このサイトを開いたのが2001年ですから・・・もうずいぶん長いこと書き続けていたわけで、始めた当時は平和病院の理事長・院長でしたので、病院の出来事、患者さんからの投書(苦情も含め)へのお返事、外科医として仕事をしていた時の外科の話・・など書いていました。
たまに読み返すと、ああ、こんなことがあったんだな…とかこんなことを考えていたんだな・・・と懐かしく感じることがあり、印象に残った記載を少し再度登場させようかと思います!
初めての方も、以前から見てくださる方ものぞいてみてください
ロゴマーク決定!(2001年10月記載) | 平和会の基本理念と職員の行動基準(2001年12月記載) |
優れた人は優しい人 | まだまだ優しくない(2002年6月記載) |
始めの一歩 | だいぶ話が違うんじゃない |
ともかくスタート | ふけた新人(2002年12月記載) |
まだまだ優しくない! | 創立60周年の日(2006年5月記載) |
平和病院は終戦直後の1946年に出来た病院で、これは創立60年目に書いたものですね
もう何年かすれば創立80年になります。ことしで勤続33年になってしまいました。
昔のことを知っている職員もずいぶん少なくなりました。今は経営母体も変わってしまいましたが、何らかの形で歴史を記録をするのは必要なのかなとは思います。
「巻き爪」の治療は、外科で手術が少なくなっていた時に、一時保険外診療でおこなっていました
(今は皮膚科で対応しています)
新幹線に乗って遠方から治療を受けに来ていた患者さんもいて・・・懐かしいですね(2024年8月18日)
創立60周年の日
4月25日は平和病院の創立記念日で、60周年の節目の年だった。
前日の24日には恒例の永年勤続表彰が行われた。
5年ごとに表彰の対象になり、今年は栄養課職員が25年勤続となり、
私と外科の下田も15年の勤続表彰対象者になった。
各部署の管理者と、対象者が集まり該当者に賞状と記念品を授与する。
「あなたは、勤続○○年、よく職務に精励され・・・」と全員の賞状を読み上げる。
さすがに自分の時には自分で読んで自分でもらうのも変なので、
そのまま賞状と記念品を脇に置いたが、参加者から拍手をいただいた!
その後は恒例の「理事長挨拶」がある。
もう理事長、院長になってこの6月で満6年になる。
いつの間にか在任期間は初代安孫子院長についで2番目になってしまったが・・・
立場上、何かにつけて挨拶をさせられる。
年頭挨拶、新人歓迎、創立記念日、社員総会、忘年会・・・・
毎年同じような行事があるので、いい加減慣れても良いと思うのだが・・・・
あいかわらず、どうも挨拶での話は苦手だ!
文章を書くのはあまり気にならないのだが・・・
挨拶をさせられて、話そうと思っていたことを、すべて要領よく伝えられたためしがない!
それはともかくとして・・・
今までは10年ごとの節目の年には、必ず記念誌を発行していた。
「30年の歩み」、「40年のあゆみ」、「50年のあゆみ」と題して、
理事長の挨拶、理事さんたちや職員のの思い出話などとともに、
その当時の写真や各年の出来事が年表形式で書かれている。
「60年のあゆみ」も作成しようとは思っていたのだが、
残念ながら、今のところ企画を実現させることが出来ず、責任を感じている。
それでも、この10年はずいぶん病院が変わった時期でもあり、せめて年表でも・・・と思い、自分なりにまとめてはじめたところだ
少し遅れてもいいので、何らかの形のものは残したいとは思っている。
そんなわけで、それぞれの冊子を読み返し、平和病院の歴史をたどってみたが・・・
初代院長の安孫子先生が、私の着任する1年前になくなったことなど、
今まであまり意識していなかったことをいくつも知ることが出来た。
昔の出来事を読み返してみると、昭和50年代の平和病院は最先端の医療をいち早く取り入れ、
胃X線検査の草分けとも言うべき白壁先生(後に順天堂大学の教授になられた)が来院されて
撮影、読影の指導に当たられたり、
東大の先生方が8名も来院し、人工腎臓による急性腎不全治療を行ったり・・・
