早いもので、平和病院が新しくなって10年が経過した
今日も自分は緩和ケア医としてがんの患者さんやご家族と日々接している。
平和病院緩和ケア科は自分が立ち上げ、新病院建設と同時に鶴見区で初めて開設された緩和ケア病棟は、もう10年目を迎えるが・・・
緩和ケア専従医になる前の自分は長年消化器外科医であり、直接がん患者さんの手術を行うことも多かった
今、病院は「地域完結型」でそれぞれの病院が役割分担を行い連携をとって診療を行っているが、以前は「病院完結型」であり、自分たちが手術をしたがん患者さんは、その後の抗がん剤治療も行い、再発や転移がおこって状態が悪化していっても、引き続き自分たちで診療を継続し、お看取りまで行っていく事が当たり前だった。
告知さえ当たり前ではなかったころ、自分が手術した患者さんとのかかわりの中で、つらさをとること、人生の最期の部分まで支えていく事の大切さを感じ、当時はそれほど広がっていなかった「緩和ケア」に興味を持って行ったころ・・・
自分がまさか癌になることなど全く予想すらしなかった。
この、「自分が、がんで治療される側に回る」という体験は、まだ当時院長になったばかりであり、50歳になったばかり、子供もまだ小さかった自分にはとても受け入れられない事態だった。
このHPにもその時の体験を書いていたが・・・自分が、がんになった体験は現在の自分の診療にも大きな影響を与えていることを感じている。
患者さんの中には自分が同じ病気になっていることで親近感を抱いてくださる方もいるが、幸いにして私は今のところ再発・転移をまぬがれているサバイバーであり、私の目の前の患者さんは再発、転移でつらい治療を継続されていたり、あるいは治療の方法がなくなったりしている方も多く、自分よりも何十倍もつらい思いをしていることを考えると、自分の体験したことなど「取るに足らない」事かもしれないが・・・
それでも、がんになったときのつらさをを経験したものとして、それをいかしながら、これからも診療を続けたいと思っている
HPの中では、ばらけていてた体験にかかわる記載ををひとまとめにして、少し加筆してみた
これを読んだ患者さんが少しでもつらい心を開いていただけたら、自分が経験したことも少しは役に立つのかもしれない・・・
(2021年6月:17年目の6月に・・・)
はじめはCTで腫瘍が指摘された時に書いたものです
え!・・・癌?
毎年5月は自分で健康診断を受けるようにしている。
血圧、心電図、腹部超音波検査、胃内視鏡、注腸造影、腹部CTなど、ひと通りの検査を受ける。
もう10年くらい続けて受けているが、大きな異常所見も無くすごしてきた。
今年もいつもと同じメニューで検査を受けたが、何の気なしに肺のCTも撮っておこうと思った。
平和病院で撮影されたCTは、放射線科の専門医師による読影が行われている。
別に何の症状も無く、健康状態もいいのでまったく心配していなかったのだが・・・
読影結果報告を見て、一瞬目を疑った。
右上肺野に1センチ前後の結節が見られます。炎症とも思われますが、悪性を否定する根拠はありません!
あわてて写真を見てみると、なるほど確かに結節が写っている。
何が起こったのか・・・頭の中が白くなった。
悪性も否定できません・・・ということは肺がんの可能性があるということになる。
頭の中をめまぐるしく、いろいろな考えが猛烈なスピードで駆け巡る。
さて・・・どうする!
次からの記載は、手術も終わり退院した後で、少しずつ書いていったものです・・・
入院・手術体験記①
今回の治療に関しては、どこで手術をするのか、決めかねた。
自分の専門は消化器、一般外科なので、腹部の病気なら、自分の病院で手術も可能だが・・・
平和病院では胸部外科は、自然気胸しか扱っていない。
自然気胸の手術は、日本で一番症例数の多い日産厚生会玉川病院の気胸センター長、栗原先生が来院して執刀する。
彼は、同じ大学の1年後輩で、大学では私と同じ肝臓研究室に所属していた。
今の教授(宮崎勝先生)と一緒に新しく作った肝臓研究室の創世期のメンバーとして、一緒に苦労した仲だ。
いつ間にか胸部外科に転進し、今では、海外から講演を頼まれるほどの第一人者になっている。
腫瘍が見つかった時、まず直属のボスである宮崎教授に相談した。と言うより、誰かに話を聞いてほしかった。
教授は「そうか・・・髙橋は昔から運が良いんだから、まず悪性じゃないと思うけどな・・・診断がつかないなら、呼吸器内科の腕のいい先生に頼んでやるから、千葉まで来るか?」
と言われた。
大学は確かに頼りがいがあるかもしれないが、逆に知っている医者も多すぎて、ことが大げさになる恐れがある。
しかも、千葉はやはり家から遠い。手術になった場合、家族のことを考えると悩んだ。
ちょうどその頃、自然気胸の患者さんが入院し、栗原先生が来院する予定になっていたので、
「栗ちゃん(今でもそう呼んでいる)に相談してみます」と言った。
「結果がわかったらすぐ連絡しろよ、心配するな」と言ってはくれたが・・・
心配しないわけが無い!
栗原先生に、自分の肺に腫瘤が見つかったので、今度来院したときに、CTの所見を診てほしいとメールした。
その日のうちに、電話がかかってきて、「先生、今度行くときなんていったら来週でしょう!早く診断をつけないと、心配でしょう!
すぐに写真を送ってください」と言われた。
肺の小さな腫瘍は診断がつきにくい。気管支鏡の検査を受けなければならない。それでも診断がつかないことも多い。
胃の内視鏡は自分でも何回も受けているが・・・
気管支鏡は、見ていてもかなりつらそうな検査だ
だいたい、呼吸をする場所に管を入れるなんて、苦しくないわけが無い!
どうやったら息が出来るんだ・・・などと、とても医者とは思えないようなことを考えてしまう。
実は何年も前、咳が続いたことがあり、胸部X線検査でひっかかり、CTを撮ったところ、両側の肺に細かい影が多発していて、
気管支鏡を受けるように言われた。
どうしても嫌で、検査当日に「咳も治ったので、もう一度X線検査で調べてくれ」、と駄々をこねた。そのときはアレルギー性のものだったようで・・・
しぶといことに影はすっかり消えており、検査が中止になったことがある。
今回もまた同じことが起きてくれないか…そんなことも考える
CTを見た栗原先生から「やはり悪性と考えたほうがいいですね。なるべく早く気管支鏡をやりましょう。
千葉大の後輩の呼吸器内科の先生に頼んでおきますので、3日後に来てください」
と連絡があった。今回は逃げられそうにない。
妻にはこの時点で初めて話した。
「良性と確実に診断されればいいが、診断がつかない場合は、経過を見るなんて、まっぴらごめんだ!
今なら悪性でも間に合う可能性が高い。結果がどうあれ手術を受けるからね・・・」と
検査当日、一人で玉川病院に出かけた。
呼吸器内科の先生は、外来に入るなり、CTを見て、静かな口調で、いきなり「まず肺癌に間違いないと思います」と言われた
ある程度覚悟はしていても、この「癌」と言う短い言葉は実際に聞いてみると、かなり強烈なインパクトがある。
いつもは何気なく患者さんに言っている言葉の重さがずしりとのしかかる。
さすがにペースダウン!
早いもので、あと3日で入院となった・・・
4日後には手術が行われ、白黒はっきりとした診断がくだる。
手術が終わったころは、まだ朦朧としているだろうから、翌日に「告知」されることになるのだろう・・・
いままで、このホームページでも「告知」のことを書いてきたし、これからもターミナルの患者さんにかかわりながら
何とか患者さんの気持ちを思いやり、その闘病や看取りに長く携わっていこうと思っていたが・・・
まさか、こんなに早く自分が逆の立場になるかもしれないとは、思いもしなかった。
それでも、おかまいなしに、院内で処理しなければならないことは、途切れることが無い。
ただ、さすがにペースが落ちる・・・
気がつくと、何を考えるでもなく、ボーっとしている。
いままで、窮地に立たされたときには、いつも、「あと1ヶ月もすれば、なるようになっている・・・」と考えて乗り切ってきた。
ただ、今度ばかりは、まだどうしても、さらに先のことを考えてしまう。
手術をのり切っても、その先はもしかしたら・・・
と、思う反面、一番望ましい結果に終わっているかもしれないと考える瞬間もある。
この2週間は、そんなことの繰り返しだった。1日のうちに何回も考えが変わる。
楽観的な自分と、悲観的な自分がめまぐるしく入れ替わる。
一昨日、、私が外来でずっと診察していた患者さんが亡くなった。
結腸癌の末期だったが、すべて告知してあった。もちろん再発も告知した。
話し方はいつもつっけんどんだったが、家族思いの優しい方だった。
一時は自宅で最後を・・・とも話していたが、そんなときに私がこのような状況になってしまった。
何日か前、病室を訪れたときに、自分が3週間ほど留守にすることを伝えた。
「私も手術を受けなくてはならなくなって・・・」
「3週間もいないのかぁ・・・」そういったきり、しばらく黙り込んでしまった。
「今でも十分頑張っていることは知っていますから、これ以上頑張ってとは言いません。今度は私が何とか頑張って戻ってきますから、待っててくださいよ!」
そういって約束したのに・・・
そんなことがあったせいか・・・今は余計に気持ちが晴れない。
まあ、どちらにしても、自分のことは、なるようにしかならないし、結果はひとつだから・・・
あるがままを受け止るしかないのだろう。
結果さえはっきりすれば、それがどちらにころんでも、自分のモチベーションを高めることが出来るような気がするのだが・・・
この中途半端な状態はなんともいいようがない・・・
このまま1週間先にタイムスリップ出来たらどんなに楽だろう・・・
今までかかわってきた患者さんたちの強さに、いまさらながら感心すると同時に、
考えていたようで・・・患者さん達の心の動きを、いかに理解していなかったかを思い知らされた。
「これから気管支鏡の準備をします」
ボーっとして外来の待合室にいると栗原先生がやってきた。
「先生、まだ小さいし、ラッキーですよ。今回の検査で診断がつかなくても、手術は絶対やるべきだと思いますよ。今なら治りますよ。場所がやや奥のほうなので、右の上葉切除は必要になるでしょうけど、それでも1週間も入院すれば大丈夫ですから・・・」
「手術といってもどこでするのがいいか、全然わからないな・・・栗ちゃんのところではやってくれないの?」
「先生・・・やらないことは無いけど・・・やっぱり先生のことを手術するなんて、平常心じゃとても出来ないですよ・・・」
「自分が先生の立場だったら、やってもらいたい先生が何人かいますから、私がその先生を紹介します」
と言ってくれた。
入院・手術体験記②
気管支鏡検査の準備のために内科外来に呼ばれた。
吸入をおこない、前投薬といって、準備のための筋肉注射を打たれた。
上腕に打つのだが、これが猛烈に痛い!
