強調すればよかったのか、
ご自宅は病院から近いのだから、そのまま交代要員を捜し、自分がご自宅に駆け付けるべきだったのか、
何が足りなくて、何がいけなくて、こんな結果になってしまったのか・・・・
ぐるぐる何回も考えた。
このようなケースは、外来対応中やバックアップの場合は今までも何回かはあったが、
緩和ケア病棟入院中の患者さんでは経験したことがなかっただけに、ご主人のダメージはもちろんだろうが、自分もかなりの衝撃を受けた。
自分の判断、行動は正しかったのか?
支える体制が盤石でなかったことは確かなのだろう・・・
ご主人が帰られた後も、こうして書いている今も、重い気分は晴れない
唯一の救いは、Hさんが今までかかったこともない施設で、見知らぬDRのもとで最期の時をあわただしく迎えたのではなく、
搬送された先が、紹介元の病院だったこと、
救急医は状況を理解してくださり、ご家族の意志を再度確認し、救急蘇生をすぐに中止してくださったこと
そしてさらに偶然にも、その日の救急部の当番が、
それまでHさんの担当で治療にかかわってくださっていたDRだったことだ。
たった4日だけのHさんとのかかわりだったが、
外出、外泊時の急変という、予想しなくてはならない状況の対応の困難さをあらためて思い知らされた。
Hさんは意識がなくなった時点で、苦痛を感じなくなり、どのような処置が行われても、穏やかに逝かれたと願うしかない。(平成27年9月13日)
慌ただしいお別れ
平和病院緩和ケア科では、最近、月に30~40人の患者さんのお看取り、お別れがある。
数年前まではお別れの時には、休みだろうと夜中だろうと病院に駆けつけ、自分がお別れの確認をし、
お迎えが来るのを待ち、去っていく車に頭を下げていたが・・・
さすがにこれだけ人数が増えると、体力的に限界となり、自分の体調も崩したため・・・
最近は夜間のお別れは当直の先生にお願いするようになった。
平和病院は救急指定病院ではあるが、夜間の検査体制などの充実した済生会東部病院が、ほとんどの救急対応を担ってくれることが多く、
自分が当直していても、熱が出たとか、ちょっとした怪我だとかで起こされる程度で、ひっきりなしに救急処置を要する患者さんが来ることはない。
ただ、お看取りは一晩に何人もがつづくこともあり(特に気圧が低いとき、大潮のときに続くような気がする・・・)
特定の先生に集中する感じもあり、申し訳ないとは思っている。
常勤医師が少なくなってから、病棟をカバーするために自分の外来担当日を減らさざるを得なくなり、
ご紹介いただいた患者さんの初診対応が遅れ気味になっている。
このため、初診まで「たどり着けない」患者さんが増えてきてしまい、キャンセルの連絡が多くなっている
たどり着いた患者さんでも、入院したときにはかなり状態が悪く、入院日前に紹介施設でお看取りとなるケースも増えている。
このため、入院してからお看取りまでの時間が短くなってしまい、自分も、看護スタッフも、十分なかかわりをもてないまま
入院直後に厳しいお話を家族にせざるを得ず、
看護スタッフからも「何とかならないのか」との意見が多くなっている。
長めに入院となる患者さんが少ない分、病棟は空いているのに患者さんがたどり着けない…という困った状況になってしまっている。
平和病院緩和ケア科の入院は7割以上が緊急入院であり、在宅の先生方からの入院要請は、もう自宅療養が限界・・・といった状況が多いため、
厳し病状の場合が多いし、自分が外来で診療している患者さんも、急激な状態悪化で入院することも多い。
外来の患者さんの場合、自分とっては年単位でお付き合いをしている患者さんも多いが、
入院となれば、病棟スタッフにとっては、初めての患者さんであり、あわただしい経過になることに変わりはない。
先日、状況をだかいすべく、一般病棟の師長も含め、緩和ケア科のスタッフで話し合いを持ったが・・・
やはり、外来対応の問題点を解決しないことには根本的な解決にはならないとの結論になった。
非常勤の医師が来院する木曜日の外来を2診で行うこと、木曜午後の自分の特殊外来(外科からの古くからの患者さんを月2回、木曜午後に診察している)を
月1回にする…などで、少しでも新患枠を増やすことを始めるなどの案が出たが・・・
常勤医師確保はどうしても必要となっている。
緩和ケアの常勤医師は、どの施設でもなかなか確保困難な状況であるが・・・
そんな中、他院の緩和ケア科の若いDRから見学希望の連絡をいただいている。
また、近隣の病院の外科のDRから、緩和ケアに興味があり、平和病院で研修可能かという問い合わせのメールをいただき、近日お会いすることになった。
さらに、人材登録の業者から遠方のDRが転居で、緩和エアを学べる施設を探しているとの情報が入り、9月に会うことになった。
仲間は一人でも多いほうがいい!
人が多ければ、今できないことがどんどんできるようになっていく
患者さんや、ご家族とのかかわりも、ゆとりを持ってできるようになる。
長くかかわっていた患者さんが通院困難になっても自分たちが在宅でかかわれるようになる。
看護師も含め、多くの仲間が集まってくれるには、平和病院緩和ケア科が魅力的な施設でなくてはならないし、
自分自身が新しく仲間になってくれるスタッフから見て、ほんの少しでも参考になるようなかかわりが出来、
緩和ケアに対する情熱を感じてもらえるようにしていなくてはならない。
まだまだ・・足りないこと、できていないことが多すぎる!
多くの仲間が魅力を感じ、患者さん、ご家族にとって「平和病院でよかった」と思っていただけるよう・・・
逆境をモチベーションと活力に変え、衰える体力を気力で補っていきますか!(平成27年7月31日)
これでいいんだよね・・・
Kaさんは肺がんの診断を受け、紹介されてきた。
福祉の世話を受けており、初診は担当の職員と一緒に来院された。
診察室で離れて座っていても、ヒューヒューという呼吸音がしており、かなりしんどそうだった。
酸素の濃度も低く、すぐにでも入院してもおかしくないような状況であったが、
「ちゃんとスーパーにも買い物には出かけているし、何とかなるから大丈夫!」と気丈に答えた。
ただ、とても通院するのは困難と判断されたので、大至急在宅での生活を支える体制をとることにした。
平和病院緩和ケア科は多くの在宅を支える先生方と綿密な連携を構築しており、
初診の時から患者さんを紹介して、自分たちは緊急時のバックアップに回ることも多くなったが
病院の近くにお住いの患者さんは、自分たちで訪問診療も行っている。
Kaさんのアパートも、すぐ近くにあったので、
在宅支援センター「ひなたぼっこ」のケアマネに依頼し、訪問看護、訪問薬剤指導、訪問診療などを自分たちで提供することにした。
このようにフル体制で在宅に係ることは久しぶりだったが、
やはり連携が密になるので情報が逐一把握できた。
初診からしばらくたって、Kaさんのアパートに出かけた。
声をかけてもしばらく出てこなかったので、心配したが、鍵の開く音がして、ドアが開いた
古いアパートは1Kで部屋にはコタツが置いてあった。
部屋に入ったとたん、強いたばこのにおいがした。
「Kaさん、そんなにゼイゼイしてるのに、タバコなんか吸ってたら余計に咳も痰も出ちゃうんじゃないですか?」
「少ししか吸ってないから大丈夫」
「具合はどうです?」
コタツの上には吸入薬が転がっている
「苦しくないの?つらかったら入院してもいいですよ」
行くたびに問いかけても、がんとして首を縦に振らない。
訪問看護師も、薬剤師も、どんどん状態が悪くなるKaさんに入院を勧めたが、効果は無かった。
このままでは、誰かが訪問したときに、亡くなっているのを発見することになる可能性がある。
誰もがそう思っていた。その役目はもしかしたら自分になるかもしれない・・・
何回目かの往診の日、直前に訪問した薬剤師から連絡があった。
Kaさんが、もはや自分では動けない状況でコタツに入っている。
抱き上げて水を飲ましてきたが、かなり厳しい!
救急車を呼ぼうと何回も言ったが、意識はシッカリとしており、「絶対に入院はしたくない!」とのことだったと・・・
さらに訪問看護師からも連絡が入った。
Kaさんがどうしても銀行の用事がしたいと、介護タクシーの手配を頼んだ。
「銀行の用事が済むのが2時ころなので、往診はそのあとにしてほしい・・」と言っていると
「えっ!とても銀行なんか行ける状況じゃないでしょう!」
「でも、どうしても済ませたい用事らしくて…頑として聞かないんです」
同じ日、銀行の用事を済ませているであろう時間に自分が外来看護師と一緒にKaさんの自宅を訪問した。
薬剤師の情報通り、Kaさんはコタツに入りゼイゼイ、ヒューヒュー荒い呼吸をしていた。
身体を動かすことも出来ず、わずかに手を動かす程度で
タクシーは呼んだものの、結局銀行に行くことはできなかったようだった。
もう限界なのは明白で、今日、明日に確実にお迎えが来ると思われた。
部屋は暗く、電気もつけられない状況でエアコンもついていなかった。
その日はかなり寒かった。
「コタツに入っているから大丈夫!」
「Kaさん、もう、じゅうぶん頑張ったんだから入院しましょう。これじゃ、おトイレにも行けないし、
こんな寒い部屋で夜を過ごしたら、もうそのままになっちゃいますよ!入院しましょうよ!」
それでもKaさんははっきり首を横に振った。
独居で、在宅のスタッフが部屋に入るまでには何があっても分からない状況・・・
もう、自分で中から鍵を開けられる状況ではなく、ドアの外にロック付きの小さなボックスがあり、鍵がその中に入っていた。
ロックの番号は訪問するスタッフはわかっており、中から開けられなくても部屋に入ることはできる。
このまま自分たちがこの部屋から出たら、もう数時間で息を引き取る可能性もある。
もしかしたら、自分たちが最期の話し相手になるかも・・・
よほど救急車を呼んでしまおうと思ったが、Kaさんがここまでかたくなに拒否している。
入院しても、おそらく残された時間に変わりはない、自分の住み慣れた部屋にいるか、病室にいるか・・・
Kaさんにとってどちらがいいのか、Kaさんの気持ちを尊重するべきなのか・・・
「見殺し」のような状況になってしまうのでは・・・
「入院しましょう」のよびかけと、首を横に振り続けるKaさんと、しばらく押し問答が続いたが、どうしてもKaさんを説得することはできなかった。
「わかった。じゃあ、Kaさん、帰るよ。でも気持ちが変わったら必ず電話するんだよ」
でも・・・もう電話も出来ない状況なのはわかっていた。
看護師と部屋を出る時、何とも言えない後ろめたさを感じた。
もうダメなのはわかっていて、このままにしておくのか?
医師として、許される行為なのか?
見捨てていくのか?
「電気、つけていきましょうか?」
Kaさんは首を横に振った。
翌日・・・
訪問看護師から連絡があった。
いま、Kaさんの家に到着したが、既に意識がなく呼吸もしていない・・・と
急いでKaさんの家に向かったが、既にKaさんは息を引き取っており、看護師がお体をきれいにしていた。
「もう、家に入った時はコタツの中で動かなくなっていて、息もしていませんでした。
でも、コタツに入っていたので、お体はまだあったかいんですよ」
看護師の言うとおり、Kaさんの身体はまだ暖かだった。その分、顔や手の冷たさが目立った・・・
自分が部屋を出る時に予想した通りの結果になった。
あの時、無理やり入院させたほうが良かったのか・・・
でも、あんなに自宅にいたがったKaさんの意思をどうしても変えることはできなかった。
Kaさんの穏やかな顔がせめてもの救いだった。
Kaさん、本当に家にいたかったんですよね・・・
もう1回だけ自分が入院を勧めたら・・首を縦に振ってくれたんですか?
最期の時、苦しくなかったですか?
Kaさんは答えてくれなかった。
部屋を出る時、箪笥の上の仏壇に気付いた。
ご主人だったのか・・・見守られ、見守りたかったから、入院出来なかったのかのだろうか・・・
これから多くの患者さんとかかわる中で、Kaさんと同じような境遇の患者さんに会うときも出てくるだろう。
もし、同じような状況になった時、自分はまた今回と同じような行動するだろうか・・・
自分の望む場所で最期を迎えたんだから・・・かかわったスタッフからはそんな言葉も聞かれた。
そうなんだよね・・・そうなんですか?
Kaさんは答えてくれない・・・(平成26年12月14日)
続・「休みましょう」の勇気
Kさんは自宅に戻った。
平和会の訪問看護ステーション「ひなたぼっこ」を導入して経過を一緒に見ていこうと思ったので、
訪問看護指示書を作成、いつでも緊急対応できるようにしたはずだったが、
翌日、突然ほかの訪問看護ステーションから連絡があった。
Kさんのご家族から突然連絡があり、「息苦しさが出ているので呼吸方法を教えてほしい」との連絡があったが、どうすればいいか?
と、いうものだった。
どうしてその訪問看護ステーションがKさんに突然係るようになったのかもわからなかったので、
事情を聴いたところ、Kさんの知人から突然電話がかかってきて頼まれた。
そもそもどう状況なのかもわからないので・・・とのことだった。
乳がんの患者さんであり、肺の転移状況は極めて厳しいこと、残された時間はごく限られていること
自分が訪問診療する患者さんであり、「ひなたぼっこ」に指示も出していることも説明した。
別に「縄張り争い」をするわけでもないので、そのままかかわっていただくようお願いし、指示書を出しなおした。
緊急時は必ず24時間対応してくれることも確認したので、一緒に支えていくことをお願いした。
翌日には状況報告の電話が入ったが・・・
なんと「漢方の先生」のところに、介護タクシーを頼み、横になったまま出かけたとのことだった!
帰った後にはぐったりしたが、先生からは「まだ治療は続けましょう!」といわれたらしい・・・
その場所に出かけるのでさえ、身体にどれほどの負担があるのか、計り知れない!
本当に、その主治医は、座ることも出来ず、呼吸状態の悪い患者さんを診て、
自分の治療をすれば、まだ改善が可能だと本気で、心の底から信じて治療をしているのだろうか??
どんな状況でも自分の治療は患者さんを救える。自分には、なおせると本当に信じているのか・・
それなら、まだごくわずかな救いもあるが・・・
直感的に考えても、もうそろそろ厳しいが、治療をすれば報酬がいただけるから
どんな状況でもこれるうちは続けよう、来れないようになったら仕方がない・・・と考えているのか?
もし、そうだとしたら、とんでもない話で、
確かにご本人やご家族が「ぜひ治療をしてください」と望むのだから仕方ないだろう…と言われればそれまでだが・・・
「もう通院は体力的に困難なので、体力を維持するために苦痛の除去を優先しましょう…」位のことが、なぜ言えないのか?
「とりあえず治療を休みましょう・・・」の一言が、なぜ言えないのか?
治りたい、状態を少しでも良くしたい…と思う本人やご家族の心をもてあそぶような「治療」をどれほど見せられたことか!
その数日後、臨時往診を行う日の真夜中の3時ころ、病院からコールがあった。
Kさんの自宅から、呼吸の状態がおかしい、どうすればいいか…と、連絡が入っているのことだった。
折り返し自宅からKさん宅に連絡したが、
ご家族の話では、状態がおかしいようだ・・・とのこと
電話口の声は動揺している。
「訪問看護さんに連絡は取れましたか?」
「それが・・・何回電話しても出てくれないんです!」
「え~~っ、24時間対応してくださるというので、お願いしたんですが・・・、おかしいですね。Kさんはどんな状態なんですか?」
「もう呼吸が止まってしまいました!」
「これからお伺いしてもいいですが、救急の延命処置は行いません。自然のまま、お別れしていただくことになります。
ご不安なら病院に来てもらっても構いませんが、もし救急車を呼んでも人工呼吸や心臓マッサージなどが行われる可能性があります。
あるいは、既に呼吸や心臓の動きが止まっている場合は、病院まで運んでいただけない場合もあります。
呼吸はもう止まってしまっているんですよね?」
「はい…静かに目を閉じています」
「ご本人も自宅に帰りたい、最後まで、ご自宅で過ごしたい、過ごさせたいとのお気持ちだったと思いますが、
そのお気持ちは今も変わりはありませんか?」
「はい、そう思っています」
「分かりました。出来れば訪問看護ステーションにもう一度連絡してみてください。その状況で私がご自宅に伺います」
しかし、いつまでたっても連絡がない。
痺れを切らして再度電話してみたが・・・
24時間対応のはずの訪問看護師は、相変わらず連絡がつかないとのことだった。
らちが明かないのでKさん宅に急いだ。
ご自宅につくと、連絡が取れなかったはずの訪問看護師がいた!
「すいません、お電話いただいたようなんですが・・・」
「何言ってんですか!お宅のステーションは24時間対応なんじゃないの?ご家族は何回も電話したのに出てくれないって言ってましたよ!」
さすがに少し頭に来ていた。
「申し訳ありません。でも…着信履歴がないんです。ご家族が間違って電話していたかもしれません・・・」
Kさんの母親も
「私も動揺していたので、もしかしたら間違ってしまったのかしらね・・・」とおっしゃったので・・・
電話の件をいつまで言っても仕方がない。
Kさんが横たわっているベッドに行った。
Kさんは静かに目を閉じていた。
「昨日は子供たちと食事もして、お友達も大勢いらして・・少し疲れたとは言っていましたけど、楽しそうに話してました。
夜に、息苦しいとのことで、いただいていた薬ものんで休んだんですが、・・・」
話を聴くと、寝ている間に、静かに呼吸が止まったようではあったが・・・
そんな状況で、「治療」に出かけたとは信じられなかった。
ご家族が皆さん集まり、お別れの確認をした。
病院に行き、書類を作成し、そのまま通常勤務になだれ込んだ。
「治療」医師は、なにも関わらない。
患者さんが来なくなればそれでおしまい。
次の日からは同じように「藁をもすがる」患者さんがやってくる!
エビデンスのある治療が無くなった患者さんは、甘い言葉につられ、また「治療」を求めやってくるのだ!
自分のおこなっていた「治療」の「敗北」に関してはどう思うのか?
「やはり病気の勢いが強すぎました」
「もう少し早く始めれば効果が出たかもしれません」
「今までの抗がん剤治療で体力を消耗しすぎました」
何の責任もとらないし、Kさんの結果はその治療法の有効性の宣伝に反映されることは決してない。
目の前を患者さんがやってきては消えていく。
ネットには今日も、「がんが治る!」治療法が、甘い言葉で患者さんやご家族を待っている。
先週、婦人科系のがんの患者さんが新しく紹介されてきた。
同じような「治療」に通っている。
ご家族は金銭的に厳しく、やめさせたいと思っているが、ご本人は継続を強く望んでいる。
さて・・・どうする。(平成26年9月7日)
「休みましょう!」の勇気
先日、30歳代の乳がんの患者さんをご自宅でお看取りした。
もともとが当院の乳腺科で発見された後、都内の某病院での治療を選択され、
手術、抗がん剤治療、放射線治療などが行われたが、
残念なことに病状の進行を止めることはできず、肺に転移、胸水がたまり、呼吸困難が日に日に増強していた。
治療病院からは、地元の緩和ケア提供施設として、少し前に当院を紹介され、診療情報提供書も届き、
初回の面談の日程も調整されていたが・・・
何回も患者さんからの「キャンセル」が続いた。
さらには、数か月後、地元の基幹病院からも情報提供書が届いた。
呼吸困難が強くなり、救急受診し、胸水がたまっていたため、治療が行なわれていた。
今後は急激な状態悪化が予想されるので平和病院を受診するよう伝えた…との内容だったが、
それでも受診はなかった。
受診の日は突然だった。
Kさんのご家族から、呼吸状態が悪化しており、苦しがっているので診察してほしい…とのことだった。
基本的に、平和病院緩和ケア科は、一度ご相談いただいた患者さんの緊急対応は、
24時間365日、絶対にお断りしないことを、固く守っている。
ただ、まだ相談に受診していない患者さんに関しては、申し訳ないが、現在治療中の病院を受診するようお願いしている。
初回の面談の時に、当院のかかわりを十分ご説明し、ご理解をいただかないと、
あとで患者さんやご家族と、スタッフとのかかわりに支障が出る場合があるからだ。
ただ・・・Kさんの場合は以前からの外科の受診歴もあり、
緩和ケア科の診察も何回かは予約済み(キャンセルされていたが)なので、受診していただいた。
ご本人にも、ご家族にもお目にかかるのは初めてだった。
救急車で運ばれてきたKさんは、意識も朦朧としており、酸素の濃度も低く、厳しい状況だった。
X線検査では、両側の肺にがんがまき散らされているような状況で、
その日のうちに急変してもおかしくはない状況になっていた。
Kさんはそんな状況でも入院はしたくないと話したが、家に帰るにしても、
いろいろ在宅で過ごす体制を作らない限り無理だということをお話し、とりあえずその日は入院していただいた。
酸素吸入をを開始し、医療用モルヒネの投与を行い、状態はやや持ち直したが、予断は許さない状況が続いた。
翌朝、Kさんの病室を訪れ、少し時間をかけてお話した。
「今まで何回も外来受診をキャンセルされていましたが・・・、緩和ケア科に来るのって、抵抗があったんですか?」
「ええ、実は主人の親が、この病院の緩和ケア病棟で亡くなったんです。ですから、緩和ケア科にかかったら、もう自分は助からないとおもって・・」
患者さん、ご家族ばかりでなく、おまだまだ一般の多くの人たちにとって、「緩和ケア科」は
治療方法が無くなった人がたどりつくところ・・・
お看取りの専門診療科
入院したら、もう自宅には帰れない
などなど・・・
この世の出口で待ち構えているようなイメージを持つ方が多い!
最近、多くの基幹病院に、患者さん向けの啓蒙を積極的に行っていただくようお話ししているが、
実際の取り組みはまだまだ遅れているのが現状だ。
Kさんの考えは、まさにそのもので、受診の頻回のキャンセルも、このことが原因であったようだった。
まだお子さんは小さく、
「親にも申し訳ない、子供も産むだけ産んで、育ててあげられない・・・」との想いを話された。
状況はかなり厳しく、残された時間は「日単位」と判断されたので、Kさんに聞いてみた。
「Kさん…ご自分の状況が厳しいことはお分かりと思いますが…自分では、どれくらい、残った時間があると考えていますか?」
「治りたいんです。でも厳しいのは分かっています、でも・・・新しい年は難しいかな・・・。
治療は困難って言われたあと、食事療法や、漢方の治療を続けました。
今も、週に3回は漢方の先生の所に通院しています。治療費は高いと思いますけど・・・他に治療法がないので、かけてみたいんです。
先生からも、もっと続けましょうって言われています」
緩和ケア科の医師は、いろいろな民間療法に頼る患者さんやご家族に接する機会が多い。
もちろん、そんな治療法の中には、そのうちに画期的な方法として認知され、保険適用になるものもあるかもしれない・・・・
今は有効な治療も、以前は「胡散臭い」方法と思われたものものもある。
ただ、残念ながら多くの治療法は,第3者から見れば限りなく「胡散臭く」
少なくとも自分の経験した中では効いたものは見たことがない。しかもそのほとんどが考えられない程の高額だ。
先日お別れした患者さんも、同じような「治療」を受けていた。
もうお迎えの時期も近いと、まともな医師が見れば誰もが分かるような時期になっても、
治療医は
「今、やっと癌は育つのをやめたところです。続ければ、これから目に見えて効果が出てきますから、がんばりましょう!」
といったそうだ。
Kさんがご自分で設定した「残された時間」は、あまりにも現実離れしていた。
自分は、患者さん自身には、具合が悪くなったときに、残された時間をはっきりと告げないことのほうが多い。
もちろん、背負っているものが大きい患者さん、ご家族に大切なことを伝えなければならない患者さんなど・・・
限られた時間で、やらなくてはならないことが明らかな場合にはシッカリとお伝えする。
Kさんの場合、少し迷ったが・・・
「Kさん、今、ご自分でもわかると思いますが、今の体調はとても悪くなっています。
もちろん、漢方の治療の効果を期待する気持ちもわかります。
どんな状態になっても、治るんじゃないか…明日になったらがんが消えているんじゃないか・・・
そんなことを多くの患者さんやご家族が感じます。ただ、奇跡を望む気持ちは持っても、同時に、最悪の場合に備えることも必要です。
今までKさんは、緩和ケア科にかかったら、もう戻れない…と、感じていたんですよね、
入院したら、もうおうちに帰れないって思っていたんですよね・・・
残念ですが、Kさんに残された時間は、あなたが今おっしゃった時間よりも、ずっと短いと考えます。
ご家族と一緒にいられる時間も限られています」
しばらく黙った後、Kさんは泣きながら
「なんでなの? テレビのニュースでは、悪いことをした人がいっぱいいて、そんな人が生きているのに・・・
私は今まで悪いことなんかしてこなかったのに、なんであんな人たちが生きていられて、私は死ななくちゃならないの?
何がいけなかったの?」
涙があとからあとから流れていた。
しばらく、沈黙が続いたが・・・
「今の状況は、このまま入院したまま帰れなくなってしまっても全くおかしくありません。
ただ、どのような状況になっても、体制さえ整えれば、自宅に帰って、残りの時間を過ごすことも出来なくはありません。
私は、以前から患者さんがどこにいるのか・・・は問題ではなく、誰とどのようにどのように過ごすか…が、大事だと思っています。
ただ、入院中は、お子さんも頻回にはこれないでしょうし、夜もずっと一緒にはいられないでしょう・・・
もし、Kさんのご希望があるなら、ご自宅も病院の近くですし、、私たちが、訪問診療、訪問看護を提供し、
ご自宅の療養を支えることも可能です。ご家族ともよく相談し、お返事を下さい」
そのあと、Kさんのご両親ともお話した。
「残念ですが、娘さんとはもう数日でお別れになると思います。つらい症状は全力でとっていきます。
このまま入院でそのまま・・・となっても全くおかしくはありません。もし、ご自宅で…というのであれば、できる限りのことはします。
娘さんには、残された時間は短いことはお伝えしました。
皆さんでご相談して、これからの過ごし方を決めてください。私たちは、どのような結論になっても、それを全面的に支えていきますから・・」
翌日の朝、病室を訪れると、Kさんが言った
「先生、私、今日、帰ります」(つづく)(平成26年8月24日)
ハヤシライス
Iさんは乳がんにかかっても積極的な治療を希望されず、おひとりですごされていた。
腫瘍は大きくなり、やがて自壊しても、ご自分で傷の処置を続けていたが、
出血で他院に受診、緩和ケア科に紹介された。
独居でもあり、訪問看護師さんや、在宅の先生をご紹介し、在宅での療養をサポートする体制を整えたが、
結局「折り合いが悪く?」サポートの無いまま時間が過ぎていった。
ある日、息苦しさがまし、痛みが出たとのことで、再受診された。
めまいがあり、精査、疼痛コントロール目的で入院をお勧めした。
よほどつらかったのか、すんなりと入院されたが、治療によって症状が少し良くなると、退院を希望された。
全身に転移しており、独居でサポートなしの状況では厳しいと思われ、
再度サポート体制を整える旨お話ししたが、「大丈夫です。何かあったら先生のところに来ますから・・・」と退院された。
外来受診日の予約はとって帰ったが、
その1週間ほど後、息子さんから連絡があり、「つらいから救急車を呼んでくれと」、Iさんから連絡があったとのことだった。
緊急対応は絶対にお断りしていないので、すぐ受診していただくよう指示した。
しばらくしてIさんが救急車で搬送されてきた。
腫瘍の部分の激痛と出血があり、緊急入院になった。
意識も朦朧としており、鎮痛剤の経口摂取は、もはや困難だったので、オピオイドをスイッチし、持続注射に変更、
疼痛は改善したが、意識レベルは改善せず、2日後に、静かに息を引き取られた。
入院時には息子さんに、厳しい状況をお話しし、息子さんはそのまま病室で付き添ってくださっていた。
お看取りの時、息子さんが話された。
「母は以前からできるだけ入院はしたくない。逝くときは苦しまずにすんなり旅立ちたいといっていました。
入院する前の日、自宅に行ったんですけど・・・
珍しく、『ハヤシライスを作るから食べていきなさい』って言ったんです。
ちゃんと作ってくれて・・・
そしたらその晩、いきなり救急車を呼んでくれって・・・
自分の希望通り、ぎりぎりまで一人で自宅でいて、あっけなく旅立ってしまいました・・
自分の思っていた通りになったんですね・・・」
入院直前に、Iさんは息子さんにハヤシライスを作った。
なんでハヤシライスだったんだろう・・・
息子さんが小さい時からの好物だったんだろうか?
Iさんは何かを感じて息子さんに最期の手料理を作ったんだろうか・・・
そのハヤシライスって、どんな味がしたんだろう
ハヤシライスを食べるたびに、きっと息子さんは、母親のことを思い出すのかもしれない。
息子に作った最期のハヤシライス・・・
どんな思いで作ったのか、もはや聞くことはできない。
状態が悪くなっていく患者さんは、いままでできていたこと一つひとつが出来なくなっていく。
食べること、トイレに行くこと、
話すこと、息をすること・・・
子供のために作った最期の料理、
母親が作ってくれた最後の料理って・・・
こんなにはっきりしていることなど、意識して聞いたりしないので記憶にはないし、話していただいたこともないが・・・
母親の最期の愛情がたっぷり入った、ハヤシライスは、息子さんにとっては、きっとどんな豪華な料理より、おいしかったんだろうと思う。
(平成26年6月22日)
再婚
今の時代は、離婚するカップルは珍しいことではない。
当然、緩和ケア科にも、離婚された患者さんが受診することも少なくはない。
ただ、男性の患者さんの場合に、別れた元の奥さんが一緒に来院することはあっても、
女性の患者さんで、元のご主人が一緒に来院されるケースは極めてすくない。
男性のほうが、割り切っているのか、それとも病気になってから、元の奥さんの必要性、大切さを理解するのか・・・
女性のほうが、根本的に優しく、離婚したといってもやはり放っておけないのか・・・、
男は結局弱いのか?女性は強いのか?
そこまで突っ込んでお話を聴くわけにもいかないし、係ることも出来ないが、
やはり、最期の時が近くなると、ふだんは交流が途絶えていても、
子供に会いたい、別れた奥さんに会いたい・・と、ポツリと話される患者さんもいる。
Kさんは肺がんの終末期状態で紹介されてきた。
離婚されており、お子さんもいるようだったが、一人住まいで、長い間、わかれたご家族とは会っていないとのことだった。
外来通院されていたが、病状の進行に伴い、呼吸困難感が増強し、入院になった。
治療によって症状はいったん改善し、在宅酸素の導入し在宅復帰も可能な状態になったころ、
スタッフステーションのカウンター越しにKさんが話しかけてきた。
「先生、こんど、別れた奥さんが病院に来るんですよ!長いこと会ってないし・・・
慰謝料でも請求にくんのかなあ?そんなこと今さら言われたってお金ないしなあ・・・」
そういいながら、Kさんは、ものすごくうれしそうに笑っていた。
「息子はこの前来てくれたんですよ・・・病気も悪いことばかりじゃないかもね・・・」
「よかったですね!」
笑顔が本当にうれしそうだったので、こちらも思わず笑顔になった。
そんなKさんは、いったん退院したが、外来受診までの間、何回も手紙が届いた。
病状を説明するもので、やはり一人暮らしの不安があったのだろう・・・
しばらくして、Kさんの自宅を訪問したケアマネさんから連絡があった。
自宅で呼吸困難になり、意識も朦朧としているとのことで、救急車を呼んで受診してもいいか…ということだった。
もちろんOKし、Kさんの到着を待った。
搬送されたKさんの酸素濃度は酸素を使用しているにもかかわらず、きわめて低く、呼吸状態は悪化していたが・・・
救急隊のストレッチャーから外来のストレッチャーに移動させるとき、Kさんは朦朧としながら
「先生、今度再婚することになったんです」
「えっそうなんですか?」
「もとの奥さんとね!」・・・とシッカリとした言葉で話された。
先日は俳優のUさんが、最期の時に、ある女性と入籍した…という話を思い出した。
「それはよかったですね、でもKさん、だいぶ具合が悪いようなので、とりあえず入院しましょう。奥さんは入院したことはご存じなんですか?」
Kさんは答えなかった。と、言うより、もう答えられる状況でもなかった。
一緒についてきたのは福祉関連の方だったので、
入院になり、極めて厳しい状況であることことを告げた。
「再婚されるとのことですが・・・」
「そうなんです。私も今日初めてうかがって、驚いてるんですが・・」
とりあえず治療が優先なので、細かいことはきけないまま緊急入院になった。
もはや医療用モルヒネの内服も困難な状況で、治療は注射に切り替えたが、病状は一気に悪化し、その日の夜に呼吸は止まってしまった。
ギリギリまで自宅で頑張ったのだろうが・・・
亡くなる直前には、再婚を決意した(と聞いた)奥様に連絡をしたが・・・
「あとのことは福祉の方にお任せします」とのお返事で、結局来院されることはなく
Kさんはご家族に見守られることもなく一人で旅立たれ、スタッフだけに見送られ、退院された。
その後のことはわからない。
入院の時に、言っていた再婚の話の真相もわからない・・・
本当にそうだったのかもしれないし、Kさんが強く望み、朦朧とした意識の中で話した夢だったのかもしれない。
病棟で見せたKさんの本当にうれしそうな、照れたような顔が忘れられない。
きっと、夢ではなく、実現はできなかったが、本当の話だったと思いたい。
患者さん、ご家族には、自分たちがかかわる以前に長いドラマがある。
それは、私たちとの短いかかわりの中では、なかなか理解できないことでもあるが、最期の場面には大きな影響を与える。
多くの患者さん、ご家族の最期の時のかかわりを見ていると、自分たちはその壮大なドラマの一話を見ているだけであり、
そのあらすじの一部を想像することしかできない。
実際のストーリーは、その想像と大きく違っているかもしれない。
人は生きてきたように死んでいく・・・といわれる。
自分たちにはご家族の代わりはできないが、亡くなられる患者さんのエンディングが少しでも穏やかになるように
その患者さんの人生のほんの一部だけでも、ご家族も含めてせいいっぱい関わり続けていくしかないのだろう。
(平成26年6月1日)
ハナミズキの会秘話
鶴見区では、医師会の在宅部門が中心になり、平和病院緩和ケア科も全面協力し、
支えあう遺族の会「ハナミズキの会」が活動を始めたばかりだが、
初めてこの話が持ち上がった時、幹事会(現在の世話人会)で、会の名前を何にしようか…との話題になった。
何か花の名前を・・ということになり、いろいろ考えたが、
鶴見区の花が「ハナミズキ」で、駅からの道に植えられ、淡い色合いが会のイメージにも合うのでは…ということになり、
比較的すんなりと決まったが、
後になって(次の幹事会のとき)、実は鶴見区の花が「ハナミズキ」ではないことが判明した!
それは困った、じゃあ、そもそも鶴見区の花は何なの?
と、調べたら「百日紅(さるすべり)」なのだそうだ。
遺族の会のイメージを考えると・・・「さるすべりの会」じゃあね~・・・・
どうもしっくりこない。花言葉は「愛嬌」だそうで・・・
遺族の会で「愛嬌」はいかがなものか!
いっぽう、ハナミズキの花言葉は「私の想いをうけとめて・・」だそうで、
こっちのほうが全然しっくりするじゃない!となり、
結局、名称は鶴見区の花にはとらわれず、「ハナミズキの会」に落ち着いた。
会は先日、緊張の(スタッフの)なか、やっと第1回目が終わったばかり。
まだまだ苗木の状態だ。
どんな木に育ち、どんな花が咲くのか・・・
これから多くの方がかかわってくださり、大切な方を亡くされたご家族たちが、寄り添い、支えあい、
そして将来は、独り立ちして運営されていくまでになっていくことを願いつつ、これからも携わっていきたいと思っている。(平成26年5月4日)
夫婦
Dさんは長い間緩和ケア科の外来通院をしていた。
受診の時には何時も奥様が付き添ってこられた。
元気な奥様で、お二人のやり取りはほほえましく、特に処方もなくお話だけして次回の予約を取る状態が長く続いていた。
ある日、Dさんは、珍しく娘さんと受診した。
「あれ、奥さんは?、風邪でも引いたんですか?」
「実は、急にお腹が痛くなって、救急車で病院に行ったら、腸に穴が開いているって言われ、その日のうちに緊急手術になってしまったんです。
小腸にがんが出来ていて、そこに穴が開いて・・・
もう肝臓や肺にも、脳にも転移があるって言われて・・・」娘さんが答えた。
驚いた!
あんなに元気そうだったのに・・・
にわかに信じられない話だった。月に1回程度はお目にかかっていたのに、全く気が付かなかった。
急激に痩せることもなく、せき込むわけでもなく、ご自分の体調に関しては、まったく訴えなかったが・・・
正直、なんで気づいてあげられなかったのか、検査を勧めなかったのか…後悔した。
「もう、お父さんの世話で、こっちが疲れちゃう」とは話していたが・・・
それから少したってから、奥様の体調は急激に悪化し、Dさんではなくご自分が緩和ケア科に緊急入院になってしまった。
症状コントロールは順調にいき、いったん退院できるほどになった。
ただ、通院は困難と思われ、Dさんのこともあるので在宅での療養を支えていく方針になった。
平和病院緩和ケア科は、多くの診療所の先生方と連携しており、
通院が困難になった患者さんを在宅で支えることをお願いしてる。
ただ、Dさん夫婦の家は病院からも比較的近く、長くかかわってきたので、自分と、平和会の訪問看護ステーション「ひなたぼっこ」が
在宅での緩和ケアを提供することにした。
退院してしばらっくたった後、、初めてご自宅を訪問した。
もともとの患者だったDさんは
「どこか調子悪いところは?」と尋ねても「な~~ンも無い!」と痛みも、息苦しさもなく、食事も食べられていた。
奥様は退院した時よりさらに痩せていたが、「病院には入院したくない、こうやって先生も来てくれるし・・・」と、話されていた。
その後、訪問看護師からの報告では状態はさらに悪化、ちょうど緩和ケア病棟のお花見の日、
意識も朦朧としているとのことで、臨時に訪問したが・・・
もう残された時間は「時間単位」の状況だった。
いったん病院に戻ったが、お花見の終わったころ、連絡があった。
奥様はDさんを残して静かに旅立たれた。
Dさんの家に行く途中、桜の花びらが、風に吹かれて散っていたが、その一つは、Dさんの奥様だったのかもしれない。
奥様が無くなってしばらく後、Dさんは娘さんに付き添われ、外来受診された。
奥様のことを話すと、「そりゃあ淋しいわな・・」と、ぽつりとつぶやいた。
奥様の具合が悪くなってからは娘さんが献身的に介護されていたが、
「みんなに迷惑をかけたくないと、そればかりを気にしていました。
亡くなる当日の朝も、息子に、心配しないで行ってきなさいと声をかけていたんです」と話された。
奥様は娘さんに、「自分がいなくなったらあんたに迷惑がかかるから、1週間以内にお父さんも連れて行く!」と言っていたらしい。
さいわい、Dさんはあちらに連れて行かれることもなかったが、だいぶ痩せており、
本当に奥様が呼んでいるような感覚になってしまった。
Dさんとは別に、Yさんが先日亡くなった。肺癌だったが、静かに、眠るように亡くなった。
実は、Yさんの奥様もYさんが外来通院しているときにはずっと付き添ってくださっていたが、
やはりご自分も大腸癌にかかり、あっという間にYさんを残して旅立ってしまった。
Yさんの奥様も当院でお看取りをした。
Yさんが入院したのは、その1か月ほど後だった。
もちろん,癌が「うつる」わけではないが、多くの患者さんを見ている中で、同じような話がたまにある。
癌になった患者さんの心配をし、介護をしていると、ご自分の体の異常は「疲れ」と感じてしまうのか・・・
もちろん、ご自分の体調のチェックもする暇もなくなってしまうのかもしれない。
よく、亡くなった患者さんをお見送りするとき、ご家族が、「今度私がこうなったらぜひ先生に…」などと言われることがあるが・・・
そう言ってくださることはうれしいが、本当にそうならないことを真剣に願ってしまう。(平成26年4月26日)
自宅で最期を・・・
多くの患者さんやご家族が、最期を自宅で看取りたい…との想いを口にする。
私たちはできるだけその希望に応えようと手を尽くす。
時には患者さんとご家族の思いが微妙に食い違うこともある。
患者さんは家にいたい、でも、家族に迷惑はかけたくないとの想いがあり、
ご家族は、最期まで看てあげたいけれど不安で耐えられない・・・
平和病院の緩和ケア科は、緩和ケア病棟だけで運営しているのではない。
外来診療もやっているし、在宅の患者さんの急な変化にも365日、24時間対応することをお約束している。
外来通院が難しくなったからと言っても、すべての患者さんが入院するわけではない。
自分たちが訪問診療も行うし、
多くの優秀で、熱意のある先生方と連携をとり、その先生たちや、多職種のスタッフにお願いして在宅での療養支えていただき、
それでも在宅療養が厳しくなったときの入院ベッドは確実に確保している。
そんな、円滑な連携の影響もあり今では以前に比べ、在宅で最期を迎えていただくケースも増えてきている。
ただ・・・
うまくいかない場合ももちろんある。
つい最近のこと
緩和ケア病棟に入院していた患者さんのご家族から、家に帰してあげたいとの希望があった。
状態はすでに、かなり悪化しており、残された時間も「週単位」から「日単位」になっていた。
平和会の訪問看護ステーションが入院前に導入されていた。
このようなギリギリの段階になって、連携の先生にお願いすることはとてもできないので、在宅復帰後は自分たちで臨時の往診も行う方針とし、
痰も多くなっていたので、吸引器の使い方もご家族に指導した。
病状が厳しことも繰り返して十分説明し、ご理解をいただいた(と、思っていた)上での退院となった。
退院の朝、状態はさらに悪化しており、すぐにでもお迎えが来そうな状況であったが、
それでもご家族は退院を希望された。ご本人は朦朧としていたが、前の日には「家に帰りたい」と言っていた(と、ご家族は言っていた)。
ご家族と訪問看護師には、もう、最期の時には救命蘇生処置は行わないので、
慌てず、夜中でもいいから救急車を呼ばず、自分たちに連絡すれば、その時には必ずご自宅に伺い、お別れの確認をすることも話し・・・
昼前に退院した。
夕方4時ころ、訪問看護師から連絡があり、呼吸状態が悪化したと連絡を受けて訪問したら
ご家族は、「家では看取れない…」と言って、救急車を呼んでしまっている!とのことだった。
状態の悪化は十分予想できたし、そのために、ご家族にも十分お話ししたのに・・・
緩和ケア病棟は、基本的に救急対応はしていない。ただ、数時間前に退院したばかりのベッドは空いていた。
もともとその患者さんが使っていたので、開設以来初めて、緩和ケア病棟で救急車での搬送を受け入れた。
病院についたとき、患者さんは心臓マッサージも行われていたし、マスクの人工呼吸も行われ
さらにAEDも使用されていた・・・
到着してすぐ、入院し、ご家族に再確認し、蘇生を中止した。
救急隊からしたら、救急要請を受けたのだから、救命処置を行うのは「使命」であり、もちろん責めることなどできない。
このような事態は説明されていても、ご家族はパニック状態になり、結局最後は自宅で最期は迎えられなかった。
いや、物理的な最期はご自宅だったとおもわれるが、お看取りはその患者さんが、つい数時間前にいたのと同じ病棟、病室で行われた。
言ってみれば…「最後の外出」になってしまった。
ご希望通り、最期の瞬間に家に帰れた・・・と満足すべき状態なのか?
希望をかなえられず、救命蘇生まで行われ、結局は病院に戻ってしまった後悔すべき状況なのか・・・?
もっと違う結末を、こんなにバタバタしない穏やかな最期を提供できなかった後悔は、自分の中には大きく残ってしまった。
昨日は川崎の在宅スタッフ向けの緩和ケア講習でインフォームドコンセントの講義をさせていただいた。
最期の時が近くなったとき、ご家族にどのようにお話をするか、
お看取りの前に不安をどうすればやわらげられるか・・・
などだが・・・
結果はこれかい!と、講義をしながらもこのことを思い出し、複雑な思いがして、今ひとつ調子が出なかった。
肝心なのは、最期の「場所」ではなく、それまで、「誰と、どのようにかかわっていただくか」が重要だと、常に思ってはいるが、
今回のようなケースは今後も十分起こる可能性もある。
在宅の患者さんが、救急受診すること自体は、珍しいことではない。
平和病院緩和ケア科の入院は6割が緊急入院だし、入院してすぐお別れになることも珍しいことではないが・・・
さすがに救急蘇生をされての搬送のケースは、1500人以上のお看取りをした中で、片手で足りる数しかない。
先日は、救急隊の方と搬送前に直接話が出来たことがあり、
蘇生を行わずに搬送していただいたこともあり、搬送された時には、救急隊員の方たちに、感謝の気持ちで深く頭を下げた。
お看取りの時にはそれぞれのドラマがある。
ご家族は「望んだとおり、家に帰れました」と、感謝の言葉を述べてくれたが・・・
自分の中では、どうしても消化しきれないモヤモヤとした思いが消えない。(平成26年2月14日)
お酒とかりんとう
先日、Oさんとのお別れがあった。
最近は緩和ケアに関しての地域での連携も以前よりうまくいくようになっており、
早い時期からの紹介患者さんも多くなり、
その分、緩和ケア科の外来診療予約はギチギチの状況になってきている。
もちろん、緊急の場合や、短い期間で経過観察が必要な場合は、
予約枠以外の臨時で診療を行なっており、きちんと対応は可能だ。
鶴見区における地域連携に関しては、今年度の日本緩和医療学会でも発表し。
学会誌のPalliative Care Research にも近日掲載される予定になっている。
Oさんは昨年の2月の初診なので、ずいぶん長いことお付き合いをさせていただいた。
肺がんで、90歳とご高齢だったせいもあり、積極的な治療は行われず、経過観察されていた。
さいわい、痛みや呼吸困難などの症状もでず、外来診療も、お話しすることだけの時間が続いた。
お酒と甘いものが大好きだったが、ご家族からは健康のこともあり、制限されていた。
「かりんとうが好きで、近くのお店に自分で行って、買ってくるのはいいんですけど・・・
加減しなくて、袋を開けたら、一気にぜ~んぶ一度に食べちゃうんですよ!」
いつも一緒に付き添ってくるご家族がいうと・・・
「まあ、我慢すれば出来ないこともないんだろうけどね・・・ついつい食べちゃうんだよね」と、細い目をさらに細くして微笑む顔が印象的だった。
お酒も好きで、昔はずいぶん飲んだらしいが・・・
「家は、神道なんで、神様にお酒とお塩、お米を供えるんです。そのお酒が、なんだかだんだん減っていくんですよ!
