目次
入社式
4月1日、新年度が始まり平和病院にも新しい職員が仲間入りした
今年、緩和ケア科の医師に移動はなく、いつものような1日になったが・・・
入社式の準備で朝からあわただしい雰囲気になっていた。
昨年度までは、まだ理事長職にあったので、新入職員の前で、
訓示を行い
新入職員代表が読む『誓いの言葉』(もう何年も文章はかわらない)を聞いてきたが、
今年は出席もしないので、管理職から降りたことを実感した日になった
ただ、やはり年度初めというのは、いつもと同じようでいて、やはり心の中で、これからのことをいろいろ考える!
仕事のこと、家族のこと・・・
平和病院の日本緩和医療学会の認定研修施設としての期間は来年度いっぱい
新たに申請の必要があるが、自分の暫定指導医としての資格も同じく、来年度まで
今いる若い医師が今年度は専門医、認定医資格にそれぞれ挑戦する
そろそろ若手中心の運営に移行していき、自分はサポートに回ることにして
世代交代をスムーズに行うことを目指していかなくてはならない
病院そのものも、いつまで今の形態を維持していくのか、新しい経営陣の手腕と熱意にかかっている。
自分の資格取得に関しては迷うところでもあり(試験受けておっこっちゃったらシャレになんない!)
今更試験もなあ…という感じもある。
もう「高齢者」の分類になったら、永久シード権みたいにしてくれればいいのにとも思うが・・・
日本消化器外科学会は、指導医の認定期限が切れるまでに65歳になったので、指導医資格は資格は期限なしになっている!
緩和医療学会・・厳しすぎないか?
と、愚痴っても始まらない、試験の申し込みは7月な
のでしばらく迷いそうだ!
それはともかくとして、今年度も、在宅ケアスタッフ向けの緩和ケアスキルアップ研修も引き続き開催されるし、
何しろ所属しているバンド「ハッピータイム」のオリジナル曲のCD作成、夢のライブも開きたい!
何があるのか予想もできない新年度!
体調を維持し、エンジョイしていきたい!(H31年4月5日)
修了証
先日、鶴見区医師会と行っている「在宅ケアスタッフ向け緩和ケアスキルアップ研修」初級編の最終回「事例検討が行われた
1年間をかけて6回シリーズでの開催、内容は
@緩和ケアとは
A対象者の理解
Bインフォームドコンセント
C症状と痛み
D薬(医療用麻薬など)について
E事例検討
になっている
先月は「中級編」の最終回である事例検討が行われた
初級編修了者が中級編を受講する仕組みになっている
仕事の都合で欠席になった回については翌年受講して、6回の講義を受けていただくと「終了証」がもらえることになっている
公的な証明書ではないが、鶴見区医師会の理事長から授与される
もちろん中級編の終了証もある
中級編終了までには2年間、私の講義を全部で9回聞いていただくことになる
毎回見直しを行い、ハンドアウトを渡し、後で見直し、復習ができるように講義録も作って渡すようにしている
DVDも作成して、レンタルも可能になっている
来年度も行うことになっており、現在、受講者の募集が行われているところだ
もう7年目を迎え、卒業生も300名以上になった。
地域の中で在宅緩和ケアを支える多くのスタッフが講習を受けることで、「緩和ケア力」の底上げを行うことを目指している!
今回は多くの医師会の先生がボランティアで参加してくださり、大変心強かった
これからも、もっともっと多くの人に出会えるのを楽しみにしている(H31年3月17日)
ミニコンサート?
先日緩和ケア病棟のクリスマス会があった
毎年、サンタのコスプレや、トナカイになったり、ツリーになったりしていたが、
今年は弾き語りを披露するので、ネクタイだけクリスマスバージョンにするという地味な格好で参加した
(以前、被り物をしながらギターを弾いてひどい目にあった思いがあるので・・・)
緩和ケア病棟のあと、一般病棟、療養病棟合同のクリスマス会が企画されていて、そこでも3曲歌を頼まれているのでギターとアンプを抱えて階を移動
そもそも歌うことは嫌いではないが、頼まれた時は、一応「え〜、うたうのお?」
など、仕方がねえなあ…みたいなオーラを出すというひねくれた性格!
嫌いじゃないけど、むちゃくちゃあがり症で声が震えるという悪条件の中
結構人数が集まっていて、職員なども聴きに来ている
オリジナルの曲3曲、いつもバンドで歌ってる
クリスマスの夜に
小さな花
風になるんだ
を歌わせてもらった
「小さな花」は以前、緩和ケアの講演を頼まれた時にギターを抱えてでかけて歌ったし
深谷赤十字病院の講演の時も七夕コンサートに参加させてもらって歌ってきた
その時は、全く知らない患者さんから
「励まされたので歌詞をコピーしてほしい」と頼まれたし、その日も緩和ケア病棟で歌ったとき、患者さん、ご家族の何人かが涙を流して聴いてくださっていた
自分でも気に入っている曲だ
昔の学生の時のサークル仲間と始めた「ハッピータイム」というバンドの活動も、もう2年くらいたった
どこかでミニライブでもやりたいね・・などの話は出るが実現していない
来年1月には、CDレコーディングをしよう!ということになった。
「小さな花」は曲の候補の一番目だ
病気になってつらい思いをしている患者さん、ご家族へのメッセージを込めた曲でもある
出来上がったら、病院の売店にでも置いてもらおうかな!
(H30年12月」28日)
サプライズ
娘から連絡があり、お疲れ様会で一緒に食事をしようと誘われた
孫にもしばらく会っていないし…というわけで。当直明けの日曜に浦安まで出かけて行った。
孫はまだ8か月なので横浜まで来るのが大変ということで、新浦安の駅前のホテルで食事会になった。
とうぜんおごってくれるのかと思ったら、企画担当は娘でも、会計は自分という状況らしく(あいかわらずしっかりしてるよな)
自分の理事長退任の会なのに、自前で清算ということになってしまった!(娘たちの分もおごり!)
孫はおとなしくしていないので、動き回ってもいいように和室での会食
最期のデザートのお皿を見るとビックリ!
なかなかしゃれたことをするじゃないか・・・
このサイトも理事長・院長になって始めたから、もうずいぶん時が流れてしまった、
始めたばかりのころは、「娘ネタ」も多く、「変なこと書かないでよ!」と、年中怒られていたが
そんなしゃけ好きの娘ももう、お母さんだ
感慨深いものがあるが、、日常生活と言えば、おおきな変わりはなく、毎日病院に出かけ、当直を行い、相変わらずバタバタしているが
若い先生たちが育ったのと、会議に出る機会が激減したので、けっこうゆとりはできている感じがする。
まだ「ご隠居」とはいかないが、少しずつ「人生のリハビリ」をしていければなあと思うけど、
「これからも頑張ってね!」とのメッセージももらったし、「よっしゃあ〜!」てな感じで頑張りまっせ!(平成30年7月20日)、
わーい!
外来が終わった時、主任とクラークからからケーキでできた感謝状をもらいました!
先日定年を迎え、理事長を退任したので、ふつうの定年のイメージだと、
職員から花束もらいタクシーが呼ばれて職員に見送られて職ほろりと涙を流しながら職場を去る・・・
みたいな感じだけど(当日、事務のスタッフからは花束をもらいました)
院長は去年の4月に退任し、この6月で理事長としての役は降りたものの・・・
会議の参加が無くなった以外は日常勤務がいままでと全く変わらないので
なんとも盛り上がりがなく、「定年」という感慨もなく
自分でも嬉しいのか悲しいのかわかんない状況でしたが・・・
この感謝状にはムチャクチャ感動
食べるのもったいない気もするけど
美味しくいただきました!
本当にありがと〜!(H30年6月29日)
4月25日は平和病院の創立記念日で、毎年午後は休診になる
その前日は毎年永年勤続表彰式が行われ、5年ごとに表彰される
最近思うことは、表彰される人数が増えていることで、今年は全員そろって写真が取れないほどの人数になった
もっとも長いスタッフは勤続45年の栄養課の職員だった
45年前と言えば、自分は20歳、まだ学生でサークルで歌ばっかり歌っていたときだ
そんな時にすでに、平和病院の職員となって、ず〜〜〜っと働いてくれていたことになる
まさにレジェンド!
それぞれに表彰状と記念品を授与する
45年も勤務したんだから、ハワイ旅行位はプレゼントしたいところだが、
厳しい病院経営なのでそうもいかない・・・
この式典であいさつするのも今年が最後となると思うと、少し不思議な気もする
いままで18回も「あなたは勤続○年、よく勤務に精励、努力されましたことは他の職員の模範になるところであり、ここに・・・」という具合で表彰を行ってきた
自分は平成3年入職なので今年で勤続27年ということになる
あと3年たつと、勤続30周年の表彰となることになる
いつまで勤務するのかは決まっていないが、さいわいこの6月で定年にはなるが、勤務は継続可能なので、
とりあえず、緩和ケア科の医師としての勤務は続けることになる
今回表彰された職員がさらに勤務を続け、新しく入ってくる職員の模範となり、病院を盛り立てていってほしい・・・
(平成30年4月27日)
公開勉強会
少し先の話ですが公開勉強会をこじんまりと開催します!
2月10日(土)午後2時から平和病院外来ホールで行います...
内容は
『がんと歩いていく』のテーマで
前半は緩和ケア科の私が『緩和ケアは怖くない』の題で、緩和ケアに対してよくある誤解についてお話します
後半は、私が顧問を務めさせていただいている、がんサポートコミュニティ NPO法人 Spes Nova理事長の塩尻さんが
『シニアのための患者力セミナー』と、なっています!
基本的には患者さん、ご家族のための企画ですが、近隣のスタッフの皆様もご興味ある方は是非ご参加ください!
参加費は無料、事前の申し込みも不要ですが、自前の勉強会なので、お弁当やお茶もご用意できませんのでご了承ください
考えてみれば・・・最近は他施設で講演を依頼されることも増えてきましたが院内での講演って・・・
6年前の新病院開設時以来!
糖尿病とか高血圧とか、認知症とか・・・
色々のテーマで今までも院内勉強会は開催されていましたが、平和病院の大きな柱である緩和ケアに関しては
今まで一回も開催していませんでした!
緩和ケアは治療が終わってからたどり着くところ・・・
緩和ケア科に行くように言われたら人生の最期が近い
緩和ケア病棟に入ったら二度と出られない
緩和ケア科にかかっていることを知られたくない
などなど・・・・
皆さんが思う緩和ケアに対する誤解を少しでも修正出来たら・・・
基本に立ち返ってお伝えしたいと思っています
ポスターは外来スタッフの手作り、イラストは自分で描きました!
アットホームなイメージで開催したいと思います!
年の瀬
もう今年も残すところ、あと2週間になってしまいました。
平和会の理事長として冬のボーナスも何とか支給することができました。
毎回平和病院では賞与支給式が行われ、各部署の長が一堂に集まり、理事長が挨拶を行ったうえで、
ひとりひとりに、部署全員の賞与(明細)を授与します
来年の夏の賞与は毎年7月はじめですから、私がこの挨拶を行う支給式はこれが最期になります。
毎回同じようなことを言ってきたような気もしますが、ここ何年間は、厳しい医療情勢の中
平和病院の経営も厳しさをまし、賞与は、毎年右肩下がりとせざるを得ない状況になっていましたが・・・
全職員の奮闘努力で、今期上半期の状況はやや持ち直しを見せており、これに報いるために、ごくごくわずかのUPとしました。
まだまだ予断はできず任期の最後の年はいい状態で後任にバトンタッチが出来ればと思います。
ただ来年度はまた診療報酬の改定もあり、厳しい試練は続いていきます。
平和病院の医師の定年は65歳ですが、実際ほとんどの意思が継続勤務となります。
わたしも来年の1月で65歳になるのですが,社員総会で理事交代があるのは今年の6月ですので
それまでは理事長職を継続する予定になっています。
その後は久しぶりに役職を離れ、経営に関与しない一人の医師としての立場になります。
もちろん、給料は残念ながら大幅にダウンしますが・・・
今まで定年になる職員の給与を決めてきた立場なので、自分だけそのまま維持というわけにもいきません。
退職金に関しても、経営責任者としてのリタイヤなので、どの程度にするのか、誰が決めるのか、微妙な立ち位置にいます
定年後の勤務に関しても、いくつかの施設からも定年後のお誘いもいただいていますが・・・
長年の環境が一変するのは、この年になる体力的にもしんどいのかもしれません。
とりあえずは任期まで自分の責任は果たしたいと思っています。
自分で立ち上げた平和病院緩和ケア科への愛着は誰にも負けないほど強いと思っているので、
スンナリとほかの施設に…というのも勇気がいりますし・・・
老害にはならず自分が必要とされる場所での勤務がいいのかとも思います・・・・
まあ、そんなことも、いろいろ考えてしまう年の瀬、来年は自分にとっても大きく環境が変わる年になります。まだまだ未知数ですが
今年は忘年会、講演など行事もまだまだ残っています
とりあえずは1日1日進んでいくのがいいのかもしれません。
理事長になったんですね?
病院のパンフレットも写真のように新しくなった!
じつは、以前から病院のパンフレットをリニューアルしようという話はあるのだが、
病院の経営状況は、それほど余裕があるわけでもない。
しっかりしたパンフレットを作るにはそこそこの費用もかかるし、
病院の運用状況はいろいろと変化することも多く、
その都度修正するのにもさらに手間がかかる・・・
というわけで、昔はA4サイズのしっかりとした厚いパンフレットも作製したが、
最近は「チラシ」状の三つ折りタイプのものになっている
そういえば、院長になって初めて作ったパンフレットは表紙に自分が美人の看護師さん2人に囲まれて微笑んでいる・・・
といったものだった。モデルさんを雇う余裕もなく、その当時かわいいと評判だった看護師さんと
当時内科のクラークだった子に看護師さんの格好をさせて撮影した。
今では見られなくなったナースキャップもかぶっているのが時代を感じさせる。
そのクラークは、しばらくたって、「看護師になる!」と奮起し、
実際看護師さんになり、今では近隣の基幹病院の循環器科でバリバリの中堅として働いている。
先日、その時のパンフレットが出てきたので久しぶりに見てみたが、
今の病床構成などとも大きく異なり、写真に写っているスタッフも大きく変わっている。
病院の時代に伴う変化はやはり記録に残しておきたい。
今の病院は多くの先輩方が培ってきた歴史の上に成り立っている。
4月25日は病院の創立記念日だった。今年で71年目を迎えた。
前日には永年勤続表彰式が行われ,もっとも長い職員は45年になった。
今年は5年、10年勤続の職員がものすごく多かったのも、長く病院を支えてくれる職員が増えてきているためでもあり、
平和病院に愛着を持ち、誇りを感じながら、さらに長く務めてくれることを祈りながら、理事長としての挨拶を行った。
昨年は70年目の節目の年であり、本当は記念誌の発行や、ささやかなパーティーでも開きたかったが。
実現できずに終わってしまった。75周年記念の時には新病院建設に伴う借入金の返済も大きく減っている(予定では)ので、ぜひ実現したいという夢はあるが、
その時には自分は病院の管理からは完全にリタイアしているので、どこまでかかわれるかは微妙なところだ。
話は戻って、院長交代後には、多くの患者さんから、「やめてしまうんですか?」という言葉を聞いた。
また、院内には院長交代の掲示があり、新しい管理体制として理事長、院長、副院長の名前が書いてある。
自分は理事長として掲示されているので、中には「理事長就任おめでとうございます!」といわれることもある。(職員からも!)
ただ、今までは理事長兼院長であったのが、院長職のみ交代したわけで、新しく理事長に就任したわけでもないんだが・・・
理事長の任期は来年6月までなので、、しばらくは法人経営上の苦労から解放されるわけではない。
新しい院長の手腕に期待して(もちろんサポートはするが)病院がますます成長する姿を、少し下がってみてみたい。
これからは緩和ケア科の後継者の育成にも力を入れていきたいものだ(H29年4月28日)
院長交代
平成12年6月から平和病院の8代目の院長を務めてきましたが、この3月31日をもって少し早目に退任することになりました。
17年間の長きにわたり70年の歴史をはぐくむ病院運営の舵取りを任せていただきましたことは、自分の人生にとって、とても勉強になりました。
自分と前任の院長は年齢が4〜5年しか違いませんので通常であれば、数年前にようやく院長になるところでしたが、
前任者の体調不良により5年間の副院長業務の後の急な着任となったこともあり、不安だらけのスタートでした。
隙間風が入り込み、雨が降れば廊下にバケツが並び、屋根裏にハクビシンが住むような老朽化した病院を少しずつ改築し、
ついには新病院の建設、移転という、なかなか経験できないことにも取り組ませてもらえました。
新病院建設時には資金面で行き詰まり、一時は新病院も、もう夢と消えてしまうのではないか、
自分の代で歴史ある病院をつぶしてしまうのではと、思い悩む時期もありましたが、何とか立ち上げることが出来ました。
病院建設時の構想の気胸センターは実現できませんでしたが、横浜脊椎脊髄病センターは今では日本全国から患者さんが治療を求めてくるようになりました。
病院のロゴマークも自ら考え、基本理念、職員の行動基準を作り、はじめての医療機能評価受審をめざし、
病院の様々な指針、マニュアルをほぼ新しく作るなど、今考えると、まだ若かったこともありエネルギーがあふれていたような感じがします。
あまり張り切りすぎたせいか、その後大病も患いましたが、術後もうすぐ13年、
さいわい再発や転移もなく過ごせています。この経験が、今の緩和ケア医としてのルーツになっているのかもしれません。
体力的にも精神的にもかなり厳しい状況の時に支えてくれた家族、相談に乗ってくれた同僚、
手術を担当してくださったK先生には改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
自分が着任以来、千葉大学臓器制御外科の関連病院として若い外科医の派遣を受け、
学会関連施設として、また自分も日本外科学会、日本消化器外科学会の指導医としての役目も果たしてきましたが、
残念ながら手術症例の減少とともに、平和病院は外科手術からは撤退するという苦渋の選択も味わいました。
外科医から緩和ケア医に軸足を移し、旧病院の一般病棟からスタートした緩和ケア科も、新病院には緩和ケア病棟を持つことも出来、
暫定指導医資格もいただき、学会の認定研修施設にもなりました。
緩和ケア科が独立したときは、年間の新規紹介患者さんはわずか54名でしたが、今では750名を超えるまでになり、
地域の中で緩和ケアの中心的施設となることが出来ました。
こうして書いていても色々な思い出があふれるように湧いてきます。
ここまで経営や病院運営などに全くの素人だった自分がやってこれたのも、自分を支えてくれた多くの病院スタッフ、
出資元の(株)東芝関連の皆さん、地域の医師会はじめ本当に多くの医療、看護、介護関連の皆さんのサポートがあったおかげだと思っており、
いくら言葉を並べても感謝の気持ちを伝えきれることはできません。
今後の病院の運営は。同じ大学医局の2年後輩の増田先生にバトンタッチをしますが、
来年の6月まで医療法人平和会(社団)の理事長職は継続し、法人の運営責任者としての任務を果たした後は
どのような形で医療に携わるかをゆっくり考えていきたいと思います。
おそらく生涯、広い意味での緩和ケアからは離れることはないでしょうがが、
平和病院緩和ケア科をしっかりと守ってくれる若い医師を育て、老害にならぬよう託したあとは、
今までなかなか十分に関われなかった在宅医療にも少し携われたらとも思っています。
「院長引退」といっても平和病院勤務をやめるわけではなく、当面の業務内容は今までと変わりませんが、
「院長」という重いリュックをおろし、身軽になって(年を取ってきましたので体力は落ちましたが)
周りを少し見まわし、また前を向いて歩いて行こうと思います。
皆様、本当にお世話になりました。今後とも「普通のおじさんに」なった緩和ケア医をご指導、サポートいただきますようお願いいたします。
最後の任期
先日、医療法人平和会の第80回社員総会が開催された。
この時期に行われるのは昨年度の収支に関して承認を得るという、会社でいえば株主総会みたいなものだ
報告後、いくつかの質疑応答があり、無事承認された。
また、今年は、理事、監事の任期終了に伴う人選が行われる(2年ごと)ことになっており、
その後、平和会の理事長を選ぶことになるが
他の理事の皆さんのご推薦、承認を得て、私が再度理事長に選任された
平成6年から理事となり、平成12年から理事長をおおせつかり
もう16年にもなってしまった
定年は65歳、今自分は63歳なので、今回の理事長の任務が終了する2年後には再任はなく、退任となる。
これからの病院経営はますます厳しくなっていくだろう
特に在宅への意向が声高にうたわれ、病床数の削減の嵐が吹き荒れるだろう
急性期を扱う病院の在院日数条件はさらに厳しくなり、おそらく一桁となり
それ以外の病院は亜急性期、慢性期の対応、在宅へのワンステップとしての役割に限られていき、
施設化への誘導も行われていくだろう
この2年間で平和会はどう変わっていくべきか、波に飲み込まれないためにはどうすればいいのか・・・
以前はもっともっと時代の流れを読もうとしたし、情報も集め、何とか、新病院も建設出来たが・・・
残念だが、期を読む感覚は、やはり院長になりたての頃のキレが無くなっているのを自覚している
自分の専門分野である「緩和ケア」に関しては、まだまだやらなくてはいけないこと、やりたいことが頭をよぎる
病院の今後の舵取りを行う人材の育成もそうだが、自分の力で立ち上げた平和病院緩和ケア科を安心して任せられる人材も育てなくてはならない
自分が緩和ケアにのめり込んだ分、副院長にはずいぶん病院の運営でサポートを受けて来ている
今は理事長兼院長の肩書ではあるが、院長はやはり自分のカラーをだし、経験を積むには1年2年での交代は望ましくないと考えている。
病院の顔、病院の看板はころころ変わるべきでないし、古びてはいけない
「院長」業務から離れ、「一人の緩和ケア医」としてのんびり時間を使えればいいのかもしれないが
そのベースとなる「病院」自体がガタガタになったら、せっかく地域の中である程度認識された(と思っている)立ち位置まで脅かされれる。
隠居になるのはもう少し先なのか・・・早急に考えなくてはならない(平成28年6月12日)
70年の節目
4月25日は平和病院の創立記念日になっている。
今年は節目の70周年になった。
10年前の60年目の年、元旦には毎日新聞の企画で、戦後60年目の平和を考える特集で、平和病院が取り上げられた。
「平和」と名前の付く施設の歴史を紹介し、改めて平和の意味を見直すという企画だった。
その後その企画は「僕らのまち平和町」という本になり出版された。
それから10年、
その時のことを書いた部分を読み返しても当時の平和病院と今の平和病院は10年の歳月を経て大きく変わった。
当時から院長は自分だったが、病床の構成、職員の数も大きく違い、
何より病院そのものが新しくなって移転した。
本当は今年、経営状態を安定させ、ささやかであっても70周年の記念式典をどこかで開催したかったが・・・
新病院建設は、新たな機能を生み、患者さんも増えたが、一方で借入金の返済も増え、経営の状況は相変わらず厳しい。
病院のパンフレットも新しくしようとず〜〜っと考えてはいるが、なかなか実現できず、
病院の責任者としては、合格点をもらえる状態ではない。
この10年間は自分にとって、「緩和ケア科の独立・充実」が大きな部分を占めた。
新病院には緩和ケア病棟を開設でき、学会の認定教育施設としても認められ、、自分は暫定指導医になれた。
看護師、薬剤師の教育も担うようになり、今年度からは横浜市大の医学部の学生教育にも関わらせていただけるようになった。
自分のやろうと思っていたことに集中しすぎ、病院全体に目が行き届かなくなってきていたのかもしれないと、反省している。
院長として自分の残された期間はもうずいぶん短くなった。
そろそろ新しい風を入れる時期になったと思うが、70年間地域に密着してきた病院は、どのような医療環境になっても歴史を刻み続け
80年、100年と生き残っていかなくてはならない。
平和病院に勤務して25年、ずいぶん時が流れた。
明日は特別な日でもあり、いつもと変わらない時が流れる日でもある。
病院に入るときには、少し深呼吸し、新たな気持ちでドアを開けたいと思っている(平成28年4月24日)
当直医がいない
平和病院は、大病院と違い常勤医師の数は多くない、
病院では毎日誰かが当直をしなければならず、看護師さんと違い「明け」で帰れるわけではない
そのまま次の日の日中の勤務を行って帰ることになる。
自分が医師になりたての頃は、給料が出なかったこともあり、他の病院の当直アルバイトが生活の糧になっていた
多いときは月に15日以上は当直しても平気だった。(今では考えられない体力だよね)
当直をすればするほど収入はよくなるのだが、当直をする病院によっては、むちゃくちゃ忙しく、
夜中だというのに救急車が縦列駐車して次から次へと患者さんが来て、それこそ一睡も出来なこともざらだった。
確かに大変だったが、当時は、いろいろな患者さんがやってきて、
肩の脱臼,、肘内障、あごの脱臼、指を詰めたやくざの処置、耳に虫が入ったとか、鼻にビー玉入れて取れなくなったとか
今考えると、その時の経験は、今ではとても体験できないものも多く、役に立っている。
最近、医師の募集をかけても、その条件に「当直免除」というのがけっこう多い
家庭を大切にするのか、ゆったりと仕事をしたいのか・・・趣味を大切にするとか
確かに日勤だけ仕事をして夜は自由な時間をエンジョイする・・・
たのしいだろうなとも思うし、小さな子供でもいれば、一緒にいられる時間は大切にしなくてはならない
(今はやめた医師が、平和病院の当直は断っていたくせに、他のアルバイト当直業者に登録していたのを知った時はたまげた!)
ただ・・・
結局誰かは当直をするわけで、常勤医師の間でも、当直をする者としない者との「不公平感」はやはり感じてしまう。
以前は、外科に若い医師が派遣されており、ずいぶん頑張ってくれたが、手術症例の減少とともに
医局からの派遣が中止され(これは経営上もかなりのダメージを受けた)常勤医師だけで回すのが困難になってきた、
現在、平日、日曜など、何人かの外部の先生方に当直をお願いして、とても助かっている。
誰も当直が出来ない日があると、外部業者にスポット依頼をだし、何とか対応するが、どうして見つからないときもあり、
医局長は苦労をしている。
還暦を過ぎている医師もいて、暗黙のうちに、当直回数は減らしたり、免除になったりしているが、
自分もはるか前に還暦を迎えたが、まだ当直は現役だ
ひとつの理由は、緩和ケア科の患者さんは、日曜や祭日だからと言って何かあった時の連絡指示・・というわけにはいかないと思っているからで
そんなもんだと割り切ってしまえばいいのだろうが、結局土曜に泊まり、日曜の午前中に廻診をして帰るパターンが多い、
自分は年俸制なので、時間外をいくらやっても給料は増えない
祭日も同じで、誰かが出てこなければならず、相方は出てこないので、すべての祭日も自分が出勤し、無料奉仕だ!
院長なんだから当たり前・・といわれればそうなのかもしれないし、子供も成長し、一緒にどこかに出かけることもないので
今では感覚的に麻痺してしまい、生活のパターンになってしまった(恐ろしい)
病棟のスタッフも、祭日や日曜に自分が出勤するのは「日常のパターン」との認識があるようで、それも怖いよね。
年末年始は29日から1月4日までが休みだが
結局1月1日から3日は、外部の先生に当直をお願いした
3日間同じ先生だというのには驚いたが…「アルバイト」と割り切って頑張る先生もいるもんだと、頼もしい思いもあるが
初めての医師の場合は、どんな先生なのか全くわからないという不安も大きい
緩和ケア科の場合は29日が自分が当直、30日はその明けで出番、31日は林医師が当直を申し出て
1日の廻診を担当してくれる、2日、3日は自分が出勤(当直ではなく、仕事が終われば帰れるが、オンコールだ)、4日は朝から当直で5日の仕事始めに突入する
切れ目のない診療!ということにはなっている。
どうせ出てこなくてはならないなら、当直明けのほうが楽…というのが自分が当直をする理由でもある
労働時間ということで見れば、たぶん自分が病院の中で一番多いという自負はある!
昨日は自分が顧問をさせてもらっているNPOの市民公開講座があったので当直ではなかったが、今日(日曜)は出勤してきた
残りの土曜は全部当直、おまけに23日の祝日も当直だ
当直が多いときつい・・・となかなか入りたがらない医師も多いが、誰だってきついといえばきついんだから、
よほどの家庭の事情じゃなければ平等に振り当てちゃざうのもいいのではと思うがそうもいかない事情もある
救急患者さんが来なければ自由な時間はあるといえばあるのだが・・・
さいわい4月からは常勤医師がかなり増える予定になったので、当直の問題もやや緩和される可能性があるが、
1月、2月も結局全部の土曜は当直になる予定で(これは希望でもある)、唯一、金曜日のオフは大切にしたいとは思っても、
結局うたた寝で時間は過ぎていく・・・
悠々自適で、週4日くらいの勤務で、子供も独立し、のんびり旅行に行ったり、趣味に時間を使ったり、おいしいお酒を飲んだり・・
そんな夢のような時間は、たぶん一生来ないような、自虐的な思いが最近強い
結局はただのワーコホリックなんだろうか・・・?
(平成27年12月5日)
ハードスケジュール
毎年、意識しているわけではないのに、5月から6月は何のかんのと学会やら、後援会が続いてしまう。
今年も5月20日には第9回鶴見緩和ケア研修会を開催した。
今回の特別講演は先日開催された、第20回日本緩和医療学会の大会長、高宮先生にお願いし、200名を超える参加があった。
本来なら、終了後に先生とゆっくりお話しできる機会を設けたかったが、あわただしくお別れし、心残りだった。
その翌日には鶴見区医師会在宅部門と行っている在宅ケアスタッフ向け緩和ケアスキルアップ研修初級編@を行った。
もう、早いもので今回で3年目に突入した。
今年からは。鶴見区在宅医療連携拠点事業の一環として横浜市からも認められた。
初級編は6回シリーズ、このほかにも中級編3回シリーズ、アドバンスコースも設定され、すべての講義を担当することになっている。
地域の中での緩和ケア提供の中心施設としては「教育」、「地域の緩和ケア力の向上」にも力を入れなくてはならない。
このほかにも、平和病院の理事長、院長業務としての、会計監査、社員総会もこの時期に行われる。
6月4日には薬剤師会からご依頼をいただき、「緩和ケア医療の現状と課題」のテーマで講演をおこなった。
6日は横須賀共済病院緩和ケア研修会(PEACE)のお手伝いだったが、土曜に病棟廻診をする者がいないので、早朝から廻診し、そのまま横須賀に出かけた。
翌日の日曜も午前中は廻診、午後はマンモグラフィ読影の資格更新試験があった。
AランクからDランクまでの評価に分かれ、AランクとBランクがいわゆる「合格」で検診制度委員会のホームページに名前が掲載される
60歳過ぎての「試験」はかなりきついものがある、もう永久シードみたいにしてくれないかな…とは思うが、仕方がない
結果は無事合格!
その翌日は、新たな趣味!を作ろうと、ある「体験レッスン」に出かけた。詳細は後日!
6月19日〜20日は、パシフィコ横浜で日本緩和医療学会、ポスター発表、
23日は横浜市大精神科の平安教授が主催する「がん患者さんのこころとからだ研究会」に出かけた。
ありがたいことに、お声をかけていただき、世話人の一人として参加させていただくことになった。
25日は緩和ケアスキルアップ研修会中級編@の講義・・・・
その間にも、病院の新人歓迎会などもあり、ようやく峠を越えた…状況になった。
さすがのハードスケジュールに体調を崩し、まだ回復していない。
咳が止まらないまま、明日の当直に突入する。
ひとつ、いいことといえば、日本緩和医療学会の発表の後、若いDRが声をかけてくれた。
お世話になっている先生のご紹介で、平和病院緩和ケア科に興味を持ってくれ、
もしかしたら、来年から常勤として仲間になってくれる可能性がある。
今どきの若者(こんなことをいうこと自体、自分が年を取った証拠なんだが)にしては、穏やかでまじめそうで…ナイスガイだった。
今度、病院見学がてら土曜の半日、私の勤務状況の見学に来てくれることになっている。
他の科も同様だが、平和病院の医師の平均年齢はだんだん高くなっている。(ほとんどが40前半)
若い先生方が気持ちよく働いてくれるような環境、土台作りも院長としては大事な仕事だとは思っている。
とりあえずは、体調を早く戻し、新たな趣味にも力を入れ、予定されている納涼会にも積極的に参加していきたい。
(平成27年6月26日)
お殿様の往診?
先日の緩和ケア科初診相談外来でのこと・・・
がん治療病院から退院したばかりの患者さんあのご家族が来院された。
いまは、治療病院から訪問診療の先生を紹介され、すでに2回診察を受けたとのことだった。
現在平和病院緩和ケア科は横浜、川崎を中心に約50施設の先生方と良好な連携をとらせていただいており、
その先生方はみなさん24時間対応で、緩和ケアに関する知識も経験も豊富で、こちらも安心して患者さんをお任せできる。
ただ、病状によっては緊急に入院が必要になる場合もあり、そんな時は、当院が24時間365日、確実な受け入れをお約束している。
『コンビニ緩和』と自負しているところでもある。
この患者さんは、都内からの患者さんで、ご家族が病院のHPをご覧になって、当院受診を希望された。
認知症のある患者さんを受け入れる緩和ケア施設などありません!と、治療病院の地域連携室で言われたとのことで、
何処も紹介してくれず、平和病院なら何とかなるかも…と探し出し、主治医の先生に紹介状を書いてもらったとのことだった。
(どこでも認知障害で受け入れ制限をしているとは思えないのだが・・・)
その患者さんの訪問診療を担当してくださっている先生は都内の診療所であり、今まで一緒に患者さんを担当したことはなかった。...
ご家族はできる限り在宅での療養を希望されているので、いつものように当院はバックアップに回ろうとしたが・・・
ご家族の話はつづき・・・「今の先生は、なんていうんでしょうか・・・ちょっとどうかなと思っているんです・・・」と話し出した。
「今まで2回いらしてくださったんですけど、先生は家の敷居をまたがないんです」
「えっ???家に上がらないんですか? 」
「そうなんです」
「じゃあ、患者さんの診察はどうしてるんです?」
「直接診察はしないんです」
「え〜〜〜!」
「じゃあ、どうしてるんですか?」
「看護師さんがお二人一緒に来て、てきぱきと体をチェックして、先生に『大丈夫で〜す』と大きな声で報告するんです。
「先生は?」
「『そうか・・じゃあ』ってお帰りになるんです」
「患者さんとお話なんかは?」
「しないですね! まだ母の顔も見たことないんじゃないかしら。ですから、今度先生を替えてもらおうかと思ってるんです!」
にわかに信じられない話で、そもそも、そのやりとりや場面を想像できない!
「なんだか『お殿様』みたいな先生ですね!たしかに・・・それって、出来ればほかの先生にお願いするのがいいのかもしれませんね・・」
当院の連携の先生方をご紹介したかったが、いかんせん範囲外で、ご紹介できる先生もいない。
とりあえず、何かあったときの受けれはお約束したが、都内の患者さん場合の急変時は以前もあったが、
基本的には都内の病院に搬送されることが多く、紹介元の基幹病院に運ばれる可能性が高い。
こんな話を聞くと、平和病院緩和ケア科、近隣の患者さん、ご家族が、多くの信頼できる在宅の先生に恵まれていることを実感し、
いまさらながら連携の先生方に感謝したい気持ちになる。
その先生も、せめて敷居をまたぎ、家に上がって患者さんのお顔くらい見てもらいたいんだが!
(平成27年5月3日)
院長への手紙
「院長への手紙」は自分が院長になってから、患者さんやご家族からいろいろなご意見をいただき、
病院の接遇、質の改善のヒントにしようと開始しました。
自分なりに回答を考え、職員にも周知し、旧病院の時には掲示し、新病院になってからは1階総合受付にファイルを設置していましたが、
ご意見は多岐にわたり、正式な病院からの回答にすることが望ましいと考え、
この4月からは「院長への手紙」という形式から、「患者様・ご利用者様の声」と名称変更を行い、
1階総合受付だけでなく、2階外来、4階、5階病棟にも設置場所を増やし、迅速に、より多くの方からのご意見をいただくようにしました。
また、ご意見には原則記名をいただくようにもお願いすることにしました。
これは、ご指摘いただいた内容に関して詳細に調査を行うときに、その部署のどの職員が対応したのかを確認させていただくためでもあります。
すべてのご意見は、管理職が集まる運営連絡会で発表、調査回答を指示し、結果を経営委員会で確認し、
私のサイトではなく、病院の公式ホームページに新たに専用のコーナーを設けお答えする方式にします。
このため、このサイトでの「院長の手紙にお答えして」の部分は役目を終え、削除させていただくことにしました。
「こうしてほしい」といったご期待、要望、職員に対する厳しいご意見まで、すべてを改善することのお約束はできませんが
改善できる部分は地道に着手し、皆様に快適に平和病院をご利用していただけるよう努力したいと思います。
より多くのご意見をお待ちしています。(もちろん、お褒めの言葉も!)平成27年4月12日
恋するフォーチュンクッキー!
今年度も鶴見区医師会在宅部門と共催で、在宅スタッフ向け緩和ケアスキルアップ研修(初級編)が開催されている。
昨年度は2グループで行ったので年6回シリーズとして、毎月行っていた。
今年度は1グループだけなので隔月開催だが、。「中級編」も3回シリーズで行っている。
また、毎月、支えあう遺族の会、「ハナミズキの会」の世話人会があるので、
最近はけっこう鶴見区医師会に出かけることが多くなっている。
ある日、研修会が終わった時、
「先生、鶴見区医師会の創立20周年記念パーティーのアトラクションで、いろいろな先生や訪問看護師などのスタッフが
AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」の振り付けを踊り、当日DVDを流す予定があるんですが・・・
ハナミズキの会も参加することにしたいんですが、いかがですか?」と聞かれた。
以前から言っているように、基本はミーハーで、
実は、ユーチューブなどでアップされている同じようなダンスをみて・・・
平和病院バージョンでも作れないかな?・・・と思っていた所だった。
ただ、そんなことはみじんも出さず・・・
「え〜、おどるのお〜〜〜?」
「だめですかね・・・」
ただ、騒ぐ血は隠せず、(一瞬の間も開けず)「やりましょう!!」と返事をしてしまった。
「実は先日の納涼会の時(自分は学会で参加できなかったが)何人かの先生方には簡単なパートを踊っていただき、録画してあるんです。
今度のハナミズキの会の世話人会の時に録画したいのでお願いしますね」
世話人会までの期日はあと5日
「踊れるかなあ・・・、まあ、体を歌に合わせて動かしてりゃいいんでしょ」なんて、練習するそぶりは見せず、
帰ってから、ユーチューブを即、開いてみたら・・・
あるある、踊り方を教えるもの、スローバージョン、しかも反転して覚えやすくなっているものもある。
これはもう、完璧に覚えたくなっちゃうよね!
と、言うわけで、パソコンを前にして踊る踊る・・・でも、いかんせん還暦過ぎた体にはキレがない!
息も切れてしまう!
それでも踊ること数十回!!
何とか覚えて録画当日
どこの部分を踊るのかはその日にならないとわからないが・・・
割り当てられた部分は「カフェテリアな〜がれるミュージック・・・」の部分
「え〜できるかなあ?」と、口では言いつつ・・・
ふっふっふ、この部分はカ・ン・ペ・キさ!
と、言うわけで、世話人5人がV字になって踊る。もちろん、おいらがセンターさ!
精いっぱいの笑顔で踊り、録画したものを見せてもらったが・・・いいじゃないか!
人知れず(家族にはあきれられたが)汗だくになって練習したかいがあったというもので(当直の時にも練習しちゃったよ!)
完成した作品が楽しみになる!
出来上がったらフェイスブックやユーチューブにアップしちゃおうか・・と今から手ぐすね引いている。(平成26年7月27日)
いたしかゆし
平和病院緩和ケア科は外来に通院している患者さん、連携を取らせていただいている在宅療養支援診療所の患者さんが、
緊急で入院が必要になった時には、24時間365日、確実な受け入れをお約束している。
「確実」に受け入れるということは、院内のどこかの病棟に「空いているベッドがいつもある」ということにもなる。
自分は平和病院の経営責任者であり、病院の収入を確保するためには、もちろんベッドが常に埋まっていて、
空床が一つもないくらいが望ましい。
一方で、緩和ケア科の医師としては、確実なベッドを提供するためには、病院の中に空床がいつもなければ困る。
さいわいというか、残念というか、新病院が出来てから、平和病院の病床稼働率、特に外科系一般病棟の稼働率は低いまま推移し、
緩和ケア科の緊急入院は、いつでも入院可能な状況が続いていた。
しかし・・・
最近、脊椎脊髄病センターに新しい常勤医師が着任して以降、
脊椎外科の入院患者さんが急増し、ほとんどのベッドが埋まっている状況になった。
5階東病棟では数名の緩和ケア科の患者さん以外のすべてのベッドが脊椎外科の患者さんになっており、
緩和ケア科が完全なアウェイ状況になった。
確かに緩和ケア科の正式標榜は「緩和ケア内科」であり、内科系一般病棟の半数は緩和ケア科の患者さんだが、
さすがに外科系病棟は使いづらくなった分、内科系病棟をさらに使わざるを得ないが、
緊急対応は毎日のようにあるので、その患者さんのためのベッドを確保するために、
予定入院の患者さんの受け入れが若干遅れるようになってきている。
今まで「満床」という事態がなかったので、使用しにくい数床のベッドはそのまま配置していたが、
ついに新規購入を行いフル稼働する必要が出てきた!
院長としては極めて望ましい事態ではあるが、
ベッドマネージメントをうまく行わないと、今まで守っていた、迅速かつ確実な受け入れが揺るぎかねない。
いたしかゆし…の状況は今日も続いており、患者さんの受け入れに影響が出ないよう細かな配慮が必要になってきている!
(平成26年7月4日)
テレビデビュー
今週の月曜日(6月11日)TBSテレビの月曜ゴールデンで、「守護神・ボディーガード 進藤 輝」が放送された。
寺脇康文が主演のドラマだが、新しくなった平和病院にとって「テレビデビュー」になった!
撮影は何か月か前の土曜の夜に行われたが、暴漢に刺されたボディーガードの男性が手術室に緊急で運ばれるシーンで、
手術室に向かう廊下が数秒間!(これって職員が見ても平和病院だってわかんないよな・・・)、
その職員を心配して集まった仲間(小倉久寛)が1回のロビーで主人公に連絡を取るシーン
(こっちは少し長め、外来待合につながる階段からの撮影)が使われた。
2時間ドラマのご〜〜〜くわずかな部分であったが、最期のエンディングロールでは病院の名前とロゴマークを表示してもらった。
ストーリーの中では、病室のシーンもあったが、そこはセットかほかの病院が使われたらしい・・・
旧病院の時には「昔の」病院のイメージが残っており、けっこう撮影に使用されたが、(昭和初期の病院の設定!)
新病院になってからは声がかからなくなっていた!
少し前には黒木メイサと沢村一樹の「ブラックプレジデント」の撮影の話もあって、スタッフが病院見学に来たが、外来やMRIなどはいいが、
入口のイメージが「狭い」ということで却下になったらしい。
もう少し前なら、病室にも結構空床があり、院長としては好ましくない状況であった反面、
撮影にはもってこいだったと思うが・・・
さいわいというか、残念というか、最近は病室の稼働率がかなりよくなり、撮影にゆっくり使える空床がないのが現状だ。
根本的にはミーハーなので、病院がテレビに出るのは大歓迎だ。
ただし、なんかの不祥事でテレビカメラの前で自分が頭を下げるのだけは勘弁してもらいたい!
先日は、あるネットのドクター紹介サイトのインタビュー取材の申し込みがあった。
来月早々、病院の風景も含め、1時間ほどインタビューを受けることになっている。
本来の病院機能、自分の行っている緩和ケア関連で、評判が高まるのは望むところだが・・・
やはり、奇をてらうことなく、地道に進むのが一番なのだろう!(H26年6月13日)
夢のよう!
3月のこと、緩和ケア科への勤務問い合わせのメールが届いた。
某病院勤務の泌尿器科の医師が、将来、兄が開設しているクリニックで在宅緩和ケアをやりたいが、
専門医の資格を取りたいので平和病院で研修させてくれないか…との問い合わせだった。
自分が日本緩和医療学会の暫定指導医であり、病院は専門医制度の研修施設に指定されている。
暫定指導医は、専門医の育成も重要な役割の一つであり、
医師が増えれば、それだけ平和病院の機動力は上がり、多くの患者さんに対応することが出来る。
しかも、「研修なので、無給でもいい!?」とも書いてあった。
どうやって生活するのか不思議だったが、
とりあえずは病院見学をしたいというので、日程を決めて会うことにした。
会ってみると、真面目そうな先生で、
外科系ではあるのに、手術そのものはあまり好きではなく、このまま大学には戻りたくない・・・
というのも転身の理由の一つになったようだ。
他にも2つの施設を見学しているらしく、もし勤務をするなら2年は努めたい・・とも言っていた。
院内を案内し、自分の考え、病院の方針なども熱く?語って、その日は分かれたが・・・
しばらくたっても何の音さたもない。
気になって、履歴書の電話番号に連絡したところ、
「あっ、すいませんご連絡もしなくて…実はほかの施設い決めてしまいました!!!」とのことだった。
まあ、別にほかの施設を選ぶのはいいが…それならそれで、そちらのほうから連絡してくるのが筋だろう・・とは思ったが、
「正式なお断わりはこの電話でよろしいですか?」と聞かれれば、
「ああ、いいですよ。先生も新しい研修先で、夢をかなえてくださいね!」と、感じよく?電話を切った。
同じころ、都内の某病院の呼吸器内科の先生からもメールが届いた。
緩和ケアの専門医資格を取得したいので、当院で研修させてほしいということだった。
専門医の条件は研修病院以外の勤務の場合は、研修施設で指導医から直接対面指導を3年間(月1回でもいいとのことらしい)
受けることが必要とのことで、
その先生も、病院見学に来た。
とても温厚な先生で、平和病院を気に入ってくださり、この4月から月に2回研修が開始になった。
勤務先の院長先生からも正式な研修受け入れ依頼の書類も届き、
このほかにも同じ病院からもう一人同じ呼吸器内科の先生も研修に来ることになった。
主に朝の緩和ケア病棟のカンファレンス、自分の緩和ケア科外来が主な研修の場となる。
実際、研修の先生を受け入れるからには、きちんと指導することが求められ、
自分とっても刺激になるし、平和病院の緩和ケア科全体の質の向上にもつながる。
特に自分の外来を、誰かに見られているのは逆に「評価されている」ことにもなるので、気合が入る!