神奈川県で初めて人工透析を開始したり・・・
東大、昭和大、東京女子医大、横浜市大等の教授が6人も同時に平和病院に来院し、
病院幹部と懇親会をするなど・・・
今ではとても考えられないようなことが行われていた。
これも初代院長の実力、人格のなせる業だと思われ・・・
一方・・・今の自分はどうなのかと思えば・・・
病院の運営もままならず、安孫子先生の業績の足元にも及ばず、
大いに反省させられる1日になってしまった。
先日、このコーナーで、古い病院のパンフレットのことを書いたが・・・
昔の平和病院は、今よりもっと「最先端医療を行う第一線の」病院だったようだ
病院の所在を示す地図が、鶴見駅からではなく、ずっと遠い所から描かれているように、
対象患者さんも、今より広い範囲から来院されていたのかもしれない。
休診となった創立記念日の午後、そんな思いを抱きながらも
久しぶりに早く帰るかな・・・と思ってはいたが、
ターミナルの在宅患者さんのことが気になり、外来が終わった後往診に出かけ、
帰ってきたら、休診をご存じなかった患者さんにばったりあったので、
そのまま診療をし、それが終わったと思ったとたん、
ご近所の方が、ご家族のお見舞いにいらした帰りに、リハビリ室の前で転倒しているのが発見され、
急いで外来に運びこみ、処置を行ったあと入院となり・・・病室で指示を出し、
やれやれと思ったら、「まき爪」の患者さんが2ヶ月ぶりに来院された。
インターネットで当院の「まき爪」治療を知って通院される患者さんは、かなり遠くから来院される方もあり、
わざわざ来てくださったのに「休診ですので」と帰すわけにもいかず、結局診察することになり・・・
終わってみたら、もう4時半をとっくに回ってしまっていた!
まあ、これも自分なりの「創立記念日」なのだろう。
この4月の診療報酬、介護報酬の改定で、病院は甚大な打撃をこうむることが決定的になった。
この節目の年、自分は長い歴史を途切れさせることなく、病院を荒波から守りきれるのだろうか・・・
こんな時こそ基本を見直し、その土台を強固にしていくことが大切なのだが・・・
もっと時間がほしい、もっと頭がほしい、もっと手足がほしい!
緩和ケアを初めてそれほど長くないときのエピソードですね・・
何年たってもおなじようなことを考えます・・・
このころは全ての患者さんのお看取りの時には夜だろうが、休みのときだろうが、必ず病院に駆けつけ、お別れの後も、葬儀屋さんが来て
病院から退院していく時まで残ってお見送りまでしていました。
若い時だからできたのでしょうが・・・さすがに体を壊してからは出来なくなっています・・
癌の末期、病状が日に日に悪化してく患者様が入院しています。
奥様に、もう回復することが困難なこと、残された時間は少なくなったこと、
今となっては、出来るだけ痛みや苦しみをとってあげるように努力するしかないこと、
痛みが強くなればモルヒネも投与すること等を何回もお話してはいましたが・・・
急速に病状は悪化していきます。
胸水、腹水が貯留し、呼吸困難があらわれ、酸素も必要になってきます。
話は聞いていても、現実に衰えていくご主人を見て、奥様は状況を受け入れることが出来なくなり
治療に対して不満をぶつけるようになります。
癌だということはわかっている。ただ、急に具合が悪くなっていくのは理解できない。
お腹もパンパンに張ってくるし、足もむくみ、眠っている時間が長くなっている。
どうしてくれる!食事も出来なくなった!元の身体に返して欲しい!
担当医、看護師などのスタッフも対応に困っていると聞き、
もう一度、直接お話しなければと思い、病院に来ていただくよう電話をしたのですが・・
いつもそちらの都合のいいときに呼び出して、勝手じゃないか!
いつも娘にばかりに話をしている。私は何も話を聞いていない!
先生は何時も言い訳ばかり言って、あの人をあんな身体にしたことを何とも思っていない!
なんて冷たい人なんだ!こんな医者は見たことがない!
あの人がいないと暮らしていけない、もうどうしていいかわからない!
みんな先生のせいだ!あんなに元気だったのに、病院のせいであんな身体にされてしまった!