筋肉注射はもちろん初めてではないが・・・こんなに痛いのは初めてだ。
大柄な看護師さんが、注射のあとを猛烈な勢いでもむ。
後で気づいたら、けっこう内出血していた。
こら!・・・といまさら言っても始まらないが・・・
そのあと、車椅子に乗せられてレントゲン室に行った。
けっこうたくさんの医者が来て、私のCTを見て、話し合っている。
癌かどうか・・・話し合ってるのだろうな・・・などと思って耳をダンボにしたが、何も聞こえない・・・
もう少しで、あの死ぬほどつらそうな検査が始まるかと思うと、落ち着かない。
一人の若い女医さんが入ってきて、「それではもう一度ノドに麻酔をしましょうね。大きく口を開けて~」とスプレーの局所麻酔剤を噴霧しはじめる。
もともと自分はノドの反射がむちゃくちゃ強く、胃の内視鏡のときもゲーゲー、オエオエとやかましい。
何回麻酔をしても、スプレーされるたびに、いつまでもオエオエ言っているので、
ついに女医さんが看護師さんに「もうひとつ持ってきて」と、おかわりを注文する始末だ。
後で聞くと、この女医さんは、今、平和病院の外科にいる門脇君の大学の同級生だそうで、
世の中狭い、などと思ったが、とにかくその時は、そんなことを考える暇も無く、検査も始まっていないのに、涙と鼻水を流している。
さすがに見かねたのか、先ほど外来で診てくれた先生が、「先生、ドルミカムを使って、ねますか?」と言ってくれた。
この一言は、天使の囁きに聞こえた。
「その代わり、車の運転はしないでください。一人で来ているなら、誰か家の人を呼んでくださいね」
「ぜひ・・・お願いします」と、速攻で返事をし、さっそく家に電話し、妻に迎えに来てもらうことにした。
医者は自分が病気になったときには、からっきし意気地が無く、痛がりで、かつ、わがままでしょうがない!とは、よく言われている。
大学病院の教授が、やはり気管支鏡検査を受けるとき、大騒ぎをして、結局全身麻酔をかけた、との話はけっこう有名だ。
ドルミカムは大腸内視鏡検査の時にもよく使う薬だが、あらぬことを無意識のうちに口走ることがある、といわれている。
自分が毎年大腸内視鏡を受けずに、注腸造影検査で済ませているのも、これが心配で・・・というのも理由のひとつだ。
ただ、今回はそんなことは言っていられない。
素直に使ってもらうことにした。
検査台に上り、横になる。
「じゃあ、薬を使いますよ・・」と言われたあとは、まったく覚えていない。
気がつくとまだ台の上には寝ているが、検査は終わっていた。
「苦しそうだったので、ドルミカムを追加しましたが・・・」と言われても、苦しかったことも覚えていない。
ただ、ノドに違和感が残っているだけだ。
ずっと後になって門脇君が、「先生、気管支鏡ではかなり暴れたようですね・・・」とポロリといったところを見ると・・・
ノドの麻酔をかけてくれた同級生から話を聞いたらしい!何か口走ったんじゃないだろうな・・・?覚えてないのでなんともいえない。
「気管支には特に変化は見られませんが、腫瘍の場所と思われるところから、細胞を取ってきました。結果は後日お知らせします」
「ありがとうございました」と言おうとしても呂律が少し回らない。
「ありがとうごらいました。らいりょうぶれす」とか言いながら、そのまま車椅子に乗せられて、外来のベッドに寝かされた。
「はっきり覚めるまでここで休んでいてください」
看護師さんに言われて、カーテンで仕切られた狭いベッドに横になっていたが、
隣にも、もうひとつベッドがあり、誰かが寝ている気配がする。
「看護婦さ~ん・・・看護婦さ~ん・・・お願いしま~す・・・お願いしま~す」
か細いお年寄りの声が遠くから聞こえるようなのだが・・・どうやら隣のベッドから聞こえてくるらしいのだが
朦朧とした頭には、まるであの世からの声のようにも響き、あまりいい気持ちはしない。
どれくらい時間がたったのか、だいぶ頭がはっきりしたころ、カーテンが開いた。
「もう大丈夫です」といって待合室まで歩いた。
妻が来ていた。
「どうだった?」
「検査は麻酔をしてもらって、全然苦しくなっかよ。でも・・・やっぱり癌だろうって!」
「そう・・・」短く答えたあと、何も言わなかった妻が・・・
泣いた!
夢で泣く
今回の自分の病気は、肺のCT検査を受けたことで見つかったのだが・・・
未だに自分でも、なんでCTを撮ろうと思ったのかが判らない。
本当に、たまたま何気なく、CTのオーダー票にある肺の部分に丸をつけた。
症状は全くなかったし、健診で、胸のX線写真は撮影していた(病変は見つけられなかったが・・)
ただの「虫の知らせ」なのか・・・
検査したのは、父の命日に墓参りをし、実家の仏壇に手を合わせてすぐあとだった。
「まだ墓に一緒に入るのには早すぎる!」と、父が伝票にチェックをさせて、知らせてくれたのかもしれないと思っていた。
少し前に夢を見た。
朝起きたときには断片的になっていたが・・・
病院で何かの宴会をやっている。
かなり広い座敷だ。
よく見ると、離れた席に父が座っているのが見えた。
なんでこんなところにいるのだろう?と、不思議に思っていると・・・
なぜか薬局長が出てきて
「先生が癌になったので、大変だと思い、お父様に連絡してみたんです」と言っている。
「え!連絡ついたの?」
「いえ、何回連絡しても電話がつながらなくて・・・」
そうだろうな・・・父はもう何年も前に死んでるんだから・・・
と思って父のほうを見ると、もういなくなっている。
「何処にいった?」と誰かに聞くと・・
「もう帰りました」と・・・
何十年かぶりに会えたっていうのに・・・なんで一言も話さないうちに帰っちゃったんだ・・
一言くらい話がしたかったのに・・・
と思ったら、なんだか悲しくて涙が出た。というところで目が覚めた。
なんと、本当に泣いていた。
おきてもしばらく涙が止まらなかった。
朝になって、妻に夢の話をしていたら、涙腺が弱くなっているのか、気弱になっているのか・・・また泣けてきた。
それまでは父が夢に出てきたことなど、あまり記憶にない。
やはり、今回のことは父が教えてくれたのか・・・
「ちゃんと守ってるぞ・・・」と言いたくて夢に出てきてくれたのか・・・
逆に、そう思っているから、こんな夢を見たのか・・・
どちらかは・・・いまだにわからない。
入院・手術体験記③
栗原君は二人の先生を推薦してくれた。
「もし自分が髙橋先生の立場になっても、手術をしてもらいたいと思う先生ですよ・・・」
とのことだった。
一人は東邦大学大森病院の肺外科の教授、もう一人が済生会神奈川病院の呼吸器外科部長の加勢田先生だった。
済生会神奈川病院は自宅からも遠くない。
見舞いに来る家族のことも考え、加勢田先生にお願いすることにした。
ただ・・・神奈川病院は、平和病院からも近い。
自分が入院し、手術をして、寝ている姿などは「絶対人には見せたくない」との思いが強かった。
特に、病院の職員にはなおさらだ。
ところが、あいにく、というか、幸いというか・・・加勢田先生は、6月から、転勤で、秦野にある国立神奈川病院に移ってしまっていた。
今度はかなり遠い・・・ここならあまり人も訪ねてこないだろう・・・との考えもあり、この病院に決めた。
栗原君はさっそく先生に連絡をとってくれた。
手術は6月22日に決まった!
6月7日、初めて秦野の神奈川病院に受診した。
菊名から横浜線で町田まで出て、町田から小田急線に乗り換え秦野まで・・・
秦野からタクシーに乗って病院まで・・・
病院は昔、療養所だったようで、山の上にあり、くねくねとした細い道を登っていく。
登りきったところが急に開け・・病院が現れた。
患者として病院の玄関を入るのは、はっきり言って、あまり気持ちのいいものじゃない。
受け付けを済ませ、待合室で待っていると、看護師さんが私のカルテと写真を持ってうろうろしている。
少し不安になっていると・・
「申し訳ありません、加勢田先生は、急用でお出かけになってしまい・・・」とのこと。
「え~せっかく来たのに!」と、愕然としていると・・・
「代わりに院長が診察しますのでお待ちください」とのことだった。
しばらくして診察室に呼ばれた。
院長(呼吸器内科)はわたしのCTをじっくりなめるように見つめている。
「う~ん・・・加勢田先生から話は聞いています。手術は22日ですが、入院の日は、また電話ででも相談してください」
「ほぼ癌に間違いないんでしょうね・・・」と鎌をかけても、「どうでしょうか・・・なかなか難しいですよね・・・まあ一応病名は肺癌の疑いにしておきますね」
と、カルテの病名欄に「肺癌疑い」と書き込んだ
もちろん、癌でないのにこしたことはない。あきらめる気持ちがある反面、わずかな可能性にすがりたい気持ちも大きい。
あくまでも、まだ確定診断がついているわけではない。
確かに、今はまだ「肺癌」じゃなくて「肺癌の疑い」なんだから・・・
それからしばらくして、玉川病院でおこなった気管支鏡の細胞検査結果が判明した。
「今回の検体には悪性細胞は見られません!」
「やった~」といってそのままにしておくわけにはいかない。
腫瘍はあるのだ
もし癌だったら、様子を見ているうちに手遅れになる可能性が高い。気管支鏡の結果に関係なく、手術は受けるつもりでいた。
ついに手術は「確定診断のつかないままで」おこなわれることになった。
もっとも、気管支鏡で診断がつくようでは、すでに進行していることになるし、診断がつけばあきらめるしかないことになる。
手術で右肺の上葉を切除し、その場で検査して、良性ならばそれでおしまい。悪性ならばさらにリンパ腺の切除を追加することになる。
自分は麻酔がかけられているから、診断結果は手術が終わってからでないと判らない。
いくらCTの所見で「癌にほぼ間違いない」と言われても、確定診断がついていないだけに、気持ちの整理が全くつかない。
なまじ良性かも知れないとの希望を抱いてしまう。
それから入院までの期間は、言い表せないほど長く感じた。
日常業務はこなすが、まったく集中が出来ない。
毎日、また、1日のうちでも考えがコロコロ変わる。
最悪のことから最善のことまで・・・いろいろ考える。
腫瘍が小さくても悪性度が高く、転移があり、もう長くは生きられない・・・、術後に抗がん剤の治療を受ける自分を想像する。
子供が成長する姿も見られないかもしれない・・・
残された寿命は長くない・・・今でこそ言えるが、そんなことまで考える。
今、下の子供と一緒の部屋で寝ているのだが、夜中、寝ている姿を泣きながらず~っと見ていたこともあった。
自分が父親を亡くしたのが高校3年のときだ。この子はもっと早く、小学生のうちに父親を亡くすことになるかもしれない・・・
自分がいなくなっても、この子は自分のことをちゃんと覚えていてくれるのだろうか・・・
自分が死んでも、子供たちを、ちゃんと学校に通わせられるのだろうか・・・
どんどん悪いことを考えて、奈落の底に落ちていくような感じになる。
眠れない夜は長い・・・
もう今すぐにでも麻酔をかけて肺をとってもらいたいと思った。
生殺しの状態には耐えられない。
良くても悪くても、本当の結果を早く知りたい!
入院・手術体験記④
入院までに、めげたこと:
①ねまき
平和病院は、入院する場合、業者と契約すると、体ひとつで、何も用意しなくても入院に必要なものが一切そろうシステムになっているが・・・
入院を決めた病院は、そのようなシステムはなく、
それこそ、石鹸、ティッシュ、コップ、はし、スプーン、バスタオルなどなど・・・
一切を用意しなければならなかった。
手術後は、胸に管が入っているし、おしっこの管も入れられているので、
普通のパジャマは使えない。
いわゆる、浴衣のような寝巻きになる。
私は身長が高いので、デパートで特別に注文して用意した。
いかにも、「病気になったときの寝巻き」とわかるような・・・
センスのかけらもない柄で・・・見ただけで具合が悪くなった。
妻は、使う前に、一度洗濯をするとのことで・・・
ある日病院から帰ると、部屋の中に干してあった。
ハンガーにかけられて、やけに大きな寝巻きが、目の前ぶら下がっているのを見ると
なんとも言えず暗い感じになっていく・・・
まるで自分がつるされているような気分にもなり・・・
たまらなくなって、ほかの部屋に持っていってもらった。
②おむかえ
あと数日で入院という日、訪問診療に出かけた。
5軒ほど回るのだが、その中に、最近幻聴、幻覚が出現してきた患者さんがいた。
患者さんが寝ている部屋を訪れ、声をかけた。
「○○さん、おかげんはいかがですか?」
「これはこれは先生・・・わざわざおいでくださって、ありがとうございます」
そういったあと、患者さんは壁のほうを向き、ぶつぶつ誰かと話している。
そのあと、にっこり笑って私のほうに向き直り・・・
「いま、兄が先生をお迎えに来たと言っていますの」
どうやら、自分のお兄さんと話していたようだ。
これを聞いて、患者さんの娘さんが・・・
「もう、しょうがないんですよ、母の兄はとっくに死んじゃってるんですけどね・・・」とポツリ・・・
おいおい、冗談じゃない!