おかしいなと思ったら、おじいちゃんが少しずつ飲んじゃうみたいで・・・」
「別にいやしいから飲んでるわけじゃないんでね、神様からおすそ分けをいただいてるんですよ」
「そんなわけで・・・最近は、お酒じゃなくて、神様にはお水で我慢していただいてるんです!」
Oさんが飲んでしまうので、神様も、お酒が飲めなくなてしまったようだ!
そんOさんも、だんだん顔が痩せてきて、足取りも、だんだん弱々しくなっていった。
今年の猛暑も何とか乗り切ったが、9月になると、めっきり弱ってしまい、「なんだかだんだんしんどくなってね・・」と
弱気な言葉も出るようになってしまった。
ある日の外来で・・・
「もう90年も生きてきたんで、どうなってもおかしくないし,いつお迎えが来てもいいとは思ってるんだが・・・
実はね・・・自分は戦争に行って、人も殺してきたんですよ。
そん時は、命令だったから、仕方がなかったんだけど・・・
そんな時、人間って、死ぬときはどんなこと思って死ぬんだろうって…なんてことも思いましたよ。
殺された人たちは、どんな気持ちだったんだろうね・・・
自分が死ぬときは、どんな気持ちで死んでいくんだろうって、最近考えてね・・・
でも、考えても考えても答えがわかんなくて・・・
やっぱり、そん時になってみないと、わかんないんだろうなあ。もうすぐ、その時期だから、答えも分かるかもしれないね・・・」
そんなことを、静かに話してくれた。
それから間もなくのこと、Oさんは夜間、救急車で搬送されてきた。
家の人が帰ってきたら、起きられなくなっていて、目も閉じたままだ・・ということだった。
「だんだん食べられなくなって、もともとお水もあんまり飲まないんで、みるみる調子が悪きなって・・」
ご家族の話だった。
秋というのに、かなり暑い日が続き、脱水も重なったのかもしれない。
急いで入院してもらい、点滴なども行い、翌日には呼びかけに少しは反応するようにはなったが、
声にはならず、「つらくないですか?」の問いかけに、首を横に振ったが・・・
次の日には、あっという間にお別れになってしまった!
痛みもなく、苦しいとも言わず、本当に眠るように逝ってしまった。
大好きなかりんとうも食べることなく、お酒も飲むこともなく旅立ってしまった。
亡くなる少し前に話していたことを思い出した。
Oさんは、亡くなるとき、どんな気持ちだったのだろうか・・・
答えはわかったんだろうか・・・
目を閉じたOさんは教えてくれることもなかった。
「Oさん・・・もうちょっとお付き合いできるかと思ってましたよ・・・」
退院する直前に、静かに目を閉じているOさんに話しかけた。
バタバタと、紹介されて数日でおお別れとなる方もいる中、
Oさんのように「年単位」でお付き合いさせていただける方の次回外来予約がキャンセルになるのは、つらいものがある。
自分の大きめの手帳には、外来予約がびっしり書き込まれている。
鉛筆で記入しているが・・・
その名前を消さなくてはならないとき・・・改めて、もうお会いできない事実を感じることになる。
出来れば、同じ名前を、ずっと書きこんでいきたいが・・・
白衣のポケットに入っている消しゴムは、少しずつすり減っていく。(平成25年10月25日)
スローボールと剛速球
緩和ケア科では、患者さんやご家族に病状の説明、今後の見通し、これからおこる症状に関してお話しする機会は多い。
積極的な治療中、たとえば、悪性の腫瘍が発見された時、
手術の方法の説明、検査結果の説明、再発や転移が発見された時、
治療効果が限界に近づいているときなどなど・・・
それぞれの場面で行われる、いわゆるインフォームドコンセントとは少し違い
緩和ケア科では、患者さんの変化をご家族が受け入れられるように、繰り返しお話をすることが多い。
患者さんはもちろん、ご家族も、どんなに厳しい状況であっても、「奇跡」を望む気持ちは当然あると思われるが、
やはり、同時に「最悪の場合」に備えていただかなくてはならない場合も多い。
(ただ、平和病院の緩和ケア科は外来機能もしっかり持っているので、一時的な状態悪化で緊急入院した場合でも
約3分の1の患者さんは、在宅復帰が可能になっている)
何年か前まで、ひとりで緩和ケア科を担当していたときには、もちろん自分一人でこのような説明も全部行っていたが、
今は、加藤、林も常勤しており、患者さんもチームで見ているので、ご家族の時間に合わせて説明の時間を設定するため
お話をさせていただく医師も異なる。
もちろん自分に話を聴きたいと指定されるご家族もいるが、基本的には方針は3人で共通で確認しており、
医師によって話す内容が異なることはない。
ただ・・・やはり、3人が全く同じ口調で、同じスピードで、同じ言葉で話すことはありえないので、それぞれのスタイルは出てくる。
あとの二人が自分のパターンをまねる必要もないし(肝心な部分は変わらないので)、それぞれのスタイルを持ちながら、
経験を積んでいくうちに少しずつ変わっていくこともあると思っている。
一人でやっているときには気づかなかったことも、他の二人の話し方を見ていると、こういう話し方もあるな・・と感じることもある。
患者さん本人に、残された時間を直接話す場合、どちらかというと自分はストレートに言わないことが多いように思う。
残された時間に済ませておかなければいけないことがあると思われる患者さんには、
残された時間をある程度明示しないと、体調が悪くなり、大切なことをやり残してしまうこともある。
生命予後、残された時間を直接聞かれた場合には、まず、ご本人に気がかりなことを伺い、
現在の体調を考え、実現可能かどうかを判断するが、
いずれにしても、済ませておかなければならないことは、できるだけ早く取りかかっていただくように話す。
よく、季節のことを例にあげ、「桜の咲くころまで」、「夏が来るまで」、「年が明けるまで…」などの表現を使うこともあるし、
「3か月を見るのは少し厳しいかもしれません」とか「その月その月を越せるか、という状況だと思います」
など、言い方は患者さんやご家族によって異なり、全く同じように話すことはない。
この前、長く外来に通院していたKさんが呼吸困難で入院された。
画像では、両側に無数の転移があり、急激な悪化はいつ起こってもおかしくない状況だった。
外来に通院していたときから、蓼科の別荘の話をされ、通院中も何回か出かけて、過ごされていた。
入院後の状況説明は自分ではなく、他の医師が行ったが、
「残された時間は1か月」と説明したようだった。
通院中のイメージがかなり繊細な感じの方だったので、もし自分が説明に当たったら、
ここまで「ズバッ」とは言えなかったかもしれない。
ただ、Kさんは、「そんなに短いなら・・」・と退院を希望され、ご家族と蓼科の別荘に行くことを希望された。
酸素の手配を行い、退院後すぐに、おそらく最後になるであろう蓼科へと旅立った。
蓼科で状態が急変した場合でも連絡がつくように、自分の携帯番号を知らせたが、一度連絡があったものの、
内服の指示をしただけで、何とかのりきることができた。
帰ってきた翌日、Kさんは呼吸困難で再入院となり、退院できないまま、その後何日かでお別れの時になったが・・・
もし、「あと1か月」という言葉がなかったら、
Kさんは蓼科に行き、周りの住民の方と話したり、お別れをすることも出来なかっただろう。
退院されるとき、ご家族とお話しする機会があったが、
息子さんが最期の蓼科でご家族と一緒に撮った写真を見せてくださった。
穏やかな笑顔のKさんとご家族が写っていた。
「家族全員での最後の写真です」と息子さんがおっしゃった。
「この時は息苦しさもあまりなく、楽しそうに過ごせました」
Kさんがご家族と蓼科で過ごされたお話を聴き、
単刀直入に期間を明言する「剛速球」も、時には必要であることを改めて教えてもらった。
自分の話し方は「スローボール」が多いと自分でも思っている。
剛軟の配球によっては、最期の患者さん、ご家族の過ごし方、想い出にまで影響することを痛感させられた。
緩和ケア科が独立して、自分たちが病院でお別れを告げた患者さんは、今月で1000人を超えた。
自分たちの接し方、話し方、その内容は1000通りあったはずで、
これからも症状の緩和はもちろんのこととして、患者さん、ご家族に寄り添い、お話をすることの大切さ、責任の重さを
再確認させていただいた。
自分たちは、患者さん、ご家族に接するたびに、教えられることが多い、
その一つ一つを、次の患者さんに役立てていくことが、お別れしていった多くの患者さんに少しでも報いることになると思っている。
(平成25年8月14日)
続・謎の注射液
結局・・・
娘さんは、その日に投与されるはずだった薬を取りに出かけた。
ご家族だけが強く希望し、ご本人が希望していなかった場合には、そのことがバリアとなってくれるが・・・
Sさんはご本人もその治療をお受けることを望んでいた。
何時間かたって・・・
娘さんが病院に戻ってきた。
1mlの注射筒2本に、なにやら黄色の液体が入っている。
これが、Sさんの体から抽出された、ものを培養した液だそうだ・・・
「注射のやり方」の図解説明書付きだ。
おそらく今の自分のような役割を担うことになった医師が何人かいるのかもしれない・・・
「皮内」注射をするらしく、注射をする部位も細かく指示されている!
両側の大腿部に各3か所ずつ、頭側から0.2ml、0,15ml、0.15mlずつ・・・・
これがポイントらしいが、
なぜこの位置で、、この量で、注射部位の感覚を1.5cmあけるのか・・・意味が分からないが、とにかくそうしてくれと書いてある!
さて、そもそも、今自分の目の前にあるこの注射液は、何が入っているのかわからないのだ。
ものすごく変なことを考えれば、ビタミン剤で色のついた水かもしれない、何しろ確認のしようがない。
もっとひどいことさえ考えれば、「毒」かもしれない・・・
ご家族から注射液を受け取り、とりあえず処置のため、ご家族は部屋から出ていただいた。
Sさんの大腿部は浮腫でパンパンに腫れている。
ご家族の強い希望もあり、通常は制限する点滴をしばらく続けていた影響もある。
もう少しすれば、皮膚に水疱ができ、浸出液さえ出てきそうな状況だ。
呼吸は今にも止まりそう、もちろん意識もない。
「Sさん・・・本当にこの注射をしてほしかったの?」
問いかけにもこたえてはくれない。
自分は今、何をしようとしているのか?
これは患者さんのためなのか?
ただ、ご家族の満足を満たすためだけ、自分への攻撃を避けるために行うのか?
部屋には誰もいない。
Sさんと自分だけだ・・・Sさんの意識はない!
極端なことを言えば・・・注射液を、洗面所に流しても誰にもわからない!
この注射をしたところで、状態が良くなるとはとても思えない。
実際に部屋で起こったことは誰にもわからない。
指示されたとおりに使用したのか・・・
その夜は、自分がオンコールだった。
絶対にSさんの状態悪化で呼ばれることを覚悟していたが・・・・
朝までライディーンは鳴らなかった!
翌朝、一番でSさんの病室に行った。
ご家族も付き添っておられたが・・・
Sさんの目が開いている!
これには正直驚いた。まさか・・・奇跡が起こり、夕方には食事でも出来るようになるのか????
患者さんがどれくらい持ちこたえられるか・・・状態が悪くなればなるほど、予想可能になってくるのだが・・・
明らかに予想外だった。良いほうに予想が外れるのだから、患者さんやご家族にとっては望ましいことだ。
「頑張っておられますね・・・ご家族の皆さんの強い思いが届いたんでしょうね・・・」、正直な気持ちだった。
「昨日の治療が奇跡を起こしましたね!」とは言わなかった。
Sさんの呼吸状態は相変わらず悪く、いつ急変してもおかしくないことに変わりはない。
案の定、その日の午後には、再度状態は悪化し、それでもなんとか持ちこたえたが、翌日、息を引き取られた。
癌と徹底抗戦をしたSさんの最期だった。
結局、土壇場の「治療」は何だったのか・・・いったん意識の状態が改善したことで、効果があったというのか?
寿命を、1~2日延ばす効果があったのか?
今後も同じようなことが必ずおこる。
一切拒否すれば、話は簡単で、実際、院内での治療はお断りしている。
ただ、土壇場になって、「治療」に行けない状況では今回のように「治療薬」のみ出来上がり、宙に浮くケースはあるのだろう。
多額の「治療費」が無駄になる。
そもそも。「藁をもつかむ」状況の患者さん、ご家族を甘い言葉でひきつける「治療法」が多すぎる!
確かに、現在研究中で、将来、確かな効果がエビデンスとして出てくるであろうものも、一部には含まれているだろう・・・
ただ、その多くが、いたずらに過度の期待を抱かせ、症状緩和の妨げとなる場合があるのも事実だ。
Sさんのいなくなった病室を見て、やりきれなさだけが残った。(平成25年6月14日)
謎の注射液
Sさんは県外の基幹病院で子宮がんの治療を受けていたが、
積極的な治療は限界と判断され、緩和ケア科に紹介され、比較的全身状態が保たれていたため、外来で緩和ケア治療を継続していた。
ご家族は非常に熱心で、いろいろな代替治療を取り入れ、ご本人も積極的に受け入れていた。
積極的な治療法が無くなった患者さんの中には、食事治療、サプリメント、
血液成分を採取して、一部を培養し、体に戻す免疫治療などに最期の望みを託す方も多い。
インターネットでは、様々な「治療法」が「がんが消えた!」
「体の免疫力を高め、がん細胞を壊す!」などなど、魔法の治療法のような言葉で、行き場を失った患者さんやご家族を待ち受けている。
もちろん、保険外診療で、1回の治療には30万も40万も(場合によってはもっと)かかることも珍しくない。
確かに、何年か先には、きちんとしたエビデンスが出て、がん患者さんの福音となる可能性が「ゼロ」ではないのかもしれないが・・・
何人もの患者さんが同じような方法に取りつかれたが、残念ながら効果があったのを見たことがない。
Sさんは病気の進行に伴い、腹水、浮腫、胸水も出現、多発肝転移、多発肺転移も認められるようになり
状態悪化で緊急入院した。
利尿剤の投与やステロイドなどで一時的に状態は改善したが・・・
状態は厳しく、もはや残された時間は「日単位」と思われた。
熱心なご家族だったので、状態に関しては繰り返し説明を行ってはいたが、受け入れは極めて悪く、
なぜこんなに呼吸状態が悪くなっているか・・・
なぜ食事が食べられないのか・・・
なぜこんなにむくんでしまうのか・・・
なぜうとうとした状態が長く続くのか・・・・などなどなど・・・
そのたびに、それぞれが、がんの進行した状態の表れであることを、がぞうの結果なども示しながら
繰り返し繰り返し説明したが、あきらめきれない気持ちのほうが強く、
もっと点滴をしてほしい、痛みどめのせいで状態が悪くなっていると思うので、
痛みどめを減らしてほしい…などのご希望を伝えてきた。
医師に言うこともあれば、久々に面会に来たご家族が、変化に戸惑い、看護師に、「状態が悪化している、おかしいではないか!」などと
詰め寄ることもあり、対応に苦慮した。
いよいよ状態が悪化したころ、培養していた注射が出来上がり、4日後に外出したいとの希望があった。
とても外出は困難と思われたが、効果はきっとあると思うので、どうしても連れて行く…とのことだった。
「今までは、ご自宅にいたので、どのような【治療】を受けようが見て見ぬふりをしてきました。今の状況はその方法をとっても
状態が良くなるとはとても思えません。かえって移動することで状態を悪くするだけです。
治療日前にお別れになっていてもおかしくない状況ですよ!」
とお伝えしたが、ご家族の気持ちは変えられなかった。
当日・・・
Sさんの呼吸はもはや努力様であり、何とか着替えはしたが、さすがにご本人が無理だと悟り、外出は中止になった。
すると、娘さんが・・・
「向こうの先生が、もし病院が許可してくれるなら、これから自分が病院に行き、注射をしてくれると言っています。
許可していただけませんか・・・」とおっしゃった。
「申し訳ありませんが、お断りします。現在お母様は入院中です、院内で起こったことは病院に責任が生じます。
私は緩和ケア科の医師ではありますが、病院の責任者でもあります。
確認もできない、誰ともわからない人が病院に来て入院中の患者さんに、
なんの薬剤かもわからない注射をすることを許可できると思いますか?」
ふと・・・同じようなことが、以前もあったことを思い出した。
同じような治療で、やはり治療日前に入院となった。
その時はご本人から頼まれた。
「先生、最後の賭けと思い、大金をはたいで治療を選びました。
注射が出来ないと、全部金をどぶに捨てたことになってしまいます。
兄弟が、注射はもらってきます。無理をお願いしているのは十分承知です。
何があっても私の責任です。家族にも文句は言わせません。誓約書だって何でも書きます!
どうか入院中に、今回1回だけ、使わせてください!」
さて・・・・
このような場合、どうするのが正しいか?
「院内ではその様な行為は認めていません」と突っぱねるか・・・
「わかりました、今回だけというなら・・・」と自分では認めていない方法に手を貸すのか・・・
今回と全く同じ状況だ。
違うのは、本人の希望がもはや確認できないことだ。
ご家族は、単純に断れば「あの治療を行わなかったから具合が悪くなった」、「あの方法を使えば、もう少しいい状態になったのに」
「奇跡が起こったかもしれないのに…」などの思いが残り、
残された家族がず~~~っと長いことその事実にこだわり、患者さんとの別れを静かに受け止められなくなる可能性もある。
そればかりか、別れを受け入れられない感情が怒りに代わり、
その矛先が、「最後の望み」を受け入れなかった病院、医療スタッフに向けられる可能性だってあるのだ。
ご家族にもう一度お話しした。
「今はさらに状態が悪く、呼吸の状態も悪化、いつ急変してもおかしくない状態です。
なんとか奇跡がが起こらないか・・・と思う気持ちは十分理解します。私もそうであればいいと思います。ただ、現実を見つめ、
最悪の時の心の準備をしていただく時期になっています。認めるのはつらいと思いますが、人間が『亡くなっていく』時の姿なのです。
「なんでこうなっちゃってるんです?2週間前は話せたし、食事だって少し食べられてたんですよ!」
今まであまりお顔を見たことのない親戚?の方が詰め寄る。
「残念ですが、それが【がん】の恐ろしいところなのです。
少し前にできていたことが出来なくなっていく、食事が出来なくなる、自分で歩けなくなる、トイレに行けなくなる、
息もするのもつらくなる、話すこともできなくなる・・・一つ一つ、元気な時には何も考えなくても出来ていたことが、
努力をしても出来なくなっていく、体全体が衰弱していくのがこの病気なのです。
テレビドラマのシーンのように、
直前までお話が出来、普通に呼吸し、目を静かに閉じ、そのまま…というような状況は、実は現実ではかなり少ないのです」
多くのご家族からはここにきてようやく「しょうがないんですね・・・」との言葉も聞かれたが、
娘さんは「私が薬をもらってきます。先生が注射をしてくれるのならば、取りに来てくださいと言われているんです!
もう実験でもいいんです。それがこれから同じ病気の人のためになるなら私は母を実験台にします!」
ここまで来ると、対応はかなり難しい。
時間は夕方。
おそらくSさんはその日の夜を越せないだろうと判断した。
何をしようと同じなら、せめてご家族の気持ちだけでも考えて、わけもわからない療法の片棒を担ぐか・・・・
難しい選択を迫られた(続く)(平成25年6月9日)
追いつくのはいつなのか?
現在、日本緩和医療学会では「早期からの緩和ケア」がおおきな目標となっており、
さまざまな啓蒙活動も行われている。
自分も、地域での講演会などに呼ばれるときには。以前からこの点を必ずお願いしてきており、
鶴見区では、最大の基幹病院の済生会東部病院からの患者さんは、治療中から当院の緩和ケア科にご紹介いただき、
いわゆる「併診」が行われることも多く、良好な緩和ケアの導入が行われるケースも多い。
ただ、当院に紹介されてくる患者さんの数は、まさに激増しており、4年前の10倍以上にもなっており、
24年度は年間570人以上の患者さんとの新たな出会いがあった。
これに伴い、紹介していただく医療機関も多く、範囲も広くなったが、
まだまだ、徹底的に治療を行い(もちろん、そのような施設には緩和ケアチームがあったり、緩和ケア研修会を受講した医師が主治医となり、
適切な緩和ケアに関する薬剤の投与もおこなわれていることも多いが・・・)
まさに、ぎりぎりの状況で当院への転院を依頼されるケースが後を絶たない。
地域連携室には、各施設から患者さんの状況を伝える診療情報提供書が送られてくる。
最近はMSWのほかに、新たに入退院調整看護師(以前、基幹病院で入退院調整の実務経験がある)も配備し、
調整を行っており、自分も書類を確認する場合、残された時間が限られていることが予想される患者さんは、
「大至急」面談の設定を行うよう指示している。
患者さんの増加に伴い、緩和ケア科外来の単位も増やし、何とか月間50名以上を新規に受け付けてはいる。
さらに・・・
緩和ケア科の病棟は本来「緩和ケア病棟」であるが、ベッド数も少なく、すぐには対応できない。
ただし、当院は他の緩和ケア病棟と違い、一般病棟の他科のベッドを借りて、緩和ケア科が患者さんを受けることを行っている。
ほかの緩和ケア病棟の面談が「2ヶ月待ち」と言われました…などとの話も聞くが、どうにか書類が届いてから2週間以内には
対応できている(最近はまた徐々に長くなってきてしまっている・・・)
入院を急ぐ場合は、このことをご了解いただければ、できるだけ早い時期に調整して、
とりあえず一般病棟に転院していただくことが可能であることをお話しし、
実際、新規に面談後、数日で入院可能なケースも増えてきている。
このせいか、今までは「たどり着けなかった」患者さんの数は、やや減ったように思えるが、
今度は、当院に「たどり着けたものの、ごく短い期間しか関われない」患者さんが増えてきている。
基幹病院、超急性期の病院にとって、治療方法がなくなり、緩和ケア専門医師、専門病棟のない場合は、
当院のような施設に患者さんを紹介するのは、地域全体での各病院の役割分担からすれば、当然のことであり、
決してそのような病院が「つめたい」わけではないことは、患者さんやご家族に、初回の面談の時に必ずお話ししている。
ただ、入院時、状態の悪い患者さんを見るたびに、もっと早く当院に紹介してくれれば・・・と思うことが本当に多い。
やはり、患者さんやご家族も「緩和ケア科」に受診することは、「もう最後の時が近いから」と思う方も多く、
紹介する医師も「もう治療法がないので、緩和ケア施設に転院を・・・」ということになる。
まだまだ緩和ケアに対する認識は浸透しておらず、このようなギリギリでの転院はなくならない。
せめて、書類が届いてからできるだけ早く面談を設定し、できるだけ早く受け入れを行うことが必要なのだが、
現在、緩和ケア科外来には、外来看護師ではなく、必ず緩和ケア病棟の認定看護師が対応しており、
外来の診療単位を増やせない一因ともなっている。
4月からは緩和ケア科の医師が増員になる。
25年度の課題はより迅速な対応を行い、状態の悪い患者さんは、もっともっと、できるだけ早く転院していただけるよう調整することだが
受け入れる一般病棟の看護師、緩和ケア病棟看護師も、
ゆったり、おちついた時間を過ごしていただきたい・・・という願いが共通にあるにもかかわらず、
結果的に、あわただしく、係る時間も少ないまま退院される患者さんが多い・・・
自分も、もっと早く対応していたら・・・とか、こんなに早くお別れが来るなら、
今までの病院でそのままいていただいたほうがよかったのでは・・・
との思いがよぎることさえある。
どこまで頑張れば、需要に追い付き、追い越せるかは、とりあえずは自分たちがフル稼働するしかないのだが、
自分たちと同じような考えを持つ施設が一つでも増えてほしいと、いま真剣に思っている。(平成25年3月31日)
バージンロード
先日、Sさんがお別れの時を迎えた。
その前の日に、娘さんに、状況が厳しくなったこと、もうお別れの時が今日、明日であること、
残された時間を大切にしていただきたいことを説明した。
Sさんは結腸癌、肝転移で近隣の基幹病院から紹介されてきた。
初めて受診したころは、だいぶ痩せてはいたが、全身状態も比較的保たれていたので、
しばらく緩和ケア科の外来で定期的に通院し、経過観察をしていた。
しかし、食欲低下、黄疸の出現が見られるようになった。
その月末には娘さんが結婚式を挙げられる、とのことを初めてうかがった。
「ずっと出席するのは無理かもしれないけど、娘の結婚式ですから、顔だけは出したいと思っています」
そうおっしゃっていたが、腹水の増加、肝臓の腫瘍による肥大は進行し、出席はかなり厳しいと思ったが・・・
「何とか出席できるようにお手伝いしたいと思います」とお話しした。
式は、病院からそれほど遠くない場所だったし、休日だったので、最悪の場合は、点滴でも持って、式場に出かけようかとも思ったが、
体調はますます悪化し、式の2週間ほど前に入院になってしまった。
腹水を除去し、何とか状態を保つような治療を行い、さいわいにも少し体調も回復、
ご本人の希望もあり、式の少し前に退院することが出来た。
式まではあと数日・・・
それでも、おそらく式への出席は無理ではないか…正直、そう思っていた。
式の前日、当日、緊急の連絡はなかったので、無事に出席はできたのだろうか・・・・と気がかりだったが、その数日後、
Sさんのご家族から連絡があった。
食事も食べられず、意識も朦朧としている・・・とのことだった。
すぐに救急車で来院していただいた。
状況は明らかに悪化しており、残された時間はごくわずかであると判断された。
緊急の処置をした後、娘さんに「式は、どうだったんですか?」と、ずっと気になっていたことを尋ねてみた。
「初めは私も無理かな…と思っていたんですが、父は私とバージンロードをしっかり歩いてくれたんです!
そして、式の最後の時、車いすから立ち上がり、来賓の方たちに、しっかりした声で、あいさつもしてくれました」
信じられない思いだった。Sさんのどこにそんな体力が残っていたのか・・・
いや、体力というよりは、むしろ気力だったに違いない。
自分の状態が悪いことは当然、わかっていただろうから、本当に、最後の、最後の力を振り絞って、
娘さんの式が無事進むように、頑張っていたのだろう。
Sさんはどんな思いで、バージンロードを歩いたんだろう…そしてどんな言葉で、どんな思いで、最後の挨拶をしたんだろう・・・
これから娘さんを守ってくれるであろう結婚相手の男性に、どんな思いで娘さんの幸せを託したのだろう
再入院の数日後、Sさんは娘さんに見守られ、帰らぬ人になった。
Sさんが、娘さんとゆっくり、一歩ずつ歩いたバージンロードは、
きっと、娘さんが生まれてから今までの、いろいろな思い出がちりばめられ、
娘さんの成長してきた姿が、走馬灯のように浮かぶ、短くて、長い道のりだったのではないだろうか・・・(平成24年11月20日)
短いかかわりの中で
最近、平和病院の緩和ケア科に紹介されてくる患者さんの数が増えてくるにつれ、
診療情報のFAXは届いていても、患者さんの状態が悪化し、面談までに間に合わずキャンセルとなり、MSWから
「書類破棄をお願いします」というケースも目立つようになってきた。
さらに、ご家族との面談までこぎつけても(患者さんは状況が悪く、他院に入院中の場合も多い)、受け入れ時期を検討している間に
旅立たれる場合も多くなり、合わせれば、月に10名は超えてしまうようになってきた。
受診される患者さんやご家族の中には、ほかの緩和ケア提供施設に相談をされている場合もあり、
状況を聴くと、「まだ具合がよさそうなので、もう少し体調が悪くなったら改めて連絡してください」と言われたり、
「面談は今のところ2~3か月待ちです」というところもある。
縁がなかった・・と割り切ってしまえばいいのかもしれないが、「がん難民をゼロにする」と大見栄を切っているので、
何とかしなければ…という気持ちは強い。
当院の緩和ケア科外来は、相談だけではなく、実際の外来診療も行うので、むしろ、治療途中、「がん」と診断のついた時点での、
状態の良いうちから関わらせてもらいたいと思っており(本来の緩和ケアは、そのようにかかわるものとされている)、
実際、入退院を繰り返しながら2年近くも関わらせていただいている患者さんもいる。
確かに、「がん治療病院」では治療を待っている患者さんも多く、
すでに積極的な治療の適応が無くなってしまった患者さんのためにはベッドを使うことが困難な事情がある。
これは地域あるいは医療圏の中で、それぞれが果たす病院の機能が分かれているためで、
決してその病院が「冷たい」わけでもなんでもなく、
平和病院でも一般病棟では、治療が終了しても、療養目的で入院を継続する患者さんが増えてしまえば
(療養病棟は別として)病院そのものの機能がマヒしかねない。
自分たちが、緩和ケアを必要とする患者さんを積極的に受け入れることで、ひいては新たに治療を必要とする患者さんが、
「がん治療病院」での治療を早めることもできると思っている。
この10月から緩和ケア科の外来日を増やしたのも、平和病院に「たどりつけない」患者さんをできるだけ減らすことが目標だ。
「診療情報の提供を受けたら、必ず2週間以内に対応をする」ことを、当面の目標にしているが・・・(今では1か月を超えるようになってしまった)
その分、当然初回相談の人数も増える。
これも、常勤医師が増えたためで、午後も外来を開く月曜日は7~8人の面談(通常外来以外に)が予定されている。
今までは最高でも月に40~45名の新規患者さんの受け入れが限界だったが、
今月は、おそらく70名は受け入れることが出来る。
MSWに確認したが、外来枠を増やして予定をどんどん繰り上げているので、かなりの待機期間の短縮につながっているようだ。
今では紹介元施設からの情報、依頼をいただいてから2週間を確実に切るようになってきた。
ただ・・・
今までは「たどり着けなかった」患者さんが、転院してくる場合、かなり状態が悪い中での転院も増えてきてしまっている。
今までは、おそらくこのような患者さんのうちの何人かは、紹介元の施設でそのまま最期の時を迎えていたのだろうが・・・・
自分たちがかかわれる時間が「日単位」のケースも増えてしまう。
もちろん、患者さんや、ご家族は、当院への転院を希望されてきたので、短い期間であっても、
「この病院にたどり着けてよかったです・・・」といってくださる方も多いが、
スタッフの中には、1回も関われなかったものも出てくる場合もあり、なかなかお話しできる時間が取れず、
あわただしく退院される方も多くなっている。
対応する自分たちも、入院直後から、ご家族に対しては、これからの患者さんの病状変化の説明、
厳しい状況、万が一の場合の心の準備など・・・短期間に話さなければいけないことも増え、また、夜間の緊急の呼び出しも当然増えている。
今では加藤医師と、シェアしている分、対応する日数は半分になったが、患者さんの数が増えている分、単純に半分というわけではない!
ケアするスタッフも、患者さんの人数が増えた忙しさというよりも、かかわりが短い中でいかに質の高いケアを維持できるのか・・・
ストレスを感じているケースもあると思われ、申し訳ないとは思っている。
確かに数日しか当院に入れないなら、それまでの施設でそのまま入院していたほうが…という考えもある。
だからこそ、以前から紹介元には、「できるだけ早い時期から関わらせていただきたい」とお願いはしている。
このため、当院の場合は入院前に、ある程度の期間、外来で通院している患者さんも多く、
ぎりぎりまで在宅で過ごし、最後の場面で入院するケースも多いので、
このような患者さんは、入院期間が短くても、それなりの意義はあると思うし、
近い将来には自分の在宅緩和ケア機能も復活させる予定なので、
病院の比較的近くにお住いの患者さんの中には、最後まで自分がかかわり、在宅で過ごしていただける方も増やせるとは思っている。
いずれにしても、外来対応を増やしたのが今月からなので、今後、どのようになるのかの評価には、あと数か月かかると思われ、
今後の当院の緩和ケア科の運用方針もかわってくるだろう。
たとえ、かかわれる日が1日であっても、全力でお世話をさせていただきたいし、他のスタッフも、そう思っている。
短いかかわりであっても、当院の対応を評価していただけるよう、今まで以上に気は抜けない。(平成24年10月26日)
僕は癌をなおしたいから!
Mさんは卵巣がんの進行した状態で紹介されてきた。
積極的な治療は困難と判断されており、今後起こりうる症状の緩和を依頼された。
ご本人も病状はよく理解されていたが、いわゆる「民間療法」をいくつか試していた。
イチジクの葉のエキスの湿布とか・・・
基本的には「免疫力を高める」ため、と言われて治療を受けていた。
多くの患者さんや、ご家族に接していく中で、このようなエビデンスの確認されていない治療法に頼るケースがみられる。
「藁をもつかむ」思いでたどり着いたものなので、あまりにひどいものや、驚くほど高額なもの以外、
緩和治療の妨げにならない限りは、本人や、ご家族の意思を尊重しようとは思うが、
インターネットの時代、「がんが治る」と、謳っている治療法は多く見られ、追い詰められている患者さんや、ご家族にとって、魅力的な言葉が並んでいる。
「信じる気持ち」が病気と闘ううえでのブースター効果をもたらすこともあるとは思うが、
残念ながら、「癌が消えた!」ケースは見たことがない。
Mさんは、痛みが出現してきており、徐々に増強して来ていた。
通常の消炎鎮痛剤では抑えられなくなっており、医療用のモルヒネの使用が必要になっていたが・・・
とりあえず、頓服の処方をしても、次回の外来の時にも、痛みを我慢しており、出された薬をのんでいないとのことだった。
「けっこう痛いけれど、まだ我慢が出来そうなので・・・」
「でも、痛いんでしょう? 痛みを我慢しても、いいことは一つもありませんよ。痛みが取れれば、それだけ生活の質も上がるし、
だいいち、痛ければごはんも食べられないだろうし、眠りも浅くなるし、悪いことだって考えてしまうでしょう?」
「そうは思いますが・・・、今治療を受けている(民間療法の)先生が、モルヒネは飲まないでくださいって言うので・・・」
一瞬、耳を疑った。
「えっ?その先生がモルヒネは使わないようにというんですか?」
「そうです。モルヒネを使うと免疫力が落ちて、病気の進行が早くなるって・・・」
こうなると、明らかにその「治療」はMさんのためになっているようには思えない。
「その先生が言うには、僕は癌をなおしたいから、ほかの薬は絶対やめてほしいって・・・」
この医者?はMさんの痛みを我慢させて【治療】を続けるつもりらしい。
Mさんの状態は徐々に悪化してきていることは明らかで、在宅療養もギリギリの状況になりつつある。
状態が悪化して入院が必要になった場合も、その医者が受け入れるわけではなく、最後までMさんの治療、ケアを行うわけでもない。
Mさんが来院しなくなったらそれでおしまい・・・
責任をとることもないし、苦痛を感じる姿を見ることもないし、もちろん、お看取りに付き合うわけでもない。
いつもは、なるべく穏やかな口調で話すようにしてはいるが、さすがにこのときは、少し声が大きくなった。
「Mさん、痛みを感じている人は、免疫力だって落ちますよ!、その先生の【治療】は、はっきり言ってあまりお勧めはできません。
治療はともかく、痛みはとるべきです。医療用のモルヒネは、治療中からでもたくさんの人が使用しています。
決して治療の妨げになるものではありません」
Mさんに怒っているわけではないが、わけのわからないことを言って患者さんの苦痛には無関心な医師(なんだろうな)に対して
猛烈に腹が立った。
「痛みどめは飲んでください!もし、どうしてもその医者が飲むのをやめろというなら、今度私が直接その医者と話をしますから」
Mさんは「わかりました」と言って帰ったが・・・・
はたしてきちんと薬を使ってくれているだろうか?
もうすぐMさんの外来予約日がやってくる。(平成24年8月3日)
あと何時間?
Bさんは肝硬変の診断を受け、他院で経過観察されていたが、肝臓がんが見つかり、腹水も貯留し、積極的な治療が困難とのことで
緩和ケア科に紹介されてきた。
ご高齢の母親が、病室に毎日毎日顔を見せ、面会時間の初めから、終わるまで、かなりの時間を、一緒に過ごしていた。
腹水は、利尿剤ではコントロールできず、時におなかの中にチューブを留置し、腹水を除去しなくてはならず、
CARTといって、抜いた腹水を特殊なフィルターでろ過し、栄養分不だけを点滴で体に戻す治療もおこなわれた。
はじめのころは、状態もよく、病棟内を歩行でき、痛みもなく、食欲も保たれていたが、
病状は徐々に悪化し、呼吸困難が増強した。
一般病棟から緩和ケア病棟に転棟の日、母親に病状が厳しいことを伝えた。
「今後は急激に状態が悪くなると思います。毎日おそばにいていただき、息子さんもとても安心しているようですが・・・
残念ながら、一緒にいられる時間は、もう長くないと思われます」
その後も、母親は献身的にBさんに寄り添い、一緒の時を過ごしていたが・・・
Bさんの呼吸状態は急激に悪化し、意識のレベルも落ちてきた。
医療用のモルヒネの持続投与により、痛みを訴えることはなかったが、
ついには会話もすることもできなくなり、呼吸も荒くなってきた。
母親は、手を握りながら、背中を丸め、時には涙を流しながら寄り添っていた、
もともと小さな体が、ずっとし小さくなっているようにも思えた。
もう、残された時間は「日単位」と思われたため、再度母親に別室に来たいただき、病状説明を行った。
「残念ですが、もう今日にもお別れの時が来ると思います。万が一の時の覚悟をしていただきたいと思います・・・」
「先生、あと何時間ですか?」
しばらく黙ったままうつむいていた母親が、急に口を開いた。目には涙をためていた。
「正確に何時間とはお伝えできません。ただ、今日が山ということは間違いないと思います」
「それはわかります。でも先生の経験から見て、大体何時間なんでしょう?あと何時間、あの子はあんな状態でいなければならないんでしょう?」
「最後の時が近づくとき、呼吸の状態は、つらそうに見えることも多く、ご家族にとって、見ているのはおつらいと思います。
ただ、苦しさは、薬で十分コントロールされていると思われ、意識も朦朧としているので、見た目より、ご本人はつらさを感じていないことがほとんどといわれています」
しばらくの沈黙の後、母親がまた言った。
「でも…先生、教えてください。あと何時間なんですか…はっきり言ってください」
「先ほども言いましたが、ご本人の生命力もあり、正確に何時間とお伝えすることはできないんです。ただ、明日の朝を迎えることはまず困難です。
「先生、もし先生の予想が外れても、先生を恨んだりはしません。だから・・・・あと何時間か教えてください」
その時の時間は昼少し過ぎだった。
ご家族に、残された時間について告知するとき、よほど状況が悪い場合は、「もうすぐ・・・」とかいう場合もあるが、
「何時間」と、告げることはまずない。
「いつ呼吸が止まってもおかしくない」「今日がやま」「その日その日が勝負」など、その時によって言い方は違っても、ある程度の余裕をもって告げることがほとんどだ。
「ごめんなさい、でも本当に何時間とお伝えすることは難しいんです。ただ、おそらく夕方ころにはお別れかと・・・」
夕方までにはあと5時間くらいあった・・・。結局「時間」では最後まで伝えることはできなかった。
「そんなに長く・・・・そんなに長くあの子は今のように苦しそうな息をしなくちゃいけないんでしょうか?」
どれくらいの時間を言えばよかったのか?
短かめの時間、例えば、あと1時間とか、2~3時間とか・・・を告げれば、安心でときたのだろうか? 母親のつらい思いは和らいだのか?
頭の中でいろいろ考えたが・・・もう言い直すこともできなかった。
結局、その日の夕方、Bさんは旅立った。
葬儀屋さんが到着するまでの間、母親と話した。
「先生、あの子は苦しくなかったですよね」
「つらい症状はきちんと、感じないようにできていました。お姿は,つらそうだったので、お母さんもご心配されたと思いますが、
大丈夫だったと思います」
「そうですか・・・」
そういって、またすぐ・・
「先生、苦しくなかったですよね?」と、聞いてきた。
「はい」
その後も、何度も何度も何度も・・・同じ質問が繰り返された。
葬儀屋さんが到着し、車にご遺体が乗せられるときも・・・
「先生、あの子は苦しまなかったですよね・・・・」
ご本人も一緒に車に乗り込む直前まで、質問は繰り返された。
比較的若い患者さんが亡くなるとき、親がその姿を見なくてはならないことも多い。
自分の子供が自分より先にいなくなってしまうつらさは、親を亡くしたり、配偶者を亡くしたりするのと、また少し違った思いがあると思われる。
「出来ることなら代わってやりたい」
皆さんが、いい方は違っても同じような思いを口にされる。
子供に先立たれる親の姿を見るたび、親より先には絶対に死ねない・・と思う。(平成24年7月16日)
ちりとてちん
食道癌、肺転移のAさんが基幹病院から紹介され転院したのは12月になってからだった。
食道の狭窄は進んでおり、さらには腹部のリンパ腺の腫大により、胃の出口も狭くなっており、ステントの挿入なども困難な状況だった。
水を飲んでも、はいてしまう様な状況であったが、腫瘍部分のむくみを改善する作用のある薬剤の投与が効いたのか・・・
入院後は水分や、ゼリー状のものが食べられるようになり、Aさんも、ご家族も喜んだ。
しばらくして一般病棟から緩和ケア病棟に転棟し、年末年始には外泊も可能になったが・・・
状態は徐々に悪化した。そんなある日、看護師が、「Aさんが先生に大事な話しがあるといっています」と、言ってきた
Aさんの部屋を訪れ、「Aさん・・・お話しがあるって聞きましたが・・・どんなことですか?」と話すと、
「先生、私は昔から落語を聞くのが大好きでね、入院してからも、眠れないときなんか、落語のCDをかけて聞いていると、
不思議に楽しい気分になって、そのまま眠れるんです。だから・・・
自分にいよいよお迎えが来た時にも、そんなふうに落語が聞こえる中で、静かにあっちに行きたいと思ってるんです。
特に誰だったかな・・・・」そのときには、Aさんは少し、朦朧としていることが多くなっていたので、すぐ落語家の名前が出てこなかった。
「特に好きなのが、『ちりとてちん』・・・ってやつでね。ちゃんと持ってきてあるCDにも入っているんです。先生、お願いしますね」
Aさんが落語好きというのはこのとき初めて知ったが・・・
「わかりました」と、答えた。
その日に奥様と話したときには「やっぱりそうですか・・・ちゃんとCDの場所はわかっていますから・・・」との事だった。
自分は落語には詳しくないので、Aさんの言う「ちりとてちん」がどんな内容なのかは全くわからなかった。
それから数日後、Aさんの意識はほとんどなくなり、呼吸の状態も悪化していった。
もうすぐお迎えが来ると思われたとき、病室に入ると、多くのご家族がベッドサイドに付き添われ、
落語のCDがちゃんと流れていた。
ああ、Aさんの望んだとおりだな・・・そう思いながら、
聞くとは無しに、話の内容を聞いたが、どうも墓参りの話のようで・・・誰かが墓に案内されているが、案内人がとんちんかんで
性別が違ったり、子どもの墓だったりして・・・というような内容だったと思う。
そんな話しが終わり、「お後がよろしいようで・・・・」
送り囃子の三味線やたいこの音が終わったとき、ちょうどAさんの呼吸も止まった。
お囃子に送られたような最期だった。
Aさんはご自分が望んでいたように、楽しい気持ちで旅立てたんだろうか・・・・
そんな気がしていた。
家に帰り、Aさんが言っていた「ちりとてちん」が、どんな話なのか、聞きたくなり、ネットで調べると、実演の動画があった。
ただ・・・・その「ちりとてちん」を聞いてみて・・・・愕然とした!
違う!!
あの時にかかっていた話は、こんな話しじゃない!