と、1時間以上も電話でくり返し非難され、大声で「ばかやろう」と何回も言われてしまいました。
電話では状況が改善せず、話にならないので、直接顔を合わせてお話しましょう・・と、お願いしましたが・・
それでも電話口から時々私を非難する絶叫が聞こえます。
奥様は、ご主人の病状をを受け入れられず、混乱しているのだと何回も自分に言い聞かせてはいたつもりだったのに
あまりの罵声に、つい気がたかぶり、「いいかげんにしてください」と、思わず口から出てしまいました。
その日、改めて息子さん、娘さんと一緒に、奥さんが病院にお見えになり、1時間以上お話しましたが、
そのときにはずいぶん冷静になっておられ、
さっきは怒鳴ってしまってすみませんでした。気持ちではわかっていても、まだ受け入れられなくて・・・
でも先生に大声を出したら少し落ち着きました。
他の先生には怒鳴っても、そのうちかわいそうになってしまい、
先生にはついつい言いやすいのでしょうか・・とおっしゃってくださいました。
確かに以前からも感情をぶつけてくる方ではあり、
私も、最愛の夫の病状を見かねてのことと、理解はしていたつもりだったのですが・・・
何を言われようと、全てを受け止めて、相手の気持ちを思いやり、サポートしていくことが出来ない自分に
まだまだ優しさが足りない・・・と大いに反省し
その日はずいぶんへこみました。 (2002年6月30日)
まだまだ優しくない:後日談
日曜日になったばかりの午前1時、枕もとの携帯電話が鳴りました。
その日は12時過ぎに寝たので、なかなか起きられず、出ようとした時には、切れてしまいました。
最近は夜中に、いわゆる「ワン切り」がかかってくることも多いのですが、
着信履歴は病棟からでした。
折り返し電話してみると、食道癌の末期の患者様(まだまだ優しくない、で書いた患者様です)の血圧が下がってきているとの事です。
「他の先生は?」という妻の眠そうな声を聞きながら、病院に急ぎました。
最近は若い出張医が、病棟の管理をしっかりやってくれており、私が着任したての頃に比べると、
夜中に連絡がくることもずいぶん少なくなりました。
以前から、平和病院で手術をし、治療を受けてくださっていた患者様が最後の時をむかえるときには、
なるべく、立ち会うようにしてきました。
「当直医がいるのに、なぜ先生を呼ぶのですか?」
と尋ねる看護師さんがいます。
確かに当直医師がいるので、私が行かなくても問題は起こりません。
なぜなのか、と言われても、感覚的な問題が、かなりの部分を占めており、
自分でも、「そうしなければならない理由」を細かく説明は出来ません。
医者と患者様の関係は「めぐりあわせ」だと思っていますし、「一期一会」の関係を大切にしたい、と考えています。
大病院嗜好の強い中、平和病院を信頼し、治療を継続してくださった方々・・・
中には、周囲の人が、「大学病院に・・癌センターに・・・もっと大きな病院に・・・」というのにもかかわらず
治療をまかせて下さった方もいます。
そんな患者様が、癌との戦いにやぶれ、最後の時を迎える時、
力及ばず、申し訳ありません、との思いを込め、最後の時に立ち会っても、ばちはあたらないだろう!
と、言ってはいるのですが、あまり理解してもらえないこともあります。
自己満足、との指摘もありますが、それでも手術後、長く外来でお付き合いさせていただいた患者様の場合、
最後の瞬間に立会い、時間の許す限り、お見送りをするのは自然のことだと思っています。
ともかく、その日も車を飛ばし、病院につきました。
病室を訪ねると、すでにご家族の方々が患者様のベッドを取り囲むように集まっておられ、
もちろん、奥様は一番近くにいらっしゃり、ご主人の手を、一生懸命さすってあげていました。
私の顔を見ると、静かに微笑みかけてくださり・・・・
実は、病室に入る前は、奥様が、悲しみのあまり、取り乱していらっしゃるのでは・・・と思っていたので
正直、予想外のことに驚きました。
あらためて、いよいよ最後の時が迫っていることをお話し、静かに最後を見守ることを確認しました。
夜も明けかけ、少し明るくなった4時近く、院長室の電話が鳴りました。
患者様は呼吸も止まり、心臓が、最後の動きをしていました。
しばらくして、その心臓も動きを止め・・・
「残念ですが、ご臨終です」
そのときも、奥様は、一時の混乱がウソのように、静かにご主人の「死」を受け入れてくださいました。
もちろん、心の中では、いままでの、様々な思いが走馬灯のように駆け巡っていたのだと思います。
終末期医療を扱う者が、必ずと言っていいほど読む本に、E、キューブラー、ロスの「死ぬ瞬間」というのがあります。
この本では末期をむかえる患者様の心の動きに関し
「否認と孤立」、「怒り」、「取引」、「抑鬱」、「受容」と、段階をふんで死を受け入れていく、と述べており、、
「患者の家族」の章では、
家族も死を受け入れる時、いくつかの異なる適応段階を経験していく、と書いています。
私も、この本は読んでいましたし、内容は理解していたつもりだったのですが、今回の件の後、
あらためて、読み直してみました。
「家族の悲しみと怒りの解消」の部分に次のような文が書いてありました。
「私がここでくり返し強調したいのは、遺族が話をしたり、泣いたり、わめきたければ、わめいたり出来るようにしてあげるべきだ、ということである。