さらに・・・
国立がんセンター中央病院のレジデントの先生から突然電話がかかってきた。
今まで初期研修を終わってから在宅緩和ケアのクリニックで働き、将来は在宅緩和ケア医をめざしたい。
がんセンターの緩和ケアチームで勉強しようと思ったが、
国立がんセンター中央病院の緩和ケア、日本緩和ケアの大御所の的場先生が4月から青森県立病院に移動されることになり、
これからの勤務先を相談したところ、平和病院のことを推薦してくださったとのことだった。
的場先生は、自分が暫定指導医の申請をするときに推薦人にもなってくださり、
がんセンターの緩和ケア研修会のファシリテーターにも呼んでくださったし、
在宅緩和ケアに関する研修会の講演もやらせていただいた。
大変お世話になっていた先生が、平和病院を勧めてくださったことに、驚くとともに、
ある程度認めてくださっていたのかと、うれしい気分にもなった。
その女医さんも3月末に病院見学にやってきた。
まだ、自分の進路に悩んでいるようであったが・・
「とりあえず、一緒にやってみたら?」と、せいいっぱいの「笑顔」と「よそ行きの声」で対応した。
しばらく連絡がなく、これもダメだったか・・・と思っていた矢先、4月はじめにメールが届き、「お世話になります…」との返事だった。
そんなわけで、4月7日から、緩和ケア科の常勤として、岩本華子医師が着任することになった!
これで、平和病院緩和ケア科は橋・加藤・林・岩本、4人の常勤、精神神経科の非常勤西井、研修の医師2名(それぞれ月1回だが)と、
かなりの充実した陣容になった。
また、緩和ケア病棟には新しく看護師2名を迎えることも出来、
朝のカンファレンスの時は、スタッフステーションの椅子が足りない程になり、初めて新病院に緩和ケア病棟が出来たとき、
医師が自分一人だけだったことを考えると、まさに夢のような状況になった。
当時は、外来の数も入院患者さんも今より少なかったが、病室の廻診はどうしても午後になり、
スタッフからも医師が病室にずっといてほしい…との希望が強かった。
365日、24時間オンコールが旧病院のときから3年以上続き、体重も激減した。
(いちばん痩せたときには今より8キロ以上減ってしまい、職員からも体調が悪いのでは…と心配された)
それを思えば、ここまで育ってきたか・・と、感慨深いものがある
2年前に加藤、1年前に林、そして今年は岩本
毎年パワーアップしていく姿は、自分が立ち上げたものだけに、わが子が育っていくような感じさえする。
これからも多くの、さまよえるがん患者さんに灯台のように一筋の光を照らせるよう、
さらに内容を充実させ、平和病院の緩和ケア科を、多くの病院の方が自信を持って勧めていただけるようにしていきたい。(平成24年4月10日)
た・か・は・し・お・さ・む
私の名前は橋修だが・・・
緩和ケア科の外来に長く通院している女性の患者さんがいらっしゃる。
もともとは肺の疾患だが、今も毎日プールで泳いでおり、ご高齢ではあるが、認知能力の低下もなく、
何時もご主人と一緒に来院され、にこやかにお話してくださる。
緩和ケア科の外来は、やはり体調の悪い方も多いので、
このような患者さんの診療、お話しは、こちらも癒さる。
ある日、「ボケ防止に作りました!先生にプレゼント」と、はがきを渡してくださった。
たかい富士の山見事
かがやき放つ素晴らしさ
はじめて世界遺産の誇り
しあわせ抱いて日本一の山
おお空高く飛び交う鳥たちも
さすがにうれしそうに群れをなし
むかえるオリンピック成功祈る
と、書いてある。
何だろうと思ったら、先頭の文字を読んでみると、「たかはしおさむ」になっている!
「すごいですね!考えるのって大変じゃないんですか?」
「こんなことしかできないんで・・・」
いやいや、なかなか簡単には思いつかないのでは・・・と思ったが、最近もまた新作を考えてくださった。
たかいお空を見つめていたら
かすかに白くスーイスイ
はてな?と見直すと
しろい雲の中からしょっこりと
おおきな鳥さん羽ばたいて
さむ空桜色に染めて夢中で春を呼びながら
夢から覚めて朝日が日本晴れ
もうひとつは(最新作)・・・
たゆまなく優しい眼差し
かっこよくハンサムボーイ
はぎれよくお言葉いただき
しんみりお顔を覗きこむ
おおらかなお気持ちで
さりげなく微笑み浮かべ
むちゅうにほれ込むおばあちゃんホホホ
こんなにほめていただくと・・・少しくすぐったいような気もするが、
これからも、いくつも新作を考えていただけるよう、長くお元気でいただきたいと・・・お会いするたびに思っている。(平成26年3月15日)
飛躍の年に!
平成25年は28日の土曜日に納会が行われた。食堂に寿司やピザ、ビール、つまみが用意され、仕事が終わった全部署の職員が集まり、
仕事納めのあいさつを行う。
納会は、毎年必ず「理事長あいさつ」から始まる。
25日には毎年行われる医療監査が行われた。
院内感染対策、医療事故対策から始まり、設備、施設基準、人員基準など多くの項目がチェックされる。
以前は自分が目を配り、細かく指示を出したりしていたが、今は各部署のスタッフがしっかり成長し、それぞれの部門がきちんと対応し、
監査前ばかりではなく、日常からしっかりと病院の業務を行ってくれており、
自分の役割は、初めの挨拶位になってきた。
監査結果も、大きな指摘はなく、お褒めの言葉もいただき、自分たちが普段どおり行っている医療行為が、適切であることを認められ、
自信にもつながったし、スタッフのレベルアップ、病院のレベルアップを実感できた。
納会の挨拶でもそのことは職員に伝え、感謝の気持ちも伝えた。
その日は当直だったので、ビールを飲むわけにもいかず、途中で病棟から呼ばれ、中座した。
年末年始は、体調の悪い患者さんにとっては不安も増すことも多いのだろう、
毎年この時期には、特に緩和ケア科の患者さんの緊急入院が増える。
当直明けの29日には午前中に病棟の廻診を行い、昼過ぎに帰ったものの、食事中に呼ばれ、再度病院に出かけ、
帰って風呂に入り、夕食の途中でまた呼ばれた。家にいたのは3時間程度・・・
ただ、今年は1月4日当直、5日の出番まで・・12月30日から1月3日までの5日間、加藤君と林君が当直、出番を引き受けてくれたおかげで、
もう自分の中でも記憶にないくらい久しぶりに、連続して年末年始の休みをいただくことが出来た。
来年、年明けには待望の内科常勤医師が着任し、4月には脊椎外科に若い常勤医師が着任する。
緩和ケア科にも非常勤で研修を希望する医師からの連絡があった。
中小病院は、医師、看護師の確保は大きな問題で、この人員が確保できるかどうかで、
業務の内容、患者さんの受け入れ能力が大きく違ってくる。
現在平和病院には整形外科の常勤医師が不在だ。
内科常勤医師も、一番多かった時に比べれば3人も少ない。血液浄化センターの医師の確保もしたい。
緩和ケア科の患者さんも年末には入院患者さんが40人を超えている。
外来受入れの強化、在宅支援機能の強化を考えれば、決して十分な陣容ではない。
平成26年には医療機能評価受審の準備も本格化する。
4月には診療報酬改定も行われ、消費税も上がり、経営はますます厳しくなるだろう。
逆境につぶされることなく、それを跳ね返し、飛躍する底力はついてきていると思っている。
あとは、いかに陣容を整えるかにかかっており、院長としての大きな役割となる。
自分が病院の舵取りをする時間もだんだん少なくなってきた。
安定して地域の中で役割を果たせる病院として存続し続けるため、今年は飛躍の年とるよう、気持ちを新たに頑張りたい!
(平成26年1月1日)
続・院長の歌
19日には、一足早く、外来ホールでクリスマス会が開催された。
結局、院長の「出し物」は歌にしたが、
本当に久しぶりに、シンガーソングライター!となり、
なんとかクリスマスソングをひねくりだした。
考えてみれば、自分で歌など作るのは30年以上ぶりなので、昔のようにはいかない。
クリスマスは、いろいろな人たちにとって、それぞれの思い出があるのかもしれない。
はじめてデートをしたクリスマス。
結婚して初めて夫婦で迎えるクリスマス
はじめて子供が生まれた年、その子供たちが結婚し、孫が初めてできた年のクリスマス
そして、年を重ねて過ごすクリスマス・・・
それぞれの時代で、どんなサンタが、どんなプレゼントを持ってきてくれたのか・・・
病気になった人たち、ご家族の願いはただ一つ、元気になることかもしれない。
色々な人が笑顔のなれることが、一番素敵なプレゼントなのだろう。
そんな感じを歌にてみた・・・
♪♪
いつの間にか外は雪、僕の息も白くなる
行きかう人も襟を立て、家への道を急ぐ
街はだんだん白くなる、君を待つ僕の肩も
時計を何度見つめても、針がなかなか進まない
どんなに外は寒くても、今日はサンタがやってくる
君の見せるその笑顔が
僕には素敵なプレゼント
遠くから聞こえてくる、君の足音が
息を切らした君の顔は、優しく輝いていた
いつか君はままになり、僕はパパになって
今、子供たちは夢の中、サンタが来るのを待っている
外はどんなに寒くても、今日はサンタがやってくる
あの日のように雪が舞ってる
今日はみんなでハッピークリスマス
みんなの見せるその笑顔が
いちばん素敵なプレゼント♪♪
てな感じの歌詞で曲をつけたけど、いざ歌ってみると、けっこう緊張した上に、譜面台がなくて、
椅子の上に楽譜を置いたけど、悲しいかな・・・老眼気味で、書いた字が小さすぎたのでよく見えない!
あまり会心の出来とは言えなかったが、何とか「出し物」は披露することはできた。
補助さんたちの歌やダンス、リハビリスタッフの手品などもあり、
そのあとは緩和ケア病棟以外の全病棟を回り、出席できなかった患者さんたちに
それぞれの病棟のスタッフの手作りのカードを配った。
やはりサンタのコスプレはそれなりのインパクトはあるのかとも思ったが、後の祭り
今年は着替えることもなく「白衣」のままで回ってしまった。
24日には緩和ケア病棟のクリスマス会なので、この時はやはりサンタになるかな・・・
今までは薬剤科長とピアノの連弾で「アヴェマリア」を弾いていたけど、
林先生がピアノが得意というので、今回はお願いして、
自分はもう一回ギターで「ハッピークリスマス」を歌っちゃおうか・・・と思っているが、どうなることやら。
同じ日の夜は、親睦会主催の病院忘年会も開催された。
もう今年もあと少し・・・
それぞれの患者さんやスタッフにとって、それぞれのサンタがやってきますように!(平成25年12月20日)
院長の歌
あっという間にもう11月も後半、今年も残り少なくなってきました。
療養病棟にはもうクリスマスツリーが飾られていますが、
緩和ケア病棟は11月26日に「秋の音楽会」が予定されているので、
クリスマスの飾りは、それが終わった後にする予定です。
毎年、クリスマスが近づくと、補助者会(看護補助さんたちの会)主催で病院全体のクリスマス会が開催されます。
昨年は病棟ホールで行われましたが、状態の悪い患者さんもいらっしゃるので、
今年は、昼の時間を利用して外来ホールで行う予定です。
どうやらサンタの着ぐるみからは解放してくれるようですが、その代り?
「一芸」を披露するように言われてしまい・・・
とりあえず、歌でも…ということになってしまいました。
クリスマス会なので、演歌を歌うわけにもいかないし、ありきたりのクリスマスソングじゃ面白くないし・・・
(なんて、考えずに、「清しこの夜」や「赤鼻のトナカイ」でも歌っちゃえばいいんだけど)
音楽療法の先生が伴奏はしてくれるというので、さて、何を歌えばいいのか…と考えてはいますが、
なかなかすんなり思い浮かばず、いっそのこと自分でギターでも弾いて歌ってしまおうかなどと、
大胆なことも頭に浮かび、「いかんいかん」と否定する毎日が続いています。
そもそもクリスマスの歌ってのは、ほんとにいろいろで、実は一番好きなのが、
ずっと昔に辛島美登里が歌ったの「サイレントイヴ」で(ほんとにいい歌ですよね!)
明らかに「失恋ソング」だし・・・
山下達郎の「クリスマスイヴ」も好きだけど
病院のクリスマス会向きの歌では決してないわけで・・
しかも、「オ〜イエ〜サイレンナイ」なんて恥ずかしいし・・・対象はご高齢の方が多いし。
やはり、王道の「ジングルベル」あたりに落ち着いてしまうのか?
さらに12月は緩和ケア病棟のクリスマス会もあり、
こちらは何をやるのか全くの白紙状態。
先日、フェイスブックで、ハロウィンの時のコスプレをアップしたら、
「次はクリスマスですね!」などと書き込んでくださった方もいるので、結構プレッシャーだし。
とかなんとか、めんどくさそうなことを書いている割には、実は「血が騒ぐ」のも否定できない自分が情けない。
と、いうわけで、今年の残りの一か月ちょっと、いい締めくくりが出来るよう、
もちろん本来の仕事や、地域での緩和ケアの啓蒙教育活動、ご遺族の会の立ち上げなど、
もりだくさんで頑張りたいと思います。(平成25年11月25日)
第6回鶴見緩和ケア研修会
9月26日(木)、桜木町駅前のブリーズベイホテルで第6回鶴見緩和ケア研修会を開催しました。
はじめに平成24年度平和病院緩和ケア科の活動状況を自分が紹介させていただき、
その後、特別講演は、ホープツリー(がん診療におけるチャイルドサポート研究班)主催者の
大沢かおりさんに
「がんになった親と子供のサポート〜どう伝え、どうささえるのか〜」と題してご講演いただきました。
最近、当院でも若いがん患者さんが増えてきており、お子さんが小さい方も多く、そんな方たちに接するたび、
どう対応していけばいいのか、それぞれのスタッフが病気になった親や、小さなお子さんたちを前にして、
どうしたらいいのか・・・立ちすくんでしまうことがありました。
1年ほど前、自分でもこのことを悩んでいたとき、
国立がん研究センター中央病院で開催された勉強会で、大沢さんのおはなしを聞き、
感銘したことがあり、今回講師としてお迎えしました。
やはり、同じような悩みを抱えながら活動している皆さんも多かったようで、
参加申し込みのFAXは日に日に増え、初めは150名の予定を大幅に超過、一時は200名を越し、
会場の調整には苦労しましたが、
最終的な参加者は、今までの最高の180人になりました。
中小病院の緩和ケア科が単独で開催する研修会に、県外も含め、これほど多くの皆さんが参加してくださり、
スタッフ一同、感激するとともに、大いにパワーをもらうことが出来ました。
ご講演いただいた大沢さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
ただ・・
今回これだけ多くの方が参加してくださったので、次回はどのようなテーマで開催するのか・・・
ものすごいプレッシャーになってしまいました。
今後も緩和ケアを支える多くの方とともに、この研修会を発展させていきたいと思っています
(平成25年9月30日)
スキルアップ研修スタート!
緩和ケア科では、院内スタッフ対象に、緩和ケアの勉強会を定期的に開催しています。
また、「鶴見緩和ケア研修会」もゲストをお招きして講演をお願いしていました。
以前から、自分が緩和ケアに関する講演を依頼されるときには、
緩和ケア病棟だけでは十分な緩和ケアは提供できない!
一般病棟を使い在宅で療養をしてる患者さんの緊急バックアップを確実に行うことが必要!
緩和ケア科の外来機能を充実させ早期から導入する!
地域全体の緩和ケアスキルのレベルアップを図ることが重要!
などを、繰り返してお話ししてきました。
しかし、この、「地域全体の緩和ケアスキルのレベルアップ」に関しては、なかなか具体的なことが出来ずにいました。
確かに、緩和ケアに関する講演会は多くの場所で行われていますが、それは、あくまで「講演会」であって・・・
なにか、地域の現場の状況に即した実践的なものではないような気がしていました。
また、がん診療拠点病院の緩和ケア研修会のお手伝いにもいきますが、
実際の在宅スタッフの参加は少なく、内容も難しい部分もあり、「在宅での実践的な内容」が多いわけでもありません。
横浜市鶴見区では、以前から緩和ケアの連携が非常にうまく機能していると思っていますが、
それを支えてくれるのは、在宅での療養を支えてくださる診療所の先生であったり、訪問看護師さん、ヘルパーさん、ケアマネさんなどなど・・・
多くの在宅スタッフです。
今回つるみ在宅ネットワークと協力し、
「在宅スタッフ向け緩和ケアスキルアップ研修(初級編)」を開催することになり、5月16日(木)に
第1回めが、鶴見メディカルセンターで開催されました。
二つのグループに分け(人数の関係で)、年間6つのテーマで、1年間かけ、研修を行います。
それぞれのグループは40人ちょっとなので、参加する皆さんとの距離も近く、「講義」の後には
実際に困っていることなどに関しての話し合いも行われ、自分も大いに刺激になりました!
ある訪問看護師さんからは・・・
「担当しているがんの進行期の患者さんの主治医に、早いうちから緩和ケア科への道筋をつけておいたほうが・・・と
お願いしても(ご家族も同じ気持ち)診療情報提供書を書いてくださらない・・・」などの相談もありました。
また、「先生は、実際の現場で、患者さんに言わないでおいたほうがいいと思う言葉はなんですか?」
とも、質問されました。
少し考えましたが・・・・
「頑張ってください!」とか「頑張りましょう・・・!」ではないか・・・とお答えしました。
「頑張っていますね・・・」「頑張ってきましたね・・・」は、いいと思っていますし、患者さんやご家族に実際よく使います。
ただ、患者さんは十分頑張っているのですから、それ以上がっばって…ということはありません。
このように、在宅スタッフと、身近に話ができる機会は、実はそれほど多くはなく、自分にとっても勉強になりますし、刺激的でもあります。
これから1年間の長丁場ですが、参加していただくスタッフと一緒に成長していきたいと思っています。
今月は,もう1回。別のグループのスタッフに同じ内容でお話しさせていただく予定です。
次回は動画も撮影して、参加できないスタッフも、後で聞けるようにしたい・・・とも思っています。
(記録に残るので、気合も入ります!)
ただ、今回は、鶴見区内の在宅スタッフに限定させていただきました。
今後、同じようなことが、他の施設、他の地域でも広がっていけばいいのに(もう行われているところも多いのかもしれませんが)
と思っています。(平成25年5月19日)
創立記念日
4月25日は平和病院の創立記念日でした。
今年は67回目の記念日になります。
毎年、創立記念日には永年勤続表彰が行われます。
今年は勤続40年が1名、30年が2名、25年が1名、20年が2名、15年が2名、
10年が9名、5年が18名と、多くの職員が表彰されました。
一人一人に表彰状と記念品を手渡しましたが、
「えっ、この人が、もうこんなに長く務めていたの?」と、感じることが、いつもの年より多かったような気がしました。
病院は人の入れ替わりが多い職場といわれていますが、そんな中、長い期間にわたり平和病院を支え、
新人を育て、今や中堅、ベテランとして中心的な役割を担う職員に育ってくれている人たちは、病院の財産だと思っています。
本当は、40年も勤めてくれた職員には海外旅行でもプレゼントしたいところですが・・・
病院にはそれほどの余裕はなく・・・「ささやかな」記念品になってしまっています。
申し訳ない気持ちもありますが、感謝の気持ちは言葉では言い尽くせません!
これからも、病院の「顔」として、一緒に地域医療を担っていってもらいたいと思います。(平成25年4月25日)
新しい仲間を迎えました!
4月1日、春、平和病院も新しい職員を迎えました。
3月いっぱいでの常勤医師退職、医局人事での異動などもあり、新しく、常勤、非常勤医師も着任しました。
昼には「入社式」が行われ、幹部職員と、新入職員全員が参加しました。
新しい職員は医師、看護師、臨床工学技士、薬剤師、理学療法士など、多職種にわたります。
平和病院は、大病院と違うので、新入職員の人数は20人にも届きません。
今年は娘も、他の病院に勤務することになりましたが、オリエンテーションには200人ほどの新入職員が参加したようでした。
毎年、入社式の時には、示達のあとで、自分が、「訓示」を行い、新入職員が「「誓いの言葉」を述べてくれます。
今年は、病院が他職種の連携で成り立っていくこと、
職場の仲間との「和」を大切にしてほしいこと、
病院に「愛着」を感じてもらえるよう、病院は新しい仲間を全面的にサポートしていくこと
これから長く平和病院で働き、毎年、新しい仲間を迎える側に立って、病院を支えていってほしいこと・・・
などをお話ししました。
ちなみに、娘の病院長は・・・
病院創立7年目を迎えたこと、人間でいえば、小学生になり、これから大きく成長していく時期…といったお話だったようですが・・・
平和病院は創立66年もたっていますから、人間でたとえると・・・
う〜〜ん、これから高齢化を迎える・・・じゃあ、新しい門出の挨拶としてはちょっと使えません。
新しく、新病院に生まれ変わってから3年目を迎える・・・今まで,長い間、地域の病院として培ってきた実力と伝統を引き継いで・・・
といった話もすればよかったかな・・・と思いましたが、
今年度以降、自分が、理事長、院長として経営の責任を任されていく時間も、だんだん残り少なくなっていきいます。
質の向上、安定した運営、特色ある診療、
これらを実現するためには、新しい職員の熱意が必要になってきます。(もちろん自分のラストスパートも!)
新入職員が、それぞれ配属された部署で、大きく羽ばたいてくれることを願っています。(平成25年4月5日)
第5回鶴見緩和ケア研修会
先日、横浜駅前の崎陽軒ビル会議室で、第5回鶴見緩和ケア研修会を開催しました。
今回は特別講演に「病院で死ぬということ」などの著書で有名な
ケアタウン小平の院長、山崎章郎先生をお招きしました。
山崎先生は、私と同じ千葉大学第一外科の出身で
早くから緩和ケアの道に入られ、今ではさまざまな緩和ケアに関する学会、研究会の重鎮となって
活躍されています。
先生の緩和ケアの原点は、匝瑳市民病院(当時は国保八日市場病院という名前でした)での緩和ケア研究会ですが、
先生と私は学年が3年違うだけで、ちょうど私が大学病院にいるころは週に1回、アルバイトで
匝瑳市民病院で働いていたこともあり、
その時に腹部超音波検査を指導してくださったのも山崎先生で、
また、先生が初めて消化器外科医として、膵臓癌に対し膵頭十二指腸切除術を執刀したときには、
私が麻酔を担当していたりなど、懐かしい思い出も多く、
そんなご縁もあり、今回のご講演をお願いしました。
お忙しいので、なかなか引き受けていただけないのでは・・・と心配していましたが、
快く後輩の願いを聞き入れてくださり、ご講演を引き受けてくださいました。
特別講演の前には、平和病院緩和ケア科の活動状況を、自分と、緩和ケア病棟師長から報告しました。
写真が小さいので、わかりにくいとは思いますが、左が山崎先生、右が私です。
写真の雰囲気からも分かるように、当日は鶴見緩和ケア研修会始まって以来、最大の140人を超える参加者がありました。
さすが、山崎先生の知名度!という感じでしたが、講演の内容も素晴らしく、先生の緩和ケアとのかかわり、現在の活動など、
1時間半の講演はあっという間に過ぎ、平和病院の連携往診施設の先生方からも多くの質問が寄せられました。
講演の後には、近くのビヤホールで懇親会を行いましたが、アルコールも入り、
山崎先生も、有名な緩和ケアの先生から、親しみやすい大学時代の先輩に変身し、楽しい時間を過ごすことが出来ました。
今回がこのように盛況だったので、次回の研修会をどうするか・・・
かなりのプレッシャーになりますが、参加者の名簿を見ると、横浜市外、県外からも参加してくださっている方も多く、
小さな病院の緩和ケア科が行う情報発信が、徐々に広がりつつあるということが実感でき、自分にとっても励みになりました。
参加してくださった皆さんに感謝するとともに、
次回の研修会にもぜひ参加してくださるよう、お願いします。(平成25年3月1日)
幸せ者!
誕生日の翌日の月曜日、昼過ぎに、ある病棟看護師から電話があった。
「先生…会議の前に少しご相談したいことがあるんですけど、病棟に上がってこられますか?」
この手の話は、大体が、あまりいい話ではないことが多い・・・
なんだろうと行ってみると、スタッフが集まっていて、何事かと思っていると、バラの花束をプレゼントされた!
赤いバラが60本も・・・
全く予想していなかった展開なので、驚いたが、ものすごくうれしかった!
そのあと、他の病棟に行っても、「先生、ちょっと・・・」と言われ、赤いソックス、さらに赤いポロシャツ・・・
みんなで相談したんだろうか?
でも、今までは誕生日でも、こんなことをしてもらったこともなく・・・
やはり「還暦」は特別なのかな…と思ってしまう。
バラの花束はずっしり重く、1本が1年分なのだろう。
いろいろなことが思い出され、
思わず、目がうるうるしてくるほどだった。
疲れもふっとび、
まだまだ自分は職員のためにも頑張らなくては!との思いを強く感じる。
そして、さらに今日・・・
夕方に緩和ケア病棟のクラークから電話があった。
「先生、病棟に上がってこられます?」
まだ何か仕事が残ってたのか?
と、思ったら・・・
職員からのプレゼントです!
と言われ、写真のような寄せ書きと、うちわを渡された。
この前、花束やプレゼントをもらっていたので、
また何かもらえるなんて全く予想もしていなかった!
うちわは手の込んだ手作りで・・・
これって、作るの相当大変だったんじゃないだろうか?
ジャニーズのファンがコンサートに持っていくような感じで、表には
自分の写真がてんこ盛りに貼ってある。
寄せ書きは4枚もあって、医師、看護師、薬剤師、管理栄養士、看護補助
在宅支援センター、MSW,所通リハビリスタッフ、事務職員、PT,OT
ME、放射線技師、検査部などなど…全部で130人以上が、お祝いの言葉を書いてくれていた!
自分はけっこう、各病室やら、外来やら移動しているのに、こんなに多くの職員が色紙にいろいろ書いてくれていることなど全然気が付かなかった。
いつ、だれが計画してくれたのかもわからないが、
内容は、自分の体を気遣ってくれていたり、
60歳には見えません!とか、素敵な院長先生・・・など(もっとも、色紙に悪口はかけないだろうが)、
一人一人の贈ってくれた言葉が自分に大きなエネルギーを注ぎ込んでくれているような気分になり、すご〜〜〜〜く嬉しかった!
こんなに感激したのは本当に久しくなかったくらいで、ふだんは病院の運営や、仕事のことなど、いろいろ苦労はあるが、
そんなことなんかは、一気に吹き飛ばしてくれるような素敵なプレゼントで・・・
こんなことをしてもらえる自分は、なんて幸せ者なんだろう!と心の底から思った。
平和病院の職員って、本当になんて素敵な連中なんだろう!
自分は職員のためにもっともっと頑張らなくては…との思いがわいてきて、フル充電状態にしてもらった。
みんな…本当にありがとう!(平成25年1月24日)
悩み(愚痴?)
平和病院の病棟は4種類ある。
4階東病棟は内科系一般病棟で、一般内科、腎臓内科などの患者さんが主に入院している。
4階西病棟は医療療養病棟で、医療行為を受けながら長期に入院が必要なための患者さんの病棟、
5階東病棟は外科系一般病棟で、外科、脊椎外科、整形外科など、外科系の患者さんが入院している。
5階西病棟は緩和ケア病棟で、緩和ケア科の患者さんが入院している。
ただ、現在平和病院に紹介されてくる緩和ケア科の患者さんは増加しており、
診療情報提供書(紹介状)が紹介元の病院から送られてきても、初回の面談まで1か月以上かかるようになり、
たどり着けない患者さんが増えてしまったため、この10月からは緩和ケア科の外来日を増やし、
現在は、早い患者さんでは、情報が届いてから数日で受診、入院さえ可能な状況まで改善している。
おそらく、周りの緩和ケア病棟を持つ病院の中では、一番早い対応が出来ているのではないかと思う。
ただ、その分、入院(転院)を急がねばならない患者さんの早急な受け入れ、外来通院している患者さんの急激な状態悪化、
連携をとっている、在宅診療所からの緊急バックアップ依頼などで、
予定入院を上回る人数が救急車での「緊急入院」となることもほぼ毎日で、
そのような患者さんは、「緩和ケア病棟」では対応できず、一般病棟のベッドを「借りて」入院していただいている。
緩和ケア科の患者さんのベッドはあくまで「緩和ケア病棟」であることは、初回の面談の時に、
ご本人やご家族には説明し、了解していただいており、
緊急入院の時は一般病棟に入院になっても、緩和ケア病棟の移動が可能になった場合には、移動していただくこともお願いしている。
現在は緩和ケア病棟の入院患者さんより、多くの患者さんが、他科のベッドに入院しているが、
緩和ケア病棟への移動をお願いしても「このまま一般病棟から移りたくない」という患者さんがいらっしゃるようになった。
緩和ケア病棟は、有料個室と、無料個室が半々で、初回説明の時には、運営の円滑化のため、
とりあえず、有料個室をご利用いただき、順番で無料個室に移動していただいている方が多い。
もちろん、どうしても無料個室だけをご希望の方は、順番が来るまで、在宅や他院などで待機をしていただいていることもある。
受け入れは当然、少し遅くなってしまうのは申し訳ないが・・・
この点に関しても初回の面談の時にはきちんと事情を説明しているし、了解をいただいているののだが・・・
緩和ケア病棟だけで患者さんを受け入れていれば、すぐに「満床」になってしまい、多くの患者さんは入院できない。
もちろん、緊急対応は不可能だ。
「地域からがん難民をなくす」のが自分のコンセプトであるので、一般病棟には無理にお願いして(院長権限も利用して?)
患者さんを受けてもらっている。
院内の勉強会も頻回に行い、一般病棟での緩和ケアの質も高めているし、担当は緩和ケア科の医師であり、
いわゆる疼痛除去などの「治療」の内容には大きな差はない。
ただ、このような患者さんがどんどん増えれば、極端に言えば緩和ケア病棟には空床が出来、
一般病棟では他科で入院が必要な患者さんが入院できなくなる可能性もあり。
緊急の対応にも影響が出るし、心配しているところでもある。
この点は緩和ケア科の患者さん、特にご家族にはどうしても理解をお願いしたいところなのだが、
なかなか協力してくださらないケースも出てくると、改めて事情を説明し、協力を「お願い」しなければならない。
緩和ケア病棟は、「入院基本料」もほかの病棟よりも高めに設定されている特別な病棟なので、
(施設も人員も一般病棟より厳しい条件があり、認可されている病床数も少ない)
ご負担いただく「診療費」の話も当然説明しなくてはならない。
患者さん、ご家族に良かれと思い、絶対に断ることなく緩和ケア科の患者さんの緊急入院を受け入れ、
現状では一般病棟は「野戦病院」のような状況で、スタッフには苦労をかけている。
ご家族と患者さんのための病状説明をするのは、いくら時間をかけても構わないし、必要だと思っているが・・・
ただ、はじめにしたはずで、了解をいただいた病棟の運営の仕組みや、費用が絡んだ話を、
状態が悪い患者さんのご家族に、改めてするのは、本当に切ない・・・
「それじゃあこのまま出て行けというのか!」などと言われてしまえば、なんのために自分たちは頑張っているのか・・・と思うこともあるし
自分ばかりでなく、スタッフも、正直な話、いい気持ちはしない。
さらには、きちんとご理解いただいている患者さんやご家族には不公平になるし、
緩和ケア科の患者さんが緩和ケア病棟に移動できず、
一般病棟の病室があかず、他科の入院患者さんや医師にも迷惑がかかることさえある。
もちろん、多くの患者さんやご家族には、ご理解いただいているが、
「治療」「ケア」とは別の部分でストレスを感じることは避けたいものだ。
このままでは、「24時間365日いつでも患者さんを受け入れる」という当院の信念さえ揺らいでしまう可能性もある。
何も考えず、医療に専念したいところだが、自分の立場は病院の運営の最高責任者でもあるのでそうもいかない。
じゃあ、平和病院の緩和ケア科は緩和ケア病棟だけで運用します!
たどり着けない患者さんはほかの施設に入っていただくか、在宅待機していただき、
外来や、往診対応の患者さんの緊急時は引き受けますが、他科のベッドなので、
長期になる場合の入院は緩和ケア病棟があくまで、ほかの病院を紹介します。というようにすればいいのだろうか?
以前は治療病院からほかの病院に「とりあえず」転院させられ、当院の病床の受け入れを待っていた患者さんも
一刻も早く、何とか直接受け入れようと、24時間365日体制でフル稼働している現状をご理解いただけないご家族がいるのは、
かなりの(信念がぶれることはないが)ストレスとなり、じわじわと視界がぼやけてしまいそうな気にさえなる。
あくまでも「特殊」な例で、ほとんどの患者さんやご家族は、理解をしていただいているし、気持ちよくご協力いただいている。
もちろん、体調の悪い患者さんのせいではないのだから、めげずに、結局このまま変わることなく、ぐいぐい進んでいくが・・・
ただでさえ、最終的には、「治して」お返しすることは少ない診療科なので、
治療する側の心のダメージも溜まってくる中で、少しでもこちらも気持ちのゆとりを持って、
患者さんや、ご家族とのかかわりを持ちたいと思う。(平成24年11月10日)
大丈夫だろうか?
先日、10月から神奈川区で新しく在宅専門のクリニックを開業するM先生が、病院にごあいさつにみえた。
M先生は、もともと平和病院の緩和ケア科と連携し、大変お世話になっているH先生のクリニックで一緒に働いていた。
H先生は非常に熱心な先生で、緩和ケアに関しての知識、経験も豊富で、私が最も信頼している在宅の先生の一人だ。
もともとH先生はおひとりで多くの患者さんを診療しており、もちろん365日、24時間対応で、
初めて先生を知ったときは、私も一人で緩和ケアを必要とする患者さんに対応していたので、
H先生の御苦労は身に染みて感じていた。
しばらくして、M先生が就職したときには、「これで少しは家庭サービスができます」と、うれしそうにおっしゃっていたし、
「少しはビールも飲めるようになりました」ともおっしゃり、
こちらもほっとしたと同時に、あ〜〜〜うらやましい!と思ったことを覚えている。
そんなM先生が独立したということは、またH先生はしばらく、おひとりで仕事をこなさなければならないことになるのだろう。
平和病院の緩和ケア科に通院している患者さんで、状態が厳しくなったときは、H先生に往診対応をお願いするケースも多いのだが・・・
おそらくM先生がいた分、当然、往診する患者さんが増えていただろうし、それを一人でカバーするとなると、お体のことを心配してしまう。
平和病院でも今年の6月からは加藤君が着任し、二人体制になったぶん、やはり対応患者さんを増やしているし、
実際10月からは緩和ケア科の外来日を増やし、多くの患者さんをお待たせしないで対応するようにしている分
緊急入院も増えているし、夜間の呼び出しも多くなっている。
増えた仕事量は二人でシェアしているので、自分にとっては精神的にも、肉体的にも以前に比べれば、格段に楽になったし、
(加藤君は逆につらくなっているかもしれない・・・)
そのぶん患者さんへの対応時間は増え、ケアの質も充実できている。
今の仕事量の中で、また自分一人だけの体制になったとしたら、
おそらく自分の体は悲鳴をあげるだろうし、対応を縮小せざるを得なくなるだろう。
厚生労働省は在宅緩和ケアの充実をめざし、診療報酬上の優遇処置を行ったが、
実際に当院と連携をしている先生方は、日中は非常勤の先生を採用していたりする場合があっても、夜間の対応はご自分一人で行う方がほとんどだ。
このままいけば、せっかく在宅で患者さん、ご家族を支える意欲を持ち、経験、知識の豊富な先生方が、
どんどん疲弊して行くことは目に見えている。
当院のバックアップ機能を充実させ、患者さん、ご家族ばかりでなく、在宅の先生方の負担を減らすことも、
今後ますます当院に求められるようになるし、入院ベッドを持つ緩和ケア科の重要な機能になると思っている。
M先生の今後のご活躍を祈念するとともに、H先生が、今後も体調を維持され、今まで同様、地域緩和ケアの核となっていただけるよう、
精一杯のお手伝いをさせていただこうと思っている(H24年10月12日)
院長ご乱心?
緩和ケア科で入院している患者さんは、状態が変化することも多く、頻回に病状の説明を行う必要がある。
やはり、立ち話では済まないので、ゆっくりと時間をとり、静かな環境を設定してお話しすることを心掛けている。
土曜の当直の日は、午後は比較的時間が取れ、また、ご家族も都合をつけやすいので、3〜4件が重なることもある。
比較的、話の内容が重いことも多く、終わったころにはこちらもぐったりすることも多い。
最近では、ご家族の希望が重なるときは、加藤君と手分けしてお話しすることも多いが、
今日も、たまたま、緊急でお話する必要のあるケースが重なったので、
どちらか一人の患者さんのご家族に対して、自分がお話しすることになった。
病棟に行き、二人の患者さんのうち、「どちらのご家族に、自分が話すことになったのか・・・」
「自分は誰に話すのか・・・」を確認しようとして、スタッフステーションの看護師に声をかけた。
「私は、だれのご家族におはなしをすればいいのか?」
の意味で、口に出た言葉は・・・「ねえ、私は誰?」
そのとたん、ステーションにいる看護師の手がいっせいに止まり、ぎょっとしたような顔が一斉に注がれる。
しばらく間があってから・・・「誰って・・・あなたは高橋院長でしょう!」「先生、大丈夫ですか?」
「えっ?」
あのね、いくら最近少し物忘れがひどくなったからって・・・さすがに自分が誰かぐらいはわかってますよ!
昨日の晩ご飯のおかずなんかは、考えちゃうけど・・・
どうも、スタッフは、ついに院長がご乱心?
と、勘違いしたようだ。
「ど〜な〜た〜のご家族に私が話すのかって聞いてんだよ!」
「あ〜〜、驚いちゃいましたよ、ついに来ちゃったのかと思って!それなら○○さんですよ」
確かに・・・
いきなり、「私は誰?」って言われたら、こいつ、頭がおかしくなっちゃったんじゃないか?って思うよねえ。
それにしても、あまりにスタッフの反応がリアルで・・・ひそかに心配されていたのかと思うほどだった。
ついでに、「ここはどこ?」って追加しといたけど・・・
言葉は、はしょらずに、しっかり伝えないとね・・・(平成24年9月10日)
第4回鶴見緩和ケア研修会
7月17日(火)横浜駅前の崎陽軒ビル会議室で第4回鶴見緩和ケア研修会が開催された。
協和発酵キリンとの共催で、今回のメインゲストは飛騨千光寺のご住職、大下大圓先生にお願いした。
大下先生は12歳で出家、高野山大学を卒業され、スリランカへ留学。京都大学大学院などで教鞭をとられている傍ら
緩和ケア、特にスピリチュアルケアに関して様々な取組をされている(http://www.daien.senkouji.com)
緩和ケアに関する研修会は、最近いろいろなところで開催されるようになっており、
実際自分も、いくつかの研修会にお招きいただき、つたない話をさせていただいているが、
自前の研修会では、医師ばかりでなく、緩和ケアに係る多くの人たちに来ていただき、関心のある話題を提供していきたいと思っている。
(もちろん、自分が話すときも、そのように心がけてはいるが・・・)
今回は前半で共催の協和発酵キリンからの情報提供、
そのあと、私が当院緩和ケア病棟開設1年間の実績報告をさせていただき、そのあとで、大下先生にご講演いただいた。
ご高名な先生でもあり、超多忙な方なので、遠路横浜まで来ていただけないのでは・・・と、心配していた。
ダメもとで、メールでご講演の依頼をしたが、心地よく引き受けてくださった!
当日、会場で初めてお会いしたが、薄黄色の涼しげなサムイを身に着け、ほのかに香の香りがする、穏やかな方だった。
最近、死生観だとか、禅だとかの本を手にすることが多く、
大下先生の著書「いさぎよく生きる」も実際持っていたので、お見せしたところ、
「ご縁に感謝して」「慈愛」と、直々に書いていただいた(達筆!)
参加者は130人にもなり、大盛況だった。
「瞑想」の実体験も交えた講演は、とても興味深く、
やはり長年修業を積み、確固たる宗教的バックボーンのある方の話は違う・・・・と、感心しているまもなく、講演の時間はあっという間に過ぎた。
その後、一緒に会食していただき、講演では聞けなかったお話も伺え、久々に心の洗濯をさせていただいた。
今回のように盛り上がると、さて次回は・・・と、かえってプレッシャーがかかるが、
次回も多くの方に参加していただけるような企画を考えたい。(平成24年7月27日)
取材
最近、医療関係の取材が続いた。
一つは「日経ヘルスケア」からのもので、今回の診療報酬改定で見直された緩和ケア関連事項に関してのものだ。
平和病院は新病院移転に伴い、新しく緩和ケア病棟を新設したので、取材の依頼が来たようだ。
今まで何回か医療関連雑誌の取材を受け、掲載していただいたこともあるが、
ほとんどの場合は、ボイスレコーダーでの録音を行っていたが・・・
今回は取材の記者さんが、小さなノートを出して、自分の話したことをメモ書きしていく。(けっこうアナログ・・)
いろいろ話したけど、ノートの文字があまり増えず・・・なんだか少し不安がよぎったが・・・
それでも緩和ケア病棟の開設を決意した理由やら、緩和ケアに関する展望とか、平和病院の今までの、そして現在の取り組みなどなど・・・
いつも講演などで話しているように、単に「緩和ケア病棟」を作るだけでは、円滑な緩和ケアの提供は不十分であることを「熱く」話した。
最後はカバンからデジカメを出して、写真を撮られた。
実は、今は定期購読はしていないが、院長になって結構長い期間、この雑誌は定期購読していた。
自分が掲載されるとは思ってもみなかったが、8月には掲載されるらしい。
どんな内容になっているのか、掲載前にチェックさせてくれるかどうか…よくわからないが、いい記事になっていてほしいと思う。
その3日後、今度はインターネット配信の医療ニュース(CBニュース)からの取材を受けた。
先日、在宅医療学会のシンポジウムで発表した後、キャリアブレイン(大手の人材派遣会社)の医療関係情報の記者さんからあいさつされた。
学会の発表内容に関して記事にしたいとのことだった。
連携施設で往診中や、当院外来通院中の患者さんの病状悪化に際して、「患者さんに24時間、365日確実に対応する」という
当院の基本姿勢を評価していただいた。
学会当日は十分な時間がなく対応できなかったが、後日、連絡をいただき、この日の取材になった。
この時は、ヴォイスレコーダーが用意されていた。(そうだよなあ・・・)
緩和ケアに絡めた、病床調整をテーマにした内容だったが、
やはり最後に記者さんが自らカメラを出して、撮影された。
最近新しく買ったZoffのえんじ色のメガネをかけた(今、一番気に入っている)。
(同じ度のメガネを6本も作ってしまい、気分によって変えているが、先日の外来診療の時、患者さんの奥様から
「先生はいつもメガネが違いますね!」と言われた。エライ!!よくぞ気づいてくださった!)
この記事はインターネット上でしか見られないが、7月末頃には配信されるとのことだった。
いずれにしても、自分たちの取り組みを取材してくださるのはありがたい。
やはり、それなりのインパクトがあったり、それなりの評価をいただいた結果だと思う。
講演会にも招いていただくようになり、今月26日には「川崎南部緩和ケアフォーラム」で、緩和ケア地域連携についてお話しさせていただくことになっている。
やはり、情報の発信は、大切なことだと思っているので、
今後もこのような機会をいただけるなら、積極的に協力させていただきたいと思っている。
17日には当院と協和発酵キリンが共催する「第4回鶴見緩和ケア研修会」が開催される。
今のところ、外部参加だけでも100名近くの希望がある。
飛騨高山の「千光寺」住職、大下大圓先生にご講演いただく。
内容は「緩和ケアとスピリチュアルケア」で、
なかなか実際の診療でも十分踏み込めない領域であり、自分も楽しみにしている。
前座として、「当院緩和ケア病棟開設後の1年間の実績報告」と題して自分が話すことになっているが、これは今回は完全にオマケみたいなものだ。
大下住職は、、寺でのお勤めのほか、複数の大学で教鞭をとっておられ、講演活動は全国に及び、著書も多数執筆されている。
自分の受ける取材などはかわいいもんだが、これからも評価していただけるような活動は続けていきたいと思っている。(平成24年7月14日)
急性期型の病院へ?
新病院に移転し、もうすぐ1年になろうとしています。
旧病院はほぼ全体が解体され、瓦礫の山になってしまいました。整地された後にはマンションが建設される計画になっています。
旧病院のとき、一般病棟での平均在院日数は20日から21日で、
急性期病床の看護基準10:1を算定できるぎりぎりの数字で推移していました。
このため、2病棟には「亜急性期病床」が8床あり、急性期を過ぎ、退院までの間、リハビリをおこなうなどの準備をおこなう病床がありました。
この病床の入院患者さんは平均在院日数の算定から除外され、入床後90日以内に退院すればよかったので、
なかなか退院が出来ない患者さんにご利用いただいていました。
新病院に移転後は、一般病棟にいて療養が主になった患者さんが医療療養病棟に転棟したり、
終末期のがん患者さんが緩和ケア病棟に入院していること、また、脊椎外科の新設により、手術後、短期間で退院する患者さんも増えたため、
平均在院日数は急激に短縮し、現在は14日程度になっています。
単純に計算すると、今まで21日入院していた患者さんが14日で退院するわけですから、7日分ベッドが空いてしまうことになります。
病床稼働率を下げないようにするには、より多くの患者さんが入院しないと「空きベッド」が増えるわけです。
一方、紹介率(新し平和病院を受診する患者さんのうちで、他の施設から紹介されて受診する患者さんの割合)は緩和ケア科、脊椎外科などの
紹介患者さんの増加により、以前は16〜17%程度だったのに対し、現在は28〜29%と高い数字を示し、
明らかに、平和病院を利用される患者さんの流れが、「慢性期型」から「急性期型」へと変化していることを示しています。
このため、この4月には亜急性期病床を一般急性期病床へと再転換することを決め、申請しました。
ただ、平和病院は地域に根ざした病院として、66年の時を刻んできた病院です。
地域において急性期、慢性期、療養、介護、そしてターミナルステージと、
長い人生における様々な場面でお役に立てるような病院でいることが大原則だと思っています。
建物、診療体系が変化しても、根底に流れる理念は変えることなく、今後も歴史を育んでいきたいと思います。
4月25日は創立記念日で、前日には永年勤続表彰もおこなわれます。
今年は、なんと、勤続40年表彰の職員が2名もいます。
(本当なら、1週間のハワイ旅行無料招待!でもプレゼントしたいところですが、残念ながら病院には余裕がありません!・・・ごめん!)