「ちりとてちん」のあらすじは・・・
ある旦那の誕生祝に近所に住む男が尋ねてくる。
白菊、鯛の刺身、茶碗蒸し、白飯に至るまで、出された食事をよろこんで食べ、
「初めて食べる」、「初物を食べると寿命が延びる」などとおべんちゃらを言い、旦那を喜ばせる。
話は、裏に住む竹と言う男の話になり、
いつも食事時に訪ねてきては、飲み食いしていくくせに、知ったかぶりをして、いろいろ文句を言っていく竹を懲らしめてやろうと、
豆腐の腐ったものにわさびや梅干を混ぜ、長崎名物ということで食べさせる話で、
その食べ物の名前を考えている時、家の娘の三味線の音が「ちりとてちん」と聞こえてきたので、
そのまま名前にしてしまう。竹を呼び寄せ食わせてみると、一口でもだえ苦しむ。
それを見た旦那が「どんな味や?」と聞くと、
「ちょうど腐った豆腐のようなお味で・・・」というものだった。
確かに最期のベッドサイドで自分が聞いた噺とは、どう聞いても違うようだった。
Aさんが、わざわざ、自分に、最後の時の過ごし方を頼んだのに・・・
自分はてっきり、かかっている落語が「ちりとてちん」だとばかり思っていた。
Aさんに頼まれた時に「ちりとてちん」がどんな話で、どのCDに入っているのかを確認しなかったことが、猛烈にくやまれた。
夜、布団に入っても、そのことがずう~~~っと気になり、なかなか寝付けなかった。
翌日の朝になっても、申し訳ない思いがいっぱいで、気が晴れず・・・重い気持ちで出勤した。
朝の病棟カンファレンスが終わったとき、きっと立て込んでいるとは思ったが、いてもたってもいられずに
Aさんのご自宅に電話をかけた。
奥様がちょうど電話に出てくださったので、事情を話した。
「実は、昨日のお別れのときにかかっていた落語のことなんですが・・・実は私、Aさんに頼まれて、『ちりとてちん』を聞きたいとおっしゃっていて・・・
家に帰って調べたら、どうも、あの時の落語が、その噺じゃなかったみたいで。
本当に申し訳ないことをして・・・Aさんの思いをかなえてあげられず・・・
それで・・・どうしても、一言お詫びがしたくて・・・お忙しいとは思ったんですが、お電話してしまいました。」
すると、奥様は、
「先生、大丈夫なんです、『ちりとてちん』というのは上方落語で、
主人が好きだったのは『酢豆腐』のほうで、先生にお話ししたあの時は、主人は少しわからなくなっていたんです。
ちゃんと私がわかっていましたから、その落語は聞かせていましたから・・・大丈夫なんです。
ご心配は要りません。わざわざ、ありがとうございます。
皆さんには本当にお世話になって、主人は幸せでした・・・」といってくださった。
なんだか少しほっとしたら、情けないことに涙が出てきたが、周りにはスタッフが大勢いるので、気付かれないように話した・・・
でも・・・もしかしたら、奥様は、私に気を使って、かばってくださったのかもしれない・・・とも思ったし、、今でも思っている。
Aさんは安らかな顔で、お気に入りだったピンクのセーターを着て退院していった。
何人もの患者さんの最期の時にお付き合いするが・・・
どんな風に最期の時を迎えたいと、具体的にお話しされるケースはあまり多くはない。
今でもやはり引っかかるものがあるが・・・奥様のおっしゃったことが本当であり、もし、そうでないなら、
Aさんが天国で落語を聞きながら自分のことを許してくれることを願ってやまない。(平成24年1月27日)
あと少しだったのに・・・
胃癌のSさんが、近くの基幹病院から紹介されてきた。
積極的な治療は困難な状態で、緩和ケアの提供目的の紹介だった。
初めて受診された時は、まだまだお元気で、しばらくは外来通院で経過観察していたが、
徐々に食欲がなくなり、ある日、臨時受診し、そのまま入院となった。
Sさんのご主人は何年か前にやはり癌で他界されており、Sさんに兄弟はなく、お子さんもいなかった。
義理の親族の方が一人いるようだったが、いろいろな事情で長い間音信不通で、連絡先も不明だった。
もしもの時には誰も引き取っていただける人もいない可能性があり、MSWは行政との調整も行い、
体制を整えているうちにも、状態はどんどん悪化していった。
一般病棟から緩和ケア病棟に移った後も、しばらくは売店まで買い物に出かけ、いろいろと食料、お菓子などを調達していたが、
そんなものも徐々に食べられなくなっていた。
ご本人も、もしもの時のために、いろいろと整理をしておきたいとの希望もあり、
「遺言」を残す手続きのため、行政書士の手配も出来たが、面談の予定日がかなり先になり、
間にあわない可能性が高くなったため、MSWが何とか予定を早めてもらい、ある日の午後6時半に立会いの下、書類が作成されることになったが・・・
その日の朝には、意識の状態も悪くなり、書類が作成されるかどうか、自分で意思表示が出来るかどうかは微妙な状態になった。
「Sさん、今日の夕方、行政書士さんが来るから、6時半までは頑張ってね!」
と、声をかけたが、目を開け、手を動かすのが精一杯な状態になっていた。
意思表示は署名が出来なくても、しっかりとうなづいたり、手で合図できたり、瞬きでの意思表示でも可能との事だったが・・・
その日の6時半、行政書士さんが病室に来院し、Sさんの意思をすべて盛り込んだ文書を読み上げている間に、
Sさんの脈は急に乱れ始め、呼吸状態も悪くなった。
法律上はすべての文書を読み上げ、最後に意思確認をしなくてはいけないのはわかるが・・・
周囲にいたスタッフ全員が、「はやく・・・もっと急いで!!」との想いだったようだ。
結局・・・
残念ながら、Sさんは自分の意思を明確に表示することが出来ず・・・
行政書士さんはそのまま病院を去っていった。
死亡確認は7時少し過ぎ・・・
朝、Sさんに6時半まで頑張ってね!といったことを思い出し・・・
7時といえばよかったか・・・と、思った。
もちろんそんなことを言っても、変わらなかっただろうが。
緩和ケア病棟では「自然のままに」最期を迎えていただくので、血圧を上げたりする薬は、
いよいよ状態が悪くなったりしたときにも使わないが・・・
Sさんの場合は、いわゆる「延命処置」を朝からするべきだったか・・・・とも思ってしまった。
一人ぼっちのSさんは親族を探し出し、その方が了解するまで何処かで安置されることになる。
通常は亡くなってたあとは、それほど時間をおかず、葬儀会社の人に迎えに来てもらうのだが・・・
スタッフから、「翌朝、できるだけたくさんのスタッフでお見送りをしてあげたい」との意見が出た。
夜は夜勤のスタッフと自分だけの2~3人でのおみおくりになってしまう。
自分ではそこまで気が回らなかったので、そんな意見が出たのはうれしかったし、ぜひそうしてあげたいとも思ったので、
綺麗に体を整え、化粧をし、冷房をがんがんにして朝を待った。
翌朝、Sさんのお顔は、きれいに整えられ、笑っているような表情でベッドに横になっていた。
キャラメルか何かの包装紙で、Sさんが作っていた折鶴と、花束と、Sさんの持ち物の中に入っていた四葉のクローバーの押し花が
頭の横に並べられていた。
9時少し前、葬儀屋さんが病棟に上がってきた。
夜勤、日勤の看護スタッフだけでなく、モーニングカンファレンスのあとだったので、薬剤師や栄養士などのスタッフも大勢でSさんを見送った。
親戚の人は一人もいなかったが、少しでも寂しい思いをしないようにとの、スタッフの気持ちが届いてくれたら・・・
そう願いながら、、走り去る車に頭を下げた。(平成23年9月16日)
手を振って
先日Sさんのご家族からお手紙をいただいた。
肝臓癌の進行した状態で、しばらく当院に入院し、その後、他院の緩和ケア病棟に転院していった方だ。
平和病院から転院した時は、まだまだお元気で、食事も食べ、ご高齢の割にはしっかりと会話も可能だった。
転院の当日、介護タクシーが病院正面に止まっていた。
緩和ケア科では、ほとんどの患者さんが、亡くなって退院する。裏口に車が停められ、走っていく車に深く頭を下げる。
Sさんが部屋を出たとの連絡をもらったので、エレベーターの前で待っていた。
一緒に車まで付き添い、手を握り、「元気でね!」と声をかけた。
Sさんは笑顔で「お世話になりました」と答え、車に乗り込んだ。
今は緩和ケア病棟に勤務している看護師も一緒に見送った。
車が走り出す。後ろのカーテンが開いており、Sさんの姿が見えた。
Sさんは体を起こし、見送る自分達に手を振った。
自分達も、Sさんがよく見えるように大きく手をふった。
車が見えなくなるまで、Sさんはず~~~っと手を振ってくれていたので、自分たちもず~~~っと手を振り続けた。
無理なのはわかっていても、ずっと元気でいてほしいと思った。
しばらくたって、Sさんの娘さんからお手紙をいただいた。
連休明けに、一度在宅復帰も勧められているとの事だった。
まだお元気だったことにほっとした。
Sさんの転院した病院は、もうすぐ緩和ケア研修会を開催し、自分はそのお手伝いに行くことになっていたので、
そのときに、出来たらお見舞いにでも・・・と思っていたが・・・
2回目にいただいた手紙には優しく微笑むSさんの遺影の写真が添えられていた。
「二つの病院で終末期をともに生き、感謝しえたのは、緩和ケアを選択した実りだったと思います」
と書いてくださった。
ただ、今度・・・しよう、は通用しないことを痛感した。
あの時、すぐSさんの病院にお見舞いにいっていれば・・・またお話しもできただろうに・・・
昨日、Aさんが退院した。
東京に住むお孫さんのところで在宅療養していた患者さんだったが、状態の悪化で数日前、緊急入院になった。
全身状態は極めて悪く、黄疸も著明で、残された時間は「日単位」の状況と思われた。
お孫さんは献身的に看護をされており、ご本人も在宅復帰を強く希望された。
地元ではサポートの体制が整っており、
ご家族に状況を説明した。
このまま入院していても、残された時間は非常に限られている。
すべて、覚悟の上で、ご自宅に帰るのも一つの選択肢であると。
ご家族は話し合った末、在宅復帰を決断された。
Aさんはご自宅の車で退院していった。
退院の朝、「Aさん!ご自宅に帰れますね!」と、言い、手を握ると、朦朧とした意識にもかかわらず、にっこり笑い、手を握り返した。
退院は炎天下、2時間以上のドライブになる。
最悪の場合、車で状況が悪化することも考えられたが・・・
それでもAさんは、ご自宅に帰っていった。
AさんはSさんのように手を振ることも出来なかったが、それでも笑って退院していった。
今も、緩和ケア病棟に、ご家族、、患者さんが在宅復帰を希望している患者さんがいる。
何とか希望をかなえてあげたいが、状況は厳しい。
決して治る事のない患者さんたちの退院。
それでも、患者さん、ご家族の希望、それぞれの想いに出来るだけ添えるように、手を振って見送る退院が増えれば・・・・と思う。
(平成23年7月3日)
幸福
最近、緩和ケア科で多くの患者さんを診察する中で、自分の最期の時を「予知」する人がいるのを感じている。
もっとも、患者さんたちは、当然、最期の時が近づけば状態は悪くなるし、
尋常ではないことを、体で、心で感じているだろうから、「死」の瞬間が間際になれば、
弱気な発言が出ても、当然といえば当然なのだろうが・・・
「もう、お別れです」とか、
「明日が最期のような気がします」などと言った翌日、言葉どおりに亡くなられることもあるし、
ご家族に、「今までありがとう」と、感謝の言葉を残し、すぐに亡くなられる方もいる。
Aさんは末期の肺癌だったが、告知されないまま、紹介されてきた。
もともと肺気腫があったので、紹介もとの先生は、
「平和病院には在宅酸素に詳しい先生がいるので受診したらどうか」、との「無茶振り!?」で紹介されたため、
初めて受診した時は、Aさんはひたすら私に器械の説明を求めた。
流量の調整のやり方だとか、何リットルに調整したらいいのかとか・・・
どうしたものかと思ったが、
とりあえず器械に関しての説明はしたが、「やはりこれはいかん!」、と思い、基幹病院と平和病院の地域での役割の違いとか、
緊急時の対応などについてお話し、その後、外来通院を継続していた。
多分Aさんは、私が「緩和ケア科」の診察をしていたとは思っていなかったと思う。
しばらくは病状は安定していたが、呼吸状態はだんだん悪化し、
一時は肺炎を併発し、厳しい状態になったが、入院後の治療で立ち直り、また在宅に復帰した。
その後も病状は進行し、ある日の夜、急に呼吸困難となり、救急車で入院した。
意識レベルも低下し、そのまま回復は困難と思われたが、翌日には意識状態が改善し、ご家族との会話も可能になった。
ただ、その次の日には、ふたたび状態は悪化し、数日後、多くのご家族の見守る中で亡くなられた。
何日かたって、Aさんの息子さんが自分を訪ねてきてくださった。
救急車で運ばれた夜、トイレに行きたいといったAさんを、なんとか支えていったが、そのトイレで急に具合が悪くなったようで、
息子さんは、トイレに連れて行った自分の行為が、Aさんの具合を悪くしたのでは・・・と思っているようだった。
急激に具合が悪くなったのも、もともとの疾患の悪化のせいで、
息子さんは、Aさんの希望をかなえてあげたのだから、決して後悔する必要はないことを伝えた。
息子さんは「先生からそういっていただいて、やっと、ほっとしました」と、言ってくださった。
「親父の葬式には、自分が想像していたより多くの人が参列してくださった。ずっと公務員をしており、なにごとにも几帳面だった。
決してかっこいい父親ではなかったが、今、自分が一番尊敬しているのは親父だし、
自分も子供達にとって、親父のようになりたいと思う」ともおっしゃった。
それをきいて、自分も息子を持つ父親として、息子に、こんなふうに言ってもらえるAさんをうらやましく思った。
自分の息子が、自分がいなくなったときに、こんなことを思ってくれるか・・・ちょっと自信がない。
「いままでかかった他の先生達は、親父に話すのではなく、付き添っていた自分達に、
『お父さんの具合はどうですか?』などときいてはくれたが、
親父にとってはそれが不満だったようでした。でも先生はいつも直接親父に話してくれていたので、
親父は先生のことを信頼していたようでした」、とも言ってくださった。
しばらくお話した後、息子さんが、「実は先生にお伝えしたいことがあって・・・」と話を続けた。
息子さんがAさんの遺品を整理してみると、驚くほどいろいろな収集品があった。どれもきちんと整理されていたが、
そんなAさんは、自分で手書きの「カレンダー」も作っていたらしく、その中にご自分の予定を書き込んでいたようだった。
今年のカレンダーで、ちょうど亡くなられた日の予定欄に、「午前11時:幸福」と書いてあったのを見つけたらしい。
状態が悪くなってからは、カレンダーに書き込むことなど出来なかったので、いつ、それが書き込まれたかはわからないが・・・
実際に亡くなったのは、Aさんが書き込んだ時間とたった30分違いだった。
Aさんが書いた「幸福」の意味は何だったのか・・・今となっては知ることも出来ないし、
書いた時には、その日にご自分が亡くなられることを予期して書いたわけではないのだろうが・・・
ご自分の予定していたように、Aさんが「幸福」に最期の時を迎えることが出来た、と、感じてくださったことを願っている。
(平成23年4月10日)
涙
緩和ケアを求めて平和病院を利用される患者さんは、増加の一途をたどっている。
一昨年度の年間紹介患者さんが51名であったのに対し、昨年度は141名だった。
今年度は、すでに260名を超えている。
なんと、一昨年の5倍以上の患者さんが紹介されてきている。
平和病院のかかわりが、それなりに評価されてきているのか、他の施設では受け入れを行わないのか、
近隣の基幹病院だけではなく、横浜市外、県外からも患者さんは紹介されてくるようになっている。
常に心がけてきたのは、「がん難民」を出来るだけ救うための迅速な対応だったが、
これだけの人数人になると、さすがに紹介患者さんに対して、初回の対応が徐々に遅れる傾向にある。
緩和ケア科の外来は一人の患者さんに30分はかかるし、相談外来は45分の時間をとっている。
もちろん、入院患者さんの回診、指示、処置、スタッフとのカンファレンスにも時間をとらねばならず、
「紹介状が届いてから必ず2週間以内に対応する」と、自分で決めたタイムリミットが守れなくなってきた。
対応の遅れは、待機中に紹介元の施設で患者さんが亡くなったり
(長く治療した施設で、ずっと関わってくれたスタッフのもとで、そのまま最期を迎えるのは、それなりに意味があるとは思っているが・・)
入院してきた時には、すでに関わる時間が「日単位」の状況になってしまっていたりする。
MSWは毎日、新たな紹介状の束を抱えて自分を探し回る状況になっている。
さいわい、外科の若い医師が「兼務」で緩和ケア科を手伝ってくれるし、
新たに仲間に加わった認定看護師や臨床心理士も、患者さん、ご家族に対応してくれているので、大きな戦力になっている。
それでも午前中はほとんど外来で時間がとられるので、病室を回るのは朝早くか、夕方近くになってしまう。
4月になれば、自分が緩和ケア科の「専従」になるので、水曜日、土曜日の外科外来を担当しなくなる分、
今より少しは時間が取れるようになる(と思う)が、
それまでは、当直明けの日曜の午前中が今のところ、じっくり入院患者さんと時間をかけてお話ができる時間だ。
今日も、当直明けだった。
夜間は、救急患者さんも来院せず、静かな夜を過ごせたが、
彼岸のこともあり、午後からは父親の墓参りに行く予定だったので、朝の7時過ぎから病室を回った。
「ここに来てからすっかり痛みもとれ、走って家に帰れそうです!」といってくださる患者さんもいる。
残された時間がほとんどないと思っていた患者さんが、状態を維持し、「外泊」に出かけていたりする。
ただ、残念ながら、そんな患者さんばかりではない。
Kさんは大腸癌の術後で、転移がおなか中に広がり、腸閉塞状態だった。
転院してからの治療により、痛みはとれ、全身状態も改善し、娘さんと点滴台を押しながら、廊下を歩く姿も見られるようになったが・・・
その日、個室の部屋に入ると、Kさんが涙を流していた。
自分に顔を見られると、少しばつの悪そうな顔になった。
「涙・・・出てしまったんですね」
「痛みも取れて、具合はいいのに、やっぱり病気のことを考えると、これからどうなっちゃうんだろうって・・・」
「心配なんですね・・・」
「もう、助からないって、わかってはいるんですけど」
「病気のことをすべてわかっていても、落ち着いた気持ちを維持できて過ごせる人は、なかなかいないんじゃないでしょうか」
「先生の前で涙なんか見せちゃって」
「いいじゃないですか。泣いて、涙を流して、気持ちを話したら、ほんの少しだけでも楽になるかもしれませんよ。今日は日曜だし、
少しお話ししましょうか・・・」
しばらくKさんと話していたが、やはり、自分達が扱うのは「体の」痛みだけではない!という、「緩和ケア概論」にでてくる
「全人的苦痛」をあらためて考えさせられた。
臨床心理士が、少しのかかわりの中で、自分達の気付かなかった思いを表出させるのを見ると、さすがに「プロ」だな・・・
と、感心させられることがある。
患者さんの流す「涙」は、「薬」の調整では解決できないものであり、時には涙を前にして自分の「無力さ」を痛切に感じさせられる。
Kさんとしばらくお話した後、隣のIさんの病室を訪ねた。
IさんもKさん同様、癌は腹膜全体に撒き散らされていた。
「喉が渇いて、水を飲むんですが、そのたびに胃の辺りが痛くなって、思うように飲めないんです。それがつらくて・・・」
そういった途端、Iさんの両方の目から、いきなり涙が流れた。
Iさんは体を動かすのもしんどくなってきており、あわててティッシュを取り、涙を拭いてあげたが・・・
涙は止まらず、後から後から流れてきた。
看護師の記録には、前の日、奥様と「癌が憎い!」と、話されていたようだった。
何も話すことが出来ず、しばらくそばに座り、手をとっていた。
何を言っても、そのときのIさんの中には届かず、流れていってしまいそうだった。
患者さんに寄り添うには、時間はいくらあっても足りない!
自分の体力も維持していないと、結局は患者さんに迷惑がかかる。
なんだか昨日あたりから、咳が出るようになった。鼻も詰まるし・・・背中が痛い。
当直で風邪でもひいたか・・・と思うが、
咳が出ると、自分の病気のことを考えて、いつも「いや~な感じ」が心をよぎる。
こんな気持ちも「どうしようもない」ことで、一生、なくなることはないんだろうと思っている。
まあ、自分の体のことはともかくとして、
患者さんが「涙を流さなくてすむ」ようなかかわりが出来るようになるのか・・・
それが難しいなら、
せめて、「自分の前では涙を流してくれるような」かかわりが出来るのか・・・
何人も、何人も、患者さんやご家族と関わっても、なかなか答えが見つけられない中で、毎日、時間ばかりがが過ぎていく。
(平成23年3月20日)
ビール
Sさんは、関西の病院で長い間慢性肝炎の治療を受けていたが、横浜に転居後は近くの基幹病院で治療継続されていた。
そのうち肝臓癌が見つかり、何回も治療が行われていたが、腫瘍の増大を抑えることが出来ず、
今後の積極的治療が困難とのことで、平和病院を紹介され、受診した。
全身状態は保たれていたので、しばらくの間は緩和ケア科外来に通院していたが、
全身倦怠感、黄疸、腹水の増加により入院となった。
病状は一進一退だったが、ある日の夜、部屋を訪れたとき、何時になく体調がよさそうで、
たまたま時間もあったので、長くお話しすることが出来た。
「Sさん、今は体調も思わしくないようですが、何かご希望はありますか?」
「先生はビール飲みますか? 私はビールが好きでしてねえ、ビール・・・飲みたいですねえ」、と、言われた。
緩和ケア病棟の中には、アルコールの摂取を許可しているところもあり、バーコーナーまで備えているところもあると聞いた。
残念ながら、いま、平和病院では一般病棟に緩和ケア科の患者さんが入院しているので、
もちろんアルコールの摂取は禁止されている。
来年には完成する緩和ケア病棟内ではどうするか・・・まだ決めてはいない。
ただ、今は「ノンアルコールビール」の種類も多くなっている。
最近、いつ呼ばれるかもしれない生活で、ビールもろくに飲めないので、
いろいろなメーカーの「ノンアルコールビール」を試している。
今のところ、サントリーの「オールオフ」が一番のおすすめだ。
キリンの妙な甘さが感じられないので、違和感が比較的少ない!
一応は「ビール」を飲んでいる感覚には浸れる範囲だ。
それはともかく、
ノンアルコールなのだから、ジュースやコーヒーと変わらないわけで、別に制限する必要もない。
Sさんの話を聞いたとき、たまたま自分の部屋の冷蔵庫には試供品の「ノンアルコールビール」が一本冷えていた。
ただ、時間が遅かったので、「Sさん、ノンアルコールなら持っていますから、明日の夜でも持ってきて乾杯しますか!」
といってその日はお別れしたのだが・・・
翌日Sさんの病状は急に悪化し、とても乾杯が出来るような状態ではなく、
結局、実現できないまま、Sさんは帰らぬ人になり、ビールはまだ冷蔵庫に入ったままだった。
そんな事があってしばらくたったころ、やはり外来通院していた胃癌末期の患者、Kさんが、状態の悪化で緊急入院になった。
この方もビールが大好きな方で、外来では必ず、「Kさん、ビール、飲めてますか?」と尋ねていた。
「うん、うまいねえ~」と、にこっと笑う顔が印象的だった。
だいぶ状態が悪くなっても自宅でビールだけは飲んでいたようだ。
入院してからしばらくたったある日、Kさんが「ビールが飲みたい」、と言い出した。
ただ、その頃には水分を摂取すると、むせるようになっており、とても飲める状態ではなっかた。
まだ、時によっては、かろうじて飲めることもあったし、Sさんに結局飲ませて上げられなかった苦い思いもあり、
調子がいいときを見計らい、多少むせてもいいかな・・・とも思い、息子さんに買ってきていただいた。
スタッフからも、何とか飲ませてあげたいと言う声もあったが、すでに急激な状態悪化が見られた。
とろみゼリーにビールを混ぜてみたらどうか???などの案も出たが、
さすがに、ビールにとろみを入れたらビールじゃないだろう!
あの、ごくごくと飲む喉越しがいいんだから・・・とのことになり、このときも結局、飲ませてあげることが出来ず、
Sさんは永眠された。
亡くなってしばらくあと、Sさんの息子さんが病院を訪ねてきてくださった。
「ビール、せっかく買ってきていただいたのに、結局飲ませてあげられなくて、申し訳ありませんでした」
「いやあ、親父のことですから、あっちでたらふく飲んでますよ!」、と言ってくださったのがせめてもの幸いだったが・・・
状態の悪い患者さんに何かやってあげられることがあったら、出来るだけその日のうちに、
患者さんの状態が、できるうちに・・・ということを痛感した。
ビール好きの患者さんが入院したら、今度こそ一緒に飲みたい(もちろん、ノンアルコールだが)と思っている。
(平成22年12月24日)
入院の意味
Mさんは体調が悪く、近くの診療所に受診した。
検査の結果、貧血が強かったので、地域の基幹病院に紹介され、精査をうけた。
結腸癌の診断で、手術をすることになったが、すでにかなり進行した状態であり、高齢だったこともあり、腫瘍を取るだけの
いわゆる姑息手術が行われた。
術後は、基幹病院にしばらく通院していたが、播種性の転移により、状態は悪化、通院が困難になることが予想されたため、
今後の緩和ケア提供を目的に平和病院を紹介された。
ご家族は、母親違いの弟さんだけで、その方も、普段はお付き合いもなかったようだ。
ご自宅が病院のすぐ近くであったので、当院の在宅支援センターの訪問看護を導入し、自分が往診することになった。
ある日、基幹病院の先生から連絡があり、Mさんが受診したが、体調も悪く、入院を希望しているとのことだったので、
その日のうちに受診してもらったが、
もともと在宅での療養を強く希望されており、確認したところ、やはり自宅に帰りたいとのことだった。
確かに、全くの一人住まいであり、状態も悪いことは悪いので、
毎日訪問看護師やヘルパーが導入されていても、下手をすると、自宅で亡くなった状態で発見される可能性もあったが、
ご本人の希望でもあったので、その日は入院せず、自宅に帰ることになった。
その後は自宅で点滴を行いながら療養をしていたが、訪問看護師からの報告では最期のときは近いと思われた。
そんなある日の朝、連絡があった。
Mさん宅に訪問した看護師からだった。
朝、ヘルパーさんが訪問した時、状態が悪いとの判断で救急車を呼んでいた、とのことで、
その後、訪問看護師に連絡があったようだった。
在宅で診ている場合、通常は訪問看護師に連絡があり、その判断で自分に連絡が入る。
その時の状況で、往診する場合、入院してもらう場合もあるが、
基本的には本人やご家族の希望を優先する。
Mさんは、在宅ですごすことを強く希望され、訪問看護師とも在宅で看取るつもりだったのだが・・・
すでにMさんは救急車に乗ってしまっているとのことだった。
確かに状態は悪いので、緊急入院してもおかしくはない状態ではあるが、
入院しても特別にやることはない。
ただ、事情を話して救急車から降ろした場合、救急車を呼んだヘルパーはどう思うか・・・
説明しても理解が得られる保証はない。
平和病院は「死にそうな患者さんを入院させなかった!」などと言われたら、とんでもないことになる!
事業所の違うヘルパーに、事前に方針を徹底させていなかったのが悔やまれた。
いったん入院したら、帰るのは不可能になる。
入院しなかったから、そのまま自宅ですごせていたわけで・・・
そのときは病院の近くのMさん宅まで往診することも可能であった。
しばらく悩んだが・・・
やむなく、受け入れを行うことを話し、結局入院になった。
このときは呼吸も心拍も保たれていたので、いわゆる救命処置は行われないまま搬送されたが、
どんなに延命処置はしないと、希望があっても、救急要請をした場合、
「救急」車では救急隊員は救命処置をすることが当たり前なので、
心臓マッサージ、挿管がされて到着することも少なくない。
救急隊員を責めるつもりはさらさらないし、ご家族がいる場合は、あわててしまう気持ちもよくわかる。
ただ、延命処置を希望されていなかった患者さんが、明らかに亡くなっている状態での搬送に、
「救命」処置がされてくるのを見るのはやるせないものがある。
Mさんの場合は、入院後、そのまま痛がることもなく、わずかに問いかけに反応するだけで、眠り続け、
結局はその日の夜遅く、正確には翌日の午前0時15分に亡くなった。
いつものように自宅に連絡があり、病院に駆けつけたが、結局、在宅でも同じような時間にMさんの自宅に駆けつけたことになり、
特に処置もなく、看取る医師も同じ・・・
もう、Mさんには、どこで亡くなるかの判断も出来なかっただろうから、
誰にも気付かれずに亡くなること、亡くなってしばらくたってから発見されることは避けられた分、
入院して正解なのかもしれないとも思ったが・・・
かなり具合が悪そうな時でも、自宅での療養を強く希望されていたMさんのことを考えると、
この入院が良かったのか、悪かったのか・・・
自分でもよくわからなくなった。
いずれにしても、苦しまずに静かに眠るような最期だったのが救いだが、それだけに、よけいに自宅でも良かったのでは・・・
との思いも捨てきれない。
よく、「最期の場所が問題なのではなく、最期までを誰と、どのように過ごすのかが重要なのだ」、と、考えているし、
いつも講演などでも話している。
Mさんは独居で、病院でも、自宅でも一人で過ごされていたので、この点では変わりはないわけで・・・、
さらに、いざというときの葬儀の段取りも決められていたので、
あらためて、この「入院」の意味は何だったのか・・・と、考えさせられた。
Mさんの状態を見て救急車を呼んだヘルパーの気持ちも理解は出来る。
だれもがMさんのことを思って行動しているわけだが、在宅での看取り、特に独居の場合の困難さをあらためて感じさせられた。
(平成22年11月28日)
転院の意味
Bさんのご家族が「がん緩和相談外来」を訪れたのは、近隣の基幹病院からの紹介によるものだった。
婦人科の疾患で、すでに抗癌剤治療が無効になり、肺、肝、脳に転移があり、
退院はしているものの、状態は厳しく、今後の緊急時対応に備えてのものだった。
最近はいわゆる「がん治療病院」との「併診」の形で、比較的早期から患者さんに関わらせていただくことが多くなっている。
実は、緩和ケアにとって、このことはかなり重要で、私が講演などでお話させていただくときには、必ずお願いする点でもある。
ただ、まだまだBさんのように、崖っぷちの「ぎりぎり」の状態で紹介される患者さんも多く、
また、せっかく早い時期でご紹介いただいても、患者さんやご家族も、まだ大病院で治療中なのに、
何で「平和病院」という小さな病院にわざわざ受診しなければならないのか、を理解していただけない方も多い。
受診時に、地域における各医療施設の役割分担をお話しし、理解していただくのだが、
基本的には「大きな病院は小回りがなかなかきかないことも多く、夜間や、緊急時でも待たされることもあり、満室で緊急入院も
ままならないことも多い。そんな時のために、早い段階から当院が関わらせていただく」ことを説明するのだが、
一度相談していただいた限りは、24時間、365日、夜間でも、休日でも必ず対応する・・と言い切ってしまう。
実際、自分はそうするつもりで緩和ケア科を運営しているし、
それが中小一般病院の緩和ケア科がはたすべき、最大の役割と思っている。
この言葉を聴くことで、多くの患者さんやご家族が、「やっと安心できました・・・」と、言ってくださることも多い。
ただし、言い切るからには言葉通り、確実に実行することが求められるし、
そうだからこそ、夜間、休日お構いなしに自分が病院に駆けつけることになる。
先月の自分のタイムレコーダーは、見事に1日も休みなく打刻されていたし、
出社、退社だけでなく、時間外出社、時間外退社などの欄にもぼこぼこ打刻されている。
相談日、Bさんのご家族には、Bさんに一度受診していたいただく日の予約していただいたが・・
緊急での直接受診の可能性も高いとは予想していた。
相談日の3日後の休日の夜間、Bさんは体調が悪化し、救急車を呼んだ。
その日の当直は、外部のアルバイトの先生で、どうやら直接ホットラインがつながり、
しかも、たまたま別の緊急患者さんが入っていたため、その患者さんの対処に追われており、
その当直の先生が、今は受け入れが出来ない、と返事をしてしまったようだった。
通常、事務当直を通すと、緩和ケア科のカルテがある患者さんは、必ず私に連絡があるのだが・・・
このときは、たまたまスルーしてしまった。
翌日、もともと受診していた紹介元の病院の主治医から連絡があり、ひとまずは、その病院に入院したとのことだった。
状態が安定したら早期に転院をお願いしたい、とのことだったので、前日の対応をお詫びし、いつでも転院は可能であると伝えた。
その何日かあと・・・・
入院先の主治医からの連絡があり、転院調整の依頼があった。
話しによると、Bさんの状況はかなり厳しそうだったので、ぐずぐずしていたら転院できなくなることが予想されたため、
結局、その翌日にはベッドを調整し、Bさんの来院を待った。
当日の朝、救急車で運ばれて、診察室に入ってきたBさんに「お疲れ様でした。大変だったでしょう」と、声をかけたが・・・
返事がない!
よくみると、Bさんは意識も朦朧としており、問いかけにも答えられない状況だった。
通常は、病室に行く前に、現状の評価を行う目的で、診察、検査を行うのだが・・・・
一目見てかなり危険な状況だったので、あわてて直接病室に搬送してもらい、病棟看護師に緊急コールをし、
モニターを準備させた。
急いで病室に行き、ストレッチャーから病室のベッドに移った数秒後、Bさんの呼吸が止まった!
搬送には若い女性の医師が付いてきてくれていたが・・・
救急隊から状況を聞いたのか、あわてて病室に駆け込んできた。
あまりの急激な変化に、彼女の顔は蒼白になり、言葉も出なかった。
もともとは、がんの終末期であり、緩和ケア科で受ける場合、
延命処置は一切行わない方針でご家族やご本人には了解をいただいている。
結局、Bさんの場合も、呼吸器につないだり、心臓マッサージなどは行わなかった。
Bさんは、平和病院に来て、わずか30分足らずで亡くなってしまった。
数日前の緊急時、当院で受け入れを行えなかったのが痛恨の手違いになってしまった。
あの時自分が対応していれば、そのまま平和病院に入院し、今回のような状態が悪い中での移動はしなくてすんだわけだし、
少なくても、こんなにバタバタした最後を迎えなくてすんだのかもしれなかったのに・・・
紹介元の病院を出発する時には、主治医からは「移動の間は、まず問題ありませんよ」と言われたようなので、
ご家族も、状態が悪いのは十分理解され、急変の可能性も覚悟はしていたというものの、
あまりのはやさに途方にくれるというか、かなり混乱されていた。
相談に来院された時、確実に受け入れると約束をしておきながら、果たせなかった自分の対応をご家族にお詫びをするしかなく・・・
こちらもやるせない思いでBさんの最期を確認した。
廊下では付き添ってきた先生が泣きそうな顔で立っていた。「病院を出るときは大丈夫だったんです・・・」
「先生のせいじゃありませんよ、あの時自分が対応できなかったのがいけないんですから・・・」
ただ・・・
この転院は、はたして意味があったのか・・・・とはどうしても思ってしまった。
基幹病院は積極的な治療を行わない患者さんが長期に入院する施設ではない。
それぞれの病院には地域において果たす役割がある。それでも・・・
Bさんは移動しなくても、たぶん数日以内で最後の時を迎えたと思われる。
ぎりぎりの状態のBさんに、移動が大きな負担になった可能性がないとはいえない。
平和病院としては、もっと、受け入れの体制の徹底・周知を図らなければならないし、
やはり、自分が従来から言っているように、早い時点でのかかわりが重要であることを、あらためて痛感したし、再確認もした。
こんなことがあってから、相談や外来のとき、「もし、入院が必要な時、万が一、窓口で断られそうになっても、絶対諦めないで、
緩和ケア科の患者であること、私から、『絶対いつでも受け入れる』と言われていること、
私に連絡してほしいことを、強く言い続けてくださいね!」・・・とお話しするようになった。
医師当直室には以前から「緩和ケア科外来」の患者さんの名前一覧が張り出してあり、
連絡があったら必ずコールをお願いしてはいるが・・・
新たに平和病院に紹介された患者さんは、先月だけでも26名も増えており、当直室の掲示も、更新が追いつかない状態になっている!
Bさんのようなケースが二度おこらないよう、。受け入れ態勢の再徹底が必要であり、
本当に、30分にも満たない短い間しか直接関われなかったBさんへの対応に反省するとともに、ご冥福をお祈りしたい。
(平成22年11月6日)
天国への順番
Oさんは緩和ケア目的の紹介で、ある大学病院から平和病院に転院となった。
入院した時には肺癌はすでに大きなしこりとなっており、脊髄への転移で下半身の不全麻痺が見られていた。
ただ、入院当初は呼吸状態も安定し、食欲もあり、全身状態も保たれていた。
内服のモルヒネで痛みはコントロールされており、介護保険の認定もおりていたため、介護療養病棟に転棟も可能かとも思われた。
平和病院の介護療養型医療施設には緩和ケア科の患者さんが何人か入院している。
癌の診断がつき、疼痛コントロールが良好で、食事も食べられているが、
いろいろな事情で在宅復帰が出来ない患者さんたちだ。
自宅にもlどれない理由は独居であったり、受け入れ態勢の構築が出来なかったり、ご家族の都合だったり・・・
いろいろだが・・・(先日緩和医療学会で発表したテーマでもある)
中には1年以上も介護病棟で長い経過を過ごした患者さんもいる。
もちろん、病状が悪化し、細かな治療が必要な場合は一般病棟に転棟し、積極的な緩和ケアを提供することになる。
ただ、Oさんの場合は、中止に出来ない高額な薬を服用中だった。
介護病棟では薬は包括されてしまうため、薬代は病院持ち出しになってしまう。
(医療用のモルヒネは別だが・・・)
そんな事情もありOさんは一般病棟で入院を継続していた。
一般病棟で緩和ケアを必要とする患者さんの受け入れが悪いのは、一つには在院日数の制限がある。
「3ヶ月限定」なら入院を受け入れる、という方針の一般病棟から、平和病院に転院してくる患者さんも少なくない。
平和病院も、今は一般病棟で緩和ケア科の患者さんを受けているので、他の病院と条件は変わらない。
ただ、病院の方針としては、在宅療養の体制がととった場合以外は、
入院日数が長くなったからといって「他の病院に移ってください」などとは絶対に言わない。
それはともかくとして、
リハビリも積極的に行われていなかったOさんは、理学療法士のかかわりで、一時期症状も改善し、ADLも向上したが、
安定していたOさんの病状もさすがに徐々に悪化してきた。
呼吸困難感が増強し、声がなかなか出せなくなり、麻痺は進行した。
もう、残された時間が「週単位」から「日単位」になってきた頃・・・
奥様に病状を説明した時、Oさんが奥様に話したという不思議な話を聞かされた。
「主人が昨日言ったんです。夢を見たって」
「どんな夢だったんですか?」
「広い川の前にいたんですって。向こう岸にはきれいな花が咲き乱れていて、明るくて、それはそれはきれいなところだったそうです。
その向こう側から自分を呼ぶ声が聞こえてくるんですって。
自分の前には2人の男の人が並んでいて、自分の順番は3番目だったそうです。
しばらくして、前の人たちは呼ばれるままに、向こう岸に渡って言ったそうです」
「Oさんはどうしたんです?」
「その日は、ちょうど遠くに住んでいる親戚が来る予定になっていて・・・
先生が、会わせたい人がいたらなるべく早いほうがいいっておっしゃったから。
主人も楽しみにしていたんで、『会いたい人が来るから、そっちにはまだいかれない』って・・・そういって引き返してきたんですって!」
「きっとあれは、『あの世』だったに違いない。あのまま2人について行ったら、自分ももうだめだったかもしれないって言ったんです」
残された時間が本当に短くなった人から同じような話を聞くことが何回もある。
この前も、「どうしてだかわからないが、片目だけから、長いトンネルが見え、その向こうに、きれいな光が見えたんです」と、言われたことがある。
Oさんの奥様の話を聞いて、ドキッとした。
実はその話を聞いた前の日、確かに緩和ケア科の患者さんが2人、亡くなっていたのだ!
Oさんの前に並んでいたのがその患者さんだったかどうかは、知ることは出来ないが・・・
もしかしたら、川の向こうは本当に天国で、Oさんはもう少しで向こう岸に渡っていくところだったのかもしれない。
「先生、私言ったんです。今度も呼ばれたら、『もうすぐ孫が会いに来るから』って言って、もう一回断りなさいって・・・」
「お孫さんがいらっしゃるんですか?」
「明日会いに来るんです」
Oさんの状態はさらに悪化しており、お孫さんに会える日まで頑張れるかも微妙な状況だったが・・・
結局、その日も乗り越えることが出来、お孫さんにも無事に会うことが出来た。
また、「孫が会いに来るから・・」といって、川を渡らずにもどってきたんだろうか?
そんなことも考えたが、その次の日、Oさんは、もうもどってこれなかった。
3回目に断る理由が思いつかなかったのか・・・
それとも2回までは許してもらえるのか・・・
知る由もないが・・・きっとOさんは向こう岸の「きれいなところ」にいるに違いないと思った。
死んだらどうなるのか?
宗教家でもない自分には予想もつかない。
ただ、自分が癌を体験したせいか、心の片隅にはいつもそんな思いがある。
死生観やら、スピリチュアルな話やら、「よくそんな本ばかり読めるわね!」と、妻にあきれられるように、
生死に関する本も読んでみるが・・・結論など出せるわけもない。
ただ、何人もの人が見たり、話してくれる「向こう側」の世界は、だいたいが、明るく、花が咲いていて・・・静かな世界のようだ。
決して炎が燃え盛っていたり、苦しがる声が聞こえたり・・・そんなところではなさそうだ。
もしかしたら、輪廻は本当で、死ぬ直前には以前いた「あの世」の記憶が一瞬よみがえるのかもしれない。
自分達とかかわり、今は亡くなってしまった緩和ケア科の患者さんたちも、そんな場所に旅立って行っているのだと思えば、
なんだかほんの少しだけでも気が楽になるような気がするし、
いつかはわからないが、自分が旅立つ場所も、そんなところであってほしいとも思う。(平成22年7月2日)
最期に間に合うか・・・
緩和ケア科の患者さんの多くは、徐々に状態が悪化し、残された時間が少なくなっていく。
最近では病名の告知は、紹介される患者さんのほとんど全員に対して行われているが、
転移や、生命予後に関して言えば、患者さん本人に対しては、まだまだ告げられないまま紹介されてくる場合も多い。
ご家族に対しては、3ヶ月程度とか、長くて半年とか、だいたいの目安はほとんどの場合説明されている。
最近は紹介していただく医療機関に、できるだけ早い時期に、併診の形で関わらせていただくことをお願いしているので、
元気で緩和ケア科外来に通院している患者さんも多くなっている。
ただ、外来患者さんが多くなってきた分、急な変化で緊急入院になる場合も増えてきた。
入院患者さんの状態が悪化し、残りの時間がいよいよ少なくなってきた時には、
ご家族に対して心の準備をしていただくために、何回かくりかえして状況を説明し、
いつ急変してもおかしくないこと、最期の時には、なるべく早く連絡はするが、間にあわない場合もあることを伝える。
最期の時を迎えた後に、着せてあげたい思い出の服などがあれば、あらかじめ準備しておいてもらうこともある。
今までにも、娘の卒業式に着て行くはずだった新しいスーツで自宅に帰っていった方、
母親が作ってくれた和服を着た方、
お祭りの時に来ていた浴衣を着て帰った方・・・いろいろ思い出があるが・・・
ご希望があれば、ご家族にも一緒に体をきれいにてもらったり、着替えを手伝っていただいたりもする。
やはり、病院の寝巻きを着て帰るより、薄く化粧をし、思い出の服を着た場合、
ご家族が、今までのいろいろな想いを語ってくださることも多い。
今は、いわゆる「遺族の会」のようなものを行っていない分、せめてものグリーフケアになれば・・・と思っている。
平和病院の緩和ケア科の受け入れ方針は、
最期の時には人工呼吸器につなげたり、心臓マッサージや電気ショックなどの延命処置を原則として行わないことにしている。
もちろん、最期の時にご家族が間に合わない場合でも、到着するまで心臓マッサージをすることもない。
ただ、どんなに状態の悪化を説明していても、やはり間にあわなかった場合には、
ご家族から「ああ、間にあわなかった・・・」とか「間にあわなくてごめんね・・・」などの言葉が聴かれることも多く、
こちらも悔いを残すことになる。
最後の瞬間には出来るだけいてほしいので、ご家族には病室に泊まっていただいたりすることも多いのだが・・・
中には、もう今日が限界です、と話し、付き添う準備のために、いったん自宅の戸締りに帰っている間に急変したり・・・
他の家族に連絡をしに公衆電話で電話している間に心臓が止まってしまったりすることもある。
たいていの場合、ご家族が実際の心停止に間に合わない場合には、
ご家族がいないまま、すぐに亡くなられたのを確認することはしない。
ご家族が集まり、ある程度落ち着いた時点で最期の時間を確認する。
その前には、ご本人が今までの闘病を良く頑張ったこと、
ご家族の苦労、一緒に闘病を支えてきたことに対するねぎらいの言葉をかける。
自分が関わらせてもらってからのこと、入院してからの経過を、しばらく一緒にお話しすることもある。
先日、娘さんが海外在住でいったん自宅に帰り、再帰国する予定の日に亡くなったケースがあった。
娘さんが、その日に帰ってくることはわかっていたのだが・・・時間がわからない。
携帯に連絡をしてもつながらず、やむを得ず、娘さんがいないまま死亡確認をしたのだが、
そのわずか15分後に娘さんが病院に到着した。
実は、前の日の夜には帰国していたのだが、その日は夜遅かったので来院しなかったようだ。
この娘さんは、最後の瞬間に間に合わなかったことを、ずっと後悔されたまま病院を後にした。
患者さんに対しての苦痛緩和はもちろん大切だが、ご家族に対しての気遣いも同じように大切になる。
最後の瞬間をいかに静かに、穏やかに迎えていただくか・・・
出来るだけ、ご家族が悔いを残さない看取りを、いかに提供できるか・・・
スタッフにとって、気を抜けない日は続いている。(平成22年4月25日)
何がちがうんだろう?