話をさせ、感情を表に吐き出させてあげ、いつでも話し相手になってあげなければいけない。
遺族は、患者の問題が解決した後も長い悲しみが待っている。・・・・
家族の怒りが直接私たちや神に向けられても、ひろい心で受け入れれば、
彼らは死の受容へと大きな一歩を踏み出せる」
今回の件で、自分はこの本に書いてあるような行動が取れていたかを考えると、
「まだまだ・・」との思いが強く、あらためて、奥様に対しての対応の不十分さ、
充分に理解してあげられなかったことへの後悔の念が残りました。
今回の、奥様の反応の変化は、確かに、本に書いてあるような、段階を経ての心の変化もあるとは思いますが、
もう一つには、息子さんの存在が大きかったと思っています。
結局は第3者の医師より、やはり家族の中で、信頼でき、理解し、時にはしかることのできる方の存在が、
大きく影響したと思われ、受容の気持ちが芽生えていったのではないかと思っています。
家族の葛藤の中で、支えあう絆の深さ、大切さも、あらためて教えられました。
いまは、感謝の思いでいっぱいです。
後日、奥様が、改めて私を訪ねてきてくださいました。
奥様は、他の病院の看護職の方で、
これからも終末期を含め、患者様に対していく、と話しておられました。
短い時間でしたが私も今回の件では、いろいろ教えられ、少し、成長できたような気がします。
ご主人のご冥福をお祈りし、奥様がお元気で暮らしていかれることをお祈りし、
ご家族のかたが、これからも暖かく奥様を見守っていっていただきたい、と願っています。 (2002年8月14日))
そもそも私が平和病院に常勤医師として着任したの2001年4月ですが、
その前の半年は週に1回、非常勤で、当時勤めていた浦賀病院から勤務開始になりました
初めて平和病院を見たのは1990年の夏の終わりころでした
今と違ってかなり古い病院、初めて見た時の衝撃はかなりのものでした!
まだ玄関でスリッパに履き替える時代ですからね・・・
そんなときの話です
以前「外科物語」として毎年千葉大学から派遣されて来る出張医のエピソードを書いていた時の一番初めの4話分です
始めの一歩
私が初めて「平和病院」という名前を聞いたのは、大学から住友重機械健康保険組合の浦賀病院に勤めて3年目のときでした。
当時の平和病院には外科医が二人いたのですが、そのうちの一人が定年になって退職することになりました。
外科は一人では手術も出来ません。
たまたま当時の平和病院の名誉院長が千葉大学の出身で、浦賀病院の院長の同級生であったこともあり、浦賀病院の院長をとおして第一外科の教授に医師の派遣依頼の話が届いたのです。
当時の教授は、たいへん面倒見のよい先生で、また、ずっと以前には平和病院に千葉大学の第一外科から医師が派遣されていた経緯があったため、話はとんとん拍子に進み、翌年の4月から常勤医師が派遣されることになりました。
初め、教授は私ではなく、他の病院に出張していたA先生を送り込むつもりだったようです。
ところが、私の所属していた研究室(当時は肝臓研究室と呼ばれていました)のボスは、
平和病院の内科には肝臓を専門とするドクターがいるので、今後肝臓の手術が増える、と考えたようで、
教授に私を推薦したようです。
(なんでも、A先生は寝ながらテレビを見るとき、テレビも横にして見るような変わり者だから、
やめといた方がいいのでは・・といって反対したとか)
そんなわけで、夏の終わりの頃、夜、突然自宅にボスから電話がかかってきたのです。
「平和病院にいってくれ」と・・・・・
そのとき浦賀病院の外科は、私の3年先輩のM先生と、若いローテーターと私の3人で頑張っていました。
M先生は翌年の4月に開業する予定になっていたのですが、そのことはまだ誰にも話していませんでした。
ローテーターはもともと1年で交代しますので、私が平和病院に移動すると、
外科のスタッフが一度に総入れ替えになってしまいます。
浦賀病院は、もともと院長が平和病院のため、大学に口利きをしたのに、結局自分のところが大変なことになってしまったのです。
浦賀は横浜に比べればずいぶん田舎でしたが、M先生はとても温厚でいい先生でしたし、
病院は人情味にあふれ、観音崎など、景色のよい場所もすぐ近くにあり、とても働きやすかったのですが、
「おまえぐらいの学年で、自分が外科の責任者になって、自由にやれるポストなどそうはないぞ。絶対に移るべきだ。」
というボスの勧めもあり、ひとまずは週に1日、非常勤という形で、勤務してみることになりました。
ただ、ボスも私も、いちども平和病院を見たことが無かったので、二人で挨拶がてら見学に行こう、という話になり・・・
ある日の午後、鶴見の駅で待ち合わせ、平和病院に出かけていきました。
当時の平和病院は、現在に比べるとかなり外観もボロボロで、、玄関には汚いスリッパ置き場があり外来待合室は暗い雰囲気で(今は、そんなことはありませんよ・・・)外科の入院患者さんは、たったの数人しかいませんでした。
病院に着くまでの道を歩きながらボスは私に、「常勤2人とローテーター1人を大学から派遣してサポートしよう」、とか「東芝の病院なんだから、かなり立派な施設なんだろうな」、とかを熱く語りながら来たのですが・・・・・
病院を一目見たとたん、急にふたりとも無口になってしまったのを今でも鮮明に覚えています。
な~んだよ・・・だいぶ話が違うんじゃない?