死んだ人が私を迎えに来てるってことか???どこに連れて行くつもりなんだ?
まったく縁起でもない・・・
「ははは・・・」顔は笑っていたが、本当にがっくり来た。
③すごく痛いんです!
私の外来に、最近、肺切除を受けた患者さんがきている。
手術は2ヶ月ばかり前に受けていたが・・・
ちょうど私が受ける予定の手術と同じ術式だ。
もちろん患者さんはそんなことは知らないが・・・
入院の少し前、ちょうどその患者さんが受診した。
ついつい、患者さんの状態を、根掘り葉掘り聞いてしまう。
「手術はどうでした? あんまり痛くなっかたですか? 今はもう楽になりましたか?」などなど・・・
「いや~つらいですよ! 息をするのもつらいし、手術後は体を少しでも動かそうもんなら、激痛が走るんです。
胸の管もつらいし・・・今だって、少し動くとまだまだ痛みが強く・・・」
え~~~!そんなにつらいのかよ!
これから手術を受けるってのに・・・
聞くんじゃなかった・・・と、後悔したが、
その患者さんは延々と手術のつらさ、今も残る痛みについて激しく語り続ける。
早く・・・話題をかえたい!
入院・手術体験記⑤
医者から患者へ:
6月21日、子供たちは、いつものように学校に出かけていった。
また会えるかな・・・などと、気の弱いことを考えてしまう。
確定診断のつかない中途半端な状態からようやく開放されるという感覚と、
突きつけられる現実を直視しなくてはいけない、という恐怖に似た感覚が入り混じり・・・
なんとも言いようの無い複雑な心境だ。
妻は朝早くから起き、入院の準備、子供の世話、洗濯・・・と、いそがしそうに動き回っている。
明日、自分が麻酔からさめる前に、診断結果を初めて聞かなくてはならない。
まだ、子供も小さいのに、夫に「癌」の宣告がくだるのを聞かなくてはならない現実。
いつもと変わらず接してはいるが、話している途中で時々見せる涙を見ると、申し訳ない思いでいっぱいになる。
8時少し過ぎに家を出た。
いつもの月曜日と同じように「ゴミだし」が行われるが・・・
ただ・・自分の行き先は平和病院ではなく、国立神奈川病院だ。
横浜線、小田急線を乗り継いで、秦野の駅に着いた。
途中の電車は込んでいた。通勤、通学・・・
いろいろな人が乗っている。こんなにたくさん人がいても
この車両の中で明日手術を受けるのは、自分だけなんだろうな・・・など、
どうしようもないことを考える。
病院に着いた。
このまま帰ってしまいたい・・・などと、まったくもって意気地の無いことも考えてしまう。
夢なら早く覚めてくれればいいのに・・・
入院の受付を済ませ、加勢田先生の外来を受診した。
実は、先生とは、これが初対面だ。
前回受診した時には会えなかった。その後、何回も電話では、やり取りしていたが・・・
温厚そうな雰囲気に、ほっとしたのもつかの間、
CT所見を見て、「まあ、腺癌の可能性が高いと思います。また、午後に病室で詳しくお話しましょう」と、言われた。
手術は朝の9時から始まるようだ。
外来の看護師さんに案内され、長い廊下を歩き・・・病棟にたどり着く。
病棟の看護師さんに引き継がれ、病室に案内された。
「それでは寝巻きに着替えてお待ちくださいね」といわれたが・・・
なかなか着替える気がしない。
ぐずぐずしていると、妻にせかされた。
パジャマに着替え、ベッドに座ると・・・
医者は、あっという間に患者に変身する。
しばらくして入ってきた看護師さんに手術に必要なものの説明を受けた。
T字帯、胸帯、タオル、ストッキング(血栓形成を予防するために手術のときにはくもの)・・・
いつも見慣れているものを明日は自分が身につけることになる。
私が外科の医者ということはわかっているらしく、いともあっさりと説明は終わってしまう。
足りないものを買いに、妻と一緒に売店に出かけた。
いかにも、「病院の売店」といった感じだ。
隣には喫茶店と床屋がある。喫茶店は寝巻きでは入れないらしい。
食事は食べられるんだから・・・と、妻はプリンだとかヨーグルトだとか、お菓子などをいっぱい買い込んでいる。
遠足じゃないんだから・・・という気もするが・・・なんだか痛々しくて、何もいえなくなる。
病室に帰り、しばらくすると食事の時間になった。
配膳車が異常に大きい。食事は、ご飯も、おかずも、味噌汁も温かい。デザートのゼリーは冷たい。これが温冷配膳車の威力か・・・
完全に平和病院の負け!だ
食事も終わり、しばらくしたころ、妻と一緒にナースステーションに呼ばれた。
シャーカステンにはわたしのCTがかけられ、3人のDRが待っていた。
加勢田先生が話し始めた。
CTから判断して、まず腺癌だと思います。部位がやや深いところなので、部分切除をしても上葉はほとんど残りません。
はじめから上葉切除を胸腔鏡を使って行います。
普通は6センチくらいの創ですが、先生は体格がいいので深い場所の操作になると思われ、
少し大きめの創になります。
手術時間は2時間程度ですが、術中に細胞検査を行うので、30分から1時間程度余計にかかる可能性があります。
出血量は通常50cc程度で、輸血は行わないですむ予定ですが、万一の時には日赤の照射血を使用します。
術後、胸腔ドレーンを入れますが、浸出液の量が1日200cc以下になったら抜去します。
細胞の検査で癌と確定した場合は縦隔郭清を追加しますが、その場合には術後の浸出液の量は多くなると思います。
手術創は埋没縫合で閉鎖しますが、ドレーン抜去部だけは抜糸が必要です。
先生は外科のDRなので、処置は自分の病院でできるでしょうから、なるべく早く退院していただくようにします。
日曜には何とか帰れるでしょう・・・
特殊な組織型の場合には、抗がん剤の治療も考慮します。
まだ、癌と決まったわけじゃない・・・
と考えてはいたが・・・どうやら年貢の納め時のようだ。
あとはリンパ腺に転移が無いことを祈るだけだ。
まだそんな簡単にくたばるわけにはいかない!
せめて10年、下の子が成人になるまでは死んでも死に切れない!
明日の自分の運命を象徴しているのか・・・外は台風6号の影響で大雨、大風だ。
病室に帰ると看護師さんが「てい毛」にやってきた。
手術のときに邪魔な毛を剃りにくるのだ。
先日、平和病院が初めて医療機能評価を受審したときのポイントでは、
術前の「てい毛」は手術当日に電動クリッパーで必要最小限に行うことが望ましい・・・とされているのだが・・・
床屋で使うような道具で、石鹸で泡を立て、徹底的に剃られた。つるっつるだ!
危うく右の乳首まで無くなるかと思ったくらいだ!
なんか・・どっかから血が出てるような気もするし・・・
妻はたいっふうが近づく中、5時に帰った。
5時半、手術室の看護師さんが術前訪問にやってきた。
「もう、手術のことはご存知だと思いますので・・・」
と、あまり細かいことは説明してくれない。
今は医者じゃなくて、患者なんだから、・・・
判っていることでも言ってほしいのに・・・と思ったが、そんなことも言えずに「大丈夫です」と、つい、強がってしまう。
ただ、この看護師さん、決して絶世の美人とは言えないのに(ごめんなさい!)、なぜかほっとする雰囲気がある。
私の目を見て、にっこり笑ってくれている。
やっぱり、看護師さんの笑顔は患者を安心させる不思議な力があると実感した。
「また、明日お会いしましょう。心配要りませんよ。大丈夫!」
そういうと看護師さんは出て行った。
そうだよな、だいじょうぶだよな・・・と、情けないが、涙が出る。
しばらくして、入浴の時間になった。今日のさいごのお仕事だ。
浴室に案内されたが・・・広い!
ちょっとした旅館の風呂なみだ
ただ、湯船につかる気はせずに、シャワーだけ使った。
大きな鏡があり、自分の全身が写っている。
創は今のところ無いが・・・
この体も今日までか・・・明日には創ができ、今まで生まれてから50年以上、体に酸素を取り入れてくれた右肺の一部がなくなってしまう・・・
「手術には100%ということはありません。麻酔に関しても、事故は0ではありません」
自分がいつも手術の前に患者さんに言っている言葉が頭をよぎる。
消灯は9時だ。明日は6時から手術の準備が始まるらしい。
眠れるだろうか・・・と、心配する前に眠ってしまったらしい。
入院・手術体験記⑥
いざ出陣!
病室の冷房がベッドの真上にあるせいで、暑いのに、体が寒い。
さすがに熟睡はできず、朝、4時ころには目を覚ました。
体には汗がへばりついている。
タオルで体を拭き、ひげをそり、歯を磨いた。
昨日の台風とうって変わって、ぬけるような青空が広がっている。
いよいよあと数時間で手術が始まる。鯉は、まな板の上に乗せられてしまう・・・
6時には浣腸、8時15分に前投薬の注射をうたれた。
8時半ころ、妻と、母がきた。
努めて明るく振舞おうとしているのが判って・・・
8時50分、病室を出た。手術室には、病室のベッドに寝たまま連れて行かれる。
妻とは母はベッドのあとを手術室の入り口までついてきた。
「がんばってね~」と、やけに大きな妻の声が聞こえた。手を振っているのが見えた。
手術室の廊下でストレッチャーに乗り換え、執刀される部屋に入った。
寝たまま見る手術室の風景は、いつも見慣れたものとは全く違って感じる。
視界に昨日、部屋に来てくれた看護師さんが目に入る。やっぱりニコニコ笑っている。
なんだか少しほっとする。
麻酔の先生は女性だった。
「じゃあ、エピドゥラを入れますから、体位をとってくださいね」
ここでも、説明無しだ。
自分で横を向き、背中を丸くする。
痛いかな・・・と、思うまもなく、あっという間に終わった。非常に上手だ!
仰向けにされ、マスクを当てられた。
手術室での記憶はたったこれだけで、それからあとは全く記憶が無い。
目が覚めたときには自分の病室に戻っていた。
バルンカテ(尿道に入れられている管)が異常に痛い!
術後麻酔からはっきりさめていない患者さんが「おしっこが漏れる!」
と、言うことがよくある。「大丈夫!管が入っているから、そのままやっていいですよ・・・」
と、いつも言っている。
なるほど、この感覚のことを言っていたのか・・・と思ったが・・・
この違和感はたまらない!
おちんちんの先に異様に神経が集中してしまう。
ベッドサイドに妻と母がいるのが見えた。
「手術の時の検査で、リンパ腺には転移が無かったって!」
自分では全く覚えていないのだが、あとから聞いた話だと、そのときには、「うそついてんだろ!、隠しているんだ・・・」とか言ったらしい。
やはり、進行しているのではないか・・・と、かなり気になっていたようだ。
そのあとも、うつらうつらの状態が続く。
面会時間終了のぎりぎりになって、妻と母は帰っていった。
痛い!!
創の痛みはもちろんある程度は覚悟していたが。体を少しも動かせない。動くと激痛が走る!