平和病院に「がん緩和相談外来」を開設してから、もうすぐ1年半がたとうとしている。
この間、ご利用いただいた患者さんは、もう170人を超えてしまった。
特に、この数ヶ月の増加ぶりは自分でも驚くほどで、
いったい今までこのような人たちは、どこでどう過ごしていたんだろう?・・・と思う。
まあ、逆に言ってみれば、平和病院が関わっていなくても、何とかなっていたことなのかもしれないが・・・・
入院、外来、バックアップ、往診と、いろいろな形で関わっていくことになるが、
最期を在宅で迎える患者さんは多くはない。
当院では、なくなる患者さんの11%程度だ。
いま、「なぜ自宅ですごせなかったのか」に関して、いろいろな要素をピックアップし、調べている最中だ。
前にも書いたかもしれないが、最近は「どこで」最期を迎えるか・・・ではなく「誰と、どのように」最期を迎えるかのほうが
ずっと重要fだと思っているの。
ただし、患者さんの在宅への想いが強い場合は、何とか実現させてあげたいと思うが、
いろいろな事情が絡んで、うまくいかないことも多い。
いったん入院してしまうと、いつの間にかご家族がピタリと来院しなくなり、
患者さんは毎日、家族に連絡してくれ、家に帰りたい、孫にお年玉をあげたい・・・と、いい続ける。
たまりかねて、ご家族に集まってもらい、患者さんの想いを伝え、
ご家族の大変なのもよくわかるが、せめて人手が多いときに、一度だけ、外泊だけでもチャレンジしてくれないか・・・
と頼んでも、「一度そんなことをしたら、二度と病院にもどらなくなってしまう!」とか・・・
「こんな寒い時に帰して、風邪でも引いたらどうするんだ!」とか・・・
(もう残された時間が無いのだから、風邪くらい・・といいたくもなるが!)の、答えが返ってくることもある。
そのうち患者さんは力尽きていくケースも最近あったばかりだ。
もちろん、入院しているのだから、我々は患者さんに苦痛のないように全力は尽くすが、
患者さんの痛み、苦しみは「体の」痛みや苦しみだけではない。
ご家族の関わる姿勢によっては、薬なんかより何倍もの効果がでることだってあるのだ。
病院のスタッフと、ご家族がチームになって支えていくことが大切なのに、
このようなかかわりをされると、なにか、むなしささえ感じることもある。
そんな中、先日、久しぶりに在宅での看取りをおこなった。
基幹病院から紹介された食道癌の患者Oさんだ。
紹介されたときは、まだお元気で、緩和ケア科の外来通院で様子をみていた。
ご自宅は病院からは、かなりはなれた距離にあったが、いつも連携でお世話になっている診療所のH先生のすぐ近くで、
奥様もその先生にかかりつけとのことだった。
ある日、奥様から電話で、食事の後から急に具合が悪くなったとの連絡があった。
緩和ケア科の方針は、具合が悪くなった場合は、確実に(夜でも休日でも)受け入れることなので、
緊急受診をしていただいた。
話を良く聞いてみると、どうも「さば」のバッテラを食べた後、急に具合が悪くなったらしい。
夜間帯であったが、人を集め、緊急内視鏡をおこなったら・・・
あったあった!
癌で細くなった部分に「さば」が詰まっており、無事除去できた。
翌日、元気に退院したが、その後、体調を崩し、再入院した。
このときも食事の調整、点滴で軽快し、チームの管理栄養士の指導を受け、退院したが、
だんだん体力が落ち、外来通院がきつくなってきたので、往診対応に変更することにした。
はじめはH先生にお願いすることも考えたが、訪問看護が平和会の「ひなたぼっこ」を利用することもあり、
自分が往診することにした。
そのときには、肺転移も増大し、呼吸困難感も出現したので在宅酸素も導入。
奥さんと娘さんが献身的に介護を行った。
痰の吸引の機械も導入し、介護ベッドもいれ、本格的な在宅療養の体制がドンドン整っていった。
この時点でギブアップになり、入院するケースはいくらでもあるが、Oさんも、ご家族も自宅で頑張った。
いつも自分が患者さんやご家族にお話しするのは、
在宅と決めたからといって、こだわる必要は全くない、
つらかったら、いつでも入院することも出来るし、夜だろうが休みの日だろうが、いつでも確実に受け入れる!。
いざとなったら救急車で来てもかまわない。
ベッドは確実に確保する(院長としては満床のほうが好ましいのだが・・・)。
調子がよくなって自信がついたら、また自宅にもどれば良いし、行ったりきたりする患者さんはいっぱいいる。
もちろん往診も、夜でも休みでも可能な限り行う。肩を張らず、気楽に行きましょう!
と、いうことだ。
患者さんやご家族はこれを聞くと、少しは安心してくださることが多い。
Oさんも緊急入院の対応が迅速だったこともあり、その後も在宅で療養を続けた。
しかし、病状は確実に進行し、ある日、訪問看護ステーションから連絡があった。
Oさんの病状が厳しいとのことだ。
その日は病院協会の会議があったが、その帰りに直接Oさんの自宅に伺った。
報告ではもう動くことも出来ないとのことだったが、
家の中に入ったとき、Oさんは奥さんと娘さんに支えられてはいたが、自分でトイレに立っていた!
おいおい、話が違うじゃないか!とも思ったが・・・
ただ、ベッドにもどる途中で力尽きて座り込んでしまったので、ベッドに抱えあげて寝かせる事になった。
(ぎっくり腰の再発を覚悟したが、さいわい無事だった!)
その後、Oさんはベッドにちょこんと座り、「力がなくなった。食事も食べられなくなった」とおっしゃった。
「心配なら入院してもいいんですよ」
奥様も「おとうさん、どうする?入院する?」と尋ねたが、Oさんは首を横にふった。
「わかりました。心配な時はいつでも飛んでくるから!」
と、言って病院にもどったが、結局Oさんとお話ししたのはその日が最後になった。
翌日の真夜中、「ライディーン」が鳴った。
訪問看護の管理者からだ。Oさんの状態が急変したとのことだった。
Oさんの自宅は病院からより、自宅からのほうが近い。
直接自分の車でOさんの自宅に向かった。
家に入ると、Oさんは静かにベッドに寝ていた。寝る前には奥さんの声賭けにも返事が出来ていたが、
気が付くと静かになっていたようだった。
奥様も、娘さんも本当に献身的に頑張っておられた。さぞかし、心配で心細かったこともあっただろうと思ったが、
何とかOさんの希望通り、最期まで在宅でお世話していただいた。
しばらく、入院の時の話、外来通院の時の話などをし、亡くなったのを確認し、書類を作成しに病院へと向かった。
外はまだ真っ暗だった。
車の中で考えた。
「何でOさんは最期まで自宅ですごせたんだろう?」
「何でOさんよりずっと状態がよく、しかも自宅にいたいと希望している人が、入院しなくてはいけないんだろう・・・?」
最近は「家族」のかかわりが、ものすごく大きいことを感じる。
もちろん、家族の不安を何とか少なくすることが大切だが、自分や、訪問看護師や、他のスタッフが同じように対応しても
在宅での療養を続けられる人、続けられない人(続けられる人が圧倒的に少ない!)がいる。
患者さんと、ご家族のかかわりは、自分達が関わるよりもはるかに長い期間の積み重ねがある。
自分達には、それをどうのこうの言う資格もないし、長い間のかかわりの延長として、最後のときのかかわりがあると思っている。
今日、緩和ケア科を立ち上げてからちょうど100人目の見取りを行った。
100人の看取りには一つとして同じものはない。ご家族のかかわりも100通りある。
もちろん、病院での看取りでも感動的なシーンにいくつも出会ってきた。
ただ、ご自宅での看取りが、静かで暖かいことが多いような気がするのはなぜなんだろう?(平成22年3月5日)
亜細亜号への想い
最近病院の玄関を入った左手に、新しい絵が飾られたのを気付いた方がいるでしょうか?
「房総の春」という大きな絵の左側に最近飾ったものだ。色彩が地味なので、あまり目立たないが、モクモクと煙を吐きながら、
疾走する蒸気機関車の絵だ。見慣れた蒸気機関車とは少し形が違う。
この機関車は「亜細亜号」と呼ばれるもので、
蒸気機関車全盛期の昭和初期から昭和20年代、
南満州鉄道で、広い中国大陸での最大の輸送手段として出現し、
蒸気機関車の性能としては世界のトップクラスに数えられる性能と、
当時としては斬新的な流線型の車体とライトブルーの塗装、
また、客車も大変素晴らしく全体に”丸みを帯びた”形状と
ダーク・グリーンの車体・最後尾の密閉式展望車両と編成全体が、
大陸鉄道にふさわしい姿だったらしい。
当時の最高の技術水準を結集して、発生した蒸気を利用して真空を発生し、
減圧下で水を蒸発させて10℃の冷水を作る方式を採用しての冷房が、
3等車を含む全車両(郵便荷物車を除く)にそなえられ、
大連-新京間で701.4Kmを平均時速83Km、最高速力110Km、
8時間30分で結ぶ特急運転を開始していたとのことだ。
「亜細亜号」を牽引した蒸気機関車は、当時の日本の鉄道技術の”粋”を結集し、
計画から実施まで僅か1年半と云う短期間で完成させ、
設計速力は150Kmを目標に計画された関係から、動輪直径2mが採用され、
この動輪直径は現在でも世界一の大きさで、最高時速は110Kmとも120Kmとも云われ、
東洋一の驚くべきスピードで走らせる事に成功した蒸気機関車だったといわれる。
実は、この絵はある患者さんからいただいたものだ。
基幹病院から紹介されてきた食道癌末期の患者さんで、紹介されたときには食事は禁止
されていた。
ご自分の病状はすべて告知されていたし、
残された時間が少ないことも十分理解されていた。
「もう子供も大きくなったし、独立しています。残せるものは残したし、
思い残すことはありません」と、淡々と話された。
入院後はチームの管理栄養士が関わり、何とか経口摂取をさせてあげたいと、工夫をしてくれたおかげで、
久しぶりの食事(細い麺類程度しか食べられなかったが・・・)を食べていただくことが出来、
ずいぶんよろこんでいただいた。
ある日、ベッドサイドでお話しした時、Tさんから、「先生、ご迷惑で無かったら、ぜひもらってほしいものがあるんですけど」と、言われた。
「私の友人に描いてもらった絵があるんです。中国の絵でね・・機関車の絵なんですけどね、
すごく良く描けています。私はもう見られなくなっちゃうから・・・先生に差し上げたくて」
その後、回診のたびに、ご自分が昔住んでいた中国の話しをしてくださり、絵のことをおっしゃるので、ありがたくいただくことにした。
2点いただいたのが、湖畔に立つ教会の絵と、この「亜細亜号」の絵だった。
力強く疾走する機関車の絵は、一目で気に入ってしまい、院長室に飾らせてもらおうかとも思ったが、
そのことを話すと、Tさんは、「そうですか、気に入ってくれてうれしいけど・・・病院の玄関に飾ってもらえれば、
もっとたくさんの人に見てもらえるでしょ?」とおっしゃった。
もしかしたら、Tさんは、この絵に、衰えていく自分の、かつてのエネルギッシュな時代を見ていたのかもしれないとも思った。
残念ながら、その後、Tさんの状態は悪化していったが、お約束どおり、この絵は病院の玄関に飾らせていただいた。
意識のレベルが落ちていく頃、Tさんの耳元で、「ちゃんと、玄関に飾らせてもらいましたよ!」とお話ししたが・・・
出来れば、車椅子にでも乗せて、玄関に飾った絵を見ていただきたかったが・・・
その頃にはTさんには、そんな力は残っていなかったのが悔やまれた。
Tさんが亡くなった今も、「亜細亜号」は煙を吐きながら疾走している。(平成21年12月13日)
5歳の誕生日に
6月22日が今年もやってきた。
自分が手術を受けて5年が過ぎた。
毎年この時期に行う検査で、も幸い大きな異常はなく、再発、転移はみられていない。
肺癌患者の「5年生存率」を落とさなくてすんだ。
毎年思い出すのは、手術の日の朝早く、病室の窓から見た風景(写真のように鮮明に覚えている)、
前の日に入った病棟の風呂、
手術室に行く途中で、流れていくのをみていた廊下の天井、
バルン(尿を出すための管)の猛烈な違和感と痛み、
手術後にかかってきた教授からの電話、
退院の日に亀のようなのろさで出かけた息子の授業参観・・・
いろいろな想いがよみがえってくる。
毎年、この日は誕生日ケーキが用意される。
今年は、息子が「サプライズ」として、ケーキの箱に手紙を入れてくれていたらしい。
食事が終わり、さあケーキ、という時に、「ライディーン」がなった。
緩和ケア目的で入院している患者さんの気管切開の部分から出血が止まらないとのことだった。
「出かけてくる、何時に帰れるか、わからないな・・・」というと、
息子があわてて冷蔵庫を空け、ケーキの箱から手紙を取り出した。
「ほんとはケーキをあけるときに父さんが手紙を見つけてびっくりする・・・というはずだったんだけどなあ・・・」
少し残念そうに(ホンとはもう知っていたけど・・・)その手紙を渡してくれた。
「5年目の誕生日、おめでとう・・・手術のすぐあと、父さんの傷を見たとき、
びっくりして泣いてしまったことを今でも鮮明に覚えている・・・」と、書いてあった。
何もわからないと思っていた子供にも、父親の手術にはそれなりのインパクトはあったようだ・・・
小学生だった息子も、今では高校生だ。
ただ、連絡があった以上はそんな感傷にもふけっていられない・・・
急いで病院に向かった。
自分だって、ちょっとの違いで、今頃入院している可能性だってあったのだ。
(もしかしたら、この世にいなかったかもしれない)
自分がラッキーな分だけ、他の患者さんのため、夜に出かけることなど、めんどくさがっていては罰が当たる!
さいわい、その患者さんの出血は何とかコントロールされ、11時前には家に着くことが出来た。
夜にケーキを食べると、胃がもたれそうだが・・・せっかく家族がそろっているので「お祝い」をすることにした。
ケーキにはろうそくが5本!
「お誕生日おめでとう、おさむちゃん!」と、チョコの上に字が書いてある。
まあ、確かに5歳なら「ちゃん」なんだろう。お店(不二家)のおねえさんに細かいことを説明してもしょうがない!
ろうそくに灯をともし、ハッピーバースデーの歌をみんなが歌ってくれた。
あの時は・・・など、毎年同じような話が繰り返される。
5年前のほかのことは、何があったのか・・・ほとんど思い出せないのに・・・
やはり、病気の発見、告知、手術、術後・・・自分にとっても強烈な「思い出」なのだろう。
これから6歳、7歳、いくつまで続くだろう・・・
翌朝は、いつもと少し違う気持ちで病院に出かけた。
「術後5年」は一つの節目とは言われているが、そんなに甘くは無いことも十分承知している。
これからも、悪い知らせを「告知する」側として、何人もの患者さん、ご家族と接していく。
最近、何人かの患者さんから、「先生、その後いかがですか?」ときかれる。
たいていが自分と同じ時期に手術を受けた患者さんたちだ。「同士」のような連帯感があるのかもしれない。
せっかく、出来れば避けたかったつらい経験を積ませてもらったのだから・・・
それはそれとして生かしていかなければならないと思うし、少しでも治療される側に立った医師としてお役に立てればと思う。
(平成21年7月3日)
父の命日に②
その日の夜、寝るときには携帯を枕のすぐそばに置いた。
Aさんの状況はとても厳しかったので、夜中に連絡があることを覚悟していたが、
結局、朝までライディーンは鳴らなかった。
ただ、どうしても気になったので、翌朝はいつもより早く起き、早目に家を出た。
家をでて5分くらいたった頃、車の中でけたたましくライディーンが鳴った。
Aさんの脈がおそくなってきており、血圧も測れなくなっている・・・とのことだった。
「もう家はでているから、もうすぐ着ける!」
そう言って、いつもよりスピードを上げた。
病院に着き、急いで着替え、Aさんの病室に入った。
Aさんのお母さん、奥さん、そして初めて見る娘さんがいた。
Aさんの意識はすでに無く、呼吸はほとんど止まりかけていた。
警報がうるさくなっているモニターを止めるよう指示し、部屋は静かになった。
お母さんがAさんの顔を涙を流しながらだいた。
奥さんが娘さんを紹介してくれた。
まだ高校生、一人娘とのことで、Aさんは娘さんをとてもかわいがっていたらしい。
娘さんがゆっくりAさんのそばに行き、そっと手を握った。
「おとうさん・・」「おとうさん・・・」
それは叫ぶでもなく、泣くでもなく・・・本当に優しく語りかけるような響きだった。
「ありがとう、おとうさん」
「今まで本当にありがとう・・・」
「わたし・・・私がんばるから・・・だいじょうぶ。だから・・お父さん・・心配しないでね・・・」
奥さんはベッドから少しはなれ、けんめいに涙をこらえていた。
患者さんが亡くなる時に立ち会うことは、緩和ケアを行っていれば、当然多くなる。
ご家族の反応も、患者さんの数だけ違いがある。
長くお付き合いしてきた患者さんの最期には、自分もいろいろ思うことがある
いろいろな呼びかけの言葉も聴いてきた。
ただ、このときは娘さんの言葉を聞いた時には、自分でも感情が抑えられなくなってしまった。
ここで泣くわけには行かないと・・・思ったが、こらえることが出来そうになかった。
「もう少したったら、また来ます」
そういって、一度部屋を出た。
Aさんはそのまま静かに亡くなった。
その日は5月19日。自分の父親の命日だった。
Aさんの娘さんは、父親を亡くした時の自分と同じ年だった。
Aさんの娘さんは自分と同じ年齢の同じ日に、自分と同じように父親をなくしたことになる。
どうしても、自分と重ねて考えてしまった。
「今日は、父の命日なんです・・・」
Aさんの家族に、言ってしまった。
スタッフルームにもどり、夜勤の看護師に、このことを話していたら、また涙腺がゆるんだ。
今度はがまんできなくなった。年をとったせいかな・・・とも思う。
看護師が何も言わずにティッシュを取って渡してくれた。(ちょっとみっともなかったかな・・・・)
命日だったこともあり、自分の父親が死んだ時のことを思い出した。
自分と、Aさんの娘さんを重ねてしまう。
たぶん、部屋の外に出されていたように思う。
父の部下の先生が(父も外科の勤務医だった)、必死に心臓マッサージをしていた。[先生!」という声も聞こえた。
自分は父親に何を語りかけただろう・・・
たぶん、何も言わなかったと思うし、もう、覚えていないのかもしれない。
Aさんの娘さんは、自分と同じ状況のとき、同じ年なのに、なんて優しい言葉、父親にかけてあられたんだろう・・・
Aさんに声が届いたら(きっと、聞こえていたと思う)、Aさんはどんなに安心しただろう・・・
Aさんの娘さんがAさんに最期に語りかけた言葉は、父の命日が来るたびに思い出すだろうし、
たぶん自分は一生忘れないと思った。
「わたし・・・がんばるから」と言ったAさんの娘さんが、
これからの人生、本当にがんばれるよう、心から応援したいと思っている。(平成21年6月12日)
父の命日に①
ある日、相談室のソーシャルワーカーからメールで連絡があり、Aさんの緩和相談外来受診の日程調整を相談をされた。
平和病院の「がん緩和相談外来」は月曜日、木曜日の午前か、自分が当直をする土曜日の午後に行っている。
最近では、定期的に外来で緩和ケアを受けている患者さんもこの時間帯に予約診療をしており、
一人の患者さん枠に1時間を取っているので、けっこうスケジュールがきつくなりつつある。
病院のホームページなどの外来診療担当表には載せていない。
その日は、たまたま横浜労災病院の緩和ケア研修会のお手伝いのために不在だったので、翌週の月曜日にお願いした。
Aさんは近くのS大学病院の呼吸器センターで肺癌の治療していた患者さんで、
抗癌剤療法、放射線療法を受けていたが、残念ながら効果も無く、最近では2週間に1回外来を受診してはしたが、
血液検査やレントゲン検査を受けるだけで、担当医からはもう他の病院を受診するか、
往診の先生を頼んで自宅療養をすることをすすめられていた。
平和病院に相談に来る患者さんの典型的なパターンだ。
月曜日の朝は、土曜日が不在だったこともあり、いつもより早めに出勤した。
前の日の当直は外科の若い医師だったが、Aさんが朝、来院し、そのまま入院になっているとの連絡を受けた。
急いでAさんの部屋に行くと、Aさんはベッドの上で苦しそうな息をしており、顔色も悪かった。
奥様の話では、まだ相談もしていないので、受け入れてくれないかと思ったが、連絡してみると、
当直医が話を聞き、「それは具合が悪そうだから、予約なんか関係なく、すぐ受診してください!」
と、言ってくれたとのことだった。
とりあえず、苦しさを取らないといけないので、酸素の投与を開始し、呼吸困難に有効とされる頓服の薬を飲んでもらった。
まだS大学病院からの紹介状も届いていないので、Aさんの詳しい状況わからず、
とりあえずあまり負担の無い検査を早急にさせてもらうことにした。
しばらくして、Aさんの苦痛はやや改善され、やっと眠りについた。
奥様にもそのとき初めてお会いしたので、とりあえずお話を聞くことにした。
S大学病院に受診しても、最近は治療も無く、検査だけで、それでも帰ってくるまでに5時間以上かかる。
本人も行くたびにぐったり疲れてしまうので、もう何も治療が無いならもう受診したくない・・・と言っていた。
どこか診てくれる病院を探そうと、娘さんがインターネットでいろいろ調べたが、どの病院からも断られ、
たまたま奥様が車を運転している時に平和病院の看板を見たので、帰ってから電話をし、
相談員にAさんの病状を相談した。
また診てもらえないかと思っていたら、「どうぞ。院長が受け入れると思いますので、すぐに相談の日程を調整しましょう」
と、いとも簡単に受け入れてくれた。自分と娘は10日間ものあいだ、散々病院を探し、何をしていたんだろう・・・と、
力が抜けてしまった。さっそく病院のホームページを開いたら、緩和相談のことも載っていた。
「緩和ケア」で検索したいたので、ひっかかってこなかったらしい。と、泣きながら話された。
お話を聞いて少し納得できなかったのは・・・
S大学病院には緩和ケア病棟がある。当然緩和ケアチームだってあるだろうし、
自分の病院にかかっている患者さんが、こんな状態にあり、ご本人やご家族がこんなに悩み、もがいているのに、
どうして手を尽くしてあげないんだろう?
どうして手を差し伸べてあげられないんだろう?
主治医は、もう治療も無く、状態が悪化しているのに、なっぜ緩和ケアチームにコンサルトをしないのだろう?
なぜ、Aさんに関し、S病院の地域医療連携室、ソーシャルワーカーは機能していないんだろう?
緩和ケアの教育テーマの中にも、「いつでも、どこでも、切れ目の無い緩和ケアの提供を行う」ことが重要とされているはずなのに・・・
緩和ケア病棟を持つ病院の患者さんが、なんでこんなに迷わなければならないのだろう・・・?
とのことだった。
奥様には、今はともかく苦しみの除去に全力を尽くし、状況を判断しながら何が出来るかいろいろ考えてみることをお話したが、
至急検査の結果が返ってきてみると・・・
Aさんの腎臓の機能は極端に悪く、CTでは両側の腎臓が肺癌の転移により腫瘍で占拠され、まったく機能をしていなかった。
胸の両側には胸水がたくさんたまっていた。
平和病院には腎臓内科専門医がおり、透析施設もあるので、結果をコンサルトしたが・・・
命を救うには透析をまわすしかない。ただし、この状況では透析中の血圧維持が出来ない可能性が高い。
透析をしなければ、もう1日か2日しか持たないだろう・・・。とのことだった。
朝、初めてお目にかかったときには何とか応答できたAさんの状態は午後には急速に悪化していき、
意識も朦朧とし、顔は急速にむくんできた。
肺癌のときによくおこる、太い静脈の閉塞症状が疑われ、もはや打つ手も限られてきたが、
奥様には正直に状況をお話しし、透析、胸水穿刺の可能性についても相談した。
「こうやって、根治的な治療は出来なくても、苦しみを取るためにどんな方法があって、そのリスクがどうで・・・
そんなことは状態が悪くなってからは何もしてくれなかった。治療があるうちは積極的にいろいろ言ってくれたのに・・・・」
奥様は涙を流しながらおっしゃった。
状態が悪いこと、もう今日にも別れの時が来ることを伝え、ご家族にもそのように伝えておくようお願いした。
結局、胸水はとりあえず抜くことにしたが、透析はおこなわないことにし、苦痛緩和を最優先にした。
その夜、もう、Aさんの反応はほとんどなくなってしまった。
病室に行くと、奥様と、Aさんの母親が心配そうに見守りながら、ときおり、声をかけていた。
母親は、Aさんはぶっきらぼうだが優しい息子だったこと。
少し前に電話をかけてきて、めずらしく1時間以上も話し、「どうも先に逝くことになりそうだ。ごめんね・・・」と言っていたことも
話してくださった。
自分の親より先に死ぬことは、当然親を悲しませることになる。
自分が病気になったときも、[母親より先にあの世に行くわけにはいかない!」という強い思いがあったので・・・
Aさんの無念さはどれほどだろう・・・・ということが痛いほどわかった。
病棟の看護師には、急な変化があったときはいつでも自分を呼ぶように伝え、その日の夜は自宅にもどった。
翌日・・・(平成21年5月22日)
「がんばって」と「ありがとう」②
Sさんが入院していたのと同じ頃、少しはなれた個室にTさんが入院していた。
肺癌、脳転移の患者さんで、手術、化学療法など、長い間さまざまな治療を受けながら、病気と闘ってこられた。
もはや積極的な治療が困難とのことで、転院あるいは在宅復帰をするように言われ、
ご家族は緩和ケア病棟を考えており、そのほかの療養先の候補として、平和病院の名前を挙げられたため、
ホームページをご覧になった娘さんと、奥さんが、「がん緩和相談外来」に来院された。
患者さんにとって望ましい施設を探されており、他の病院や緩和ケア病棟の話も聞いてみたいとのご希望もあり、
後日、ご連絡をいただくことにして、その日はお別れしたが、
数日後、娘さんから、「平和病院でお願いしたい」と、お電話をいただいた。
さっそく部屋を手配し、入院となったが、
そのときには病気の進行や、脳への治療の影響もあり、かろうじて言葉が聞き取れる状態で、
体は麻痺し、ご自分では動くこともできなかった。経管栄養が行われていたので、そのまま継続したが、
そのうち誤嚥を起こすようになり、一時は状態が急激に悪化した。
まだ治療により肺炎の状態は改善する可能性があったため、抗生物質を投与した結果、熱もおさまり、もちなおした。
その後は点滴を行い、入院を続けたが、奥様や、娘さんは毎日来院され、部屋を訪れるたびにお話しする機会もあり、
その日の患者さんの状況などもご報告できた。
時には小さなお孫さんも一緒にこられ、おじいちゃんのベッドサイドで時間を過ごしていた。
呼吸苦や疼痛コントロールは行っていたが、痰を吸引する時の様子はご家族にとってつらかったかもしれないが、
そのほかはおおむね穏やかにすごされながらも、次第に状況は悪化していった。
呼吸の状態が弱くなってからはモニターをつけたが、ご家族にはモニターに関しての自分の考えもお伝えし、
いよいよの時には患者さんの傍にいて、患者さんに触れたり、言葉をかけてほしいこともお話しした。
亡くなる前の日には、呼びかけにも応答が無くなり、呼吸も努力様になったが、
あらかじめ、呼吸の状態が変わってくること、そのときには苦しそうに見えても、
ご本人は、もう苦しみは感じていないと思われることもお話ししておいたので、
ご家族も、比較的冷静に状況を受け入れてくださっているようにも思えた。
最後の日、そろそろ呼吸が止まるころ、Tさんのところに行こうと自分の部屋を出たところで「看護師さん」という声がして、
ちょうど娘さんがTさんの部屋のドアを開けていた。
「どうしました?」
「呼吸が・・・」
そのまま部屋に行くと、Tさんの呼吸がほとんど止まっていた。
自分も、ご家族も看護師もTさんの傍におり、モニターは早めに止めさせていただいた。
ご家族はTさんに話しかけ、治療中にがんばったこと、ご家族も大変だったことなどのお話もしながらTさんを見守った。
奥様も、娘さんも、「がんばって!」とはおっしゃらなかった。
もしかしたら、自分が何回か「ご本人は病気の経過中、ず~~~っとがんばってこられた方ばかりなので、
患者さんにはいつも【がんばって】とは言わないようにしている」とお話ししていたせいもあるかもしれない。
Tさんは一度ゆっくり呼吸をし、そのまま静かになった。
しばらくしてから、「Tさんの呼吸が止まりました。まだ心臓は少し動いていますが、もうすぐその動きも止まります。
いよいよお別れのときになりました」とお話した。
奥様がTさんのあたまをなでながら「ありがとう」とおっしゃった。
娘さんが「お父さん、ありがとう」とおっしゃった。
そして、2人で涙を流した。
一緒にいたお孫さんに、「おじいちゃん、もうおわかれだよ」と伝えた。
お母さんと、おばあちゃんが泣いているのを見たお孫さんも、一緒に悲しくなって泣き始めた。
時間が静かに過ぎた。
きっと、病気と闘い、ずっと頑張ってきたTさんは最期は「ありがとう」といわれながら息を引き取った。
SさんとTさんはそう違わない日に亡くなったが、
その亡くなり方はずいぶん違った。
もちろん、亡くなりかた、ご家族の反応は、ひとつとして同じものは無いのだが・・・
SさんとTさんの違いは自分にとってもかなり印象的だった。
決してどちらがよくて、どちらが悪いというものではない。
この数年、患者さんが亡くなられるとき、いつも、自分が死ぬ時はどんなふうにして死んで行くのだろう・・・と思う。
必ず、自分と、患者さんをダブらせる。
たぶん、自分も同じ名前の病気を経験したせいで、
「死ぬときのこと」がけっこう近くにあるような・・・漠然とした恐れがあるのかもしれない。
だから、自分がそのとき苦しみたくないぶん、患者さんにも苦しんでほしくないし、患者さんが自分だと思って治療する。
自分が「緩和ケア」にこだわる理由の一つなのかもしれないと思っている。
それだからこそ、Sさんの場合とTさんの場合も、もしこれが自分だったら、最期まで本当に周りの声が聞こえているなら・・・
どうなんだろうと思った。
結論は書かない。
「がんばって」と「ありがとう」・・・
自分は・・・これからも出会うであろう患者さんたちは・・・(平成21年4月17日)
「がんばって」と「ありがとう」①
「がん緩和相談外来」を始めて半年がたった。
この半年で50人以上の患者さん、ご家族とめぐりあった。
今でも相談外来から、9人の患者さんが入院しており、定期的に予約外来に通っている患者さんが6人、
2人は私が往診している。
ただ、患者さんとめぐり合う数も多くなった分だけ、多くの患者さんとの別れも経験した。
患者さんが最期の時を迎える時のご家族の反応は患者さんの数だけちがう。
それぞれの患者さんには、それぞれのご家族との長いかかわりがあり、
患者さんの年齢、看取る側のご家族の年齢、
患者さんの闘病の期間、治療の内容など、いろいろな要素がある。
そんな中で、最近、1週間の短い期間のなかで、全く異なるご家族の反応を経験した。
Sさんは悪性の血液疾患の患者さんだったが、状態がかなり悪くなってから基幹病院から紹介されてきた。
病気が発見されてから数年間、積極的な治療は行わず、いろいろな民間療法を試していた。
ただ、病気は確実に進行し、胸水、腹水が急速にたまり、
紹介元の病院でも頻回に穿刺、吸引が繰り返されていた。
平和病院に入院した時、痛みは無く、食欲もあったが、頻回の穿刺により体力は消耗し、ガリガリにやせていた。
腹水、胸水は取らないと苦しくなり、呼吸苦も出現していた。
ご自分の病気に関して理解はしていたが、新聞記事に載っていた新しい治療法のことを詳しく調べていたり、
残された時間が短いことを理解しているのか・・・どうもつかみきれなかった。
入院当初は、まだ各種のサポートを導入し、少しがんばれば在宅復帰も可能な状態ではあったが、
「自分は神経質なので、病院の個室で静かにしていたほうが気が休まるんです。今はとても心地よい状態なので
少しわがままを聞いてください」と、継続入院を希望された。
もともと若い息子さんが3人いて、その中の一人が平和病院のことを聞き、様子をごらんになり、
その後、緩和相談外来で私が話を伺い、入院になったが、
ご家族は十分に患者さんの病状、厳しい予後は理解されていたようだった。
入院後、腹水、胸水のたまりは容赦なく、さすがに食事も食べられなくなり、呼吸状態も悪化し
翌日までもたないと判断したので、ご家族に連絡した。
最近、状態の悪くなった患者さんの病室にモニターを入れるかどうか、いつも考えている。
看護師側から言わせれば、ステーションにいながら状態が把握できるので、
いよいよ状態が悪くなった場合に直ちに病室に駆けつけることができるメリットはある。
ただ、ターミナルの患者さんの場合は、状態が悪い場合、ご家族が付き添っているケースがほとんどなので、
患者さんの呼吸状態などが変化すればナースコールを押して知らせてくださる。
イザと言う時、ご家族がモニターの画面ばかりをじ~っと見つめてしまい、肝心の患者さんを見てくださらないことも多く、
いつも違和感を感じてしまう。
Sさんの病室にもそのときはモニターが設置されていた。
呼吸がだんだん弱くなってきた頃にはご主人、3人の息子さん、Sさんの妹さんがベッドの周りに集まっていたが・・・
あらかじめ、もう最期の時が近いことをお話しし、呼吸がいよいよ止まる間際に病室に入った。
ご家族は全員が、「がんばって」「ほら、呼吸しなくちゃダメだよ」、「がんばれ!」と、時には体をゆすり励ましていた。
呼吸が止まっても心臓はしばらく動いている。
「あっまだ動く、頑張れ、頑張れ!」「まだ大丈夫!」
Sさんの場合、最期は自然のままに・・・ということは決まっていたので、人工呼吸をすることも、心臓マッサージを行うことは無い。
ご家族はモニターをくいいるようにみつめ、励まし続ける。
まだまだSさんの最期を受け入れられる状態ではないと判断し、看護師にも目で合図をし、いったん部屋を出た。
それから1時間以上、部屋の外を通るたび、ご家族の声が廊下まで響く、
「がんばってよ、おかあさん!」
「もう一度息しなくちゃ・・!」「だめだよ」
ステーションの心電図の波はときどきゆれる。おそらくご家族が患者さんの体にすがっていることが想像された。
どれぐらい時間がたっただろうか・・・何回部屋の前まで行き、ご家族の声を聞き引き返しただろう・・・
ついに、部屋のドアを開け、中に入った。
「Sさんは長い治療の中で本当にがんばられたと思います。でも、もうがんばらなくてもいいのではないのでしょうか・・・
呼吸も止まって1時間以上たちました。心臓も、もう動くのをやめました。
残念ですが、お別れの時間のようです」
その言葉で、いったん時間が止まった。
ご家族はしばらくだまったまま動かずにいた。
しばらくしてご主人が「ありがとうございました」と、言うと同時に、皆さんがまた泣き始めた。
時間を確認し、頭を下げ部屋を後にした。
Sさんは最後の最後まで、ご家族から励まされながら亡くなっていった。
よく、ご家族に、「最期まで耳は聞こえていると言われます。患者さんに話しかけてあげてください」と、言うことがある。
一度心臓が止まり、周りの人が葬儀の話をしていたら、奇跡的に回復した人が、
周囲の人たちが葬儀の話をしていたことを覚えていて、
回復したあと「人の目の前で葬式の話なんてしやがって!」と言った、という現実の話しもあるらしい。
本当のところはわからない。
たぶん自分が死ぬ時にならないと本当のところはわからないのだろうと思う。
でも、Sさんが最期までご家族の声が聞こえていたら・・・
「頑張って息をしなくちゃ!、生き返らなくちゃ!」と、思ったかもしれない。
それとも「もうがんばれない!」と思っただろうか・・・
確かにSさんはまだ若く、息子さんたちも若かった。
普通の家庭なら、まだまだ夫婦として、親子としていろいろな時間を一緒に過ごしていく時期だ。
まだまだあきらめきれない気持ちが強かったに違いない。
Sさんは今まで自分が体験した看取りの中で、最後まで励まし続けられた患者さんかもしれないと思った。(平成21年4月10日)
もどってきません!
Yさんはある基幹病院の泌尿器科に再発癌のため入院していたが、癌は体中に広がり、もはや打つ手も無いとのことで紹介されてきた。
もともと在宅での療養を強く希望していたようだった。
ただ、そのためのサポート体制はまだ出来ておらず、かといって基幹病院にはそれ以上入院できず、平和病院に入院した。
全身状態は確かに悪く、痛みのコントロールも不十分で、肺転移による呼吸苦も強かったが、
入院後に何とか痛みの調整を行い、楽になったのか、退院を強く希望された。
奥様と娘さんの3人暮らしだったが、奥様も1日うちにいて介護することが可能で、娘さんも医療関係者でもあり、
自宅も、病院から比較的近かったので、
自分が往診し、「ひなたぼっこ」の訪問看護師がお世話をする体制を整えた。
在宅ターミナルの場合でも、そのときそのときにより、患者さんやご家族の考えが揺れ動くことも多く、
一度自宅に帰ったといっても、しばらくして、いろいろな理由で、やはり入院を希望される場合も多い。
平和病院は、いつでも満床の病院ではなく(経営上はそうあってほしいのだが・・・)小回りが利くので、
在宅と入院を繰り返す患者さんも多い。
Yさんが退院のとき、病棟の看護師が言った。
「Yさん、おうちに帰れてよかったですね、でも、心配なことがあったり、ご自宅で調子が悪くなったら、いつでももどってきてもいいんですよ」
それを聞いたYさんが、いつもの声よりすこし大きな声で答えた。
「いいえ、絶対にもどってきません!」
そのときには全身状態はすでに相当悪く、あと何回往診が出来るか・・・というような状況であったが、
それでもYさんは自宅へと帰っていった。
その数日後、初回の往診に出かけた。Yさんのような患者さんの場合、定期往診では対応できない。
自分の時間が空いていれば、訪問看護師に合わせて出かけていくし、
訪問看護師がいなくても、報告を受けて気になれば、患者さんの自宅に連絡し、
「今日の○時頃、お伺いしていいですか?」と、1人で」出かけることが多い。
病院の往診車は中古の「走ればいい」というコンセプトの車なので、残念ながらナビはついていない。
地図で番地を調べたが、あいにくYさんの自宅は比較的新しく分譲された区画で、いまひとつわかりにくい。
一足先に、訪問看護師が行っているというので、近くに行ったら電話をすることにして、とにかく出かけた。
近くに着き、車をとめ、白衣のままうろつき、Yと言う苗字の家を見つけたので、しつこく呼び鈴を押した。
「Yさ~~ん」・・・誰も出てこない。
よくみると微妙に番地が違っていたので、あわてて別の家を探した。
それでもわからず、訪問看護師に電話をかけ、それらしい一角を見つけたが、
同じような色と形の家が何件も固まって建っており、なかなか見つからない。
しかたが無いので、たまたま外にでていた人に尋ね、ようやく見つけた。
Yさんはリビングのベットに横になっていた。
「お気に入りのベッドでなんですよ」奥様がおっしゃった。
退院後のわずか数日で、急速に状態が悪くなっているのは一目でわかった。
ただ、だるそうではあったが、症状も比較的よくコントロールされ、自宅に帰れたことをとても喜んでいた。
「もし調子が悪かったら、いつでも連絡してくださいね。可能な限り、夜中でも明け方でも駆けつけますから。
それでも心配になったら、そんな時にはいつでも入院も出来ますから」
「いえ・・もう病院には帰りません!」
Yさんは退院のときと同じようにきっぱりと言った。
何回かめの往診の時には、さらにYさんは弱っていた。もう今日、明日・・・といった状態であった。
奥様が「少し前まで起きていたんですけど、今はよく眠って・・・」とおっしゃった。
せっかく休んだばかりと言うので、状況を確認し、奥様にはそろそろ最期が近いことを再度お話しし、
「じゃあ、今日は起こさないで帰りますね」と、そのまま帰ってきた。
ただ・・・
翌日、訪問看護師から連絡があった。
「Yさんの呼吸が止まった様だと、奥様から連絡があった」とのことだった。
すぐに往診車で駆けつけたが、すでにYさんはお気に入りのベッドの上で静かに亡くなっていた。
「少し前まで話していて、眠ったのでそばを離れて部屋にもどったら、なんだか息をしていないようで・・・そのまま・・・」
奥様は目に涙をためながらおっしゃった。
Yさんはご自分で宣言したとおり、最期はご自宅に帰り、病院にもどることはなかった。
すべて覚悟の上の退院だったのだろう。
奥様や娘さんもYさんの希望を理解してくださり、協力してくださった。
平和病院にくるまでには発病、治療、闘病と、長い間ご本人はもちろん、ご家族もたくさんのつらく、大変な道を歩んできたのだと思う。
紹介されて初めてお目にかかる時には、もうYさんのように、相当具合が悪いケースも多くなっている。
どうみても、もうそんなに長くは無いのなら、
治療をしてきた病院で、今まで長く付き合ってきて信頼関係が出来上がった主治医や看護師のもとで
最期を迎えたほうが・・・と思うほど、平和病院での時間、自分たちと関わる時間があまりにも短い患者さんも多くなっている。
それでも大病院には、長く患者さんを入院させてあげられない事情、縛りがある。
よほどのことが無い限り、1ヶ月は待ってはくれない。
それはそれで、病院の持つ役割を考えれば仕方が無いのもわかる。
だからこそ自分たちに与えられた短い時間のなかで、どれだけ患者さん、ご家族の援助が出来るか・・・が勝負になる。
悩みは尽きない。(平成21年1月30日)
誕生日会の夜に
Nさんは近くにある基幹病院で乳癌の手術を受けたが、その後、不幸にも肺転移、脳転移が発見された。
脳転移に対しては放射線治療が行われ、抗癌剤治療も行われたが、
残念ながらその勢いは抑えられず、もはや治療の手段が無いとのことで、放射線治療後のリハビリもかねて、
平和病院に紹介されてきた。
Nさんのご主人はすでに亡くなっており、入院前まではアパートに一人住まいだったが、
息子さんや娘さんはそれぞれ仕事があり、まだ小さなお子さんがいたので
それぞれの自宅でNさんと一緒に暮らすのは困難とのお話しだった。
入院当初は、治療の影響で、歩くこともままならなかったが、リハビリスタッフのサポートにより、
NさんのADLは驚異的な回復をみせ、支えなしに自分ひとりで歩けるようになった。
ベッドサイドでお話しする中で、Nさんは強く退院の希望を話された。
食事も食べられており、痛みも無かったので、適切な在宅サポートを提供すれば、
ひとまず退院も十分可能ではないかと思われた。
ある日、ご家族を呼んで、Nさんの現在の状態がかなり安定していること、ご本人も退院を希望されていることを伝えたが・・・
「自宅で一人でいる時、何かがあったら心配・・・」とのことで、ご家族は退院に反対、
週末の外泊だけの対応が何週か続いた。
Nさんのような患者さんが在宅復帰を望まれる時、
その障害になるのが、ご家族の 「自宅で一人でいる時、何かがあったら心配・・・」という思いであることは、本当に多い。
「うちには帰りたいけど・・・子供たちに迷惑をかけるから・・・」
その後、回診のたびにNさんはつぶやいた。
Nさんの状態が悪化するのはもはや時間の問題と思われたので、自分としては何とかNさんの希望をかなえてあげたかったが・・・
なかなかご家族の考えは変らなかった。
自分が当直の土曜日、時間をとってご家族とお話しすることが出来た。
Nさんに残された時間はもう限られている。自宅に帰っても、何かあったらいつでも入院は引き受ける。
自分が往診で対応するし、緊急時は夜中でも連絡してもらってかまわない。訪問看護もお手伝いできる。
何より、Nさんが退院を強く希望している。
ご家族も大変なことはわかるが、そんな状態が一年続くとは思えない。長くても数ヶ月
あるいはもっとずっと短いかもしれないと思われる。
自分も出来る限りのサポートは行う。ここは皆さんが協力して、なんとかNさんの希望をかなえてもらえないだろうか・・・・
「考えてみます」 その日は結論は出せなかったが・・・
その数日後、
ご家族から連絡があった。自宅はやはり心配なので、息子さんの家で一緒に暮らすことを決心した。
ただ、日中は仕事があり、一人になるのでサポートをお願いしたい・・・と。
さっそく訪問看護ステーションに指示書を書き、自分が往診対応を行うことにした。
息子さんの自宅は病院からやや距離があるマンションだったが、定期往診ではなく、なるべく頻回にご自宅に訪問するようにした。
退院後は痛みも出てきたので、モルヒネ製剤の投与も開始した。
しばらくすると胸水も貯留し、呼吸苦も出現したため、在宅酸素も導入した。
往診のたびに、つらくて不安だったら、いつでも入院できることもお話ししたが、
「もう入院はこりごり・・・」
と、Nさんは自宅療養の継続を強く希望された。
退院2~3週間後、訪問看護師からの報告でも、次第にNさんの状態悪化が伝えられたが、
それでもご家族から再入院の申しではなかった。
Nさんの誕生日を1週間後に控えたある日・・・
Nさんの意識レベルが落ちてきているとの報告を受け、訪問看護の時間に合わせて往診に出かけた。
その日は、ご家族が集まって誕生日会があるとのことだった。
具合は確かに悪かったが、往診の時にはお話しすることも可能だったのだが・・・・
その日の夜、10時頃、自宅で携帯電話が鳴った。
訪問看護師からだった。「Nさんが呼吸停止です」
あわててNさんの息子さんの自宅に急いだ。確か「誕生日会」だったはずだが・・・
家に入ると、たくさんの小さなお孫さんたちが走り回っていた。
息子さんや娘さんもすべて集まっていた。
息子さんが「今日は母の誕生日会をやろうと、みんなが集まり、ケーキのろうそくに灯をともし・・・
Nさんの周りでHappy Birthdayの歌を歌う中、全員に看取られながら息を引きとりました」と、説明してくれた。
その後、娘さんは訪問看護師と一緒にNさんにお化粧をした。
自分はNさんの死亡を確認し、最期のお別れをし、帰ろうとしたが、
「先生、ありがとうございました。先生が後押ししてくださったおかげで決心することが出来ました。
母は希望通り退院も出来、こうやって全員で最期を看取ることができ、今ではつれて帰って本当によかったと思っています」
玄関まで送ってくれた息子さんが言ってくださった。
患者さんを看取る時、いつも「本当にこれでよかったんだろうか・・」と自分に問いかける、
「これでよかったのだ・・・」と自分でも思えるような満足な看取りはそれほど多くない。
もちろん亡くなったご本人に直接聞くことなどは出来ない・・・
直接、ご本人からあれが良かった、これが不十分だったということを教えていただくことは出来ないのだ。
もっと苦痛を取れたんじゃないか・・・もっと悩みを聞けたんじゃないか・・・もっと寄り添えたんじゃないか・・・
亡くなった患者さんの前で、それまでのかかわりをいつも思い返す。
Nさんのご家族の方がその時言ってくださった言葉は、そんな自分に大きなパワーを与えてくれたような気がした。(平成20年10月13日)
一般病棟での緩和ケア患者さん受け入れ
最近、高齢者のがん患者さんが増えてきている。
もちろん、高齢者だからといって、治療が行われないわけではなく、手術、抗癌剤の投与などが行われるケースもある。
ただ、進行再発の場合や、手術不能の場合は、基幹病院では対応できない(しない)ケースが多い。
基幹病院は超急性期の患者さんを治療する病院なので、一人の患者さんが長い間入院していれば、
利用できるベッドがどんどん少なくなっていく。
患者さんの自宅の近くの診療所の先生に往診を依頼したり、自分で探してもらうケースも多く、
介護保険のサービスや、訪問看護を利用し、自宅でケアを受けることになる患者さんも多いのだが、
開業の先生方の中にも、癌性疼痛に関しての医療用モルヒネ処方になれていなかったり、
副作用のコントロールに難渋するケースもあり、
最期まで看取っていただけるケースはけっして多くはない。
以前、鶴見区医師会の訪問看護ステーションの懇親会に参加したが、
参加した先生方からは、
「在宅での看取りを行いたいが、夜間対応などの時間的制約もあり、実際は難しい」
という意見のほうが多かった。
がんの末期、といわれ、全身状態が落ち、食事がなかなか食べられなくなってくると、
ご家族の方の不安はどんどん大きくなる。
「何かあったとき、どうしていいかわからない」
「日中は仕事にいかねばならず、ひとりにするのが心配」など・・・
そんな理由で入院を希望されるケースが、圧倒的だ。
緩和ケア病棟に申し込みをしている患者さんが、その待機期間中に当院に入院してくるケースも最近はずいぶん多くなったが、
緩和ケア病棟では入院適応を決める外来での家族面談が2ヶ月以上先! などというケースもめずらしくない。
入院できるのはいつになるかはわからないし・・・
多くの場合、今、入院している患者さんが亡くならなければ、部屋は空かない・・・
何か、やるせない思いもする。
基幹病院から紹介される癌の患者さんの紹介状にも、予後は数ヶ月から半年と思われます・・・とか、
漠然としているものがほとんどで(当たり前の話ではあるが・・・)
平均在院日数の制限がある一般病棟での長期間の受け入れは、病棟運用上の障害になることもある。
ただ、平和病院では状況によっては長期になるようなケースでも、積極的に受け入れは行っている。
もちろん、入院したあと、ご家族やご本人とのコミュニケーションが取れてくると、じっくり将来について話し合い、
在宅に復帰していく患者さんも、多くはないが出ていることも事実だ。
在宅と入院を繰り返す患者さんもいる。
もちろん、いちどお引き受けした以上は、退院後も責任を持って在宅支援を続けるし、
たとえ夜中でも明け方でも、状況が悪化すれば、ご自宅に往診することも覚悟の上での話しだ。
(これにはどうしても、訪問看護師の献身的な協力が欠かせない!)