ともかくスタート
ともかくその年の10月から非常勤としてのスタートになりました。金曜日だったと思います。
私の他にも、大学から、平成2年卒業の若いY先生(中井貴一に似たハンサムボーイでした)が、
助っ人としてやはり週1回同じ日に派遣されてきました。
Y君は今は千葉市立海浜病院の心臓血管外科でバリバリ働いていますが、当時は卒業間もない頃で、
手術にしても、検査にしても、教えながらでなければ勤務出来ない状況でしたので、
自分一人で勤務するよりも、よけい大変に感じました。
その他の日でも、手術がある日は、浦賀病院に連絡があり、一人で鶴見まで出かけてきました。
当時の外科部長の遠藤先生は外科医としては私など、はるかに及ばぬ経験の持ち主でしたが、
その時の手術は、全て私に任せてくださり、助手として立ち会ってくださいました。
今思うと、ご自分が執刀されるより、かなりのストレスだったと思いますが、それでも細かな材料の使い方や、手術器具などもすべて私に合わせてくださり、随分助かり、勉強もさせてもらいました。
その頃、外科に、かなり長期間入院されている患者様がいらっしゃいました。
クローン病という難病で、手術のあとの傷がなかなかふさがらず、食事も出来ず、高カロリー栄養で体力を維持していました。
私は週1回しか行きませんでしたが、何回病室を訪れても、その患者様は、同じベッドに横になっています。
見かねて、何回かめの時、「少し遠いところですが、千葉の大学病院に転院して治療してみますか?」と話してみると、
意外にも「お願いします」との返事が返ってきました。
やはり、なんとか治って退院したいとの気持ちが強かったのでしょう。
さっそく大学に連絡し、転院したあと、かなり大きな手術が施行されました。
その時、大学にいて、その患者様の受け持ちになったのが、今、平和病院でいっしょに働いている下田君だったのも、何かの因縁でしょうか・・・・
ともかく手術は無事終了し、経過もよく、患者様が、明るい顔で平和病院に戻ってこられました。
その患者様は、今でも私の外来に通院していらっしゃいますので、平和病院でかかわってきた患者様の中で、もっとも長いお付き合いになっています。
ふけた新人
平成3年の4月、大学から昭和59年卒業の下田君と、卒業2年目のO君が着任し、浦賀病院から移動した私と、遠藤先生の4人で新しい平和病院の外科がスタートしました
。
O君は卒後2年目といっても下田君より年上でした。
ということは、かなりのブランクがあるはずで・・・・詳しいことは語りませんでしたが、
新宿あたりでバーテンダーをしていたとか・・・・
なぞの経歴を持つ男でしたが、人柄は良く(人生経験が豊富だったせいか?)仕事ぶりもまじめでした。
しかし、医師としての経験は大学の医局での1年間だけ、という実戦経験の無さはいかんともしがたく、
何をするにも、私か下田君が付きっきりでいなければなりませんでした。
遠藤先生は外来だけを担当し、私達3人に検査、病室、手術のすべてを任せてくださったので、
私にとっては外科を思いどうりに運営でき、本当に助かりましたが、
3人といっても実際はどちらかが、O君につきっきりになっている分、しばらくは1.5人で働いているようなものでした。
また、それまでとはがらりと回診、オーダー書き、手術方法などが変わったため、
病棟の看護婦さんや、他のスタッフの仕事の内容も変えざるを得ず、
「今まではこんなやりかたではありませんでした!」という言葉を何度聞かされたかわからないほどでした。
スタッフとなんとか協調体制を作りたい、との思いもあり、
今に比べて思うと、仕事が終わったあとの飲み会が、なんと多かったことか・・・
当時は今に比べ、職員の数も半分くらいしかいませんでしたので
今よりもずっと部署の分け隔てなく、和気あいあいとしていたように感じます。
最近は職員の数も増え、あのときのように、いろいろな人たちと楽しく飲み明かすことが少なくなってしまいました。
それとも自分が年をとったぶん、若い人たちからさそわれなくなっただけなのでしょうか・・・?