ただ、それよりもおちんちんの先がどうしようもないほど痛い!
看護師さんがラウンドしてきた。「痛みはどうですか?」
「痛くてもしょうがないのは判っているんですが・・・、バルンが痛くて・・・」
痛がりでしょうがない!などと思われたくないので、見栄を張ってなるべく我慢をしていた(自分ではそのつもりだったが・・・)が、
ついに我慢できなくなり、注射をお願いした。
麻酔のときに入れた背中の管からは、持続で痛み止めがながされていたのだが・・・
注射は効いた!
しばらくすると、スーっと痛みが引いていくのがわかる。
鉛筆で書いた「痛み」という字を消しゴムで消していく感じで、はっきり消えていくのが判る!
薬が癖になる患者さんがいるのが判るような気がした。
入院・手術体験記⑦
手術が終わった日の夜は
ほとんど眠れないうちに朝になった。
深呼吸ができない。ネブライザーが枕元に用意され、「痰を出してくださいね」
とは言われるが、咳などしようものなら体中を激痛が走る。
胸には手術後の浸出液を体外に出す管が入っており、持続で吸引されている。
先生や看護師さんが部屋に入ってくるたび、空気の漏れがないか、出血はないか、などをチェックする。
そのたびに「咳をしてみてください」と、言われるが、喉だけで「コホンコホン」というだけで、とても力を入れて咳などできたものじゃない。
ただの咳がこんなにもつらいものとは思わなかった。
ありがたいことに、午前中の回診のとき、ついに尿の管を抜いてくれることになった。
昨日から続く、この管によるおちんちんの違和感、痛みから解放されると思うと、ほっとする。
と、思ったとたんに管が抜かれた。
抜かれる瞬間のなんと痛かったことか!
体中が浮き上がるような・・・
おちんちんで体だがつる下げられるような(もちろん実際にそんなことはされたことが無いが・・・)
思わず叫びたくなるような痛みだった。しかも、抜いた後も異様にピリピリとした痛みが残っている。
尿瓶が枕元におかれ、
「出たおしっこはこれに入れて、トイレの蓄尿袋に入れてくださいね」と、看護師さんに言われた。
トイレには自分の名前が書かれた袋がおいてある。自分のほかにも何人かの名前が書かれた袋が並べられているらしい。
手術してまだ24時間もたっていないのに・・・
もう自分で歩いてトイレに行かなくてはならない。
胸には吸引のチューブが入ったままなので、トイレに行くときには、その管から空気が漏れないように、器具ではさんで移動しなければならない。
「クランプの道具はここにおきます。、判っていると思いますので、自分でクランプして歩いてくださいね」
私が医者とわかっているので、説明は要らないと思っているらしく(実際わかっているのだが・・・)実にあっさりしている。
病室はトイレの斜め前で歩く距離は短いのだが、初めて歩いていくトイレは、とてつもなく遠く感じた。
何キロも先にあるような感じがする。寝巻きの前をはだけ、胸からの管をぶら下げ、やっとの思いでトイレの前に立ち、
尿瓶の中におしっこを出す。
出る瞬間、おちんちんの先に「ぎゃ~」と叫びたいほどの激痛が走る。情けなくて、涙が出そうだ。
尿瓶にたまった尿を、自分の名前が書いてある袋に流し込む。
また病室まで、のろのろと這うようにして戻った。
昼からはもう食事も出る。
流動食だ。腹部の手術ではないので、全部食べられるのだが・・・
飲み込んだ後、食事が流れていく感覚がやけにはっきりとわかる。
食べ物がしみるような、冷たいような不思議な感覚だ。
手術のとき、食道の周囲の組織もとってくるので、食道がむき出しになっているせいなのかもしれない。
次の日、頭もだいぶしっかりしてきたので、改めて、妻と母から、手術後の説明の内容を聞き出した。
肺の腫瘍を迅速検査に出したのだが、たまたま機械の調子が悪く、判断できなかった。肉眼的には癌は間違いない。
摘出したリンパ腺には転移は無かった!とのことだったらしい。
腫瘍の組織的な診断はつかなかったが、癌としてリンパ腺のカクセイを行ったようだ。
まあ、自分が執刀していても、この状況では癌の手術をするしかないので、そのこと自体は問題ないのだが・・・
それじゃあ、まだ組織的には癌と確定していないんじゃないか!
すっかり覚悟を決めていたのに・・・こんな話を聞くと、あきらめの悪いもので、
摘出した腫瘍を良く調べたら、癌じゃなかったという可能性だって、まだ「0」ではないことになる。
もしかしたら・・・などと思い始めてしまう。
もちろん、逆にもっとたちの悪い腫瘍の可能性だってあるわけだ。
痛い思いをした割には、また精神的に中途半端な状態に逆戻りしてしまった。
「あきらめろよ!」という思いと「いや、もしかしたら!」という思いがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
自分でも、往生際が悪いと思うが、良い結果のほうにすがりたい思いはとめられない。
入院・手術体験記⑧
退院決まる!
早いもので、もう手術後半年が過ぎてしまった。
この体験記も、早く書き終えて、気持ちを切り替える時期にはとっくに来ているのに・・・
なかなか書き終わらない。もうそろそろ終わりにしよう!
この日は車椅子に乗せられて、胸のレントゲン写真を撮りに行った。
前の日はポータブルで、自分のベッドに寝たままで撮影したので、一歩前進した。こんな小さなことで、回復を実感する。
夕方の回診のとき、さっき撮影した胸の所見を見た先生から「順調に経過していますから、胸のドレーンを抜きましょう!」といわれた。
えっもう!?という感じだ。
外科で、乳がんの患者さんなどではドレーンからの量が数十cc程度にならないと抜かないが・・・
200cc以下になりましたから、大丈夫でしょう・・・とのことだった。
感覚的に、あまりの違いにとまどったが、管が一本でも少なくなるのはいいことだ。動きも自由になる。
ドレーンの入っている部分に局所麻酔が打たれ、傷をふさぐ準備をしてからドレーンが抜かれる。
「いきますよ!」といわれ、息を止めると、ズロズロ・・・と管が抜けていくなんともいえない感覚がある。
いともあっけなく、胸の管は、術後わずか2日目でとれてしまった。
「あとはどんどん深呼吸をして、歩いてくださいね!」と、いわれても・・・・・そんなに簡単には行かない
体から余計なものが抜けていくのは、確かに治っていく感じはしてくる。
「明日、具合がよければ帰りますか?」と言われた。
「え~~!もうですか?」
さすがにこの状態では自信がない。「週末まで様子を見させてくれませんか」と、お願いした。
食事は全部食べられるのだが、点滴の量が減らない。
水もどんどん飲んでいるし、間食も、やることも無いのでがばがば食べている。
そのせいか、尿の量がものすごく多い。
トイレまでソロソロ歩いていき、バックの中にためるのだが、ほかの患者さんのバックの量に比べても、断然多い!
こんなところで勝負しても始まらないのだが、パンパンに膨らんだ袋が、なんだか頼もしい。
ただ、しまいには入りきらなくなってしまい、こっそり捨ててしまった(ごめんなさい)
夕方、宮崎教授から花が届いた。殺風景な病室が、急に華やかになる。大学に御礼の電話をした。
「さすが髙橋、しぶとく回復も早いな!」との言い方もなんだか懐かしい。
それにしても、ここの病院の食事はおいしい!
熱いものは熱く、冷たいものは冷たくでてくる。
やはり、病院食はこうでなくてはいけない。配膳車ががどんなものなのか、興味があり、食事のときに廊下に出てみたが・・・・でかい!
とても、平和病院の配膳用エレベーターには入らない・・・
退院したら、何とかして平和病院の食事もこんな風にしてみたいと思った。
仕事のことを考えだしたところを見ると、少しは余裕が出てきた証拠なのか、とも思った。
金曜日、術後3日目だ。胸の写真は、歩いて放射線科まで撮りに行った。
私を見た放射線技師がにっこりしながら行った。「あ、髙橋さん、今日は自分で歩いてこられましたね!、回復が早くてよかったですね」
正直言って驚いた。言われて初めて、ああ、そうなんだ。順調に治っているんだ!と実感した。
外来、入院と、たくさんの患者さんがいるだろうに・・・
患者の変化をとらえて、声かけができていることに感心した。
実際、この一言は、今回の入院中で一番うれしかった。本当に涙が出た。
病院の職員のたった一言の声かけが、こんなにも一人の患者に喜びと、勇気を与えることができるんだ、ということを痛感した。
いままで、接遇とかには気を使っていたし、職員にも教育してきたつもりだが・・・それはもちろん大切ではあるけれど、
本当に大切なのは、今、自分がかけられたような、何気なく出る一言にこめられた、ささやかな気持ちなんだということがよくわかった。
平和病院の職員も皆が、患者さんやご家族の方たちに、こんな声かけをしてもらいたい!そう思った。
創の痛みはしょうがない!ただ、横を向けない。体の向きを変えようとすると、猛烈に痛む。創の痛みというよりは、肋骨の部分がいたい。
手術中に、術野の視野をよくするため、肋間をかなり広げるためなのだろう。
レントゲンの所見は問題が無いとの事で、ついに次の日、退院が決まった。
もちろん退院はうれしい!ただ、不安も大きい。まあ、いざとなったら、平和病院の患者になればいいか・・・とも考える。
確かに創の処置以外にはやることも無く、処置だけなら、平和病院の外来でも可能だ。
歩くのもやっとの状態で、大丈夫なのかとも思ったが、結局、退院を決心した。
入院・手術体験記⑨
一番初めにやったこと
CTの所見を見て、検査を受け、がんの告知を受け、手術まで・・・・
今思い出してみると、あんなに長く感じたのに、いざ入院してから退院するまでは6日、
手術後5日目での退院は、あっという間に過ぎていった。
術前はいろいろなことを考え、悲観したり、自分を叱咤激励したり・・・
まともな精神状態を保つのに苦労したが、手術後は体のきつさ、痛みなどに紛れ、余計なことも考える余裕が無かった。
とにかく、自分の肺の中にできたできものは、最終診断はついていないものの、ひとまずはなくなったわけだ。
とにかく、後は体力の回復を急がなければ・・・ただ、想像していた以上にダメージが大きい・・・
入院前に宣言した復帰予定を、少し先にしておけばよかったと思った。
とても電車に揺られて帰る気力も体力も無く、車で帰った。
退院した日は土曜日だったが、その日は下の子供の父親参観日だった。
最近は土曜日が休みの会社も多く、父親参観日や、運動会などの学校行事が土曜に行われることが多い。
平和病院は土曜日にも診療をしているので、今まではほとんど参加することが無かった。
ただ、今年の運動会は(6月にある)、手術が決まっていたし、
ひょっとしたら、子供の運動会など二度と見られなくなるかもしれない・・・などと弱気なことも考えていたので、
休みをもらって見に行った。
子供たちは今回のことをどう捉えていたのか、今もってよくわからないが・・・
妻とも相談し、はじめは手術を受けることだけを言って、術後は「なんでもなかったよ」というストーリーだったのだが、
上の子は、ただならぬ気配を感じていたのか、妻に盛んにカマをかけていたようだ。
ある日の夕食のとき、あまりにさりげなく、
「ねえ、お父さんの病気って、癌なの?」と聞いてきたので・・・
思わず「うん、そうかもな・・・」と言ってしまった。
しまった!と思ったときにはもう遅く・・・
「そうなんだ・・・」と黙り込んだ。「いや、まだ決まったわけじゃなく、そうだと困るから手術をするんだ」と言っても後の祭りで・・・
今回の騒動では、一番の失敗だったと、今でも悔やまれる。
下の子は手術の話を聞いて、声を出して泣き出した。
これには自分でも猛烈にショックを受けた。
その下の子が、「今日は学校行かなくちゃ行けないのかな」と、退院の日の朝、言ったらしい。
学校旅行のことを、生徒たちで決める様子を参観するとのことだった。
退院してくる父親が気になるのか、
誰も見に来てくれないのが嫌なのか・・・・
自宅に着いたのは10時半ころだった。
今から学校に行けば、参観が終わるまでに間に合うかもしれない。
「このまま学校に行こうか」
たかが参観日なのだが、なぜかその日は不憫な気持ちが強く・・・・
何が何でも行ってやらなくては!という気持ちになっていた。
荷物もそのままにして、すぐに学校に急いだ。
急いだといっても・・・学校まではふだんなら歩いて15分くらいだが・・・・
坂を上って一山超えなくてはいけない場所にある。
正直、坂道は厳しかった。いつもなら平気で上れる坂なのに・・・
息が切れてあがれない。歩幅を少なく、亀のようにのろのろと、ハアハア言いながら倍以上の時間をかけて、何とか学校までたどり着いた。
残りの授業時間は半分くらいになっていたが・・・
なんとか、授業が行われている体育館にたどり着いた。
子供は、はじめは気づかなかったが、目が合った。
手を上げると、子供の顔が変わった。目立たないように手を上げて笑った。
ほんとうにうれしそうに見えた・・・・普通の教室での参観で、立ちっぱなしだったら、少しきつかったかもしれない。
さいわい、体育館だったので、腰を下ろすことができた。暑い日だった。
終わるまでがとてつもなく長く感じた。
体力が落ちているのを嫌と言うほど思い知らされた。
授業が終わって、子供がそばにやってきた。
「父さん、お帰り、来ないと思ってたから・・・びっくりした」
「ただいま!」・・・ああ、帰ってきたんだな・・・と思った。
無理して来て良かった・・・心からそう思った。
入院・手術体験記⑩
残念!やはり・・・
退院日、授業参観を終えて自宅に帰ってきた後、
ガーゼ交換のために平和病院を受診した。
1週間前は、まだ仕事をしていたのに・・・
こんなに早く手術を終えて帰ってこれるとは思わなかった。
夕方近くだったが、何人かの職員が、驚いたような顔で迎えてくれた。
努めて背中を伸ばし、なるべく早足で歩いている自分に気づく。
職員たちも、こんなに早く退院するとは思っていなかったようで・・・
何人かが見舞いの寄せ書きを書いてくれて、神奈川病院に送ってくれていたのだが、
届く前に、本人は退院してしまったため、病院から自宅に連絡があった。
1週間後には再受診することになっていたので、そのときまで病棟で預かってもらうことにした。
退院後、しばらくは体がかなりきつかった。
数日はほとんど横になっていたのだが、何しろ背中、肋骨の部分の痛みが強く・・
寝返りも出来ず、頭を高くしていないと呼吸も苦しくなってくる。
本当にこんな状態で退院してきて大丈夫だったのかと、正直、かなり不安だった。
自分で宣言した復帰時期までは2週間しかない!