いま、一般病棟看護師が、看護研究で、「一般病棟での末期癌患者さんの看護」についての検討を行っている。
彼女たちが、様々な科の患者さんの看護をする中で、どうすればターミナルの患者さんと向き合えるのか、
満足のいく看護が提供できるのか・・・
自分たちが満足できる看護が出来ていない・・・と感じているのだとしたら、それは何が障害になっているのか・・・などなど
やはり、看護師たちが言うのは「ゆっくり時間が取れない」 「業務が忙しすぎる」という言葉だ。
確かに今の平和病院の一般病棟は、各科の混合病棟であり、
手術患者さん、透析患者さん、高齢者の寝たきり患者さん、など、様々な病態の患者さんが混在して入院しており、
最近は、看護記録など、事務的な業務の煩雑さもあり(自分から見ると、本末転倒のような気もすることはあるが)、
一人の患者さんのベッドサイドにゆっくり座り、話を聞く時間はとりにくいのかもしれない。
また、大部屋に入院している患者さんの場合、長い時間込み入った話しをすることは、
ほかの患者さんもいるので、話したくてもためらわれることも多い。
個室の場合は気兼ねなく話すことは可能だが、必ずしも全員が個室に入院しているわけではない。
看護師の言い分も同じなのかもしれないが、基本的に「時間が無い」は、決していい訳にはならないと思っている!
もし、看護師たちに十分時間が取れたら、自分たちの満足のいく看護ができるのか・・・といえば、
必ずしもそうはいかないとも思っている。
やはり、知識の裏付け、コミュニケーションスキルなどが身に付いていなければ、気持ちはあっても十分な看護は出来ない。
話を聞くことは大切だが、患者さんのアセスメントを行い、それ基づいた様々な苦痛の緩和を行う事が大前提だ。
もちろん、基本は看護師の優しい気持ちであり、患者さんのそばにいることそのものが大事であることはいうまでも無いが・・・
それだからこそ、患者さんに関わる多くの職種の職員、特に看護師には緩和医療に関しての知識を身につけてもらいたいし、
勉強会を立ち上げたのも、そんな気持ちがあるからだ。
平和病院が緩和ケア病棟を、たとえ、将来立ち上げても、一般病棟や、療養病棟にも癌の患者さんは入院してくる。
自分自身はもちろん、病院全体としてのレベルの底上げがどうしても必要になる。
また、病院のレベルだけでなく,地域全体としてのレベルアップと連携の確立も、その先には必要になってくる。
まだまだやるべきことは多い!(平成20年9月5日)
緩和ケア研究会
癌対策基本法、および、それに基づく、がん対策推進基本計画が国の指導で行われるようになった。
この計画の中ではがん診療に携わる医師に対する緩和ケア教育が大きな柱になっている。
厚生労働省は各都道府県に対して「すべてのがん診療に携わる医師」に対して、緩和ケアに関する研修会を開催するように通知を出した。
これに並行して厚生労働省は、日本緩和医療学会に、この研修会の指導者につき推薦するように求めた。
学会ではこの要請に応え、ある一定の条件を満たした医師を指導者として推薦することになった。
自分もこの条件にあてはまるため、推薦指導者として認められることになった。
先日、緩和医療学会のホームページには推薦指導者の氏名、所属などが掲載された。
まだ全国で190人程度だ。
今後、教育に係る講習(2泊3日)に参加し、その後、実際のお手伝いを行うことになるらしい。
このコーナーでも「DVD」のところで緩和ケアに関わる「教育」について触れたが、
実際、自分が「教育」のお手伝いをすることになるとは、そのときは思ってもいなかった。
学会推薦者は神奈川ではまだ9人なので、今後講習会を開き、お手伝いをするスタッフを増やしていかなければならないのだろう。
平和病院では、緩和医療勉強会を開き、いろいろなテーマで勉強を行い、多職種のスタッフが集まってくる。
勉強会の内容は自分で考えて工夫はしているが、まだまだ満足が出来るものではない。
この「教育」に係ることで、自分の知識を高めるばかりでなく、院内のスタッフ教育にも役立つスキルを身につけることが出来ると思っている。
将来(現在もだが)、質の高い緩和医療の提供、病棟開設を目指しているものとって、今回の推薦は追い風なのかもしれない。
(平成20年6月7日)
偶然の告知③3
Nさんが亡くなってしばらくたったある日、外来診察中にNさんのご家族がご挨拶に見えた。
奥様はまだ納得がいかない様子で・・・
「私はぜんぜんわからなくて・・、あんなふうになっちゃうなんてねえ。どんどんやせていっちゃうし、
あの時はてっきり治るもんだとばっかりおもっててねえ・・・」と、亡くなられた日と同じように話された。
「病気のこと・・正直にお伝えできなくて、本当に申し訳ありませんでした。
私もずいぶん悩みましたが、Nさんがどうしても知らせたくないとおっしゃったので・・・」と、お答えはしたが・・・
今でも、本当に奥様に事実を伝えなかったことが、良かったのか、Nさんのご希望にそむいて、正直にお話ししたほうが良かったのか・・・
どちらが良かったのかを考える。考えてもなかなか結論が出せない。
後に残されるご家族のことを考えることも、緩和医療では必要になる。
その日の外来は、患者さんが多く、お話ししているうちにカルテはどんどんたまっていった。
娘さんや息子さんが気にして、「ほら、かあさん、外来の患者さんがいっぱい待ってるから、もう行こう」
と言っても、奥様はまだまだ話したそうだった。
「いいんですよ、お話しされたいときはいらしてください。時間を作りますから」と言ったが、
「先生、本当にお世話になりました。さあ、かあさん」と、息子さんたちは奥様の背中を押すようにして帰っていった。
奥様が、まだNさんがいなくなったことを受け入れられない様子なのが気になった。
緩和ケア病棟では残されたご家族に集まってもらい、故人をしのんで語り合う会が開かれるところも多い。
平和病院のように、一般病棟で緩和ケアに取り組む施設では、なかなかそこまで対応できないことも多い。
亡くなられた患者さんの状況や家族の環境などは、もちろん様々なので、
自分としても、ご家族同士が集まって語り合うことの重要性は知識として理解はしていても、
なかなか感覚的に対応できていないのが現状だったが・・・
Nさんの奥様を見て、患者さんが亡くなった後の、ご家族のフォローが、やはり大切なことを教えていただいた。
緩和医療に限ったことではないが、私達は患者さんやご家族から多くのことを教えていただく。
確かに緩和医療はオーダーメイドで、それぞれの患者さん、ご家族に違った対応が必要になるが、
それでも、これから自分が出会うであろう患者さんとのふれあいに、亡くなった患者さんたちが道しるべを残してくださっていく。
それぞれの出会いを大切にしていきたい・・・と、あらためて思った。(平成20年5月25日)
偶然の告知②
「先生、食事が入っていかないんですよ・・・」
Nさんは弱々しい声で言った。
それでも、そのころはまだ水分はかろうじて飲めたし、ご家族の差し入れのアイスクリームなどは口にしていた。
ご家族は毎日病室に顔を見せた。
ご高齢の奥様も毎日ベッドの横に座っていた。
Nさんとの約束どおり、病名を知らされていない奥さんは、毎回私の顔を見て、
「先生、どんな状態なんでしょうかね?」
「先生、良くなるんでしょうか?」
「先生、大丈夫なんでしょうか?」
など、いつもNさんのそばで聞いてきた。
「何とかがんばってはいるんですが・・・今のところ、なかなか厳しい状況が続いていますね・・」
などと、苦し紛れの言葉をNさんは黙って聞いていた。
あるとき、たまりかねて息子さん、娘さんを呼んでお話した。
「もう、かなり状況は悪くなっています。奥さんにこのまま隠し通すのは、かなり厳しいんじゃないでしょうか?
最期を迎えるの時のショックがよけい大きいような気がします。
そろそろ状況が厳しく、回復の可能性が少ない・・程度のことはせめて言うべきでは・・・」
息子さんたちは、「私たちもそれとなく言ってはいるんですが・・・」とのことだったが・・・
そんなころ、自分でもNさんに、もう一度尋ねてみた。
「Nさん、奥さんも毎日いらっしゃって、ご心配なさっているようですが・・・やはり病気のことは伝えないほうがいいですか?」
Nさんは「そうね、あいつは気が小さいからね・・・」と言ったきり目を閉じた。
いま、病気の告知はずいぶん行われるようになっている。それが前提で様々な治療、緩和ケアが提供される。
緩和ケア病棟の入棟基準に「すべて告知」が条件になっているところも多い。
偶然に告知が行われてしまったNさんに、どうしても聞いてみたいことがあった。
ある日、少し状態がよく、会話もそれほど辛そうでない時があったので、思い切って聞いてみた。
「Nさん、ご自分の病気のこと、思いもかけない形でお知らせすることになってしまいましたが・・・
今、ご自分の病気を知らされたこと、どのように思われますか?」
Nさんはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「う~ん・・・やっぱり知らないほうが良かったかな・・・」
それっきり、何もしゃべらなかった。
「そうなんですね・・・」自分も言葉がでなかった。
告知はある意味一方通行だ。それを前提として、患者さんやご家族をどう支えていくかを我々は考え、実行していくが・・・
告知をしなければ、状態が悪化した時にコミュニケーションがとりにくくなる・・・と、よくいわれる。
たしかにその通りだと思う。
ただ、Nさんの言葉はずっしりと響いた。
確かに知らされていなかった場合、今のような状況でNさんがどのように感じていたかはわからない。
今よりずっと思い悩んでいたかもしれない。
緩和医療に「たら・れば」は無い。
告知されていても、状況が悪くなった時に、「知らないほうが良かった」と考えるのは、
自分たちのサポートが不十分だったせいなのか・・・ただ、今となってはNさんが苦痛を感じないように全力を尽くすしかなかった。
その後、Nさんにはモルヒネの持続投与が開始された。
奥さんは相変らず毎日病室を訪れ、手を握っていた。その頃には、Nさんはほとんど眼を開けることも無くなった。
「もう、だめなんでしょうかね?」「治んないんでしょうか?」・・奥さんは尋ねてくる。
Nさん・・・やっぱりまだ隠していなくちゃダメですかね・・・心の中でNさんに尋ねてみても、
Nさんはもう答える元気もなくなっていた。
息子さんや娘さんには,もういつ急変するかわからないことを伝えたあとも、Nさんは静かに眠り続けていた。
急変したら、夜中でもいいから連絡するよう、スタッフには伝えていたが・・・・
Nさんが最期の時を迎えたのは、自分が当直の夜だった。
当直になるまで待っててくれたのか・・・とも思った。
奥さんは、最期の時もベッドサイドに座って、Nさんの手をさすっていた。
「奥さん、今までNさんが具合悪くなっていくのを見て、ずいぶん心配されたでしょうね。
Nさんとの約束で・・・ほんとのことを伝えられなくて。Nさんは、奥さんは心配性だからっておっしゃって・・・」
「私はてっきりよくなってくれるものだと思ってて・・・、どんどん具合が悪くなるし、どうしちゃったんだろうって・・
こんなになっちゃってねえ・・・」
「もう、だめなんですか?」
そういったきり、Nさんにすがって泣き始めた。(20年5月10日)
神奈川緩和医療研究会
先日、神奈川緩和医療研究会が開催された。
製薬会社からの案内で初めてこのような会があるのを知った。
パンフレットを見ると、在宅緩和医療を積極的に行っているFクリニックの先生が発起人らしく、
座長や閉会の挨拶が、神奈川区の平和病院との連携の会のメンバーの先生で、
講師も、緩和医療では有名な昭和大学の高宮先生というので、参加することにしていた。
7時半から横浜駅の近くのホテルで開催される予定だったが、
あいにく当日は8時までどうしても院内の用事が終わらなかった。
9時半までの予定なので、どうしようかと迷ったが、結局車を飛ばして横浜に向かった。
着いたのは1時間遅れだったが、会場はけっこう顔見知りの先生、ケアマネなども多く、
ちょうど、高宮先生の講演が始まるところだった。
高宮先生は、前回の緩和医療学会の教育セミナーの世話人などもなさっており、
先日自分が参加した緩和医療の教育者養成のセミナー、EPEC-Oの時、
最終日に神奈川出身の参加者が集まって今後の緩和医療教育に関してのミーティングを行ったとき、
直接お会いしたことがあった。
先生が平和病院と連携をしている先生の同級生と言うこともはじめて聞き、
世の中狭いもんだと、あらためて思った。
高宮先生も、自分を見てなんとなく顔を見たことがあるな・・・という感じだったようだが
直接名刺をわたして自己紹介もできたので、遅れても出てきたかいがあった。
この会は、主に在宅緩和医療、ケア普及のための勉強会、情報交換会がもとになっているようだったが、
比較的平和病院の近くで、在宅ターミナルを積極的に展開している先生がいることを知らなかったので、
やはりこのような会を通じてのネットワーク作りが必要であることを痛感した。
今後も毎月開催されるようなので、時間の許す限り参加したいと思った。
平和病院でも、緩和医療勉強会を開催しているが、最近は病院がごたごたしていたので、
勉強会の資料も作る時間が無く、間があいてしまったが、
何とか来月は第3回目を開催出来る準備を整えた。
院内のスタッフとはいえ、人前で話す時はそれなりに勉強しなくてはならないので、
知識の整理にもなり、自分のためにもなるので、こちらも出来るだけ毎月開催したいところではあるが・・・
なかなか時間が取れない!
自院で緩和医療病棟を持つためには、まだまだスタッフの意識付け、教育、環境づくりが必要になる。
地道にこつこつと行くしかないが、そんなに遠くない将来であることを願っている。(平成20年4月27日)
偶然の告知①
Nさんは近くの診療所の先生からの紹介で当院を初めて受診した。
胃癌の診断がかなり前からついていたが、90歳をこえるご高齢でもあり、ご家族の方も治療を希望されず、
ご本人には「胃潰瘍」と説明されていた。
診断がついてからしばらく時間がたっており、精査をかねての紹介だった。
検査の結果、胃癌はかなり進行した状態で、肝臓にも転移が認められたが、その頃はまだ食事も出来ていた。
もともと手術はご希望でなく、お子さんたちも親思いの優しいご家族だったので、
出来るだけ在宅ですごしていただくよう、ひとまず退院することになった。
退院前にはご本人への病状の説明に関して、ご家族とも相談した。
今後は状態の悪化が予想されるが、まだ少しは時間は残されている。
状態が悪くなった時に病名が告知されていない場合、
患者さんとご家族の一番大切な時期のコミュニケーションが妨げられるケースはよくあることだ。
ご本人もしっかりされているので、告知をしたほうが良いとも思われ、お勧めもしたが、ご家族は告知には消極的だった。
退院当日、看護師から連絡があった。
ご本人が「退院通知書」を見てしまい、そこに書かれていた病名「胃癌」と言う文字を読んでしまった。
かなりショックを受けているようなので来てほしい・・・とのことだった。
通常は封をし、このようなケースではご家族にお渡しするのだが・・・
たまたまご家族のいない間にベッドサイドにおいてしまったため、ご本人の目に触れてしまったのだった。
こちらも不注意であり、ご家族は告知を希望されていなかったので、当然憤慨なさっていると思われたが、
一番ショックを受けているのは、Nさんご本人なので、なによりもまず、Nさんご本人とお話しすることにした。
いつもは告知など、「悪い知らせを伝える」時には、どのように告げるかをよく考え、かなり慎重になる。
ただ、今回は正直いって、突然のことだったこともあり、やや慌てた。
いまさら、書いてあった病名は間違いで、実は胃潰瘍なんです。
見た目が胃癌の疑いもあると言うことで・・・担当のものもあのように書いてしまったんです!
など・・・とても白々しくて言えたものではない。
やはり、正直に全部をお話しすることにした。
面談室に着いた時、Nさんはすでに椅子に座っていた。
背中が小さく見えた。
「いま、看護師から事情を聞きました・・・・・」
「かなり驚かれたと思います・・・」
しばらくは沈黙が続いた。一気にいろいろ話してしまいたい気もしたが、ずっと自分もそばに座って黙っていた。
どれくらい時間がたったのだろうか・・・、何回言葉を飲み込んだだろうか・・・
「驚きました」・・Nさんがはじめて口を開いた。
「この年までずっと病気らしい病気なんてしたことが無かったから・・・癌なんてね・・・潰瘍だとばかり思っていましたから・・・」」
またしばらく黙った後、Nさんが続けた。
「でも先生、家内にだけは言わないようにしてください。お願いします。
家内はものすごく心配性で、きっと私が癌になってるなんて知ったら、きっとおかしくなっちゃうと思うんです・・・」
ご本人のことに関していろいろお話しするつもりだった自分には意外な言葉だった。
その後、あらためてご家族を交えてゆっくりお話した。
今後の療養のこと、体調には波があること、調子が悪くなってご自宅で不安があるようなら、いつでも入院が可能であること。
今後現れるであろう症状に関しては全力で治療し、痛みや苦しみがないようにすること。
そして、その方法もいろいろあることなど・・・
ご家族はその話を聞き、涙ぐんでいたが、ご本人は黙って聞いていた。
退院の日に突然の告知を受けたNさんは、紹介してくださった先生の下でひとまず在宅での療養を始めた。
その数ヵ月後・・・
食事が食べられない・・とのことで、Nさんはご家族に連れられて再び私の外来を受診した。
ずいぶんやせていた。(平成20年4月20日)
戒名
膵臓癌の末期、多発肝転移のSさんの入院要請が、近隣の基幹病院からまいこんだ。
すでに川崎市にある病院の緩和ケア病棟への申し込みを済ませており、入院待ちの状態とのことだ。
現在は満床だという。
先日、見学に行った緩和ケア病棟のDRが、「誰かが亡くならないと、次の患者さんは入れない・・・
亡くなるのを待っている・・・ということに、複雑な思いがする」と、言っていたのを思い出した。
おそらくは1~2ヶ月待ちになるという。
一人住まいで、その間入院を受けてくれる病院を探しているとのことだった。
全ては告知されている。
入院時は、モルヒネ製剤や、鎮痛剤も服用してはいたが、疼痛コントロールは不十分で、食欲も低下していたが・・・
入院後に疼痛コントロールを全力で行ったため、何とかコントロールされた状態になり、
それにつれ、食欲も、出された量は完食するようになった。
確かにガリガリにやせてはいたが、元気だった。
平和病院に入院してから10日程たったある日、突然、緩和ケア病棟から「空きが出来た」との連絡があった。
当院での残された入院日が、あと数日にせまった土曜日の午後、
ちょうど当直だったので、Sさんの病室を訪れ、二人だけで比較的長い間お話しすることが出来た。
Sさんには、残された時間が少ないという悲壮感が全く感じられなかった。
どうしてそんなに達観していられるのか・・・
自分の病気、残された命をどう思っているのか・・・
死に対する恐怖心は・・・
残される人への思いは・・・
聞いてみたいことはいろいろあった。
しばらく話した後・・・
「先生、これを見てくださいよ!」
Sさんは自分の荷物の中をゴソゴソと探していたが、そのうち1枚の紙を取り出した。
「これね、自分の両親と、祖父母の戒名なんです」
いずれも立派なもので、文字数もかなり多かった。
「病名を告げられた時は・・・そりゃあショックでしたよ。自分なりにいろいろ膵臓癌のことを、とことん調べました。
どの本を見ても・・・とても長生きは出来ない・・ダメだと覚悟しました。
死ぬのは怖くありません。ただ、痛んだりするのだけは困ります。その点だけはお願いしたいです。
私はみっともない死に方だけはしたくないんです。
覚悟をしたあと、自分も寺の坊さんに戒名をつけてくれって頼みにいったんです。
そしたら、150万円もかかるって言うんですよ!
とんでもない、どうしても10万でつけてくれって粘って頼んだんです。
坊さんが言うには、戒名をつけると本山の寺にいくらか収めなければならないらしく、
これ以下では足が出ちゃうってんで・・・しかたないんで20万だけは払いました」
そう言うと、今度は自分の戒名を見せてくれた。
「どうです、なかなかいいでしょ?」
確かに文字数は少なかったが、決して見劣りするものではなかった。
「死んじゃったら、自分は金なんて使えないんだから、その分、甥っ子や姪っ子に少しでも多く残さなくっちゃね。
葬式はするなって・・・遺言にも書きました」
確かに病状はかなり進行してはいたが・・・
やせているだけで、食事も食べ、自分で元気に歩き、はっきり会話も出来るSさんが、
緩和ケア病棟に入るというのが、どうしてもピンとこなかった。
転院の日、「あとどれくらい生きられるかわかりませんが・・・先生、短い間でしたがお世話になりました」
そう言って、Sさんはしっかりとした足取りでさっていった。
しばらくたった後、Sさんが転院していった病院から1通の手がもが届いた。
Sさんが亡くなったとの知らせだったが・・・・
亡くなった日は、なんと平和病院を退院したわずか3日後のことだった。
あんなにしっかりした足取りで転院していったSさんが・・・・何でそんなに早く・・・
どうしても信じられなかったが・・・
緩和ケア病棟での3日間、Sさんが、きっと苦痛もなく、平穏な余生を過ごし、大往生したと思うしかなかった。(平成20年1月30日)
短い時間の中で
最近、MSW(ソシャルワーカー)からの入院相談にも、他院から癌の末期の患者さんの入院先を求めるものが多い。
大きな病院で手術をされ、外来に通院しているうちに転移、再発が見つかる。
抗癌剤治療や、放射線治療などが行われるあいだは、その病院に通院したり、一時的に入院したりすることが出来るのだが、
もはや手の施しようがなくなってきて、食事が食べられなくなり、全身の状態も悪化してくると
家族も自宅では心配で見ていられない・・・ということになる。
そんな状態の患者さんが入院すると、大きな病院はベッドの回転が悪くなり、
急性期の治療が必要な患者さんを入院させることが出来なくなる。
かくして、行き場のなくなった患者さんは引き受けてくれる病院を探すことになる。
緩和ケア病棟はまだ少なく、申し込んでもすぐには入れないことも多い。
まして、その患者さんに十分な告知がされていない場合、緩和ケア病棟は全ての告知を条件にしているところも多く、
家族が躊躇するケースも多い。
これが終末期の、いわゆる「がん難民」と呼ばれている状況を作ってしまう。
今、平和病院ではそのような患者さんを積極的に受け入れているので、
最近は末期がんの患者さんが同時に何人も入院していることも多くなった。
世の中では緩和ケアへの関心が高くなってきてはいるが、残念ながら、平和病院に入院してきた段階で、
十分な疼痛管理や全身管理、病状の説明などが行われていない例も多いのが現実だ。
たいていは、入院の申し込みがあって、病室の手配が出来そうになった頃、
ご家族に私の外来へ来ていただき、事前にお話を伺い、状況の確認をさせていただいている。
もちろん、ご家族にはこのとき初めてお目にかかるし、患者さんには、入院してくる日に初めて対面することがほとんどだ。
平和病院で手術をしたあと、再発、転移をしてしまった患者さんは、それまでの間、何年もお付き合いをするし、
ご家族とも顔見知りになるので、全ての状況は把握できているのだが・・・・
外からの患者さんは、ご本人が病状をどの程度理解しているのか、
どんな治療をどのように受けてきたのか、今何を一番つらいと思っているのか、
ご家族はどのように病状の説明を受け、理解しているのか、
患者さんとの関係はどうなっているのか、などなど・・・・
平和病院で受け入れ、今後の残り少ない人生を送るお手伝いをするために、知らなくてはならない情報が多すぎる。
とても1回の面談では把握しきれない。
患者さんが入院してきても、痛み、呼吸苦、全身倦怠、嘔気など、症状のコントロールが不良のため、
とりあえずそれを取ることに集中しなくてはならないことも多い。
出来るだけ病室を訪問する時間を多くとり、ご家族とも出来るだけお話し、信頼関係を構築しようとはするが、
入院した時点で、すでにかなり状態が悪くなっている患者さんも多い。
限られた短い時間の中でさえ、いろいろな問題に直面することもある。
少し前のこと、7人の末期癌の患者さんが、外科に入院していた。
(平和病院では、私が緩和医療に興味を持ち、将来の緩和ケア病棟開設を目指し、
積極的に患者さんを受けているため、このような患者さんが外科の入院になるケースが多い)
このうち6人が紹介入院の患者さんだった。
ある日、そのうちの1人の患者さんの状態が悪化した。
食道癌で多発肝転移、皮膚転移があったが、入院後、疼痛管理がうまくいき、痛みはなく、比較的安定した時期が続いていたが、
次第に血圧が低下し、呼吸状態が悪くなった。
意識は朦朧としていたが、ご家族から、
「先生、どうせだめなら、薬を使って楽に死なせてやってください!」と、突然いわれた。
もちろん、薬を大量に使って「楽に死なせる」ことなど出来るわけはない。
そのときは、患者さんにはまだ意識があり、「○○さん、今、息が苦しいですか?」の問いかけに大きくうなずいた。
「お薬を使って、少し呼吸を楽にしましょうか・・」、の問いかけにも大きくうなずく。
ただ、そうは言ってもやたらに薬を使うわけではない。
苦しみを感じないように量を調整し、持続の点滴で投与を開始した。
少し落ち着いたのを確認し、今度は急いで肺癌末期の患者さんの自宅に臨時往診に出かけた。
つい何日か前まで入院していたが、ご本人には厳しい病状は告知されておらず、
「アスベスト」による状態の悪化だと思っている。ご本人の強い希望により退院したばかりだ。
訪問看護を導入し、臨時の往診も出来ること、望むなら、在宅での看取りも提供できることも説明していたが、
ご家族が自宅での療養に限界を感じていた。
ご本人は家にいたい、ご家族は入院させたい。
自宅のベッドの中で、患者さんは泣き、奥様はそのそばで、ともに涙を流していた。
在宅か、入院か・・奥様からは「私にはもうどうしていいかわかりません!決断は先生にお任せします」といわれてしまった。
これも緩和医療の中では大きな問題で、急に決断を下せる問題ではない。
2時間近くも、ご自宅でいろいろ話し合った結果、ご家族が限界だと判断し、空床状況を確認し、ひとまず入院してもらうことにした。
その往診から帰ってすぐ、病棟看護師から報告があった。
私が往診に出ている時、別の患者さんの病状に関して、別の医師がご本人と奥様に説明をした。
この患者さんも他院からの紹介された胃癌末期、多発肝転移の患者さんだったが、
紹介状には全ての状況は告知済みで、本人も奥様も全てを了解していることが明記してあったが・・・・
いざ話してみたら、実は、厳しい話しがまったくといっていいほどされておらず、
ご本人もかなりのショックを受け、奥様は気を失ってしまったとのことだった。
急いでその患者さんの病室を訪れ、
ご本人と奥様に、かなり長い時間をかけてお話しした。
患者さんは「ショックだった。死にたくない、怖い・・・」と、全く状況を受け入れていない様子だった。
奥様は患者さんの手を握りずっと泣いていた。
入院時にご本人、ご家族の理解度をもっと確認すべきだったと後悔したが、もはや取り返しはつかない。
とりあえず、全力で今後のつらいこと、痛み、苦しみを取っていくことをお約束した。
今も毎日、なるべく時間をかけて部屋を訪れている。
そんなわけで・・・その日は、たった1日の間に、緩和医療にかかわる上で、乗り越えなければならない問題がいろいろおこった。
もちろん、どの問題も一気に解決できるものではない。マニュアルどおりの答えがあるわけではない。
癌の末期の患者さんへの対応は全てがオーダーメイドだ。
長い間のお付き合いの中で、解決していかなければならない問題も多い。
ただ、今のように、紹介患者さんが多くなってくると、その時間が十分に取れない!
十分なお付き合いの出来ないまま、見る間に具合が悪くなってしまうことも多い。
与えられた短い時間の中で、いかに患者さんやご家族と良好な関係を保ち、
自分たちの知識を駆使して、苦しみや痛みがなく、精神的にも出来る限り穏やかな時を過ごしてもらえるのか・・・
まだまだ越えていかなければならない壁は高い。(19年11月25日)
緩和医療勉強会
平和病院では最近、患者さんが癌の末期で入院されてくるケースが増えてきています。
もちろん、この中には、もともと平和病院で手術を受け、不幸にして再発、転移をおこした患者さんや、
発見された時にはすでに手術が困難で、外来で抗癌剤治療や経過観察をし、
具合が悪くなって入院するケースもありますが、
他の基幹病院や大学病院からの紹介で来院される患者さんが増えているこもよります。
中にはもう治療の手がなくなった時点で、「当院は急性期病院なので、貴院での療養入院をお願いします」と・・・
ただ単にベッドを空けたいがために「どこでも良いからとにかく引き取ってくれ」という感じで、お構いなしに紹介してくる先生もいます。
ただ、いろいろな連携の会などで、自分が「平和病院は緩和医療に力を入れていきたい!」と言っているため、
「今後の緩和医療をお願いします」・・・と、名指しで紹介してくださるケースも増えてきました。
そんな患者さんたちが入院してくるにつれ、平和病院に紹介してくださったことをありがたいと思うと同時に、大きな責任を感じます。
緩和医療を目的として入院してくる患者さんにとって、その病院、病室が人生の最後の場所になることがほとんどです。
(中には在宅スタッフやご家族の協力の中で、、在宅ターミナルに移行するケースもありますが・・・)
患者さん、ご家族に良質な緩和医療を提供するには、病院のインフラの問題もありますが、
平和病院の緩和医療は一般病棟で提供されるので、いわゆる緩和ケア病棟の基準を満たす施設に比べれば、
正直言って、かないません。
それだけに、質の向上は絶対条件になるのですが、
緩和医療は医師一人が張り切っていても、どうしようもありません。
看護師、薬剤師、管理栄養士、理学療法士、MSW、臨床心理士、各在宅部門などなど・・・
多くの職種のスタッフが同じ志を持って、知識を高めながら協力し、情報を共有しながら患者さんやご家族を支えないと
良質な緩和医療を提供することは不可能です。
残念ながら、現状ではまだまだ満足できる状態には程遠い・・・と思っています。
患者さんがお亡くなりになって、病院から車に乗せられ、帰っていくのをお見送りする時、
いつも、「もっと何かが出来たのではないか」、「これでよかったのか・・・」と思いながら頭を下げる時が続きます。
患者さん、ご家族はもちろん、自分たちも納得できるような緩和医療、看取りを提供することを目指し、
つい先日、他のスタッフに呼びかけ、第1回の緩和医療勉強会を開きました。
いざ、勉強会を開こう!と思っても、誰も集まってくれなかったら・・・などと思い、不安な気持ちになりましたが、
当日はちょうど輪番で、1日12人入院!という、てんやわんや状況の中、看護師、薬剤師、理学療法士、管理栄養士など、
20人以上のスタッフが集まってくれました。
当日は、そもそも緩和医療勉強会を行おうとした理由、そもそも緩和医療とは・・・のテーマで私が資料を用意して話し、
その後は、今後の勉強会をどのように発展させていくかを話し合いました。
12月8日(土)、9日(日)には大阪で緩和医療学会が開催する「トレーナーズワークショップ」が開催され、
参加してくる予定ですが、このワークショップは、参加者の施設内で緩和医療の教育をどのように行っていくか、
地域の中にどのように広めていくかをテーマにしたもので、今後の勉強会にも大いに役立つと思っています。
平和病院の緩和医療勉強会は始まったばかりですが、
いつかは、どの施設にも負けない良質な緩和医療を提供できるよう、
志を同じにするスタッフとともにがんばってみようと思います。(19年11月9日)
DVD
少し前、病院に小さな包みが送られてきた。
院長室には毎日毎日、たくさんの郵便物が送られてくる。
その包みには送り主の名前が書かれておらず、会社名のみが印刷されている。
あけてみると2枚のDVDと、手紙が入っていた。
このホームページをご覧になっている方からのようで、手紙には次のように書いてあった。
差し支えないと思われるのでご紹介させていただくと・・・
ぶしつけなお手紙をお届けしましたこと、お許しください。
「ようこそ院長室へ」いつも楽しみに拝見しております。
その中のコラム「岡山にて」のページで、緩和医療に関する先生のご意見に触れ、
今般の日本癌医療改革の原点になったであろう番組、NHKスペシャルを見て頂きたい
と思うようになりました。
ここに2枚のDVDを同封させて頂きます。
お手隙の時間にでもご覧頂ければ幸いです。
と、いうものだった。
DVDは2006年に放映されたNHKスペシャル「日本のがん医療を問う」だった。
このホームページは自分の思いのままを書いてきているが、ご覧になってもわかるように
告知や緩和医療に関しての自分の考え方もずいぶんと変わってきたのも事実だ。
いわゆる掲示板の機能は設定していないので、私からの一方通行なメッセージになってしまう。
時々患者さんから「先生のホームページ楽しみにしています」とか、
就職希望の面接に来た応募者が、平和病院を選んだ理由に「このホームページの内容を見て」・・・といってくれることもある。
また、まれには、病院宛てのメールに直接お手紙をいただくこともある。
先日、院内では「院長への手紙にお答えして」と題して、投書箱に入れられたお手紙の返事を書いたばかりだが、
この中でも、何かご質問やご意見などがあった場合には、直接病院宛のメール
(heiwa-hosp@heiwakai.com)にご連絡いただくようお願いした。
病院宛のメールは毎朝、私自身が必ずチェックをし、必要な場合にはお返事を出しているので、ぜひご活用いただきたい。
(残念ながら、ほとんどが迷惑メールで、1日80件近くも届く)
話を戻して・・・
このようにお手紙を直接いただいたことは初めてであり、送っていただいたDVDも興味ある内容だったので、
さっそく見せていただいた。
このNHKスペシャルは、放映当時、大きな反響を呼び、緩和医療に関する書籍の中にもたびたびその内容が取り上げられているものだ。
末期癌の患者さんを支え、ともに戦ってきたご家族の悲鳴に似た叫びが聞こえてきた。
おそらく、このDVDを送ってくださった方は、私が「岡山にて」で書いた、
緩和医療の教育を全ての医師に義務付ける事に関しての意見に対し、
やはり教育の義務付けは必要であり、そうでなければいわゆる「癌難民」が救われない、
とのご意見をお持ちであるのではないかと思った。
以前から日本緩和医療学会では、いろいろな教育活動を通して、一人でも多くの癌と戦う患者さんやご家族が、
安心して在宅あるいは病院で過ごせるよう働きかけている。
ただ、DVDは実際の現場で、思うような最後を看取れなかった方たちのご意見も多く聞かれていた。
この前書いたように、自分は、医者が終末期の患者さんに接した時の感じ方は、患者さんとの基本的な接し方の教育を受けていれば
(最近はこの部分に関しても、改めて「教育」が必要になっていることに驚くとともに、やるせない思いもするが・・・)
患者さんやご家族にとっての最良の対応は可能なのでは・・・と、思っていた。
それを困難にさせているのは、それぞれの病院の規模、求められる機能であり、
その地域における役割分担にも左右されると考えている。
いま、急性期病院には平均在院日数という縛りがある。
癌を扱う大病院には次から次へとあたらしい患者さんが受診し、治療待ちの状況だ。
手術後の再発、転移の患者さんに対して、抗癌剤、放射線などの療法が行われるが、
それでも打つ手が無くなって来ると、もう、その患者さんを抱えきれなくなる。
あたらしい患者さん。治療が必要な患者さんが優先される。
取り残された患者さんは中小の後方病院へ紹介されるか、
あるいは在宅で見てくれる診療所の先生方にバトンタッチされるが、いよいよ具合が悪くなった場合、
最後まで受け入れてくれる先生は限られている。
緩和ケア病棟、ホスピスは入院待ちの状態・・・
結局は平和病院のような中小の施設がその替わりの役割を果たすことになる。
ただ、それぞれの施設の先生方が、緩和医療に無関心だったり、知識を持ち合わせていないわけではなく、
その医師個人の問題、病院のというより、病院の性格上の問題であり、
医師は対処できないわけではないのであって、やりたくても環境が許さないだけ・・・と思っていた。
その役割を果たす病院や施設の担当医は、そもそも医療にかかわった時の基本的な思いがある限り、
自分で知識を深め、研鑽していくので、各病院間の明確な役割分担、連携があればよいのでは・・・
というのが、あの時書いた私の考え方であったのだが・・・
最近、ある患者さんと、ご家族にかかわったとき、自分の考えが少し楽観的過ぎたのか・・・と思うことがあった。
その患者さんのご家族は、平和病院が癌の腹水に対して、それを吸引し、ろ過したあと、静脈に戻す療法をやっていることを調べ、
ご連絡をいただいた。
患者さんは手術不能の癌で、腹膜播種のために腸に狭窄を来たし、ある大学病院でステントをいれ、腸閉塞になるのを防いだ。
抗癌剤は他の病院で、抗癌剤の専門の先生に治療をお願いしていた。
大学病院ではステントのみの対応、抗癌剤の先生は、抗癌剤を専門の知識で、保険適応外の薬も使いアレンジしている。
ただ、腹水がたまったので、腹水の治療は出来ないとのことだった。
ご家族がインターネットを調べ、たどり着いたのが平和病院で、ある日、患者さんがご家族に付き添われて受診された。
多量の腹水がたまっているのは一目瞭然であった。
ご家族は非常に熱心で、患者さんのためを思い、最良の方法を、との思いでいろいろな病院を探しまわっていた。
私の話を熱心にメモしているので、自分も慎重な話し方になってしまう。
ただ、気になったのは、一人の患者さんに、多くの医師がかかわっていることだった。
それぞれが専門の治療をしているのかもしれないが、受診した時、患者さんは痛みを感じていたし、腹水による呼吸困難も出てきており、
癌の末期特有のだるさも出現しているというのに、その症状を取るための十分な治療が何も行われていないのだ。
抗癌剤は状態を見て、量を調整しているということだし、ご家族にはそのDRは自分携帯の番号を教えていた。
なかなか出来ることではない。その先生も熱意のある方なのだろう。
実際私の診療中に、その先生にご家族が電話をかけ、私が投与しようとした痛み止めやステロイドなどの薬が問題ないか許可を求めていた。
きっと患者さんのことを大切に思っているのだろうが・・・
抗癌剤の適応の妥当性はともかくとして、何で痛み止めを併用しないんだろう?
また、腹水に対してもご家族は何人かの医師に意見を求めたようだが、
「そんなことはとんでもない」「倫理的に行うべきではない」とも
言われたようだった・・・・
それぞれが、それぞれの症状、治療に専門的な知識、技術を駆使しているのだろうが・・・
患者さんを一人の人間として、全体をバランスよく見ているとはとても思えなかった。
結局、その患者さんは、1日入院し,腹水の治療を行い、退院していった。
しばらく連絡が無いので、ご自宅に電話をしてみたが、先日具合が悪くなり、近くの病院に入院しているとのことだった。
その病院の先生がどのような対応をするのかはわからないが、
それぞれかかわった医師が、今の状況を正確に把握できていないことが気になった。
ご家族の熱意が、入院先の医師を動かし、患者さんが安楽に過ごせることを祈るばかりだ。
確かに癌医療の現状は、まだまださまよえる患者さん、ご家族を生み出していると感じさせられた。
また、先日、ある病院の緩和医療病棟を見学させてもらい、師長さんや担当の先生の話を聞いたとき(そのうち書こうと思っているが)
「緩和医療病棟」における医療が、いま、平和病院で行っている医療と比べ、必ずしも全ての面において優れている部分ばかりではない
(もちろん設備、人的配置など、すばらしいことのほうが圧倒的に多いが)ことも感じた。
自分が、新しい病院に緩和ケア病棟の開設を目指している今、考えれば考えるほど悩みも多くなる。
まだまだ先は長い。(平成19年9月9日)
遅れる介護認定
癌の末期の患者さんの場合、40歳以上であれば介護保険を使ったサービスが利用できるようになっている。
在宅で癌と戦う患者さんには、病院で提供する医療、看護だけでなく、
ご自宅での介護、療養に必要な物品のレンタル、ヘルパーさんの派遣など幅広いサービスの提供が望まれるので、
積極的に介護認定を受けることをお勧めすることも多い。
無事に認定を受け、サービスを利用しながらご自宅ですごされる方も確かにいるのだが・・・
最近、気になるのが認定の遅れで、サービスを十分に利用できない患者さんがいることだ。
確かに進行が比較的緩やかな場合はいいのだが・・・
癌の患者さんの中には、急速に状態の悪化が予想される場合が多いのも事実だ。
通常、申請が行われると、訪問調査が行われ、患者さんが日常生活をどの程度行えるのかに関してのチェックが行われ、
さらに主治医が記載する「主治医意見書」を参考にして判定会議で介護必要度が決定される。
患者さんやご家族が在宅での治療を望まれる場合で、進行が早い場合、早めに認定を受けることを勧めるので、
この時点でのADLはあまり低下しておらず、比較的「元気」であることも多い。
ただ、主治医としては意見書の中で、その患者さんが急速に具合が悪くなること、
今の状態で判断するのではなく、先を見た判断で認定を行うべきであることを記載するのだが・・・・
残念ながら、必ずしもこの意見が認定に反映されるわけではない。
極端な場合には、認定決定の通知が来る頃には、すでに患者さんが亡くなっていることさえある。
そうでなくても、認定が決定した頃には、その時の状況とはかけ離れてしまっており、
再度、認定変更の申請を出してもらい、意見書を書き直すことも多い。
先日も、私の外来に肺癌が発見された患者さんがいた。
他院の検査では手術は不可能、高齢のため抗癌剤や放射線治療も出来ず、
ご本人も治療は一切望まれず、一人住まいであったので、すぐにでも介護認定を受けるようにお勧めした。
その時はまだ外出も出来、食事も出来ていたのだが・・・
急速に悪化することが予想されていたため、意見書には現在の状況で判断することなく、
適切な介護サービスの利用できる体制を早急に整えるべきであることを強調したのだが・・・
1ヵ月後の認定結果は「要支援1」で返ってきてしまった。
その時には案の定、状況は悪化し、体を動かすのもきつそうで、息切れも強くなっており、
即、再認定を行うようにお願いし、意見書には、
「前回の意見書作成時に、現在のように急速な悪化が予想されることを記載したはずです!今回は一刻も早く適切な認定をお願いします」
と記載した。
区の担当の方も患者さんの状況を見て、一生懸命に対応してくれたが、
結局、ご本人がぎりぎりまでサービスを望まれないこともあったものの、
連絡が取れなくなったのを心配した区の担当が、ご自宅を訪問し、浴室で動けなくなっているのを発見した。
動けなくなって2日目だったようで、救急車で入院することになってしまった。
確かに介護認定の方法には決まりがあり、定められた手続きが大切なのはわかる。
認定調査の時点で日常生活にあまり支障が無いと判断されれば、認定された要介護度が低くなるのも仕方が無いのかもしれない。
ただ、せっかく癌の末期の患者さんに介護保険を適用させようとしたのなら、
個々の患者さんの進行状況を判断した主治医の意見書に記載された事項は、参考にしていただきたい。
決して不必要に高い介護認定を受けさせようとしているわけではない。
やせ衰えて入院してきた患者さんを見て、自分が作成した2枚の主治医意見書は何だったのかと思ってしまう!