(12月5日)
患者さん、ご家族とのかかわりは必ずしも満足できることばかりではありません
自分の未熟さを感じる日々であり、この文章を書いたのは18年も前!
緩和ケア科が独立する前の話です
こういうことを考えながら、自分が緩和ケアにシフトしていったのかな・・・
あらためて読み直してみると、まだまだだな・・・と感じます
こうしたかかわりの一つひとつが生きた教えになってきたことを感じます(2020年8月2日)
癌の末期、病状が日に日に悪化してく患者様が入院しています。
奥様に、もう回復することが困難なこと、残された時間は少なくなったこと、
今となっては、出来るだけ痛みや苦しみをとってあげるように努力するしかないこと、
痛みが強くなればモルヒネも投与すること等を何回もお話してはいましたが・・・
急速に病状は悪化していきます。
胸水、腹水が貯留し、呼吸困難があらわれ、酸素も必要になってきます。
話は聞いていても、現実に衰えていくご主人を見て、奥様は状況を受け入れることが出来なくなり
治療に対して不満をぶつけるようになります。
癌だということはわかっている。ただ、急に具合が悪くなっていくのは理解できない。
お腹もパンパンに張ってくるし、足もむくみ、眠っている時間が長くなっている。
どうしてくれる!食事も出来なくなった!元の身体に返して欲しい!
担当医、看護師などのスタッフも対応に困っていると聞き、
もう一度、直接お話しなければと思い、病院に来ていただくよう電話をしたのですが・・
いつもそちらの都合のいいときに呼び出して、勝手じゃないか!
いつも娘にばかりに話をしている。私は何も話を聞いていない!
先生は何時も言い訳ばかり言って、あの人をあんな身体にしたことを何とも思っていない!
なんて冷たい人なんだ!こんな医者は見たことがない!
あの人がいないと暮らしていけない、もうどうしていいかわからない!
みんな先生のせいだ!あんなに元気だったのに、病院のせいであんな身体にされてしまった!
と、1時間以上も電話でくり返し非難され、大声で「ばかやろう」と何回も言われてしまいました。
電話では状況が改善せず、話にならないので、直接顔を合わせてお話しましょう・・と、お願いしましたが・・
それでも電話口から時々私を非難する絶叫が聞こえます。
奥様は、ご主人の病状をを受け入れられず、混乱しているのだと何回も自分に言い聞かせてはいたつもりだったのに
あまりの罵声に、つい気がたかぶり、「いいかげんにしてください」と、思わず口から出てしまいました。
その日、改めて息子さん、娘さんと一緒に、奥さんが病院にお見えになり、1時間以上お話しましたが、
そのときにはずいぶん冷静になっておられ、
さっきは怒鳴ってしまってすみませんでした。気持ちではわかっていても、まだ受け入れられなくて・・・
でも先生に大声を出したら少し落ち着きました。
他の先生には怒鳴っても、そのうちかわいそうになってしまい、
先生にはついつい言いやすいのでしょうか・・とおっしゃってくださいました。
確かに以前からも感情をぶつけてくる方ではあり、
私も、最愛の夫の病状を見かねてのことと、理解はしていたつもりだったのですが・・・
何を言われようと、全てを受け止めて、相手の気持ちを思いやり、サポートしていくことが出来ない自分に
まだまだ優しさが足りない・・・と大いに反省し
その日はずいぶんへこみました。 (2002年6月30日)
まだまだ優しくない:後日談
日曜日になったばかりの午前1時、枕もとの携帯電話が鳴りました。
その日は12時過ぎに寝たので、なかなか起きられず、出ようとした時には、切れてしまいました。
最近は夜中に、いわゆる「ワン切り」がかかってくることも多いのですが、
着信履歴は病棟からでした。
折り返し電話してみると、食道癌の末期の患者様(まだまだ優しくない、で書いた患者様です)の血圧が下がってきているとの事です。
「他の先生は?」という妻の眠そうな声を聞きながら、病院に急ぎました。
最近は若い出張医が、病棟の管理をしっかりやってくれており、私が着任したての頃に比べると、
夜中に連絡がくることもずいぶん少なくなりました。
以前から、平和病院で手術をし、治療を受けてくださっていた患者様が最後の時をむかえるときには、