患者さんだけでなく、職員にも愛され、長く務めてもらえる病院でありたい。
そんなことを感じる今日この頃です。(平成24年4月22日)
第3回鶴見緩和ケア研修会
ちょっと前の話になってしまったが、
2月28日、平和病院2階の外来ホールで第3回鶴見緩和ケア研修会が開催された。
今回は武田薬品工業と平和病院の共催で
学術講演:メラトニン受容体アゴニスト「ロゼレム」による不眠治療と
めぐみ在宅クリニック院長:小澤竹俊先生による特別講演
「緩和ケアの魅力」
〜どんな私たちであれば良い援助者になれるのか?〜
がおこなわれた。
小澤先生は緩和ケア、特にスピリチュアルケアの分野では有名な先生で、
臨床ばかりでなく、教育にも力を入れられ、
著書も多く執筆されている。
医療者のための実践スピリチュアルケア(日本医事新報社)
命はなぜ大切なのか(筑摩書房)
13歳からの「命の授業」(大和出版)
苦しみの中でも幸せは見つかる(扶桑社)など・・・
当日は院内外から80名を超える参加者が来院し、
動画、歌、などを交えた講演は、先生の熱意が伝わり、あっという間に時間が過ぎるような・・・
まさに、引き込まれるような感覚で聴かせていただいた。
自分も、最近はたまに講演を依頼されるが、
話の内容もさることながら、話し方、資料など、どれをとっても素晴らしく、
自分などは足元にも及ばないと痛感し、とても勉強になった。
参加者からの評判も素晴らしく、
講演後は先生の直筆のメッセージ入りの著書を多くの方が求めていた。
今後もこの研修会は定期的におこなうが、
今回のような参加してよかった・・・と思ってもらえるるような会にしていきたい(平成24年3月10日)
神奈川新聞
先日、女優のかとうかず子さんが平和病院に来院した。
別に、病気の治療に来たのではなく、神奈川新聞社の企画特集の対談のためだ。
3月4日(日)に掲載されたMedical Report
「なぜおこる 腰痛・足のしびれ・・・」の題で紙面一面全体に掲載された。
「日本人が訴える痛みの中でもっとも多いといわれる腰痛。高齢化が進むにつれ腰痛患者は年々増加している。
腰痛やそれに伴う足のしびれの治療法にはどのようなものがあるのか。
また、有効な予防法はあるのか。
これまで脊椎・脊髄治療で数多くの手術をしている、平和病院・横浜脊椎脊髄病センターの田村睦弘センター長に、
女優・かとうかず子さんがお話しを伺った。」
という感じで、対談内容が記事になっている。
なんと、対談が終わった後、私も入った3人の写真も載せていただいた!
この2月に開設した脊椎脊髄病センターの患者さんは順調に増え、手術症例数も大幅に増えたため、
外科系一般病棟(5階東病棟)のベッド稼働率はかなり高くなっている。
最近、メディアからの平和病院・横浜脊椎脊髄病センターの注目度は高く、「病院の実力」などにも掲載されている。
中小病院にとって、地域の病院としての基本的な機能を維持することは、もちろん基本であるが、
それだけで病院を安定して運営していくのは厳しい時代となっている。
新病院に開設した脊椎脊髄病センターは、「地域の枠を超えた特色ある専門性の高い医療の提供」という
もう一つの機能として、順調な滑り出しをみせている。
今後、特色ある医療をさらに増やせるかが、病院にとって大きな課題となる。
記事の内容は脊椎脊髄病センターのサイトから見ることができるので、ぜひチェックしていただきたい。(平成24年3月9日)
初めての新潟
1月20日(金)に、毎年恒例の東芝医療責任者会議が開催された。
いつもは秋に開催されているのだが、今年は事情でこの時期での開催になった。
会場は、全国の東芝の事業所、工場のある場所で設定され、今年は、新潟の柏崎でおこなわれた。
東芝の医療部門をつかさどるHAS、東芝健康保険組合、
東芝病院、東芝林間病院、平和病院などの関係者が一同に会し、昨年度の運営状況、収支状況の報告、
来年度の運営方針などを報告し、情報交換、共有するのが目的だ。
どこの病院も経営状況は厳しい。
冬の新潟は、ものすごく寒いだろう・・・・と思い、当然雪が降り積もっていることが予想されたので、
ずっと前、スキーに行ったときに買ったスノーシューズを引っ張り出し、
久々に「ももひき」もはき、重装備で出かけた。
2日間、病院を留守にするので、具合の悪い患者さんが心配だったが、出発前日の夜中と、当日の明け方にお看送りがあったが、
さいわい、期間中は何とか患者さんの急変もなかった。
上越新幹線の長岡までの間の景色は、まさに雪景色で、新潟は、さぞかし雪深い!という感じなのだろう・・・と思っていたが、
いざ長岡に着くと、予想外に雪は少なく、もちろん道の路肩には除雪された雪が少しはあるものの、屋根の上にも雪はほとんどない!
他の参加者が、普通のスーツなのに、自分だけ、防寒モードで、完全アウェーな感じだ!
そこからバスに乗り、昼食の場所に移動。
柏崎はご当地グルメで
「鯛茶漬け」が名物になりつつあり、全国丼物選手権でも上位になっているとの事で、
「レストラン日本海」で、鯛茶漬けを食べた。
おいしかったけど・・・肝心のだし汁がもう少し熱々だったら・・・もっといけてたのに・・・ちょっと残念!
その後に会場の柏崎工場に到着、会議が始まった。
終了後は宿泊場所の「日本海の天守閣」のキャッチフレーズの「岬館」に移動した。
実は、この日は自分の誕生日で(なんと59歳!、来年は赤いちゃんちゃんこじゃないか・・・)、
結婚してから誕生日を自宅以外で迎えることがあったか・・・あまり記憶にない。多分、初めてじゃないかな?
それはともかく、この日ばかりは絶対に呼ばれることがないので、、久々にお酒も飲める。
新潟は酒どころ、地元柏崎の原酒造の「越の誉」という銘柄のお酒が出たが・・・「う〜〜まいつ!」
大吟醸無濾過生原酒「原酒生搾り」というもので、さっぱりとした口当たりでくどくなく、くいくいいけてしまう!
風呂に入り・・・
やっぱり、たまにはこういうこともないとなあ・・・
翌日は、東京電力柏崎刈羽の原発に出かけたが、さすがに福島の事故の後だけに、コスト削減で、パンフレットも無し!
原発事故のときにニュースで何回も見た原子炉の構造模型などが見学できた。
ここの原子炉も最期の1基がもうすぐ定期検査に入るとの事だった。
その後、BWR運転訓練センターといって、電子力発電所のコントロール訓練センターを見学、
原発の制御版のシミュレーターが設置され、緊急時の訓練などがおこなわれる場所だ。
まるで、宇宙戦艦「ヤマト」の操縦室みたいな感じ。
昼食はバスで寺泊まで移動し、魚のアメ横、市場通りを訪れた。
(移動の間、ほんのわずかな晴れ間の間に佐渡ヶ島の姿も見ることが出来たのも、運が良かった!)
ガイドさんによると・・・普段は大賑わい!との事だが・・・なんだか閑散としていた。
お土産に蟹を買うわけにも行かず、魚市場なのに饅頭と笹団子を購入!(ここの饅頭も皮がモチモチでうまい!)
またバスで移動し弥彦神社に参拝した。
神武天皇の命を受け、住民に海水から塩を作る技術や、
漁、農耕術などを教えたといわれる天香山命(アメノカグヤマノミコト)を祭っているとの事だった。
帰りの新幹線の時間も迫り、あわただしく神社を後に、燕三条駅で解散となった。
その後、ニュースや天気予報でご存知のように、新潟は大雪に見舞われ、
いろいろな被害も出ているようだ。
自分が行ったときのイメージからは、想像もできないが・・・
会議の開催がもう少しずれていたら、大変なことになっていただろう。
冬の荒れた日本海、豪雪も見てみたかった気もするが・・・やはりこんなことを考えては
地元の人たちにとっては不謹慎なことになってしまうのだろう。
病院からの連絡もなかったが、翌日の朝7時には待ち構えたように緊急コールがあり、さっそく呼び出された。
結局、日曜日は1日病院に缶詰になり、2日間の留守は、後が大変ということを改めて思い知った。
今年の6月には、どうにか常勤で緩和ケア医を確保できそうな雰囲気になって来ている。
実は、この4月から経験豊富な緩和ケア医が就職する可能性もあったのだが、年末に移動を断念したとの返事があった。
かなり期待していただけに、ものすごく残念だったが、6月が待ち遠しい・・・
それはともかく、来年の医療責任者会議には、胸を張って病院の業績向上を報告できるよう、気を引き締めて行かなければ!
2月には待望の横浜脊椎脊髄病センターが開設された。
病院も活気づくだろう。
緩和ケア科も負けないように、さらに地域の緩和ケアの質の向上に貢献できるように頑張らなくてはならない。
50歳台最期の1年は、体力の衰えを気力でカバーして乗り切っていきたい。(平成24年2月6日)
葬儀会社に思うこと
平和病院には緩和ケア病棟があり、緩和ケア科の患者さんは一般病棟にも入院している。
状態が安定し、入院期間が長期になる場合は療養病棟にも患者さんがいる。
今では年間300名を超える患者さんが紹介されてくる。
もちろん、痛みのコントロールが出来たり、いったん入院しても状態が改善して在宅に復帰したり、
当院で在宅療養の支援を構築し、ご自宅にもどる患者さんもいるが、
残念ながら、病院で最期の時を迎える患者さんも多い。
亡くなってからご自宅に帰る場合にしても、安置される場所に移動される場合も、
ご家族が葬儀会社に連絡を取り、病院にお迎えが来る。
あらかじめ、葬儀を執り行う業者さんを決めている場合と、そうでない場合があるが・・・
いずれにしても、多くの葬儀会社の職員を目にする。
自分も含め、病院のスタッフは、患者さんが人生の最期をいかに穏やかに過ごしていただけるか、
それぞれの職種が専門性をもってかかわり、連携をとりながら、患者さんやご家族とかかわっていく。
亡くなった後も、職員は患者さんのお体をきれいにし、場合によってはご家族も参加してお化粧などをし、
お気に入りの服に着替えたりして退院の準備を進める。
亡くなっていても、その一つひとつの動作に声かけをおこない、葬儀会社の職員の到着を待つ。
自分も準備が整った後、病室に入り、ご家族と、闘病中のことや、昔の思い出などを、短い時間ではあるが、お話ししたりもする。
病院での最期を担当するのが葬儀会社の職員だが・・・その態度は会社によって様々だ。
たいていはきちんとした服装で来院するが、中には、こいつら、なに考えてんだ!
と思うように、だらしのない服装でやってくる会社もある。
自宅からとりあえず出てきました・・・みたいにジャージ姿のまでいるのには、あきれて物が言えない!
ご遺体に対しての扱い、ストレッチャーの操作などもピンきりで、
病室のあちこちにぶつけて平気な顔をしている奴もいる。こういう会社の社員のなかには、
ご遺体に対しての「敬意」が全く感じられないものもいる。
せっかく整えた髪など、お構い無しにベッドからストレッチャーに移動させ、頭が大きく動くことさえある。
この時には、ご家族は廊下で待機していて、部屋の様子は見えないことが多いが、
こちらが、怒鳴りつけたくなるようなひどいところもある。
葬儀会社はご家族が選ぶので、こちらはその会社がなんという会社なのか、確認することは出来ないし、
「ご遺体への態度が、よろしくありませんね」・・・などと言いつけるわけにも行かないが、
今までの自分達やご家族のかかわりを、短い時間でぶち壊されるような気さえすることもある。
ストレッチャーにご遺体をベルトで固定するにしても、移動中にその位置が動かないようにするという意味はわかるが、
その固定の強さや位置に全くデリカシーが感じられないこともあり、がまんできないことがある。
自分だけが神経質にこんなことを感じるのかとも思ったが、やはり看護スタッフも、
「あの葬儀屋さん・・ひどかったね・・・」などと、同じように感じるらしい。
この前初めて、ご遺体の移動など、一つの動作ごとに患者さんに声をかけていたことがあった。
身なりもきちんとしていたし、固定の位置も確認し、必要最小限にしていたし、
それが会社の方針なのかもしれないが、見ていて気持ちが良かった。
あいにく、どこの会社なのかは聞けなかったが・・・
人間が生まれるとき、医療スタッフは細心の注意を払うだろう
長い人生を終え、闘病を終え、ご遺体となってやっと病院から開放されるときにも、
最大の敬意を持ち、丁寧な扱いをしてもらいたいと、お見送りの時にはいつも思ってしまう。
ご家族から葬儀会社をお聞きし、チェックしたいとも思ってしまう。
病院は機能評価される時代だ。
葬儀会社にもそんな仕組みとまでは行かなくても、何らかのチェック機能があってもおかしくないと思う!
いつかは自分にもそんな時が来るだろうが・・・
「いい」葬儀屋さんに巡り会いたいものだ。(平成23年12月25日)
久々の取材
先日、医療経営月刊誌から取材依頼があった。
一応、大きな書店では販売されている「フェイズスリー」という雑誌で、かなり前にも、一度取材を受け、
掲載されたことがある。
今回は、中小病院の生き残りをかけた戦略に関しての特集で、新病院を立ち上げ、緩和ケア病棟を開設したことを絡め、
今後の病院の戦略を語る・・・といった内容だ。
10月24日の夕方に取材のアポを取り、1時間ほど「熱く」語った。
取材には2名の担当が来院したが、主には女性記者がにっこりと微笑みながら質問をしてくる。
だいたい、話した内容が文章になるのだから、話し手が、話しやすいような雰囲気にするのがプロなんだろう・・・
自分の話す内容に、笑顔を絶やさず、大きくうなづき、のせてくるのがうまい!
女性ヌードを撮影するカメラマンが、相手を「いいよ〜〜」「かわいいね〜〜〜」などと言いながら、乗せていくのと、同じ手法か・・・
さすがに服は脱がなかったが(そんなことしたらセクハラものだ)、心は裸にされそうだ!
よくもまあこんなに話すもんだと、自分でもあきれるくらい喋りまくった感じがした。(喉がカラカラ)
本来は寡黙なんだが・・・???
最期に写真を、ということになった。
実は顔写真くらいは載せてくれるだろうと思い、その日はネクタイを慎重に選んだのだが・・・
残念ながら、モノクロでの記事のようで、ちょっと残念!
もう一人の担当者と話している間に何枚か撮影された。
デジカメなので、写り具合がすぐにわかるので、チェックさせてもらったが、
「これなんか、いいんじゃないですか?」と、言われた写真は、自分で見ると、なんだかトホホ・・・状態で、
いやいや、自分はもっといい男のはずだ!という幻想を捨てきれず、何回もダメだしをしたが、
結局、元の顔が一緒なので、変わり映えがしない。
残念ながら、写真は正直なんだろう・・・
残りの、病院の全景や緩和ケア病棟の写真は、こちらで用意したものを添付して送ることになった。
12月号に掲載されるようなので、楽しみではある。
そんな事があって数日後、今度は、ある「経済誌」からの取材申し込みがある、と、事務長から連絡があった。
何でも、「地域医療」に関してのインタビュー記事で、新病院も建設されたこともあり、申し込みが来たようだったが・・・
元ボクシングの世界チャンピオンがインタビュアーになるらしい。
連続の取材話だったので、新病院効果はすごい!と思った。
なんか超有名になったみたいじゃないか!
一応話を聞いて、取材の日程を決めようと思ったが、
電話の相手が、
「最期になって申しわけありませんが、取材に関しては、取材費を『いただく』ことになっていまして・・・」
と、きりだした。
え〜〜〜〜っ!
こっちがお金を払うのかよ!
何でも4分の1ページで7万円!ということだ。
これを聞いて思い出した。
何年か前にも、同じような申し込みがあって、そのときのインタビュアーは元「スケバン刑事」の女優さんだった気がする。
どうせ話すなら、「元世界チャンピオン」より「女優さん」のほうがいいよね・・・
とは思ったが、ただでさえ、病院の経営状況は厳しいのに7万円もよけいな出費は出せない!
基本的に「ミーハー」なので、少しだけぐらついたが、丁重にお断りした。
こっちがお金を払わなくても、取材に来ていただけるような、そんな素敵な病院にしたいものだ。(平成23年10月29日)
結婚式
先日、この3月まで平和病院で外科医として勤務していたMくんと、外来看護師の結婚式があった。
ちょうど、この日は国立がんセンター中央病院で開催される緩和ケア研修会の手伝いを頼まれていたが、
前日の1日だけで勘弁していただき(2日間開催されるので)出席することが出来た。
会場は、横浜大桟橋にあるレストランで、結婚式は屋外の桟橋に設定されていた。
一般の観光客も多く、多くの人に祝福れる式になった。
M君は同級生のF君とともに、2年間勤務してくれた。
新病院移転までの苦労を経験し、新病院で勤務できず、4月には大学の人事で船橋に転勤し、
この10月からは大学にもどる。
千葉大学の臓器制御外科の宮崎勝教授は、来年の日本外科学会を開催する学会会頭で、
学会に向けての医局員の苦労は想像を絶するものがある。
この9月まで勤務していたMiy君も、10月からは大学勤務なので、一緒に苦労を共にすることになる。
それはともかく、新郎、新婦も平和病院関係者なので、式はアットホームで
式の開催にあたって、まず新郎の挨拶があり、つぎに自分の挨拶、外来師長の挨拶と続き、
乾杯は船橋中央病院の院長先生(医局の大先輩でもある)の音頭で行われた。
船橋の医局には、平和病院OBのO君やS君が勤務しており、懐かしかった。今やO君は外科の「部長先生」だ!
出席できなかった外来スタッフのメンバーが湾内遊覧船に乗り、「結婚おめでとう!」の横断幕を手作りし、
式場(桟橋にあるので、船が良く見える)に接近するなど、サプライズ演出もあり、
(波が高く、海に落ちそうになったとか・・・?)
いつの間にか新病院で撮影されたビデオに新郎が登場し、新婦にプロポーズするなど(正式にプロポーズの言葉を言っていなかったらしい・・・)
斬新な演出もあり、ほのぼのとした、いい結婚式だった。
これもM君の素直で誰からも愛される性格の賜物か・・・と思われた。
きっと新婦もそこにほれたに違いない!
最後は新婦が、両親に感謝の手紙を読む・・・のだが、
出席していた先輩外来看護師は、めちゃくちゃ泣きじゃくるし・・(この場面だけ出なく、ティッシュの箱をテーブルに置いて泣きまくっていた)
自分も最近、年のせいで涙腺が緩んでいるので、ほろりとさせられた。
自分の娘が結婚する(いつになることやら)時には、このパターンの演出は勘弁してもらいたい。
号泣では収まらないかもしれない・・・(誰が泣くもんか!とも思うが)
患者さんも、二人を祝福してか、落ち着いた状態で経過してくださり、緊急呼び出しもなかった。(その日の夜には呼ばれたが・・・)
新しいスタートをきった2人が、末長く、幸せに暮らしてほしい、心から、そう思えるようなすてきな結婚式だった。(平成23年9月30日)
第1回鶴見緩和ケア研修会
6月22日、新病院会議室で、「第1回鶴見緩和ケア研修会」が開催されました。
平和病院と、協和発酵キリン、久光製薬との共済で、
当初の予定をはるかに上回り、外部からの参加者だけで130名を超えてしまい、
急遽テーブルを撤去し、椅子のみに変更、それでも、内部職員は入れない状況でした。
用意した軽食も100個だけだったので、申し訳ないことをしました。
研修会に先立ち、6時半からは緩和ケア病棟の見学会も行われたので、
この多くの参加者も、講演そのものより、「新病院見学効果」によるものと思われましたが・・・
今回の講演は、外部の先生をお呼びせず、自分が
「当院における緩和ケア、今までと、これから」と題して、お話させていただきました。
最近は、外部の病院で、時々講演を依頼され、話をす機会もあったのですが、
今回は参加者も多く、初めて自分の病院で開催することもあって、いつもより、だいぶ緊張しましたが、
アドレナリンが出まくったのか?
終わったあとは、久々の高揚感と、充実感も感じることが出来ました。
お手伝いいただいたメーカーのスタッフの皆さんや、平和病院の職員には感謝の気持ちでいっぱいです。
この研修会は、緩和ケア病棟開設の条件にもなっており、
今後は内容を十分検討し、ゲストもお招きし、より充実した研修会に育てて生きたいと思っています。
先日、参加者の名簿を見ましたが、基幹病院の先生方、診療所の先生方、地域の訪問看護スタッフを始め、多くの方々がいらっしゃっており
この地域に初めて出来た「緩和ケア病棟」への関心の高さが感じられましたが、
講演の中で、夜でも、休日でも出来る限り迅速に、緩和ケアを必要とする患者さんを受け入れる「コンビニ病院」を目指すと宣言したので、
今後は紹介してくださる患者さんも増加することが予想されます。
自分の首を絞めたような感じもありますが、
今後は今まで以上に「迅速かつ良質な」対応を目指し、地域から「がん難民」を無くすため、努力していこうと思います。
ただ・・・29日(水)には関東労災病院での緩和ケアに関わる講演を依頼されており・・・
今回参加者の中には関東労災のスタッフの方も何人か参加されていたので、
全く同じお話しをするわけにもいかず、どうしたものか・・・と考慮中です。(平成23年6月24日))
てんやわんや
新病院への移転が秒読みになってきた!
明日、28日(土)の午前中で、現在の病院での通常外来業務は終了し、外来部門は一気に引越しの準備にかかる。
このため、救急対応も含め、6月3日の朝までは外来患者さんの診察が出来なくなる。
6月3日(金)の朝からは、外来診療を再開するが、
電子カルテへの移行、受付機の使用など、全く体制が変わるので、かなりの混乱が予想される。
先日、外来、入院の、電子カルテ使用のシミュレーションが行われたが・・・
なれない業務に戸惑う職員も多く(私も含めて・・・)、2時間半の講習が終わる頃には、
頭が朦朧として、パソコンではなく、自分がフリーズしてしまった。
金曜日には「パンドラの箱」を開ける気分だ!
もちろん患者さんにはご迷惑をおかけしないよう、全力を尽くすが・・・
駐車場の運用も含め、直前にならないと決定できなかった事項も多く、おそらく、しばらくの間は、
多くの「お叱り」をいただくことになりそうな気がする。
内覧会は5月30日(月)の予定だが、天気予報によれば大型台風が直撃してくる予想で、
はたして「記念植樹」ができるかどうかも危ぶまれる。
鞄月ナの会長さんが、お忙しい中、平和病院のために、わざわざ来てくださることになっており、
てるてる坊主を大量生産してでも無事執り行いたい!
5月31日(火)は朝から7台の寝台車両を駆使して入院患者さんの引越しになる。
今日、詳細な打ち合わせが行われたが、旧病院、新病院にそれぞれ医師、看護師を配備しなくてはならず、
移動専属の職員、重症患者さんのために車に同乗する職員など、それぞれに職員が必要で、
事故の起こらないよう、万全の体制で望まなくてはならない。
本格的な引越しに向け、各部署は事前に運ぶ細かな荷物をダンボールにつめ、すでに新病院に運び込まれている。
院長室の荷物も、ほとんどすでに新病院に運び込まれており、現在は「ほぼからっぽ」状態だ。
「新院長室」の備品は、ほぼ新しいので、今使用しているキャビネットや引き出しなどは使わなくなる。
予算の関係で、すべての部署の機器を新調するわけにもいかず、
各職員は、それぞれの部署をまわり、自分達の部署で使用できるような備品にラベルをはっていく。
院長室も、キャビネット、机、ポット。電子レンジ、カラーボックス、扇風機、引き出しつきの棚などには、
まるで競売にかけられたように、「リハビリ」とか「5階スタッフステーション」とかのシールがべたべた貼ってある!
「新院長室」はまだ新築の臭いが強く、空気清浄機、冷蔵庫、キャビネットは自前で調達する予定だが、買いに行く暇もない!
新しい病院の病棟は4階西(医療療養病棟)、東(内科系一般病棟)、
5階西(緩和ケア病棟)、東(外科系一般病棟)の4種類に分かれているが、
緩和ケア科の患者さんは、緩和ケア病棟だけでは数が足りず、結局「すべての病棟」に患者さんがいることになってしまった。
自分のベースは緩和ケア病棟なので、予定では朝8時半から毎日、モーニングカンファレンスがあり、
その後9時20分まで病棟指示、9時20分から月曜日から木曜は緩和ケア科外来。
10時には入院対応枠があり、週に4人の新規入院に対応できる体制にしている。11時からは毎日2名の相談枠が決められ、
まさに「分刻み」のスケジュールだ!。
午後はすべての病棟の患者さんの回診、他の病棟患者さんの指示だしを行う。
もちろん、「院長業務」もあり、夜は研究会やら地域連携の会議やら・・・
体力勝負の年になる予感がする。
今も、外科の出張医が「兼務」で緩和ケア科をバックアップしてくれており、大いに助かっているが、
早く一緒に働いてくれる新しい「緩和ケア医」がほしいところだ。
先日、横浜市立市民病院の緩和ケア研修会のお手伝いをしたとき、
来年緩和ケアに進みたい希望のある方を紹介していただいた。
専門医を目指しているとのことで、平和病院は学会の認定研修施設でもあり、
「ぜひ当院にきてください!!!!」と、ご挨拶しておりたが・・・
いい返事を聞きたいと願っている。
それはともかく、まだまだ新病院の運用で決めなくてはならないこと、決まっていないことも多く、
しばらくは、てんやわんやの状況が続きそうだ。
今の楽しみは7月の「日本緩和医療学会」で札幌に行くことで(もちろん、遊びに行くのではなく、ちゃんと発表もある!)、
絶対呼ばれない場所で久々のビールを飲むことができるとおもえば、これからの大変さを乗り切るモチベーションにもなる。
とにかく・・・新病院開業は1週間をきった!
明日は自分の、現病院での最後の当直になる。
新しい病院に移るのはもちろんすごくうれしいが、20年間勤め、多くの思い出が詰まった病院を去るのはとても寂しい。
多くの経験を積ませてもらった院長室とも、もうすぐお別れだ。
新しい病院で、新しい経験、新しい思い出を一つひとつ作っていくのにも、自分の心身の健康が基本になる。
もうすぐ毎年の健康チェックの時期になる。今年で術後7年になる・・・
検査結果が何事もなく、自分にとっても、全職員にとっても、素晴らしい思い出が作られていく病院になることを願っている。
(平成23年5月27日)
さあ、新年度!
4月1日、新年度が始まった。
いつもと同じ朝ではあるが、この日はなぜか気合が入る。特に今年度は新病院への移転というビッグイベントが待ち構えている。
4月25日には竣工式が予定されており、新病院の内装も急ピッチで行われ、植栽もはじまった。
今回、平和病院は8人の新入社員を迎えた。
外科医師2名、作業療法士1名、看護職員3名、補助1名、病棟クラーク1名だ。
午後には入社式が行われ、毎年のことながら、示達をおこない、理事長としても挨拶をおこなった。
3月までの外科医、三島と藤咲は2人とも2年間継続勤務という、異例の人事だったので、
久しぶりの入れ替えになった。
今年度は一人が1年、もう一人は半年ごとの交代になる。
他の職種の職員には出来るだけ長く平和病院で務めてもらいたいと毎回思う。
毎年、創立記念日には永年勤続表彰式が行われるが、今年は自分自身が勤続20年!になる。
ずいぶん長く務めたとも思うし、着任した時のことを思うと、ずいぶん若かったとも思う(仕事は今のほうが忙しいが・・・)
あと何回、院長として新年度を迎えられるか、
一応の定年は65歳だが、あまり長く勤めず、後輩に道を譲ることも必要だと考えている。
それはともかく、この1年は平和病院にとって記念すべき年であり、将来の方向性を決める大事な年になる。
新しく病院を作るということは、かなりのエネルギーと資金を必要とする(めぐりあわせも・・・)。
多大な資金を使ったあとの経営の健全化は、新病院での大きなテーマの一つとなる。
ただ、やはり肝心なのは、新しい病院で勤務する職員の「心」であり、
これが伴わない限り、新病院は単に新しい「建物」になってしまう。
新病院を最大限に活かすのは、やはり平和会の基本理念、「患者様にとって、いつも優しく、誠実であること」の遵守、
平和会職員の行動基準に定められた事柄であり、今年度の平和会の基本方針の中でも最も重要な事項と位置づけている。
新病院の機能を最大限活用するためには、医師、看護師をはじめとした職員の確保も継続して行わなくてはならず、
毎年のことながら、院長としての大きな課題となる。
新しく、綺麗な病院は職員確保には、少なくとも「マイナス」になることは無い。
ちょうど新年度の始まるのにあわせたかのように、院内の桜が開花した。
毎年見事な花を咲かせてきた桜も、今年が見納めになる(移植は困難らしい)。
厳しい冬を耐え、花を咲かせる桜のように、平和病院も困難を乗り越え、花開くことを願っているし、
自分も「花咲じいさん」になって、職員とともにすてきな花を咲かせたいと思う。(平成23年4月3日)
緩和ケア病棟開設の悩み
現在、平和病院緩和ケア科では、一般病棟と介護療養病棟で、入院患者さんを受け入れている。
ところで、「緩和ケア科」の名称は、いろいろな病院でも一般的に使われているが、
厚生労働省が定めている正式な「標榜科」ではない。
このため、正式な病院の看板などには「緩和ケア科」と、表示することは認められていない!
同じように「透析科」もダメらしい。
正式な標榜科にかかわる通達が行われる以前の表示に関しては「既成事実」として大目に見てもらえるらしいが、
平和病院のように、新しく作られる場合は許されないらしい。
したがって、新病院には「緩和ケア科」との表示が出来なくなっている。
ホームページなどは、「公式な」ものではないので、かまわないらしいし、診療情報提供書などには「緩和ケア科」と書いている。
正式に許可されている名称は「緩和医療内科」、「緩和医療外科」、らしいが・・・
そもそも自分は基本的に外科医であって、内科医ではないし、
外科医だからといって「緩和ケア外科」って何よ!って感じで、全くしっくりしない。
これだけ「緩和ケア科」あるいは「緩和医療科」が、一般的に通用しているのに・・・何とかしてほしいと心から思う!
それはともかく・・・
新病院ではご存知のように「緩和ケア病棟」を開設するので、今までの患者さんの受け入れ方法を変えざるを得ない。
今まで、学会や、講演会などで、自分は、
「一般病棟での緩和ケア患者さんの受け入れは、がん難民を無くすための要であり、
緩和ケア病棟からあぶれてしまう患者さんやご家族を迅速に受け入れることが、地域緩和ケア連携に不可欠である」といい続けてきた。
多くの患者さんを受け入れる中で、「緩和ケア病棟」は、実は敷居が高く、費用もかかり、貴族の病棟のようだ・・・とも思っていた。
そんな自分がもう少しで実際に「緩和ケア病棟」を運営することになる。
緩和ケア病棟では、受け入れ基準などを作成しなくてはならない。
2年前は、緩和ケア科を必要とする新規紹介患者さんは年間50人程度だったのに、今年度は260人を超えると思われるほどで、
文字通り急増しており、入院患者さんも、各病棟に分散して入るが、常時20人を超えている。
平和病院の「緩和ケア病棟」がフル稼働しても、それだけでは全員をすぐには受けられない状態になっている。
もし、「緩和ケア病棟」だけで患者さんを受け入れていれば、
今まで「小回りがきかない!」といっていた他の施設の緩和ケア病棟と同じことになってしまう!
自分が目指すのは、可及的に迅速な対応をおこない、患者さんやご家族を「待たせない」ことなので、
当然、一般病棟や、医療療養病棟も駆使して、緩和ケアが必要な患者さんの受け入れを行うつもりだが・・・
一般病棟、あるいは医療療養病棟の患者さんと、緩和ケア病棟の患者さんをどのように「区別して」受け入れるか・・・
大きな問題になってくる。
確かに、「緩和ケア病棟」は人員配置が厚くなるが、入院基本料は、一般病棟や療養病棟に比べ、圧倒的に高い。
また、「緩和ケア病棟」は全室個室だが、いわゆる室料差額が発生するのは半分だけだ(規則で決められている)。
誰が差額のある部屋に入り、誰が無料個室に入るのか・・
多くの緩和ケア病棟が抱えている悩みのようだ。
実は、今でも「緩和ケア病棟は高すぎて入れない」、との理由で当院に入院している患者さんも少なくない。
緩和ケアを必要とする患者さんを全員、迅速かつ効率的に受け入れるには、やはり「受け入れの規則が絶対必要になる。
他の「緩和ケア病棟」では、患者さんやご家族の了解のもと、まず有料個室に入ってもらい、無料個室が空いたら移動するところも多い。
病院の経営的な考えからすれば、当然のことだとは思う。
全部無料個室にすればいいじゃないか!と、言われてしまえばその通りなのだが、そうもいかない事情もある。
一般病棟に緩和ケアを必要とする患者さんが多く入院しているのに、緩和ケア病棟が「がらがら・・・」
などとなっては話にならない。
これからは、いろいろなケースを想定した受け入れのシミュレーションを行う必要がある。
「緩和ケア病棟」を持つことは、自分にとって大きな目標の一つだったのだが、
自分の目指す「バリアフリーで(構造上、段差がないことではない)、タイムロスのない緩和ケア」をいかに秩序立てて行えるのか・・・
「緩和ケア病棟」を作ることで、今までは考えもしなかった悩みが出てきている。
スタートまでの残り時間はあとわずかになってきている。
多くの患者さんを、待たせることなく受け入れ、質の高さを維持していくことは容易ではない。
ただ、最近は、緩和ケアに関わる多くのスタッフが集まってきてくれている。
いま、自分自身が体力的にも、精神的にも、余裕があるとは言いがたい状況ではあるが、
ここで立ち止まるわけには行かない。
逆に考えれば、他にはどこもまねできないような、受け入れ態勢の構築が出来る可能性もある!
自分や、集まってくれた多くのスタッフが、思う存分活躍できるような「舞台」を整えなくては!
稲垣吾郎またまた登場B
最終回の放映は、やはり自宅でゆっくり見たいと思ったが・・・
結局なかなか仕事が終わらず8時45分になってしまった。
このまま病院でテレビを見るのも寂しいしなあ・・・
というわけで、大急ぎで帰ることにした。
車のナビでテレビも見れるが、残念ながら、通勤の道はほとんど電波が入らない!
家に着いたのは9時をすぎてしまったが、事前にもらった台本のコピーをみると、さいわい平和病院のシーンはまだ先のようだ。
シーンは2回、昼と夜だ。
昼のシーンでは病室の窓の外から、総持寺の伽藍と、最近駅前に建設された高層マンションがはっきり映っていて、
「あの病室だ!」と、ピンと来る。
けっこうきれいな病室に映ってるじゃないか!
台本によると・・・
総合病院・修一の病室
梨沙、修一の洗濯物を紙袋に入れている
梨沙 「これ、洗濯してくるわ」
修一 「いつも悪いな」
梨沙が出ていく
修一 「・・・・」
梨沙の携帯電話に結んであるクラゲのストラップを見つめる
修一 「・・・・」
となっているが・・・
だいたい、このドラマは一回も見ていないので話の内容が全くわからない。
その次は、夜のシーンだ
窓の外は夜景になっている。
この撮影は最上階で行われている。
平和病院の屋上からは360度の展望で、遠くスカイツリーから富士山、みなとみらいなど、絶景だ。
新病院は今の病院から一段下がった場所なので、最上階が今の病院の1階くらいの高さになってしまう。
今の病院の跡地の利用は確実ではないが、もし、マンションが建てば、最上階はかなり眺めのいい部屋になるはずだ。
この時間帯の撮影が行われた頃、3病棟のスタッフの何人かは、ステーションのベランダに出て、
1階上で撮影されている病室をコッソリと、のぞいていたようだ。
窓際に映る人影に「あれが稲垣吾郎だ」とか、「上戸彩か?」などと、盛り上がっていたらしい。
台本では、
梨沙、窓辺に立ち外を見つめている。
梨沙 「・・・・」
ベッドの修一、そんな梨沙を見つめている。
修一 「・・・梨沙」
梨沙、ん、と修一に振り向いて
修一 「今度こそちゃんと働くから」
梨沙 「聞き飽きたよ」
修一 「ホントに、仕事探すから。・・・とりあえず、退院したら・・・」
梨沙 「いいよ」
修一 「え?」
梨沙 「そんな体で、仕事なんてすぐ見つかんないだろ。しばらくウチ泊まれよ」
梨沙、修一を全く見ない。
修一 「・・・・」
梨沙 「・・・・ちょっと飲み物買って来る」
と、立ち上がり、その場を離れる梨沙。
修一 「・・・・」
修一、梨沙の姿が見えなくなったのを確認して、梨沙のかばんの中をあさる。通帳を取り出し、ぺらぺらとめくる。
修一 「・・・・」
これで、平和病院でのシーンはおしまい。
台本にしてもたったこれだけなのだが、午後いっぱい撮影に時間をかける。
ドラマの撮影って大変なんだ・・・と、あらためて感じさせられた。
翌日のタッフの話題は、ドラマのシーンでもちきりだったが、
ほとんどが「病室がけっこう綺麗に映っていてよかった!」というものだった。
まあ、この病室は平和病院の中で、一番新しく建設された部分で、以前撮影された、狭く、なが〜い廊下の部分とはだいぶ違う。
最終回なので、撮影協力施設がテロップで流れたが・・・
平和病院の名前がない!
この前などは、「ちゃんと名前を出しますから」といっておいて出さなかったしなあ。
まあ、そんなものを細かく見る視聴者なんていないだろうが・・・
その点では「所さんの目がテン」のほうが良心的だったよね。
最終回はDVDに録画したので、記念にはなる。
新病院になる前に、今の病院のいろいろなところは写真にとって記念に残しておきたい。
さあ、新病院でも撮影はあるのか?
ただ、患者さんの入っていない病室がある!というのは、病院の経営上は好ましくないので、
院長の立場からすれば、「残念ながら、満床で、撮影に利用できる部屋などはありません!」
と、言えるくらいでないとね。
子供達からは、「父さん、一度くらいは緩和ケアでの自分の仕事でテレビにでれるくらいになりなよ!」と、厳しい注文もあるが・・・
「何かの不祥事で、頭を下げる姿」でテレビに出ることだけは避けたいものだ。(平成23年1月21日)
稲垣吾郎またまた登場!A
撮影前日の夜は、救急患者さんもほとんど来院せず、当日の午前中は、いつものように病棟の患者さんをゆっくり診察できた。
ひと段落したのが昼過ぎ。情報では撮影は午後12時半頃からの予定だ。
今回の撮影は、今は使用していない病棟のフロアなので、なかなか用事もないのにうろつくわけには行かない。
一部屋くらい、患者さんがいれば、堂々と「診察」にいけるのだが・・・
そんなわけで、上戸彩や、稲垣吾郎を間近に見るチャンスはどうしても玄関ホールくらいだ。
ここを通り過ぎてしまうと、後はエレベーターで4階に上がってしまう。
まさかエレベーターガールのようにずっと乗って待ち受けているほどの根性はない!
まずは腹ごしらえを・・・と思い、院長室にもどって「ラ王」にお湯を注ぎ、出来上がるのを待っていたら、
なにやら大きなバスが駐車場に入ってくるのが見えた。
いかん!チャンスを逃してしまう!
ただ、「ラ王」にはすでにお湯が!!
究極の選択を迫られたが、ミーハーの部分が食欲に勝り、あわてて玄関まで走った。
途中、外来の前を通ったら、クラークやら外来師長が、「私服」で、いかにも仕事をしているように出勤している!
内科の先生も「患者さんの状態が気になって」休日出勤している。
どういうわけか・・・奥さんや子供も一緒だ!
しばらく事務所に入り(玄関の真正面で特等席だ)、待っていたが、
入ってくるのはスタッフばかりで、衣装(後でよく見たら、最終回で上戸彩が着ていたモコモコの毛の付いたジャンパー)や
機材ばかりが運び込まれていく。
これまた私服の事務長が顔を出し、俳優さんたちが来院するのは1時半頃になるとのことを教えてくれた。
なんだよ、まだ時間があるじゃないか・・・
部屋にひとまずもどったが、あわれ「ラ王」は汁を吸い、悲惨な状況になっていたが、
他に食べるものもないので、仕方なくのびきった「ラ王」を食べることになった。
1時半少し前にまた事務所に入り、待ち構えていたが、すでに玄関ホールにはスタッフが待機しており、
特に相撲取りのように体のでかいスタッフが、玄関ホールで待ち構えている病院職員や患者さんのご家族に、
「病院のスタッフの方ですか?そうでなければ、本来なら出て行っていただくところですが!」などと言っている。
こら!いくら日曜だって病院は開いているし、公共の建物だぞ!
しかも撮影の場所を提供するのを頼まれたから使ってもらっているのに、
本来なら、あんたのほうが病院正面の受付の前でうろうろするほうがおかしいじゃないか!
結局、見物の職員達は外来ホールの奥のほうに移動させられていった。
さすがに事務室の中で白衣を着て座っている自分には「出て行ってください」とは言わなかったが、
チラチラと、不審な動きをしないようにこちらを見ている!
「タレントさんを見るときのマナーは云々・・・」などと説明している。
「あまり皆さんが騒ぐと、役者さんがテンパってしまうので注意してください」って・・・
何だよそれ!テンパってるのは、あんたじゃないのか?とも言いたくなったが
「温厚な」性格なので顔にも出さず?ニコニコしていた。
そんなゴタゴタがあってしばらくしてから、白いセーターを着た女の子が入ってきた。上戸彩だ!
もっとパッとした格好をしているのかと思ったら以外に地味!
後で考えたら、最終回のシーンの衣装そのものだった。前の撮影場所からの移動なので、そのままの格好で来たようだ。
デジカメも持っていたのだが、あっという間でシャッターチャンスを逃した!
それから5分くらい立ってからスタッフの動きがあわただしくなった。
稲垣吾郎登場だ。
ポケットに手を入れ、ややうつむき加減で玄関に近づいてくる。
シャッターチャンス到来!
その時、さっきの体のでかいスタッフが立ちはだかる。
事務所の中にいたクラークが構えたカメラを見つけ、「カメラはダメなんですよ!」だって。
え〜〜〜〜〜!けち!
しかも受付の前に、そのでかい体で立っているので、玄関も見えやしない。
さすがにむっとしたクラークが、
「すいません、そこ、どいてくれます!」、と反撃!「えらい!」よく言った。
しぶしぶ移動するスタッフ。
間一髪で視界は開け、稲垣吾郎を正面で見ることが出来た。でもやっぱりあっという間で・・・
上戸彩の時より数倍スタッフがピリピリしている感じだ!
恐るべしジャニーズ事務所。
写真は撮りそこなったが・・・
そうだ、正面玄関には防犯カメラが設置してある!
めんどくさがる事務当直に頼み、防犯カメラの画像をチェックしたら・・・
あったあった!上戸彩も稲垣吾郎もちゃんと写っている。
ただ・・・残念ながら画素数が・・・
執念を見せるクラークは防犯カメラの写った稲垣吾郎をデジカメに写すという驚異の裏技にでている。
自分も同じようにしているのもトホホな状態だが・・・手ぶらで帰るわけにも行かない。
なんせ、息子からメールで「父さん、できれば写真お願い!」と頼まれてるし・・・ね。
結局、そのあと、撮影は6時過ぎまで続いたらしいが、さすがにそこまで待っている根性もなく、
当直明けのこともあり、家に帰ることにした。
さて、病室はどんな感じで使われるのか・・・(平成23年1月7日)
稲垣吾郎またまた登場!
以前、このホームページのも書いたが、5年前に、フジテレビのドラマで平和病院が撮影協力したことがあり、
稲垣吾郎が主演した「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」のいくつかのシーンで病院が利用された。
その後も、何回か撮影の依頼がきて、結局、「昼メロ」と、「所さんの目が点」、などで使用されたが、
多くが「話だけ」で実現はしていなかった。
たいていが、事前にスタッフが病院を見学にくるのだが、あまりの病院の「きれいさ!」に驚いて、
結局は別の病院で撮影は行われることが多かった。
撮影されたのは「昭和50年代の設定!!」ばかりだ。
今に見てろよ!
と・・・思ったことが、新病院建設のバネになったわけではないが、
新病院の全体の躯体はほとんど完成に近づいている。
そんな中、先日フジテレビから依頼があり、ドラマで病室のシーンを撮影させてくれないかとのことだった。
現在も放映中の月曜日9時、いわゆる「月9!」の「流れ星」!
この文を読んでいる人の中でも、見ている方もいるかもしれない。
キャッチフレーズがすごいよね・・・
”偽りの愛”から”真実の愛”へ
水族館に勤務する皆から慕われている平凡な主人公。
しかし、彼には秘密があった。
人生に絶望したヒロイン。
彼女は、自分なんて、くらげのように溶けてなくなりたいと死に場所を探していた。
そんな2人が、ふとした偶然で出会ったとき、運命の歯車が狂いだす・・・
結婚、家族、すべては悲しい嘘から始まった。
そこに愛が生まれたとき、初めて自分が犯してしまった現実に苦しめられる。
生と死、正義と悪、そして本当の愛とは何かを真正面から問いかける”究極の純愛”がははじまる・・・
てなもんで・・・
自分はこんな時間にドラマを見ることは出来ないので、申し訳ないが、
こんな文章を読んでも、どんな内容なのかはよくわからないが…
スタッフの中には見ているものも多いようだ。
今回は入院した「修一」(稲垣吾郎)とそれを見舞う「理沙」(上戸彩)が出演する病室・廊下でのシーンが撮影されるらしい。
たまたま介護病棟の4階は現在、新病院移行に伴う患者さんの制限で空いているのが好都合だったらしい。
他の患者さんには迷惑がかからず撮影が可能だ。
実際は12日の日曜日の午後に撮影が行われるようだが、午前中は他の病院で撮影が行われるようだ。
そこには松田翔太も来るらしいが、
平和病院には稲垣吾郎と上戸彩だけが来るらしい。
撮影スタッフは40人も来るとのことだ・・・
シナリオのコピーが送られてきたが、たった数シーンでも4時間程度はかけるようだ。
前の日は当直で、いつも昼ごろまでは仕事をしているので・・・
12日は居残りをしてみようかな・・・
やはり、病院の責任者としては、見届けていないとね!とかいって、ミーハーの血は騒ぎ出す!