体力を付けなければ・・・と、気持ちはあせる。
毎日、新横浜の国立競技場まで出かけ、リハビリがてら周囲をウォーキングすることにした。
はじめの1週間は、自分でもだいぶ体力が戻ったような感じがしたのだが・・・
そのうちだんだん息苦しさが出るようになり、咳も出るようになってしまった。
今思うと、この時期、無理をしたため、胸水が増えたようだ。
結局、この咳には、かなり長い間悩まされることになってしまった。
体重も急に増えてしまい、体全体が水ぶくれのような状態になった。
退院後は久々の長い休み・・・映画でも見て、おいしいものを食べに行き・・・
などと、いろいろ考えていたのだが、そんなことも出来ないまま、あっという間に復帰の時期が近づいてくる。
復帰前に、神奈川病院を受診した。
切除した肺やリンパ節の病理結果が出ているはずだった。
はじめて肺のCTをとってから、長い間、確定診断がつかない状態がつづいていたが・・・
これでやっと自分の置かれていた状態が判明する。
予想どうりの癌なのか、もしそうなら摘出したリンパ腺の転移状況はどうなのか・・・
組織型は、浸潤の程度は?
追加の治療は・・・
この結果によって、これからの人生の状況は大きく変わってくる可能性がある。
外来につくと、まず胸部のX線検査があった。右の横隔膜が想像していた以上に上がっている。
肺の膨らみはまあまあか・・・
加勢田先生はX線写真を見て「まあまあ、いいんじゃないですか」と言った。
「先生、病理の結果は・・・?」
「ああ、少し遅れているようで、まだ結果が返ってこないんですよ、出たら先生のところにコピーを郵送します」
診察は創の状態のチェックがあり、あっという間に終わってしまった。またお預けの状態だ。
帰りに病棟に挨拶に行き、預かってもらっていた寄せ書きをもらってきた。
やっぱり、入院してたんだな・・・と感じる。
復帰後数日して、神奈川病院から速達が届いた。
一刻も早く開けて内容を見たい、という気持ちと、知りたくない気持ちが交差する。
はじめに見えたのはcarcinoma(癌)の文字だった。
やはり・・・一発大逆転は起こらなかったようだ。
高分化型腺癌、腫瘍径1.5cm、摘出されたリンパ腺(番号を見ると、けっこう広範囲にとってあった)には転移(-)
癌細胞は肺の表面には達しておらず、摘出された肺には肺内転移は認めない。
いわゆるステージⅠaという状態だった。
何も症状がなく、偶然見つけたことを考えれば、やはりラッキーだったのかもしれないが・・・
どう考えたって、癌になることはやはりアンラッキーなのだ。
どんな癌でも、5年生存率とか、10年生存率とかの統計が取られており、各施設で発表されている。
今、「87%」という、テレビドラマで乳がんの生存率を題にしたものがあるが、
残念ながら、肺癌の生存率はこの数字よりも低い。
この前、週刊誌を読んでいたら、肺癌の治療に関しての記事があった。
国立がんセンターの数字が出ており、
いまや肺癌は早期に発見すれば、4分の3の人たちが癌を克服できるのだ!
と、力説していた。
そうか、そんなに多くの人で癌は治るんだ!
ということかもしれないが、その数字は、残りの4分の1の人たちは5年生きられなかった・・・ということの裏返しなのだ。
確かに早いうちに手術を受けたことは良かったと思う。
ただ、自分がかかった病気は、常に再発や転移と隣りあわせなのだ。
それは一生やって来ないかも知れないし、すぐそこにいるのかもしれないのだ。
「生存率は、あくまでも統計上の数字にすぎません。どんなに進行した状況でも、手術をして、ず~っとお元気な人はいくらでもいます。
逆に、大丈夫だと思っても、意外に早い時期に再発や転移をおこしてしまう人がいることも事実です。
かんじんなのは、今しっかりと治療をし、その後は体力を整え、再発や転移をおそれず、
生活していくことで、私たちは定期的な検査をしながら、何があってもこれからもしっかりとサポートしていきますが・・・
それを決めるのはあなた自身の力であり、知っているのは神様だけだと思います。
一緒に頑張りましょう!」
私がいままで癌の患者さんに言ってきた言葉だ。
今、それを自分に返すしかない。
確かに、これからどうなるかは誰にも判らないのだ。判っているのは統計上の数字だけなのだから。
いまも、自分の外来には癌の術後の患者さんが何人も通っている。
その人たちは、それぞれの思いで、術後の1年、3年、5年、10年と過ごしているのだ。
その患者さんにはそれぞれの暮らし・思いがあり心の中の葛藤をすべて判ることは決して出来ないのだろう。
ただ、自分は、「なるようにしかならない!」と開き直って、
自分と同じような悩みや葛藤を抱えてるであろう(あくまで、感じ方は個人個人で違うだろうから、想像に過ぎないが)患者さんにとって
少しでも共感する部分を持ちながら、頼りにしてもらえる医師になるしかないのだ。
何が出来るのかはわからないが、ただ、出来れば避けたかった人生の不運を体験した医師として、
ある部分だけでも共感できる医師として接していける可能性はある。
今度の体験は、医師としての考え方に決してマイナスにはならないと思っている。
だいぶいたい思いをしたが、この教科書は誰にでも手に入るものではないのだ。
大事に使っていきたい・・・
早いもので今、術後8ヶ月、体調もずいぶん回復してきた。
癌になったこと、入院で体験したことを、忘れないうちに・・・と思い、書き始めたのだが、
今思うと、もうずいぶん思い出せないことも出てきている。
つらいことは意識して頭から追い出そうとしているのか・・・
あるいは脳の血流が悪くなっているのか・・・
これからも定期的な検査は自分でも受けていく。毎年5月に受けていたのだが、早いもので、その時期もあと3ヶ月だ。
入院・手術体験記も今回で終わりにして、新しい入院体験記など書くはめにならないよう健康に留意したい。
やはり、医者は治療されるのではなく、治療するのが仕事なのだから。
ここまでが、手術の前後に書いた部分です、自分で読み直してみて、
もうずいぶん時間がたっていても決して忘れることのない強烈な印象です
その後、毎年手術を受けた6月22日は日は自分の第2の誕生日として、命の大切さ、当たり前の日々の大切さを感じます。
緩和ケア医としての自分の働き方,考え方、患者さんや家族への接し方は、
この自分の経験が大きく影響していることを感じます
この後の文章は、手術後1年、2年と経過したときに書いた部分です
2年前の6・21
2年前の6月21日・・・入院した。
いつもはあまり思い出さないのに、その日は、時計を見るたびに、
あの日の今頃は手術の説明を受けていたとか・・・風呂に入っていたとか・・・いちいち思い出していた。
去年の今頃にも同じようなことを書いた。
書いたまま、そのままにしてしまった。
さらに一年たった後、読み返してみると、やはり今とは少し違ったことを考えていた自分がいる。
(1年前に書いたこと)
6月22日:去年の今日、手術をした。
6月21日にも、去年の今日、入院したんだ・・・と思い出した。
一年間、長かったといえば、長かった。
こだわるつもりは無かったが・・・
6月21日に、再発や転移が無いかを確認するため、CTを撮った。
ひとまずは無事に生きている!