なるべく、立ち会うようにしてきました。
「当直医がいるのに、なぜ先生を呼ぶのですか?」
と尋ねる看護師さんがいます。
確かに当直医師がいるので、私が行かなくても問題は起こりません。
なぜなのか、と言われても、感覚的な問題が、かなりの部分を占めており、
自分でも、「そうしなければならない理由」を細かく説明は出来ません。
医者と患者様の関係は「めぐりあわせ」だと思っていますし、「一期一会」の関係を大切にしたい、と考えています。
大病院嗜好の強い中、平和病院を信頼し、治療を継続してくださった方々・・・
中には、周囲の人が、「大学病院に・・癌センターに・・・もっと大きな病院に・・・」というのにもかかわらず
治療をまかせて下さった方もいます。
そんな患者様が、癌との戦いにやぶれ、最後の時を迎える時、
力及ばず、申し訳ありません、との思いを込め、最後の時に立ち会っても、ばちはあたらないだろう!
と、言ってはいるのですが、あまり理解してもらえないこともあります。
自己満足、との指摘もありますが、それでも手術後、長く外来でお付き合いさせていただいた患者様の場合、
最後の瞬間に立会い、時間の許す限り、お見送りをするのは自然のことだと思っています。
ともかく、その日も車を飛ばし、病院につきました。
病室を訪ねると、すでにご家族の方々が患者様のベッドを取り囲むように集まっておられ、
もちろん、奥様は一番近くにいらっしゃり、ご主人の手を、一生懸命さすってあげていました。
私の顔を見ると、静かに微笑みかけてくださり・・・・
実は、病室に入る前は、奥様が、悲しみのあまり、取り乱していらっしゃるのでは・・・と思っていたので
正直、予想外のことに驚きました。
あらためて、いよいよ最後の時が迫っていることをお話し、静かに最後を見守ることを確認しました。
夜も明けかけ、少し明るくなった4時近く、院長室の電話が鳴りました。
患者様は呼吸も止まり、心臓が、最後の動きをしていました。
しばらくして、その心臓も動きを止め・・・
「残念ですが、ご臨終です」
そのときも、奥様は、一時の混乱がウソのように、静かにご主人の「死」を受け入れてくださいました。
もちろん、心の中では、いままでの、様々な思いが走馬灯のように駆け巡っていたのだと思います。
終末期医療を扱う者が、必ずと言っていいほど読む本に、E、キューブラー、ロスの「死ぬ瞬間」というのがあります。
この本では末期をむかえる患者様の心の動きに関し
「否認と孤立」、「怒り」、「取引」、「抑鬱」、「受容」と、段階をふんで死を受け入れていく、と述べており、、
「患者の家族」の章では
、
家族も死を受け入れる時、いくつかの異なる適応段階を経験していく、と書いています。
私も、この本は読んでいましたし、内容は理解していたつもりだったのですが、今回の件の後、
あらためて、読み直してみました。
「家族の悲しみと怒りの解消」の部分に次のような文が書いてありました。
「私がここでくり返し強調したいのは、遺族が話をしたり、泣いたり、わめきたければ、わめいたり出来るようにしてあげるべきだ、ということである。
話をさせ、感情を表に吐き出させてあげ、いつでも話し相手になってあげなければいけない。
遺族は、患者の問題が解決した後も長い悲しみが待っている。・・・・
家族の怒りが直接私たちや神に向けられても、ひろい心で受け入れれば、
彼らは死の受容へと大きな一歩を踏み出せる」
今回の件で、自分はこの本に書いてあるような行動が取れていたかを考えると、
「まだまだ・・」との思いが強く、あらためて、奥様に対しての対応の不十分さ、
充分に理解してあげられなかったことへの後悔の念が残りました。
今回の、奥様の反応の変化は、確かに、本に書いてあるような、段階を経ての心の変化もあるとは思いますが、
もう一つには、息子さんの存在が大きかったと思っています。
結局は第3者の医師より、やはり家族の中で、信頼でき、理解し、時にはしかることのできる方の存在が、
大きく影響したと思われ、受容の気持ちが芽生えていったのではないかと思っています。
家族の葛藤の中で、支えあう絆の深さ、大切さも、あらためて教えられました。