上戸彩にオロナミンCでも差し入れして、「元気はつらつ?」などと、声でもかけてみたいが・・・
以前の撮影の時は控え室とか決めていたけど、今度はどうするのか・・・
以前の稲垣吾郎の控え室は院長室の奥で、嫌でも院長室の前を通らざるを得ない状況だった(にしてしまった)
院長室のドアを開けっ放しにしていたので、何回も「ナマ吾郎」がみれたけどなあ・・・
まあ、いずれにしてもひと目くらいは稲垣吾郎も上戸彩もナマで見られるチャンスがあるので、楽しみではあるよね!
スタッフの中には「休日出勤しようかなあ〜」など、言い出すものも多く、いつもは言ったこともないくせに!
いずれにしても、当日の様子は、後日再度報告!(平成22年12月10日)
アンケートを行います
平和病院では緩和ケアに積極的に取り組み、多くの患者さんのご紹介をいただいていますが、
お元気になられ、退院していかれる患者さんに対しては、退院時にお渡しするアンケート用紙を毎月集計をし、
職員にも結果をフィードバックしていますが、
緩和ケア科の患者さんには、このようなアンケートはおこなえないため、
自分達が提供している緩和ケアの質の評価が、なかなか出来ていないのが現状です。
このため、平和病院緩和ケア科では、日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団研究事業として行われる、
「患者様が受けられた医療に関するアンケート」調査に協力することになりました。
この調査は日本ホスピス緩和ケア協会が協力し、東北大学大学院医学系研究科保健学専攻緩和ケア分野が行うもので、
病院で亡くなられた患者さんのご家族にアンケート調査用紙をお送りし、ご回答をいただくもので、
それぞれの施設が提供した緩和ケアの質を評価していただくものです。
全国的な統計が行われ、終末期医療をどのように発展させていったらよいのかを検討することを目的とし、
各施設にもその結果がフィードバックされます。
いまだ悲しみの中にいらっしゃるご家族にとっては、アンケートをお送りすることで、
つらい気持ちになられる方もいらっしゃるとは思いますが、
皆様の率直なお気持ちを教えたいただき、今後の終末期医療の質の向上・充実に活かしていきたいと思います。
このアンケートの趣旨をご理解いただき、ぜひ、ご協力をいただきますよう、お願いいたします。
なお、アンケート用紙は近日発送の予定でおります。(平成22年10月24日)
早く行きなよ!
9月21日は息子の誕生日だった。
同時に、その日は、自分達夫婦が入籍した日でもある。
今まで、家族そろってケーキにろうそくを立て、お決まりの「ハッピーバースデー」の歌を歌うという、
絵に描いたようなシーンが毎年行われていたのだが・・・
今年は息子の文化祭の打ち上げと重なり、(毎年「お化け屋敷」をやっている)
友達と焼肉を食べてくるというので、せめてケーキだけでも・・・と、仕事を残して、いつもより早めに帰ってきたが、
息子が帰ってくる前に「ライディーン」がなった。
帰るときには緩和ケア科の患者さんは、珍しく安定していたので、誰が具合が悪くなったのか、想像できなかったが・・・
入院中の外科の患者さんが急に腹痛を訴え、検査したら「消化管の穿孔」が疑われるとのことで、
これから緊急手術を行う可能性があるとのことだった。
いま、平和病院では全身麻酔は週1回、非常勤の専門医が担当しているが、(緩和ケア科の仕事が増え、自分が担当しきれなくなった)
そのほかの日や緊急手術の場合は、大学にいる頃に麻酔科に在籍していたこともあり、
「麻酔科標榜医」の資格もあるので、自分が担当している。
これからご家族を呼んで手術の説明をし、手術室のスタッフを集め、準備をしてから始まるというので、
開始までには1時間近くはかかるとのことだった。
電話を切ったあと、「これから緊急手術で出かける」と、家族に話したあと、まだ時間があるので、座っていると、
娘に「父さん!何のんびりしてんのよ!」と、怒られた。
「別にのんびりしてるわけじゃないだろ!、手術にはいろいろ準備があって、始まるまでにはもう少し時間がかかるんだよ!」
「何言ってんのよ!緩和の亡くなりそうな患者さんのときは、夜中だって何だって、すぐ行くでしょ!」
「そりゃあ、状況が違うんだから、しょうがないだろ!」
「緩和の患者さんはお亡くなりになるかもしれないけど、手術の患者さんはこれから命を助けに行くんでしょ!」
「そりゃそうさ」
「だったら、よけいこんなところでのんびりしてちゃダメでしょ!なにやってんの!早く行きなよ!」
別にのんびりなんかしてるわけじゃないが・・・確かにいつもは電話を切るなり、すぐさま出かけるので、
娘からすれば、違和感があったのかもしれない。
これ以上、くどくどと言い訳しても始まらなし・・・そんなことしようものなら、火に油を注ぐようなものだし・・・
まあ、言われて見れば一理あるし、「そんなことお前に言われなくたって今、出かけんだよ!」と、捨て台詞を残して速攻で家をでた。
病院に着くと、案の定、まだご家族は着いておらず、結局は待機していることになり、
最終的な手術方針を決定したあと、それから1時間以上して患者さんは手術室に入室した。
手術は真夜中までかかったが、麻酔、手術はなんとか無事に終了した。
もともとご高齢で、重篤な合併症もあり、術後の状況はかなり厳しいが・・・何とか頑張って回復してもらいたい。
それはともかく・・・娘が娘なりに考え、親をどやしつけるようになるとは・・・と、変なところで感心したが、
娘に怒られて言うことをきいたようで・・・なんだか少し悔しい!(平成22年9月24日)
神奈川県救急医療功労者表彰
9月9日は「救急の日」らしい。8月7日が「鼻の日」だったり、11月22日が「いい夫婦の日」だったり、
5月1日が「恋の日」だったり(そんなのあったかな?)
とにかく、語呂合わせの日はいっぱいある。
毎年神奈川県では救急医療に長年功績があった病院、団体、個人が表彰されることになっており、
今年は平和病院が表彰されることになり、県総合医療会館で開催される式典に参加してきた。
平和病院が表彰される理由は、
「昭和21年に開設、昭和27年に法人設立、昭和41年に救急病院として告示されて以来、44年にわたり救急病院として
多くの患者を受け入れ、救急医療業務を実践している。
夜間2次応需病院として、昭和50年に横浜市病院輪番制事業に参加しており、
横浜市北部地域の救急医療の一翼を担い、地域に根ざした病院として医療活動全般に対し、多大なる貢献をしている」
とのことだ。
平和病院を含め、4病院、3つの団体、5人の個人が表彰対象になった。
少し早く着いたので、控え室で待っていると、懐かしい顔を見かけた。
同じく表彰される国立病院機構神奈川病院の院長先生だ。
実は自分が6年前に手術を受けたのがこの病院で、執刀してくださったのが、今の院長先生だ。
手術のあと数年は頻回に通院していたが、今は定期的な通院はなくなっているのでお目にかかる機会がなくなっていたが、
久しぶりにばったりと会うことが出来た。
表彰式には知事さんではなく、副知事さんが出席され、表彰状と記念品が授与される。
救急指定を受けた古い順番に賞状と記念品が授与されるが、普通は受け取る側が進み出ていただくことが多いが、
自分の席の前に立って、副知事さんのほうが席の前に来てくださるという形だ。
しかも、副知事さんがけっこう近くに立つので、お辞儀をすると頭がぶつかりそうだ!
一番初めに渡されたので、表彰状の全文
「表彰状:医療法人平和会、平和病院殿。
貴病院は救急医療の大切さを深く認識し、多年にわたり昼夜を問わず救急医療に精励され、
地域住民の健康確保に尽くされましたので救急の日を祈念して表彰します。
平成22年9月9日、神奈川県知事、松沢成文」
を読んでいただいたが、次の病院からは「以下同文でございます・・・」だけなので、なんだかちょっと得した気分になった。
平和病院の救急体制はテレビの「ER」などのあるような派手なものではない。
一度救急患者さんを済生会東部病院に転送する時に患者さんと一緒に救急車に乗っていったが、
ついたとたんに濃紺のユニフォームをつけたスタッフがたくさん集まってきて、
オ〜〜かっこいいな!と、思った
新病院のオペ室のユニフォームの色はあれがいいな!
今のはくすんだ緑でシャープさがない!
それはともかく、平和病院は、派手さはないが、長年にわたり地域の方達の突然の怪我、体調不良などを地道に診療してきた。
もちろん、夜間の緊急手術も多くはないがこなしてきた。
この表彰は、これまで長年平和病院を支えてきた多くの職員の努力に対して送られたもので、
私は、「現在の」院長の立場として代表で受け取ったに過ぎない。
先日は病院医療機能評価の再認定もいただき、医療監査においても、「他の病院に比べ、非常によく質の確保に取り組まれている」
とのお褒めの言葉をいただいた。
目に言える形で、褒められることはそれなりに喜ぶべきことであり、職員と、この喜びを分かち合いたいと思う。
オマケだが・・・
表彰式のあと、国立がんセンターで在宅ケアカンファレンスがあったので、その足で出かけた。
「呼吸困難」の管理に関してのレクチャーがあり、いつも実際の臨床でも苦労することが多いので、ぜひ行きたかった。
特に、講師の一人が千葉大の麻酔科の西野教授だったこともあり、車を飛ばして築地まで行ったが、何とか間にあった。
たまたまトイレで西野教授にお会いした。「お〜久しぶり」と、覚えていてくださったが、
自分が麻酔科の医員のときには(半年間在席していた)、もちろんまだ教授ではなく、直接指導を受けたことがあり、懐かしかった。
特になぜか自分は小児の「斜視」の麻酔をあてられることが多く、西野先生にはスーパーバイザーとして乳幼児の管理、
挿管などずいぶん役立つ知識をを教えていただいた。
さすがに今は手を出していないが、平和病院に着任した頃は小児のヘルニアの麻酔も平気でかけていた。
講義の肝心なところで「ライディーン」が鳴った。
緩和ケア科の入院患者さんは、今は20人を超えているが、病院を出るときには落ち着いていたしなあ、
急変するような患者さんはいないはずだと思ったが・・・・
折り返し電話をしてみると、「すいません、夜勤の看護師さんが間違って呼んでしまったみたいです!」とのことだった。
「間違い電話かよ!」
ただでさえ、呼ばれまくりなのだから、「間違い」で呼ぶのは勘弁してほしい・・・
(平成22年9月9日)
緩和ケア病棟開設に向けて
新病院工事は着々と進んでいる。
先日は、入り口から会計窓口、2階外来待合室のイメージCGが出来あがったが、
今の病院の雰囲気とあまりに違うので・・・いまさらながら期待は膨らんだ。
新しい病院で新規購入する医療機器、電子カルテの選定など、決めなくてはいけないことも多すぎる。
予算は限られているので、断腸の思い先送りにしなくてはならないものも多い。まるで事業仕分けのような感さえある。
新病院では現在の病床構成とは大きく異なり、介護療養病床は閉鎖、医療療養病床の開設、緩和ケア病棟の新設が予定されている。
緩和ケアに関しての活動は、現在でも行っており、一定の評価をいただき、紹介患者さんは急増しているが、
あくまで一般病棟で患者さんを受け入れているのが現状だ。
緩和ケアにおける一般病棟の必要性は日本緩和医療学会や日本消化器外科学会でも発表してきたし、
緩和ケア病棟が出来ても必要なことだとおもっている。
入院患者さんには波はあるが、平均15名以上は常に入院しており、定期的に外来通院している患者さんも40名を超えている。
緩和ケア科への年間紹介患者さんは今年度、おそらく250名に迫ることが予想されている。
近隣の一般病院でも、「がん難民」を地域から無くしたいとの思いを持つところも現れており、
今月の末には、平和病院での取り組み、現状、問題点などについて講演させていただくことになっている。
自分達の病院と、その病院とでは病床構成やDPC対応の有無など、違う部分も多いが、
地域の中で志を同じにする病院が出てきたことは、とても喜ばしいことだ。
実際このままのペースで患者さんが増えれば、対応の遅れは避けられない。
近隣の病院が、自分の病院と同じようなことをはじめれば、当然「競合」することになるが、
緩和ケアに限っては、お互いが切磋琢磨し、地域全体のことを考えれば、大歓迎だ。
自分達が経験してきたことが参考になれば・・・と思っている。
一方・・・
「緩和ケア病棟」に限っては、自分達にとっては「未知の領域」になる。
その運営、看護業務の流れなど、特に看護師にとっては一般病棟での受け入れとは異なった対応になる。
そんなわけで、「いくつかの緩和ケア病棟に見学をお願いしたい」との希望が看護部長から出された。
さいわい、最近では癌診療拠点病院で開催される緩和ケア研修会などで、一緒に仕事をさせていただいている先生方の中には、
緩和ケア病棟の責任者の先生方も多く。
先週も、横浜市立市民病院で行われた研修会で、国兼先生、みなと赤十字病院の黒田先生とご一緒させていただき、
見学の話をお願いしたところ、快く受けてくださることになった。
正式には平和病院の院長として、各病院の院長に依頼の公式文書を作成しなくてはならないが、出来るだけ円滑に緩和ケア病棟を開設運営させるためには、学ばなければならない点は多い。
見学に行くスタッフ達には、貪欲に、
有意義に学んできてほしいと思っている。
各病院には、その病院のカラーがあるだろうし、
当然、「平和病院緩和ケア病棟」も、独自のカラーを打ち出していくことが必要だが、基本はきちんとおさえておく必要がある。
これからは床、壁の色など病棟の色調の決定もはじまり、まさに手作りの病棟作りが本格的になる。
もちろん楽しみではあるが、責任も大きい。
どうせやるからには、質の高い、多くの患者さんやご家族から選ばれ、満足していただけるような緩和ケア病棟にしていきたい。
ただ、目指すのは「緩和ケア病棟」ではない。一般病棟、医療療養病棟、緩和ケア科外来、がん緩和相談外来、在宅支援部門、
訪問診療など、平和病院が持つ全ての機能を駆使して全てを包括的に活動させる緩和ケアセンターだ。
それには自分の考えに共感してくれる医師、看護師など、多くのスタッフが必要になる。
とても今の陣容では兵力が不足してしまうし、自分自身が燃料切れになる。
どうやって仲間を集めるか・・・課題は多い。と、言うわけで・・・
平和病院緩和ケア科では新しい病院で、地域に根ざした総合的な緩和ケア提供に参加してくれるスタッフを求めています!
多くの仲間の参加をお待ちしています。ぜひご連絡ください!
(平成22年8月10日)
学会もひと段落
7月14日(水)から16日(金)まで第65回日本消化器外科学会総会が下関で行われた。
緩和ケアに関して応募していた演題が採用されたので、前日から出かけることにした。
発表は第1日目の10時からのポスターセッションなので、
朝の8時からパネルに自分の演題のスライド原稿を貼り付けなければならない。
おりしも山口県は大雨洪水警報が連日出され、交通機関が乱れていた。
下関といえば大きな町だと思ったので、当然、新幹線の「のぞみ」の停車駅と思っていたが、
実は「こだま」しか停車しないことを前日に気付いた。
5時間以上乗り続けなくてはならず、広島で乗り換えるか、小倉まで行ってもどってくるかだ。
時間的には小倉まで行くほうが早いので、火曜日は午前中仕事をこなし、1時過ぎの新幹線で出かけた。
さいわい、徐行運転で少し遅れが出る程度だったが、これ以上遅かったらしばらく不通になっていた!
下関のホテルに着いたのだが、ふぐのシーズンでもなく・・・
しかもどしゃ降りの雨で、繁華街を探索する元気もなくなり(最近はお決まりのパターンで)ホテルのすぐ隣の飲み屋に入った。
一応「ふぐ刺し1人前!」というのがあり、値段もそこそこだったので、たのんでしまったが・・・
「これはうまい!!」・・・というほどでもなく、「梅サラダ」と、「黒豚の串焼き」を生ビールでつまみ、
朝飯のパンでも買おうかと思い、(ホテルといってもそんなにゴージャスなホテルには泊まれない)コンビニの場所を聞いたが、
いつもの横浜のイメージとは違って、かなりの距離を歩かねばならず、ズボンがびしょびしょになってしまった。
今回は自分が発表するので、病院のルールでは宿泊費、交通費も支給される(会場費は発表しなくても支給される)ので、
そこそこのホテルに泊まっても自分の腹は痛まないが、厳しい病院経営を考えると、経営責任者が高いホテルに泊まるのも気がひける。
翌日は会場の下関グランドホテルに出かけたが、同じセッション10題のうち、2題が交通事情で間にあわないという異常事態で、
しかも会場が7箇所に分散しており、これが日本消化器外科学会の発表?と、思うほどの人の少なさで・・・
じみ〜〜に発表は無事終わった。
これで、緩和ケア研修会の手伝いや、講演の依頼はあるが、学会はひと段落したので、やはりほっとした。
この2ヶ月くらいはけっこう学会の準備で時間をとられたので、これで少しは日常の業務や院長業務がはかどるかもしれない。
翌日も午前中は出席し、昼過ぎには帰ることにした。
新下関から小倉についたのはいいが、自分の乗る列車の先発の車両がまだ小倉駅に止まっており、
新下関と、新山口駅の間の川の増水で運行中止になっており、復旧のめどが立っていない!とのことだった。
テレビで被害がでているのは知っていたが、まさか自分が巻き込まれるとは思ってもいなかった。
そのまま3時間以上・・・
ようやく動き出すというアナウンスがあったものの、
自分が指定席を取っていた列車は時間調整のため「運休」となるとのアナウンスがあった。
6時間近くも立ちっ放しはさすがに勘弁なので、あわててみどりの窓口に行き、運休になっていない列車の指定に振り替えた。
学会に行く前、外来のスタッフが「お土産お願いしますね!」といった言葉を思い出し、
下関で電車を1本遅らせて買い物をしたのがあだになった!
「下関はふぐで有名だから、ふぐサブレだな!」
「そんなの、あるんですかね?鳩サブレじゃあるまし・・・」と言われたが・・・
ちょっと探すと・・やっぱりあるんだな、これが!
ふぐサブレやら、ふぐ最中やら、ふぐの缶詰やら、ふぐひれやら、ふぐ雑炊スープやら・・・なんでもありだ!
「本皮性ふぐの小銭入れ」は膨れたふぐの顔が書いてあるやつで、気に入って子供の土産に買っていったが・・・
娘には大うけであったが、息子には全く受けず、
「こんな小銭入れ使って、『ふぐ男』なんて呼ばれたらどうすんだよ!」とまで言われた。
「あんたね、私なんか父さんのお土産のシャケや、カニのキーホルダー、
嫌がんないで、けなげにもかばんにずっとつけてたんだからね!」
と、娘がかばうように」言ってくれたが・・・
あれ?なんだよ、好きでつけてたんじゃないのかよ!
それはともかく、さすがに新横浜に着いたときにはへとへとになり、とても病院に顔を出す気力もなく、
金曜日になって出勤したが・・・
さすがに二日留守にしていたつけは半端ではなく、学会準備でセーブしていた「緩和相談」の新規依頼、
新規入院、外来、往診対応がびっしり予定されており、
明日からは相当ハードな日々を送ることになっている。
ショックなことには・・・
以前書いたことのある、「京都のもみじ」に、家族が水をやってくれていなかったので、枯れかけているじゃないか!!!
あわててたっぷり水をあげたが・・・
復活は微妙だ・・・何とか持ち直してほしい。
報告は後日!(平成22年7月18日)
社員総会・理事会開催
先日の6月8日、医療法人平和会の第66回社員総会が開催された。
第59期会計年度(平成21年度)の収支報告、平和会居宅介護支援事業所「ひなたぼっこ」を
訪問看護ステーション「ひなたぼっこ」と統合し、在宅支援センター「ひなたぼっこ」として運営する件、
社員の入退社の件などの議案が無事承認された。
また、その後に開催された理事会においては、理事長の選任が行われ、
私がひきつづき理事長として、平和会の運営を任せていただけることになった。
早いもので、平成12年6月に初めて理事長・院長に選任されてから、もう10年が過ぎた!
この間、平和病院は厳しい医療状況の中、何回も大きく舵をきり、何とか荒波を乗り切り、
いま、夢にまで見た新病院に向け大きく前進している。
今回の理事長選任により、11年目の新しい船出の舵取りを任せていただくことになり、
多きな責任を感じるとともに、無事に新病院を完成させ、新たな旅立ちに向け、
病院を運営できるめったにないチャンスをいただけたことに感謝している。
来年にはこのホームページも、「ようこそ新院長室へ」と、タイトル変更することが出来そうだ!
10年間の間には自分にとっても、病院にとっても大きな変化があった。
院長になりたての頃には、「自分がなんとかしなければ・・・」との思いも強く、
ひたすら職員を鼓舞し「引っ張っていかなくては!」との気持ちが強かったように思う。
今、職員は大きく成長し、自分のほうが引っ張ってもらっているような気さえしている。
それは、自分が10歳年をとり、若さがなくなってきたというよりは、
それぞれの部署の幹部がそれぞれの役割をきちんと果たしてくれているからであり、
その分、安心して自分のやりたい仕事も出来るようになってきている。
あと何年、平和会の責任者として務めるか・・・いろいろな思いはあるが、
今は全力でやらなければならないことがいくつもある!
あせらず、一つひとつ、目標に向け、昔のようにがむしゃらに突っ走るのではなく、
かといってとどまることなく、周りの職員とともに、一緒に進んでいきたいと思っている。
平成22年6月18日)
永年勤続表彰
平和病院は昭和21年4月25日に創立された。
毎年、この日にあわせて長く平和病院に勤務してくれている職員に対して永年勤続表彰が行われるが、
今年は日曜日になるので、22日に繰り上げて行われた。
今年は25年勤続者が2名、20年が2名、15年が1名、10年が5名、5年が14名、それぞれが表彰対象になった。
各部署の責任者が出席する中、表彰状と記念品の授与を行う。
記念品といっても、残念ながら、それほど豪華なものではない。
ほんとうなら、20年も務めれば、ハワイ旅行ぐらいプレゼントしたいところだが・・・厳しい状況ではそうも行かない。
表彰の後は、いつものように「院長訓話」だ。
自分自身も今年で19年目を迎えている。
常勤になる前は半年間、週1回非常勤で勤務していたので、ずいぶん長いこと務めていることになる。
挨拶ではまず、長年勤務し、病院を支えてきてくれたことに対しての感謝をのべた。
この厳しい医療情勢の中、医療機関は人の「出入り」が激しい。
看護師の定着率をいかにあげるか、多くの病院が苦労をしている。
職場に対する愛着心、忠誠心はしだいに薄れ、雇用条件によってドライに移動を繰り返す時代になっているようだ。
もちろん、自分の病院が、どこの病院にも負けないくらい給料が高く、福利厚生に優れ、環境がよければ
職員はドンドン確保できるのかもしれない。
来年の春には、病院は新しくなる。職場環境は今と比べ物にならないくらい良くなるだろう・・・
ただ、環境はハード面だけではない。
働く職員の人間関係は働きやすさを大きく左右する。
病院全体の「雰囲気」「基本的なコンセプト」「患者さんやご家族に対しての全体としての接し方」など・・・
給与だけではないものも大切だと思っている(決してたくさん給料を払えない言い訳ではないが・・・)。
病院の雰囲気を作るのは、院長の勤めだと思っているし、トップの考えを実際の態度で示し、それを幹部職員が理解し、
ついてきてくれることが何より重要になる。
院長が変われば良くも悪くも病院のカラーも変わると思っている。
自分がいつまで院長を務めるかはわからないが、
平和病院で働く職員の全てが、自分達の働く病院を好きになってもらいたいし、長く務めたい、もっと病院を良くしたいと、
一緒になって考えてくれる職員になってもらいたいし、そうなってくれるように自分もまだまだ努力していかなくてはならない。
多くの仲間が集まり、その仲間が長く勤めてくれる病院にしたい。
永年勤続表彰の日は、いつもそんなことを思ってしまう。(平成22年4月25日)
波乱の予感?
今年も4月1日になった。新年度が始まる。
外科に関しては大学からの出張医、三島と藤咲がが二人とも移動にならないので大きな変化はないが、
内科には新しく大学の人事(千葉大学腫瘍内科)で浦賀病院から奥川医師が着任した。
新しい看護師も5人就職し、1名が非常勤から常勤に変わった。
毎年のことながら4月1日には入社式が行われる。(前にも書いたことがある)
今年も13時から予定されていた。
午前中は緩和ケア科外来を担当していたが、入院中の患者さんの状態が悪化したのでバタバタと過ごし、
新しく入院した患者さんの指示だしをしているうちに、入社式の時間になってしまった。
今年も新人職員や幹部職員の前で、「院長挨拶」を行う。
いつも話しながら思うことだが、「もうちっとうまいこと話せないかな・・・」と、話しながら考えている。
そんなことを考えながら話すと、話している途中で、「あれ、何話そうと思ってたんだっけ?」と頭の中が真っ白になることがある。
今年は歓迎の言葉、チーム医療の重要性、基本理念、
患者さんやご家族に対して「優しい目」を持つことは大切だが、
同時に患者さんやご家族の体や心の変化を見逃さない「鷹のような目」を持ってもらいたいこと、
常に患者さんやご家族に、自分が何をしてあげられるかを考えてほしいこと、
今、平和病院には緩和ケアを目的にして入院している患者さんも多く、
命を救えない患者さんにも、そばに寄り添うこと・・・「Being」の大切さ・・・などを話した。
平和病院では、今年度は今の建物で「通年」をすごす最期の1年になる。
来年度は新病院への大移動を行わなければならない。
入社式が終わってすぐ、今年度最初の手術が行われたが、意外に難渋し、終わった時には日にちが変わっていた!
そんなわけで、当日は、新入職員も参加する「花見」も予定されていたが、残念ながら参加するどころではなく、
自宅に帰ったのは夜中の2時頃だった。
年度初めにしては超ハードな1日になった!
今年度の1年を象徴するのか?
なんだか波乱の年となりそうな幕開けだったが・・・
いずれにしても、新病院計画が着々と進む中、「激動」の1年になるには違いないだろう。
自分にといっても今年度で、院長になって10年が経過することになる。
あっという間のような気もするし、長かったような気もする。
今年度は診療報酬の改定が行われ、迅速な対応も行わなくてはならない。
対応いかんでは病院の経営状態は大きく影響される。
気は抜けない日が続いていくのだろう。
新しい年度が、自分にとっても、職員にとっても、病院にとっても、いい意味で「CHANGE」の年になることを期待したい。
(平成22年4月2日)
医療機能評価再受審終了!
2月25日から27日までの3日間、医療機能評価の受審が行われました。
前回は5年前に初めて受審しましたが、準備には相当な時間を費やし、初めてのことでもあり、様子もわからなかったので、
かなりのストレスになりました。
まだ、職員の中にも、何でめんどくさい思いをしてまで機能評価の認定を受ける必要があるのか・・・という意見も多く、
当時の看護部長と、自分がトップダウンの形で受審しました。
各種マニュアル、業務手順、基準、各委員会規定などもはじめから作り、その業務量は、はんぱではありませんでした。
5年後・・・
今回の受審は、自分にとっては前回と全く違うものでした。
副院長、看護部長、事務長はじめ幹部職員全員が、そして各委員会のメンバーが自分達で動き、受審に向けた準備が
ドンドン出来上がっていきました。
一番のんびり構えていたのが自分ではないかというくらいで・・・
まさに「一丸となって」取り組んだ!という実感が感じられる受審になったことは、
自分にとって、とてもうれしく、平和病院の職員たちの成長を実感できました。
当日、サーベイヤーは4人で来院し、リーダー、診療部門、看護部門、事務部門の各担当がおり、書類審査のあと、
実際の現場を回って内容を確認します。
質問の矢面にたった職員は、やはり緊張したようで、終わった後は床にへたり込むものもいましたが、
無事3日間の審査を終えることが出来ました。
結果は後日連絡をいただくことになりますが、終わった後は各職員に、安堵と達成感が感じられました。
ただ、この受審は、病院の質の向上、維持を目指すものであり、
整備された各内容が今後も継続して引き継がれていかなくてはなりません。
来年は新病院も完成します。
建物だけが新しくなっても、内容が伴わなければ、地域の皆さんの信頼を得ていくことは出来ません。
そんな意味でも、今回の受審は新病院に「魂」を注ぎこむ絶好の機会になったと思っています。
これで「終了」したのではなく、これからが「始まり」でもあると思います。
今後も良質の医療、看護を提供し続けるために、職員一同全力で取り組んでいきたいと思います。(平成22年3月5日)
横浜東部緩和ケア研究会
先日、済生会東部病院で開催された第25回横浜東部緩和ケア研究会で講演をさせていただいた。
何ヶ月も前に、「演題」を決めてほしいとのことだったが、そのときは内容などを考えていないまま
「円滑な緩和ケア連携のために −誰が、何をすればいいのかー」という題名にした。
新病院建設関連の行事やら、看護学校の学生さんへの話やら、病院機能評価受審の準備やらが重なり、
緩和ケア科の紹介患者さんの激増もあり、一向に準備が進まなかったが、
いざ内容を題名に合わせようとすると、なんと大それた題名にしてしまったのか!と、後悔したが後の祭り・・・
最近、院長業務を手伝ってくれるクラークにスライド作りも応援してもらい、何とか仕上げたが、
ぎりぎりセーフといった感じだった。
当日はけっこうたくさんの方が聞きに来てくださった。
鶴見メディカルの訪問看護師さんたちや、東部病院の先生方、退院調整看護師さん、緩和ケアチームの認定看護師さんなどなど・・・
平和病院からも外来のスタッフや薬剤師、若い出張医の顔もみえた。
みなと赤十字病院の緩和ケア科部長の黒田先生やら、市立市民病院の緩和ケア科の国兼先生やら、
いつも科緩和ケア連携でお世話になっている綱島ホームケアクリニックの林先生など、
その道では有名な先生方の顔も見えてしまい、めちゃくちゃ緊張してしまったが・・・
何とか1時間の講演をこなすことが出来た。
質問もいくつかあり、終わった後は久々の開放感を味わうことが出来たところを見ると、
やはりけっこうプレッシャーだったようだ。
翌日、聞きに来てくれた外来看護師に、「いつもの外来の態度と違う!別人のようだ」といわれた。
外科の外来では、患者さんがいないときにはけっこう「素の姿?」を出してしまうのか?
「あのね、あ〜れ〜が、ホントの姿なんだよ!」といっても「いや、ぜったいそんなことはない!」と言い張る。
「質問が出た時、男の人からの時は、下をむいて聞いていたのに、女の人から質問が出たときには、
ニコニコして、しっかり顔を見てうなづきながら聞いていた!」などと・・・・よくそんなつまんないとこ見てるよな!
そんなこと気にしてないで、話の内容を聞きなさい!と、言いたくもなったが、
聞きにきてくれたのはありがたかった。(参加者に配られるカツサンドが目当てか?)
来週はいよいよ病院機能評価の再受審が木、金、土の3日間で行われる。
全職員が準備にかかりきりだ。
前回の受審のときは、自分と、当時の看護部長の「トップダウン」の感が強かったが、
今回は各部署、委員会がそれぞれ頑張ってくれており、
自分が一番遅れている感さえある。
むしろ、いいことなのかもしれない。
5年前、受審直後に体調を壊し、入院したことを思い出すが、職員が自覚を持って成長してくれていることを感じる。
なんだか・・・頼もしいじゃないか!(平成22年2月21日)
在宅緩和ケア対策推進事業講演会
1月9日(土)に神奈川県医師会・横浜市医師会共催、鶴見区医師会主催の講演会が開催され、
私が講師としてお話しをさせていただいた。
在宅緩和ケア推進事業の一環なので、「地域で、みんなで支える緩和ケア」と題して、
いま自分が感じている、地域での緩和ケアの問題点、現状などについて45分話してきた。
夕方の6時から鶴見医師歯科医師会館で行われたが、講演のあとで、引き続き賀詞交換会が行われる予定になっていて・・・
はたして「緩和ケア」の話しが、賀詞交換会の前に行われてもいいんでしょうか・・・?と、少し気になったが・・・
依頼を受け、人前でお話す機会をいただけるのは、自分にとっても勉強になるので、
喜んでお話しをさせていただいた。
実は、その日は久しぶりに大学のサークル「ウボイコール」の同窓会があったのだが、キャンセルした。
講演には平和病院の職員も何人か来てくれて・・・だいぶ力強かったが、
後は近隣の病院の院長先生やら、医師会、歯科医師会のお偉方、行政の方などもいて、
一般の講演会とは少し雰囲気も違い、やりにくかったし、聞きにきてくれた職員も、その雰囲気に驚いたらしい!
しかも、講演会の後の、パーティーの料理が後ろに並べられており、ほのかにいいにおいが立ち込める中の雰囲気で・・・・
微妙な感じではあったが、ひとまずは無事に終了させることが出来た。
講演後は何人かの先生方から「いい話だった」と言っていただいたが・・・
いつも思うのだが、どうも人前で話すとき、早口になりすぎる。
もっとゆっくりと、落ち着いて話したいものだが、まだ余裕がないせいなのかもしれない。
今月の終わり頃には、横浜市病院協会看護専門学校の2年生に、やはり緩和ケアに関するお話をさせてもらえることになっており、
若い看護学生さんたちの前では、よけいに舞い上がってしまうかもしれない!
昨年の国立がんセンター中央病院での在宅緩和ケア連携カンファレンスから始まり、
最近は、外部で話をさせていただく機会が多くなってきた。
ありがたいことではあるが、けっこうプレッシャーがかかる。
自院での緩和医療勉強会も、忙しさにまぎれて少し間が空いてしまっているし、
外部の人からも「平和病院での勉強会」に参加させてください・・・と言われるようになってきている。
実際、平和病院のスタッフのレベルアップにも力を入れなくてはならない。
認定看護師、認定薬剤師などの取得を希望するスタッフも出てくるようになっている。
ただ・・・簡単には資格取得は出来ない!
自分も含めて、新病院完成までには自前の認定スタッフを育成しておきたい、という思いも強い。
今年は学会発表も、もっとこなさなければならない。
さて、ねじを巻きなおしてがんばらなくては!(22年1月11日)
年の終わりに
12月になったと思ったら、あっという間に、もう残り時間が無くなった。
24日には介護療養病棟で、クリスマス会が開かれ、他の病棟からも患者さんが集まった。
去年はサンタの着ぐるみを着せられたが、「今年もお願いします」とのことで・・・
「予定が入らなかったらね!」と適当にごまかしていたが、あいにく用事も入らず当日になってしました。
病院の忘年会の時、サンタにはトナカイがつき物だろう!とのことで、増田副院長にトナカイの着ぐるみを着せよう!と話も盛り上がり、
去年は登場しなかったトナカイと、雪だるまの着ぐるみも用意された。(雪だるまは3病棟の師長)
しかも、そこまでやるならソリもほしいよね!・・・など話はどんどんエスカレートしていき・・・
当日は2時に集合で、サンタの服が用意されていた。
はじめ、ソリはリクライニング車椅子で作るはずだったが・・・よく見ると、
台車にダンボールの箱が付けられているものになっていた。(写真にもちょっとだけ写っている)
狭い!!
中に入ると身動きが出来ない。しかもサンタらしく見せるために、
腹に固く巻いたバスタオルを2枚も詰め込んでいるので、胃の辺りが圧迫されて気分が悪くなりそう・・・
サンタというより、むしろ、子連れ狼の「大五郎」状態で登場することになった。
ただ、それなりには喜んでいただけたようで、職員が心をこめて作った小さなアクセサリーを
一人ずつに配り、退場した。
これで終わりかと思ったら、会場にこれなかった人たちのために「全病棟」を回ることになっていた。
トナカイと一緒に「全病室」をまわった。
増田副院長も、教授から、平和病院に異動の話しがあったときには、
まさかこんなことまでやらされるとは、思ってもいなかったろう!
そのあと、サンタの格好のままで、各部署にクリスマスケーキを配りにいった。
実は、イブの日にクリスマスケーキを配るのは、自分が着任してから比較的すぐ始めた伝統の行事だ。
ただ、院長になってからは「外科から・・」ということで、ずっと続けていた。
院長になってからは、配る部署と配らない部署がでては、「えこひいき」みたいで好ましくない・・・
とのことで、今年注目された「事業仕分け」のように検討した結果、「廃止」を決定したのだが・・・
外科外来の看護師の、「そんなのやだあ!!!」の一声で、あっさり復活してしまい、
各病棟、外来、透析、通所リハ、その他の部門の7個を発注した。
もちろん、病院からの予算は出ないので「自腹」だ。
人数が多いので、ケーキもけっこうでかい。(お値段もそこそこ・・・)
ケーキはいつも、病院の近くの「清月」で注文している。
ここのケーキは、生クリームがあっさりしていて、くどくなく、ものすごくうまい!
自宅用の小さなものも一緒に注文した。
でも、職員がけっこう喜んでくれた(んだろうね?)ので、来年も継続かな・・・
ケーキを配り終わって、やっとサンタの衣装から開放されたが、
何日かたった後からも、患者さんのご家族から
「サンタさんからの素敵なプレゼント、ありがとうございました!・・・」などと言っていただいたので、
やっぱりやってよかったと思った。
どうせなら、次回はドンドン職員を巻き込んで、聖歌隊でも引き連れた大行列で回ってみようか。
去年は、サンタの写真を院外報に掲載したら、ある診療所の先生(大学の先輩でもあるが・・・)から、
「先生も大変なんだねえ〜〜」と、微妙なトーンで言われたことを思い出した。
まあ、以前勤務していた浦賀病院では、忘年会の時などは必ず女装し、化粧をして踊っていたので、
サンタの格好なんて、なんでもない!(一度などは、化粧を落とすのを忘れて、二次会で横須賀のスナックに
行ってしまった事があった)
これに比べると、平和病院の忘年会は地味すぎる!様な気がするよね。
それはともかく・・・今年ももう、残りわずか・・・
素敵なプレゼントが皆さんの元にも届き、来年がいい年でありますように!(平成21年12月29日)
もう腰は痛まない?
少し前、内科のO先生が、3病棟の勤務室で、看護師さんとカタログを見ながら、なにやら話していた。
当直した翌日だったらしく、「疲れがたまる、よく眠れない・・・」とぼやいていた。
原因はどうも当直室のベッドにあるようだ・・・
きっとマットを変えればよくなるのではないか?
とのことで、「ニトリ」のベッドマットのカタログを見ていた。
看護師さんが「ほら、院長先生がちょうどいるんだから、お願いしてみたら!」と、O先生をけしかけていたが・・・
気弱なO先生は「う〜ん・・・」と、言いにくそうだった。
なんといっても、平和病院は新しい病院に向け、徹底的な節約を行っており、
「ほしがりません! 建つまでは!」
を合言葉にして経費節減を呼びかけている。
ただ・・・
確かに自分も、今でも月に3回、土曜日に当直をするが・・・(当直が無くても、土曜日は夕方まで仕事が残り、帰れないし、たまった仕事を片付けるのにはいい機会なので当直は欠かせない))
(え?院長なのに当直してるんですか!!と、よく言われるが、平和病院の給料は安いので、院長といっても、当直しないと子供を養えないし、生活できないんでね・・と、答えている!)
当直明けの数日は、自分でも腰の具合が悪くなるのは経験済みなので、
O先生の話しを聞いてみると・・・
その先生も、当直室のベッドで寝ると必ず体調が悪くなる・・・ということだった。
平和病院の当直室のベッドは、以前、東芝鶴見病院の院長室にあったベッドを、
閉院するときもらってきたもので、マットもその時のままだ。(閉院した病院の無念さが宿っているわけでもないだろうが)
かなりの年季もので、どう考えても快適とはいえない。
もっとも、救急病院の当直医師は、ベッドで眠れることなど無いのだろうが、
平和病院は(運がよければ?)1回も起こされないこともある!
値段を見てみたら、1万円以下で、いろいろなタイプがあり、「快適な睡眠を提供します・・・」みたいな、そそられる文句が書かれている。
そそられるじゃないか!自分でもけっこう欲しくなったので、
「このくらいの値段なら、購入依頼伝票を出してもらえば検討しますよ」
といったきり、そのことは忘れていたが、
昨日の当直の時、当直室に入ってベッドを見ると、マットが重ねてある。
今までのマットの上に、新しく購入したマットを敷いてあるのだとわかった。
確かに、程ほどの固さで、いいかもしれない。
さいわい、夜中は緊急患者さんも来院せず、病室の患者さんも安定していたので、1回も起こされなかったが・・・
朝、起きた時、確かに以前より腰が痛くないような気がする。
何だよ、こんなことなら、もっと早く買えばよかったな・・・とも思ったが、
油断は禁物、少しの出費の積み重ねが大きなボディーブローとなって病院の経営を圧迫する!
もちろん、安全に医療を提供するための機器、
職員のスキルアップのための費用などは惜しまないが、無駄は徹底的に省き、新病院のための費用に回したい。
まあ、当直室のベッドマットは、当直医の体力向上と、翌日の勤労意欲維持のための生産性のある投資ということで、
勘弁してもらい、(ナースコールの端末をトイレに落として破損したための出費よりは納得がいく!)
次の当直の夜も、腰痛に悩まされず過ごすことを祈りたい!(平成21年10月25日)
師長の顔が腫れた日!
定期往診を月に1回、第3水曜日の午後にやっている。
最近は5人程度だが、
一時は半日で7人の患者さんのところに行っていたし、在宅ターミナル患者さんの訪問もかねていたので、
1時半に出発しても帰ってくるのはけっこう遅くなった。
もちろん、在宅ターミナル患者さんの往診は、月に1回というわけには行かないので、緩和ケア外来の予約診療の合間に出かけたり、
時間が空いた時に随時出かけるようにしているので、定期往診には組み込んでいない。
内科も往診があるが、そもそも内科の往診枠がいっぱいになり、サポートする形で始めたので、
患者さんは脳梗塞の後遺症など、内科系の患者さんがほとんどだ。
長い患者さんでは、もう6年になる。
このごろは、病院のすぐ近くにお住まいの患者さんのところにも出かけるようになった。
ご高齢で、心臓の機能が悪いので、外出は困難だが、ご自宅の中は何とか歩けている。
認知症も全く無く、いつもきちんと着物を着て、待っていてくださる。
独居なので、訪問する時にはいろいろお話ししてくださる。
病院のすぐ近くなので、いつも他のお宅を回り、往診車を駐車場にもどし、歩いて出かける。
その日も、駐車場に車を戻す途中で、一緒についてきていた外来師長が、
「じゃあ、先に行ってますから・・」と、車を降りた。
「わかった」
と、車を駐車スペースに止めたのだが、その時点ですっかり終了モードになっており、もう1件往診が残っているのをコロッと忘れた。
先に行っている・・・のは先に外来に帰っているものと思い込んで、
車の鍵を事務所に返し、そのまま病棟の仕事をはじめてしまった。
水曜の午前中は外来を担当しているので、病棟の緩和ケア科の患者さんを診るのが午後からになり、
しかも往診に出かけると、それだけ仕事をはじめるのが遅くなる。
トイレに行った所で院内PHSがなったが、大事なところなので出ることができない。
着信履歴を見ると、「外来待機」のPHSからだった。
それでもまだ気がつかず、「もう・・・こっちはおしっこしてんだよ!」などとぶつぶつ言いながら、
外来に顔を出した。「電話くれた?」
「いえ・・特に呼んでませんけど」
「ふ〜〜ん、おかしいな・・・」
などといいながら、また病棟に行き、仕事をしていた。
しばらくして、病棟の電話がなった。
「先生、外来の師長さんからです」
この時点でもまだ気がつかない。
「なに?」
「先生!何じゃないでしょう!!往診の途中でしょ!」
「あ〜〜〜〜〜!!!!」
「そうか、○○さんの家が残ってたんだっけ・・・師長は今どこにいるの?」
「どこって!○○さんのお宅に決まってんでしょ!、いい加減にしてくださいよ!ず〜〜〜〜〜っと待ってんですから!」
あわてて病棟の仕事をほったらかしにして、○○さんのお宅に駆けつけた。猛ダッシュで1分!
「すみませ〜〜ん」
○○さんのお宅は、昔ながらの日本の家屋で、縁側があり、その日は気持ちのいい天気だったので、
庭に面した戸は全部開放し、小さな○○さんは小さな椅子にちょこんと腰掛け、うちわをゆっくり動かしながら師長と話をしていた。
そばには蚊取り線香が緩やかに煙を出して、特有のにおいがした。
なんか風情がある・・・と、感心している場合じゃないか・・・
「先生、お忙しいところを、ありがとうございます。看護師さんがずいぶん心配なさってましたよ・・」
もうとっくに血圧や体温は測り終わっていた。
お待たせした分、いつもよリ念入りに診察した。
○○さんは着物を着ているので、全く蚊に刺されていなかったが、師長は半そでなので、顔やら腕やら、蚊にくわれまくっており、
あちこちがぶくぶく腫れている!
「まあ、やっぱり、蚊もお若い方のほうを好むんでしょうねえ」・・○○さんがゆったりとおっしゃった。
「まあ、うれしい、お若いなんて・・・」
と、師長が腕をボリボリかきながら、恨めしそうな顔でにらんでいる。
そりゃあ、○○さんは90歳を超えているんだから、それに比べたら師長だってめちゃくちゃ若いよね・・!
そんなわけで、○○さんのお宅を後にしたが・・・
「ごめんごめん!ケロッと忘れちゃって、一度トイレでなった電話、考えてみれば師長からだったんだね」
「もう、勘弁してくださいよ!どっかで倒れてんじゃないかと思いましたよ!こんなに蚊にくわれちゃうし、お肌が台無しだわ!」
確かに・・・前に比べると、最近は物忘れが多くなったような気がする・・・困ったもんだが、
やることが多くなると、手帳には書いていても、時々わけがわからなくなる。
この前、国立がんセンターの緩和医療部の的場先生からご連絡をいただいたが、「専属秘書」からのメールだった。
いいなあ〜「専属秘書!」
残念ながら、平和病院では、院長秘書を雇う余裕なんて無い!(自腹を切れば別だが・・・)
自分が就職した頃は、平和病院でも、院長専用車があって、専属の運転手さんがついていた!
院長が会食の時は、終わるまで待っていて、自宅まで送って行ったらしい。
ずいぶん病院も景気がよく、いい時代だったのかもしれない。今では夢物語だ!
それはともかく・・・○○さんや、顔を腫らした師長には申し訳ないことをした。
ヒヤリハット報告でも書かなくてはならない。(平成21年9月20日)
まだ昼飯食ってねえんだよ!
この前のこと、診察を終えた患者さんから・・・
「先生、私びっくりしちゃいました。この前、先生が患者さんに、電話で乱暴な口調で話していて・・・」
と言われた。
「え〜〜〜!?」 自分が? 患者さんに? 電話で? 乱暴な口調・・・って?