「1年生存率」の数字を下げる側に回らずにすんだようだ。
去年の今頃は猛烈に暑かったことを思い出す。
同じ時期、同じようなことが繰り返される。
6月の社員総会、理事会・・・3期目の理事長に推挙された。
退院の日、何が何でもとの思いで出かけた息子の父親参観日も、
今年はせっかく土曜日の午後にあったのに、外来が終わらず見に行ってやれなかった。
賞与の支給式・・・昨年はメッセージをメールで送っただけで、授与式は行えなかった。
今年は予定はしていたが、手術予定の患者さんの麻酔導入に時間がかかり、
せっかく集まった幹部職員を待たせた挙句、すっぽかしてしまった。
同じような行事も、今年は少しずつ違って動いていく。
一年たっても深呼吸した時の右脇の傷の引きつれた感覚は治らない。
「傷の痛みで天気がわかる」と、何人もの患者さんが言っていたことが「本当なんだ」とわかる。
自分が手術を受けた後にも、私の外来に通院している癌の患者さんは大勢いる。
体調を聞き、診察をし、時に検査をし、再発や転移が無いかを調べる。
抗癌剤をずっとのみ続けている患者さんもいる。
診察室にいる短い時間以外、それぞれの患者さんには、それぞれの手術後の長い時間がある。
その患者さんの周りには一緒に暮らし、患者さんを支えるご家族がいる。
手術後の、病気に対する思いはその人達の数だけいっぱいある。
3年、5年、10年・・・・
時間がたつにつれて、その思いは変わっていくんだろうが・・・
検査のたびに、その結果が出るまでの不安は、おそらくなくなる事なんて無いんだろう。
「異常なし」の結果を説明できる時・・・
本当によかったですね!と、こちらも胸をなでおろす。
6月22日はさすがにず~っと1年前のことを思っていた、
最近はあまり自宅で飲むことも少なくなったが、久しぶりに「セブンクラウン」を口にした。
来年の今頃は今年と違った感覚で迎えているのだろうか・・・
最近は以前に比べ、1日、1月、1年という長さを実感するようになったように思う。
景色を見ていても、今見ている景色は、もう見ることが無いかもしれない・・・と思うと
旅先でのなんでもない麦畑の風景や、大豆の畑でさえも意識して見る様になっている。
たぶん・・・きっといいことなんだろう。
子供たちと過ごす時間、今までは当たり前のこととして意識もしなかったことを、
意識して行うようになっているのに気づく。
誰でも自分のゴールがいつ、どのような形でおとずれるのかなどはわからないのだろうが・・・
健康だった時には決して意識していなかった「その時」を、より現実的に考えるようになっているのかもしれない。
もちろん、まだまだやりたいこともある。見ておきたいことも山ほどある。それでも・・・
そんな考えにはおかまいなしに、今日も1日が過ぎていく。
2年目もやはり入院した時を思い出した。
来年の6月21日もたぶん同じなんだろう。
病気になったことは運が悪かったが・・・
あの時、CTを偶然撮ったのは、今考えても運がよかったと思う。
あのまま気づかずに症状が出てから検査をしていたら、
たぶん今の状況はずっと深刻だったろう。
もしかしたら、今頃、また入院していたり、もっと悪い方向にだって行っていたかもしれない。
自分が手術を受けたすぐ後、私の外来に通っていた患者さんのCT検査で肺腫瘍が見つかった。
その患者さんも、特に症状は無かったが、以前に受けた他の手術の術後チェックで発見された。
発見された時の、しこりの大きさは残念ながら私のものよりかなり大きかった。
手術後には抗癌剤ものんでいたのだが・・・
先日の検査で別の場所にしこりが見つかってしまった。
再発だった。
癌の術後の患者さんは私の外来にもたくさん通っている。
中には不幸にも再発や転移をおこしてしまう人もいるが・・・
この患者さんの再発は自分にとってもショックだった。
ついつい自分と重ねてしまう。
自分と同じころ、同じ病気で、同じ手術を受けているのだ。
自分もそろそろ検査の時期になった。
検査はしなくてはならないのだが、そのままにしてしまいたい気もする。
もし検査で何かが見つかったら・・・との思いは検査のたびに頭をよぎる。
咳が何日か続くと、もしかしたら・・・などとも思う。
自分でも、「まったくだらしが無い!」とも思うが・・・これはたぶん仕方の無いことなんだろう。
「抗癌剤はのまなくてもいいんですか?」と、一度担当の先生に聞いたことがある。
「先生の場合はのんでものまなくても、予後には変わりが無いので、のむ必要はありません」とのことだった。
その代わり?朝鮮人参やらサプリメントやらをやたらにのんでいた。
「アガリクス」ものんでいたが・・・
発ガン作用がある!との記事が新聞に載り、大慌てでのむのをやめた。
そんなことはともかく・・・
生きている、仕事をしている、呼吸が出来る、ものが食べられる・・・
そんな、当たり前のことが、実はすばらしいことだということは、手術以来ずっと感じている。
その当たり前のことが、出来なくなるかもしれない患者さんを何とかしたいと思う気持ちは、
前よりずっと強い(と思う)
その患者さんを自分の姿に置き換えて考えてしまい・・・
その人の苦しみを取ることができたら、自分がもしそんなことになった時、
同じように誰かが自分の苦しみを取ってくれ、自分も苦しまなくてもすむかもしれない・・・などとも思っていた。
ただ・・・
少し前、私が在宅ターミナルにかかわり、喉頭癌で亡くなった患者さんが書いた言葉に
「善きことを、行いいれば善きことが、我が身に及ぶ思い甘きか」
というのがあった。
2年目の記念日、その言葉を思い出した。
6月22日、自宅に帰るとケーキが用意されていた。
ろうそくが2本立っている。
手術を受け、新しく命をもらって2歳の誕生日だから・・・らしい。
今、病院は大きなピンチにみまわれている。
2年目の感傷などに浸っている暇は無い。
1年前に比べれば、より現実に目を向けざるを得ない自分がいる。
こうして、毎年毎年6月21日を迎え、
ずっと先になって、ああ・・・そういえば手術を受けたんだっけ・・・
と言えるようになれば、それはとても幸せなことなのかもしれない。
3本目のろうそく
今年も6月22日になった。
手術を受けてからちょうど3年になった。
去年の6月21日は、朝からずっと、今頃入院したとか、手術の説明を受けていたとか、病院の風呂に入っていたとか・・・・
いろいろ思い出していたのに、今年は岡山で開催された日本緩和医療学会の教育セミナーに出席して、
朝から晩まで講習を受け、とんぼ返りで新幹線に3時間以上も乗っていたりと、
あわただしく過ぎていったせいで、ほとんど思い出す時間もなかったからなのか
それとも、3年間という時間が流れたせいなんだろうか・・・
ただ、22日にはやはりいろいろなことを思い出した。
手術当日の朝の天気のこと、前日の台風が過ぎ去って、風は強かったが、
真夏のような太陽が照り付けていた病室の窓からの景色・・・
手術室に入る前にストレッチャーに乗って見た長い廊下の天井、
手術が終わって病室で目覚めた時、ベッドサイドにいた母と妻の顔・・・
手術当日の夜の何とも耐え難い傷の痛み、尿道に入れられた管の痛み・・・
病理結果が出るまでの不安と期待と恐怖・・・
3年間は長い様でもあり、あっという間だったような気もする。
22日の外来には、自分とちょうど同じ時期に手術をした乳癌の患者さんがやってきた。
「私もちょうど今日で3年なんですよ!」
と、聞かれもしないのに言ってしまう。
「そうそう、入院や手術の説明の時、先生が、自分もこれから手術ですって言っていましたね・・・
あの時はずいぶん勇気づけられました」
同じ3年でもそれぞれの病気に対する思いも違うだろうし、
同じ時期に、同じ病気で手術をして、先日亡くなってしまった患者さんもいる。
とにかく、自分は今年も元気でいる。やらなくてはならないこと、やりたいこともまだまだある。
家に帰ると,娘がケーキを買ってきてくれていた。
ろうそくが3本、「Happy Birthday]の飾りも付いている。
新しい命をもらった3回目の誕生日なのだそうだ。
その日の夜、自分が死んだ夢を見た!
死んでいるのに普通と同じ様に話しもできるし、姿も見える。
ただ、だんだん見えなくなっていくから・・・と、見えているうちに何かをしようとしているのだが・・・
目が覚めた時には、何をしようとしていたのかは思い出せなかった。
その日はいろいろ考えたせいもあるんだろうか・・・
自分が死ぬ夢は、「いい夢」だと、いわれているようだが、複雑な感じだった。
翌日の23日は、セミナーに出かけたりしていたせいで、雑務がてんこ盛りだった。
4年目の初日、また、いつもの毎日が始まった。
当直だったのでPCを持参し、ホームページの更新でもと思ったが、PCを触る時間もなく、そのまま持って帰ってきた。
最近、やろうとしていることが少しずつたまっていくような気がしている。
何とか先回りして余裕を持ちたいところだが・・・なかなか追いつけない。
職員に、眉間のしわを伸ばす様にいわれてしまう事もある。
明日は少し深呼吸でもして、家を出ることにしよう!
寿命の目標
5月19日は父親の命日だった。
川崎の津田山というところに墓があり、今年も墓参りに出かけた。
父親が死んだのは昭和45年、自分が高校2年の時だった。
はじめに手術をしたのは自分が小学生の頃で、その後も長い間体調が悪く、母親はたいへんだったと思う。
毎年、この時期には自分もいろいろと検査を受けることにしている。
自分の病気が比較的早い時期に見つかったのは、今でも父親がCTの伝票にチェックをつけさせたからだと信じている。
5月にはいってから胃内視鏡、注腸造影、血液、尿検査、心電図などを受けた。
幸い、異常所見は無く、血液などは、数年ぶりにコレステロールも中性脂肪も正常値で、絶好調だった!
今年に入ってから体重が増えすぎ、一時は79.9キロになり、80キロの大台突破かと危ぶまれたが、
夜の食事量を減らし、昼も米の量を少なくよそってもらい、以前にも書いた「振動マシン」に乗りまくり、
77.7キロが続いた。
7のぞろ目で、縁起もいいので、もうこのままでもいいか・・・と思ったが、もともと75キロ台だったので、
さらにがんばった結果、最近は76キロ代前半をキープするようになった。
あとはCT検査を残すのみだ。
この6月で、手術後4年になる。さいわい今のところ再発や転移は無いようだが、
CTの結果を見るまでは毎年のことながら落ち着かない。
癌からの「サバイバー」と、自信を持って言えるのはいつのことなのか。
自分の寿命がいつまでなのかなどは、もちろん誰にもわからないが、
自分にはどうしてもクリアしたい3つの目標がある。
一つは、自分の父親より長生きすることだ。
父親が死んだ時は56歳、子供も小さく(妹はまだ小学生だった)、さぞかし無念だったと思うが、
自分は来年の1月で56歳、何とかクリアできるか・・・
二つ目は息子が、自分が父親をなくした年より大きくなるまで生きること。
今、息子は今、中学3年だ。高校3年、あと3年でクリアだ。
最期は、自分の母親より先に死なないこと。
母親は一人で自分と妹を育ててきた。父親が死んだ時、母はまだ42歳だったと思う。
ずいぶん苦労をかけたので、自分の子供を先に看取るなどの親不孝は何としても避けなければならない。
このことは自分が手術をしてから、ず~っと考えてきた。
いわば、寿命の目標だ!
もちろん母親には、いつまでも元気でいてもらいたいので、自分もまだまだがんばらなくてはならない。
来週にでもCTを撮ることにしようか・・・それとも手術日にあわせて検査をするか・・・
今年の6月22日、また昨年とは少し違った感覚で迎えるのだろうか・・・
この時期は、いつも「命」を意識する。
胸部CTに異常影!
今年もまた6月22日がやってきた。
手術をしてから4年がたった。
2年目の日、3年目の日、微妙に違った感覚で迎えたが、
今年も再発や転移がないか、チェックするためにCT検査を受けた。
毎年、胃の内視鏡や注腸造影も受けるが、肺や縦隔のリンパ腺をチェックするCTは、やはり一番気にかかる。
放射線科の読影日を選んで検査を受けた。
CTの検査台に上るのは、何回やってもいやな気がする。
この検査が終わったとき、人生がガラッと変わる可能性だってあるのだ。
「息を吸って・・・止めてください」
CTの台がゆっくり移動する。
はじめのスクリーニング撮影が終わったとき、技師長が慌てて撮影室に入ってきた。
なんだろうと思ったら・・・
「先生、変な影がいっぱい映っていますよ!!」
「え~~~~!」さすがに動揺するのがわかる。
「どんな影なの?」
「散弾銃に撃たれたような!」
「えっ、何それ?」
「何か貼り付けてます?」
てっきり肺に多発転移が見つかったのかと思ったら・・・・
そういえば、検査の前日、猛烈に肩と背中がこりまくり、ピップエレキバンをそこらじゅうに貼りまくっていたのを思い出した!