もちろん、「そんなことを言うお前がチェックしきれていなかったのも悪い」と言われればその通りかもしれないし、
医療保険を使った訪問看護などの導入も可能ではあったが、
せっかく介護保険が癌の末期の患者さんに解放されているのなら、型にはまった対応ではなく、
主治医の意見書を汲み取った臨機応変な認定をしていただき、
在宅での療養を望む患者さん、ご家族の希望をサポートする体制を整えてもらいたいと思う。(19年8月17日)
岡山にて
先日の木曜日、岡山で開かれた日本緩和医療学会の教育セミナーを受講してきた。
金曜、土曜と学会が開催されるのだが、セミナーはその1日前に行われた。
近いうちに緩和医療の教育や指導、啓蒙活動にかかわる講習を受けたいと思っているのだが、
その前にはこのセミナーを受けていることが必要になる。
水曜日の午後、病院の会議を途中で抜け出して、新横浜から新幹線で出かけた。
岡山までは「のぞみ」で3時間ちょっとだ。
岡山は大学病院にいる頃、学会で一度いったことがあるような気がするが、それにしても20年以上も前の話だ。
ビジネスホテル(朝食付きで4800円!という格安だ)を予約していたので、ひとまずホテルまで歩き、
荷物を置いて、ちょうど食事時なので、また駅のほうに出かけていった。
昔は学会などで地方に行ったときは、あらかじめ下調べなどをして、その土地のおいしそうな店をチェックしたりしていたのだが・・・
今回はホテルにおいてあったマップを見てみたが、これといった店も見つからず、
とりあえずにぎやかな方向を目指したのはいいが・・・
まだ8時前だというのに、けっこう暗い。
地下街があったので入ったが、どこにでもあるようなパスタ屋さんとか,釜飯屋くらいで、これといった店がない。
せっかくなら岡山の名物料理を・・・と思ったものの、なにが岡山名物なのかもわからない。
やっぱり瀬戸内海の新鮮な魚なのだろうか・・・
確か「ままかり」とかいう魚だったかなと思ったが、特別食べたいわけでもなく・・・
歩き回っているうちに疲れてしまい、結局駅ビルの「居酒屋」に入ってしまった。
生ビールと枝豆と、鯵の南蛮漬けという、どこにでもあるメニューで、
騒がしく盛り上がっている人たちの中で、一人カウンターで飲んでいると、
こんな遠くまで来たのに、居酒屋で枝豆かい!・・・と自虐的になりながら、けっこう酔っ払ってしまった。
翌日は朝から夕方の6時までびっしりセミナーがあり、昼も弁当は出るが、ランチョンセミナーといって、
食べながら聞く講義もあり、とても観光など出来ない。
と、思ったが、ホテルにあったパンフレットの観光案内をみると、有名な「後楽園」は7時から開いていることがわかったので、
慌てて朝食を食べ、出かけていった。
さすがに平日の朝早いので、ほとんど人がいない。
広大な敷地はきれいに整備されており、すばらしかったが、のんびりしている暇はない。
隣にある岡山城(早いので、中には入れない)まで足を延ばし「鴉城」と呼ばれる黒い外観だけ見て、
慌てて会場の岡山コンベンションセンターに向かった。
緩和医療学会には医師ばかりでなく、看護師など、他の職種の人たちも多く入会しているので、会場は女性のほうが多いくらいだった。
疼痛管理、輸液、褥瘡、せん妄、抗癌剤の外来治療など、緩和医療のアップトゥーデイトが、次々に講義される。
緩和医療学会では3年後をめどに、医師に対しての認定制度を設けることになったとの報告もあった。
資格条件は、まだ詳細には決まっていないようだが、今回のようなセミナーの参加も条件になる。
緩和医療に興味を持ち、学会やセミナーに参加して知識、技術を身につけることは、
それに携わる医師や看護師などにとって大切なことだと思う。
確かに気持ちだけでは緩和医療は成り立たない。
治療に関する知識、技術が伴わなければ患者さんの苦痛を取り除くことは出来ない。
もちろん知識、技術だけで気持ちが伴わない場合は問題外だ。
両者のバランスが取れて初めて緩和医療は成り立っていく。
最近、政府は「全ての医師に緩和医療に関しての教育を義務付ける必要がある!」と発表した。
看取りに関しての関心が高まってくる中、誰もが安心して最後の時を迎えられるような環境を作ることが目的のようだが・・・
果たして、特別に「緩和医療」を「全ての医師」に「義務付けて」行うことで、問題は解決するのだろうか?
もちろん末期がんの患者さんに対してでなく、全ての患者さんに対しての接し方の教育は必要だとは思う。
ただしそれは医師として、というより人間としての基本であって、何も緩和医療だからといって特別なものではない。
まして、全ての医師といっても、手術の技術を磨く時期、専門分野の知識を集中的に高めていく時期・・・
医師としての経験の中にはいろいろな時期がある。考え方も経験をつむうちに変わってくる。
それを一緒にくくって、あまり興味のわかないときに「教育」といわれても、果たしてどれほどの効果があるのだろう・・・
私の大学の先輩で、有名な「病院で死ぬということ」の著者、山崎先生だって、私と一緒に大学で働いていた時は普通の消化器外科医だった。
平和病院で勤務してしばらくしてから外科をはなれ、今は日赤医療センターで緩和ケアに取り組んでいるS君も、始めは外科医を目指していた。
緩和医療にかかわる医師や看護師は、きっかけはそれぞれでも、似たような志を持って患者さんたちにかかわっていく。
それは決して授業のように、全ての医師に義務付けるものでもないように思う。
患者さんやご家族の心情にかかわるベースを備えた医師は、きっと緩和医療を必要とする患者さんに出会った時には
画一的な教育を受けなくても、その患者さんに対しての努力を惜しまないだろうし、
緩和医療を目指す医師は、黙っていても知識、技術だけでなく、
死生感や心理、哲学や宗教的背景までもを身につけようと思うはずだ。
セミナーの雰囲気は自分が今まで多く参加してきた一般の学会や研修会とは少し違った雰囲気だった。
会場にはかなりの数の人が、全国から参加していた。
それぞれの人が、それぞれの職場で癌と戦う人たちを支えている。
学会員は5000人を超えたという。
全ての患者さんが、最後の時を穏やかに迎えられるようにと、多くの医療者が意識を高めているのを見ると、
セミナーが終わったあとは、なんとも頼もしく、自分も励まされるような気持ちになった。
翌日の学会も参加したかったが、今、外科のスタッフはぎりぎりで動いている。
長く病院は空けられない。
きび団子を買い、また駅ビルでラーメンを食べ、すこし高揚した気分で岡山を後にした。(19年6月24日)
今年の桜、来年の桜
今年は暖冬の影響で桜の開花もずいぶん早かった。
平和病院の敷地の中には桜の大木が何本かある。
特に、透析室と1病棟の間にある桜は、毎年見事な花を咲かせる。
透析室の2階部分、2病棟の病室はこの時期、花見の特等席に変わる。
枝は病室の窓のすぐそばまでせまり、窓を開けて手を伸ばせば花びらが手に取れるほどだ。
開花の直前に退院する患者さんの中には「もう少しでお花見ができたのに・・・」と言う人もいるが、
そのために退院を延ばすわけにも行かない。
やはり、元気に回復し、ご自宅ですごせる事がなによりだ。
去年、桜の花びらがもう少しで開こうかという頃、在宅でターミナル状態をすごされるKさんのお宅に往診で通っていた。
Kさんは伊豆に別荘をお持ちで、その別荘の庭には桜の木が植えてあった。
その頃にはだいぶ具合が悪くなっていたが、別荘に咲く桜を見に行くことをとても楽しみにしておられた。
訪問看護師と一緒に、なんとかしてその願いをかなえてあげたいと思い・・・
自分が空いている週末なら、もしもの時のために自分も近くのホテルにでも泊まって待機し、
いつでも駆けつけられるようにしていれば、可能なのでは・・・などとも思っていたが、
残念ながら花が開く頃には、とても伊豆まで出かけられる体力は残っておらず、
結局、願いをかなえてあげることが出来なかった。自分もずいぶん悔やんだことを思い出した。
ターミナルの状態を過ごされている患者さんにとって、桜の花は、
長い日常の治療、療養の中で忘れていた「時間」を思い起こさせるのかもしれない。
1年に一度、見事な花を咲かせ、風に散り、来年まで花を咲かすことはない。
桜の花は、自分の状態の悪さを全て理解されている場合、それを見る患者さんに「来年の今頃の自分」を考えさせるのだろうか・・・
肺癌の骨転移におかされたTさんが、基幹病院からの紹介で息子さんに付き添われて受診されたのは3月はじめだった。
紹介状の内容では、かなり具合が悪い様に書かれていたが、実際にお会いしてみると、息苦しさは少しあるものの、
状態は比較的よさそうに見受けられた。
このままの状態なら、入院しなくても、いろいろなサービスを導入すれば、ご自宅でも十分すごせるようにも思ったが・・・
息子さんとの二人暮らしで、日中一人だけでいることの不安を強く訴えた。
ひとまず、いろいろなサービスが利用できるように介護保険の申請をしていただき、入院になった。
Tさんに関しては、基幹病院の主治医からは余命3ヶ月と言われており、その時期は、あと1ヶ月しか残っていなかった。
入院の前に外来で初めてお目にかかったとき、「まだ生きられますか?」と、小さな声で聞かれたことが、
強く印象に残っている。
「癌を完全に消すことは難しいかもしれませんが、今は体力をつけ、痛みや息苦しさをとり、
病気と戦う力をつけることに全力をあげましょう!
そうやって癌と一緒にうまく付き合っていけば、きっとまだまだ大丈夫だと思います」
さいわい咳止め、痛み止めもうまく効き、小康状態を保っていたので、ご自分からも在宅復帰への言葉も聞かれるようになった。
そのころ移動した部屋の窓際のベッドでは、満開の桜がKさんを迎えていた。
「Kさん、特等席ですね!」
「ほんとに・・・ものすごくきれい。入院しているのに、こんなに近くで満開の桜を見られるなんて思ってもいなかった。
でも・・・先生、来年の桜も見られるかしらね・・・・」
一瞬、とまどった。
冷静に病状を見れば、とても来年の桜が見られるほどの時間は残されていない。
「だいじょうぶ」と、うそでも言ってもらいたい気持ちがあるのだろうか・・・・
もちろん、正直に「難しいかもしれません」と言うこともできない。「大丈夫ですよ」と言うことのほうが簡単なのかもしれない・・・
最近では基幹病院からの患者さんは、ほぼ100%、病名、転移などの状況は告知されているが、
それから先の状況などは、ご家族には伝えられていても、本人にはほとんど伝えられていない。
もちろん、自分の場合でも、あからさまに患者さんには「あとどのくらい・・・」ということは言わないことがほとんどだ。
実際、まれに、「残念ながら年単位とは考えられません・・・」とか漠然と言うことはあっても、
はっきりとは言わないし、そんなことを言って予想が外れることが多いのも事実だ。
患者さん自身が「身の回りの整理がしたいので、はっきり言ってほしい」とおっしゃる場合にも、
「あとどれくらい、などは誰にもわかりません。ただ、出来れば今、状態の良いうちに・・・」などと言うことのほうが多い。
Tさんの場合にも、少し考えた後・・・「ほんとうに、見られるといいですね」と、答えていた。
これでよかったのか・・・もっと他の言い方をするべきだったのかもしれない。
末期の患者さんと向き合う医師、看護師のなかにも当然いろいろな考えがあると思うし、模範解答はないと思っている。、
もちろん、もっと適切な言葉はあったのかもしれない。それでも・・・
無理なことはわかっていても、本当に「見られればいい・・」と思っていた。
桜の花が散り、新しい緑の葉が桜の木を包む頃、Kさんの病状は急速に悪化し、
来年の桜の花を見ることなく、帰らぬ人になった。(19年5月21日)
ふりかえり
先日、表参道の小さな画廊で、Fさんの遺作展が開かれた。
Fさんは胸膜中皮腫という病気におかされていた。
状態がかなり悪くなってからも、出来るだけご自宅での生活を希望されていたため、
訪問看護ステーションと一緒に、私が往診をしていた。
最後は入院され、息を引き取られたが、
色鮮やかな300色を超える糸を使った「糸彩画」を考案し、数多くの作品を残された。
入院中、具合が悪くなってから、「先生にぜひもらってもらいたい」とおっしゃって、
薔薇をモチーフにしたすばらしい作品をいただいた。
今も院長室に飾ってある。
一輪は紫、一輪は赤を基調にして、微妙な色彩のグラデーションを細かな糸で操ったすばらしい作品だ。
ある日、遺作展の案内がご主人から届いた。
大通りから一本入っただけで、がらりと違って落ち着きのある雰囲気の狭い道に面して、ポツンと小さな画廊があった。
早い時間に行ったので、画廊には私一人しかいなかった。
Fさんは、糸彩画の先生もされていたので、生徒さんの作品も飾られていたが、
Fさんの選りすぐりの作品がたくさん展示されていた。
お元気だったら、もっとたくさんのすばらしい作品が生まれただろう・・・
改めてFさんとのかかわりがよみがえってきた。
亡くなった患者さんのことを、忙しい中でもふと思い出すことがよくある。
そんな時には、その患者さんたちとのかかわりのなかで、
患者さんやご家族に対し、もっと何か出来たんじゃないか・・・との思いがうかんでくる。
満足のいく看取りなどには、とうていたどり着けていないし、
もちろん自分に出来る限り、精一杯のことはするつもりだが、
これからもたぶん、少しは近づけたとしても、
患者さんやご家族が満足できる看取りになどには、なかなかたどり着けないのだろう。
そもそも、看取りは患者さんが亡くなることが避けられない事実として存在するのだ。
それぞれの患者さんにはそれぞれの疾患、痛み、今までの生き様、
家族との関係、死に対しての受け入れかたなど、何一つとして同じものが無い。
以前から、自分がかかわったターミナルの患者さんたちのことを振り返り、反省点を見つけだし、
これからの患者さんたちとのかかわりに生かすことが出来るのではないかと思い、
カルテを自分の部屋においてあった。
診療報酬の改定やらで、病院がてんやわんやだったので、しばらくはカルテを細かく見直す暇も無く、
そのままになっていたのだが・・・
やっと病院の体制を、ひとまず立て直したこともあり(まだまだ前途多難ではあるが)、
先日、積み重ねてあったカルテの一番上を手に取った。
私が東芝鶴見病院の外来を担当していたころから、長くお付き合いをしたMさんのものだった。
乳がんの手術後、再発し、抗癌剤の治療も行ったが、状態が悪くなり、
最後は平和病院で亡くなった患者さんだ。
平和病院の入院カルテには、患者さんをお世話する職員の誰もが認識できるように、顔写真を貼るようにしている。
あとから見直すと、頭の中だけのイメージと違い、当時の顔が直接目に飛び込んでくる。
分厚いカルテの中の看護記録を読み直す。
病気との最後の戦いの中での患者さんがどんな状態だったか、どんなことを話していたかが書かれている。
読み進んでいくうちに、、今、まだ病室に入院しているような感じさえしてしまう。
亡くなった日はわかっているので、しだいにその日が近づいてくるにつれ、
内容はカウントダウンのように厳しさを増す。
あのときMさんは、あと数日で亡くなるのを、わかっていたんだろうか・・・
どんなことを感じながらベッドで横になっていたんだろう・・・
自分はあのときどんな対応が出来たんだろうか・・・
いろいろなことが頭をよぎる。
正直言って、読み進むにつれ、ずっしりと重いものが心の中に入り込んでくる。
さすがに何人ものカルテを続けて読むことなど出来ない作業だということに気がづいた。
ただ、一人ひとりの患者さんとのかかわりを見直すことは、必ずこれから出会う患者さんの役に立つと思うし、
亡くなった患者さんが、改めて何かを教えてくださると思っている。
それぞれの患者さんのご冥福を祈りながら、少しずつでもふりかえりを行わなくてはいけない。
(18年12月3日)
5回の中継ぎ
Uさんは平和病院の内科でO先生の外来に通院していた。
病気が発見された時にはもう、胃癌はかなり進行した状態で、肝臓にも転移があり、
手術などの治療は困難だった。
入院しての抗癌剤療法もおこなわれていたが、残念ながら効果はなく、
全身状態も徐々に低下し、外来に通院するのも厳しい状況になっていった。
状態が悪くなっても、ご本人は入院治療を希望されず、訪問看護を受けるようになった。
病名も告知もされており、厳しい状況であることも十分に存知のうえで、最後までご自宅での療養を希望されていた。
平和病院では訪問診療もおこなってはいるが、あくまで定期的なものであり、
急に具合が悪くなった時などは原則として病院を受診していただいており、
特に夜間の場合は往診に対応できる体制にはなっていない。
ただ、ターミナルの患者さんの場合で、私が対応出来る場合に限り、夜間でも出来る限り往診することにしている。
Uさんの場合も外来に通院できなくなったため、在宅での診療を私が引き継ぐことにした。
もう少し早い段階で訪問を開始する予定であったが、
ご家族の希望にもかかわらず、ご本人がまだ往診を受けることを希望されなかったため、
初めての訪問は、かなり状態が悪くなってからになってしまった。
訪問看護師がご自宅にうかがう時にも、ご本人は入浴をし、寝巻きを着替え、身支度をきちんとし、
決して弱いところ、おとろえた姿を見せないようにがんばっているとの報告を受けていたが・・・
ご本人もだいぶつらくなったようで、入院するよりは・・・との気持ちからか、
往診を受けることを納得され、ようやく私がご自宅に伺う時がやってきた。
外来で自分が長い間診療していた患者さんは別にして、初めて患者さんにお目にかかるとき、
特にターミナルの患者さんの場合は、皆さん状態が良いとはいえないのでこちらもやはり緊張する。
その日、患者さんは1時間以上、言葉を一言一言かみしめるようにしながら、ご自分のことをお話になり、
自分と、一緒にいた訪問看護師は、もっぱら聞き役になっていたが・・・
これから私が定期的に訪問させていただくことを承知してくださった。
その日はしっかりと握手をしてからおいとましたが・・・
その後もUさんは往診を積極的に求めることも無く、毎回訪問看護師から報告は受けていたが、
私の出番がくることは、なかなか無かった。
初めて訪問してから1ヶ月ほどたったころ・・・
いよいよ食事が食べられなくなったとの報告で、外来診療の無い時間に2度目の訪問をした。
Uさんは初めての訪問の時とは別人のようになっていた。
皮膚は乾燥し、やせて、皮膚の色も黒ずんでみえた。
前回はあれほどご自分のことを話してくださったのに・・・
一言二言、言葉を出すのにも力を出し切るような感じで、ほとんど目をつぶっていた。
少し痛みも出てきていたため、モルヒネの投与も開始した。
状況を改善するため、24時間持続の点滴も考慮したが、ご本人は希望されず、
なんとか最小限の点滴だけが行われたが・・・
呼吸の状態もしだいに悪化し、訪問看護師の報告を受け、臨時の訪問を行うようになり、その間隔もどんどん短くなった。
ある日、血圧が下がったとの報告を受け、5回目の訪問をしたときにはもう、最後の時はすぐそばまで来ていることは明らかだったが・・・
運悪く、その週末は私にどうしてもはずせない用事があり、土曜日の午後から日曜日の夕方まで、
急変したときに対応することが出来なかった。
ここまでご自宅でがんばってこられ、ご本人も最後までご自宅での療養をご希望されていたので、
何とかご希望をかなえてあげたかった。
土曜日の午前中、もともとの担当のO先生に事情を話すと、気持ちよく私が留守の間の対応を了承してくれた。
日曜の昼、用事を済ませ、長野から帰る途中、訪問看護師に連絡したが・・・
日曜の朝、Uさんの呼吸は静かに止まり、かけつけたO先生に看取られ、天国へ旅立っていったという。
私ではなく、もともとの担当医が、ご本人の希望どおり、ご自宅での看取りをおこなった。
このようなケースは今までで初めてだった。
O先生は長い間Uさんを治療し、最後をご自宅で看取ってくれた。
私のかわりはたった5回の訪問だけになった。
今回の看取りで自分の果たした役割は何だったのだろうか・・・中途半端なかかわりで、自分は何か役に立ったのだろうか・・・
報告の電話を切ったあと、しばらくの間、そんなことを考えながらぼーっとしていたが・・・
一番肝心なのは、自分が患者さんを看取ることではなく、患者さんが治療にかかわってくれた本来の主治医に看取られ、
患者さんが強く望んでいた通りに、ご自宅での静かな最後を迎えられたということだ。
そして、何よりうれしかったのは、主治医が最後の最後でUさんを病院に受診させることなく、
Uさんのご自宅に出かけて行ってくれたことだった。
看取りには、それぞれいろいろな考えがある。
どれが正しく、どれが間違っているかは簡単に結論が出せなし、正解など無いと思っている。
これからもいろいろな形の看取りを経験していくだろう。
最後の時にお目にかかれなかった、Uさんへのお悔やみ訪問には必ず出かけようと思っている。(18年10月22日)
90歳おめでとう!
以前、「90歳まで生きられるから!」で書いたことのあるAさんが外来にやってきた。
いつもニコニコしているが、今日はいつもよりうれしそうだ。
カルテの表紙を確認して・・・
わかった!90歳の誕生日だ!
「Aさん、90歳になりましたね、おめでとうございます」
「おかげさんで、草取りも出来るし、買い物も出来るし、がんセンターの先生は手術すれば90までだいじょうぶっていったけど・・・
手術しなくっても90歳の誕生日になっちゃったね!」
幸い、Aさんの症状は全くといっていいほど進行していない。
相変わらず、少し血液の混じった分泌液が何日かごとに少しでてくるものの、
しこりは全く触れず、CT検査でも転移は見られない。
初めて診察してからもう3年以上たつ。
平和病院にはご高齢の方が多く外来受診される。90歳を超える方も何人か、ちゃんと歩いて通院してくる。
ただ、このAさんは別格だ。
誰がどう見たって90歳になんて絶対に見えない!
杖だって全く要らないし、動作もきびきびしているし、認知症のかけらも無い。
とても体の中に「がん」が共存しているとは思えない!
確かに薬は飲んではいるが・・・
もう薬なんて飲まなくたって大丈夫なんじゃないかとさえ思ってしまう。
さすがに「もうやめましょう」という勇気も無いのでそのままにしているのだが・・・・
先のことは誰にもわからないが、この調子なら100歳だってらくらく突破しそうな勢いだ。
診察が終わり、意気揚々と出て行く小柄なAさんの後姿が今日はやけに大きく見えた。(平成18年8月31日)
殺人者か?
富山の私立病院の外科部長が、癌の末期患者さんに装着されていた人工呼吸器をはずし、
その後、患者さんが死亡したことが判明し、大きな話題になった。
ちょうど、マスキュラックスという筋弛緩剤を投与された患者さんの死亡事件にかかわる判決が出た時期と重なり、
はじめはこの外科部長が「殺人」を犯したというような、極めて厳しい論調で攻める記事が多かったが・・・
最近、詳しい事情がだんだんわかって来るにつれ、
風向きが少し変わってきたように思える。
そもそも人工呼吸器がつけられた状況がよくわからないが・・・
最近では癌の末期患者さんに対しては、ご自分でも意識のあるうちに、
あらかじめ「呼吸器などは装着してほしくない」との意思表示をされる方も多く、
「尊厳死協会」に入っている方も多い。
ご家族にも、ある程度の時期が来て呼吸の状況が悪化した時には、
再度、意思確認を行い、気管内挿管や、呼吸器の装着、心臓マッサージ、カウンターショックの使用などは
行わないことがほとんどなので、「呼吸器をはずす」ことを決断しなくてはならないケースは、ほとんど遭遇しない。
ただ、呼吸器を装着しない場合でも、心臓がまだ動いているのに(最後の場面で心電図モニターがつけられ、
病室でご家族がモニター画面をずっと見てしまうことが多く、自分としては患者さんを見ていてほしいと思っているので、
いつも違和感を覚えてしまう)
何もしないで見ていることでさえ、消極的に死を早めている・・・といわれればその通りだ。
急激に状態が悪化したときなど、御本人には、その意思をあらかじめ確認ができないケースも多く、
その場合にはご家族だけに「このままでは呼吸状態はさらに悪化し,そのままとまってしまいます。
気管の中に管をいれ、しばらくは生きている状況は保てます。
どうしますか・・・」などと、状況を説明、相談し、判断を仰ぐことになる。
ほとんどのケースで「もう十分がんばってきたので、自然のままでお願いします」という返事が返ってくる。
食事が摂れなくなってきたとき、たいていの場合、点滴が行われる。
さらに状況が悪化すると点滴の針をさす血管も見つけにくくなり、
何回も針を刺さなくてはならなくなり、ついには中心静脈といって、鎖骨下や頚や、大腿部の太い血管から
持続で点滴を行ったりする。
はじめのうちはカロリーの高い点滴をしていても、だんだん状況が悪化すれば、「うすめの」点滴に変えたり、
むくみの原因にならないように、量を減らしていったりもする。
極端な場合にはまったく点滴をやめることもないわけではない。
広い意味ではこれも「撤退」「消極的な安楽死」として
せめられることになるのだろうか・・・・
また、痛みや苦しみから解放するために点滴の中に薬を混ぜて使用する場合、
その量によっては意識を落としたり呼吸を抑制したりすることもある。
その量を増やしていけば結果として、呼吸が止まることだってありうる。
さらに、まったく治療の方法がなく、死が間近に迫った患者さんの意識がはっきりしていて
その人から、「もう長い間苦しんできた。薬の量をもっと多くして、ずっと眠れるよう、できれば永久に意識がなくなるようにしてくれ!」
とか、「もう、ひと思いに楽にしてほしい」と言われたら・・・
自分はどうするんだろう?
いっそ「そうしてあげたほうが・・・」と思ったことは、何回もあるのは事実だ。
そんなことはできません!そんなことをすれば、命を縮めることになります。
痛みや苦しみのコントロールが出来ているなら、このままで・・・というのが正しいことなんだろうか・・・・
そんなに追い詰められた患者さんの心の苦しみが、自分に救えるんだろうか・・・
その間を取って、「セデーション」をおこない、うまい具合にうとうとしているような状況でコントロールするのと、
どこが違うんだろう・・・
末期の患者さんにかかわる医者は、多かれ少なかれ葛藤している。
少し多目なんだろうな・・・とわかっていて、その薬を増やすことも犯罪なんだろうか・・・
安楽死、尊厳死など、かなり細かい条件が示されてはいる。
確かに、乱用を防ぎ、安易に死を早めるのもよくないことで、規定は必要なのだろう。
ただ・・・
私一人が今まで看取ってきた、そんなに多くもない人たちには、
環境、性格、病状の経緯など・・・一人として同じ条件の人はいない。
いちいち、この条件には適合しているのか・・・など考えることなど無いといってもいい。
患者さん自身の想い、その状況、患者さんとご家族のかかわり、同じ家族の中でも、夫婦と子供・・・
多くの人の想いが複雑に絡み合っている。
確かに緩和ケア病棟などでは多くのスタッフが係わり合い、いろいろな意見を検討することが出来るだろうが・・・
在宅ターミナルは、それよりもずっと孤独だ。
自分だって、末期に至るまでの状況や、自分と患者さん、ご家族とのかかわりをまったく知らない人が見たら、
「死期を早めた医者!」といわれる可能性だってあるかもしれない。
問題の外科部長にはもちろん会ったこともないし、詳しい個々の患者さんの状況もわからない。
でも・・・その後の発言や、当時の状況がわかってきている中では、
きっと真剣に末期の患者さんに向き合っていたのではないかと思う。
何も考えずに心臓が止まるまで、呼吸器をつけっぱなしにしているほうが、ずっと簡単なのだ
「生かしておく」ことは出来たのだ。
呼吸器をはずさず、心電図の波がまっすぐになり、それでもしばらく「呼吸」をさせておけば
そのほうがよかったのだろうか?
この外科部長の想いと行為を否定することが本当に正しいのだろうか・・・?
こんな疑問を抱くのは私だけなんだろうか・・・
(18年4月7日)
一通の報告書
少し前、綱島にある在宅対応のクリニックから報告書が届いた。
Kさんが亡くなった、との通知だった。
Kさんが始めて平和病院を訪れたのは、以前、東芝鶴見病院の院長で、
今は鶴見駅前に開業している倉田先生からの紹介だった。
かなり進行した胃がんに侵されており、胸部大動脈瘤もあったため、
近くの基幹病院に入院したが、すでに大動脈周囲のリンパ腺にも転移があり、
根治的な治療も困難で、手術も施行せずに抗癌剤の内服のみで退院となっていた。
御本人にも告知もされていたが、次第に体力が落ち、食事もできにくくなったとのことで、
点滴目的での紹介で受診が予定されていた。
しかし、受診予定日の朝、Kさんは突然の腹痛に襲われたため、救急車での受診になった。
外来で診察したが、腹部が異常に硬い。尋常ではないことはすぐにわかった。
検査の結果、穿孔性腹膜炎を起こしていた。
おそらく胃がんが進行したことにより、胃の壁に穴があいたようだった。
当然緊急手術をしなければならない。
もともと基幹病院でも手術が不可能と言われていたが、胃がんの穿孔は摘出しない限り改善は望めず、
そのままで生き延びる可能性は「0」だ。
穴だけふさぐことなどもできない。
たとえ塞いでもすぐに漏れ出し、悲惨な結果になる。
しかも胸部大動脈瘤を抱えており、麻酔管理もきわめて困難だ。
さらに悪いことには、あいにくその日は我々外科のスタッフは全員そろっておらず、
緊急の麻酔、手術をこなすのが困難だった。
やむなく基幹病院に転送し、当日に緊急手術が行われた。
もちろん、周囲の転移などは無視し、胃だけを何とかむしりとった・・といった感じだったようだ。
おそらく手術の成功率はかなり低く、退院できる可能性はかなり低いと思っていたが・・・
しばらくたってKさんが平和病院に戻ってきた。
基幹病院では、長くは入院できない。
術後の療養をかねての入院となった。
「よくがんばりましたね!」・・・正直な感想だった。
ただ、腫瘍は取り残してあり、とても元気とはいえない状況だったが、
ひとまず最悪の状況からは脱したようだった。
しばらくの入院でやや体力が回復し、少しは食事が取れるようになったので、
ご本人の強い希望もあり、退院し、近くのクリニックから在宅診療、訪問看護などを受けて自宅で療養していた。
しばらくたったある日、息子さんと娘さんが訪ねてきた。
だいぶ具合が悪くなっている。
食事も食べられなくなっており、往診の先生が点滴をしてくれているという。
ただ、その先生も緊急時の対応は常時は困難で、夜間は対応することはできないかもしれないと言われている。
本人は最後まで自宅で過ごしたがっているが・・・
自分たちには最後まで自宅で見守ることができるか不安がある・・・とのことだった。
よく話を聞くと、その先生ができる限りの範囲で一生懸命に患者さんと向かい合う姿勢が伝わってきた。
「 ご本人の、自宅にいたいという希望は強いようです。
ただ、どうしても自宅でなくては!と、意識することはありません。出来るところまでやってみて・・・
いざとなったら、救急車でいつでも来てください。
息子さんも、娘さんも大変でしょうが、クリニックの先生もがんばってくれています。
最後の砦として、私もできる限り応援します」とお伝えした。
その後、入院の連絡が来ることもなく、在宅のまま過ごされていたが・・・
報告書にはこう記載されていた。
「可能な限り、ご自宅での療養を希望され、ご自身ですべての準備をなさりつつ、
自宅で最後のときを迎えたいとの意思表示がありました。
我々は既にその心づもりでいましたが、ご子息、お嬢様も仕事を休み、その準備をなさる決心をなさいました。
その結論が得られたころ、ベッドからの起居が困難となり、
残念ながら○月○日、ご自宅で、お嬢様の腕の中で最後のときを迎えられました。
先生には、入院の必要なときはいつでも相談を・・・とのお言葉をいただいておりましたので、
私もご本人も、ご家族も心強くいることができました。
この感謝の気持ちを寄せてご報告させていただきます」
結果は残念ではあったが、
この報告書には、担当の先生の暖かな思いがにじみ出ているように感じた。
私と患者さん、ご家族との直接のかかわりは、ごくわずかなものだったが、
在宅での看取りに真剣に向かい合っている先生がいることを、とても頼もしく感じた。
自分で対応できる患者さんの数はどうしても限られている。
ただ、平和病院には「病室」という最後の駆け込み寺がある。
看取りを真剣に考えてくれる先生方の、いざというときの援軍になれたら・・・
そんなことを思わせる報告書だった。(18年3月10日)
「つらかったです」②
Sさんの手や足の血管から点滴の針をさすことは困難になっていた。
このため、ご自宅での点滴管理を容易にする目的で、IVHポートを挿入した。
こうすれば、訪問看護師がいちいち針を刺さなくてもすむ。
ご本人も体力の衰えは自覚していたが、
「もうすぐお家に帰りましょうね!」と、声をかけると、大きくうなずいた。
いよいよ準備が整い、送迎サービスの手配も終わり、日曜日の朝、Sさんは念願の自宅に帰っていった。
月曜日には臨時の往診で様子を見てこようと思っていたが・・・
月曜日の明け方、寝ている枕元で携帯電話が鳴った。
Sさんから病院に連絡があり、これから救急車で来院するとのことだった。
まさかこんなに早く病院に戻るとは思ってもいなかったが、
「痰がうまく出せず、苦しそうでどうしようもない」ということのようだった。
救急車はすでに呼ばれているようなので、訪問看護師が様子を見にいくのも間に合わない。
自分もあわてて家を出て病院に向かった。
空は明るくなりかけていた。
早い時間なので、渋滞もなく、あっという間に病院に着いたが、どういうわけか、まだSさんは到着していなかった。
Sさんのご自宅は私の通勤の道の途中にある。
当然、救急車のほうが早いと思っていたので、Sさんの家の前を通り過ぎたのだが・・・
こんなことなら先にご自宅によってみればよかった・・・と後悔した。
少したってからSさんが救急車でやって来た。
なんとか自力で痰が出せたようで、診察時には、呼吸も比較的落ち着いていた。
息子さんや娘さんは、そのまま具合が悪くなってもしかたがないと思っていたし、
そんな時は私と訪問看護師が自宅に駆けつけるようになっていたのだが・・
奥さんが、Sさんの様子を見ていられなくなり、「病院に連れて行こう」と息子さんや娘さんに訴えたらしかった。
息子さんや娘さんも、奥さんの心配する様子を見るに見かねて救急車を呼んだようだった。
結局、1日だけのご自宅復帰になってしまったが、ひとまず再入院として様子をみることにした。
その後、状態は安定したのでご家族も自宅に戻っていった。
昼過ぎのこと、院長室で仕事をしていたが、ふとSさんのことが気になり、途中で病室に行ってみた。
ベッドサイドに行くと、見ているうちにSさんの呼吸状態が悪化してきた。
本当にちょうどいあわせた・・・というタイミングだった。
血圧は低めだったものの、心電図モニターの脈は全く乱れていなかった。
ただ、このままでは呼吸が止まる・・・
すぐ隣のナースステーションに行き、
Sさんの呼吸状態が悪化したことをつげ、
大至急ご家族に連絡するように指示した。
すぐに部屋に戻ると、Sさんの呼吸がスッと止まった。
心電図の脈も乱れ始める。
あらかじめ気管にチューブを入れたり、電気ショックをかけたりはしないことになっていたが、予想外の急変だった。
それからすぐに奥さんは、娘さんと息子さんに抱えられるようにして階段を登ってきた。
奥さんは階段の途中で泣き崩れそうになり、まっすぐに歩けないようだった。
「ご自宅で、ご主人が具合悪そうするのを見るのは、つらかったんですね・・・」
と、声をかけたとたん・・・
「つらかったです」と言うなり、号泣された。ものすごく大きく、絞り出すような声が廊下に響いた。
すれ違う人たちが、何事かと言うように振り返る。
そのまま病室に入ると奥さんは「おとうさん」と言いながらSさんに取りすがって、さらに大きな声で泣き続けた。
自分も、看護師も、そして息子さんや娘さんさえも、何も言えないまま、しばらく側に立ちつくしていた。
声もかけられない、他の家族も寄せ付けないような雰囲気があった。
Sさん自身が自宅に帰りたがっていた。
息子さんや娘さんもそう願った。
父親の望みをかなえてあげようと一生懸命だった。
ただ、奥さんはつらかったのだ。
もちろんSさんの希望をかなえてあげたい、という思いはあったのだろうが、
息子さんや娘さんがSさんを見るのと同じようには、きっと思えなかったのだ。
子供たちにとって、親が死ぬということは、もちろん悲しいことには違いないのだが・・・
親が先立つのは言ってみれば「順番」であり、ある程度は受け入れなければならない宿命のようなものがある。
しかし、夫婦はそうはいかないのだ。
長年連れ添い、人生を歩み、子供の成長を一緒に見つめてきた二人だけの歴史がある。
同じSさんの死、それに至る状況を目にしていても、
子供の想いと奥さんの想いは、やはり大きく違っていたのだと思う。
このことは「50年も・・・」で書いたご夫婦でも同じだったのではないだろうか・・・
在宅へのお話はSさんの強い希望もあり、息子さんや娘さんとはよくお話もしていたが・・・
奥さんとは直接には十分にお話していなかったことが悔やまれた。
看取る側の人が多い場合、その看取りへの想いはそれぞれだ。
「50年も・・・」でも書いたように、「つれあい」の苦しむ姿は、理屈ではわかっていても
いざとなるとどうしていいのかわからず、見ていられない、受け入れられない状況になってしまうようだった。
もちろん、そんなことを感じさせないように呼吸、疼痛のコントロールなどをつけなくてはならないのだが・・・
短い時間の間に、立て続けに夫婦の考え、子供の考え、看取りへの想いに差があることを教えられた。
ご本人はもちろんだが、それを取り巻く人たちの想いをすべて満足させられる看取りはあるんだろうか・・・
Sさんが亡くなってしばらくたったある日、娘さんが病院をたずねてきてくださった。
「父の願いどおり、1日でも自宅に帰していただいて、本当にありがとうございました」
と、言ってくださったが、
「子供たちの想いと、母の想いはやっぱり違っていたかもしれません・・・」とも話された。
あのSさんの奥さんが泣きながら言った「つらかったです」の言葉は、
今後の看取りにおいて、絶対に忘れてはいけない言葉だと、強く思った。(17年12月4日)
「つらかったです」①
Sさんは都内の大学病院で膵臓がんの手術を受けた。
しかし、発見の時にはすでに進行しており、手術後1年もたたないうちに再発した。
腹水がたまり、週に1回、大学病院まで通院し、外来で腹水を抜く処置を受けていたが、
しだいに体力が落ちてきたため、近くの病院で見てもらったほうがよいとのことになり、
平和病院に紹介されてきた。
最近は他の病院(都内の大学病院、横浜市大病院、癌センターなどのケースが多い)で手術を受けたあと、
ターミナルステージになって紹介されてくるケースも多い。
基本的に私は外科の医者なので、その患者さんの住所が比較的病院に近く、
診療圏内にある場合、そもそもの手術の時点での治療に平和病院が選ばれなかったことに
無念な思いがあることも確かだが・・・・
大きな病院、設備の整った病院で手術を受けたい、受けさせたいと思う気持ちは十分理解できるし、
それはそれでしかたの無いことだと思っている。
それだからこそ、「平和病院で手術を受ける」と言ってくださる患者さんに対しては
全力をそそぎ、徹底的にお付き合いするようにしているが、
そうかといって、他の場所で手術を受けているからといって、
病との戦いに疲れて、地元の平和病院を頼ってくる患者さんに対して、
「いつもかかっている病院で治療を継続してもらってください」などとは絶対に言わない。
病院の「機能分化」として、必要なことだとも思っている。
最近は近隣の診療所の先生を通して、ターミナルの患者さんが、直接私に紹介されてくるケースも増えてきたが、
多くは訪問看護ステーションに紹介があり、誰か主治医になってくれるDRを探す時に、私に話が持ち込まれるケースが多い。
もちろん、はじめから入院目的での紹介の場合は病棟の担当医が主治医になるが、
「在宅ですごしたい」という場合にはそうはいかない。
往診にも対応しなくてはならないし、いざとなったら入院すればいいとはいえ、
そのまま在宅で最後のときをむかえたい・・・という希望が強い場合は夜間でも臨時で往診することも必要にる。
結局は比較的病院の近くに住んでいて、夜でもちょこちょこ往診に対応する自分にその役がまわってくることになる。
今でこそ、何も言わなくなったが、夜中に呼ばれて出て行くときには
妻から「誰か他の人はいないの?」と聞かれたこともあった。
なぜ在宅ターミナルの治療に関わるのかときかれても・・・
はっきりと答えは言えない。
「それが私の使命だから!」などと大げさなことを言うつもりもないし、
今では、「他にやる奴がいないから・・・」などといってごまかしている。(本当はぼんやりとした理由はあるのだが・・・)
そんなことはともかくとして、
Sさんの場合も訪問看護ステーション「ひなたぼっこ」の管理者から声がかかった。
はじめて私の外来に受診した時には、まだ大学病院に通院して腹水をぬいており、話す言葉もしっかりしていて
ご自分の病状も告知され、しっかりと理解されていた。
この場合の受診は、いわば、患者さんや、ご家族との「お見合い」のようなもので、
大学病院に通えなくなったときが、はじめて自分の出番になるのだが、
このように、あらかじめご本人に受診していただき、状況を確認させてもらうと、後の治療がスムーズに行くことが多い。
(他の病院で治療を受けた患者さんを引き継ぐ場合の難しさがここにある)
その後、訪問看護ステーションからの報告では、Sさんの状況は急速に悪化していき
いよいよ治療を引き継ぐ日が意外に早くやってきてしまった。
はじめは腹水をぬくのを当院で・・・とのことだったが、予定された日に来院したSさんは
以前見たときとは比べ別人のようにやせこけ、皮膚は脱水で乾燥し、とてもお腹に針を刺して、腹水を抜くような状態ではなかった。
その日のうちに入院を決定し、しばらく点滴をおこなうと、Sさんの状態はやや改善し、自宅からの持ち込み食も少しは口に出来るようになったが、
もう残された時間はごく限られてきていることは明らかだった。
Sさんは今時にはめずらしく、大家族の中で暮らしていた。
ご本人は自宅に帰りたいと強く望んでおられ、いつも付き添っている娘さん、息子さんも同じ考えのようだった。(17年11月13日)
50年も一緒だったんだから②
いつもはほとんど話さないご主人の声は小さかったが、誰をも寄せ付けない迫力があった。
「息子だって、同じ気持ちだと思う。もし、息子が自分と一緒に生きてもいいと言ってくれるなら考えるけど・・・
そうじゃないなら・・・一緒に死ぬんだ!