「私がですか?」と、思わず聞いてしまった。
自分では全く覚えが無い。
「ええ。先生が、まだ昼飯食ってねえんだよ!なんて言って・・・私、怖くなっちゃいました・・・。
先生ってあんなに乱暴な話し方するんですか?」
そう言われてもなあ・・・
しばらく考えていたが・・・はは〜ん・・・なるほど。
基本的に、患者さんやご家族など、仕事モードの時の言葉遣いには気をつけているので、
そんな口調で話すことは、まずありえないが・・・実は・・・
ず〜っと前から、自宅などでのプライベートの会話では、けっこう「べらんめえ」で話している。
妻にもこの話をしたら、「えっ?家にいる時はいつだってそうじゃない。そんなの結婚する前からよ!」と、ばっさり言われた。
あらためて考えると、職員との会話ときにもけっこう「べらんめえ」が出ているときがある。
たぶん、職員からの電話に答えている時の声が、その患者さんに聞こえたんだろう・・・
そういえば、外科の若い医師からの、昼の食事の連絡では、「先生、そろそろ(お)食事に行きましょうか?」などと言われるが・・・
自分から聞くときは、「もう、飯食った?、そろそろいかねえか?」になってしまう。
(外科では私が就職して以来、18年間も、全員そろって昼の食事をするのが恒例になっている!)
まあ、確かにお行儀がいいとは言えない。
ずっと前から子供たちが平和病院に来て、自分のことを見ると、
「なに気取っちゃって・・・家にいる時とぜ〜〜んぜん違うじゃない!」・・・と、言われ続けるのも、そのせいか?
娘はともかく、息子からも言われるので、モードが違うのは確からしい。
それ以来、しばらく、患者さんの前だけでなく、一日中、できるだけ丁寧な言葉遣いにしようとやってみたが・・・
外来の看護師からは、「かえって気持ちが悪いですよ!」などと言われるし、
自分でもしっくりこないし・・・無理みたい!
ただ・・・確かに、いつ、誰が聴いているのかもわからないのだから・・・
院長たるもの、せめて、「まだ、昼ごはんも食べていないんだよ!」、くらいにはおさえないといけないんだろうが・・・
出来るかどうか・・・ぜんぜん自信ねえなあ。(平成21年9月9日)
針は何ミリなの!?
先日、当直をしている時、真夜中の2時頃に電話がなった。
事務当直者からで、「新患の方ですが、腕を切ってしまったので、きれいに治してほしい・・・という患者さんから問い合わせですが・・」
なかなか、「きれいに」と、はじめから言ってくる患者さんは少ない。
もちろん、外科医が傷を治す時には、わざわざ言われなくても、きれに治療しようと思っているわけで、
好きこのんで「汚く縫ってやろう!」などと思っているわけがない!
いくらがんばっても、傷の状況や、患者さんの体質によっては傷が残ることがある。
わざわざ傷も見ていないのに、「きれいに」と釘を刺されては、あとで「きれいに治してくれといったのに!」などと、クレームをつけられても困る。
この時点で、尋常ではない何かを感じてしまう。
「傷の状況にもよるが、普通の処置は出来るので、よかったら受診してもらうように」と、事務当直に伝えた。
しばらくしたら、また事務当直からの電話で・・・
患者さんが「普通の処置とはどういうことだ!」と、興奮しているので電話を替わってほしい・・・とのことだった。
ますますいやな予感がしたが、しょうがない。電話をかわった。
「もしもし、お電話かわりました。当直医ですが、どうなさいました?」
「あなた外科の医者でしょ?、普通に処置って、どういうことよ?」
う〜〜ん、ますます暗雲が立ち込めてくる。
「傷はどんな状況ですか?」
「10時頃機械に引っ掛けて傷が出来たんだけど、はじめは舐めて、テープを貼ってたら、テープが剥がれて傷の真ん中の皮膚が
めくれてきて、心配だから電話してんのよ。それなのに、普通の処置ならできるってどういうことよ!」
すでに完全に怒りモードになっている。
夜中の2時だ!こちらもおき抜けであたまが回らない。
「せっかく104で調べて電話したのにその態度は何なの?」
「通常の傷の処置は可能です・・・とお話したつもりですが」
「通常って、糸は何色のを使うの?白?黒?透明?」
あれ、青とも紺ともいえる、微妙な色で・・・なんとも表現が出来にくい。
「溶ける糸なの?」
「傷の状況を見せていただかないとなんとも・・・」
「あんた外科医なんでしょ!、何でそんなことわかんないのよ!じゃあ針は何ミリのを使うのよ!」
「何ミリといっても・・・長さですか?太さですか?」
あ〜〜〜!こんなことを説明するくらいなら、早く受診してくれたほうがよっぽど早いと思うんだが・・・・
「針にも湾曲とかいろいろありますから・・・何ミリといわれても正確な数字は・・・」
「そんなの糸の袋に書いてあるでしょ!読めばわかるじゃないの!」
そんなこといわれても、ここは当直室で、ベッドとテレビとロッカーくらいしか置いていない。
打てば響くような答えをしてあげられなかったせいか、相手の口調はどんどん怒りモードになってくるのがわかる。
そうなると、こちらも完全に防御体制に入る。
残念ながら、こんなケースでは、どんなにぼろくそに言われても、こちらが反撃すれば、必ず2倍、3倍になって返ってくる。
冷静に対応するしかない。
「まあ、とにかく傷を見せていただけませんか?」
「あんたね!、なんて名前なの?」
「高橋ですが」
「高橋なんて腐るほどいるでしょ!まあいいわ、ホームページでも見ればわかるんだから!」
「とにかく、傷があるんでしょ? きちんと診察はしますから・・・これから受診したら・・・」
「何いってんの、あんたみたいな医者にはぜったい診てほしくないわよ!」
と、いうなり、たたきつけるように電話を切られた!
おそらく、こういう人が、平和病院はとんでもない病院だ!と、周りの人に言いまくるんだろうな・・と思うと
ますます憂鬱になってくる。
後に残ったのは暗がりの当直室の、いや〜〜〜な感じばかりだ。
確かに傷があるんだろうから、どこかの優しくて、優秀で、きれいに傷を治してくれる先生が見つかればよいが・・・
そうはいっても何がなんだか、寝ているところをいきなりたたき起こされたあげく、
何であんなにぼろくそに言われなくちゃならないんだと・・・やり場の無い怒りがこみ上げてきたが、
そのすぐ後に電話がなった。
さっきの人が、文句を言い足りなくて、また電話をかけてきたのかと思ったが・・・
病棟の患者さんの急変の連絡だった。
けっこう長く話していたので、しばらく話中でつながらなかったらしい。
患者さんは何とか無事に治療でき、事なきを得たが・・・手遅れになったら大変なことになった。
最近、外科の医師が当直している病院が少ないらしく、夜間の傷の処置の患者さんが結構来院する。
済生会東部病院の救急部も手一杯なことが多いらしく、ちょっとした傷は患者さんが情報センターに問い合わせると、
平和病院のことを教えるようだ(当直医の科は事前に報告しておくシステムになっている)。
当直なのだから、起こされて処置や治療をするのはなんとも思わないが(そりゃあ、病室の患者さんも落ち着いていて、
外来の患者さんも来院しなければ、朝まで起こされずにすむが・・・)
少なくても夜中に針の太さが何ミリかなど、答えなくてもいいような当直の夜になってもらいたいもんだ(21年7月26日)
ひとりじゃない!
6月4日は第66回平和会社員総会が開催された。
医療法人平和会は100%鞄月ナ出資の病院であるので、6人の理事のうち半数は東芝関連の人たちが占めており、
残りのり理事が両副院長と、自分が院長兼理事長の立場にある。
定時社員総会は3月に次年度の予算の承認、6月に前年度の経常収支の報告、承認のために開催される。
今回は平成20年度の収支に関しての報告が議題だった。
自分は平成6年に理事、副院長に就任し、当時の遠藤院長、その後任の武井院長の下で経営に関わることを経験させてもらい、
平成12年6月から院長、理事長となり、自ら平和会の舵取りをおこなうようになった。
その間平成8年からは、この厳しい医療状況の中、何とか経営状況を健全に保ってきたが、
今回の診療報酬改訂の波は避けきれず平成20年度は、院長就任以来、はじめて厳しい経営状況にさらされた。
医療費抑制を前提とした改定の矛先は、高齢者を対象とした病床の向けられ、
地域の病院として、高齢者用の病床を維持してきた平和病院は、改定のたびに翻弄されてきた。
今回の改訂の影響を読み、病院の診療体系を転換したのは、理事長としての自分の判断であり、
将来を見据えた方向性は、今でも決して間違ってはいないと思ってはいるが、
残念ながら、いくつかの事情はあるにしろ、結果に結びつかなかったことに対しては、大きな責任を負わなければならない立場にある。
鞄月ナ側の理事の方々からは、厳しい注文、お叱りの声が出されるであろうことは覚悟をしていたが、
今後の巻き返しに期待をしてくださり、洗っていた首はまだつながっている。
社員総会のあと、幹部職員との懇親会が行われたが、
幹部職員がひとりずつ挨拶をする時間になった。
どの職員も病院の厳しい状況を理解し、何とか健全な経営状況に回復できるよう、それぞれの立場での決意を語ってくれた。
普段、病院の会議などの中では、なかなか聞かれないような、建設的で、たのもしい言葉が、
多くの幹部職員の口からか語られるのを聞くと、
厳しい現状の中でも、今年は何とか挽回できる!との想いが湧き上がってくる。
自分も、もっと気合を入れてがんばらなくてはいけないという気がしてくる。
ややもすると、自分ばかりが追い詰められ、何とかしようと空回りをし、
後ろに誰もついてきていないんじゃないか・・・とも感じることもあったが・・・
大丈夫、自分はまだひとりじゃない!
平和病院はまだまだ大丈夫!
そんなことも感じさせられたひと時だった。
ただ・・現状は甘くはない!
今年度は平和会にとって50年に一度と言えるような正念場になるだろう。
職員の想いを追い風にして知恵と体力の続く限り、荒波を乗り越えていこうと思う。(平成21年6月4日)
臨床研修始まる
平和病院は臨床研修指定病院として毎年、聖隷横浜病院に協力する形で、卒業後2年目の臨床研修医を受け入れている。
今年も先週から研修医が着任している。
今年度は5月〜8月、来年の1月、2月と、合計6名の研修医が、平和病院で研修を行う。
平和病院が担当するのは「地域医療」なので、主に在宅・介護関連部門に関しての研修を行う。
通所リハビリ、訪問診療、訪問看護、訪問リハ、居宅介護支援事業所、MSW、介護療養型医療施設、
薬剤管理指導、ボランティアとのふれあい、音楽療法などを研修期間中に組み込んで体験してもらう。
研修医たちが、将来希望する診療科はまちまちだ。
臨床研修医制度に関しては、はやくも見直しの議論もあり、実際の研修医も、自分の希望する科以外はあまり身が入らず、
受け入れる側も「お客さん」のような扱いになり、はたして本当に研修医の役に立つのかは疑問だ。
特に「地域医療」に関しての若い医師たちの関心は、残念ながら低い。
若い医師の大病院嗜好は強く、都会の、設備の整った、専門医資格を得やすい、患者さんの多い病院に集中する。
平和病院のように地域に密着したこじんまりとした中小病院は、こんな機会がないと、働く機会は無いのかもしれない。
ただ、若い研修医が希望するような病院だけでは、医療、特に地域医療は絶対に回らない。
診療所の先生方だけでも回らない。
やはりその中間に位置する病院の存在は地域医療の核・あるいは潤滑剤としての役割をはたしている。
ただ、国の認識は残念ながらそうではないようで、中小病院をいかに減らしていくか・・・と考えているとしか思えないような
厳しい締め付けが続いている。
もっとも・・・若いうちはそんなことは考えなくてもいいのかもしれないが・・・
平和病院で研修する若い医師たちが、少しでも何かを感じてくれることを願っている。(平成21年5月17日)
入社式
新年度が始まった。
毎年4月1日は平和病院も新しい職員を迎える。
今年も医師2名、薬剤師2名、看護職員5名の9名が新しい仲間になった。
医師を除いた7名に新人オリエンテーションが行われ、昼から「入社式」が行われた。
私を含め、副院長、看護部長、事務長、各部署師長、主任、他の幹部職員が一堂に集まり、
示達、各部署長の自己紹介、新人職員の自己紹介などが行われる。
こうした○○式には、たいてい「理事長挨拶」をしなければならない。
以前はけっこう前から話す内容を考え、紙に書いて練習などもしていたのだが・・・
結局はその場になるとほとんど頭に浮かんで来ず、(物忘れがひどくなったか?)ぶっつけ本番と変わらない状態になってしまうので、
最近はあまり事前に考えないことにしている。
今年は、前の日に看護部長から、「先生、新人の前なんですから、くれぐれも前向きな発言でお願いしますね!」
と、釘を刺されていたので、その点だけは気をつけて話した(つもり)。
挨拶の後は、毎年、新人代表が「誓いの言葉」を読み上げることになっている。
これはもうかなり以前からのしきたりで、自分が院長になるずっと前から行われており、その言葉の内容も毎年変わらない。
「私たちは医療法人平和会の職員として、本日ここに入社式を迎えました。
只今、理事長先生から心あたたまるお言葉をいただき、感動身に余るものがございます。
私たち一同、本日より微力ではありますが、平和会発展のため努力いたしますことを、ここにお誓い申し上げます」
というものだ。
今年は新卒の薬剤師がこれを読んでくれたが・・・
毎回のことながら「心あたたまる」話をして、「身に余る感動」を与えなくてはならないのかと思うと、
けっこうプレッシャーになる!
高い壇上なら、用意した紙を読めばいいので感動的で心あたたまる話もしやすいかもしれないのに・・・
なにせ人数が少なく、狭い部屋で行うのでそうもいかない。
やはり、新しい職場、新しい環境は、新人たちにとっても緊張し、期待と不安があると思う。
それぞれが、個人の能力を最大限に発揮し、成長し、部署の仲間、他職種の職員と良好な協力関係を保ち、
病院の発展に大きな力となってくれることを期待している。
自分たちの職場として選んでくれた職員に対して、自分にも大きな責任があり、
毎年この時期は背筋が伸び、出勤の時のネクタイもいつもより少し時間をかけてえらぶ。
新しい年度が平和会にとって、大きな飛躍の年となるよう願ってやまない。(平成21年4月3日)
どんでんがえし
「おしらせ」にも書いたが、来年度は大学から派遣される外科医の数が1名減らされることになっていた。
臨床研修医制度の弊害は何も地方病院に限ったことではなく、
首都圏の千葉大学でも医局に入局してくる人数が減ってきている。
特に外科系の各科は人気が無い。
また、関連病院に勤めている常勤医師の中にも開業をする医師が毎年増えてきており、
けっこう年を取ってから開業する例も多い。
そのぶん、関連病院が必要とする外科医の数もふえ、大学に新たな派遣を求める施設がほとんどだ。
そんなあおりを受け、この4月からは平和病院も減員が決まっていた。
数年前にも1人減員になり、なんとか半年後には派遣が決まったことがあったが、
その間の半年間は、めちゃくちゃハードだった。そのときの悪夢がよみがえる!
まして、来年度は医療機能評価再受審、新病院建設実現化が控えており、
病院経営の建て直しも急務であるのに、今回さらに、横浜市病院協会の役員になる可能性もあり、
緩和ケアを求めて平和病院を利用する患者さんは急増しているなど・・・
自分としても、今でもあまりゆとりの無い状態に追い込まれているので、
この決定はかなりの痛手となり、増田副院長とともに頭を抱えていた。
さいわい、同じ関連病院の浦賀病院の越川院長が、医局からの依頼もあり、
大学からの出張医を非常勤で派遣してくれることになったので、体制を立て直そうと思っていたところだった。
せめて後期には派遣復活をと思い、ひとまず大学の宮崎教授に病院の状況説明がてら、お願いに行くことにした。
先日、アポをとり、千葉まで出かけたが、電車の中で携帯が鳴った。
病院からだったが、すぐには出られないので、電車から降りてかけなおしたら・・・
「先ほど千葉大学の宮崎教授室から連絡があり、今日は急に都合が悪くなったとのことです!」とのこと・・・
そんなこといわれても、もう千葉についちゃったし・・・
大学に電話をいれたところ、秘書さんが「今日は緊急の手術が入り、何時に終わるかわかりません。
いらしていただいてもいいのですが・・」、とのことだ。
映画でも久しぶりに見て時間をつぶそうかとも思ったが・・・
教授が入る手術はそんなに簡単に終わるわけが無いので、泣く泣く引き返すことにした。
翌日、教授からメールをいただいたが、やはり夜9時頃までかかったようで、待っていなくて正解だった。
今回は横浜市病院協会の件(新聞報道にもあるように、だいぶ内部がごたごたしている)で教授の意見を聞きたいと思っていた。
たいてい自分のことはいつもあまり人に相談することは無く、自分で決めることが多いが、
(もちろん病院関係のことは経営会議などで話し合う。独裁経営ではない!)
いままでも迷いに迷う時には教授に相談することが多かった。
それなりに修羅場をくぐっているので、白か黒か、即決で返事が返ってくることが多い。
怖いといえば怖いが、さいわい今までは間違った結果にはなっていない。
その翌日には新しくアポの取り直しをということで、秘書さんから連絡をもらったが、あいにく自分の都合に合わず、
近いうちに・・ということになった日の夜10時過ぎ・・・
自宅に教授から電話があった。
早口なので、最初は誰だかわからず、マンションの勧誘かと思ったが・・・
「どうだい、高橋君、元気かね?、この前は悪かったね・・・」
「こんな時間にお電話いただくとは・・・何かありましたか?」
「どうせ悪い話しだと思ってんだろ?実はそうでもないぞ!今度の出張人事の件だけどな」
「先生、派遣が減って元気なわけ無いでしょう!もう増田と途方にくれてますよ!」
「いやいや、4月から、もう1人預かってもらおうと思ってな」
「え〜〜!」この時期に人事が動くのは異例なことなので、耳を疑ったが
どうも現実の話のようで、4月から人数的には減員にならずに診療体制を構築できるようになった。
他の関連病院では減員の施設も多いとのことだったが、
やはり親分は、子分を見捨てなかった!?
どんな事情にせよ、なんともありがたい。
ついでに相談しようとしていたことも電話で話したが、やはり即決で返事が返ってきた。
(ただ、今回の場合は吉とでるか凶とでるか・・・微妙な感じがする・・)
とにかく、そんなわけで、4月からは、永井、林に変わり、三島、藤咲が勤務開始することが決定し、
現状体制を維持して外科を運営できることになった。
ただ、外来担当などは、多少動かす必要もある。
早急に検討しないと、患者さんにご迷惑がかかるので、週明けには決定したい。(平成21年3月8日)
ガイアの夜は明けず!
テレビ東京で放映されている番組に「ガイアの夜明け」というのがある。
火曜日の夜に放映されており、俳優の役所広司が案内人として登場するシーンがある。
先日、事務長から、「ガイアの夜明け」に、病院を使わせてほしいとの連絡があったとの報告があった。
病院のホームページで、屋上からの展望写真があり、それを見た番組のスタッフが、
屋上と、外来待合室を使って役所広司がコメントを言うシーンを撮りたいとのことらしかった。
今までは「古い病院の」舞台としての撮影に使いたいとの申し出はあったが・・・(失敬な!)
今回は有名な俳優が来院するかもしれないとのことで、事務長も大歓迎のようだったが、
外来待合室・・・というのがひっかかる。
正直な話、外来待合室なら、平和病院よりきれいで、広い病院はいくらでもある。
どんな内容で使われるのかはわからないが、事務長も「本当に、うちの病院でいいんですか?、待合室は決して広くありませんよ!」
「あらかじめ見に来たほうがいいんじゃないですか?」
と、半信半疑で念を押したようだが、平和病院でいい、とのことで、むしろ屋上での撮影に力を入れたいらしかった。
確かに、平和病院の中庭病棟屋上からの景色はすばらしい。
病院が住宅街の中の高台に立っているので、周りの景色をさえぎる高い建物が無い。
360度の展望で、みなとみらい、レインボーブリッジ、富士山、天気がよければ東京タワー、近くは、緑豊かな総持寺など・・・
もちろん夜景も素晴らしい。
撮影は2月28日に行いたいとのことだった。
その日、自分は当直でもあり、実現すれば「ダイワハウチュ」の役所広司に会える可能性があり、楽しみにしていたのだが・・・
あいにく天気予報で土曜日の天気が悪かったらしく、数日前に「残念ですが、今回は別のところで撮影します」との連絡があった。
まあなあ・・・役所広司が平和病院の外来待合室でコメントを言うイメージは、残念ながら自分でも想像も出来ないものなあ〜。
と、卑屈になる自分も情けないが・・・
こんなことがあるたびに、今に見てろよ・・・絶対新しい病院を建ててやる!とのバネになる。
今日はもう3月・・
今年度もあとひと月、来月には新しい年度がはじまる。
春はすぐそこまで・・・
ガイアの夜は明けなくても、職員とともに満開の桜を迎えたい!(平成21年3月1日)
みつかったあ!
手帳がなくなったのを書いたのが金曜日だったが・・・
土曜日の外来が終わって、2病棟に行くと、
「先生、これ」と、看護師さんが渡してくれたのをみると・・・
なんと、探し回っていた手帳と本じゃないか!!!
「え〜〜、どこにあったの?、もうず〜〜〜〜っと探してたんだよ、これ!」
2病棟の外科がいつも使っている机の上に立てかけてある本の間にあったとか・・・
そんなところは、たしか、いやというほど探したと思ったけどなあ・・・
本の間にはまり込んでしまったのか?
「手帳あったら教えてね!」と、勤務室の看護師さんたちには何回も頼んでいたが、
その場にいた何人かの看護師さんたちが、
「ずいぶん前からそこにありましたよ」とか言い出して・・・
一番可能性のある場所なので、自分としてはしつこく探したし、その机で、何回も仕事をしていたんだけどなああああ?
ホームページに書いたから、「あの手帳じゃないの?」てな感じで出て来たところを見ると、
もっと早くから書きゃよかったな。
とにかく、迷子になったわが子に再会したようで、久しぶりに感激した。
(大昔に娘が迷子になって妻が半狂乱で探しまわり、どうしても見つからず大騒ぎになり、交番に駆け込んだら、
娘が交番の中でお菓子を食べまくっているのを見つけたときもこんな感じだったのか?)
たかが手帳一冊でも、自分にとっては、ポパイのほうれん草みたいなもので、これがあれば100人力だ。
新しく買った手帳は使わなくてもいいことになったし、「がん疼痛治療のレシピ」は2冊になってしまったが、
この何週間の間のもやもやがはれて、久しぶりに気分爽快!
病院の状況も厳しい中、たまにはこんないいことも無くちゃね。
それはそうと、誰がみつけてくれたのかな?懸賞金の行方は?(平成21年2月8日)
どこいっちゃったんだろう?
ここ3週間ほど、病院内で探し回っているものがある。
自分の「手帳」で、もうかれこれ4〜5年は(もっとかな?)使っているものだ。
手帳といっても、自分の診療に関わる「おぼえがき」みたいなもので、
例えば・・・よく使う抗癌剤療法の注射処方やら、救急治療法やら、手術のちょっとしたコツ、
最近は緩和ケアに関してのいろいろな薬剤に関するものなど、
そのときに、これは忘れないでおこうとか、覚えておくと便利だとか思っていたことを、こつこつと書着きとめていたもので
実際の診療や、当直の時など、ちょっと見ることが多く、ものすごく役に立っていた。
この手帳は、国立がんセンターの緩和ケア科の的場元弘先生が監修した「がん疼痛治療のレシピ」という黄色い表紙の本と
一緒に持ち歩いていた。(黄色いので目立つ!)
ポケットに入れるとかさばるので、手で持ち歩いていたのだが・・・・
どこを探しても無い!
まず、自宅に持ち帰ることは無いので、病院内のどこかで使い、そのまま置き忘れたのだとは思うのだが、
病棟、外来、当直室、手術室、院長室、会議室、ありとあらゆるところを探し、
引き出しという引き出しは開けまくり、往診車の中も探したが、ない!
ゴソゴソ探していると、スタッフが、「何してるんですか?」というので、事情を話し、「手帳と、黄色い本、見かけなかった?」と、
聞いてみるが、反応は全く無い・・・
捨てるはずは絶対に無いし、もちろん、自宅でも探しまくったが・・・やっぱり無い!
ついに市販の「がん疼痛管理のレシピ」(ものすごく役に立つ!)は新しいのを買ってしまった。
手帳は「高橋修の治療レシピ」みたいなもので、買うわけには行かず、かといって、はじめから作るのは相当な手間が必要だ。
とはいっても、半分あきらめて同じサイズの手帳は買ってしまった(作り直す気力が今のところ無く、まだ探しまくっている)。
スタッフには、もし見つけてくれたら、懸賞金を出す!と宣言している。
今のところ4980円!
このページを見ている職員がいたら、そこらへんを探してくれ〜〜〜!
あと、考えられるとしたら・・・
往診先において来たか、でも、往診先でそんなものを見ながら診察しないし・・・
ある職員は、「先生、へんなところに行って、忘れてきたんじゃないの?」などというが・・・
そんなところ(どんなところか知らないが)に手帳なんか持っていくわけないだろ!
とにかく、すご〜〜〜く困る!
もう1週間探して、でてこなければ、あきらめるしかないかな・・・とも思い始めている。
新しく買った手帳に、またこつこつと書きためていくしかない。でも、まだあきらめきれない!
しばらくは、この繰り返しだ。
かなり前、自分のお気に入りの聴診器を同じようになくしたことがあり、やはり病院中探し回ったが、結局出てこず、
新しいのを買った覚えがある。あれだって、無くなるわけがないのに・・・!
そのときも、相当しつこく探したが、でてこなかった。
自分にとっては、宝物のようなものでも、他の人にとっては、全然価値の無いものだと思うのに、
まったく・・・
最近、忘れ物や、「あれ?どこにやっちゃったっけ?」と、思うことが多くなった。
認知症の始まりか!・・・危険な兆候か!
昨日の夕食のメニューとか、すらすら言えるようでないといけないよね。
あれ・・・何だったっけ?(平成21年2月6日)
研究室新年会
昨日の土曜日は毎年恒例の千葉大学臓器制御外科学肝胆道研究室のOB会兼新年会が幕張で行われた。
教授、助教授、講師はじめ現役医局員と外の関連病院で活躍しているOB、開業したOBなどが一堂に集まる。
今年は60人あまり集まったが、前にも書いたが、この研究室は今の教授と、自分の同級生3人の4人でスタートしたもので、
当然自分がOBの中では最年長になる。
今や胆道癌の手術症例数は全国1、2を争いうまでにふえ、肝臓移植も行われており、
教授は日本外科学会の要職に就き、その弟子は今では他大学の教授候補にまでなるまで成長した。
4人が研究室を立ち上げたばかりの頃、肝臓切除が年に2〜3例しかなかった状況が嘘のようだが、
宮崎教授や研究室の先輩たちが、こつこつと努力して、今の実績を作り上げてきたことを、今の現役の医局員はもう知らなくなっている。
彼らが入局した時は、すでにがんセンターからも症例が送られてくる施設になっているのだから、無理も無いが・・・
よく学び、よく遊んだ創設時の研究室時代、
今のこぎれいな講師室が昔はラットの飼育室で、糞のにおいが充満していたり、いつの間にか逃げ出したラットが猫のように巨大化し、
我が物顔で走り回っていたことを知っている人間も少なくなっている。
新年会では毎年、教授の隣に席が確保されているが、今年はテーブル席で、
同級生のO病院の院長と一緒に教授のまん前に座らされた。
この日の二日前、昼飯時に食堂に電話がかかってきた。
教授からだった。
この時期は毎年、大学の関連出張病院にとっては来年度の人事が決まる頃なので、大学からの連絡にはピリピリする。
まして医局長からではなく教授から直接電話が来たりする場合は、何事かと身構える。
だいたい、いつもストレートには用事を言わない。
「お〜〜高橋君、久しぶり。元気かね?」で始まる。
「どうだい?」
どうだいって言われてもななあ・・・・
「じきじきにお電いただいて、どうしたんです?何か悪い予感がしますが・・・」
案の定、来年度の出張人事がらみの内容で・・・
最近の手術症例の状況を聞かれる。「手術は増えてるんだろうな?」
「いえ・・・・その、やはり済生会東部病院の影響が大きく、だいぶ苦戦しています」
「そりゃあいかんね!あんまり手術が減っちゃうとなあ、出張に出す若いもんがかわいそうだろ!
いくらお前のところでも考えなくちゃならなくなるぞ!
ところで新病院はどうなってんだ?ちゃんとできるんだろうな?増田は働いてるか?
せっかく副院長で出してやったんだから大事にしろよ!」
確か教授には年末にメールで新病院の進捗状況は詳しく報告し、そのあと「がんばるように!」と、返事ももらったはずなんだけどな・・・
あんまり忙しいので、覚えてないのかね?
とにかく、電話の様子ではひとまずは何とか減員は免れ、人数は確保できそうだが・・・
新年会の当日も新病院のことをまた聞かれたし、手術症例が少ない関連病院は実際、出張医の派遣がなくなっているので、
平和病院の外科の生き残りもこの1〜2年が勝負になる。
まさにどんどん崖っぷちに追い詰められている感じだが、もともと追い詰められるとむちゃくちゃ頑張るたちなので、
モチベーションは上がるのかも知れない。
教授の隣の席は一つ空いていて、
1人ずつ各病院のトップクラスが呼ばれて、時には声を潜めた会話が行われる。「人事は夜作られる」といった感じだ。
宴会のはじめにはOB会長として挨拶をさせられたが、宴会の半ばでは各病院のOBの近況報告もあり、
後輩たちが各基幹病院でバリバリと肝胆膵手術をこなしていたりするのを聞くと、うらやましく、眩しい思いもする。
やはり平和病院の外科も、今のままでは済まされないだろうことはひしひしと感じる。
どこかに活路を見出して、手術症例数の増加実績を作らないとならない。
確かに大学の関連施設でもあり、外科学会、消化器外科学会の認定関連施設、修練施設に指定され、
各学会の指導医、専門医がいる病院であるからにはそれなりの実績が必要になる。
教授のバイタリティーに圧倒され、後輩たちのエネルギーに驚き、「よし!こっちもちっとは頑張るか!」という気分にさせられた。
もう少しで誕生日!
また一つ年をとるが、そんなこともいっていられない。(平成21年1月18日)
年明けの年賀状
新しい年が始まった。
毎年、年賀状は何とか年末には書き終えてポストに入れるのだが・・・
今年の暮れはバタバタとあわただしかった。
そもそも26日(金)から28日(日)まで、船橋の研修センターで行われた緩和医療学会PEACEプロジェクトの指導者講習会に参加したのが大きかった。
がん診療にかかわるすべての医師に対して緩和医療に関する教育を受けさせることが厚生労働省の方針で決まり、
この研修に関わる指導者を養成するために行われる講習で、
朝の8時から夜の9時まで食事の時間以外、缶詰状態で、ぶっ続けでおこなわれる。
かなりのハードスケジュールで、実際の講義の練習もあり、参加者どおしで話し方やテクニックをお互いに指摘しあったりもする。
実際すごくためになったし、終わった後の達成感もあったが、何しろ疲れ果てた。
今年は院内の緩和医療勉強会だけでなく、外部で行われる緩和医療教育のお手伝いをすることになる。
29日は病院の最終日だったが、在宅ですごされているターミナル患者さんの往診に出かけた。
このうちの1人の患者さんは、かなり具合が悪く、年末年始で診療、看護の体制が手薄になることが心配された。
このほかにも、何人もの患者さんが紹介されていたが、やはり安易に引き受けた場合、年末年始に対応が出来なくなることが予想されたので、
現在入院中の病院でがんばっていただき、年明けに対応させてもらうことにしていた。
(年明けには、相談予約や入院予約がたまっている)
往診の時、休み中に何かあった時のために、自分の携帯電話の番号を教え,必ず休み中も対応することを約束し、病院にもどった。
もどってからは、緩和ケア目的で入院している患者さんの診察、ご家族との面談をおこない、
ひと段落したのは納会が始まる5分前だった。
あわてて会場の職員食堂に急いだが、もう準備は整っており、職員が集まってきた。
いつもは、納会の挨拶で、どんなことを話すか、あらかじめ考えておくのだが、とてもそんな暇も無く、
「とにかくご苦労さん!」みたいな挨拶になった。
納会が終わり、部屋にもどり、雑用を済ませ、家に帰ってさあ、年賀状でも・・・と、思ったが、
ついていないことに、住所録を入れていたパソコンが全く動かなくなった。
なんどやってもモニターの画面は真っ暗のままでどうしようもない!
30日の朝、パソコンショップに修理を頼みに行った。
さいわい何とか修理が可能で、持ち帰ったあと、
自分の実家に正月用の料理を作りに行っている妻と娘を迎えに行き、帰ってくる途中、
ライディーンがなった。
心配していた患者さんの家族からだった。
自宅で入浴後、急に呼吸困難になり、苦しがっているというものだった。
電話口で、患者さんの苦しそうな声が聞こえている。ご家族もかなり不安そうだった。
これから往診に行っても間にあわない可能性もあり、自宅には何の道具も無い。
やむを得ず、救急車を呼んで病院に来てもらうことにした。
病院には事情を話し、直接入院してもらうようにし、車で2国を飛ばした!
家族を乗せたまま病院に着くと、すでに救急車が停まっていた。
自分だけが車をおり、病棟へ急いだ。患者さんは電話の様子よりは少し落ち着いていたが、予断は許さなかった。
ひとまずの指示を出し、ご家族には急変の可能性のあることをお話しし、いったん家にもどったのが11時ころだった。
31日には年賀状を書き終えて・・・と思っていたが、朝の6時前にまたライディーンが鳴った。
夜に入院した患者さんの状態が悪くなっているという連絡だった。
この患者さんに初めて会ったのは、12月20日の「がん緩和相談外来」だった。
そのときは治療を拒否していたため、手術をしていた病院からは「他の施設に」と言われ、
近くの開業の先生も往診対応が出来ず、途方にくれていた。
急いで介護保険の申請、訪問看護の手配をし、自宅から病院は少し遠かったが、自分が往診対応することにした。
初めての外来を終えた時、「やっと安心することが出来ました」と、言ってくださった顔が今でも忘れられない。
最初は痛みや倦怠感が強く、呼吸苦はあまりひどくなかったので、痛み、苦しみは全力で取るようにすることを約束していた。
その後の治療で、痛みはコントロールされていたが、呼吸困難が急速に増悪してきた。
緩和ケアの患者さんで、呼吸困難の症状を取るのは難しいことも多い。
あわてて病院まででかけ、診察したが、状況は思わしくない。
何とか使用していた薬剤を調整し、やや落ち着いたのを確認し、8時過ぎにいったん帰宅したが、それから2時間後・・・
また連絡があった。担当担当看護師がややあわてている。
「先生、患者さんの呼吸が・・・、早く来てください!」
とりあえず当直の若い外科医に対応を頼み、病院にもどったが・・・
患者さんの状態はいかんともしがたくなっていた。
初めてお会いした時から、患者さんは自分の状態を理解されており、最期の時も延命処置を望まれていなかったので、
救命処置をせず、そのまま亡くなられた。
ご家族が落ち着かれてからしばらくの間お話しをし、お見送りをしたのがもう3時近くだった。
前の日には往診をしたばかりだったので、あまりの急変に自分もかなりショックを受けた。
自宅に帰った後も、とても年賀状に「おめでとうございます」などと書く気にもなれず、
気持ちが落ち着いた年明けになってからやっと書き始め、ポストに入れたのは2日の午後だった。
今、このホームページを書いている最中に、O病院の院長をしている同級生から電話があった。
「高橋からの年賀状がいつまでも届かないので、なんかあったんじゃないかと心配になってな・・・」
事情を話した。「そうか・・・緩和を始めると大変だよな」と、言われたが・・・
今年は昨年よりもっと緩和ケアを求めて平和病院を訪れる患者さんは多くなるだろう。
自分のスキルはもちろん、病院としてのスキルをもっとあげなければならない。
明日からも入院予約、相談外来予約が詰まっている。
患者さんを抱えれば抱えるほど今回のような緊急事態、夜間、休日の呼びだしも多くなるだろう。
出会いの数だけ、別れがある。
これを乗り越えなければ、治療する側の自分が燃え尽きてしまう。
自分の診療体制を整理し、大学と相談し、協力を要請し、自分が緩和医療に時間をさくぶん、外科の診療体制も再構築しないとならなくなっている。
病院の経営を安定させ、今年こそ新病院の着工にこぎつけなければならない。
新年早々やることはてんこ盛りだ!
充実感のある1年になるよう、明日からの仕事に全力投球するしかない。
いい年になりますように!(平成21年1月4日)
空床あり?
平和病院の給与水準はあまり高いとは言えず?、院長といえども当直をしている!
原則的に毎月、第1、第2、第4の土曜日に当直をしている。
土曜日はたいてい外来が遅くまでかかり、そのあとに事務処理やら、緩和ケア目的で入院している患者さんの診察やら、
緩和相談外来で来院する患者さんのご家族(土曜日なら来院できるという方が多い)の対応などをしていると、
昼飯も食べる暇も無く、当直でなくても結局5時過ぎまで仕事は終わらず、そんなことならいっそのこと当直していれば・・・
という現実的な考えもある。(院長は超過勤務手当ては一切出ないが、当直をすれば、当直料はでる!)
当直の時に患者さんが来る場合は、患者さんから問い合わせの電話がかかり、受診される場合、
問い合わせなしに直接窓口に来る場合、救急情報センターといって、病院が、受診した患者さんを何らかの事情で入院させられない場合、他の病院を探してもらうために紹介する機関からの問い合わせ、
ホットラインといって救急車からの直接の問い合わせがある。
最近は、当直をしていて夜間にホットラインがなるケースはほとんど無かった。
おそらく、近くの済生会東部病院に救急部があるために、救急車は夜間でも検査体制の整った施設に患者さんを搬送するからだろう・・・
ところが昨日は珍しく、夜、ホットラインがなった。
ホットラインは医師当直室、受付、内科外来の3箇所に設置されているが、
自分が当直している場合は、院長室にいることが多いので、昨日も事務当直から、
「ホットラインが鳴っているので電話対応してください!」と連絡があり、受付に急いだ。
「当直ですが」
「お世話になっています。○○救急ですが、患者さんは80歳代の女性、老人施設に入所中、40度の発熱と嘔吐がみられます。
対応お願いできますか?」
「患者さんはどんな状態です?」
「普段から寝たきりで、意識の状態も明確ではありません」
まあ、ここまで聞くと、診察だけして、「はい、帰っていいですよ」で、すまないことは想像できる。
もう夜も遅い、受け入れれば手間取ることも確実だ。
「部屋の状況を確認しますので少し待っていただけます?」
病棟に部屋を確認すると、看護師も気持ちよく、受け入れ可能であることを伝えてくれた。
ここで、以前は電話に対応する看護師によっては、え〜!これから入院ですか!という感じで応対されることもあったが・・・
最近はシステムを整理し、患者さんを受け入れることの重要性を周知させたこともあり、ずいぶん改善された。
看護師も大変だが、こんな応対をしてくれると、こちらも気持ちがいい!
「部屋もあるようですので,つれてきてもらっていいですよ」
普通は「わかりました、今から向かいます」で、すむのだが・・・
「えっ、本当にいいんですか?」と、救急隊員が言った。
おいおい!そんなことを言われると、なんだか不安になるじゃないか!
「えっ!患者さんになんか問題があるんですか?」
「いえ、別に・・・それでは15分後に到着します」
ひょっとして、ものすご〜〜〜く具合が悪い患者さんだったのか?
レスピレーターでも必要なのか?
急に不安になってくる!
しばらくしてサイレンの音がして、患者さんが運ばれてきた。
問いかけにほとんど反応も無い。服には嘔吐したものがへばりついている。熱は40度近くある。
ただ、血圧は比較的安定、血中酸素濃度も保たれている。呼吸音も悪くない。
一緒についてきた施設の人も、意識のレベルはいつもこんなものだという。
それでも車椅子に移乗してご飯を食べて(食べさせてもらって)いたようだ。
とりあえず、入院、点滴、抗生剤の投与をはじめることにした。
搬送書類にサインをするとき、救急隊員がいつに無く
「本当にありがとうございました!」というので、ずいぶん丁寧な隊員だな・・・とは思ったが、
あとで事務当直から、この患者さんが、平和病院に搬送されるまでに10件以上の病院から搬送を断られたことを聞いた。
「院長先生に、くれぐれもお礼を言っておいてください」と、隊員から言われたそうだ。
隊員にしてみれば、やっと引き取ってくれる病院が見つかったのだろう。他の病院はすべて「満床」だったそうだ。
最近妊婦の救急患者が多くの病院で受け入れを断られ、問題になっているが・・・
実は入院を断られるのは妊婦ばかりではない。
今回のケースのような、高齢者が具合が悪くなった時も、同じようなことがおこるようだ。
いま、救急病院は患者さんを長期間入院させることは出来ない仕組みになっている。平均在院日数に厳しい制限があるからだ。
高齢の患者さんをいったん入院させると、回復が長期化することも多く、いったん入院すると、家族の受け入れが悪くなり、
在宅に復帰できなかったりするケースも多く、病院はその受け入れ先の確保に大きな労力を裂かなければならなくなる。
緩和医療で入院が必要な患者さんが、大きな病院から退院をせまられるのも、実は同じ理由からだ。
「80歳代、意識の状態があまり良くなく・・・・」と、この時点で、受け入れ側は身構える。
きっと、昨日は他のどの病院も1床も空いているベッドが無く、平和病院だけに空きベッドがあったのだろう。
さいわい、当直明けで患者さんを診察すると、熱は下がり、状態は安定していたが・・・
救急車を呼んだ時点で患者さんの具合がもっと悪かったら、病院を探している間にも患者さんは危ない状態になっていた可能性もある。
医療制度改革もいろいろ言われているが、問題は身近なところにもごろごろ転がっている。
こんな患者さんを受け入れる病院が、その後に苦労するような結果にならないようにすることも、大切だと思うが・・・
きっと今日も「満床」の病院は多いのだろう。(平成20年12月14日)
巻き返しなるか?
あっという間に12月になってしまった。
今日は冬期賞与の支給日だ。
平和病院では私が院長になる前から、「賞与支給式」が行われている。
幹部職員が全員集まり、事務長が、
「ただいまより賞与支給式を行います。一同、礼!」
と、号令をかけ、各部署責任者に、その部署全員の賞与明細を手渡しする。
「ご苦労様」
「ありがとうございます」
のやり取りが行われた後、「院長訓示」といって、病院の現状をふまえた簡単な話をしなければならない。
他の病院ではどうしているのかわからないが、
今まで恒例なので、続けている。
もともと、人前で話すのはあまり好きではないが、立場上、院内の行事、宴会の時、
招待された職員の結婚式、院外の集まりのときなどなど・・・・
話さなくてはならないことも多くなっている。
一応、内容は事前に考えるのだが、実際に話す時には、半分以上忘れてしまっており、
結局はアドリブのようになってしまう。
ただ、さすがに同じような行事を繰り返し行っていると、
なんとなくパターンがあるので、最近は以前よりは苦労しなくなった。
ただ、今回の賞与に関しては、病院の経営状況がいつになく厳しいため、
前回、前々回の支給額に比べると、減額になる職員が多いので、
いつに無く話しにも力がはいってしまう。
幹部職員を鼓舞し、病院を活性化させない限り、収益の改善は見込めない。
不思議なことだが、院内に一人でも病院の方針を理解しない者がいて、特にその言動が目立つ場合、
その部署全体が、その雰囲気に染まってしまう。
残りのほぼ全員の職員が、きちんとした考えを持っていても、
実際、職場の雰囲気を乱す者の声や態度がでかい場合には、なかなか自浄作用が働かない。
気がつかないうちに、その部署は、他の部署の職員から見ても、「えっ?」というような独特の雰囲気を持つようになってくる。
さらにそれが進むと、病院のほかの部署にも伝染し、病院全体の空気さえ、澱んでしまうことにもなりかねない。
せっかく他の職員が必死に働き、厳しい状況に耐えてくれていても、
その職員たちへの周りの評価が伴わなくなる。
まともな考えを持っている職員の声は、数が多いはずなのに・・・あまりに弱い!
院長になって、今までもいくつかの職場で、このような状態がみられたが、
さいわい、わずかのサポートをすることによって、その部署内の話し合いの中で解決できてきた。
一番困るのは、その雰囲気、職員になじめないで、新しく補充したスタッフが耐えられずに退職していくケースがあることで、
職員が辞めれば、残されたまともなスタッフには、さらに負担がかかる。
自分たちで自分たちの首を絞めることになってしまう。
院長としての指導力がない!といわれればそうなのかもしれないが、
基本的に、自分は職員の自浄作用を信じているし、期待している。
今回の「訓示」ではこのようなことを言わせてもらったが、その真意を理解してくれたかが問題で・・・
いつもの話の内容と少し違っていたことも、何のことを言われているのかわからなかった職員もいたかもしれない。
まあ、いずれにしても、今年度もあと4ヶ月足らず・・・
今、病院は入院患者さんも多く、入院をコントロールしなくてはならないほどになっているが、
この状況も、いつまで続くかはわからない。
前半のツケを取り返すには相当ハードルが高い!
忙しければ職員への負担も多くなる。バランスの調整が必要だ・・・
粛々と、前を見て、(後ろもみないと、一人で歩いていて誰も付いてこないのも困る)進んでいくのみ!
職員が付いてきてくれていると信じながらも、院長は孤独だと思う今日この頃・・・
忘年会の予定も入り始めている。
今年は悪酔いをしないように気をつけよう。(平成20年12月5日)
またまた「目がテン!」後日談
平和病院が撮影協力した番組が放映される予定の数日前、担当ディレクターから電話があった。
撮影のお礼と、撮影した部分がちゃんと放送されること、番組内容をDVDにおとして送ってくれることの報告だった。
「院長室での撮影部分も映るの?」
「ええ、しっかり映ります。先生にコメントをいただいた部分も、ちゃんと映りますから、楽しみにしていてください!」
とのことだった。
そういわれると、なんだか期待しちゃうじゃない!
と、いうわけで、16日の日曜日は早起きをしてテレビの前に家族全員が集まり、くいるようにテレビ画面を見つめた。
何しろ、前回映った時は、わずかに5秒で、瞬きしてる間に画面から消えた。
果たして今回は・・・
駅弁の科学と題して、なぜ駅弁がおいしいのかなどなど・・・
いろいろな角度で検証が始まり、ついに「振動」の部分だ。
振動を加えると、加えない時に比べ、わんこそばで試したところ、全員がよりたくさん食べられた!