うっかり剥がすのを忘れてそのまま検査を開始してしまったようだ。
あわてて全部むしりとって再検査を受けた。
翌日には読影結果が出るはずだったのだが、外来の手違いで、自分のフィルムが読影に回っておらず、
結果がお預けになった。
もちろん、自分でもチェックをして、大きな変化は無いとは思っていたが、やはり気になる。
改めて結果の出るまでの数日は、やはり心穏やかと言うわけには行かなかった。
さいわい結果は「異常なし!」
結果のレポートは、通信簿で「オール5」をとるようにうれしい!
この安堵感はやはり格別なものがある。
「寿命の目標」にも書いたが、自分はまだまだくたばるわけにはいかないのだ。
6月22日、朝、目を覚ますと隣に寝ている息子がいる。
手術前、同じように隣に寝ていた息子はまだ小学5年生で・・・
今より体の大きさが半分くらいしかなかったようなイメージがある。
手術前の不安もあり、寝ている息子を抱きしめたことを思い出したが、
今はとてもそんな半端な大きさじゃない!身長だってその違いは10センチをきってしまったし、足の大きさも変わらなくなってしまった!
それだけ時間が流れたことを感じる。
当たり前のように始まる何気ない1日の大切さを、この日は改めて感じる。
肺癌ふたたび?
新病院移転前後のごたごたしている中、緩和ケアに関するいろいろな行事が重なった。
5月22日には横浜市立市民病院での緩和ケア研修会のサポート
6月22日には平和病院で初めて行う、対外的な勉強会(第1回鶴見緩和ケア研修会)
6月29日には関東労災病院で行われる勉強会に講師として呼んでいただいた。
7月9日、10日には横須賀共済病院で開催された三浦半島地区緩和ケア研修会のサポートで横須賀まで出かけた。
この研修会には、浦賀病院の副院長、私が平和病院に勤務した時、
同時に大学からローテーターとして派遣された奥野君が参加していたのには驚いたが・・・
7月13日には、名古屋で開催された日本消化器外科学会で発表があり、
7月17日には、みなと赤十字病院で開催された緩和ケア研修会のサポート、
そして今週は札幌で開催される日本緩和医療学会での発表があり、28日の午後から出かける。
(絶対呼ばれない環境でビールが飲める!)
これが終われば、ひと段落で、後は8月末に横浜労災病院で開催される緩和ケア研修会のサポートまでは少し息がつける。
毎年、6月は全身状態のチェックを行うことにしており、
血液検査、胃内視鏡、腹部超音波検査、胸・腹部CT、注腸造影をおこなう。
幸いにして異常所見はなく、無事に手術後7年目の6月22日を迎えることが出来た。
ちょうどこの日は鶴見緩和ケア研修会の日で、帰ったのは遅かったが、
妻と、子ども達がケーキを用意してくれていた。7歳の誕生日だ!
いま、平和病院の緩和ケア科の患者さんの25%が肺癌の患者さんで、
手術後順調に経過している患者さんは、緩和ケア科に紹介されてこないのだから、あたりまえといえば当たり前なのだが、
自分が関わる肺癌の患者さんの状況は、今の自分の状況が奇跡としか思えないような経過をたどることが多い。
どの癌の患者さんも、もちろんつらい状況であることには変わりないが、やはり肺癌の患者さんを見る時には、
いつも自分と重ね合わせてしまう。
そんな中、みなと赤十字病院の緩和ケア研修会でのこと・・・
研修会の中にはコミュニケーションスキルを勉強してもらうセッションがあり、
「バッドニュース」の伝え方をロールプレイを通じ
それぞれが、患者役、医師役、観察者となり、3つのパターンでそれぞれのスキルを評価するものがある。
シナリオはいずれも「手術不能な末期癌」であることを患者さんに伝えるように設定されている。
いつもはファシリテーターといって、参加者のロールプレイがうまく進行できるようにするのが役割なのだが、
たまたま自分の担当グループに欠席者が出てしまい、急遽、自分もそれぞれの役割を実際に演じることになった。
用意されたシナリオは「大腸癌末期」、「肺癌末期」、「乳癌末期」だが、基本的に、医師役が選択する。
この場合、患者役になる人が、あまりに役に入り込むと、感情がコントロールできなくなるケースもまれにあり、
親戚や、家族に癌患者がいたり、同様のケースを実際に体験した参加者には参加可能かを確認したりすることもある。
自分としては、はじめは全く意識していなかったのだが・・・・
自分のグループの医師役が「肺癌」を選択したため、自分は「末期の肺癌患者」の役割を演じることになった
医師から検査結果が告げられる。
「肺のほかの部分にも転移があり、手術は困難です。StageⅣの進行がんで・・・」
設定では、子どもはまだ小さく、患者はそこまでの進行がんとは思っていない・・・
自分のときも、子どもが小さかったな・・・などと、よけいなことを考え始めてしまう。
患者役として、うまく医師役がバッドニュースを伝えるようにしなくてはいけないとは思うが、
「そんなに進行した状態なんですか・・・」といったきり、次の言葉がなかなか出てこない。
これはまずい!と思ったが、
検査で「異常なし」とわかっていた後だったからよかったが、検査前だったらかなりのダメージを食らったかもしれない。
医師役は、抗癌剤治療も提案してくれたが、いつもみている、同じような状態の患者さんと重なり、
一瞬、まるで自分が再発したような感じも受けてしまった。
いくら術後7年経過しているとはいえ、あの時のことを完全に忘れることは無理なようだ。
立ち直れないようなダメージではもちろんなかったが、
これから何回か、いろいろなところで緩和ケア研修会があり、お手伝いすることも多いだろうから、
ロールプレイといえども「患者役」にはならないようにしたいものだ。
術後9年目の日
6月22日
自分にとっては忘れられない日を今年も迎えることが出来た。
9年前のこの日、自分は51歳で右肺の一部を失った。
今年はちょうど横浜で日本緩和医療学会が開催され、自分も口演発表があり、朝早くから会場のパシフィコ横浜まで出かけた。
この日になると、必ず思い出すのは、手術当日、台風一過の朝、朝早く起きて病室の窓から見た外の景色・・・
今まで見たこともないような真っ青な空と、木々の深い緑、まぶしいくらいの朝日
今も鮮明に思い出すことが出来る。
あれほどの青い空と、木々の緑は、それまでも、そしてそれからも見た記憶がない。
何か特別な思いが、網膜を刺激していたのかと思うほどだ。
平和病院の緩和ケア科に紹介されてくる患者さんの約25%は肺がんの患者さんだ。
年間600名以上の新しい患者さんが来院されているので、単純に計算しても150人は自分と同じ病気の患者さんと巡り合う。
その患者さんの多くが、発見時には手術が出来ず、抗がん剤の治療や放射線治療となり、あるいはそれも出来ず
再発、転移が見つかり、痛みや息苦しさを感じ、短い間にお別れになってしまう場合も多い。
あのとき・・・
病気が見つかり、手術が出来、さいわい再発や転移もなく、今まで生きてこれた自分と、その患者さんたちは、何が違ったのか・・・
分かれ目は何だったのか・・・たんなる運のよさなのか・・・
あの時、あと数か月検査が遅れていたら、おそらく、今、自分はこの世にいなかったろう・・・
いろいろ考えても答えは出てこない。
先日、在宅スタッフ向けの緩和ケアスキルアップセミナーで、受講者の方から質問が出た。
「時々、『癌になって良かった・・』という患者さんの話を聴くことがあるが、本当にそんなことがあるのか?
もしあるとしたら、どんなことなのでしょうか・・・?」
という趣旨のものだった。
今日、当直明けで、緩和ケア病棟の病室を回った時、入院中のTさんと少し長くお話をした。
膵臓癌の患者さんで、ご自分の病状は十分ご理解され、抗がん剤の治療を自らの判断で中止し。
自分のやりたかったことをこなし、最近入院された。
治療医からは、「抗がん剤やらないと死んじゃうよ!」と言われたとのこと・・・
抗がん剤はつらく、体力がどんどん落ちていくのを感じ、元気なうちに、やりたかったことをやりたい・・との思いで、
自らの意志で治療を中止し、
色々な場所に出かけ、趣味を楽しむことも出来たが、徐々に体力の衰えを感じ、ついに当院にたどり着いた。
「初めは、なんで自分が…って、思いましたよ。でも、考えてみたら、今までの1年間は、つらさもなく、好きなことをでき、
色々な人に巡りあうことが出来ました。心臓の病気や、脳の病気では、そんなことも出来なかったかもしれないと思えば、
自分はまだ癌でよかったのかもしれませんね・・・」
もちろん、癌になんて、ならないほうがいいに決まっている!
はじめて癌を告知された時に、ああ、よかったと思う人など誰もいないのではないかと思う。
そういう意味では「癌になってよかった・・」ことを探すのは、難しいのかもしれないと思うし、
もし、自分に再発や転移がおき、残りの時間が短いことを悟った時に、そう思えるのかと言われれば、まったく自信はない。
ただ、確かに、急変する病気に比べれば、発見の時期によっては、家族、友人との時間を過ごし、
仕事の段取りをつける時間が残されているが・・・
それでも、その間に自分の人生の理不尽ともいえる運命を、素直に受け入れられる人は多くはないのでは・・・と思っている。
癌の告知を受けると、自分の周りで、今までは当たり前と思っていたこと、自分の周りの景色、家族、日常の仕事・・・
あらゆることが自分の前から消えてなくなることを想像する。
そして、その「当たり前と思っている日常」の、大切さや価値を思い知らされる。
自分が手術の数か月後に初めて出かけた北海道の、何でもない景色さえ、もしかしたら、もう見られなくなる、
これが一生の中で最後のチャンスかもしれないことを思うと、その景色が、名画のように、素晴らしいものに感じられた事を覚えている。
家族や友人と過ごす1日、仕事ができる1日が、以前に比べれば、ずっと大切に思えるようになる。
どんなに忙しくて、「あ~めんどくせえ」と思っても、それが出来る自分は幸せなのだと割り切ることもできる。
「癌になってよかった」ことがあるとすれば、もしかしたら、そんなことなのかもしれない・・・・という答えをした。
手術が出来て、何とか今のところ、再発も転移もなく暮らせている自分に比べれば、
自分の目の前の患者さんやご家族は、あの時の自分より、心も体も何倍ものダメージを受けていると思わるが
そのつらさやショックの、ほんの一部分だけでも、かつて自分も同じように経験し、
それを知らされた時に妻や子供たちが流した涙を見たことのある自分は、
それを経験していない医師に比べたら、少しは患者さんやご家族の気持ちに近づける経験を積んだのかもしれない。
もしかしたら、そんなことも、自分にとっては「癌になってよかった」ことなのかもしれない。
毎年、この時期は、いろいろと検査を行うが、何年か前からどうもこの時期は、咳が長引く。
去年も、おととしも同じような症状があり、CT検査を受けるのが、ものすごく怖かった。
検査当日、出来上がった画像を見た瞬間、自分の人生が大きく変わる可能性があるのだ。
何年たっても、出来上がった画像を見る時の不安や恐怖は消えない。
今年は、少し早めに検査を受けたが、検査の後で同じような症状が始まった
(今はだいぶおさまってきたが、マスクをしていないと怒られた!