だって・・・ずっと一緒に50年以上も生きてきたんだ。
こいつがいないんだったら、自分は死んでんのと同じだ。
だから・・・オレはこいつが死んだなんて信じねえ。
息子が来て・・・もうだめだって言うんなら信じる」
と、言いながらもご主人はず~っとIさんの足をもんだり、さすったりしていた。
「そんなに長い間、ずっと一緒だったんですね・・・」と言ったきり、あとはもう何も言えず
「そのまま、側にいてあげてください。息子さんがいらしたらまた来ます」
と言い、モニターの警報音だけは止め、部屋を出てきた。
小さなご主人がずっと私の目を見ながら、「ずっと一緒に50年以上も生きてきたんだ」と言った姿が、
目に焼きついて離れなかった。
残されたご家族が、その「死」を受け入れず、確認が出来ないことなど、経験したことがなかった。
とてもじゃないが、瞳孔に光を当て、呼吸、心停止を確認し、○時○分、ご臨終です・・・などと伝えられる雰囲気ではなかった。
ご主人にはそんなことなど、やらせない凄みがあった。
何時間かたってから、ようやく息子さんが病院に到着した。
今までの経過をお話し、一緒にIさんの病室に入っていった。
ご主人は、まだIさんの足をさすり続けていた。
「もう・・だめなんですね」
息子さんは状況を確認した後、しばらくの間、足をさすりつづける父親の姿を見ていたが、
「父さん・・・もうだめだ。母さんの体・・・きれいにしてもらおう!」
と言った。
ご主人は初めて、足をさする手を止め、しばらく何も言わずにいたが、やがて力なくうなずいた。
この時点で、初めて、Iさんの死亡を確認し、モニターをはずし、看護師を呼んだ。
何時間かあと、Iさんが病院を退院する準備が整った。
きれいにされたIさんが、白い布に包まれて、廊下を運ばれていく。
少し離れたところで、小柄なご主人は背中をよけいに丸めて立っていた。
なんだか、さっきよりも、ずっと小さく見えた。
ちょうど台風が近づいてきていて、外はどしゃ降りの雨だった。
ご主人と息子さんに付き添われ、Iさんは帰っていった。
長年連れ添ってきたご夫婦の、心の絆が痛いほど感じられた看取りだった。
亡くなってからもなお、ひたすら足をさすり続けていた姿は、
おそらくずっと忘れられないと思った。
いままで自分が経験してきた看取りの場合、長年連れ添ってきたご夫婦で、、妻に先立たれた夫は非常にもろいように感じる。
精神的にはもちろんだが、肉体的にも体調を崩す場合が多い。
ご主人が、これからIさんとの思い出とともに、息子さんと一緒に、残りの人生をしっかり生きていただきたいと、
祈りたい気持ちでいっぱいになりながら、病院を去っていく車をずっと見送った。(17年10月23日)
50年も一緒だったんだから①
Iさんは、お腹の左側に大きなシコリがあるとのことで、近くの先生から紹介され、平和病院を受診した。
検査の結果は腎臓癌で、腹部全体に転移があり、すでに手の付けられない状況だった。
痛みのコントロールを行い、ご本人、息子さんの希望も強く、自宅に戻り、
訪問看護、訪問介護を利用しながらも、ご主人や息子さんの世話をやいていた。
立っているのがつらいときは、台所に座り込んで野菜を切ったりしていたようだ。
ご自分で、お腹のシコリのことを「宝物」と呼んでおり、お腹をさすりながら、「こんな宝物が出来ちゃって・・」
などと言っていた。
そんな頑張りにもかかわらず、病状は急速に悪化していき、貧血も目立つようになり、息切れもひどくなってきた。
相談の結果、輸血を行うことになり、数日間入院したが、
輸血によって状態はやや改善した。
しかし、しばらくすると、食事が食べられなくなり、自宅で点滴を受けるようになった。
息子さんは、Iさんの希望もあり、出来れば最後まで自宅で過ごさせるつもりであったので、
出来る限りのサポートを行うことをお話した。
訪問看護師からの報告で、日に日に状態が悪化しているようなので、
臨時に往診をしようとしていた矢先、
外来診療中に、ご主人から電話があった。
「息が苦しそうだ」とのことだった。
あいにく訪問看護師は、別の訪問先にいて、すぐには対応が出来ない。
自分も外来診療中で、すぐに病院を離れるわけにも行かない。
息子さんも日中は仕事で留守をしており、自宅はIさんとご主人の二人だけだった。
ご主人は、Iさんの様子が心配で、いても立ってもいられない状況らしく、あわてた様子がありありと伝わってきている。
もう数時間もすれば往診も可能だが、今は話だけで状況も確認できない。
しかたが無いので、救急車を手配し、来院するようお願いしたが、
ご主人は動揺し、救急車の呼び方もわからないようだった。
しばらくして、救急隊から連絡があったが、住所はわかるが、
ご主人がマンションのA,B,Cの3棟あるうちのどこだか説明できず、わからない、
とのことだった。
ご主人はあわてて外に出て、調べに行っているらしく、病院から連絡しても誰も電話に出てこない。
そんなごたごたがあった後、救急車が到着したとき、Iさんの血圧は70まで下がっており、
呼吸も今にも止まりそうだった。
ひとまず点滴を開始し、そのまま入院となった。
点滴の後、Iさんの状況はやや改善し、問いかけにも返事が出来るようになったが・・・
どう考えても残された時間はほんのわずかと思われた。
病室に入ると、背中の曲がった小柄なご主人はベッドサイドの椅子にちょこんと座り・・・
黙々と、Iさんの浮腫んだ足をず~っともんでいた。
夜になり、息子さんとお話しする機会があったが、
息子さんは、なんとかまた自宅にもどれれば・・・とのご希望だった。
しかし、昼間は息子さんがいないこともあり、ご主人が一人で状態の悪いIさんを見るのは、
かなり困難だと思われた。
また心配で救急車を手配することになりかねない。
かといって、訪問看護師や私がいつもIさんの自宅にへばりついているわけにもいかない。
「明日またゆっくり相談しましょう」と、その日はわかれたが・・・・
翌日の朝早く、自宅の電話が鳴った。
Iさんの呼吸が止まりそうだと・・・
あわてて自宅を出て、病院へ急いだが、
到着したときにはすでにIさんの呼吸は停止し、心臓も止まってしまっていた。
まだ、当直の時間帯だったが、看護師が言うには、
当直医が死亡を確認しようとしても、ご主人が受け入れないとのことだった。
病室に入ると、確かにIさんの呼吸は停止しており、心電図の波形も一直線になっていた。
個室にはモニターの警報音がず~っと鳴り響いている。
その中で、ご主人は一生懸命Iさんの足をもんでいた。
その、あまりの熱心さに、しばらくの間なんと声をかけていいのか思い浮かべることも出来ず・・・
その姿をじっと見つめるしかなかった。
どんな声かけをも寄せ付けないような雰囲気があった。
かなり時間がたってから、Iさんのベッドサイドに座っていたご主人のすぐ横にしゃがみ、声をかけてみた。
「ご主人・・・Iさんの呼吸・・・もう、止まってしまったようです。心電図の波も消えてしまいました。
心臓も止まって・・・もう・・だめみたいです」
それでも、しばらくの間ご主人は何も言わず、Iさんの足をもみ続けていたが・・・
ようやく、初めて口を開いた。
「信じねえ! オレはまだ信じねえ!」
「こいつが死んだら、自分も死ぬんだ。もう生きてたってしょうがねえんだから・・・」(17年10月9)日
「御殿まり」の教訓
院長室のロッカーの扉には、ずっと前から「御殿まり」がぶら下がっている。
野球のボールくらいの大きさで、絹糸を巻いて模様が付けられ、赤とピンクの房がついている。
形はいびつで、模様も少し乱れている。
「御殿まり」は江戸時代に庄内藩の奥方たちが手なぐさみの遊具として作ったのが広まったものと言われているが・・・
院長室の「御殿まり」は患者さんからいただいたものだ。というより
作った患者さんが亡くなった後で、そのお母さんが届けてくださった。
作った患者さんは乳癌におかされていた。
まだ若かったが、初めて私の外来に来たときには、すでに腫瘍は皮膚をくいやぶり、こぶしよりも大きく、
出血も見られていた。
「なんでこんなになるまで!」と、思わず言いたくなるのを押さえ、
検査、治療を行ったが、
リンパ腺にも広範に転移をおこしており、手術、抗がん剤の投与にもかかわらず、
比較的早い時期に脊椎転移をおこし、下半身麻痺が出現し、再入院となった。
歩くことも出来なくなり、なんとか上半身を起こし、思うように動かせない足のもどかしさを紛らわすため、
ビーズのアクセサリーを作ったりしていたが・・・
ずいぶん状態が悪くなってはじめたのが、この「御殿まり」作りだった。
はじめたばかりなので、とても上手とはいえない「御殿まり」が何個か出来上がった頃には、
彼女に残された時間がほとんど残っていないことは明らかだった。
そんなある日、回診で彼女の部屋を訪れたとき、
「ずいぶん一生懸命作ってますね」と、声をかけると「まだ・・うまく出来なくて・・・」との答えが返ってきた。
「私にもひとつ作ってもらおうかな・・・」
と、言ったのだと思う。
ただ、今考えると、そのときは話の流れの中での会話で、どうしても欲しいと思ったわけではなく・・・
自分でそんなことを言ったことさえ忘れてしまっていた。
その後、彼女の状態はどんどん悪化していき、帰らぬ人となってしまった。
それから数ヶ月経った後、外来に彼女のお母さんがやって来た。
「先生にどうしても渡したいものがあって・・・」と、泣きながら紙袋の中から取り出したのが、今、ロッカーにぶら下がっている「御殿まり」だった。
「あの子が作ったんです。先生が欲しがったからと言って、一生懸命作っていたんです。自分で渡すことは出来なくなってしまいましたが・・・
先生にもらってほしくて、もってきました」
その言葉をきき、少しゆがんだ「御殿まり」を見たときの気持ちは今でも決して忘れていない。
人生の最後を迎えようとしている人に対し、自分は何気ない会話の中とはいえ・・・
その場しのぎのようなことを言ってしまっていたのだ。
それなのに、彼女はその言葉に対し、具合の悪いなか、一生懸命「御殿まり」を作ってくれていたのだ。
今からずっと前の話だ。
自分も若かったし、癌の末期の人に対する考えも、今よりずっと未熟だった(もちろん、今でもまだまだ暗中模索の状態に変わりはない)
患者さんに対して真摯に向かい合っていなかったことをこの「御殿まり」が教えてくれたような気がした。
それ以来、その「御殿まり」は10年以上、いつも目に付くところにぶら下げている。
もう・・・ずいぶん色もあせてしまっているが、それでも院長室の「御殿まり」は毎日、
患者さんに対しての言葉には心をこめ、決してその場しのぎの、いい加減な言葉を言ってはいけない!
と、今でも語りかけてくれている。 (17年9月8日)
寝台車が到着する日の朝、部屋を訪れると、Mさんはベッドの上に座っていた。
「Mさん、今日はいよいよ帰れますね!」と、言っては見たが・・・
Mさんの状況は、やはり帰すのは無理か・・と、私自身も思うほどになっていた。
Mさんはしばらく考えてから・・・
「う~ん・・・やっぱりやめようかな・・」
と、つぶやいた。
車はもうすぐ到着する時間だったが、
それはそれでいい・・・と思った。
最近は、最後の時はご本人の不安が少ないところにいるのがいいと思っている。
病院にいれば、いつも医者や看護師がいる。
自宅ではそうは行かない。
やはりこの点が患者さんやご家族にとっては不安のたねになる。
もちろん訪問看護師も私も、夜中でも駆けつける覚悟は出来ているが・・・
実はその週の土曜日、日曜日は自分が当直にあたっていた。
もし、土曜日、日曜日に自宅で急変しても病院を空けるわけにはいかない。
在宅ターミナルは自分ひとりでは限界があり、いざというときのバックアップの必要性を感じた。
月曜まで延ばそうか・・・とも思ったが、
結局Mさんは木曜日の午前中に自宅へ帰っていった。
その日の午後、Mさんの自宅を訪れた。
ベッドは届けられており、点滴も尿の管も入っていないMさんは安らかな顔をして横になっていた。
ベッドサイドに行くと目を開け、
「先生、やっぱり自宅はいいですね・・・」とつぶやいた。
ご家族には、もういつ急変してもおかしくないことをお伝えし、病院へもどった。
次の日になってまもなくの午前2時ころ、枕もとの携帯電話がけたたましくなった。
訪問看護師からの連絡だ。
Mさんはいつものように眠剤をのみ、眠ったので、ご家族もベッドサイドで仮眠をとったらしい。
夜中に目を覚まし、気がつくとMさんの呼吸がほとんど止まっていたようだった。
予想していたより早く感じたが、飛び起きてMさんの自宅にむかった。
訪問看護師はすでに到着していた。
Mさんの呼吸はそのまま静かにとまった。
私が死亡を確認すると、訪問看護師はMさんに話しかけながら体をきれいにし、
エンゼルセット(誰が名づけたのかは知らないが、よく思いついたものだと、いつも感心する)で死後の処置をしていく。
枕元にはMさんのお気に入りの服が用意してあった。
ふつう、というか、いままでの在宅での看取りの場合、
患者さんが亡くなったのを確認し、少しの間ご家族とお話をした後、訪問看護師を残して先においとましていた。
たまたま今回はMさんの体が大きかったこともあったためか・・・
自然に死後の処置、着替えも手伝うことになった。
医者はこの時になると完全な脇役になっている。
着替えを手伝いながら、在宅での看取りにおける医師の役割は、訪問看護師のかかわりに比べたら
ず~っと少ないのだということを痛感した。
在宅ばかりではない。
病院での看取りにおいても看護師の役割は医師のそれに比べて、ずっと身近で濃厚なものなのだと思う。
もちろん、主役は患者さんであり、それを取り巻くご家族であることは間違いないし、
医師の果たす役割ももちろん大切な部分ではあるのだが、
自分が今まで考えていたよりも、ずっと多くの部分を看護師がになっていることを実感できたのは、
Mさんとの最後のかかわりの中で得られた大きな教訓だと思った。
また、「看取り」は患者さんが亡くなって終わるのではなく、
その後の患者さんとの接し方、さらにご家族に対してのフォローがあって初めて完結するのだということを思い知らされた。
今まで、看取ってきた患者さんと自分のかかわりは、ゴールの設定が少し手前すぎたように思えてきた。
「看取り」の奥は深い・・・(17年8月16日)
死ぬときなんて、こんなもんでしょう①
Mさんの結腸癌の再発は右の胸のシコリであらわれた。
こぶのように盛り上がったシコリは硬く触れた。
CT検査の結果は第3肋骨の転移による腫瘍であり、
このほか肝臓にも大小の転移が多発していた。
ご高齢でもあり、手術はもちろん、強い抗がん剤による治療も積極的に行うことは困難だった。
治療は全身状態の管理、疼痛のコントロールが主体となった。
Mさんが外来を受診するときには、いつも娘さんが側についており、
自宅での状況を細かく、的確に要点をメモしてくれており、
状況は手に取るようにわかったので、
治療はスムーズに行うことが出来た。
病状に関しては、全身の状況が良好なうちにありのままを告知した。
しばらくは週に1回の通院も問題なく、元気にしておられたが・・・
しだいに食欲が落ちてきた。
痛みも感じるようになってきたため、モルヒネの投与を開始した。
外来での疼痛コントロールがやや不十分だったため、一度入院していただいたが、
痛みがコントロールされるとすぐに退院した。
その後、ご家族との旅行などを楽しまれていたが・・・
病魔は確実にMさんの体を蝕み、3ヵ月後のCT検査では、
肝臓は腫瘍のごく一部に正常な部分を残すだけのような状態になり、
肺にも多くの転移が認められた。
全身のだるさが増し、しだいに黄疸も出現した。
外来の通院もかなり息切れをし、辛そうだった。
「すこしつらくなってきましたか?」との問いかけに・・・
「何ともないとはいいませんが・・・まあ、死ぬときなんて、こんなもんでしょう」との答えが返ってきた。
予想していなかった反応に、一瞬なんと返していいかわからず・・・
いったいどんな気持ちで、こんな言葉が出たのだろう・・・など、頭の中でぐるぐる考えていいるうちに
言葉をなくしてしまったが、しばらくの沈黙の後、「おとうさん、入院させていただく?」との娘さんの声に我に返り・・・
「調子を取り戻すまで入院しますか?」と尋ねると・・・「お願いします」とMさんが力なくうなずいた。
しかし、入院後温厚なMさんにも不穏症状が出現し、点滴の管を抜いたり、意味不明なことを言うようになった。
娘さんは朝早くから夜遅くまで付き添っていたが、ご家族が側にいるときは、安心するのか、いつものMさんに戻っていた。
体調がやや回復すると、Mさんは再び「自宅に戻りたい」と希望された。
娘さんも強く退院を願っていた。
その時には、食事の量も極端に減っており、持続の点滴も考慮したが、
ご本人も、娘さんも望まれず、食べられるものを食べられるだけ・・・ということにした。
最後の時がもう目の前に迫っていることは明らかだった。
最近では、「誰と、どのようにして」最後の時をむかえるかが大事だと思うようになっており、
「どこで」最後の時を迎えるかは出来るだけご本人の希望を最優先している。
自宅でもよし、病院でも良し、Mさんの場合は娘さん、奥様が十分に愛情を注いでいることが感じられ、側にいてくださったので、
「場所」はあまり問題ではないと思っていた。
ただ、「もう帰りたい」というご本人の希望は何とかして叶えてあげたかった。
(患者さん本人が自宅に帰りたくても、誰も家族がいなかったり、ご家族がどうしても受け入れられず、希望を叶えてあげられないケースも多い)
介護保険の認定申請も急ぎ、ご自宅にベッドを手配し、訪問看護ステーションと連絡を取り、
体制作りを急いでいくうちにも、Mさんの状況は急速に悪化していった。(17年7月22日)
なっちゃったもんはしょうがない!
あいかわらず、外来をしていると、癌の患者さんに遭遇する。
自分が体調の変化に気づき、検査をして発見される人、
全く自覚症状もなく、偶然の検査で発見される人・・・
発見されるきっかけはいろいろあるが・・・
結果が出た場合、病状をお知らせしなくてはならない。
自分が手術を受ける前は、比較的冷静に事実をお話できていたように思うのだが、
どうも最近、初めに病状の説明、いわゆる告知をする場合に、どうしても一呼吸おいてしまう。
躊躇するつもりはないのだが・・・
これから発する自分の言葉で、患者さんが受ける衝撃とか、恐れ・・・
ご家族の心配する様子などが頭をよぎってしまい、
以前よりずっと言葉を選んでしまう。
自分でも確かに歯切れが悪くなったと思う。
もちろん、告知する場合は、その人の人生を一気に変えてしまう事だってあるのだから、
慎重になるのはあたりまえではあるのだが・・・
「検査の結果、悪性の細胞が見つかりました」
「診断は○○癌です」
「治療の方法は・・・」
話し始めても、以前より説明の速度が遅くなっているがわかる。
ただ、自分が手術を受ける前には絶対言わなかったし、考えもしなかった言葉を最近は時々口にするようになっている。
「お話を聞いて、ショックを受けたでしょうし、ご心配な気持ちはよくわかります。
でも、癌になっちゃったもんはしょうがないんですよ!」
告知をした医師から、「癌になっちゃったんだから、しょうがない」などと言われたら・・・
なんだこの医者は!と思われるかもしれない。
お前は健康だからしょうがないなんてことが言えるんだ!自分が同じことになったら、そんな事いえるのか!と怒られるかもしれない
でも、ほんとうに・・・なっちゃったもんはしょうがないのだ!
なんで癌なんかに・・・なんで自分だけが・・・この医者の診断は間違っている!
何がいけなかったんだ・・・きっと何かの間違いだ・・・これは夢なんだ・・・
どうしたらいいんだ・・・
告知されたときは何を言われても、頭の中は大混乱になることもわかるし・・・
それもそれで、しょうがないことで、聖人君主のように動じないで、冷静に話を聞ける人などは
いるわけはない(と、思っている)。
もちろん自分も癌で手術をしたからこそ、患者さんに対しても、ためらわずに言えるようになったことだと思うのだが・・・
「肝心なのは、どうして癌になったかを考えることではなく、これからどうするか!ということだと思います。
これからどうやって治療するのがいいのかを考え、癌をひとまず体から追い出すことを考えましょう」と続けるようにしている。
ただ、すでに手遅れで手術が出来ないような場合や、再発・転移をおこした人にはこの言葉を言ったことは無い。
自分は手術で腫瘍を切除できたし、今のところ再発や、転移をしていない・・・と思う。
手術も出来ないといわれたり、術後に再発した、転移をしたと言われた場合の衝撃は・・・
たぶん自分が経験した思いより、ずっとずっと強烈なものだと思うし、
もし自分がそうなったら・・などと、考えるだけで(考えないようにしているが、時々はどうしても考えてしまう・・・)正直言って恐い!
さすがに、そこまでを「しょうがない」と言い切る根拠を持ち合わせてはいないし・・・
それを今の私が言うのは患者さんに対して、やはり失礼だと思う。
これから手術を受ける患者さんに対して、病気の種類は違っても、癌の手術を受けた「先輩」、これから共に戦う「仲間」として、
自信を持って「しょうがない」という言葉を口に出来ることは、
告知をする場合の一つの武器なのかな・・・とも考えている。(17年6月25日)
「○○歳まで生きられますよ」という言葉は、私も外来や、回診の時によく使うことがある。
手術後の経過が順調でも、ご高齢の方は、ご自分から「もうすぐお迎えが来ますから」とか「もう十分生きてきましたから・・・」
などと話すことがある。
そんなときには「100歳までは大丈夫!」とか、「長寿番付に出られるまでは長生きできますよ!」など、
ずいぶんと年齢の余裕を持ってお話しするのだが・・・
Aさんはどう見ても70歳そこそこにしか見えない。
話す言葉もはっきりしているし、足腰も丈夫だ。
認知症のかけらもない。
がんセンターの先生もおそらく同じような気持ちで
「手術をすれば90歳まで生きられる!」と言ったのだと思う。
ところが・・・
Aさんの実際の年齢は89歳なのだ。
90歳まで生きられるなどと言われたって・・・あと数ヶ月もすれば誕生日が来て90歳になってしまう!
せめて「100歳まで」と言ってくれればよかったのかもしれないが・・・
Aさんは手術をしてもあと1年しか保証はない・・・と思い込んでしまった。
残された寿命がそんなものなら痛い思いもせず、好きなことをして暮らしたいと考えを固めてしまい・・・
そのことを伝えに私の外来にやってきたのだった。
「実は先生が、がんセンターを紹介してくれたとき、土下座をしてでもやめてほしいとお願いしようと思ったけれど・・・
なかなか言い出せなかった。もう何もしてくれなくてもいいからこのまま好きにさせてほしい。
放置していて具合が悪くなっても裁判を起こしたりするようなことは絶対にしないし、家族にもさせないから・・・
どうか願いを聞いてください。お願いします!」と頭を下げられてしまった。
そこまでいわれると・・・さすがに縛り付けて手術をするわけにもいかない。
このままにしておくと、将来どのようなことがおこるかの可能性を、考えられるだけお話したうえでの選択なのだ。
それでも「あまり負担にならないような飲み薬だけでも飲んでみませんか・・・」
と説得し、経口ホルモン療法だけは開始した。
がんセンターでは、「手術を受ける気になったら来て下さい」と言われたようで、
その後行かずじまいになっている。
今後は長い付き合いになるだろうし、長い付き合いになってくれるよう祈っているが・・・
この薬だけでどこまで進行を抑えられるか・・・
なにしろ他の療法は一切拒否しているのだ。
ただ、Aさんの「どうなってもいいから・・・」という気持ちは決して「あきらめの気持ち」ではないと思っている。
自ら癌と共生し、その結果をあるがままに受け入れるという、ある意味「自然な」戦い方なのかもしれない。
40歳、50歳ではやはりここまで割り切れることは出来ないのだと思う。
実際、自分が癌に侵されたときは、とてもじゃないがこんな言葉は出てこなかったし、考えもしなかった。
悶々として思い悩んだし、今でこそ言えるが
当時は、外来でご高齢の方に「こんなに年をとっても病気になるなんて、いっそ死んだほうがましですよ!」などといわれると・・・
口には出さないが、「でもあなたは、今の自分より30年も長く、その年まで無事に生きてこられたじゃないか・・・
自分はもうあなたの年まで生きられないかもしれないのに!」
などと思ったこともある。(今思うと、やはり精神的に荒れていたのかもしれない)
89歳まで病気知らずで、子供も立派に成長し、Aさんは自分が十分に生きてきた、という実感があるからこそ言える言葉なのだと思う。
ただ、今後症状が出てきたとき、Aさんの気持ちも変わるかもしれない。
病気の状況、症状によってご自身の戦い方も変わってくるのはよくあることだ。
そのとき、そのときの状況を正確に伝えて、一緒に戦っていくしかない。
Aさんが今のんでいる薬で、握りこぶし大のシコリが消えてしまった患者さんも、今、私の外来に通院している。
Aさんのこれからの人生は決して90歳までと決まっているわけではなく、
まだ誰にもわからないのだ。
私に出来ることは、いまのAさんの気持ちを、将来後悔しないようにサポートすることだけだ。
もちろん、肉体的な面ばかりでなく、精神的サポート、ご家族への対応など、やらなくてはならないことは多い。
自分がもしこのまま再発・転移をすることなく、他の病気にもかからず認知症にもならず・・・
足腰も丈夫で89歳まで生きられるとして・・・
そのとき癌を再び宣告されたら・・・
いったいどんなことを考えるのだろう。
この前の時のように恐れ、不安になり、精神的にも不安定な状態になってしまうのだろうか・・・
それとも、Aさんのようにあるがままを受け入れるようになるのだろうか?
告知ということをマニュアル化し、画一的に行うことを、医者は決して行ってはならない。
病気の状態ばかりでなく、その人の生い立ち、家族、生活環境も含めた総合的なものを見極め、
多くの人とのかかわりの経験から、自分の中の引き出しを少しでも増やし、
同じ病気でも、その人なりの告知方法をいくつも用意していかなくてはならないと改めて感じている。(17年5月29日)
90歳まで生きられるから!①
乳首から変な液が出てきた・・・とAさんが外来にやってきたのは2年くらい前だった。
その少し前に、胸を強くぶつけたことがあるとの事で、
確かにあざのようなものも出来ていた。
胸をぶつけたために血がたまって、それが乳首から出てきているのだろうと、他院で言われたようだった。
血液の混じった分泌液が乳首から出てくるときは、シコリがなくても乳癌の可能性があるので、
一度診察をさせてくださいとお願いし、検診を受けてもらったが・・・
触っても全くシコリは触れない。
分泌液を細胞の検査に提出した。
細胞検査の結果は良性から悪性まで5段階に分かれている。
Ⅴに近づくほど悪性度は高い。
Aさんの結果はクラスⅡだった。
超音波検査でも腫瘍は描出されなかったが、まだ油断は出来ない。
マンモグラフィでも積極的に悪性を思わせる所見はなく・・・
乳管造影検査も考えたが、Aさんは、絶対にやらない!と、拒否された。
そのうち分泌液は出なくなってしまったが、今後も厳重に経過観察を行うことをお話した。
その後、定期的に受診せず、いつのまにか来院が途切れてしまっていたが・・・
ある日、止まっていた分泌液がまた出てきたと来院したので、
再度、細胞の検査を行ったところ、クラスⅣ、癌が疑われるとの所見が出てしまった。
マンモグラフィも受けてもらったが、
「あんなにいたい思いをさせて!」と、かなり怒って診察室に入ってきた。
ごめんなさい、とあやまった後、なだめすかして診察をさせてもらったが、あいかわらずシコリは触れない。
確定診断をつけるためにさらに詳しく検査し、結果によっては手術になる可能性もあることをお話したが・・・
「手術なんて、絶対に受けない!もうここまで長生きしたし、もういつ死んだってかまわない」との事だった。
娘さんがいるというので、「一度、今後の治療方針について、娘さんと一緒に相談してみませんか」、といっても
「今も誰の世話にもならず、一人で生きている。子供に残すものだってコツコツためてきた。癌でもなんでも思い残すことはない!」と、全く聞き入れてくれない。
しまいには、「もう二度と来ない!こんなに検査ばっかりで!」と怒り出した。
いくら怒られても、はいそうですか・・・とそのまま帰すわけにも行かない。
「乳癌かどうか、確実に診断をつけ、手術以外にも治療法があるかもしれないので、がんセンターの先生に相談してみましょうか。
今までの検査の結果を全部持っていけば、痛い思いや検査のやり直しもしなくてすみますから」
と、セカンドオピニオンを受けることを勧めた。
たまたま娘さんが神奈川県立がんセンターの近くに住んでいるようで、この話には少し心がゆらいだ様なので・・・
「じゃあ、今すぐ紹介状をかきますから、相談だけでもして見ましょう!ね!」と考えが変わる前に急いでデータをそろえ、紹介状を書いて送り出した。
その後どうなったのかと気にかけていたが・・・・
ある日、ひょっこり外来にやってきた。
聞いてみると、がんセンターにはちゃんと受診したらしく、やはり手術を勧められ、
「手術をすれば90歳までは生きられますよ!」と言われたようだった。(つづく) (17年5月20日)
「命の水」
Sさんが乳房のシコリで私の外来を初めて受診したのは、
神奈川県がんセンターで乳癌の告知を受けてから2年以上もたった後だった。
治療に通っていた歯科の先生から、私のことを勧められての受診だった。
彼女は昔シャンソンの歌手をしていて、他にも体を壊していたのだが・・・
再び舞台で歌うことを夢見ていた。
手術を受けなかったのは、歌を歌うためのドレスが着られなくなることも原因のひとつだったようだった。
がんセンターでは右側のシコリを指摘されていたが、
受診した時には反対側にも握り拳より大きなシコリがあり、乳頭はシコリに巻き込まれて陥没し、血性の分泌液がでていた。
脇の下には大きなリンパ腺がゴリゴリと触れ、明らかに転移を思わせた。
もちろん手術・抗がん剤などの治療を勧めたが、彼女は頑として受け入れなかった。
Sさんは「命の水」の効果を信じていた。
いわゆる「健康食品」のたぐいだが・・・
いまは、健康食品、民間療法ブームだ。
新聞の広告などでも、「癌が消えた!」「長く悩んでいた症状が嘘のようにきえた!」
など、夢のような言葉が踊っている。
私は、いわゆる「治療への害」があると判断しない限りは、基本的に患者さんの希望は受け入れるようにしている。
そのような民間療法や健康食品だけで「癌が治る」などとは思っていないが、
「癌が治る」と思う患者さんの気持ちそのもの、治ろうとする気持ちそのものが、治療によい影響を与えることがあると思っているからだ。
ただ、それらのいわゆる代替療法の価格が、概して目が飛び出るほど高いのにはやるせない思いがする。
かく言う私も、何を隠そう手術後は「アガリクス」をのまされている。
のみにくく、臭いも嫌いなので、出来れば飲みなくないのだが、妻は「抗癌作用があるんだから!」と、私に飲ませたがる。
その気持ちはありがたく、あまり効くとも思っていないが毎日飲んでいる。
それはともかく・・・
癌にかかり、患者さんや、ご家族の人たちの「藁をもつかむ」気持ちにつけこみ、
高額な費用を請求するものがあるのには、どうも感心しないし、物によっては怒りさえ感じる。
Sさんが私のところを受診したのは、手術をしてもらいたいためではなく、
今の「命の水」は続けたい。治そうとする気持ちが、体内のバランスを整え、癌の進行を抑えることが出来るという彼女の信念を
確認してくれる医者を求めてのことだったようだ。
ただ、現実にどんどん大きくなっているシコリはどうしようもなく、心配な気持ちもあって、気持ちが揺れていた。
もちろん、今の状況がどのようなものか、転移は、進行状況は・・・
詳しく調べさせてもらい、その後に一番いい方法を相談しましょう、とお話した。
もちろん、「命の水」は否定はしなかった。
検査結果は幸い遠隔転移はなかったものの、局所の状況、リンパ腺の転移状況はかなり厳しい状態だった。
このままでは近い将来、シコリは皮膚を破って顔を出し、悲惨な状態になることが予想された。
抗がん剤の使用・手術がまだ可能であること、治療しない場合の転移、残された寿命の可能性など・・・
あらゆることをお話したが、結局、彼女は抗がん剤も、手術も拒否された。
「いよいよ自分が決心した時には先生に手術をお願いします・・・」
かなり時間をかけて説得したが、唯一受け入れたのは、経口ホルモン療法だけだった。
「これからは。シコリと仲良く付き合っていくしかないかもしれません。Sさんの持つ力と、治療が効くことを祈りましょう」
その後も、Sさんは規則的に通院し、薬だけはのんで下さった。
しばらくして、彼女がうれしそうに言った
「先生!癌が治ってきているような気がします」
確かに・・・治療を開始し、数ヶ月で腫瘍の大きさは見る見る小さくなっていった。血性の分泌は全くなくなり、
さらに数ヶ月で、触診してもどこにシコリがあるのかわからなくなってしまった。
リンパ腺の転移さえも触れない!
CT検査でもすでに画像上は確認できないほど縮小していた。
確かに、服用していただいた薬は効果がデータ上確認されている薬ではあるが・・・決して魔法の薬ではない。
はっきりいって、これほど劇的に効いたのは見たこともない!
たまたま、この薬が著効を示した珍しいケースなのか・・・
「命の水」との相乗効果なのか・・・
彼女の考えを否定せず、希望に沿った治療をした医者がいたため、
治ろうとする「自分の力」が強くなったのか・・・
癌はおとなしく撤退したとみせて、やがて爆発的な増殖のチャンスを狙っているのか・・・
誰にもわからないが・・・
今はこの効果が少しでも長く続いてほしいと祈るしかない。
もちろん、今後、どのような状況になっても、責任を持ってお付き合いするつもりではあるが・・・・
このようなケースにめぐり合うたび思うことは、
統計上、効果のある治療を行わず、患者さんの希望にあわせていくことは
はたして本当にいいのだろうか・・・
自分の説明が足りないのではないだろうか・・・ということだ。
もちろん自分としては十分な情報の提供はしているつもりだ。
治療を受ける場合の効果、受けない場合の予後もお話しする。
「それでも治療は受けたくない」という気持ちを尊重するからには、
最後の最後まで責任を持ってお付き合いする覚悟が必要だ。
どんなに具合が悪くなっても、「だからあの時言ったじゃないですか・・・」の言葉は、この先どんな事がおこっても決して言ってはいけないのだ。
もしかしたら、具合が悪くなった患者さんや、ご家族の方から、
「こんなになるんだったら、あの時もっと強引に治療を勧めてくれればよかったのに・・・」
と、思われる可能性だってあるのだ。
「やっぱりあの時治療を受けていれば・・・」と後悔する場合もあるかもしれない。
それでも、医者はそのときの患者さんの気持ちを受け止めなければならないし、
そう感じないように、後悔しないように支えていかなくてはならない。
「そんなこといったって、あの時、あなたが決めたことでしょう・・・」などと、突き放すことは決して出来ないし、してはいけないのだ。
どれだけ、そのときの気持ちをサポートできるか、そのときの気持ちに合った治療が行えるか・・・
たとえ患者さんが強く望んだことではあっても、積極的な治療から「一歩も二歩も下がった」防衛治療はかえって難しい問題をはらんでいる。(平成17年5月5日)
転移性肝癌治療研究会
先日、大学での会議が開かれた。
千葉大学臓器制御外科と、その関連病院の中の25施設で、
直腸癌、結腸癌の肝転移症例に対する治療成績を上げるため、
抗がん剤を使用し、ダウンサイズさせて肝切除が可能な状態に持っていくための研究会だ。
決められた治療法を行い、その生存率のデータを集積するというもので、
私もこの研究会の世話人になっている関係で、会場の千葉の京成ホテルに出かけていった。
世話人会では治療法の説明、倫理的背景の確認が行われ、
そのあとの講演会では横浜市大外科の嶋田教授が、転移性肝癌の治療成績について話され、
すばらしいデータを示された。
私が医者になったころは、肝転移などがあった場合、治療など、もうあきらめていたものだが、
今では肝の両側に多発した転移があっても、抗がん剤をうまく使いこなし、
その後に手術を行えば「なんとかなる]時代になってきた。
ただ、正直なところ、こんな状態になってもまだメスを入れるのか・・・
という驚きと躊躇があることも事実だ。
もちろん、大学は、治療の限界に挑戦する場所でもあり、中小病院とは使命が違うのも確かだ。
多発肝転移があっても、うまく手術が出来れば5年生存率は30%程度になるとのことだった。
昔なら、ここで素直に、これはすごい!と思ったのだろうが・・・
スライドに示された生存曲線は、手術からの時期が長くなるにつれて、どんどん下がってくる。
手術を受けた人たちはどんな思いだったのだろう・・・
それぞれに、多くのドラマがあるはずなのに、データでは何%が生きているか、という数字にしかならない。
亡くなった人たちの葛藤は・・・
家族の思いはどんなだったのだろう・・・
また、幸いにも「生存」している30%の人たちは、確かに生きているのだろうが・・・
どんな状態で生きているのだろう?
苦しい息をして、病院に入院し、どんなに状態が悪くても、生きている限りは「生存」の中に含まれているのだ。
人間らしく生活が出来ているのだろうか、自分の人生に不安を抱えながら、
心細い思いで暮らしていないのだろうか・・・
数字に隠れた、もっと大切なものがあるのではないか・・
告知をされた後も、精神的なケアは十分受けられたのだろうか・・・
ついそんなことを思ってしまう。
生存の中に入るか、ドロップアウトするか・・・
自分も含めて、そんなことは誰にもわからないのだが、
どちらにしても一人ひとりのドラマが充実したものであってほしいし
もちろん、平和病院で手術をした悪性疾患の患者さんたちも、そうあってもらいたい(17年3月25日)
「先生、呼吸が止まったようです」
在宅での看取りをサポートする以上、時間はおかまい無しだ。
なぜか夜中や、明け方に呼ばれることが多い。
患者さんの自宅についたとき、訪問看護師はすでに到着しており、患者さんは静かに横たわっていた。
ご家族はその周りに座っており、お姉さんはひざを抱え、目を真っ赤にしていた。
静かだった。
「先生が帰った後、また目を覚まし、ダイニングの椅子に座り、家族全員で紅茶を飲みながら、話していたんです。
痛み止めをのんでから寝たほうがいいかを聞くため、訪問看護師さんに電話をし、話している途中だったんです」
患者さんは眠るように目を閉じた。
「あら、眠っちゃった」・・・姉が言った。
母親が、電話をしながら患者さんを見ると・・・息をしていないようだった。
そのまま、患者さんは二度と目を開けることが無かった。
家族全員がそろって、楽しく話をし、ダイニングの椅子の上で、本当に眠るように最後を迎えたのだった。
「こんなにやせてしまったのに・・・椅子から布団まで運んだんですが・・・けっこう重くて」父親が言った。
「もう一度でいいから、皆で食事に出かけたかった・・・」
「家に帰ってからの2週間あまり、先生に、痛み止めは制限する必要は無い、と言われてから、本当に今までの苦労が嘘のようで・・・
それまではつらい日々でしたが、最後の最後に充実した時間をすごせました。本当にありがとうございました」
母親はいつまでも患者さんの髪をなでながら言った。
確かに発病してから2年間の病気との壮絶な闘いのことは、私は知ることができない。
初めてお会いしてからの12日間だけの短いお付き合いだったが・・・
ほんの少しでも力になれたのだろうか・・・と自問した。
このご家族が一丸となって患者さんを支える強い意志は、数少ないながら私が在宅での看取りをお手伝いした中でも飛びぬけていた。
家族の深い絆が患者さんを中心にして、お互いを支えあいながら、病気と闘ってきたことが痛いほど理解できた。
やはり、在宅での看取りは、もちろん本人の希望もあるが、ご家族の強い思いがあって、初めてできるのだということを強く実感した。
この支えがあったからこそ、この患者さんは家族全員に囲まれながら、ベッドではなく、すわって、しかも話しながら静かな最後を迎えられたのだと思う。
これほど安らかな最後を、これからどれくらいサポートしていけるのだろう・・・
医者の役割は、在宅での看取りでは、あくまでも「お手伝い」に過ぎないと思っている。
主役は患者さん本人であり、それを支えるご家族だ。
そこに生じる不安、肉体的な苦痛をいかに少なくし、大切な時間を有意義なものにしていただくか・・・
今までかかわってきた一人ひとりの患者さん、ご家族が教えてくださっている。
先日、半年以上たって、御両親がわざわざ病院までご挨拶に見えた。
「今でも本当に自宅につれて帰ってよかったと思っています。最後の2週間は、つらくても、充実していました」
そういってくださった。
私にとって、また看取りに対しての新しい道しるべを立てていただいたような気がした。(17年1月7日)
眠るように②
「出血死」という言葉は、家族にとっても、患者さん本人にとっても、かなり重くのしかかっていた。
少しの症状の変化でも、精神的な不安が大きくなっていた。
いくら告知をされ、すべてを了解していると言っても・・・
わずか30歳で終わろうとする自分の人生を、そんなに簡単に受け入れることなど・・・
よほどの精神修行を積んだ高僧でもない限り、とてもできそうも無いように思われた。
初めて往診をしたのは大型連休の少し前だったが、
危ないと思われた連休も乗り切り、熱は相変わらず続いていたものの、
患者さんは数日ごとに、輸血を受けるため、父親の車でT病院まで出かけていった。
一時は軽快したようにも見えたが、5月10ころから、痰が絡むようになり、呼吸の状態が悪化した。
在宅での酸素吸入が必要と判断したので、業者に手配し、器械を自宅に運ばせたが
結局は、音が気になって眠れない、とのことで使用されなかった。
5月12日、仕事を終えて、夜の8時過ぎに往診に出かけた。
駐車場の前に、母親が待っていた。
どうしたのかと思ったが、母親は私の顔を見るなり、涙を流しながら言った。
「今日は鼻血が止まらず、食事も、ほとんど食べられないんです。本人も不安が強いようで、混乱しています。
告知はされているんですが、まだ・・・受け入れられないようで、今日はつじつまの合わないことをいうかもしれません
でも・・・どういって励ましたらいいのか、もうわからなくなりました」
患者さんはベッドにうずくまっており、荒い息をしていたが、私の顔を見ると起き上がり、一生懸命話始めた。
「先生、今日は食事が食べられないんです。出血も少しあるし・・大丈夫なんでしょうか?」
「水は飲めているようなので、心配は要りませんよ。大丈夫!もし、あまり心配なら、自宅で点滴もできるから・・・」
「点滴はもう嫌です。勘弁してください」
何か食べたいものはあるかと聞いたとき、妹が、「シャーベットを買ってきたよ」と言った。
「食べてみてもいいですか?」
「いいですよ。でも、ゆっくり、むせないようにね」
妹は2種類のシャーベットを小さな器に入れて持ってきた。
グレープフルーツとイチゴだった。
体を起こすのが精一杯の状態だったが、患者さんは何とか起き上がりグレープフルーツの器を手に取った。
自分でスプーンを持ち、食べ始めた。
静かな部屋に「カリカリ」と言う音が響いた。
「おいしいなあ~」
患者さんは私のほうを向いて食べていた。父親は、その後ろに座っていたが、声を出さず,顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「もういいや、あとは明日食べるから」
「じゃあ、明日はイチゴね」
妹がそういったが・・・
明日、食べられる体力が残っているかは疑問だった。
「起きてるついでだから、着替えようか」母親が言った。
手伝おうとする母親を断り、「大丈夫、自分でできるから・・・」と患者さんは自分で、血液のついた服を脱ぎ、
新しいパジャマに着替えた。少し疲れたのか・・・
「先生、少し横になっていいですか」といった。
横になった患者さんは目を閉じて、大きく深呼吸をした。
「じゃあ、また明日来るね、夜中でも心配なときは呼んでください。家も近いし、一方通行を少し逆送してでもとんでくるから」
患者さんは弱々しく微笑んだ。
しかし、結局、患者さんと話したのはこれが最後になった。
家を出たのは9時過ぎだったが、夜中の1時過ぎ、訪問看護師からの電話が鳴った。(16年11月18日)
眠るように①
T病院から、突然連絡があった。
先日、白血病の患者さんの在宅での看取りを引き受けた関係で、
また依頼してきたのだ。
都内のT病院で治療を受ける白血病の患者さんが、
平和病院の診療圏にこれほどの頻度でいるのだ、ということにまず驚いた。
30歳の男性。
連休を控えた5月1日だった。
治療は限界といわれ、白血球数は10万を超えていた。
このままでは、近い将来、白血病死になる可能性がきわめて高い。
患者さんも、ご家族も、長い入院生活に疲れ果て、自宅での療養を願っていた。
前回の患者さんと違い、今回は患者さんも、自分の病状のすべてを理解していた。
外来で長い間お付き合いしていた患者さんと違い、初めての往診の時にはやはり緊張する。
患者さんの家は、ちょうど病院からの帰り道に近かったが、一方通行の出口に近く、かなり遠回りをしなければならなかった。
鶴見は道が狭い。迷いながら、狭い道を行くと、家の前で、父親と思われる人がポツンと立って待っていてくれた。
「突然のお願いですみません」
「いえ、気になさらないでください」
家の中に入ると、スポーツ刈りで、ひげを伸ばした患者さんが、ダイニングの椅子に座っていた。
奥の部屋には布団が敷いてある。
「はじめまして、髙橋です」
紹介状の文面から判断したよりも元気そうに思われた。
食事も少しは食べられているらしい。
ただ、会話をしていると息がつらそうに感じた。
「今、何が一番つらいですか?」
「痛みです。T病院から、痛み止めはもらっているのですが、切れてくると激痛になって・・・」
「あまり痛いと、痙攣を起こしたようになって・・・私たちが体をさすったり、苦しそうで、見ている私たちもつらいんです」
母親が涙ぐみながら言った。
痛み止めの内服は必ず6時間以上あけるように言われていたらしく、その間の痛みはかなりひどい状態にあるようだった。
もう治療法も無く、最後のときを迎えるために自宅に帰ったときに、痛み止めの使用を制限する意味があるとは思えない。
痛み止めの内服は、制限せず、「痛くなくなるまで」使用するように伝えた。
どうしても不安なときは入院することも可能なこと、夜中でも往診の対応は可能なので、心配は要らないことを説明、
自分ができる限りのサポートをすることを伝えた。
その後も患者さんは、紹介元のT病院に赤血球、血小板の輸血をするために、父親の運転する車に乗って、出かけていった。
輸血を行わないと、出血が原因で死亡する可能性が高い、とも言われており、必死の思いで出かけていたようだった。
「出血死」という言葉は患者さんにとっても、また、ご両親にとってもかなり重くのしかかっていたようで、
鼻血などの、少しの症状でも精神的に不安になり、おいつめられていたようだった。
告知をされ、病状を理解したといっても、それを受け入れ、30歳で終わろうとする自分の人生を認めることなど・・・
しかたが無いものとして、受け入れられるのだろうか・・・
自分はそんな人に対して、何かしてあげられることがあるんだろうか・・・
在宅での看取りを引き受けることの重さを、いまさらながら痛感した。
ただ、その患者さんの目は、こちらをまっすぐに見つめてくるので、私も目をそらすことができず・・・
少しでも、苦しまず、平穏な精神状況を作れるように、と気持ちを引き締めた。(16年10月24日)
自分の役割②
「病院にいる間は大変だったようですね。疲れたでしょう、自宅に戻れたんですから、少しゆったりしましょうね。
今の状態では食事も十分取れていないようなので、点滴はそのまま続けましょう。
尿の管も入っていますが、長い間入院していたので、足の力も思ったより落ちているでしょうから・・・
すぐに歩いたりせず、だんだん慣らしていきましょう。それまでは、管は入れておきましょうね。
今・・・何が一番つらいですか?」
「食べたいものが食べられないのがつらくて・・・今までは氷をなめるだけで・・・ゼリーが食べたいんです。どんな味でもいいから・・・」
あと数日で急変すると言われている患者さんに、ゼリーを禁止する意味があるのだろうか・・・
「少しだけ食べてみましょうか。急にたくさん食べると下痢をしたりすることもあるし、むせたりしても大変ですから、ゆっくりね」
「お家は、ご家族の方がいつもそばにいてくれて安心できますよね、
ただ、病院と違ってボタンを押すとすぐに看護師が来たり、医者がすぐにやってくると言うわけにはいきません。
それでも、いつでも連絡は取れる体制にしますし、夜中でも出来るだけ早く診察に来るようにはしますので、心配はありませんよ」
患者さんは疲れたのか、うなずいて目を閉じた。
在宅での看取りをおこなう場合、たいていは平和病院で長い間治療をおこなった延長線上に、緩和医療、そして旅立ちがあるのだが、
このケースのように、他院からの依頼、しかも残されて時間が限られた場合は対応がむずかしい。
しかも、この患者さんは、もう目の前に迫った状況を全く理解していない。
これでは、自分はただ死亡を確認するための「死神」のようなものじゃないか・・・
そんな思いも頭をよぎる。
患者さんは紹介元の治療に関して、かなりの不信感をいだいていた。
食事が食べられず、高カロリー輸液で栄養コントロールされていたが、
「あの病院の薬は絶対に使いたくない!」と言い張り、まだかなりの量が残っていたにもかかわらず、
当院からの処方薬に切り替えた。
よほど治療がつらかったのか、「疲れきった」と言う表現がそのまま当てはまるような状態だった。
ご家族も、自宅での対応に戸惑いがあるように感じた。
初めての往診を終え、帰ろうとしたとき、玄関の横の部屋で、ご主人が電話口で話しているのが聞こえた。
おそらく親戚の人なのだろう・・・
「だって、しょうがないじゃないか・・・もう何をやっても助からないって言われたし、あと数日の命だって言われて・・・
なにしろ本人がどうしても帰りたがったんだから・・・」
どうも電話の相手は、重症の患者を自宅につれて帰ったことに異論があるようだった。
ご主人は泣きながら電話をしていた。どうしようかと思ったが、そのまま帰るわけにもいかず、玄関でポツンと待っていた。
その翌日から、患者さんは坂を転げ落ちるように状態が悪くなった。
往診しても意識レベルは回復せず、数日後の夜中、訪問看護師から自宅に連絡があった。
かけつけると、もはや手の打ちようもなく・・・そのまま息を引き取った。
T病院の紹介状に書かれていた通りの状況になり、予想されていた日に亡くなった。
的確な診断?にある意味感心したが・・・
初めてお会いしてからわずか5日目のことであり、あっという間の短いかかわりだった。
ご本人だけでなく、ご家族も、「看取り」に対しての心の準備がまったくなされていないようだった。
患者さんは病院に対しての不信、不満がつのっており、治療の経過中はともかく、
「死」を受け入れるにはあまりにも時間が短すぎた。
私のかかわりも非常に中途半端なものになってしまい、何もしてあげられず、
ただ「ご自分の家での最後を確認する」という作業ばかりが目に付くことになってしまった。
最後の挨拶をしたあと、明るくなり始めた道を車で走りながら、心はなぜか、まだ暗かった。(16年10月3日)
自分の役割①
住み慣れた自宅で最後を迎えたい、という患者さん、ご家族の希望にこたえられる体制は、今も十分とはいえない。
訪問診療にしても、訪問看護にしても、それを支える側の肉体的、精神的な苦労はかなりのものだ。
どこにいても連絡が取れるようにしなければならないし、「その時」は夜中でもお構い無しにやってくる。
たずさわる医師や看護師は、患者さんやご家族が、「本当によかった」と思える最後を迎えられ
「安らかな最後をむかえられました」と言って下さる一言をエネルギーにして活動している。
ある日、訪問看護ステーションの管理者から相談があった。
都内の超有名T病院に白血病で入院している患者さんがいる。
MRSAや緑膿菌などの混合感染で敗血症を起こし、もう数日の命だと言われている。
患者さんは自宅に帰りたがっており、もう治療の手段はなく、引き受けてくれる医師を探しているとのことだった。
状況を確認するため、ご主人に私の外来に来ていただき、お話をうかがった。
主治医からはもう数日の命と言われた。どうせダメなら自宅だ死なせてやりたい・・・とのことだった。
早い段階から、自宅での「緩和医療」を受ける人ばかりでなく、「死を迎えるためにだけに自宅に帰る」ことは時々経験する。
ほとんどが、ご自分の状況を理解、認識し、残された時間がないことを悟り、病状の悪化することも覚悟の上で「自宅へ帰る」ことを望む人たちだ。
T病院から退院し、自宅に帰る日はちょうど手術日だった。
手術が終わったのは、すっかり暗くなったころで、訪問看護師の用意してくれた地図を頼りに患者さんの自宅に向かった。
自分が外来で長い間診察している患者さんと違い、この訪問が初対面だ。
顔も性格もわからない。
[死」を迎えるときのお手伝いをするには、やはりある程度の期間、ふれあいが大切だと思うが・・・
事前の情報では、残された時間はあまりにも少なかった。
少し迷いながら、ご自宅にたどり着いたときには、患者さんはベッドに横たわっていた。
「はじめまして、平和病院の髙橋です。これから、ご自宅にいらっしゃる間、診させていただきます。よろしくお願いしますね」
この患者さんに関する紹介状は、訪問直前に届いたが・・・正直言って、内容にとまどった。
「患者さんには、病名は知らせたが、治療を受け入れてくれない。今回は外泊と説明し、しばらくしたらT病院に戻ることになっている」
と記載されていた。いろいろな病名と、今までの経過が記されており、読んでみると、確かに悲惨な状況だ。
「患者さんはあと数日で急激な状態悪化の経過をたどると思われます。よろしくお願いします」と結んであった。
すべてを了解し、ご自宅で死を迎えるために退院してくるものと思っていた私は、この紹介状に、少なからず困惑した。
患者さんが自分の状況をどのように受け止めているのかが判らない・・・ご家族の思いは・・・
情報があまりにも少なすぎた。
ベッドに横たわっていた患者さんは、紹介状から判断したより、ずっと元気そうだった。
「やっとご自宅に戻れてよかったですね」
「うれしいです。あの病院にいると、どんどん具合が悪くなるばかりで・・・いろいろ薬を使われて、こんなになってしまいました」
「ちょっと診察させてくださいね」
胸、腹部の状況を調べる。体が異常に熱い・・・敗血症のため、39度を超える熱があった。
ただ、しっかりと話は出来、一見するだけでは、とても数日後に「死」が迫っているという感じはうけなかった。
もちろんご本人も、そんなことは全く自覚していない様子だ。
自然に会話は、言葉を選びながらの慎重なものになった。
「咳が止まらないんです。薬はもらってるのにちっとも良くならない・・・どうしてこんなに咳が出るんでしょう・・・
熱だって全然下がらないし・・・」
病状の説明はどうなっているんだろう・・・
確かに、「もう手の施しようがありません。病院にいても同じなので、自宅に帰りたいなら帰ってもいい・・・」
とはなかなか言いにくいのかもしれない。
自分が逆の立場でもかなり説明には苦労すると思う。
病気そのものの治療は中止され、持続の点滴が入っているだけだ。確かに改善は望めない。
私がかかわったからといって、病状が良くなる可能性は限りなく「0」に近い。
これでいいのだろうか・・・、私の役割は何なのだろうか?