理由をレントゲンで調べてみると・・・
でてきた出てきた。
平和病院の入り口部分が映り、ちゃんとロゴマークもだしてくれている。
そのあと、わざとらしくパソコン画面を見ている自分が流れ、
「平和病院院長、高橋修先生」と、フリップも出してくれている。
「お〜〜〜!」
家族から沸きあがる拍手!
撮影したレントゲンの部分は、わかりやすいようになんだか加工されていたが・・・
その後のコメントもしっかりカットされず映っていた。
週明け、病院では、何人もの患者さんから、「先生、テレビに映ってましたね」とか、
「テレビを見てたら突然先生が出てきたんでびっくりしました!」などと言われた。
朝早くの番組にしては視聴率も高いのか・・・?
ある職員などは、家族から「おい、平和病院の院長がテレビに出てるぞ!」と大声で呼ばれ、
てっきり病院でとんでもないトラブルを起こし、私が謝罪しているのかと勘違いした、ふとどきき者もいたようだ。
確かに、重大な事故が病院で起こり、カメラのフラッシュの中で「申し訳ありませんでした!」
と、謝罪している病院長はたびたび映し出される。
こんなテレビの出方はまっぴらごめんだが・・・
朝のバラエティー番組で、当たり障りの無いコメントを言うなら、平和でいいじゃないか!
全国放送で病院の宣伝にもなる?し・・・
撮影協力費として若干の謝礼も(もちろん個人的にではなく病院に!)いただけるし・・・
ところで・・・
最近娘が「ミクシー」とか言う、仲間うちしか読めないブログみたいなものを始めているらしく・・・
この番組のことを、あること無いこと書いているるらしいが、
何しろ、会員制みたいなもので、チェックするすべが無い。
それを読んだ娘の友達の母親が、
「ほんとに大笑いしちゃった!」と妻に言ったそうだが・・・
おいおい・・・笑われるようなことじゃないだろう!
なんでも、撮影の日には髪のセットに30分以上かけ、匂いが伝わるわけも無いのにブルガリの香水をかけまくり・・・・
などと、大嘘を書きまくっているらしい!
確かに、このホームページには今まで娘のことを何回か書いてきたが、
愛情いっぱい、好意的に?書いてきてやったたのに!
最近は逆恨みをして大逆襲をしているようだ。
「見せろ!」といっても「やだね」の一言で一蹴される。
こら!そんな娘に育てた覚えは無いぞ!(平成20年11月21日)
またまた「目がテン!」
何ヶ月か前のこと、NTVの「所さんの目がテン!」の撮影に協力したものの(2回目)、
結局はボツになって使われなかったことを書いたが(また「目がテン!」)・・・(1回目はちゃんと放映された)
先日、またまたスタッフから電話があった。
電話は今まで2回の担当とはまた違った人からだったが・・・
レントゲンを使って実験したいことがあるので、病院を使わせてくれないか、というものだった。
どうも、やはり気軽に施設を使用させてくれるとの情報が伝わっているらしい。
なんでも、今回は駅弁が何故おいしいか・・?ということから発想が始まり、
きっと、電車の振動が関係しているのでは?となり、
実際に振動を加えた場合と、加えなかった場合で、どちらがたくさん食べられるかの実験を行ったようだ。
方法は初めて平和病院が使われたときと同じように、「わんこそば」で確かめたようだ。(目がテン!)
地震の揺れも体験できるような、振動体験機(大震災の揺れも体験できるのだそうだ)を用意し、
実験した結果は・・・揺れていた時のほうが明らかに「たくさん食べられた」ようだった。
話を聞く中で、駅弁がおいしいと思うのは、べつに「振動」が関係してるのではなく、
きれいな景色を見たり、楽しみでワクワクしたり、一緒に行く人との楽しい会話のせいなんじゃないの・・・?
と、思うのだが、どうしても実験結果をレントゲンで確認したいとのことだった。
振動が有る場合と無い場合、二日に分けて実際に弁当を食べた後の胃の動きを時間を追って観察する。
ストーリーから言うと・・・・
振動があったほうが、胃の動きがよく・・・だからたくさん食べられる・・・
というはずだったが・・・
病院の駐車場に振動機を持ち込んでの撮影になったものの、
食べ物の胃からの排出に関しては、どうもそんなに明らかな差が出ない!
この結果で「院長先生のコメントをお願いします!」と、言われても・・・・なあ・・・
といっていては、今までの実験の苦労が水の泡になるので、実験にあう結論をみんなでいろいろ考え、
何とかコメントを言う場面を撮影したのだが・・
前回、自分が映ったのはがわずかに5秒間、果たして今回は?
(それでも、何人かの患者さんに、先生、この前テレビに出てましたね!、といわれた)
今回は、レントゲン撮影室でのコメントも他に、「院長室でも別のコメントを撮りましょう!」と、いうことになり、
最期は院長室にカメラを持ち込んで、簡単なコメントを言う場面を撮影した。
わざとらしく机の前に座ってパソコンをいじっている場面もとられ、そのあとでほんの一言、別のコメントを言ったのだが・・・
もちろん、この前のように、全部がボツになる可能性もある。
最終的には、ボツにならなければ11月16日(日)の放映だそうだ。
編集会議が終わってから、このシーンが使われるかどうかの連絡をくれるようだが・・・
果たしてどうなることやら。
乞うご期待?(平成20年10月30日)
超「男性」ワイヤー?
先日来、陥入爪の新しい治療「VHO式」を導入したが、
以前から行われている形状記憶ワイヤー(マチワイヤー)を使った治療とともに、
利用される患者さんには、これらの治療が保険治療として認められていないので、治療費を含め、全額自費診療をお願いしている。
このため、治療を開始する時、予約を取るときには、料金体系をご説明し、
自費診療であることの承諾書をいただくことにした。
自分で文の内容を考え、印刷してお渡ししていたが・・・・
この前、承諾書の説明医師の欄に自分の名前を書こうとして、気がついた。
「私は、今回受ける陥入爪に対する治療(・VHO式 ・超男性ワイヤー)・・」
カッコの中はどちらかに丸をつけることになっている。
え? え〜〜〜?
「超男性ワイヤー」だってえ?
今まで何人もの患者さんに渡し、サインをいただいていたのに全く気付かなかった!
渡していたクラークも看護師もぜんぜん気付かなかったようだ。
もちろん、患者さんからもご指摘いただくことも無かった。
超男性ワイヤーって・・・いったいどんなワイヤーじゃい?
あわてて訂正するよう指示し、現在はちゃんと超弾性ワイヤーに直っているが・・・
でも、
超男性ワイヤーによる治療なんていわれると・・・
なんだかものすご〜く元気が出る治療法のような感じがするのが不思議だ。
最近はストレスも多く、体調がいまひとつで、朝鮮人参やらサプリやら漢方やらをのんでいるが、
効果があるのか無いのか・・・という感じだが、
「超男性ワイヤー」はそんな薬の100万倍も元気が出るようなネーミングで
どんなに元気が出ないときや、めいっている時でも、ピーンと一本芯が通ったように、シャキッとしそうな気がするじゃないか!
思わず「ぜひ治療を受けてみたいです!」と叫びたくなった。(平成20年10月24日)
「がん緩和相談外来」開設
平和病院では、何とかして近い将来、自前の緩和ケア病棟を持とう!と計画を進めていますが、
現在、緩和ケア病棟の数は十分とは言えず、
入院を希望する患者さんはいても、入院できるまでには何ヶ月も待たなければならないことも多く、
中には入院を相談するための外来受診が2ヶ月先・・・などのこともあります。
こんな事情もあるのか、最近は多くの患者さんが平和病院に紹介されてきます。
地域の患者さんで、都内の大病院、基幹病院で手術を受けたものの、何年かたって再発、転移が発見されたり、
調子が悪くてそのような病院を受診したものの、すでに「手遅れ」の状態だったりした方たちなど・・・
また、地域の診療所の先生方が在宅で診てこられたご高齢の患者さんが、がんに侵され、
在宅での疼痛コントロール、全身管理にご苦労される患者さんなどについてご相談を受けたり、
入院依頼をされるケースも増えています。
さらにこの他にも、病院のホームページやこのサイトを見てくださった患者さんのご家族から、
直接メールなどでご相談をいただくケースも見られるようになってきました。
ただ、そのような患者さんをご紹介いただいたくたびに、
大病院から、
「もう打つ手がありません。自宅に帰って地域の先生に診てもらうか、入院できる病院を探すか、ホスピスに申し込んでください」
などと言われ、どうしていいかわからず、途方にくれ、行き場を求めてさまよう患者さんやご家族の不安をひしひしと感じています。
基幹病院では平均在院日数の制限も厳しく、「治療」しなくてはならない患者さんも多いので、
このような患者さんを全部入院させていては、他の患者さんが入院できないのは理解できますし、
地域で在宅療養を支援する先生方、訪問看護師さんたちが、サポートの体制を整えても
ご家族が仕事を持っていたりすれば、「何かあったら心配」で自宅ではとても看られない、と考える気持ちも理解はできます。
ただ、そのようなご家族でも、入院後、サポートの体制を約束し、ご相談に乗ることで、
「やってみようか・・」と、気持ちをきりかえ、不安を乗り越えて患者さんの希望どおり在宅にもどり、
そのままご家族に看取られ、安らかに亡くなられる例も見られます。
このため、平和病院では、少しでも不安を抱える患者さん、ご家族のお役にたちたいと思い、
「がん緩和相談外来」を開設することにしました。
完全予約制で、一人の患者さん、ご家族にじっくり時間をかけ、現在お困りのことをお聞きし、
今後の方向性を一緒に考えていく外来です。
担当は私が行います。
もちろん、自分もまだまだ勉強不足で、すべての悩みに明確にお答えできるとは思っていません。
ただ、相談をさせていただき、一緒に考えていくことで、少しでも患者さんやご家族の苦痛、不安を軽く出来れば・・・と思っています。
平和病院で対応できる場合は、もちろん入院を含め、責任を持って援助させていただきますが、
単独の施設がいくらがんばっても、できることには限りがあります。
地域で在宅ターミナルを支える診療所の先生方、
地域の訪問看護ステーションの看護師さんたち、介護サービス事業所の皆さんなどのご協力をいただきながら、
地域全体として患者さん、ご家族を支えるシステム構築の橋渡しになれれば・・・と思います。
はじめは試行錯誤になるとは思いますが、ぜひ、当院の「がん緩和相談外来」をご利用ください。
詳しくは地域連携室rennkei@heiwakai.com、外科外来、病院へのメールheiwa-hosp@heiwakai.com等にご相談ください。
(平成20年9月26日)
平均在院日数と病床稼働率
平和病院では、9月1日から、1病棟を一般病床に転換した。
この病棟は、かなり長い間、長期入院対象となる高齢患者さん向けの病床として、介護力強化病棟、医療療養病棟、
障害者施設等病棟と、その時々の診療報酬の変化に応じて対応してきたが、
今回の診療報酬改定にあわせ、思い切って方向性を変える決断をした。
今回の決断は、自分が院長になってから、いろいろ行ってきた経営判断の中でも、かなり重要なものになったし、
今後の平和病院の運命をも大きく左右するものになるだろう。
また、病院の「収益」に関して言えば、必ずしもプラスにならなくなる可能性も高い。
ただ、もはや、猫の目のように変わる診療報酬改定に対して、右往左往し、小手先に病床構成を変えることには疲れ果てた。
この先1〜2年、苦しい思いをしても、中、長期的な視野にたって病院の将来を描かないと、
もはや60年以上の歴史を刻んだ病院も立ち行かなくなってしまうだろう。
今回の決断は、そんな意味でも、将来、新しい診療体制を持つ、新しい平和病院を強烈に意識したものだ。
確かに、長期間入院している患者さんが多ければ、ベッドはその分「うまる」ことになる。
1病棟の稼働率はほぼ100%近かったが、平均在院日数は200日に近かった。
一般病床には平均在院日数に制限があるので、21日を越えることが出来ない。
長期に安定してベッドを使ってくれる患者さんがいなくなれば、
患者さんが早めに退院すれば、新しい患者さんが入院しない限り、ベットは「あく」ことになる。
最近は、患者さんの状態や、ご家族の受け入れ体制を見て、病気そのものが良くなっても退院できないことが予想される場合は、
MSWなどと、入院当初から退院に向けての積極的な支援を展開するような体制作りを行った。
もちろん、急性期の状況が改善しないのに、ただ入院期間が長くなったとの理由で、退院をしていただくわけではない。
病棟で働く看護師たちにも、受け入れ患者さんの変化、患者さんの構成の変化を理解してもらわなくてはならない。
基本的に一般病棟は急性期の患者さんを扱うので、予定手術、予定検査入院などを除けば、
入院は「急に」決まる。
何日間も新しい患者さんが入院しない日もあれば、1日に4人、5人と入院する日もある。
1日に、たくさんの患者さんが入院する日は看護師の業務はとても忙しくなる。
最近は、入院時の「看護記録」も昔に比べずいぶん複雑、煩雑になっているようで、
「入院看護計画」を作成するのには、ずいぶん手間がかかるようだ。
看護師たちは患者さん、ご家族の話を聞き、カルテにいろいろと決められたことを記載するのに長時間を必要とする。
この部分の業務改善、方式の工夫が行えれば、それだけ患者さんのところに行く時間も増えるのに・・・・
看護師はスタッフステーションで「看護計画」と格闘している。
そんな中に、また緊急の患者さんを入院させようとすれば、ステーションの雰囲気はにわかにピリピリする。
ベッドは空いている。
外来には具合の悪い患者さんがいる。
患者さんに、「すみません、看護師たちが忙しいので、他の病院を紹介します」などと言えるわけが無い!
もちろん、忙しい中でも、看護師たちはがんばってくれている。
どんなに忙しくても患者さんに対してはにこやかに、誠実に対応している。
退院時アンケートでも、あたたかな感謝の気持ちを書いていただくことが圧倒的に多い。
ただ、看護師は「忙しい」!と、悲鳴を上げる。
それでも、一般急性期の病床は、ず〜〜〜っと長い間、同じ患者さんが入院し、
新しい予定入院が月に何人かしかいなくて、処置もほとんど無く、介護がメインの病床ではないのだ。
病院はベッドが空いている限り、頼られれば応えなければならない。
これは医療に携わるものの使命であり、1日に何人入院しようが、たとえ夜中だろうが明け方だろうが、そんなことは関係ない!
「院長は私達の気持ちや忙しさをちっともわかってくれない!」
最近、不満の矛先を一気に向けられるようになっているが、
受け止めなくてはならない部分も十分承知している・・・
ただ、せっかく自分たちからでる「こうしよう」「こうしたらいいんじゃないか」という建設的な声を、
不満を言う声が閉じ込めてしまっているような気もする。
何とか、看護師たちが自分たちでも改善の芽を育てていくようにする環境を整えることが、自分としての大きな責務だと思う。
院長の向く方向に全職員が向き、怒涛のように進んでいく!
そんな病院になりたいが、簡単にいかないのは院長としての力量の無さか?
カリスマ性の不足か?伝達能力の欠如か?・・・・
かくして、院長のストレスは日増しに高まり、胃薬、不整脈、めまいの薬を飲むようになる!
と・・・愚痴を言っても始まらないので(結局言っているのだが・・・・)、
毎日気合を入れなおし、ああでもない、こうでもないと、1日中、病院をよくすることを考える。
こうやって書いているのも、自分のストレスのはけ口のようになっていて、読んでくださる方には申し訳ないような気もするが・・・・
ひとまずは新しい入院患者さんのルートを確保することが、今の平和病院にとっての生命線だ。
(患者さんにとっては入院しないほうがいいに決まっているが・・・)
ここは業務改善、人員確保に全力を挙げながらも、今回の方針、決断をつらぬくしかない。
猪突猛進!特にこの数ヶ月は突っ走るしかない。(平成20年9月21日)
巻き爪治療の新しい武器!
現在、外科外来では足や爪に関する患者さんがたくさん来院する。
たこ、魚の目の治療、ひょう疽、巻き爪などなど・・・
特に「巻き爪」は悩んでいる方も多いらしく、雑誌やテレビなどでもその特集がたびたび取り上げられ、
「きらない治療法」として、平和病院でも採用している「マチワイヤー」(超弾性形状記憶合金)を使った治療法も紹介される。
最近では、このワイヤーを使って治療する施設もだんだん増えているようだが、
治療を始めた頃は、インターネットで調べ、新幹線に乗ってわざわざ静岡から受診される患者さんもいた。
このほかにも爪の白癬(水虫)で、ものすごい勢いで爪が厚くなり、痛みがあるような患者さんも来院し、
グラインダーできれいに削ることもしているし、自分で爪が切れないからと、「爪を切ってもらいに」来院する患者さんもいる。
もう、こうなると、「治療」というよりは爪をやすり(100円ショップで買ってくるものもある)で削りながらの世間話になってしまう。
「せんせ!大根おろしにぶどうを入れて食べるの知ってはります?」(関西の人なので)
「え〜〜、そんなの知らないですよ!知っててもあんまり食べようとは思わないですね」
「そんなこといわず、奥さんに言って作ってもらって食べてごらん!絶対おいしいし、体にいいんだから・・・」
「体に良くったって、大根おろしと、ぶどう、別々に食べればおんなじじゃない!」
「昔、病院に勤めてたとき栄養士さんが教えてくれたんだから!騙されたと思って食べてみなさいって!」
「はいはい」とは言うものの、挑戦する時はかなりの勇気がいりそうだ。
そんな話しをしている間に爪はきれいに削られ、「はい、おしまい」
「そんじゃまた・・」
ん〜〜〜、これって病院の「治療」じゃないよなあ・・・などとも思うが、
けっこうこんな患者さんも多い。
先日外来の健康教室で増田副院長が「巻き爪」に関しての話しをした。
ワイヤー治療をしていて思っているのが、爪の根部から巻いている弯入爪の場合は、
効果が出るまでに少し時間がかかることだが、こんな患者さんに先日も書いたが、「VHO]を始めることにした。
先日長い間ワイヤー治療で通っている患者さんに、この治療をお勧めして切り替えてみた。
効果はどうか・・・
近いうちに病院のホームページや院内、院外報で広報しようと思うが、
詳しく知りたい方は、「VHO]のホームページを参考にしていただきたい。
VHO式治療(http://www.vho.jp/vho/about/) へのリンク(平成20年9月7日)
定例医療監査が終了しました
先日8月26日(火)、毎年行われる病院に対しての医療監査が行われました。
今回の大きなテーマは「感染対策を含めた医療安全対策が適切に行われているか」でした。
そのほかにも、各基準が適切に守られているか、職員の人員基準は満たされているか、
施設の状況は適切か・・・など、様々な観点で病院全体がチェックされました。
平和病院は来年には医療機能評価の認定更新時期になります。
さらに多くの項目が適切に運営されているかがチェックされます。
今回の医療監査の内容は、医療機能評価の審査内容にも共通するものであり、
現在の病院の状況を確認する意味においても、いい機会でしたが、
さいわい、早期に改善が必要な指摘事項はありませんでした。
その他の細かな指摘事項は来年の監査までに修正することが必要ですが、
直ちに改善が可能なものであり、早急に実施予定です。
(入り口の看板に「診療科」として往診とか人間ドックとかの記載があるので、区別するように・・・等)
今後も院内各部門において、皆様に安全な医療が提供できるよう、内容を充実させていきたいと思います。(平成20年8月31日)
ヘソをとられる!
毎日、暑い日が続いている。
ご高齢の方たちはバタバタと体調を崩し、一時期、空床が目立った病室も、あっという間に満床近くなってしまった。
病院を経営する側とすれば、ベッドは常に満床が望ましいが・・・
ベッドがうまる、ということは、それだけ皆さんの体調が悪いということなので、
「お体を大切に!」と言っておきながら、体調不良の人たちを待っているようで、複雑な感じだ!
先日、久しぶりに雨になった。
昼に、ちょうど会議を始める頃、空が暗くなり、あっという間にどしゃ降りの雨とともに、
雷が鳴り始めた。
「ああ、やっと雨が降ったねえ・・・、まさに恵みの雨だね!」
などと言いながら、外を見ていたが、
雷はだんだん近くなり、稲妻が走った直後に、すさまじい音とともに近所に落雷したようだった。
「おお!すっごいね!」などと言いながらも会議を続けたが・・・・
見回りに行った看護部長から、透析室が大変なようです!との報告があった。
停電はしていなかったし、仮に停電しても透析室、手術室、呼吸器などは非常電源装置があり、
事故は起こらないようになっているが・・・
どうも近所に落雷した時、ものすごい過剰電流が流れ、透析機器にも瞬間的に多量の電流が流れたため、
機械の調子が悪くなったらしい。
何とか修理を行ったが、基盤が焼けて、修復不可能な機器が複数台発生してしまった。
もっと調べると、院内の多くのパソコンのバッテリーが使い物にならなくなっていたり、
モニターなども、落雷が原因かどうかは不明だが、調子が悪くなるものも出ている!
1台のパソコンなどは突然画面が180度回転したようになってしまった。
「先生、直せますか?」と、いわれたので、
モニターを持って、ぐるっと回転させようとしたが、そんな野蛮な行為ではダメなようで、今のところ、逆立ちしてみるしかない!
結局、修理やら新たな機器の購入で、あの雷一発で、莫大な損失を被ったことが判明した。
台風、地震など、最近の自然現象で、被災される人たちのニュースを見るにつけ、
お気の毒に、と思うことも多かったが、まさに自然の力の恐ろしさをまざまざと思い知らされた。
患者さんに被害が無かったのは何よりだが・・・
それにしても、この時期に予想外の出費は痛い!
な〜にが「恵みの雨だよ!」
「雷様にお臍をとられるぞ!」と、子供の頃はよく言われたが・・・・
何にも悪いこともしてないのに、まさに、あの雷一発で、いくつもヘソをとられた感じだ。
自然の力、恐るべし!(平成20年8月1日)
「ネイルアート」はやってません!
先日、鶴見区医師会の訪問看護ステーションスタッフとの交流会が鶴見のホテルで開かれた。
ステーションの今年の重点的な取り組みが「在宅での看取り」らしく、
参加した診療所の先生方からも在宅での看取りの困難さに関しての意見が述べられていた。
平和病院では最近、地域連携室機能を強化し、患者さんの紹介受け入れの円滑化、
ベッドコントロールの円滑化を目指しており、しばらく発行していなかった院外広報誌も先日発行した。
ふだんおせわになっているステーションにも送ったのだが、
何人かの看護師さんにお褒めをいただいた。
ただ、隣の席の看護師さんに、
「先生はお忙しいのにネイルアートまでなさっているんですってね!」・・・と言われた。
増田副院長が新しく赴任したので、彼に就任の挨拶を書いてもらったのだが・・・
その中の文章に「橋院長がネイルアートまでやっているのには驚いた。まさに目がテン・・・」と書いてあった。
別に気にもとめずにそのまま掲載したが、
「ネイルアート」といっても、超弾性ワイヤーを使った陥入爪治療のことを言っているのだが、
読んだ人は爪に絵を描いたり、ビーズを貼り付けたりする、いわゆる「ネイルアート」と思ったらしい!
いくらなんでもそこまでは手を出せない。
若い女性を相手に、話しでもしながら爪に絵を描いたりするのも、悪くはないと思うが・・・・
残念ながら、そんな時間は無い!
爪といえば・・・今度、新たに巻き爪の新しい治療法「VHO式」を開始しようと思っている。
先端部だけでなく、爪根部から「巻いている」爪の治療法にはいいと思う。
ただ、保険診療ではないので、料金はかなり高い。
今のところ10000円程度を想定している。
3ヶ月に1回交換し、4回程度で治療を終了するのだが、どの程度患者さんがいるかは、大々的に「VHO式治療」を行っています!
というメッセージを出していないのでわからない。
この治療はドイツからの講師に講習を受け、ライセンスを獲得しないと出来ない治療なので(材料を卸してもらえない)
現在、行う施設が限られている。(先日浅草まで出かけ、講習を受けてきた)
先日、NHKテレビでも「陥入爪」の特集があったくらいなので
一度「VHO式治療」のサイトに、施術施設としての掲載を申し込むと、治療を希望する患者さんが増える可能性があり、
超弾性ワイヤーによる治療と同じように、通常の診療の支障になることも予想されるので、
どうしようかと考えている。(いま、巻き爪治療は、予約制にして、人数制限をしている)
VHO式治療の講習の時、参加したもの同志で治療をしあうので、今、自分の足にも治療のワイヤーがかかっている。
日常生活には全く支障が無いし、効果も出ているようだ。
もう少ししたら、病院のホームページでも「治療してます!」のような文章を載せるかもしれない。
ただ・・・
「ネイルアート」はやっていませんので、くれぐれも「もの好きね!」みたいな誤解は無いようにお願いしたい。
次回の広報誌に訂正文でも出してしまおうか・・・(平成20年7月13日)
「目がテン!」没!
先日、「所さんの目がテン!」の撮影協力をしたが・・・
日本テレビから電話がかかってきた。
「申し訳ありませんが・・・先日ご協力をいただいた横隔膜の動きの件なんですが・・・
なかなか番組の中で使用するには、説得力が無く・・・今回は使用しないことが決まりました!」
とのことだった。
やっぱりなあ〜
実際見ていても、とても健康にいいような動きじゃなかったもんな・・・
と、いうわけで、今回の撮影は全くの無駄骨に終わってしまったようだ。
撮影スタッフも楽じゃないと、あらためて思ったが、
その何日かあと、今度はフジテレビから電話があったらしい。
たまたま会議で電話には出られなかったが、何でも、ドラマでICUのシーンを撮らせてほしい、とのことだったようだ。
電話に出た事務長が「うちにはICUはありません!」と、断ってしまったようで・・・
「え〜〜断っちゃったの?」と言っても後の祭り。
残念なことをしたが、
平和病院は撮影を気軽に引き受ける病院、という噂でも流れているのか?(平成20年6月20日)
また「目がテン!」
以前、日本テレビの「所さんの目がテン!」の撮影協力をし、自分も5秒間だけ映ったことを書いたが・・・
先日、スタッフからまた電話があった。
笑う時の横隔膜の動きを見たいので、撮影に協力してくれるか、とのことだった。
この前の会社とは違っていたが、撮影を担当する会社はいくつもあるらしい。
あるいは同じ番組でも毎週放送なので、いくつかの違ったスタッフグループが動いているのかもしれない。
診療に支障の無い時間ならOKとの返事をしたら、先日、金曜日の夕方に4人が来院した。
前回の時とは違って、矢野さんは来なかった。
レントゲンで笑う時の横隔膜の動きを撮影するというのだが、一人のスタッフが撮影台に横になり、
別のスタッフが羽のようなもので刺激して笑わせる。
「アハハハハハハハ・・・」と大声で笑っているのだが・・・ほんとにおかしくて笑っているのか・・・?
笑い方が悪いのか、横隔膜は痙攣状に動くだけで視覚効果はいまひとつだ。
「笑いは健康に良い」と言うのがテーマだと思うのだが、
それは、腹式呼吸をするような、大きな笑いの場合だと思う・・・
ずいぶん昔、浪越徳次郎と言う、指圧の先生が良くテレビに出ていたが、
「指圧の心、母心、押せば命の泉沸くう、わ〜〜〜〜っはっはっはっは」というような、
腹から笑う笑い方は確かに健康にいいと思うが・・・
撮影されたような笑い方では・・・かえって笑った後、苦しそうに息をするので、どんなもんだろう・・・と、思ってしまう。
あまり笑いすぎて、最期にはゲホゲホ言いはじめ、撮影が中断してしまう。
羽での刺激がいまいちだったと判断したようで、今度は別のスタッフが腹の部分を思いっきりくすぐりだす。
1時間近くも試行錯誤を繰り返し、撮影が終わった。
これでも、放映される時間は1分も無いだろうから、テレビ番組作りはたいへんだと、あらためて思ってしまう。
前回はコメントを言ってくださいと、自分も撮影されたが、今回はそんなことも無く・・・
放射線技師長が撮影しているうしろ姿だけが撮影された。
なんだよ、出番なしかい! せっかく出たがりの血が騒いだのに!
放映は今月の29日らしいが、せめて病院の名前くらいは出してくれるんだろうね!(平成20年6月8日)
小児外科緊急疾患
先日、横浜労災病院の泌尿器科、山口部長からの伝言とのことで、製薬会社のMRさんがパンフレットを持ってきた。
講演会の案内で、座長を山口部長が務めるらしい。
山口部長は、実は大学の同期で帝京大市原病院の助教授から、平成3年に横浜労災病院に着任した。
ちょうど私が平和病院に着任した年だ。
ごく近い場所で、出身大学から離れた場所に同級生がいるのは、科が違うとはいえ、何かと心強い。
そんな縁で、平和病院の泌尿器科は横浜労災病院から医師の派遣を受けている。
講演は・・・千葉大学小児外科、吉田英生教授と書いてある。
なんだ?
ひょっとして同級生の吉田君じゃないか!
どうりで山口部長が熱心に誘ったわけだ。
吉田君が大学の小児外科にいるのは知っていたが、教授になっていたのは知らなかった・・・
そんなわけで、その日は楽しみに会場になっている新横浜のホテルに出かけていった。
横浜労災病院の泌尿器科は今後、小児泌尿器科疾患を扱うようになるらしい。
その関係で、吉田教授を呼んだようだ。
吉田教授には、もう15年以上も会っていなかったと思う。
大学病院にいるときには病院内や研究棟で時々顔を合わせていたが、久しぶりの再会だ。
講演の内容は小児外科が扱う疾患の症例紹介で、先天性の疾患から外傷、腫瘍など、
扱う臓器は多岐にわたり、しかも小児というより新生児も扱っており、
よくもまあ、こんな小さな体に器用にメスを入れられるもんだと、感心してしまう!
長い間会っていないので、自分のことは棚に上げ、イメージは若い頃のはつらつとした頃のものしか残っていない。
講演が始まり、山口部長が吉田教授を紹介したら、自分の斜め前に座っていた男が立ち上がった。
えっ!、これが吉田教授なの?
自分の考えていたイメージよりだいぶ年を取っていたので、ぜんぜん気付かなかった。
講演が始まり、時間がたってくると、やはり昔の雰囲気がだんだんと感じられてきた。
暗がりに目が慣れてくるようなものか・・・などとも思ったが、
講演が終わり、席にもどってくる時、向こうも、自分の顔を見て・・・
どこかで見た顔だ・・・と言うようにしばらく考えてから、「橋?」と言ってきた。
たぶん、むこうも自分のことを見て、同じようなことを思ったに違いない。
その後は懇親会で久しぶりにゆっくり話すことが出来、山口部長と一緒に懐かしい思い出話を楽しむことが出来た。
同級生の中には女子医大の耳鼻科の教授になったり、同じ女子医大の整形外科の教授になったり、
母校の救急部の教授や脳外科の臨床教授(ウボイの仲間でもある)になっている者がおり、
いま、形成外科の教授選挙に立候補している者もいる。7割近くが開業しているのにも驚かされる。
関連病院の勤務医として残っているほうがずっと少なくなっている。
みんな、それぞれずいぶんがんばっているな!と思うと、やっぱり自分もがんばらなくっちゃな・・・と思う。
仕事帰りだったので、車で行ったため酒は飲めなかったが、少しアルコールが入ったように高揚した気分で帰ってきた。
(平成20年5月23日)
巡視雑感
今でも院長回診は、特に予定が入らない限り、木曜の午前中にやっているが、
以前、といっても数年前は院内巡視もかねて回っていた。
患者さんの状態はもちろんだが、病室の状態、トイレ、リネン室、倉庫、スタッフステーション、外来、透析室など・・・
埃がたまっているとか、、整理整頓がなっていないとか、カルテの記載文字がきたないとか、
作業中に無駄話をしていたとか、トイレットペーパーのストックが多すぎるとか・・・
気がつくことをメモを持って書きながら回っていた。
その日に気がついたことを「巡視雑感」と題して、パソコン上の院内掲示板に書いて指摘していた。
毎回指摘していくうちに、改善するものも多く、また、組織として取り組み、改善しなくてはいけないことも見つかった。
最近、自分のパソコン上で、「巡視雑感」のフォルダが目に付き、そういえば、しばらくやっていないな・・・
と思い、何気なく開いてみた。
自分が書いた文ではあるが、思わず読みふけってしまった。
まだ、一般病棟の病室の改修が行われていないときで、壁紙にカビが生えてきているとかを嘆いていたり、
トイレの換気扇に埃がついているとか、かなり細かく指摘している。
自分で読んでも、よくもまあこんなことまで・・・と思うほど「重箱の隅をつついたような」ものもあるが、
なんだか文章全体から感じる「熱気」のようなものがある!
ちょうど初めて病院機能評価を受審しようと思っていたときでもあり、
また、院長になって間もない頃でもあり、病院を何とかよくするんだ!という思いが強かったように思う。
実際あの頃は、本当に雑巾を持って病院を回り、気になるところを自分で掃除したりもした。
もちろん、今でも病院を良くしようとする気持ちには少しも変わりが無いとは思っているが、
はたして今の自分に、こんな文が書けるんだろうか・・・と考えこんでしまった。
自分で言うのも変だが、今、自分が書いている文章より、輝いているようで、なんだかまぶしく感じた。
それと同時に、今の自分にその頃のバイタリティーが、まだ保てているだろうか・・・と、思ってしまった。
どうしてもそれだけ年齢を重ねたことを思い知らされる。
それだけ経験を重ねた、ともいえるのかもしれないが・・・今の自分とは違う自分がいた。
その気持ちはうまくは書けないが・・・その日は妙にへこんだ。
そんなわけで・・・昔の自分に対抗するわけでもないのだが、
先週から、院長回診とは別な日に時間を見つけ、メモを持ちながらまた院内を回り始めた。
以前指摘していたものがずいぶん改善されているのもわかったし、いまだに同じようなことに気がつくこともあった。
その後、久しぶりに「巡視雑感」を掲示板にアップした。
まだ、自分で読んでもピンとこないし、目配りが浅いような気がするが・・・
こうして地道に回ることで、病院は今より少し良い方向に行くかもしれない。
もしかして、何年かたったあと今度書いた文章を見たら、まだまだだったな・・・と思うのか
それともやはり、あの頃は張り切っていたな・・・・と思うのか・・・
病院機能評価はあと2年以内に再受審が待ち構えている。
いま、職員はその頃とはずいぶん入れ替わってしまっている。
「全く、院長は細かいんだから!」とか、「あ、来た来た!」と言われながら、
あわただしく細かいところの掃除が始まったあの頃のように・・・
煙たがられながら、これからも回っていこうと思っている。(平成20年4月13日)
あわただしい新年度
4月1日から、診療報酬の改定が施行された。
いつもは事前に、もっと内容を把握し、対応も抜かりなく行うのに・・・
今回に関しては20年度の予算関連の社員総会、1病棟入院に関しての説明会準備、
新人オリエンテーションの準備など、他の用事にも追われ、まだ自分でも十分に掘り下げて理解していないこともあり、
外来初日の対応も後手に周り、関連部署への周知も遅れ、あわただしく過ぎてしまった。
さいわい、後期高齢者(突然、長寿高齢者に名称変更されたが)の対象患者さんに関しては、
大きな混乱も無く、新保険への移行が行われたようだが、
今後も最大の問題となる「1病棟の機能をどうするか」、の最終決定がまだ残っている。
3月31日の、ご家族への説明会では、話す自分も歯切れが悪く、なんとなく重苦しい雰囲気で行われ、
ご家族の視線に責めるような、あきらめるような、複雑なものを感じてしまったが・・・
ひたすら病院の事情、厚生労働省の方針を説明し、ご理解をお願いした。
説明会の後は、MSWのところに「うちの家族はまだいられるんでしょうか?」という切実な質問が殺到した。
こんなことが、2年に一度の改訂で毎回のように行われ、そのたびに患者さん、ご家族、そして病院もが振り回される。
これで、いいのだろうか・・・
平和病院だけがバタバタしているのなら、私の舵取りの不手際なのだろうが・・・
他の病院の話を聞いてみても、ケアミックスの病院に限らず、全ての病院で同じような混乱がおきている。
4月1日、新入職の職員に対し新人オリエンテーションがスタートした。
4月2日には年度初めにもかかわらず、大学の研究会があり、夜、幕張まで出かけた。
今回は珍しく、前日にも参加を呼びかけるFAXが送られてきた。
膵臓がんの術後化学療法に関する研究会だったが、自分は幹事になっているのでもともと出席しなくてはならないが、
今回、平和病院からは永井も参加した。
各病院もそんな状態だったようで、参加者は今までの研究会では考えられないほどの人数が集まった。
各関連病院から昔の仲間が集まるので、研究会の後の懇親会は、同窓会のようになる。
そんな中、松戸市立病院のO君が近づいてきて・・・
「先生、もう・・・ひどいじゃないですか・・・生爪剥がすみたいに増田先生をもってっちゃうんだから!」と言ってきた。
4月から平和病院の副院長に就任した増田君のことだ。
「う〜ん、そんなこと言われたって、教授が決めた人事だからな〜」と、あまりうれしそうな顔も出来ない。
一応、申し訳ないような顔をしておいたが・・・
それでも松戸には替わりの医師がちゃんと派遣されている。
新しい人事で医師が派遣される病院はいいが、人員減になる病院もあり、
同じ関連病院でも悲喜こもごもの会話が繰り広げられるが、
病院そのものの運営に関してはどこも状況は厳しく、聞かれるのは愚痴ばかりだ。
特に、院長はみ〜んな疲れた顔をして(もちろん自分も含めて)白髪もずいぶん多くなっている。
3日には、今年度初めての手術も行われ、新しい体制でのスタートとなった。
5日、今年度初めての当直は緊急手術となってしまった。
しかも94歳の高齢の患者さんで、波乱万丈の1年となりそうな予感のするあわただしい1週間だった。
日曜の夕方、当直明けで帰ってからこの文章を書いている。
今年度は以前、病院機能評価を受審したときよりもっと忙しい年になりそうだ。
あの時はストレスもかなりのものだったし、直後に体調を崩したことをどうしても思い出してしまうが・・・
やらないわけにもいかない。
体調管理には気を使い、ストレスをうまく発散し(なかなか出来そうもないが・・・)
平和病院の大変身の準備を行う年にしていきたい。
全職員、地域の患者さん、ご家族に支えられ、厳しい年を乗り切っていきたいと心から願っている。(平成20年4月6日)
社会保険庁長官から表彰される!
先日、神奈川社会保険事務局から連絡があった。
何でも社会保険庁長官から表彰されるので伝達式に出席してほしい、ということだった。
自分が「厚生年金保険事業功労事業主」なので表彰してくれるらしい。
別に特別なことをしているわけではないので、全くといっていいほど現実味が無かったが、
せっかくいただけるということなので、会場のホテル横浜ガーデンに出かけた。
式場は日の丸の旗と「平成19年度厚生労働大臣・社会保険庁長官表彰伝達式」のボードが掲げてある。
厚生労働大臣からは社会保険委員功労賞が、社会保険庁長官からは国民年金事業功労市町村、
政府管掌健康保険事業功労事業主、厚生年金保険事業功労事業主、社会保険委員功労賞、
国民年金事業功労市町村職員、国民年金推進委員功労者がそれぞれ表彰されるらしいが・・・
何がどう違うのかわけがわからない。
会場では席が指定されており、椅子の下には何か大きな袋がおいてある。
これは・・・記念品か!?
期待は膨らむ。
各表彰に何人もが該当しているので、それぞれが名前を呼ばれ、一列に並んで一人ひとり表彰状をいただく。
はじめの人は全文を読んでもらえるが、後は名前だけで「以下同文でございます」の一言だけだ。
幸いにも自分は一番初めだったので、全文を読んでいただいた。
「あなたは多年にわたり厚生年金保険事業の発展に尽力され、その功績はまことに顕著であります。よってここに表彰します」
とのことだが・・・・
う〜〜ん、何か尽力したかな? などと考えてしまうが、まあいいや!
表彰なんてめったにされることもないし、ということでありがたく頂戴した。
社会保険庁といえば、最近は年金問題などでずいぶん大変なんだろうに・・・などと、考えると、
局長の顔もやや疲れたように見える。
祝辞の中にも、やはり「最近は年金問題などでご心配をおかけし・・・」などの言葉も出てきた。
伝達式の後は記念写真になり、同じ表彰を受けた12人で写真をとり、解散になった。
さあ、椅子の下の袋には・・・
記念の時計か、万年筆か・・・・
と思ったが、筒が一本はいっているだけで、どうも、いただいた表彰状を入れるためのものらしい。
後は何にも入っていなかった。
人間、欲を出しちゃいかん!表彰されるだけでありがたいんだから・・・・と、自ら言い聞かせ、
荷物を預けたクロークに行き、駐車券を見せてたが・・・
「申し訳ありません、駐車サービスはございません」とのことだ。
「えっ?普通ホテルの式典なんかではサービス券とか、あるんじゃないですか?」
と、きいても、「ええ、そのような場合もございますが、主催者によって、でる場合とでない場合がありまして・・・
ただいま確認してまいります。お待ちくださいませ」
と、さすがホテル!受け答えと笑顔は素晴らしい。
平和病院の受付やクラークもこれくらいでいてもらいたい・・と思いながら待っていたが、
戻ってきたおねえさんは、今度は本当に申しわけなさそうな顔で、
「申し訳ございません、やはりでないそうです!」とのことだった。
え〜〜!なんだよ、と、ごねても仕方が無いので、
「わかりました。ありがとう!」と、わけも無くさわやかさを装い、駐車場に向かい、駐車料金を払って帰ってきた。
こういうのって、院長をしていると社会保険庁の毎年の行事として、持ち回りで順番に表彰されていくんだろうが・・・
何か自分でも「がんばったな」、とか「やったな」とか思えることで、長官とか大臣とかでなく、
患者さんやご家族や、職員から「がんばったで賞」でももらえたほうが、きっとずうっとうれしいんだろうな・・・などと思った。
(平成20年3月7日)
うちの病院、きれいで、設備も・・・
先日、近隣の基幹病院で、鶴見区の医療連携の会合が開かれた。
主に病院間の連携が円滑に行くようにと始まったもので、2ヶ月に1回開催されている。
はじめは医師会から(特に病院部会から)の猛烈な反対があったその基幹病院も、開設1年がたってみると、
診療所の先生からの絶大な信頼を得ており、平和病院も含めた周辺の病院とも良好な連携が保たれるようになっている。
とはいっても、病院にとっては、まともに張り合ってもとても勝ち目があるわけが無いので、
周辺の病院は、その機能を変え、自分たちのポジションを明確にし、住み分けを行い、生き延びていかなくてはならない。
変化に対応できない病院のいくつかがすでに消えていった。
その基幹病院は横浜市からの多額の出資を受けているので、設備もすばらしいなんてもんじゃない。
あたかも最新機器の展示場のようだ!
看護師、医師の配備も充実しており、文字通り、最先端の医療を担っている。
(周囲の病院の看護師不足は深刻な事態になっている)
ただ、患者さんの状況に応じた病院の住み分けは、必ずしもうまくはいっておらず、
基幹病院に患者さんは殺到、集中し、基幹病院の規模・機能に応じた円滑な運営が出来なくなるほどになっている。
何しろベッドがたりない!
救急患者も断らざるを得ない状況になっているとのことだ。
外科病棟も平均在院日数は10日程度と、驚異的だ!
ベッドを空けるために、術後早く退院させなくてはならないので、多少の無理があることも悩みのようだ。
平和病院とその病院は、今も良好な連携が保たれてはいる。
紹介してお世話になった患者さんもたくさんいるし、紹介されてくる患者さんも多い。
ただ・・・微妙な面もある。
平和病院の外科は規模こそ小さいが、5人の外科医をかかえ、
日本外科学会、消化器外科学会の専門医制度認定関連施設として、毎年大学から医師の派遣を受け、
ある程度の手術数はこなしていかなければならない義務と責任がある。
ただ、以前にも書いたが、患者さんの大病院嗜好はいかんともしがたい。
その基幹病院では外科だけでも年間手術症例は600件を超えるという!
それでも、今のペースで行くと、この1年間での平和病院の手術症例数が若干増える可能性もあるのは、
ひとえに、周辺の診療所の先生方が患者さんを紹介してくださるからだと感謝している。
基幹病院から回ってくるのは、もちろん手術症例ではなく
(たまに、どうしても部屋が無く手術ができないという理由で、虫垂炎の患者さんが送られてきたが)
高齢者の、明らかに在宅復帰が困難な患者さんか、癌の再発、転移をおこしたターミナルの状態の患者さんが圧倒的に多い。
ターミナルの患者さんに関しては、自分でも「積極的に受け入れる」と宣言しているので、何の抵抗も無いのだが・・・
その日の会では、司会の先生から、「平和病院では外来で抗癌剤治療をおこなう患者さんの受け入れはどうでしょう?」
との質問があった。その病院では抗癌剤投与の患者さんも多すぎて、さばききれずに困っているという話しがあったからだ。
こちらとしては、別に通常行っている治療なので、「いえ、紹介していただければ、いつでもお引き受けしますが・・・・」と、答えたが・・・
基幹病院の先生からは「う〜ん・・・うちの病院、きれいで、設備も充実しているでしょう・・・なかなか患者さんがねえ・・・」
とのことだった。
えっ・・
それって、ひょっとして平和病院がきれいじゃなくて、設備が貧弱ってことなの?!
だから、平和病院に紹介したくても、患者さんが嫌がると・・・いうこと?
そりゃそうだろう。
あっちは創立1年、平和病院はいくら改装したっていっても60年以上もたっている。
設備だって残念ながら比べ物にならない。
そんなことはじゅ〜〜〜〜うぶん分かっている!