周りの職員が風邪気味になると「院長風邪」の感染源とさえ言われる始末だ)
さいわい結果は今年も異常所見は発見されず、自分にとっての新しい1年がまた始まった。
6月22日は、正月、年度初めなどとは違った、自分にとっての節目の日になる。
そんな日に緩和ケア関連の発表をした今年は、なにか特別の1日になった様な気がした。
テレビの取材を受ける!①
少し前のこと、自分が顧問をさせていただいているNPOの理事長から連絡があった
テレビ局から取材の依頼が来て、サバイバーの医療者を紹介してほしいとのことだったようだ。
患者さんやご家族のためになる企画なら、お役にたってもいいとお伝えし、その後直接メールで連絡を取るようお願いした。
「がん」は最近芸能人が次々とカミングアウトし、視聴者の関心が高いのだろう
今回もがんにかかり、その後社会復帰している医療者ということで白羽の矢が立ったようだ
自分のほかにも医師や看護師、芸能人など何人かの取材を行い、その様子を放映し、
がんにかかった人、そうでない人にも何らかのメッセージを・・・という企画らしい。
自分は知らなかったが、テレビ東京で放映されている番組の秋のスペシャルとのことだった。
とりあえず、担当の人とアポを取り、病院で話を聴くことになった。
当日は3人がやってきて、番組の内容、どのようなことを伝えたいか、
私がどのようなことを話したり伝えたらいいのかを聞いてみた。
癌になって何を感じ、どう対応したか、その時の様子は、何を支えにしたか、その時のエポソードは
現在がんを克服して何か変わったか、何を支えにしているかなどなど・・・
自分だけではなく家族が何を感じたか、どう伝えたか、も取材したいとのことだった。
その日は簡単に話をして、後日正式に依頼するかの連絡をくれるとのことだったが・・・
何日かして、ぜひ取材をさせてほしいとのことになった。
まあ…根がミーハーなので、つい乗り気になってしまう。
テレビはずっと前、「所さんの目が点」に2回ほど、ほんの何秒か写ったことがあるが(病院で撮影が行われたため)
今回は少し長い取材になりそうな感じだった。とりあえず病院の中で話を聴きながら撮影もしたいとのことで、土曜に来てもらうことになった。
院内の施設使用なので事務長にも話を伝え、スタッフも付き合ってもらうので、看護部長にも調整してもらうなど、けっこう大事になってきた(つづく)
テレビの取材を受ける!②
撮影は自分自身がインタビューを受ける部分と、俳優さんが当時(12年前)の自分や妻や子供や、
相談に乗ってもらった日産玉川病院の栗原先生役を演じた「再現ビデオ」で構成されるとのことだった。
取材も、再現ビデオの一部も平和病院で撮影されるとのことで、
患者さんがいる時間帯を避け、土曜の午後、日曜に行われることになった。
まずは自分がインタビューを受ける部分の撮影が行われた。
当直明けの日曜の朝8時半から、緩和ケア病棟モーニングカンファレンスの撮影が始まった。
そのあと、病棟ホールでの患者さんとの会話(患者さんは顔を移さずに後姿だけ)
看護師さんも患者さんも、撮影に協力するという承諾書が必要になる!
外来で、当時の自分のレントゲンフィルムを見ながら、外来の診察室、院長室、手術室など・・・
場所を変えながら、当時考えたこと、診断までの様子、家族への告知、手術までの経過、手術後の様子などなど・・・
ディレクターさんが質問した内容に答えていく。
出来れば奥さんと娘さんにも話がききたい、自宅での食事風景などもとらせてもらえれば・・・
などの話もあったが、妻が「絶対に写りたくない!」とのことで、そのシーンは撮影されず、没になった。
どうやら食事に気を付けたこととか…に話を持っていきたかったようだ。
実際の放映では私が映る前の部分に、同じようなサバイバーの先生が出演し、
食事に関して語っており、自宅の様子も奥さんと一緒に写っていた。
かなりの豪邸で、それを見ていた妻は、
「あ~よかった!、うちみたいなこんな狭い場所で、食事だってどこにでもあるようなもんだから、撮影されてたら大恥かくところだったわね!」
と、胸をなでおろしていた。
それはともかく、
病院での撮影は5時間以上におよんだ。
さらに、今ストレス解消法として何をしているか・・との話になり
大学時代のサークルの仲間とバンドを組んで練習していたり、サックスを習い始めていることを伝えると
練習風景(バンドは銀座、サックスは新横浜のカラオケボックス)を撮影したいということになり、
この部分は別どりで、違う日にさらに各1時間以上かけて撮影が行われた。
バンドの練習は当直明けの日曜の午後、銀座のカラオケボックスをテレビ局が予約してくれて
何時もより広い部屋で練習できたのでラッキーだった!
バンドの仲間には事情を説明し、また承諾書を書いてもらい、練習風景を撮影された。
練習している曲はオリジナルもあり、自分の作った曲が、全国ネットで流れるのか!!との期待もあり
熱を入れて練習したが・・・・・
さらにサックスの練習風景も、実際のサックスを吹いているところを撮影され、その場でのインタビューも追加撮影された。
それぞれが2時間近くは撮影していたので、総撮影時間はかなりの時間になった!
サックスは気合を入れすぎで、きれいな音が出ず、できれば流してほしくない状況になってしまった。
カラオケボックスも予約してくれ、待ち合わせをしたが、いつも行っている店の店員さんが、
サックスの撮影と聞き、「有名な方だったんですね!」などと言われてしまい・・・
返事に困った!
初めの話では、スタジオ収録に来て、サックスを吹かないかとも言われたが、さすがにビビッてお断りした!
自分のインタビューが撮影された翌週の土曜には再現ビデオの撮影が病院であり、
実際の撮影をすべて見ることが出来た。(つづく)
テレビの取材を受ける!③
自分の再現ビデオが撮影されるという、何とも不思議な感じだったが、
自分役の俳優さんももちろんだが、妻役の女優さんも病院にやってきた
「イメージが似ている」俳優さんを選んだとのことで・・・
実際の俳優さんとのツーショット写真も撮ることが出来た!
ふだんは画像も電子カルテで見るのだが、
実際の自分の病変のX線写真も、シャーカステンにつけて撮影された
気管支鏡の検査の手配をしてくれたり、治療の相談をした日産玉川病院の
栗原先生役の俳優さんも来て、告知やら、妻に病気のことを話す場面などが撮影されていく。
自分役の俳優さんが、妻役の俳優さんに伝える場面・・・
もちろん撮影は平和病院で撮影されているので、当時とは全く違う雰囲気ではあったが・・・
遠くから、妻への告知の場面が撮影されている2人を見ていた。
夕暮れ時の少し暗くなりかけた人気のないホール
病気のことを妻に告げる自分!
もう10年以上前のことだったし、普段はもうあまり思い出すことも少なくなっていた場面が、現実に目の前で再現されていくのを見ていると、
初めはミーハー的にはしゃいでいたが・・・あれっといった感じで、何だか無理やりタイムスリップさせられたような気分なってしまったのには驚いた。
そうだよな・・・そうだったよな・・・やっぱりしんどかったよな・・・などなど・・・実際の放映ではどんなイメージになるのかその時にはわからなかったが、
今では日常生活の中に紛れていた、少し辛かった時間の想い出がよみがえって複雑な想いだった。
手術場に運ばれる場面も手術室を使って撮影された。
あの時、横になって流れていく天井を見ていた感覚、麻酔医の顔、遠ざかる意識の感覚までがよみがえる。
自宅での場面や退院した日に出かけた息子の授業参観の場面などは、別の場所で撮影されるらしい。
かなり長時間(土曜の午後を使って、夜まで)撮影は行われ、後は編集、放映を待つばかりとなった。(平成29年4月30日)
テレビの取材を受ける!④
実実際の放映のことを書こうと思いつつ、フェイスブックの更新はするのにHP更新がかなり滞ったせいで、かなり前のこととなってしまい、記憶もあいまいになってしまったが・・・
放送の日は家族全員でテレビの前に集まり、どんなものになっているのか(事前に確認はさせてくれない)ドキドキしながら画面を見つめた!
癌にかかった医療者が何人か登場する中のひとりだ
他の人たちは、食事療法が主な内容だったりしていたが、自分は「家族への告知」に焦点があてられた構成になっていた。
妻にはどう伝えたか、その時の反応は・・・子供たちにはどう伝えたか・・・
実際の放映時間は10分くらいだったか・・・その中には再現ビデオも含まれるので、自分の画像が流れるのはもっと少ない
妻や娘や息子は写真で登場するだけで、後は再現ビデオだ
息子役や娘役のタレントも「写真と似たような感じの子役」を選んだとのことだが・・・
娘は、自分役のタレントさんに対抗意識を燃やしたのか・・・
「え~~っ、これが私なの? 絶対あの頃の自分のほうがかわいかったよ!とその点ばかりに集中し、話の内容は入ってこない様子だった。
息子を演じた男の子は結構イケメンだったのでそのことも気に食わないらしく、「ずるいよ!」と、おかんむりだ
病気がみつかった時の気持ち、家族への告知など・・・実際のその時の気持ちは、このページにも、「入院・手術体験記」として詳しく書いてあるので、
もし興味があれば見ていただきたい!
サックスの演奏場面は全面カット、サックスを「持って」語る部分が数秒!
銀座で撮影した、バンドの練習場面も2時間近くカメラは回っていたのに、
実際に写ったのは10秒くらい!に編集されていたが・・・
患者さんと話している自分の顔が結構気に入ったので(写真の真ん中)講演のスライドやFBのプロフィール写真に使っている
いちばん印象的だったのは・・・目の前の妻が、告知の場面を見て、急に涙ぐんだことだ
すいぶん昔のことになったようでも、やはりその時の印象は妻にとっても強烈だったことを改めて感じさせられた。
その後・・・放映があった数か月は、多くの患者さんから「先生テレビ見ましたよ」と言われた。
初めて受診する緩和ケア科の医師が、同じような病気を経験しているということは、それなりにインパクトがあるようだった。
その意味では、受診のハードルを少し下げられたのかとも思う。
いずれにしても、病気なんてならないにこしたことはないが、緩和ケア医となった大きな転機になったのは間違いないのだから・・・
このテレビ番組で、「病気になった自分」を改めて見直せたことはよかったのかもしれないと思った。
HPに書いてきた自分の病気に関する記載をまとめてみました
今になって読み返してみても、当時はかなり厳しい思いもしていたことが鮮やかに思い出される
幸いにして肺癌の再発の兆候はなく、68歳になった今でもまだ現役で仕事もできている
まあ・・何年か前に心臓にステントを入れる事態になり、何日か入院し、今も内服を続けている以外は大きな体調の変化もないが・・・
最近は自分が年を取ってきた分、自分と同年代や、年下の患者さんと接することもずいぶん増えてきた感じがする
旧病院の「外科外来」からずっと外来診療に通ってくれて、今は「予約外来」として2か月ごとに診察している患者さんも20人位になってしまった
自分と同じ時期や後に病気になり、励まし合ってきた患者さんたちの中にも、先に旅立ってしまっている方も多い
人間は誰もが何時かは大切な人と別れ、旅立っていくが、天国では(行けるとしたら)緩和ケアは必要ない世界だろうから、その時になったら何をしようか…などと考えることも増えてきた。
毎年400人を超える患者さんとお別れすることを15年以上続けている。それぞれの患者さん、ご家族とのかかわりは、それぞれ違っているが、いつも思うことは、「人は生きてきたように死んでいく」ということだ
病気になる前、我々がかかわるず~~っと前からのその人の生きざまが、その人がこの世を去っていくときの姿をきめていく
そういう意味では、毎日毎日の生きざま、日々の「あたりまえのお様な生活」が実はすごく貴重であることも感じさせられる
最近自分で作る歌も、以前とは少し違って「大切なな人を人を想う」感じの曲が増えてきているように思うが・・・
コロナ騒ぎが落ち着き、当たり前の日常が戻り、「バンド活動」が1日も早く再開できることを願い、1日1日を大切に過ごしていきたいと思う。
その後『集中」という雑誌で「医師が病気になって感じた事」をテーマにして取材を受けた
その後内容は「患者になった名医たちの選択」として
医療ジャーナリストの塚崎朝子さんが朝日信書に執筆し朝日新書から発売され、今も書店に並んでいる
サブタイトルは「名医18人、それぞれの決断!」
名医かどうかはともかく・・・ご興味あれば手に取っていただきたい