在宅での「看取り」は、患者さんが状況を理解していない場合、家族が気持ちの整理をつけていない場合、
きわめて困難な状況になる。(つづく) (16年9月20日)
看取り:自宅から病院へ
Tさんの脇のしたの腫瘍はだんだん大きくなっていた。
乳がんの手術後、リンパ腺の転移による腫瘍だった。
しだいに全身状態も悪くなり、外来の通院も厳しい状態になった。
ご家族の協力もあり、往診と訪問看護を利用して自宅で療養を続けていた。
ある日、往診に行き、寝ているそばにいくと・・・
「先生、長いこと本当にお世話になりました。ありがとう・・・」といって私の手を握り、涙ぐんだ。
ご高齢のこともあり、告知はしていなかったが、やはり何か感じるとことがあったのかと思われた。
自宅にはいたいが、家族に迷惑をかけたくない・・・と、そのことばかり気になさっていた。
まだすぐには逝くような状況とは思えなかったが、その2日後の日曜日・・・
娘さんから私の携帯に連絡が入った。(在宅ターミナルの患者さんには、自分の携帯の電話番号をお伝えすることも多い)
「母が、もう先生の病院に行きたいと言い出したのですが・・・どうしたらいいでしょう」
ちょうどクリスマスの時期であり、出先で電話を受けた私の周りには、電話の内容にはふさわしくないクリスマスソングが流れていた。
せっかくここまでご自宅で過ごせたのだから、との思いもあり・・・
「これからご自宅にうかがいます」と言ったが・・・
娘さんはしばらく考えてから、
「母は私のことばかり気遣っていました。その気持ちを考えると・・・もう入院させてやってください」
とのことだった。
病院に連絡し、部屋を確保し、救急車を呼ぶように指示し・・・自分も病院へと急いだ。
着いた時には、すでに意識は朦朧としており、
それからわずか1時間たらずで亡くなってしまった。
「救急車に乗るまでは意識もしっかりしていたのに・・・入院すると思ったとたんに気が抜けたのでしょうか・・・
眠るようになってそのまま」とのことだった。
「ぎりぎりまで自宅で面倒を見させてもらい、最後には病院で安らかに眠るように亡くなって・・・
母はいつも先生に会えるのを楽しみにしていました。先生の病院に入院するので安心したのだと思います」
と、娘さんは言って下さったが・・・
自宅では、家族に迷惑をかけたくないと、気にしておられ、無理をしていたのかと思うと、
もう少し早く、入院してもらっても良かったのではないかと思った。
在宅での看取りをおこなうようになって日はまだ浅い。
ずっと入院していて最後の日に自宅へ帰る人・・・
ずっと自宅にいて最後の日に入院してくる人・・・
かかわった人の数だけ違った最後を看取った。
今はまだ病院の組織として対応している段階ではなく、私の個人的なかかわりと、訪問看護ステーションの協力でしのいでいる。
今後、需要が多くなれば、もっと地域を巻き込んだ組織的な取り組みが必要になると思っている。
最近は「自宅で死ぬ」ということにこだわることは、それほど重要ではなく・・・
そのときを迎えるまでに患者さんやご家族の方たちと、どういうかかわりが出来るのか、そして
「どこで」ではなく、「誰に、どのようにして看取られて・・・」最後を迎えるか、ということのほうが、
ずっと重要だと思うようになっている。
今も外来には癌の再発、転移と戦っている患者さんが何人もいる。
この人たちと今後どのようにかかわっていくことが出来るのか・・・悩みは尽きない。(16年8月30日)
この文章は、千葉大学ゐのはな同窓会雑誌「ゐのはなかながわ」に掲載された「在宅での看取りに思う」の一部です。
看取り:病院から自宅へ
Sさんが直腸がんの手術をしたのは5年以上も前のことだ。
弁護士をなさっており、手術後も神奈川県の弁護士会の長老として、忙しい毎日を送っておられた。
かなり進行した状態での手術だったのにもかかわらず、
術後の経過は順調だった。
ちょうどご自宅近くのバス停が私の通勤路の途中にあり、朝、よくお見かけした。
信号待ちで止まると、バスを待つ列の中のSさんが私の車に向かって深々と頭を下げるので・・・
周りの人たちは怪訝そうに私の車を見ていたことが何回もあった。
そんなSさんの定期検査で肺転移がみつかった。
癌は告知されており、転移のことも正直にお伝えし、胸部外科を紹介し、肺切除がおこなわれた。
手術は無事に終了し、いったん退院し、外来に通っていたが・・・
次第に腸閉塞を繰り返すようになった。
転移は肺にとどまらず、腹部にもおよんだことが疑われた。
このこともSさんにお伝えしたが、Sさんは淡々として、
この症状が少しでも改善されるなら・・・と、手術を希望された。
開腹してみると、癌は複数個所で小腸を巻き込んでおり、とりきることは困難で・・・
腸閉塞の原因となっている箇所にバイパスを作り、手術を終えた。
それでも退院し、しばらくは食事もとれ、お仕事にも復帰することが出来た。
しかし、癌はSさんの体を遠慮することなく蝕み、膀胱に浸潤、全身状態は次第に低下し、再入院となったが、
入院後も外出をしながらお仕事をこなしていた。
ご自分の状態のことは理解しておられ、回診のときにも淡々としておられた。
ご家族は何とかもう一度退院させたがっており、もちろんご本人も同じ考えだったが・・・
状態は急激に悪化し、もはやこれまでか・・・と思われた。
意識も朦朧となった夜の10時ころ、病室を訪れると、娘さんが言った。
「先生、父もいつも言っていましたし、私たちも何とかもう一度自宅に帰してあげたいと思っていました。
もう残された時間がないことは十分判っています。今からでも・・・何とかならないでしょうか」
このままでは、その日の夜は越せないことが予想された。帰るとしたら、今しかない。
ご自宅は病院の比較的近くだったが、今の状態での移動は途中で急変する可能性も十分考えられた。
ご家族にもそのことをお話したが、それでもなんとか・・・と強く希望された。
今では躊躇なくご自宅に帰すことを考えるが、その当時には経験のない事態で、かなり悩んだ。
結局、車を手配し、自分が付き添って退院させることにした。
そのころには、平和会にも訪問看護ステーションを立ち上げていた。24時間対応にはなっていなかったが、
管理者がSさんのご自宅で待機してくれることになり、病棟看護師も自宅までの移送に付き合ってくれた。
「Sさん、お家に帰りましょう!」との呼びかけが聞こえているのかいないのか・・・
かすかにうなずいたような気もしたが、なんとか無事にSさん宅までたどり着き、ベッドに横たえたときには正直ホッとした。
結局、翌日の昼過ぎに亡くなられたが・・・
最後の往診のとき、ご自宅に帰ったあと、急に意識がはっきりとし、ご家族にいろいろと指示を出し、
それが終わると、安心したのか、眠るようにして亡くなったと聞かされた。
入院中の状況からして、にわかには信じがたかったが、
「自宅に帰していただいて、本当に良かった」と感謝していただいた。
そんなことがあって以来、ご希望がある場合には、なるべくご自宅での看取りをサポートするようになった。
ただ、在宅での看取りは、ご本人の希望ばかりでは成り立たず、ご家族の方の覚悟と、しっかりとした受け入れの態勢が不可欠になってくる。
急変したときの不安に耐えられず、結局救急車で病院に戻ってしまうケースも少なくない。
そんな不安をどうやってサポートできるかが、これからの、そして永遠の課題だ。(16年8月20日)
この文章は、千葉大学ゐのはな同窓会雑誌「ゐのはなかながわ」に掲載された「在宅での看取りに思う」の一部です。
少し前に書いたこと
いままで、10年以上前に書いた文章を10回も書いてきたが・・・
そのご、忙しさに紛れ、長い間、あのような文章を書くことは無かった。
ただ、その間にも平和病院には癌の患者さんが何人もやってきた。
世の中の流れは、と言えば、いつの間にか「告知」は当たり前のこととして受け入れられるようになった。
ただ、それは告知する側が、当たり前のこととして受け止め、何人もの人に告知するようになったからであり、
告知される側にとっては、昔のまま、自分にとって一生のうちに一回あるかないかの問題であるのだが・・・
良い、悪いはともかくとして、告知される人の数が圧倒的に多くなったのは事実である。
「癌告知マニュアル」なるものまで出回るようになり・・・
平和病院でも告知は日常的におこなわれるようになっている。
ただ、告知された患者さんたちの中には、術後しばらくは順調に経過しても、再発、転移をおこし、ふたたびその事実を告知される人も増えてきた。
現在、癌との闘いの真っ只中にいる人、戦いに敗れ、今は思い出に中にいる人・・・
さまざまな人間模様がくり広げられてきたが・・・
その人たちとのかかわりの中で、自分はいろいろと教えられ、反省させられ、
人間の意志の強さを思い知らされ、また、弱さをまのあたりにしている。
患者さんを励ましながらも、最後を看取るときの無力さを思い知らされ、精神的な未熟さを痛感している。
ただ、その中で、何人か、これでよかったのかもしれない・・・と自分でも思える人たちのとかかわりが出てきているのも事実だ。
その人たちとかかわった経験は、迷ったときの道しるべとして、これからの「死に行く人」とのかかわりに、ぼんやりと光を与えてくれている。
足元の道がはっきりと照らされるまでには、あとどれくらいの道しるべがいるのだろう・・・先はまだ暗い。
と、少し前に書き、告知や看取りに関して悩みながらも書いていこうと思っていたが・・・・
まさか、自分が、あっさりと告知される側に立つとは・・・正直、思っても見なかった。
告知された感想は・・・一言で言えば、躊躇することなく直球を投げられた・・・と言った感じだ。
ただ、告知される側の気持ち、家族の気持ちが、告知の一言によって激動することも思い知らされた。
「告知を冷静に受け止める人は思ったより多いのかもしれない・・・」などと、10年以上前の最後の文に書いていたが・・・
それは告知する側に、そう見えるだけ、あるいは言葉として受け止めていたり、
事実であり、どうしようもないものとして受け止めているのであって・・・
そんなに「はい、わかりました」と言えるような生易しいものではない。
特に子供が小さかったり、自分がいなくなったあとの家族の生活に不安があるような場合はなおさらだ。
実際、自分だって、告知した医師に対しては「冷静に」受け止めているように対応していた。
今は簡単におこなわれる「告知」
それが、治療にとって必要なことが多いのは事実だが・・・
やはり、告知する側は、その影響を、もっともっと真剣に考え、告知される側の気持ちを思いやるべきだと思う。
告知や看取りは、今まで感じていたよりも、ずっと奥が深いことを痛感している。(16年8月8日)
ずっと昔に書いたこと⑩
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
告知に関し、いろいろと悩むことは多いが、たまたまはっきりとご本人に告知する機会があった。
以前、結腸癌で手術をしたMさん。
結腸癌の手術の時には出血、狭窄があり、「このまま手術をしないと腸閉塞になる危険性が高い」とのことで手術をおこなった。
このときにはご本人には告知がおこなわれなかった。
術後は肝、腎に障害をおこし、生死をさまよったあと、やっと回復した。
数年後の胃癌検診で癌が見つかった。
比較的早期のもので、手術も考えたが、この時点でも肝機能、腎機能がかなり低下しており、術後のトラブルが予想された。
ご本人と奥様にお話した。
「胃にたちの悪い潰瘍が出来ています。一部出血も見られています。一番確実な方法は手術で胃をとることですが、今は肝臓、腎臓の働きが悪く、
合併症を起こす可能性はかなり高いと思われます。比較的早期の癌のようなので、今すぐ狭窄症状がおきたりすることはありませんが・・・
悪性ですので確実に進行します。内視鏡的に薬剤を注入する方法などもありますが、効果は不十分でしょう」
ご本人も、奥様も私の予想に反し、冷静に話を聞いた後、しばらくたって・・・
「もう子供も大きくなっています。死んでもいいですから手術はかんべんしてください」と返事が返ってきた。
その後、患者さんは外来通院をつづけ、時々調子を崩しては点滴を受けていたが・・・
ある日、定期検査で肝臓に腫瘍が見つかり、胸部X線検査でも肺に転移が確認された。
「自分の状態はどうなっているんでしょうか、全部説明してください」
ご本人が希望されたため奥様を呼んで、お話した。
「胃の癌はそれほど進んではいないようです。出血も狭窄もありません。ただ肝臓と肺に別のしこりが出来ているのが見つかりました。
おそらく胃、あるいは以前手術した大腸から癌細胞が体をまわり、転移したものと思われます。全体として、病状はかなり進行しています」
しばらくして患者さんが言った
「よくわかりました。自分の親も癌でしたが、最後まで知らされずに死んでいきました。自分はそんな死に方は嫌だ、
本当のことを知って死んで生きたいと思っていました。もう思い残すことはありません。子供も独立しています。あとは、こばあさんとのんびり暮らします。
ただ、あまり苦しむのは困ります。あとどれくらいの命ですか?」
ご本人から直接寿命を聞かれることはあまりなかった。
「癌の進行は人によってまちまちです。1ヶ月、2ヶ月ということはまず無いと思いますが、ただ1年、2年と長い目で見ることは出来ないと思います。
これからは好きなことをしていただきたいと思いますし、痛みなどの症状に対しては全力で治療していきます」
ほんの少しの間、患者さんは黙ってうつむいていたが、すぐに顔を上げた。目が少し潤んでいた。
今までこの患者さんに対して持っていたイメージを180度覆すような反応だったのには正直驚いた。
酒好きで、いつもとぼけたことを言う人が。本当は芯の強い人だとわかった時・・・
告知を比較的冷静に受け止めてくれる人は、自分が思っているより多いのかもしれないと、初めて感じた。
自分も目が潤むのをこらえるのに苦労した。
ただ、まだ不安は残っている。
少なくとも、このMさんは、癌告知の問題にモヤモヤしていた頭の中に、少し光を与えてくれた。(16年5月15日)
ずっと昔に書いたこと⑨
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
何とか歩けていたその患者さんは、次第に足のむくみがひどくなり、体の向きも変えられないようになった。
「先生・・いつごろ治るんでしょう」
以前は何回も聞いてきたのに、この問いかけもまったく聞かれなくなってしまった。
「潰瘍」などの説明は、もはや何の役にも立たない。
ついに血圧が低下、呼吸苦、意識が遠くなる・・・
朦朧とした意識の中で「先生、どうなっちゃってるの?ねえ・・どう・・・なってるんですか?」
「大丈夫、苦しさはとってあげるから・・」と言うのがせいいっぱいだった。
そのうち、問いかけも消え、目を閉じ、肩で大きく呼吸をするようになる。
どんな思いで、治療されても衰えていく自分をみつめ、私のうその説明を聞いていたのだろう・・・
この病院では、ホスピスのように末期の患者さんに対して、手厚い看護、介護の手が行き届くことは無理なんだろうか。
いつの間にか病棟には高齢の患者さんが多くなってしまっている。
おむつの交換に明け暮れる看護婦、看護補助。
こんな状況の中で、末期の患者さんと精神的に深くかかわる余裕が生まれるとは思えない。
自分も朝から晩まで手術に明け暮れる大病院にいたら、亡くなっていく患者さんとの間で悩むこともなくなるのかもしれない。
山崎先生(「病院で死ぬということ」の著者)は、いつ手術とのかかわりを捨てる気になったんだろう・・・
一時期、末期がんの患者さんが多くいた病棟も、一人、また一人と帰らない人になって退院していった。
個室に残されたのは、ほかの病院で食道癌の手術を受けたMさんだった。
告知は前の病院でもされておらず、再発で食べられなくなって、平和病院に入院してきた。
Mさんは、毎日一生懸命サイドテーブルで書き物をしていた。
そばには旅の雑誌が山積みになってる。
入院したときからほとんど歩けない状態だった。気管切開をされており、ほとんど声を出すことも出来なかったため・・・
こちらの問いかけに首を振って答えることがほとんどだった。
自分の病気のことをは、何一つ尋ねてくることが無かった。
狭窄症状はどんどん進み、何回も吐くようになってきた。むくみも日に日に強くなってきたが・・・
それでも病室を訪れると必死で何かを書いていた。
私に気づくと、さりげなく書いていた紙を片付ける。
何か見てはいけないものを見てしまったような気がして・・・
「何を書いているんですか」とは聞けなかった。
やりたくても出来ないことを書いていたのか・・・
すべてを悟ってこれから先のことを書き残していたのか・・・
そんなMさんも、うとうと眠ることが多くなり、ベッドを起こさないと呼吸困難が強くなったが、
比較的静かに息をひきとった。
結局、最後までご自分の病気をどう思っているのか聞くことが出来なかった。
いま、病棟は落ち着いている。
癌の末期の患者さんは多発性の脳梗塞を起こし、寝たきりの患者さんだけだ。
話しかけてもほとんど答えは返ってこない。
腹部の超音波検査で肝臓に腫瘍が発見された。卵巣がんの転移だった。
数年前には床ずれの手術を受けていた。今は床ずれも無く、静かに寝ているだけの毎日だ。
「痛くないですか」の問いかけにももごもごと口を動かすだけ。
食事は食べられていたがだんだん力が無くなり、長い時間をかけ、プリンを食べるのがやっとになった。
ここ数年間、病院に入院し、生活はほとんど変わっていない。
ただ、前には無かった癌が体に住みついている。
もちろん、癌にかかっているなどとはわからいだろう。
この患者さんには「告知」に関する悩みが無い。ただ、自分は何をしているんだろう・・・との思いがある。
治る見込みの無い患者さんが、自分の病気もわからず、衰えていくのを待っているだけだ。
家族にはまったく引き取る意思がない。「このまま病院で面倒見てください。帰ってこられても困ります・・」
末期癌患者を自宅へ受け入れる家族はほとんど無い。これは家族が悪いのではなく、サポートする側の問題なのかもしれない。(16年4月16日)
ずっと昔に書いたこと⑧
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
同じ時期に同じような状態で癌の末期となった三人の患者さんのうち、
二人が亡くなった。
二人目の患者さんが急変したとき、もう一人の患者さんが同室だった。
あわただしく個室に移される者、部屋に残される者・・・
残された者の頭をよぎるのは・・・
最後に残された患者さんは、胃癌が発見されたときにはすでに肝臓に転移が多発していた。
妻は頑として告知に反対、手術にも反対した。
入院してすぐ、嘔吐するようになった。
胃潰瘍と信じている患者さんは、保存的に軽快するのを期待してじっと耐えている。
内視鏡の検査をする前の期待と、検査後の落胆、出血からくる貧血・・・
貧血が進むと息切れが強くなる。
輸血によって症状は一時的に改善するが・・・
狭窄症状は確実に増強し、水分の摂取がやっとになる。
24時間持続の高カロリー輸液による管理が始まる。
いっこうに治らない症状に、患者さんが不安そうに尋ねる。「先生、どうして治らないんでしょう・・」
「こんなに治らないなら、やっぱり手術を受けないとダメなんでしょうか?」
早めに腫瘍だけでも摘出したり、バイパス手術だけでもしておけば・・と、後悔の念が頭をよぎる。
「やはり本当のことをお話したほうが・・・」、切り出しても、妻は頑なに真実を告げることを拒む。
自分が自信を持って説得すれば、妻も告知を受け入れるかもしれないが・・・
ただ、患者さんは、今ではもう歩くのがやっとの状態になってしまっている。
「毎日看病に通って、今まではお父さんとゆっくり話をすることも無かったのに、こうして話す時間も増えて・・
やっと夫婦の時間が持てたような気がします」
妻は言うが、告知を避けて、本当に腹を割った話が出来るのだろうか?
真実を告げたほうが、もっと本音の会話が出来るんじゃないだろうか?
回診のとき、患者さんが訴える。
「先生、もう・・だるくてどうしようもありません」
痛みに対してモルヒネの投与も始まる。
たまってくる腹水、少し前にあわただしく自分の前から消えた、同じ症状の患者さんのことを思うようだ。
「もうMさんのところにいきたい・・・」
出来るだけ時間を作り、病室を訪れた。
治療への不安、不満をぶつける患者さん。何も言わず、じっと話を聞いていると、助け舟を出すように妻が会話を止める。
「だからお父さん、ね、いまはつらいけど、先生も一生懸命治してくれてるんだから、もう少しでよくなるから・・・だから、いまは頑張ろう」
黙り込む患者さん・・・
長い沈黙が病室を包む。
「奥さん、そうじゃないんだ。患者さんは今でもどうしようもないほど頑張っているんだ・・」でそうになる言葉を飲み込んで、
「また来ますね」、病室を出た後の、どうにもならない気持ちはなんだ・・・
告知していれば、こんな気持ちを味わう事はなくなるんだろうか・・・
答えが出せない。(16年2月29日)
ずっと昔に書いたこと⑦
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
この数週間前から出ていた背部痛は、モルヒネの投与で落ち着いていた。
週末、連休、夜、いつものように自分の目の届かない時、患者さんの病状が悪化することが多い。
同じ治療をしていても、主治医が自分のそばから遠のくのを嫌うように・・・
その患者さんも週末の夜、突然の呼吸苦を訴えた。
当直医の治療にも反応せず、チアノーゼが全身に広がる。
あわただしく投与される酸素・・・
土曜の午後、帰るときには普通に会話をして病室を出たのに・・・
日曜の明け方、自宅でなる電話。
「お亡くなりになりました・・・」
自分が担当していた患者さんが最後に息をひきとる時、出来るだけそばにいるようにしている。
手術、外来、病状の説明・・・
短い時間ではあるが病気を見届けてきた終わりに、たとえ何も出来なくても、
同じ時間、空間を共有することに、出来るだけこだわるようにしている。
「夜は当直の先生にお願いします。ご家族も特に延命は希望されていません。診断書の病名は・・・でお願いします。
病状の説明も済んでいますから・・・」
と、ドライに考える医師も多い。
看護婦さんも「当直の先生がいるのに、なんでわざわざ高橋先生を呼ばなくちゃいけないの?」
と不思議がることも多い。
その患者さんの時も、もしも急変したときには呼ぶように言っていたのだが・・・
もちろん「最後だけ」いるのではダメなことはよくわかっている。
出来るだけ多くの時間を共有し、その延長上で最後のときを見守るようにと思っている。
ただ、これをいつも妨げるのが「告知していない」事実だ。
病室に行っても、本当のことがひとつも話せない事実・・・
息を引き取ったあと、体をきれいにし、患者さんが病院の裏口から退院するとき、
車に向かって頭をたれ、「嘘をついてごめんなさい・・」の言葉を、何回言ったことか。
その患者さんが亡くなった何日かあと、奥様と外来で顔を合わせた。
「気が抜けたんでしょうか・・・すっかり風邪を引いてしまって」
「最後のとき、そばにいてあげられなくて、本当に申し訳ありませんでした」
「あの時、先生はまだか、先生はまだかって・・・言ってたんですよ」
頭を殴られたようだった。
末期癌の患者さんとの中途半端なかかわりは、ドライでいるよりかえっていけないんだろうか・・・
この悩みは、同じようなことが繰り返されるたびに、頭の中を駆け巡る。(16年1月21日)
ずっと昔に書いたこと⑥
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
消化管の閉塞症状での再発はつらい。
食事がとれない、全身状態はそれほど悪くない時期でも好きなものが食べられない。
痛みのコントロールは最近比較的容易になってきたが、閉塞症状にはいつも悩まされる。
奥さんの強い希望で、患者さんには術前の告知がされていなかった。
どんどん悪化する症状・・・
患者さんに対して、少なくても表面上、つじつまの合う「言い訳」を探す日が続いた。
「膵臓が少し腫れています。前回手術でつないだ腸管を圧迫しているようです。
今のところ保存的に腫れを軽減させる以外に方法はありません」
時々言い訳のように行われる超音波検査
「先生、腫れの様子はどうですか?」
患者さんは首を曲げ、不安げに超音波の画面を覗き込む・・・
「あまり・・・改善されていないようですね」
画面には明らかに前回の検査のときより大きくなった腫瘍が映し出されている。
腹水も少し出てきているようだ。
つい最近、ほかの患者さんに説明した内容と同じ話になっているのに気づく・・・
もう談話室に顔も見せなくなった者の「死」を気づいているのか、あるいはわざと目をそむけているのか・・・
その患者さんに関しては何も聞いてこない。
自分の症状が、以前、一緒に話していた患者さんの状態に徐々に、そして確実に重なっていくのを
どう感じているのだろう・・・
しばらくたって、呼吸苦が現れてきた。
以前から塵肺があり、もともと呼吸機能は低下していた。
胸のⅩ線検査で、肺炎を認めた。
はっきりと治療の対象になる疾患が目の前に現れて、
癌は忘れ去られたように「肺炎」の治療が開始される。
全身状態が落ちていることもあり、治療に対する反応は鈍い・・・(16年1月6日)
ずっと昔に書いたこと⑤
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
「死」がいよいよ近づくと、急に顔が痩せる。
もともと状態の悪い人たちなので、ふっくらとした顔の人はまずいない。
でも、最後の日が、両手の指で足りるほど近づいてくると・・・
毎日見ていてもわかるくらいにやせてくる。
腹水のたまったお腹に針を刺す。
黄茶色の液体が勢いよく流れ出てくる。
お腹の張りと、呼吸苦を取るだけの処置・・・
どれくらい抜くかは基準がない。
抜けば抜くほど、一時的にお腹の張りや呼吸苦はおさまるが・・・
全身の状態はおちる。
腹から出てくる水の中にまじって、命のエネルギーが抜けていく・・・
もう一人の胃癌の患者さんは平和病院で手術がおこなわれた。
発見されたときにはすでに、かなり進行した状態で、
一刻も早い手術を勧めた。
暮れも押しせまった時期だった。
平和病院は小高い丘の上にあり、壮大な総持寺の緑の屋根が、谷を挟んで見える。
「私はずっと以前から初詣のための照明を取り仕切っている。
私がいないと皆が迷惑するんです。手術なんてやっていられません!」
総持寺の参道、境内の照明を長年手がけた電気屋さんだった。
仕事を済ませてからでは、もはや手術も出来なくなる事が予想された。
何とか説得して、手術は12月8日に行われた。
腫瘍は肝臓,すい臓に浸潤、大きな手術になった。
結局、その患者さんがいなくても、大晦日、総持寺の境内、参道の明かりはともされた。
手術後はしばらく順調に経過し、私の外来に通院していたが・・・
1年半後の再発はリンパ腺への転移による狭窄症状で出現した。(15年12月14日)
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
ある日、胃がんの患者さんが内科から紹介されてきた。
かなり進行した状態。
すでに肝臓にまで多発性に転移巣が確認されていた。
内科の主治医から、家族には「手術は無理かもしれない・・・」との説明がされていた。
このままでは、すぐにも狭窄症状が出てくることが明らかだった。
告知はされていない。
バイパス手術か原発巣の摘出だけでも・・・
奥さんにお話したが、もう告知もせずこのままで・・・との返事だった。
「胃にひどい潰瘍があり、出血もしています。また、潰瘍のせいで胃の出口が狭くなっていて食べ物が通りにくくなっています」
患者さんに説明し、輸血、抗がん剤の投与がはじまった。
はじめはある程度食事も食べられていたが・・・
次第に、嘔吐するようになった。
ちょうどこの時期、告知を受けていない胃癌の患者さんが、他にもふたり入院していた。
3人は毎日談話室で顔を合わせる。
自分たちの治療経過、症状をお互いに話し合っていた。
ある日、一番進行していた患者さんに腹水、黄疸が出現した。
腹水による呼吸苦、穿刺してもすぐにたまる。
タバコを吸いにきていた談話室にも、だるくて行けなくなってきた。
皮膚の色は日増しに変化し、黄茶色になり、眼球にも明らかな黄染がひろがる。
「おなかが張って・・・だるいんです」
自分の病状がどうなっているのかは、ほとんど尋ねてこなかった。
返ってくる事実を予想するのが怖いのか・・・
自分の状況をどう思っていたのだろう・・・
今まで告知されていないことが、ここにきて重くのしかかる。
状態が一気に悪化する直前での、初めての告知は何の救いもないのでは・・・
もはや歩くこともできない。食事もできない。
ただ、どんな状態になっても自宅に帰ることは意味があることなのかもしれない。
「家族の受けいれ」ということがよく言われるが、
状態の悪化した患者さんを冷静に家庭に受け入れる家族は少ない。
これも告知がなされていないせいなのか・・・
告知がされればすべてがうまく回りだすのだろうか・・・?
答えが出せない。
今日も、お互い「死」から目をそむけた回診がくりかえされていく。(15年11月15日)
ずっと昔に書いたこと③
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
夜は「死」を意識する者に重くのしかかる。
「先生、恐い夢を見ました。とても恐い夢・・・口に出したら本当になりそうで・・・言えません。
元気な人なら絶対に見そうも無い夢・・・」苦しそうな呼吸をしながら患者さんが言った。
食道まで浸潤した胃癌の手術を他の病院で受けた患者さん。膵臓の一部、脾臓も摘出していた。
手術後半年あまり経ってから出現した狭窄症状。手術を受けた病院に再入院した。
24時間入れたままの点滴、食事がたべられない。
病名、病状を告知されていないその患者さんは、無断で抜け出し、母親のもとに帰ってきた。
そのまま自己退院。
自宅に帰っても食事が取れず、体力を消耗し、ある日私の外来を受診した。
こけた顔、薄く、乱れた髪・・・
もうとても治せるような状態ではない患者さんが入院となった。
24時間入れたままの高カロリー輸液が始まる。
流動食や水分は何とか通過していたが・・・
しばらくして嘔吐を繰り返すようになった。
母親は頑として告知には反対。
いっこうに良くならない病状に、患者さんはいろいろ医学関係の本を読み、
その知識をもとに、治療に対しての希望を言ってくる。
「前の手術をしたつなぎめから、少し肛門側に細くなった部分があります。
体力的にも手術は困難と思われます。薬で炎症と腫れが治るのを待つか、
一時的に、狭くなった部分にステントを挿入すれば、今より少し食べられるようになる可能性はあります」
結局急速に患者さんの体力は低下し、ステントも入れられなくなった。
しだいにおとずれる呼吸苦・・・
告知は全くされていなかったので・・・
本当のことは話せなかったし、心を開いた会話も出来なかった。
彼はどんな夢を見たんだろう・・・
父も、そんな夢を見たんだろうか・・・
自分もいつかそんな夢を見るときが来るんだろうか・・・(15年10月12日)
ずっと昔に書いたこと②
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
父は私が高校3年の時に死んだ。
武蔵野日赤病院の外科部長、自分と同じ立場だ。
胃の肉腫だったようだ。
自分の専門分野なのに、病名はわからなかったのだろうか・・・
胃のX線写真の名前を取り替えて、他の人のものを見せたり・・・
周囲の先生たちは苦労したようだ。
私は発症の時はまだ小学生だったこともあり、母からは、何も知らされなかった。
胃潰瘍の説明を受け、同愛記念病院の佐分利先生の執刀で手術が行われた。
よく思い出せないが、術後の経過はしばらくは順調だったようだ。
再発したのはいつ頃だったのだろう・・・
最後の頃は、まだ医学的な知識のない自分が見ても、父の調子は悪そうだった。
食事の時、家族全員でテーブルを囲んだ記憶が、あまりない。
父はひとりで、少し離れたテーブルで食事をしていた。
多分、一緒のおかずは食べられず、粥などの食事を母が工夫していたのだと思う。
食事が終わると、具合が悪そうに、横になる。
よくトイレで吐く声が聞こえた。
母も医師だったせいもあり、自宅で点滴もやっていたのを覚えている。
あのときの父は、何を考えたいたのだろう・・・
妹はまだ小学校の低学年だった。
今の自分の娘と同じ年頃・・・
「命」に対する執着はかなり強かったに違いない。
ただの「胃潰瘍」では無いことくらい、外科医として当然理解できたはずだ。
私が高校生で、受験勉強をしていた頃、かなり具合が悪いはずなのに、父は遅くまで勉強していた。
解剖書を開き、それをトレーシングペーパーに写し、色鉛筆で色付けしていた。
死んだあと、見たノートには手術の注意点、コツ、解剖などが細かくかきとめてあった。
今でも大切にとってある。
父の手術を見たかったと、今、強く思う。
自分が病気になったあと、再発を自覚したあと、どんなことを考えながら手術をしたのだろう・・・
再発後、腸閉塞となって再手術になったことは、かなり後になって母から聞いた。
再手術のあと、自分でも腹部に大きな腫瘤を触るようになってから、
あまり口をきかなくなったそうだ。
ぎりぎりまで自宅にいたせいもあるのか、病院に見舞いにいった記憶があまり無い。
最後の時に、呼ばれて病院についたときには、もう、父の意識は無かった。
ただ、最後の入院をする日、「もう帰ってこられないかな・・・」といったことは今でもはっきり覚えている。
最後の日、白衣を着た大勢の人たちが父のベッドの周りにいた。
心臓マッサージをしているのがドア越しに見えた。
どのくらい長くやっていたのだろう・・・父が、なが~く息を吸って、動かなくなった。
手も握っていなかったと思う。「側に行きなさい」・・・誰かが言った。
母は最期まで父とゆっくり話すことが出来たのだろうか・・・
病名を知らさなかったことを後悔しなかったのだろうか・・・
父は病名を知らされずに自分の状態が悪くなっていくのをどう思っていたのだろう・・・・(15年9月23日)
ずっと昔に書いたこと①
(この文章は10年上前に書いた文で、私が、今と少し違った状況にいる時の文章であることをご理解ください)
癌告知、ターミナルケアなど、最近ずい分と話題にもなり多くの本、論文などが目に付き、
学会のシンポジウムなどでもこの話題が取り上げられている。
ただ、今のところ、ごく早期の胃癌、内視鏡的に切除されて完全に取りきれた大腸癌、乳癌、
リンパ腺の転移が無く、浸潤が軽度のもの以外には、患者さんに面と向かって「癌」と宣告したことが無い。
当院の元院長の胃に病気が見つかった時には、ご自分でカルテを見ていたので、
隠しようも無く、術後に抗がん剤を投与しており、もちろん何の薬かご存知だが、何事も無かったように
外来を受診されている。
術後、告知がされていないまま、外来で経過を見ている患者さんと話していると、何年かしてから
「私の癌は・・・」とという言葉が出てきて、一瞬驚くことがある。
この場合には、流れに任せて否定もしない。
もう長い間、自分の中では告知についての試行錯誤が続いている。
最近、癌の末期状態で、当院に入院される患者さんが多いような気がする。
自分が担当した患者さんに対しては、どんな夜中でも出来るだけ、最後の時には側にいられるようにしている。
最近は患者さんが、癌の末期で最後の時を迎える場合、特に延命、救命処置をしないことが多くなった。
自分が医者になったばかりの頃、千葉大学の付属病院では、癌で最後の時を迎える患者さんに対しても、
かなり長い時間、心臓マッサージ、気管内挿管、強心剤の心臓内注入、電気ショックなどの延命処置が行われていた。
ただ、そんな時でもこれで良くなるとは誰も思っていなかったと思う。
「こんなに一生懸命治療していますよ!」とのデモンストレーションのような行為が続く。
心臓マッサージをしている者の目が時計を追う。
額からは汗がこぼれる。
あとどれくらい続けようか・・・5分、10分・・・あまり根拠の無い限界の時間が医者の頭をよぎる。
新人の医者は上級医の宣言があるまでは延々とマッサージを続ける。
「もっと腕を伸ばして!。1.2.3.4.5」上級医の声が飛ぶ。
患者さんの瞳孔は開き、対光反射も、とっくになくなっている。
マッサージをしている者にとって、かなり長い時間が過ぎたあと、上級医が首を横にふる。
「ご家族をお呼びしてくれ」
この宣言が行われるまで、家族は廊下に出され、病室には入れてもらえず、待たされていることが多かったように思う。
いつ頃から今のような「看取り」のやり方になったのだろう・・・(15年8月28日)
揺らぐ告知
最近、癌に対する告知はあたりまえのようになってきている。
私が平和病院に着任したての頃に比べても、隔世の感がある。
しかし、私の中では、進行癌や再発などで悪くなって、患者さんの具合が悪くなってから、
最後の時を迎えるまでのかかわりには、まだまだ悩むことが多すぎる。
先日も、ある乳癌の患者さんが亡くなった。
乳癌の患者さんの場合は、ほとんどが手術の時点で告知を受けており、
再発の場合も、そのまま、ありのままを伝えることが多い。
その患者さんにも、全てをお話していた。
肺転移、胸水の貯留、呼吸苦・・・
なんとか症状を抑えても、全身の状態は次第に低下していく。
出来るだけ病室をたずね、お話をするように心がけていた。
こんな時に思うのは、本当の最後を迎える時、宗教的な支えが無い人はどうすればいいのだろう・・・
ということだ。
よく、ホスピスで最後の時を迎える時、直前に洗礼を受け、安らかな気持ちで神のもとに召されていく・・・
と言う話を聞く。
そういう方も確かにいるだろうし、否定するつもりもないが・・・
私自身は牧師でも僧侶でも神官でもなく・・・
正月には鶴岡八幡宮でお払いを受けるし、親父の命日には墓参りをし、、般若心経を唱える。
12月25日には「メリークリスマス」とさけぶ。
ただ・・・あるのは、患者さんの、癌への思いを何とかしたい、という気持ちだけだ。
ある日、その患者さんの病室を訪れた時・・・
「先生・・・覚悟はしてたけど、こんなに早くお迎えが来るとは思わなかった・・・」と、いったきり
何も言わず、涙を流した。涙はとまらなかった。
その瞬間、頭の中から、言葉がなくなった。
何か言わなければ・・・と思っても言葉が出ない・・・
何が足りないのか・・・「何も言葉を返す必要は無く、ただ黙って受け入れればいい」・・・とかいてある本もあるが・・・
本当にそうなのだろうか・・・
ホスピスの先生たちはそんな瞬間をどう過ごすのだろう・・・
そんなことがあってから、また「看取り」についての悩みが深くなってしまっている。
そんなとき、たまたま私が平和病院に来てすぐの時期、
癌の末期の患者さんが多く入院していた時期に書いた文章を見つけた。
10年以上経って自分で読み返してみても、そのときと同じ事を、答えが出せないまま今も考えている。
進歩が無いのか、永遠の課題なのか・・・
そのときの文章を何回かに分け、これから書いてみようと思う。
これが、以前このホームページに書き始めた「自宅で死ぬ」ということにもつながるようにも思う・・・
(15年8月22日)