患者さんにとって、診断、手術を受けた先生との人間関係は重要だ。
途中で知らない医師にかかるように言われたって、患者さんも納得しにくいだろうし、不安にもなるだろう。
本来は簡単に病院や担当医師は替わるべきではないと思っている。
それは、不幸にして再発したり、転移したり、ターミナルの状態になってもおなじことで、
出来れば、はじめの病院で、初めからの主治医が最期まで関わることが大切だと思う。
だから、病院のきれいさとか、大きさではなく、
「自分たちの患者さんは最期まで自分たちで診たいので、なかなか紹介は難しい・・・」と、言われたのなら納得できる。
ただ、基幹病院が最期まで患者さんを診るには、緩和ケア病棟でもない限り、今の医療制度では制約が多すぎる。
病院の役割を考えれば、そんなことをしていたら、基幹病院としての機能がはたせなくなる。
実際、平和病院は緩和医療に力を入れているので、ぎりぎりになってからでも患者さんを紹介していただくのはありがたいし、やりがいもある。
ただ・・・・
こちらからしてみれば、どうせ最期を平和病院で迎える様に紹介してくださるなら、
もう少し早く、治療が厳しくなってきた外来の時点で、紹介してほしい、という想いもある。
確かに、「もう今後は他の病院で・・・」というのは担当医として苦渋の選択なのだろうが、
患者さんや、ご家族との人間関係の構築にはやはり、少し時間が必要だ。
さらに事態をややこしくするのが、もともと状態が悪化するような状況の患者さんの場合でも、
患者さんやご家族の中には、病院を替わったから具合が悪くなった!・・と思う人がいることだ。
もちろん、どんな段階で紹介されてきても、自分たちは出来る限りの手は尽くすが・・・
ほとんどの場合、こちらに残された時間は、あまりにも少ない。
患者さんやご家族との良好な信頼関係はなかなか作っていけないことも多い。
「そうですよねえ・・・うちは、そんなに新しくて大きな病院じゃないですからねえ・・・」
と、にっこり答えてはみたが、わかってはいても、あからさまに言われると、さすがに複雑な思いがする。
じゃあ、行き場のないご高齢の患者さんやターミナルの患者さんは、
きれいな病院とか設備とか、そんなこと関係ないわけ? などと、ひねくれたことも考えてしまうのが情けない。。
その先生は、とてもいい先生で、決して悪気があって言ったのではないことは十分わかっている。
こういう「悔しさ」に似た感覚は、大病院の先生たちには決して分からないんだろうな・・・と思った。
(時代は違うが、実際に自分が大学病院にいた頃には考えたことも無かった)
またまた愚痴っぽいことを書いてしまったが、
こういうことがあった時に、がっくりとめいってしまう時と、逆にがんがんに燃える時がある。
そのときは「い〜ま〜に〜見てろよお!」
と、即座に思ったところを見ると・・・、今の自分の精神状態は、まんざらではないのかもしれない。(平成20年2月25日)
雨のち晴れ?
もう2月になり、毎年のことながら大学の関連病院への派遣医師を決める出張者会議が行われる季節になった。
去年は外科副院長の下田が開業するために病院をやめることになったが、
医局の人事が全て決定した後の意思表示だったため全く補充がきかず、9月までは正直ハードだった。
遠藤名誉院長が外科の外来を担当してくださり、助かったが、それ以外は1年間の出張予定の永井と、
9月までの出張予定の代市の3人でこなしていた。
いい意味で想定外だったのは、永井が思っていたよりもかなりの戦力となってくれ、
安心して病棟の管理を任せられたことだった。
肝臓切除や膵臓切除などの大手術の場合には大学から専任講師が応援に来てくれたこともあって、
それなりに密度の濃い半年だった。
10月からは医局の人事で代市と交代で着任した大木のほかに、かなり上の学年の高見が他院からの移動で補充され、
人数は元に戻ったが、やはり外来の患者さんは医師が短期で交代するのを好まない傾向にある。
宮崎教授には、何とか自分の片腕として、外科を全面的に任せられる人物を派遣してくれるよう、
何回も教授室にお願いに行き、ことあるごとにメールで、いかに現状がたいへんで厳しいかを訴え続けていた。
教授からは、「考えてはおくけど、確約なんかは出来ないぞ」とか、「適当な候補者がなかなかなあ・・・何年かうちには考えてみる」とか・・・
微妙な返事しかもらえず、今後にこなさなければならない医療機能評価の再受審、診療報酬改訂への対応、
数年後の介護療養病床廃止、そして、何にもまして新病院の建設という大きな夢の実現を控え、
外来、往診、手術、麻酔、緩和医療など、また、看護部はじめ職員に対する院長としての責務などなど・・・
安定剤でも飲みたくなるような状況だった。
院長といっても、確かに一人の医師なので、スタッフからは医師としての働きが見えることが求められていることも事実だ。
先日おこなった職員の意識調査の中にも、院長の考えが伝わってこないとか、何を考えているのかわからないとか・・
病院の運営は誰か他の専門家に任せて、医師として専念するべきでは・・・などの辛辣な意見を持っている職員もいた。
院長業務と医師としての業務が、どちらも中途半端になり、職員にもそう思わせるのかもしれない。
「そんなこといったってなあ!」と、正直言えば思わずブチ切れたくなるような日もある。
顔が怖いといわれれば、にっこり笑わなくてはならない。
このまま3月になると、自分以外の外科医が全員いっせいに交代という厄介なことになる。
ちょうど平成3年に自分が浦賀病院から平和病院に転勤した年、
浦賀病院は私の3年先輩が開業、私が移動、下の出張医が交代し、同じように全員が入れ替わりということになった。
当時の院長はずいぶん苦労したのだろうな・・と、今さらながら思い返した。
そんなある日の朝、医局長から電話がかかってきた。
「先生、いつもお世話になっております〜、さっそくですが、来年度の出張人事のことなのですが・・・」
来た来た・・・だいたい、大学からの電話はいい話であったためしがない。
案の定、「いろいろ先生の病院の事情は理解はしているんですがあ・・・・
やはり多くの関連病院からの医師派遣の要望もありましてえ・・・、残念ながら来年度の出張医は一人減らさせていただき、
後期出張が1名と他に1名の2名でお願いしたいと思います」
という内容だった。要するにまた1年間は減員でしのげ!ということだ。
こうなると、ごねてもどうにもならないので、「わかりました」という他ない。
暗澹たる気持ちで、途方にくれながら半日を過ごしたが・・・
同じ日の午後、経営会議中に電話がかかってきた。
「大学の宮崎教授からお電話です」とのことだ。
てっきり、午前の医局長からの電話について、「悪いな、なんとかがんばってくれ!」とでも言われるかと思いながら電話に出た。
「先生、じきじきにお電話いただけるとは・・・ただ、だいたい先生が直接電話してくるところを見ると・・・ろくなことじゃないんでしょう?」
「何言ってんだ!、失敬な!ところでどうだ、新病院のほうは?・・ちゃんとできるんだろうな?・・・計画は進んでんのか?」
「がんばってますよ!、何とか実現できるようこっちも必死ですから!ただ、実際忙しくて頭がおかしくなりそうです。
もう潰瘍の薬と安定剤は手放せませんよ!」
と、ここぞとばかりに泣きを入れる。
「う〜んそうか・・・」
しばらくの沈黙の後、「わかった。副院長、出してやるよ!」
「え〜!」
「少しお前と学年が近いけどな、M、知ってるだろ?あいつを送るよ。Mにはこの前話して了解は取った。
どうするか・・・、千葉に呼んで私と一緒に話してもいいが、Mだって実際に病院を見ないことには話しにならないし、
ひとまずそっちに行ってもらおう」との思いがけない話だった。
まさに逆転満塁ホームランといった感じだ!
教授がそのあと、付け加えた。
「ただし・・・お前とは学年が近いから、Mにもしばらくはトップとして働ける様には配慮してくれ。そのときのお前のことはよく考えるから」
とのことだったが・・・
自分は別に院長にこだわるつもりはないので、何年か早く院長から引退することになっても全くかまわない。
院長としてではなく、医師としてどうしてもやりたいこともある。
平和病院を新しい機能を持った病院に生まれ変わらせ、ちょっとの間このホームページを「ようこそ新院長室へ」とし、
経営的に安定させれば、あとは思い残すことはない。
M君は2年後輩で、大学でもしばらく一緒に働いていたし、温厚な性格なので、きっと自分の片腕になってくれることだろう。
ここ1〜2年は平和病院にとって、今後の何十年の歴史を左右する本当に重要な時期だと思っている。
外科を安心して任せられ、自分が管理業務に大きなウェイトを置ける様になれれば本当にありがたい。
今後は細かな打ち合わせ、調整、そしてなによりも私の持つ考え、理念を彼に十分理解してもらうことが必要だが・・・
とにかく、やはり教授は一番弟子を見捨てなかったか!と、
ますます頭が上がらなくなった。
2月11日には出張人事も決まり、来年度の体制が確定するが・・・久しぶりにアドレナリンが湧き上がり、
ダッシュの足固めが出来そうな予感がしてきた。
がっくりしたり、喜んだり・・・雨のち晴れの1日だった。(平成20年2月8日)
ねらいうち
2年に1度の診療報酬改定が近づいてきた。
今回の改定では、本体部分が若干引き上げられるとの報道がされているが、
この影で、高齢の入院患者さんに対しての締め付けの強化が行われることは、あまり報道されていない。
前回の診療報酬のとき、厚生労働省は医療療養病床に入院している患者さんたちを「医療区分」でランク付けし、
医療の必要性の低い患者さんが入院している場合、病院が得られる収入を極端に引き下げ、
介護施設への移行、在宅復帰を誘導した。
しかし、在宅へと受け入れてくださるご家族はほんの一握りに過ぎず、介護施設の整備は遅々として進まなかった。
「医療区分の低い」患者さんでも、状態は不安定で、手のかかる場合が多い。
しかし、病院の収益に関わるダメージは半端なものではなく、
実際、平和病院でも、あのまま医療療養病床を継続していたら、大幅な赤字に転落し、閉院に追い込まれていた可能性だってある。
何とか「介護難民」を作らずにすむように、一昨年の秋から医療療養病床を一般病床に転換したが、
一般病床と言っても「障害者施設等入院基本料」を算定する一般病床で、
入院の対象とされる患者さんの病名や状態が指定されており、
この対象患者さんが、おおむね7割以上入院していなくてはならない。
この中には「重度の意識障害」の患者さんが含まれており、
多くの医療療養病床が人件費増を覚悟して新たに看護師を採用し、この種の病床に転換した。
療養病床が減った!と言っても実際にはこんなからくりがあるのだ。
この病床は、脳梗塞や脳出血の後遺症で寝たきりになり、重度の意識障害がある患者さんも入院対象なので、
今まで医療療養病床に入院していて、在宅復帰の困難な患者さん、老健や特老、有料老人ホームなどが
なかなか引き受けないような状態の患者さんもお預かりすることが出来た。
在院日数の制限もなかったので、患者さんを「追い出す」こともしないですんだのだが・・・
今回の改訂で、この部分が「ねらいうち」される。
医療療養病床からこの病床に転換した病院で、ほとんど「脳梗塞、脳出血後遺症」の患者さんが主に入院しているのに目をつけ、
これらの患者さんを入院対象からはずすことがほぼ決まった。
いま、平和病院と同じように医療療養病床からこの病床に転換した病院はパニック状態に陥っている。
平和病院でも42床の該当病床のうちのほとんどがこのような患者さんだ。
このままでは、現在入院している患者さんは介護施設かホーム、在宅へと移っていただかなくてはならなくなる。
しかも制度はまだ具体的に決まらず、時間の猶予がほとんどない!
おそらく、多くの病院が経営状態の悪化を覚悟で、再び医療療養病床へ、雪崩をうって再転換してくる可能性がある。
いったんは療養病床を何としても減らしたい厚生労働省の思惑とは正反対の流れになるだろう。
ただ、そのまま持ちこたえられる病院がどれだけあるのか・・・・結局、思うつぼの病床数削減が実現されることになる。
医療法人が特老の運営をするという案も廃止になった。
老健への転換政策もはっきりしていない。
いずれにしても、「医療区分の低い」患者さんは前回の改定以上に行き場所を失う事になるだろう。
基幹病院からの長期入院患者さんの引き受け先も大幅に減るに違いない。
これでもか!という仕打ちには振り回されるばかりだ。
平和病院も早急に対応を決めなければ、何より患者さん、ご家族に迷惑がかかる。
たぶん、病床閉鎖や閉院に追い込まれる病院は増えるだろう。
そのとき、どの施設が行き場のない高齢者の患者さんを引き受けるのだろう・・・・
高齢者に対して掲げられる理想は立派だ。
確かにおっしゃるとおり!夢を抱いて一生懸命考えた結果の政策なのだろう・・・
でも、現実を見れば、その理想に巻き込まれ、路頭に迷う患者さん、ご家族、
そしてそんな方々を支えている中小病院の苦しみがあるのだ!
と・・・
年の初めから愚痴のようになってしまったが・・・
事態は急を要している!
院長は、患者さんのことはもちろんではあるが、同時に病院自体を守る大きな責任がある。
まして、新病院を建てようという勝負の年に、こけるわけにはいかない!
近いうちにまた、診療体制を大幅に変えなくてはならない可能性が高くなってきた。
正月気分はすっ飛び、一気に戦闘モードに突入だ!(平成20年1月11日)
職員意識調査
最近、職場に以前のような活気が見られないような気がしてならない。
患者さんに対しての態度とかの問題ではなく、職員同士のふれあいとか、言葉ではうまく表せないような「雰囲気」を感じてしまう。
自分の求心力の低下なのか、パワー切れなのか・・・自分自身の活気が、気付かないうちに萎えているからなのか・・・・
患者さんが持つ満足度は、職員の職場環境、労働環境、人間関係に対しての満足度が基本だと思っている。
自分が、病院の将来イメージを描き、それに向かって進んでいく時には、
やはり後ろに職員がまとまって続いてきてくれなければ、何にも出来ない。
また、自分の足元がぬかるんでいたり、脆弱な地盤になっていたりすれば、足元をすくわれる。
いま、足元を見ると、老眼が進んだせいか、かすんでいることがある。
そんなわけで・・・・
緊急で、職員に対して意識調査を実施することにした。
いくつかの設問項目を設定し、回答をしてもらうだけでなく(院長のヴィジョンは明確に伝わってきますか?などの項目もある)
院長、副院長、看護部長、事務長に対しての注文も書けるようになっている。
もちろん、無記名だし、完全に密封の上で改回収し、筆跡から個人が確定されないように、自筆の場合はパソコンで打ち直したうえで、
私のところに届くように配慮する。
当然、良いことばかりが書かれてはこないだろうし、正直言って、批判の文を読むのは楽しい作業ではないだろうが・・・
自分では気付かない点を指摘してくれる貴重な意見だ!
出来る限り改善することで(もちろん全部を丸呑みにすることは出来ないだろうが)職員の満足度は上がり、それが病院の発展につながっていく。
自分の足元もはっきり見えてくる。
試験と違った緊張感がある。楽しみでもあり、恐ろしくもあり・・・・(19年12月17日)
続・目がテン!
11月25日は当直明けだったが、当直室の目覚まし時計を早めにかけ、6時半におきた。
7時からの「所さんの目がテン!」を見なければならない。
平和病院のことが映るはずだ。
撮影の最後に技師長と並んで話したコメントの部分は放映されるか、それともボツか!
出だしの部分で、放射線科の田中技師長がチラッと映る。
これは期待できるか・・?
「ソバ」がテーマなのだが、初めの部分はそばの種類とか、ソバうちの秘訣とか・・・
関係ない話題が続く。
CMも入って、スタジオのトークもあり・・・
おいおい、もう20分過ぎちゃったよ。
いやな雰囲気が漂い始めた頃、やっとソバは腹持ちが良いか・・・の話題になった。
来た来た!
出演者がわんこそばを食べる部分が映り、「さあ、病院へ行きましょう!」のせりふの後、出演者が平和病院の中に入っていくところが映る。
ちゃんと病院の名前の看板も映しててくれている。
その後、胃のレントゲンを撮る場面。見慣れた撮影室が映る。
翌日にうどんを食べた後の撮影シーンもあり、出来上がった胃のレントゲン写真が、ソバの時とうどんの時で比較される。
要するに、ソバのほうが時間がたっても、まだ胃は空っぽのなりにくい・・・といいたいのがテーマだ。
X線写真の胃の部分が真っ黒に塗りつぶされている。
こうしないと、どの部分が胃なんだかわからなかったのだろう。
あまりの奇抜なアイデアにびっくりしたが・・・ま、いいか!そんなに厳密な科学教育番組じゃないんだから・・・。
その後で、最後に自分と技師長が座ってコメントを言う部分が映った!
やった〜〜!全国デビュー!ミーハーの血が騒ぐ!
ちゃんと「平和病院 高橋修院長」のテロップつきだ。
「ソバの方が、胃の中に長く残っている・・・」という、およそ医学的でないコメントをぼそぼそと話したと思ったら、たった5秒で消えた!
確か、あの撮影は2日がかりで20時間くらいかけて撮られたものなんだが・・・
30分番組なんだからこんなもんだよね。
まあ、全国ネットで病院の名前を出してくれたんだから、それだけでもありがたい。
でも自分の姿をテレビで見るのも面白いが、もうちょっとはつらつとした感じだったらよかったのに・・・
自分で見ても、なんか疲れてたよなあ。
言い訳するわけじゃないけれど、あのコメントの撮影は2日目の真夜中近くだったからなあ・・・
そんなわけで、あっという間の5秒間だったが、
このホームページを訪問してくださっている方の何人かは、見ていただけたでしょうか!
どうせなら、ソバのことを5秒間いうのではなく、そのうち自分の興味を持っている分野で、
いっぱしのコメントがいえるくらいにはなってみたいもんだ・・とひそかに思った。
(平成19年11月27日)
目がテン!
ある日、テレビ制作会社のディレクターから電話があった。
NTVで日曜日の朝に放映されている「所さんの目がテン!」の撮影に協力してくれるか?とのことだった。
後から聞くと、朝の早い時間の放送にもかかわらず、周りにはけっこう見ている人が多いので、人気番組のようだ。
自分はといえば、日曜の朝はほとんど当直明けで、まだ当直室で寝ているか、起こされて仕事をしているかで、
申し訳ないが、いままで見たことがない。
科学番組もどき・・・のようなものらしいが、今回は平和病院のCTを使わせてくれるか・・・とのことだった。
詳しく話を聞かなければわからないので、翌日に来てもらった。
何でも「蕎麦」がテーマで、蕎麦は腹持ちがいいかどうかを検証するらしい。
白楽に、けっこう有名な、わんこそば屋があるので、そこで腹いっぱい蕎麦を食べた後、時間を追ってCTを撮り、
胃の中から、蕎麦がなくなっていく過程を調べていきたいらしい。
蕎麦屋からの距離が遠いと、その間に胃が空っぽになっても困るとのことで、
蕎麦屋から比較的距離の近い平和病院が候補に上がったようだ。
実際のCTでの胃の画像を見てもらったが、なんとなくピンとこなかったようだ。
たまたま胃透視の画像が反対側の機械に映っていたのを見て、
こちらのほうが説得力がある!と判断したらしく、
結局バリウムを飲んで撮影していくことになった。
当日は出演者の矢野さんと、他の二人が、まず空腹時の胃の写真を撮影した後、蕎麦屋に出かけていった。
たらふく食べた後、病院に戻り、1時間おきに撮影していく。
直後の胃袋を撮影してみると、さすがによくこれだけ食べられたな!と思うほどパンパンに膨れている。
被験者が撮影台に上るところ、胃の画像を撮影しているところ、撮影した画像を見て、自分たちがコメントを言うところをカメラが追う。
おいおい、ひょっとして、もしかしたら自分も映っちゃうわけ?などと、ミーハーの血が騒ぎ出す。
ただ、1時間ごとに5〜6回撮影するので、とんでもなく時間がかかる、
しかも蕎麦とうどんを比べたいとのことで、翌日には、なんと同じ店で今度はうどんをたらふく食べた後で、
同じように撮影するとのことで、食べるほうも容易じゃないが、翌日も夕方から夜中まで撮影がかかってしまった。
撮影は同じパターンの繰り返しなので、さすがに二日目になると、全員が疲れてきて無口になってくる。
また、悪いことに、メインの矢野さんの胃袋がいつまでもしぼんでこないで、画像上の説得力に乏しく、
思わず胃の中身を吸引したくなってしまうが・・・
そんなことをすれば「やらせ」になってしまうので、そうもいかない。
それでもなんとか最後はちゃんと胃袋の中身は無事になくなり、
そのあと、最後に放射線科の田中技師長と私が並んですわり、実験結果に関してのコメントを言うところを撮影し、
全てが終了した。
30分番組で、CMとかをのぞけばもっと短い放映時間なのに、まる2日がかりで行うのだから、
テレビ番組の制作は大変なんだと、そのことに目がテンになった。
放送は11月25日(日)だといっていたが、24日(土)は当直で病院に泊まっているので、
朝は目覚ましでもかけ、病院で見ることになりそうだ。
ただ、患者さんがその時間に受診したり、病室の患者さんの具合が悪くなったら、当然見られない。
病院の入り口あたりも少し映してくれたようだし、コメントのところもボツにならなければ、
もしかしたら自分もチラリとくらいは映るかもしれないので・・・
何とか平穏な当直であってほしいと願っている。(19年11月10日)
停滞する病床
平和病院の病床構成は昨年の10月から医療療養病床を廃止し、
一般病床に転向したので、一般病床96床、介護療養型病床54床になっている。
厚生労働省は、地域における病々、病診連携を促進させようとしているが、
もちろん、各病院、診療所もそれぞれの規模、機能が異なっており、
ひとつの医療機関で全ての疾患をカバーできず、また受診、入院する患者さんの状況も異なっているので、
お互いに患者さんを紹介し、円滑な医療の提供を心がることは大切なことだ。
ただ、基幹病院では救急体制も充実しており、多くの診療科をカバーしているので
診療所や中小病院から紹介されてくる患者さんも多く、また、患者さんの大病院嗜好もあり、
新しい患者さんが増え続け、その人たちのための病床を確保しなくてはならない。
先日、神奈川県立がんセンターの地域医療連携室から手紙が届いた。
がんセンターでは紹介患者さんが殺到し、胃癌の手術待ち患者さんが増加したために、
現在、手術までの待機時間が2ヶ月を超えてしまい、倫理的な問題にもなってきている。
胃癌だけでも手術待ちの患者さんは40名を超え、検査が終わってから(もちろん検査までにも時間がかかる)
手術までに8週間以上かかるため、今後、患者さんを紹介する場合には
そのことを患者さんに十分説明した上で紹介してほしいとのことで、
また、初診そのものも一部制限を行うことになったそうだ。
先日、済生会東部病院との連携の会に出席したが、
東部病院では現在、月間90件以上の外科手術が行われているとのことだった。
単純に計算したって、1年もたたないうちに600件以上の外科手術が行われている。
平和病院の外科が、いくら大学の関連施設であり、日本外科学会や日本消化器外科学会の認定関連施設で、
外科の指導医、専門医、認定医が常時勤務しているといったって、そんなものは患者さんにとって何の選択肢にもならない。
平和病院では、検査から診断、手術までの期間は圧倒的に早いし、それが中小病院の強みでもあると思っているが、
診断をつけた患者さんから、「この病院では、年間何例手術が行われていますか」と聞かれたら、
残念ながら基幹病院とは比べ物にならないほど少ないのも事実だ。
「じゃあ・・・がんセンターを紹介してください」「横浜労災病院を・・・済生会東部病院を・・・」などといわれ、
何回悔しい思いをしたことか・・・
特に、大学から派遣されてきた働き盛りの医師や、平和病院に来る前の年に基幹病院に出張勤務していた医師にとっては
前の年まで、そんな患者さんたちを逆に引き受ける立場にいたわけだから、
自分とは少し違った(おそらくもっと強く)悔しさを感じているのではないかと思う。
このような、大病院嗜好が、外科の世界ばかりではなく、どの科においても年々顕著になっていることに伴い、
基幹病院では在院日数が長くなった患者さんを入院させておくことが、ますます出来なくなってきている。
当然、病々連携の名の下に、平和病院にも多くの基幹病院が、そんな患者さんの引き受けを依頼してくる。
紹介状の文面には、
「入院が長期になっていますが、当院は急性期病院であり、今後は療養病院での管理が望ましいと思います」
などと書いてあり、
自分たちはちゃんと急性期の治療はやったから、後の始末はお宅の病院でやってもらいますよ!
というようなニュアンスがにじみ出ている。
病院にもそれぞれの役割分担があることは十分理解してはいるが・・・
そんな紹介状を見ると、「うちは療養専門病院じゃないぞ!」と、唇をかむ思いをすることもしばしばだ。
確かに、病院にとって病床稼働率(どれくらい患者さんが入院しているか)は大切で、
患者さんが紹介され、多く入院していればそれだけ採算性が高くなるのだが・・・
入院基本料は在院日数が長くなれば長くなるほど、低く設定されている。
入院したばかりの患者さんは基本料が高く、長期になれば安く設定されているので
同じ病床稼働率なら、入院からの期間の短い患者さんが入院しているほうが、病院の収益性は良くなる仕組みになっている。
これは、ひとつには、入院の必要も無いのに退院しない、いわゆる「社会的入院」を防ぐ目的もある。
一般病床として運営するには、長期の入院患者さんが多くなるほど平均在院日数が増えていくので、
基幹病院では、治療が終われば出来るだけ早く退院させようとする。
ただ、その中で、高齢者の占める割合は年々多くなっており、
紹介された患者さんの多くが、簡単には在宅復帰が出来なくなっている。
一方、診療所の先生方からも、在宅で見ていた高齢の患者さんの具合が悪くなり、入院が必要になれば、
基幹病院ではなく、中小病院に患者さんが紹介されてくる。
近隣の先生方は平和病院の事情もよく理解してくださり、
急性期対応の患者さんも多く紹介してくださるので、この中に在宅復帰が困難になることが予想された場合でも、
MSWなどが、紹介してくださった先生方と連携をとりながら、なんとか施設への紹介なども行うが、
あまり良い顔ばかりして、紹介されてくる患者さんを全て引き受けていると、
診療所、基幹病院からの挟み撃ちを受けた平和病院のような中小病院は
一般病床にも在宅復帰が出来ない患者さんが、あふれかえることになる。
患者さんの流れはよどみ、新しい患者さんの入院が出来なくなってくる。
急性期の治療が必要な若い患者さんを、オムツをつけ、重い認知症だったり、
意識もほとんど無い患者さんの隣のベッドに入院させることは出来ない。
ベッドコントロールは難しくなり、看護師は疲弊し、モチベーションは下がり、離職率の増加にさえつながる。
平均在院日数は増えていき、一般病棟としての機能が果たせなくなる。
平和病院の常勤医師は、大学の関連施設として派遣されているものも多い。
大学からは、一般病院としての機能が果たせない病院に医師は派遣されない。
医師の引きあげ・・・病院運営の行き詰まり・・・
一歩間違うと、とんでもない悪循環にはまっていく危険性が隣り合わせなのだ。
この状態を一刻も早く解決しないと、、平和病院は存続の危機さえ迎えることになるだろう。
もちろん、地域の患者さんを支えることは、平和病院の使命であり、その姿勢は守り続け無ければならないが、
病院が機能しなくなってはその使命が果たせなくなる。
停滞する病床に出口を開け、流れをおこさない限り、病院の状況は厳しい。
まだまだ頭を回転させ、知恵を搾り出さなくてはならない問題が山積みだ。
昨日、臓器制御外科の関連病院会議、「洽仁会」が君津中央病院で開催されたが、
各関連病院、特に地方の関連病院は厳しい状況におかれ、各院長からの発言は悲観的な話しに終始し、
「生き残り」と言う言葉があちこちから聞こえてきた。
自分より若い院長が、「もう疲れた・・・引退したい」などと弱音を吐いている。
来年には、また診療報酬改訂が行われる。
たぶん、閉鎖される病院がまた増えるだろう・・・
平和病院がそれに巻き込まれるわけにはいかない。
患者さん、スタッフに支えられながら、しぶとく生き延びていかなくては・・・(19年10月14日)
緩和ケア病棟見学
先日K中央病院の緩和ケア病棟を見学させてもらいにいった。
K中央病院は、平和病院と同じように、千葉大学臓器制御外科の関連病院で、
同じ外科の2年先輩のT先生が緩和ケア病棟にかかわっている。
その日はちょうど台風が関東地方に接近していた。
平和病院からK中央病院にいくには、アクアラインを通るのが一番良いのだが、
下手をするとアクアラインが風のために通行止めになる可能性がある。
約束は2時だったが、無理にお願いして1時間早めてもらった。
院長回診をおわらせ、昼飯も食わずに出発し、慌てて車を走らせた。
アクアラインには速度規制は出ていたが、まだ通行可能だった。ただ、問題は帰りだ。
もし通行止めだったら、東京湾をぐるりと回らなければならない。
見学させてもらうのに、手ぶらで行くのも失礼なので途中で「海ほたる」によった。
台風というので、さすがに人が少なかったが・・・
それでも傘を飛ばされそうになっても海を眺め、デートしている人がいるのには、その根性に感心した。
昼飯がてら手土産を探したが・・・なんだかぱっとしない。
千葉に行くのに名物の落花生なんて持っていってもしょうがないし・・・
仕方なく横浜銘菓とか言うものを買ったが、
長いこと横浜に住んでいるが、こんなもん見たことも無いぞ!
木更津南ICを出て少しいくと、立派な建物が見えてきた。
駐車場も、めちゃくちゃ広い。
病院玄関にはバス停があり、何台ものタクシーが待機している。
玄関へのエントランスには人工の小川が流れ、
玄関を入ると吹き抜けの天井のある広いロビー、待合がある。
外来待ちの患者さんのために、診察順を示す電光表示の番号案内もついている。
もちろんエスカレーターもついている。
まだ建て替えてから数年なので、どこもきれいで近代的・・・もちろんヤモリなんて出てこないんだろう・・・
こんな病院に勤められたらきっと気持ちが良いんだろうな・・・・
などと、わが病院の現実との差を痛感した。
総合案内でT先生に連絡してもらうと、緩和ケア病棟に上がってくるように言われた。
病棟に着いた時の印象は・・「静かだ・・・」の一言に尽きる。
全室が個室になっており(規則で、個室料金は50%しか取れないが)、廊下も広い。
適度な音量で音楽が流れている。
ステーションには看護師さんの姿が少ない。誰もがゆったりと歩き、あわただしく走り回っていない。
緩和ケア病棟の基準は7:1なので、それなりに配置されているが、それだけ患者さんのそばにいる時間が長いという。
病棟全体を、師長さんに案内してもらった。
デイルーム、食堂、広い部屋(バス・トイレつき)、家族のための宿泊室(和室)、浴室など・・・・
緩和ケア病棟の基準を満たすための基準がきちんと満たされており、一般病棟との差を感じる。
部屋も相当広く作られていたが、手すりが十分についていないのが少し気になった。
部屋の風呂が、一般のユニットバスタイプだったが、部屋付けにしようとすると天井も低くなり車椅子用のスペースが取れない。
病棟の性質上、状態の悪い患者さんが多いので、部屋の風呂はあまり使われず、機会浴槽の利用機会のほうが多いそうだ。
施設の見学の後、窓の外の雨風を気にしながら、T先生と師長さんに話を聞いた。
意外だったのは病床稼働率が高くないことだった。満床で、入院待ちの患者さんが何人もいるかと思っていた。
緩和ケア病棟は、全国でもそれほど多くないし、一般病棟に入院している癌の末期の患者さんが、
緩和ケア病棟に入院することを望んでも、なかなか空きが無いと、聞いていたからだ。
それだけ一般病院で、それなりの緩和ケアを提供している病院が多いのだろうか・・・
確かに、平和病院のような一般病院でも癌の末期の患者さんが他の基幹病院から紹介されてくることも多い。
ひとつの原因は、近くに緩和ケア病棟が少ないからか、あるいは、緩和ケア病棟では原則的に「治療」は行われず、
病院によっても異なるが、患者さん自身が治療を行わないことを了解し、納得の上で入院することを、
各病院で開かれる「入棟判定委員会」が求めているせいかもしれない。
そんなに人生を達観できる人は、やはり多くないのかもしれない。
緩和ケア病棟の診療報酬は包括性になっており、積極的な治療と緩和ケアを同時に行っている患者さんの場合、
病院の採算性は維持できず、場合によっては持ち出しになる可能性だってある。
K中央病院でも、入院患者さんには積極的な治療は行われていなかった。
患者さんは、自分の状態を全て理解し、治療をすることをやめ、命の限界を悟った上で入院してくるという。
そうなんだろうな・・・と、理解してはいたが・・・
なぜか、少し違和感を感じる。
実際、自分が今は緩和医療病棟にかかわっていないので、なんともいえないが・・・
平和病院に入院している患者さんだって、結局状態が悪くなれば、積極的治療は「状態が落ちているので」
「ひとまず中止」し、「苦痛の緩和」と「体力を着けつることに重点を置く」ことを患者さんに説明することも多いが、
K中央病院では、ひとまずその時点で緩和医療病棟に入院しましょう・・・・との説明をしているのではなく、
緩和ケア病棟から一般病棟に戻る患者さんは、ほとんどいないようだった。
確かに、私の外来にも、全てを理解して、ご自分の意思で積極的な治療を行わず、ご自宅ですごされているかたも
何人かいるし・・・、納得の上でホスピスを希望されている方もいる。
ただ、その「ホスピス」「緩和医療病床」への患者さんやご家族の認識もかなりの温度差があるように思う。
一方で、相当具合が悪くなっていても、積極的な治療をあきらめず、緩和ケアと平行して戦っている患者さんもいる。
一般病棟で、看護師さんが緩和ケア病棟と同じように対応することが可能であれば、一番良いのかもしれないが、
一般病棟には平均在院日数の縛りもあり、病棟そのものが、やはりあわただしい。
それは決して一般病棟の看護師さんが悪いわけではない。
末期の患者さんばかりに手間をかけているゆとりが無い。これは無理もないことだと思っている。
T先生も、一般病棟との大きな違いが、患者さんに対する看護師さんの対応だといっていた。
これは特殊なケースだと思うが、自分も以前、一般病棟に入院していた末期がんの患者さんの世話を頼んだ時、
今はやめた看護師さんから「患者さんを差別するんですか」と、思いもよらない言葉を返され、ショックを受けたことを思い出した。
K中央病院でも、はじめのうちは、緩和ケアの勉強会に参加していたモチベーションの高い看護師さんたちが、
病棟開設と同時に任務に着いたようだが、今ではローテートも行われ、資格看護師の確保もなかなか困難のようだ。
緩和ケア病棟に入院すれば、担当医師もひとまず替ることになる(もちろん以前の担当も顔を出してくれるようだが)
平均在院日数はわずか2週間程度だと聞いた。
戻れない病棟・・・と言われたり・・・あれこれといろいろ悩みは多いようだった。
今、全国の緩和ケア病棟の人員、設備、特徴などのデータをそろえ、比較検討しはじめている。
確かに、ひとつの病院の見学だけでは、なかなか全体の状況を把握するのは困難だが、
実際に担当している医師や看護師さんの話、悩みは、文字や数字を見て頭の中で考えるより、はるかに参考になった。
T先生と師長さんには深く感謝したい。
台風の中を無事アクアラインで横浜まで戻り、見てきたこと、聞いてきたことを思い返してみたが・・・
やはり、同じ癌の末期の患者さんを受け入れるにしても、どの病棟で、どんな患者さんを受け入れるのか、
緩和ケア病棟を、採算性を無視して治療も行う病棟にしてしまうのか、
安らかな看取りだけを追求していれば良いのか・・・などなど、
自分の頭の中も、もう少し整理する必要があることを感じさせられた。
一般病棟の中にも、今までと同じようにターミナルの患者さんを引き受け、患者さんやご家族の考え方も十分考慮し、
その中から、あるいは外部からの紹介によって、緩和ケア病棟の患者さんを選択していくのが自然なのかな・・・とも考えている。
でも・・・
そんな事をいくら考えても、新しい病院が出来なければ、全てが夢物語になってしまう。
いい夢を見ながらも、厳しい現実を切り開いていかなくてはならない!(19年9月17日)
3年出てない!
1ヶ月ほど前、土曜日の当直の夜遅く、救急隊から連絡があった。
尿が出なくなった患者さんを搬送しても良いか・・・とのことだ。
自分が当直の時は、明らかに緊急に専門医の診察を受けるべきだと判断される以外、救急要請はほとんど断ったことが無い。
尿管結石か、前立腺肥大か・・・いくつかのことが考えられたが、ひとまず受け入れ可能であることを伝えた。
しばらくして搬送された患者さんは、70歳代の男性で、比較的元気そうだ。
救急隊員の報告でも、血圧や呼吸の状態に問題は無く、腹痛や背部痛も無い。
尿がたまって出せない場合は、ふつう下腹が硬く膨れているものだが・・・ぺちゃんこだ。
「いつからおしっこが出ないんですか?」
「さあな〜、3年位前からかなあ・・・」
「えっ?3年前からおしっこが出ないんですか???」
「あれ・・・昨日だったかな〜、もう忘れちゃったな」
一応膀胱の中に細い管を入れ、おしっこを調べてみても、少しはたまっているが、色も問題ない。
「おしっこ、大丈夫みたいだけど・・・」
救急隊の人たちも、だんだんあれれ・・・という感じになっている。
「おしっこが出せなくて、苦しいから救急車呼んだんじゃないの?」
「そうだっけかなあ・・・なんでおれ、ここにいんのかなあ」
「なんでって・・・自分で救急車呼んだんでしょう?!」
「そうかあ」
家族がいるかと尋ねても、一人暮らしのようだ。
とても入院の適応ではないので、大家さんに連絡し、迎えに来てくれるよう頼んだが、
忙しくていかれない、と断られた。
救急隊の人たちは、ちょっとは申し訳なさそうな顔はしてくれたものの、「じゃ、よろしくお願いします!」といって帰ってしまった。
外来に看護師と自分と患者さんは放置されたままだ・・・
仕方が無いので、その夜は入院してもらうことにしたが、翌日にはすこぶる調子よさそうで、食事もモリモリ完食し、
おしっこも良く出るし、検査にも問題ないので、即、退院してもらった。
その後、その患者さんは毎回「おしっこが出ない」と救急車を呼び、夜間、明け方、休日に頻回に受診するようになった。
もちろん毎回おしっこは出ている。
一度は済生会東部病院に救急搬送されたようだが、やはり検査後、問題ないので帰されたようだ。
昨日の土曜日も自分が当直だったが、朝の8時半頃、ホットラインがなった。
「おしっこが出ない・・・という人がいるんですが・・・」とのことだった。
いや〜な予感がして、救急隊員に患者さんの名前を確認すると、案の定その人だ!
救急隊は要請があれば出動し、どこかの病院に搬送しないわけにはいかない。
かかりつけの病院を患者さんに聞くと、「平和病院に何回か受診している」と答えるので、連絡してきたようだ。
「実は・・・その患者さんは毎回同じことを言って救急車を呼ぶ方で・・・・いつもなんと無いんですよ・・・」といっても、
狼少年ではないが、今度こそは、本当に具合が悪いのかもしれない。
診察もしないで「いつものことだから」と、断って何かあっては大変なことになるので・・・
しぶしぶ引き受けることにした。
搬送されたのはやはり見覚えのある顔で・・・
「どうしました?」
「おしっこがでなくて・・・」
「どれくらいでないんですか、3年くらいですか?」
「そうかなあ・・・どうだったかなあ、でたのかなあ、わかんないや・・・」
「あのね、あなた、近頃何回も救急車で受診しているけど、おしっこはいつも何とも無いじゃないですか!
救急隊の人だって、呼ばれれば助けにいかなくちゃならないし、でも、救急車はタクシーじゃないんだから!」
今回もおしっこはちゃんと出るし、お腹も胸も正常だ。
「そういえば胸も苦しい気がする」というので、念のために心電図も調べたが、やっぱり何ともない。
「どこも何とも無いですよ!」
「じゃあどうして俺はこんなところにいるんだよ!俺をうそつきだって言うのか!」と逆切れされる始末だ。
「もう何回も同じことの繰り返しじゃないですか!こんなことばかりしていたら、もしほんとに具合が悪くなった時、誰も信じてくれなくなっちゃいますよ」
「何回かかったかなんて覚えちゃ無いよ!そんなに言うなら覚えとくから何日に来たかきちんと紙に書いてくれ!」
と、言うのでカルテを見ると、、これで1ヶ月の間に5回目の救急受診だった。
最近、病院には、猛暑のせいもあるのか、こんな患者さんが救急車で運ばれてくることも多い。
前回の当直のときには、「食事が食べられず動けなくなった」患者さんの受け入れ要請があった。
悪性の疾患でもあるのか・・・待機していた所に運ばれて来たのは、やせた男性だった。
状況を確認するために、話しを聞いてみた。
「いつ頃から食べられなくなったんです?」
「1週間くらい前かな」
「食べ物が入っていかないんですか?吐いたりするとか・・・便は出ていますか?色は?」
「食べるものが無くなったんで食べてないんだよ!」
「えっ、それって・・・食べられるけれども、食べるものが無いってことですか?」
「そうだよ」
「買い物とかは?」
「金がなくなっちゃったんだよ」
「保険とかは?」
「3年ぐらい金払ってないから止められちゃってる!」
「家賃とかは?」
「貯金してたのを使ってた」
「じゃあ、それが無くなって食べ物が買えなくなったって事ですか?それで救急車呼んだの?」
と・・・・
救急隊員も一緒に話を聞いていたので、これはいかん・・・と思ったらしく
「すいません、ただ食べられないとの要請だったもので・・・」と、一応恐縮はしてくれたが、
「じゃあ、よろしくお願いします!」の声を残して帰ってしまった。
診察室にはまた患者さん?と、自分と看護師がポツンと取り残された。
実際に食べてないらしく、フラフラしているので帰すこともできない。
このような患者さんが続くと、最近横浜市が「救急患者さんのトリアージとか、救急車利用の有料化とか言い出しているのも、
なるほどもっともな話しだ・・・とも思ってしまう。
もちろん本当に救急を要する患者さんも多いが、救急車をタクシー、病院をホテルとでも思っている人がいるのも事実だ。
このような人たちの多くが、家族や福祉からも見放され、帰る場所も無く、ずるずるとベッドをふさぎ、
時には治療費さえも払ってもらえないこともあり・・・
さらには本当に入院が必要な患者さんのためのベッドが確保できなくなることもあるので、問題はけっこう大きい。
夏は本番!ますます猛暑が続くという・・・こんな患者さんばかりが増えないことを祈っているが・・・(19年8月12日)
なんでもあり!
昨日の夕刊を見て驚いた。
一面に「介護施設の定員枠撤廃」と書いてある。
ついこの前の診療報酬改定、介護報酬改定のとき、厚生労働省は38万床の療養病床(医療療養25万床・介護療養13万床)を
社会的入院が多く、医療費を食いつぶしているとの理由で、11年度末で介護療養型医療施設を廃止にすることを決定し、
医療療養病床も15万床まで減らす(23万床の療養病床削減)方針を出したばかりだ。
もう何回も書いたが、医療療養病床には「医療区分」を導入し、医療の必要の無い(とみなされる)患者さんから、
病院が得られる収入を極端に抑え、「入院させておけない」状況を誘導した。
平和病院も、この方針にはもろに影響を受け、ついに昨年の10月から医療療養病床を一般病床に転換せざるを得なかった。
今ある介護療養型医療施設も11年度末までには何とかしなければならない。
現在、療養病床から、介護施設へ転換する病院にはさまざまな優遇経過措置が取られているが、
厚生労働省の思惑とはかけ離れ、まだ36万床が療養病床として残っている。
多くの病院が「様子見」の状況なんだろうと思うが・・・
政府は、今までは介護施設にかかわる定員が各市町村で決められており、この定員枠が転換を遅らせる要因と見ているようだ。
老健・特養の数は確かに少ない。
特老に入院するには、ひどい時には申し込んでから何年も待たされるのが現状だ。
老健も少しは増えてはいるが、その入院基準は、いわゆる「手のかからない」比較的元気なお年寄りを求めており、
経管栄養や胃瘻で栄養管理をしているというだけで、入所を断られることも多い。
もちろん、このような患者さんが医療療養病床にいても、ただの「医療区分1」で、病院にとっては全く採算に合わない仕組みになっている。
この解決策として、さらに今度は「医療機能強化型老健施設」なるものを考え出してきた。
老健施設ではあるが、医療が必要な患者さんにも対応できる施設のようだ(具体的にはまだ詳細が決まっていない)が、
もうこうなるとわけがわからない!
今までは医療法人には認められなかった「特養」の開設許可も出し、今回は介護施設への転換枠の撤廃も行い・・・
もう、なりふり構わずといった状況になってきた。
もうこうなると「なんでもあり!」の世界だ。
また、都道府県には「療養病床転換推進計画」なるものの策定を義務付け、数値目標まで設定するらしい。
何が何でも療養病床を削減し、保険給付費を目標値に近づけたいようだ。(3000億円の削減を目指している)
おそらく転換に応じない療養病床に対する診療報酬上の締め付けが「これでもか」というほど強くなってくるだろう。
でも、療養病床が介護施設に転換したら、今度は介護保険がパンクしてしまうのでは?と考えるのは自分だけだろうか・・・
当然介護保険料も上げざるをえなくなるだろう。
いずれにしても、まあ、よくこれほど短期間に、「こちらがだめなら、またあちら・・」と、ころころ変えてくるものだと、あきれるばかりだが、
四方八方から追い立てられた療養病床は右往左往と迷走したあげく逃げ場をなくし、
厚生労働省の思惑通りに介護施設へとなだれ込むのか・・・
野焼きの中心に置き去りにされた心境だ。
やっと見つけた「介護施設への転換」という池の中にたどり着いて、火を避けられたと思っていても、
必ず後から池はあっという間に埋め立てられてしまうだろう。
残るのは療養病床を持つ病院の干からびた残骸か・・・
平和病院の運命やいかに!
院長は地域の患者さん、職員とともに、この窮地を乗り越え、生き延びられるだろうか・・・・!
乞うご期待!!(19年7月22日)
済生会横浜市東部病院新築落成式
今日、3月30日に平和病院のすぐ近くに開院した済生会横浜市東部病院の新築落成祝賀会に出かけた。
東部病院は横浜市5番目の中核病院として開院した554床の大病院だ。
一般病床460床、精神病床50床、重症心身障害児(者)施設44床の構成で、365日、24時間の救急医療体制を誇っている。
現在は看護師の数などの関係でフルオープンにはいたっていないが、来年には全床稼動を目指している。
数年前、この話が持ち上がったときには、鶴見区の医師会病院部会が頻繁に開催され、
「自分たちの病院から、入院患者さんや外来患者さんが消えたなくなる」ような危機感に、大反対運動を始めた。
それまで、自分は医師会に病院部会なるものがあることも知らなかったし、少なくとも、私が院長になってからは
1回も開催されたことがなかった。
特に開院予定地に最も近いU病院やS病院の院長は積極的に反対運動を展開し、
横浜市が税金をいくらつぎ込むとか、ものすごく詳しい資料をそろえ、チラシなども作っていた。
一方、自分はといえば・・・
平和病院からも数キロ圏内であり、影響は出るとは思ったが、それなりの連携は保てると思っていたので
「ノンポリ」ではないが比較的のんびり構えていた。危機感が欠如していたのかもしれないが・・・
結局、東部病院は鶴見区、神奈川区の医師会の先生方を上手に味方につけ、
建設は着々と進み、病院部会にもあきらめのムードが漂いはじめ、
どうすれば連携を保ち、自分たちの病院へのダメージを最小限に食い止められるかを考え出した。
今では病院部会は全く開催されなくなり、
替わりに東部病院と鶴見区の開業の先生の代表、鶴見区の病院長が集まる連携の会
(正式な名前はむちゃくちゃ長ったらしい)が開催されており、
私も委員になっているので2ヶ月に1回東部病院に出かけていく。
大反対をしていたS病院のS先生は、今ではそのまとめ役になっている!