いまは、感謝の思いでいっぱいです。
後日、奥様が、改めて私を訪ねてきてくださいました。
奥様は、他の病院の看護職の方で、
これからも終末期を含め、患者様に対していく、と話しておられました。
短い時間でしたが私も今回の件では、いろいろ教えられ、少し、成長できたような気がします。
ご主人のご冥福をお祈りし、奥様がお元気で暮らしていかれることをお祈りし、
ご家族のかたが、これからも暖かく奥様を見守っていっていただきたい、と願っています。 (2002年8月1日)
平和病院で今使われている基本理念は、私が考えて作りました
その基本にあるのは「優しさ」であり、変わらないものであると今でも思っています(2020年5月29日)
優れた人は優しい人
先日、平和会の基本理念を「患者様にとって、いつも優しく、誠実であること」と宣言しました。
「優しさ」、は簡単そうでいて、とても難しいことだと思っています。
最近宮崎医科大の皮膚科の教授だった井上勝平先生の文を目にしました。
太宰治が友人に送った手紙に
「人を憂へること。これが優しさであり、また人間として一番優れていることじゃないかしら」
と言う部分がある。
漢民族は4000年も前に「人の憂いのわかること」を「優」と表現し、
日本人の先祖も「人のことを憂いて、やせる思いである」という語源のやまと言葉「やさしい」に
「優」という字をあてた。
私は何日間でも鷺のように白衣をまとい、赤い目を燃やして病者のそばに立ち通すことのできる
優れた優しい看病と看取りのできる医師になりたい。
自分も同じような気持ちを持っていきたい、
平和会の全ての職員が同じような気持ちを持っていてもらいたい。
そんな文でした。(2002年1月15日記載)
基本理念と職員の行動基準を決めた時のものですね・・・懐かしい
今日は少し堅いお話を・・・
平和病院が皆様に選ばれる病院になるためには・・・・
病院が、その方針を職員に明示し、その力を結集していかなくてはなりません。
先日、職員に対して、平和会が目指す基本的な考え方、平和会の職員としてどんな思いで日常の業務にあたるべきか、について考えてもらい、それを提出してもらいました。
多くの職員が真剣に考え、いろいろな意見を述べてくれました。
その意見のほとんどが、私の思いと、かけ離れていないことに安心し、力づけられました。
今まで新旧のパンフレットなどに色々な言葉が書いてありましたが、
平和会の基本理念として統一したものはありませんでした。
今回、私は次の言葉を平和会の目指す基本的な考え方としたいと思います。
患者様にとって、いつも優しく、誠実であること
この言葉には「平和会の職員がこうありたい、こうなってほしい」との思いがこめられています。
難しい言葉で、もっともらしいことをいうつもりはありません。
簡単な、覚えやすい言葉で、メッセージを伝えたいと思います。
また、これに伴い職員の行動基準も明らかにしました。
私達、平和会の職員は、
今後これらの言葉は、各職場、また、患者様やご家族の方々の目に止まる場所に掲示し、平和会がより良い方向に変わっていけるよう、気持ちを新たに頑張っていきたいと思います。
(2001年12月16日記載)
まず始めはやはりこれ!
院長になったばかりのころ、病院の基本理念・職員の行動基準など新しく作ることになり、ロゴマークも初めて作ったときのものです!19年も前ですね・・・
平和病院のロゴマークが決まりました!
このマークは生命力を表す緑を基調にして、平和会の頭文字「H」をデザインしたものです。
「H」を擬人化することで、病院(Hospital)そのものを表すだけでなく、
私たちの基本理念である、優しい心(Heart)と誠実さ(Honesty)を忘れず、
ご利用される皆様の身になって、暖かくおもてなしすること(Hospitality)により、
健康(Healthy)で幸せな(Happy)生活をおくっていただき、
いつも地域の皆様の希望(Hope)の光でありたい、
との思いがこめられています。
今後、診察券、各種封筒、名刺、名札などにもこのロゴマークが使われます。
ぜひ、かわいがっていただきたいと思います。
(2001年10月記載)