各病院の看護部長たちも会合を開き、独自に連携を深めている。
毎回、連携の会には車で行くのだが、平和病院を出て、第一京浜(通称、二国)のめがね橋をくぐり、
ちょっと走れば、出来たばかりの巨大な病院が見えてくるので、改めて距離の近さを実感している。
最近は、東部病院から、救急でも比較的病状の安定している患者さんを平和病院に紹介されてくることも多く、
(東部病院は患者さんがいっぱいで入院させられない!)
また、平和病院には機器がなく、出来ない特殊な検査をお願いしたり、
平和病院には無い診療科の患者さんを紹介したりと、以前から自分が頭の中で描いていた連携は行われている。
ただ・・・・
患者さんの大病院嗜好はいかんともしがたく・・・
平和病院で診断し、手術が必要な患者さんから、突然、東部病院での手術を希望されたりする。
ただ、これは今に始まったことではなく、中小病院の外科が抱える共通の悩みだ。
今後は、なにかの疾患に特化した治療を行わない限り、平和病院のような中小病院の外科は生き残っていくことは難しくなるだろう。
今月は膵臓切除、肝臓切除などの大きな手術が行われ、外来を代診にして午前中から手術が行われる。
大学(千葉大学臓器制御外科)からの専門の講師も応援にやってくるので、
手術の内容に関してはどこにも負けない自信を持っているが・・・・
平和病院で手術をすると聞くと、回りの親族の方から、がんセンターでやったほうが・・・とか、大学病院にいったほうが・・・
とか、もっと大きな病院のほうが・・・・とかの意見が出てくるようだ。
確かに、悔しい気持ちはあるが、患者さんやご家族の気持ちとしては、わからなくは無い。
それだからこそ、平和病院での手術を選んでくださる患者さんには、本当にありがたい思う気持ちがあり、
全力で治療しようという意欲がわく!(もちろん、他の患者さんにも全力投球だが・・・)
それはともかく、今日は外来を終わらせてすぐ、会場となっている「みなとみらい」のロイヤルパークホテルにむかった。
自分は祝賀会だけ参加したが、式典には横浜市長も参加したようだった。
済生会は恩賜財団なので、式には三笠宮瑤子さまがご臨席されていた。
皇族の方を「生で」見るのは初めてだったが、そもそも瑤子女王殿下という紹介があり、
「女王殿下」なる名称があるのを、恥ずかしながら初めて知った!
東部病院の先生方とは顔を合わせたことも多く、中にはわざわざ平和病院まで連携のご挨拶に来てくださった方もいるので
(川城院長も来て下さったことがある)改めて名刺交換の必要も無く、料理を食べていたが、
来賓者の中に、大学の先輩で、大学病院にいる時ずっと一緒に勤務していたY先生の顔を見つけた。
少し前に、済生会習志野病院の院長になったので、この祝賀会に参加したようだ。
「あれ、何でお前がこんな所にいるの?」
「平和病院と目と鼻の先ですから、地元病院ということで招待されたんですよ」
「うちの病院も、この前建て替えて、式典やったけど、東部病院よりしっかりしてると思うよ。震度8でも倒れないからな!
それよりあんな病院がそばに出来ちゃったらお前のところ、大打撃だろう!」
「い〜え!それほどでも・・」と強がっておいたが・・・
Y先生とは大学の関連の会合でもよく顔を合わせており、大学病院時代はかわいがってもらったり、
ゴルフもよく一緒に出かけたので、しばらく話していた。
聞くところでは、今、東部病院の入院待ちの患者さんは450人!!!だそうだ。(少しは分けてくれ!)
そんなに待っていれば、当然待っている日数も長くなるだろう。
悪性疾患の患者さんはどうなるのか・・・と、こっちがよけいな心配してしまう。
実際先日、平和病院で手術をした患者さんにも、大病院では待ち時間が長くなり、病気の進行が心配で・・・といったケースもあった。
確かに、平和病院クラスの良いところの一つは「小回りが利く」ことだと思う。
来週には、また連携の会が開催される。
ピッカピカの新しい病院に入るたび、「何とかして平和病院を新しく作り直してやる!」という闘志がムラムラとわいてくる。
実際、今、平和病院は大きな生まれ変わりの準備を着々と進めている。
一昨日は事務長と一緒に東芝本社に出かけ、「新・平和病院構想」に関して話をさせてもらった。
今、まさに平和病院は正念場を迎えている。
そう遠くない将来、「新・平和病院落成記念祝賀会」ができるよう夢見て、頭と体をフル回転させなければならない。(19年7月14日)
ビッグチャンス到来?
先日大手訪問介護業者の介護報酬不正請求が大きな問題になった。
そもそも、民間業者に介護を開放した時点で介護は「事業」と認識されるようになった。
平和病院でも4年前に訪問介護サービスを開始したが・・
平和病院を利用し、退院した患者さんたちの生活を支え、良質なサービスを提供しようとの思いで始めた。
残念ながら、はじめから経営は黒字にならず、毎年苦しい営業を強いられたが、
それでも何とかがんばって耐えてきたのも、平和会としての、よどみない、連続したサービスの提供にこだわったせいでもある。
しかし、今回の診療報酬、介護報酬の改訂による大きな波をかぶり、
訪問介護の赤字をカバーしていた病院本体の経営状況も苦しくなり、
残念ながら昨年、休止届けを出さざるを得なかった。
自分の経営手腕がなかった、といわれればそれまでだが、
そもそも介護サービスの報酬そのものが大幅に下げられた。
生活援助と、身体介護に分けられたサービスの報酬には大きく差がつけられ、
サービスにかかわる手間、時間には差がほとんどない。
当然、業者は「身体介護」を提供しようとする。
サービスの内容は、ケアマネージャーが利用者本人やご家族の希望を組み入れてアレンジするのだが、
「営業」まがいの不必要なサービス提供も行われるようになっていった。いわゆる「介護の掘り起こし」だ!
これによって、介護保険にかかわる費用はどんどん増えていった。
平和会は居宅介護支援事業所が、拡大事業として訪問介護サービスを提供していたが、
経営サイドから見ると、歯がゆいほど利用者サイドに立ったサービス計画を作っていたので、生活援助がほとんどだった。
他の業者は、責任者以外はほとんどがパート職員のところが多いのに比べ、常勤職員も多かったのも影響し、
休止前には、ほとんどボランティア状態の営業が続いていた。
病院は事業を宣伝することなど厳しく規制される仕組みになっているのに、
民間介護サービス業者は堂々とテレビコマーシャルまで行っていた。
あの莫大な宣伝費は介護保険から得た収入で行われていることを考えると、
CMを見るたびに、どうしてこんなことが出来るのかと・・・不思議でしかたがなかった。
利用者サイドにたったまともな介護サービスは、そんなには儲からないようになっているのだ。(と、思うのだが・・・)
良質なサービスを提供しながら経営が成り立っている業者も、もちろんあるのだろうが・・・
おそらくどこも苦しい経営を強いられているだろう。
そもそも介護は物を売る商売ではない。
営業努力でサービスをすればするほど儲かるというものではないのだ。
利用者側にたった、まともな業者を増やすには、ただ介護保険の破綻を恐れて、現場を理解せず、
机の上の理論で介護報酬をむやみに下げるだけでは解決にはならないのだ。
今回の騒ぎで、「利用者を守るために介護事業を引き継ぎます!」と次々と名乗りを上げる民間業者は大丈夫なのだろうか・・・
大きなビジネスチャンス到来!と思っているのではないだろうか・・・
ニュースを見ながらこんなことを考えるのは、訪問介護から撤退した経営責任者の負け惜しみなんだろうか・・・?(19年6月20日)
体ではらうから!
5月で外科の下田医師が開業のため退職することになった。
外科のスタッフは従来5人で担当していたが、(遠藤先生は透析兼務なので、外来のみ)
最近は大学からの派遣医師の年代もずいぶん高くなり、
経験を積んでから着任しているせいもあり、自分はほとんどが外来を担当し、手術以外の検査や病棟勤務は他の3人に任せていた。
外来の合間には「院長業務」や「会議」も多く、地域連携や医師会の集まりなどで、夜にもけっこう用事が入る。
これも院長の仕事のうちだ。
たまには大学まで出かけ、医師の派遣などのお願いもしなければならない。
下田の後任には正式な人事が決まるまで、留学帰りの医師が大学から短期間赴任することになっていたのだが・・・
ある日、外来中に医局長から電話が入った。
だいたい、医局長からの電話はあまり良い知らせではないことが多い!
案の定、電話の向こうで、医局長がものすごく丁寧な言葉で・・・・
「橋せんせい・・・実は大変申し訳ないことになってしまいました・・・・
先生の病院に短期でお願いしたK医師が、突然医局を辞めることになりまて・・・・
私も教授も説得したのですが、どうしようもなく、認めざるを得ません。
しばらく替わりの医師を派遣することも出来ません。こまりましたあ・・・」
「え〜〜〜〜!先生、それは本当に困るよ!」
「そうですよね〜」
「わかりましたあ。教授には、橋先生が、とても困るとおっしゃっていたとお伝えしますう。
出来れば先生からも教授に直接、病院の事情を説明していただけたら助かりますが・・・」
と、いうわけで、来週は千葉まで教授に会いに行くことになった。
最近は教授も日本外科学会の理事になったりして、超多忙なので・・・
なかなか時間がもらえない。教授秘書に電話をして予約を取るのだが、
どうかすると、「夜の9時以降!はいかがですか?」などといわれる。
よく体が持つもんだと、こっちが感心してしまうが、
千葉まで行って、そんな時間から話していたら、何時に帰ってこれるかわからない!
それはともかく、6月から下田が担当していた金曜の外来はひとまず永井、代市にやってもらおうとも思ったが・・・
外来に人がとられると検査がこなせなくなる。
病棟業務も一人減った分、当然忙しくなる。
「先生、下田先生の分、少し自分たちの給料を上げてもらいたいくらいですよ!」と、若い医師からは言われるが・・・
院長の立場からすれば、人件費はそんなに簡単に上げられない。
今まで金曜日は研修日で出勤していなかったのだが・・・仕方がないので
「わかった、給料を上げるのではなくて、私がその分体で払うから!」ということになり、
金曜日も出勤し、午前の外来を担当することになった。
これで月曜日も午前の一部、火曜日の午前・午後、水曜日の午前、金曜日の午前、土曜日と、外来に出ることになり・・
もはや平和病院の外来で「橋クリニック」を開業しているような状態だ。
平和病院は土曜日も通常営業している。
若い外科医には研修日がないので、休みは日曜だけだ。
当直もこなすし、日曜日の「出番」で病室の患者さんを診るために顔を出す。
彼らだけを働かしておいて、「今日はもともと休みだから、よろしく頼む」と言うのは、自分の性格上、どうも出来ない。
いま、土曜日は月に3回当直をし日曜の朝まで、日曜は月に1回日勤をして夕方の5時まで勤務しているので、
金曜日に出て行くと、病院に顔を出さない日が月に1日だけ!という、とんでもないことなってしまった!
病棟にも顔を出す機会を増やさなくてはならないし・・・
漢方やサプリメントをのみまくりで体調を維持しないと、さすがにきついかもしれない・・・
何とか早く交代人事を決めてもらうしかないが・・・・
なかなか大学の事情も厳しいようで、どうなることやら・・・
体力勝負の日々はもうすぐそこまで来ている(19年5月23日)
続・平和病院通り
4月27日の毎日新聞朝刊の神奈川版に先日書いた「平和病院通り」のことが写真つきで掲載された。
せっかくなので、全文を引用させていただくと・・・
タイトルは「いざという時居場所をわかりやすく」
サブタイトルは、「吹上げ坂、幼稚園通り・・・・11の愛称」「横浜・鶴見区東寺尾中台 平和病院と協力深めー自治体がプレート設置へ」
本文は以下の文面だ(個人名一部省略)
横浜市鶴見区東寺尾中台の入り組んだ細い路地や坂道に今月末、「平和病院通り」や「吹上げ坂」など11の愛称がつく。
地元自治会の「東寺尾中部会」が2年前から取り組んできた防犯や防災のためのユニークな活動で、
これをきっかけに、地域に根ざす平和病院(高橋修院長)との協力関係も深まろうとしている。
同自治会は、ひったくりや痴漢、危険な場所などを記した防犯マップを作成して全戸に配布。
防犯パトロールも実施し、活発に活動している。
05年からは、事件に遭った時に居場所を伝えやすいよう、通りや坂に愛称をつけようと準備を進めてきた。
愛称は固有名詞を避けて「幼稚園通り」や「中通り」と命名して、区役所にも届け出た。
ただ、60年以上前から地域の医療を支えてきた平和病院に向かう路地だけは「平和病院通り」とした。
同病院は地元に工場を持つ企業が戦後の混乱期に
「従業員やその家族の健康を守り、食料もなく病気に苦しむ地域の人々を助けなければ」
という強い思いで設立した。
平和な時代の到来をしみじみと喜ぶ人々の気持ちをくんで初代院長が「平和病院」と名付けた由緒がある。
その歴史を知って感激したA会長ら同自治会の人々が「平和の2文字を残そう」と決め、
病院脇の急階段も「平和坂」と名付けた。
愛称の付いた九つの通りと二つの坂には、今月末にも同自治会の人たちが手作りした木製のプレートが設置される。
平和病院の高橋院長(53)は「治療中に突然、自治会の方がプレートを取り出して教えてくれた。
病院が地元の人々に支えられていると実感した」
と喜び、古くから中台に住む同自治会役員のNさんも「地域の誇りの病院だから」と笑顔だ。
病院と地域は04年に災害時の相互援助協定を結んでいたが活動実態が無く、
A会長は「これを機に、毛布や水の提供など協力できることを検討したい」と話していた。
というものだ。
先日このコーナーに書いたことが、新聞に取り上げてもらえたのは望外の喜びだ。
(本当は54歳だが53歳にしてくれたのもうれしい?)
毎日新聞には昨年の元旦にも病院のことを大きく取り上げてもらった。
今回の記事は、その時の記事を書いたI記者が書いてくれたものだ。
地域の皆さんに支えられる病院、地域の皆さんの健康を守る病院としての使命を、
今後も70年、80年、100年とはたしていきたい!との思いを、改めて強く感じさせられる記事だった。(4月27日)
平和病院通り
先日、私の患者さんで、町内会の役員をやっておられるNさんが外来に受診された時、
お見せしたいものが・・・と、お持ちになった包みを開いて、プレートを見せてくださった。
木製でライトブルーの文字で「平和病院通り」と書いてある。
業者に依頼したものでなく、手作りとのことだったが、
フォントも平和病院でよく使う・・・というより私が好きな創英角ポップ体だ!
平和病院は古くからの住宅地の中に建っており、周辺の道は細く入り組んでいる。
病院近隣の町内会では、引ったくり、学童の事故などを防ぐため、朝、夜の見回りなども行われているが、
何か起こったときに、道が複雑なため、その場所を説明するのがなかなか難しい。
そこで、場所を分かりやすくすることに加え、町内のイメージアップ、活性化を図るため、通りに名称をつける事になったようだ。
二本木の交番から東台小学校に抜ける道を左に曲がり、平和病院までの通りを「平和病院通り」と命名してくださった。
はじめは、ただの「病院通り」にしようという案であったのだが、
病院と地域との長いお付き合いを評価してくださり、Nさんが「平和」を追加することを主張してくださったとのことだった。
たしかに、ただの「病院通り」では何か「病気」の暗いイメージになりがちで、「平和」がつくとソフトなイメージになる。
今後は協力し合いながら広域防災訓練などをおこなったり、
地域の方々がボランティアとして病院に協力してくださったりするなど・・・
関係強化を図っていきたいとのありがたい提案もしてくださった。
今年度の平和会の基本方針の中のひとつに、「地域連携の強化」を掲げた。
この「地域連携」は平和病院と基幹病院、介護施設、地域の診療所の先生方との連携はもちろんであるが、
地元の住民の方々との連携も大きなウェイトを占めている。
平和病院は、長い間地域の病院として地元の皆さんたちに育てられてきた。
今後も地元の皆さんの健康を守る義務がある。
今は「治療」の時代から「予防」の時代へと、疾病にかかわる考え方も変わってきている。
病院の中にこもって病気になった患者さんを治療するだけが病院の役割ではなくなっている。
地域の皆さんの集まりに参加し、病気、健康、疾病予防に関するお話などをさせていただいたり
病院で開かれる生活習慣病予防教室の地元の方々への開放、
町内会との共催による健康イベントなども考えていきたいと思っていたので、
Nさんからのお話は、まさに今年度の方針にもピッタリでもあり、ぜひ進めていきたい。
ちなみに、平和病院の前を通り過ぎ、今、取り壊しが行われている東芝関連の寮の脇を通り、下の道に続く階段部分は、
「平和坂」と名づけられたとのことだったが・・・
もし「病院坂」になっていたら・・・・
横溝正史の「病院坂の首くくりの家」のように、何か恐ろしいことが起こりそうなイメージになっていただろう。
「平和病院通り」が、「この通りは昔、平和病院通りだったんだよ!」などと言われないように・・・
これからもずっと、地域に根ざした病院であり続けたいものだ。(19年4月8日)
第61回定時社員総会
先日、朝8時から平和会の定時社員総会が開催された。
私が院長になったばかりの頃は年に1回開催されていたが、何年か前からは、3月に次年度の予算に関し、
また、6月に前年度の決算報告や理事選任などの議題に関し、年2回開催されることになった。
今回も、平成19年度予算案に関して、職員にも提示した19年度の平和会基本方針とともに説明し、
無事、承認された。
この中で、現在取り壊しが急ピッチで行われている病院周辺の、東芝関連施設の跡地に関し、
新しい平和病院の建設を視野に入れた検討をお願いした。
平和病院は住宅地の中にある病院で、以前あった中庭に新しい病棟を建てて以来、
敷地に余剰スペースが全くなくなり、患者さんや病院関連車両の駐車場も十分に確保できず、
外部の駐車場を借りて対応している。
また、在宅部門も近隣の土地、建物を借りて運営しているため、このためにかかる費用もばかにならない。
患者さんやご家族の方が十分にくつろげる場所も確保できず、職員の休憩室も十分ではない。
新たな医療機器を導入しようにも入りきらない。
いま、医療、介護の世界には大きな変化がおきつつある。
今までと同じことを漫然とやっていては病院は経営が立ち行かなくなり、
厚生労働省が目指す病床削減の予定の中に飲み込まれてしまう。
周辺の基幹病院、診療所の先生方、介護施設などと連携をとりつつ、
新たな特色、機能を持ち、かつ地域の皆さんの健康を守り続けるためには、
今の老朽化した施設を改装しながらではとても間に合わない。
もし、今、取り壊しが行われている土地が民間業者に売却され、マンションでも建てられてしまっては、
平和病院は、もはや袋のねずみで、その発展の可能性は全く閉ざされてしまうだろう。
長期的な展望に立てば、どのような形になるにしても、この土地の利用はぜひ実現しなければならない。
ただ、「新病院において新たに構築する機能と、その運営における採算性」を明確にしなければ、
平和病院の東芝側理事さんたちや、本社の関連の方たちの了解が得られないのは当然のことだ。
新しい病院を、莫大な借金で建て、採算性が無ければとんでもないことになる。
すでに、自分が考える基本構想は提示させていただいたが、
社員総会の席で、東芝側の理事さんから、
平和病院を新しく建て替えられるかの本格的な検討を早急に行い、2ヶ月をめどにシミュレーションを詳細に出し、
結論を出す時期に来ているのではないか・・・との、ありがたい提案をいただいた。
診療報酬体系が今後もめまぐるしく変わっていく中での長期的なシミュレーションは、実際かなり困難な部分もあるが、
どんな状況になっても安定した病院運営をすることは、今の建物では不可能だ。
いま、将来の平和病院の存亡をかけた大きな転機が訪れようとしている。
この2ヶ月は自分にとっても、病院にとっても大きな勝負の時になる!
今までは「ただの夢物語」だった新病院は手が届くところまで近づいてきている。
患者さんのためにも、職員のためにも、なんとしてでも実現させたい。
最近は若干疲れ気味で自分自身で感じるほど、自分のペースが落ちてしまっていたぶん、
病院そのものの活気が、「いまひとつ」、の状態になっている様に感じている。
やはり先頭のペースが落ちると全体のペースが落ちる!
また全力疾走をはじめる良いチャンスがめぐってきた!
明日からは4月、ちょうど年度替わり、外科もスタッフが入れ替わる時期だというのに・・・
私とともに平和病院に着任し、16年も一緒に仕事をしてきた下田副院長が5月いっぱいで開業のため退職することになった。
しばらくの間は「外科医」の仕事も、自分がかかわる部分を少し増やさなければならない。
忙しさは待ったなしだ。(19年3月31日)
年齢と治療B
ご高齢の患者さんに病気が見つかった場合や、状態が急変した時には、「もう、つらい思いをさせたくないのでこのまま何もしないでください」
というご家族と、「どんなことをしても助けてほしい」というご家族がいる。
あとは、「もう、先生にお任せします」と言う場合だ。
どちらも間違いではないし、どちらが患者さんのことを大切に思っているか・・・・比べようもない。
どんな方法を選択しても、基本的には「つらい思い」を出来るだけしないようにすることを望まれるし、
もちろんこちらも最大限の努力はするが・・・
この「つらい思い」も一言で言えるほど単純なものではないし、ご家族のとらえ方にも、かなりのばらつきがある。
それが、いつの時点での、またどんな「つらい思い」なのか、
今、「つらい思い」をしないと、その先に「もっとつらい思い」が起こる可能性が高い場合はどうなのか・・・など
毎回毎回、悩みはつきない。
今は、癌の末期の患者さんの場合、状態が悪くなり、呼吸状態が悪化し、血圧が下がってきた場合は、
ある程度経過も長く、ご本人やご家族とも事前にお話しする機会も多いので、
気管内挿管をしてレスピレーターをつけたりすることは、ほとんどなくなった。
ただ、ご高齢の患者さんが、肺炎などで呼吸状態が悪くなった場合は必ずしもそうはいかない。
先日もレスピレーターをつけた患者さんがいた。
もともとが、患者さんはお話も出来ず、寝たきりの方だったが、担当医師とご家族の間で、
急変時にはレスピレーターにつなげる可能威性もあることが話し合われていた。
ご高齢であるし、重症の肺炎なので、状態が悪化した場合にはレスピレーターをつけても回復の見込みは極めて少ないので・・・
と、誘導することは出来ない。
結局は夜間に状態が悪化し、当直医が担当医と話し、レスピレーターをつなげた。
とにかく、その患者さんの心臓は動いている。自発の呼吸はほとんどない。
確かに状態が悪くなった時点でレスピレーターをつなげなければ、その時点では心臓も動いていないだろう。
「命はとりとめた」ものの、意識は無く、自分の呼吸は無く、血圧を保つ薬を24時間流しながら「生きている」
回復の可能性は限りなく低い・・・
長引けば長引くほど、「助かってほしい」との思いとは別に、ご家族も疲れ始めてくる。
それでも後戻りは出来ない。
ご高齢の方の治療には、単純な医療技術だけでは解決できない、いろいろな要素が絡んでくる。
もちろん、ご家族の中にもいろいろな考えの方がいて、時には方針が決められないこともある。
ずっと前のこと、やはりご高齢の患者さんの状態が急変し、心臓も止まり、もはや回復の可能性がなくなったとき、
長い間いつも付き添っていたご家族から、「自分たちは、もうだめなことは理解しているし、
十分治療をしてくれたことに感謝しているが、もう少しで他の親戚が来るので、
その時まででいいから、心臓を動かしていてほしい」と
頼まれたことがあった。
ただ、患者さんの心臓はどんな薬を使ってもピクリとも動かず、心臓マッサージを延々と続けた。
かなりの時間がすぎてから、やっとその親戚の方が病室に着き、病状を改めて説明し、心臓マッサージをとめた時・・・
「なぜそんなにすぐマッサージをやめるんだ!、なぜもっとあらゆる手を尽くさないんだ!」
と、かなり激しい口調で詰め寄られたことがあった。
患者さんが病気になってからの、ご家族の接した時間、病状、経過を一緒にすごしてきたか否かでも、
最後の時を迎えた際の捉え方が違うことも多い。
昨日もMさんの病室を訪ねた。
「もうすぐ桜も咲きそうですね」
「そうね・・、先生は元気そうね。私はあいかわらず・・・もう、早くお迎えが来ないかしら!」
「だめですよ。リハビリして、花見にでも行かなくちゃね」
「歩きたいと思うときもあるけど、もうリハビリもめんどくさいの。何にも面白いことないし、早くあっちへ送っちゃってくださいな」
と、私に向かって手を合わす。
「Mさん、そんなに手を合わされたって、私は仏様じゃないんだから、あっちになんて連れて行けませんよ!」
息子さんが買ってきた「大人の塗り絵」や「鉛筆で書く徒然草」も、最近はほとんど手をつけていない・・・
(平成19年3月11日)
うわさ
昨日の夕方、会議の真っ最中に電話がなった。
鶴見の駅の近くにある某病院の院長先生からの電話だという。
患者さんの紹介かとも思ったが・・・・
とにかく会議の席をはずし、院長室に電話をつないでもらった。
聞きなれた声がしたが・・・
「あ〜、先生、忙しいとこ、すいません。私、明日の済生会東部病院との病々連携の会には都合で出席できないんです」
なんだ、会議の内容をあとで教えてくれというものか、何かことづけでもあるのかと思ったが・・・
「まあ、そんなことはどうでもいいんですが・・・実は今日、平和病院のうわさを聞いたもんですから・・・」とのことだ。
えっ!
わざわざ、うわさのことを連絡してきたんだろうか?と思ったが、「先生、どんな話なんです?」と尋ねてみた。
病院にとって、悪いうわさは致命的な影響をおよぼすこともあるのだが・・・
悪いうわさは良いうわさの100倍早く広まる・・・ともいわれている。
変なうわさだったらとんでもないことになると心配したが・・・
「実は、タクシーに乗っていて、運転手さんと、閉院になった駅前の東芝鶴見病院のあとに、何が建つのかとの話になったとき、
運転手さんが、あそこは近々平和病院が移転してくるそうですよ!、いってたんですが・・・、驚いちゃって・・
先生、本当にあそこに新しい病院を建てるんですか?」と言うではないか!
「えっ?」・・・そんなうわさがあるんだ!
「それを聞いたら、いても立ってもいられなくなっちゃいましてね・・・平和病院さんみたいに優秀な病院がうちの近くにこられたら・・・
うちの病院なんてつぶれっちゃいますからね!、もう気になっちゃって、思わず先生に電話して聞いてみようと思いましてね・・・」
もちろん、「優秀な病院」というのはお世辞半分だろうが、
確かに、あそこの土地に平和病院が移れたら、どんなにいいか・・・
鶴見病院が閉院すると聞いたとき、何とか移転できないかと自分も考えたし、
たしかに鶴見病院の経営が厳しい時には、平和病院が鶴見病院を吸収し、合併するという話が全く無かったわけではない。
ただ、平和病院は、東芝関連の病院でも、独立採算の病院で、健保組合経営の鶴見病院とは経営形態が違っていたし、
その気はあっても、当時の鶴見病院の多大な赤字を補填しながら規模を広げる体力が無かった。
「どこからそんな話が出てるんでしょうね・・・気持ちはあっても、そんなお金がありません!、
仮に平和病院がそこに移ったって、先生の病院は疾患に特殊性を持った病院に変身し、
確固たる地位を築いてるじゃありませんか。大丈夫ですよ!」
何で自分の病院の経営も大変なのに、他の病院の院長を励ましてなくきゃなんないんだ!・・・と、思いつつ、
たかだか150床の平和病院でも、脅威に感じてくれている病院もあるんだ・・・と、思うにつけ、
500床以上の済生会東部病院が目と鼻の先に越してくるU病院やS病院は、さぞかしストレスを感じているんだろう・・・と思った。
平和病院だって、済生会東部病院からは車に乗れば10分くらいでついてしまう。
地域における自院の機能、規模に合った連携を構築し、共存共栄をもくろむ自分が甘いのか!
いま、済生会東部病院の開院を1ヵ月後に控え、鶴見の病院はピリピリしたムードが漂っている。
今夜、済生会東部病院との病々連携の会合が開かれた。もうすでにほとんどの先生が顔見知りだ。
あらかじめ東部病院から、各病院がどのような機能、患者さんの受け入れに対応できるのか、
アンケートに答えた集計が鶴見区の10の病院について一覧表になった資料が配られた。
もちろん、自分の病院がどれかはすぐにわかる。
各病院の院長先生が、アンケート結果に関して自分の病院の実情、可能な連携の実情を話したが・・・
正直な感想は、「なんだ、平和病院はけっこうまともじゃないか!」というものだった。
基幹病院には基幹病院の役割がある。平和病院には地域の病院としての役割がある。
診療所の先生方を含め、それぞれの機能を理解しあい、持ちつ持たれつの関係を作ることは、
結局は地域の患者さんのためになる。
もう、自分たちの病院の経営状況のみを考えて、がむしゃらに患者さんを抱え込む時代ではない。
タクシーの運転手さんが話していたうわさは、残念ながら実現は出来ないが、
これからも確かな機能を持ち、人材をそろえ、「小粒でもぴりりと辛い」病院であり続けたいものだ。(19年2月21日)
消化器外科学会教育集会
昨日と今日、パシフィコ横浜で開催された日本消化器外科学会の教育集会に参加してきた。
各臓器別に、その分野の専門の先生方(大体が大学の教授、助教授、がんセンターの部長クラス)が講師になり、
講義形式で行われ、最後に問題を解いて提出し、参加した証拠の「受講票」をもらって帰ってくる。
この教育集会参加は、新しく認定医、専門医、指導医になるため、また、資格を更新(5年ごとの更新だ)するための
必須条件になるため、会場には何千人もの外科医が集まってくる。
若い医師もいれば、だいぶ高齢の先生もいる。
昨日は偶然前の席に、大学の後輩のK君がいた。
後輩といっても、彼は先日、他大学の「教授」になり、就任祝賀会にも参加したばかりだ。
「え!?K君、教授になっても教育集会に参加するの?」
と、思わず聞いてしまったが、どうやら教授になっても特別扱いは無いようだ・・・
そもそも認定医だの、専門医だの、指導医などの資格が重要視されるようになったのは比較的最近のことだ。
以前は「学位」のほうが重要視されており、「医学博士」になるために大学に戻り、研究、動物実験などを何年も行い、
学会発表や論文をいくつも書き上げ、最終的に「学位論文」を完成させ、
これが教授会で認められはじめて学位がもらえた。
今は専門医になるために若い先生たちは病院で腕を磨く。
医学博士の肩書きは、大学で研究・教育生活をする医師には必要でも、
一般病院で勤務する医師にはほとんど飾りになりつつある!
認定医、専門医になるには、その学会が認めた病院に決められた期間勤務していないと、資格を取るための修練期間にカウントされない。
ところが、大学から医師の派遣を受けている「関連病院」の中にも、学会の認める「修練施設」になれない病院がいくつか出てきた。
修練施設の病院には、指導医や専門医が常勤で勤務している必要があるのだが、
中堅医師たちが「学位」世代のため、専門医、指導医資格を持っていないケースが出てきたからだ。
このためかどうだか・・・
最近、臓器制御外科でも、中堅層の人事異動が活発に行われるようになっているようだ。
自分に近い学年の部長クラスもこの4月にずいぶん動くといううわさが流れている。
副院長、院長クラスでも関連病院である以上、大学の人事の笠の中にあるので・・・・
いつ教授から突然電話がかかってくるかどうかもわからない!
幸い、平和病院は日本外科学会、日本消化器外科学会、日本消化器病学会の認定関連施設であり、
指導医、専門医、認定医も複数いるので今のところ問題は無いが、
指導資格のある医師を確保できない病院は、今後大学から、若い医師の派遣がなくなることになってしまうだろう。
そんなことも関係しているのか・・・
教育集会では大学の若い先生たちばかりでなく、関連病院の院長、部長クラスもずいぶん来ていて
さながら同窓会のようなありさまだった。
最近、学会と違い、「講義」形式で狭い椅子に何時間も座りっぱなしで、じっとしていることなどほとんど無いので、
正直言って「勉強」とはいえ、かなりの苦痛だった!
学会の専門医になるには当然学会員になっていなければならず、各学会の年会費は大体年に1万円は軽く超える。
しかも学会にある程度参加していないと、資格更新も出来なくなるので、東京やら、横浜やら、
近場の学会にはできるだけ参加していかなくてはならない。(遠方の学会は交通費・宿泊費が自腹なので・・・)
今、自分は9の学会に入会しているので、かかるお金と時間も馬鹿にならない。
しかも、専門医や指導医の更新の時には、更新料が何万円もかかるものもある!
いくら当直して、当直料をもらったって間に合わない!!
確かに医療の「質」の評価に専門医制度は必要なのかもしれないが・・・
あまり「資格」にこだわって、本質から離れてしまうものもあるような気がしてならないのは、自分だけだろうか・・・
それでも、もちろん、自分の勉強のためもあるが、「資格」更新のためには「教育集会」も参加しなくてはならない。
せめて、「受講票」との引き換え条件になる、あの小テストだけでも、なんとかならないもんかね・・・!
(19年2月10日)
週間医療タイムス
先日、「週間医療タイムス」からの取材を受けた。
医療機能評価の認定を受けた病院を紹介していく記事なのだが、
いまや、機能評価を受けている病院は珍しくない時代になっており、
まして、機能評価の認定を受けたのも2年近く前なので、いまさらその時の話をしても古くなってしまう。
結局、今の病院の方向性などに関してインタビユーを受け、写真を撮られた。
最近は、記者の人が自分でデジカメを持参して、カメラマンを兼ねることも多いようだ。
取材は事務長が不在だったので、看護部長と私が受けたのだが・・・
出来上がった原稿がメールで送られてきたのをチェックする時、
写真を撮る時には気づかなかったが、会議室で撮影したので、
バックのちょうど顔の部分にドアの取っ手(かなり大きい)が重なってしまっている。
自分の写真は、まだ取っ手が顔から少し外れているので、それほど目立たないのだが、
看護部長の場合はちょうど耳の部分に取っ手が重なり、片側だけがダンボの耳のように写ってしまっている。
もう発刊まで時間が無く、記事は直せても写真は直せないので、そのままになってしまった。
2月5日発売なのだが・・・
ここ数年は、いろいろな医療関係の本などから取材を受けることも多かった様な気がする。
特に画期的なことを行っているわけでもないし、病院収益ランキングの上位にいるわけでもないし、
病院がものすごくきれい・・・・・というわけでもなさそうだし、
ただ、平和病院のような中小病院のことを取り上げてくださる出版社があるのはありがたいし、
それぞれの記事によって、ある程度の人数の方が平和病院のことを知ってくださるのだから、
機会をいただけることは感謝しないといけないと思っている。
今はどこの病院も先の見えない深い霧の中で、自らの進むべき道を模索している。
平和病院にも大きな転機が近づいてきている。
どんな医療制度になってもゆるぎない病院として地域の中で成長し、
大きく変身した姿を取材していただけるようになれれば・・・と
(大きな医療事故を起こしたとか、経営不振でつぶれた・・との記事だけは勘弁してもらいたい)
土曜日、当直をしながら、夜の院長室でずっと考えている。(19年2月3日)
年齢と治療A
「何で食べられないんでしょうね・・・」
「だって、食べたくないんですもの。困ったもんだねえ」と、人事のようだ。
食べたいものを聞いても、「何もない」とのことだ。
「もう、ここまで生きたんだから、早くお迎えが来るように祈ってんの。だってこんなベッドの上にいたって、
何にも楽しくないもの。生きてたって何にも楽しくないし・・・」
「そんなこといったら、息子さんだって悲しみますよ!、今は確かにご飯が少ししか食べられないけど、
頭はしっかりしてるんだし、ちゃんとお話だって出来るし、リハビリもしっかりすればもっと動けるようになるはずだし・・
息子さんだって、毎日お見舞いに来てくださってるじゃないですか。
きっと、もっと長生きしてほしいと思っているはずだし、
私だってずっと外来に通っていたKさんには退院して、また外来でお顔を見たいと思いますよ。
誰かに長生きしてほしい、と思われていることは、それだけでも誰かの役に立っているってことじゃないいんでしょうか・・」
「そうかしら」
「そうですよ」
こんな会話が病室を訪れるたびに繰り返される。
「先生、長生きなんてするもんじゃないね・・・」
こんな言葉はKさんばかりでなく、何人ものご高齢の方がつぶやくのを聞いている。
その方たちの年齢も、70代のこともあるし、90代のこともある。
もちろんその方たちの状況もまちまちだ。
今まで平和病院で手術を受けた最高齢は94歳の大腸がんの患者さんだ。
その時は腫瘍によって腸閉塞になり、手術をしなければずっと鼻から減圧のチューブを入れたままで
一生食事も食べられない状況だった。もちろん手術のリスクはかなり高かったが、「見た目」はかなりお元気で、
結局手術は成功し、その患者さんは別の病気で亡くなる100歳まで長生きされた。
入院して治療をすべき病気が発見された時、「もう、この年まで生きたんだから・・・」
と、積極的な治療を望まれない方は多いし、その言葉はご本人から言われるときも、ご家族から言われるときもある。
「この年」が、何歳なのかも、まちまちで、ご本人の考え方、ご家族の考え方もあり、
ご本人の病状、その時の状況ばかりでなく、ご家族と患者さんの人間関係、家庭での状況など・・・
いろいろな要素が絡んでくるが・・・
ご家族の思いはともかく、ご本人の意識がはっきりし、認知症もない場合、
ご本人が「もうこれ以上・・・」と思えることが、本当にあるのかが、
自分がその年齢に達しておらず、まだ「生きること」に執着があり、達観していないせいもあり、
どうもよくわからない。
ただ、手術などの治療をお勧めする場合には、どうしても「年齢」を考えることも事実だ。
よかれと思って行った手術が逆に寿命を縮めたりすることがあるのは隠しようもない事実であるのだが,
もちろん逆の場合もある。
平和病院に始めて着任した頃、すでに入院していた大腸がんの患者さんがいた。
やはり、ご高齢であったために、手術はしない方針になっていた。
確か90近かったと思うが、お話はちゃんと出来ていたように思う。
自分も、何の疑問も無く、そのまま経過を見ていたが、
病状はなかなか進行せず、2年近く経過した頃、突然腹痛、高熱の症状が出現し、状態が急変した。
腫瘍で狭窄していた大腸の口側が破裂したための症状だった。とても苦しがり・・・
その時点では血圧も下がり、とても手術が出来る状態ではなく、翌日に亡くなってしまった。
もっと状態のよいときに、人工肛門だけでも作っておけば・・・・
少なくとも、その時のように腸が破裂することなどは無かったのにと、後悔した覚えがある。
もちろん手術をして、その時に具合が悪くなったかもしれないし、穴が開いた時点で緊急に手術をすれば
もう少し寿命が延びたかもしれない。
異なる治療を選択した場合の結果は、同じ人間を同じ状況で比べることが出来なiい以上、
ぎりぎりの状況では一種の「賭け」のような要素もある。(つづく)
今年も年の暮れ
平成18年もあと1日で終わろうとしています。
今年は本当にあわただしい年でした。
4月の診療報酬・介護報酬改定の影響は平和病院にとっても重くのしかかり、
このダメージの回復のために、病院の体制を大きく変えざるを得ませんでした。
新しい職員も増えましたが、体制になじめず、辞めていった職員もありましたが、
多くの職員の協力で、何とか年の暮れ間際に、ひとまず体制を立て直すことが出来ましたが・・・
まだまだ内容を充実させる必要もあり、
自分にとっても大きな宿題を残した年になりました。
29日には病院の職員食堂で納会が開催されましたが・・・
予定の5時になっても少ししか集まりません。
それもそのはずで・・・外来では4時半過ぎに3人もの入院があり、
病棟はその受け入れでてんてこまいになり、
外来も入院の「送り」で手が離せず、
検査、放射線科も患者さんの入院時検査に手がとられました。
毎年、年末年始は退院や外泊の方が多く、病室はがらがらになるのですが・・・・
今年はほとんど満床状態で新年を迎えることになりそうです。
今日も夕方、病棟からの電話が鳴りました。
入院の患者さんが荒れて、看護師にくずかごや点滴台を投げつけ、手がつけられない!
というものでした。何とか当直医が納めてくれたようですが・・・・
入院患者さんは確かに治療が必要で、私たち職員は状態が良くなるよう全力を尽くしますが・・・
「患者さんは神様」ではありません。
入院患者さんは一人ではなく、院内は秩序が保たれていなくてはなりません。
おのずと患者さんにも、入院中は守っていただくルールや協力していただきたいことがあります。
ましてや病院の器物を故意に破損させるような行為は、笑って済ませるわけには行きません!
私には患者さんはもちろんですが、病院や職員も守る義務があります。
職員に危険が及ぶような行為があれば、入院を継続していただけなくなる場合も出てきます。
明日は朝から臨時出勤し、この患者さんに事情をお聞きし、あまり気の進まないお話もしなければなりません。
まあ・・・平和病院の院長の仕事は診療ばかりではなく、よろず相談室、トラブル処理係のような仕事が半分以上です。
診療だけをおこなっていればよかった昔が懐かしい・・・と思うことも一度や二度ではありません。
ごたごたしたこの一年を象徴するような幕締めになりそうです。
でも・・・院内、外来、病棟には年末年始、休みも関係なく働いてくれる職員がいます。
透析は元旦しか休めません。遠藤名誉院長の正月休みは10年以上も元旦の1日だけです!
医事課は年明けのレセプト請求に向け、年末ぎりぎりまで遅くまで働いています。
病院正面には施設課職員手作りの大きな門松が飾られました。
植木屋さんも入り、敷地内の植木の剪定も終わり、すっきりしました。
さて、来年はどんな年になるのでしょう・・・
年末ぎりぎりになって、県内のかなり有名な260床の病院が経営不振で倒産しました。
平和病院は、干支の「いのしし」のように突っ走っていくしかありません。
今年と違って、「いいとしだったね!」といえるような年になれば・・・と思いますし、
自分自身で、そういう年にしなければならないのでしょう。
皆さん、今年も大変お世話になりました。
来年もよろしくお願いいたします。(18年12月30日)
年齢と治療@
Kさんはもう10年以上前に直腸がんの手術を受けた。
人工肛門になってしまっていたが、ご自分で装具の交換もでき、
再発や転移も無いまま、ずっと元気に私の外来に通っていた。
90歳を超えても、腰は少し曲がってきたものの、杖も使わず、認知症にもっていなかった。
外来に来るたびに、「おなかの調子はすごく順調ですから、風邪をひいたり、転んだりしないように気をつけてくださいね!」
といい続けていたのだが・・・
ある日の朝、病棟のネームプレートを見てKさんが入院しているのに気づいた。
整形外科の入院になっている。
あわてて病室をたずねると、Kさんは足を固定され、ベッドに横になっていた。
自宅で転倒して大腿骨を骨折したとのことだった。
もともと小さなKさんが、もっと縮んだように見えた。
手術をするか、保存的に直すか、ご本人もご家族もずいぶん悩んだ末、結局は手術を選択した。
90歳を超えた患者さんの手術はやはりそれなりのリスクを伴う。
ただ、Kさんは年齢の割にはずいぶんしっかりとしていたし、なにしろ今まではちゃんと自分で歩けていたのだ。
外科でも平和病院は、ご高齢の方の手術も多い。
たとえ癌の場合でも「手術をしない」選択をすることもよくある。
良かれと思ってやった手術で、結局は残された人生のQOLを落としてしまったりすることもあるからだ。
判断はなかなか難しい。
ご家族やご本人の希望を優先するが、やはり手術をした場合、しなかった場合の「見込み」をお話しなくてはならない。
治療する側も悩むことが多い。
そんな時の究極の判断の基準として、「自分の親が同じ状態になったらどうするだろう?」と考える。
もちろん、患者さんのデータをもとに状況を判断し、結論を出すのだが・・・
人間は数字でははかれない。データが全て正常でも、なんとなく元気のない人、
データはある程度乱れていても、見た目が元気そうな人・・・いろいろだ。
実は、この「見た目」は非常に重要で、迷った時は、「見た目」で判断することも多い。
そんな非科学的で、大丈夫なのか! と、いわれるかもしれないが・・・
正直言って「あてになる!」(もちろんデータがめちゃくちゃな時は、いくら威勢がよくても手術はしない)
ただ、以前、80歳以上の高齢者の消化器外科手術の影響について調べ、学会に発表したことがあったが、
たとえ腰椎麻酔の虫垂炎手術でも、術前に歩けていた患者さんが、
術後に要介護度が急に高くなり寝たきりになってしまう場合もある。
「手術なんてね〜、この年になって・・・大丈夫かしら?」
Kさんに聞かれた時、
自分でも、Kさんは何とか手術には耐えられると思ったので
「今まであんなに元気だったんだから、大丈夫、また外来に通えるようにがんばってくださいね」
と、言ってしまった。
その後しばらくしてから、Kさんの手術は他院でおこなわれた。
術後の急性期の状態をその病院で過ごし、しばらくたってから平和病院に帰ってきた。
戻って来た日、病室をたずねた時、わが目を疑った。
Kさんは別人のようにやせこけ、顔に生気は無く、声をかけてもほとんど反応してくれなかった。
それでも、持ち前の生命力があったのか、Kさんは徐々に回復を認めたのだが・・・
食事を食べなくなってしまった。
食べられないのか、食べたくないのか・・・とにかく食べない。
そのうち、目を閉じている時間がだんだん長くなってきてしまった。
ほとんど1日眠っているような状況になり、さらには呼吸状態が悪化し、一時はご家族を呼んで、
「最悪の状況も覚悟してください」と、お話しするような状態にまでなってしまった。
やはり手術は無理だったのか・・・
手術を勧めたことを後悔したが、Kさんの生命力が強かったのか・・・
徐々に最悪の状況を脱し、以前のように話せるようにまで回復した。
ただ、相変わらず自分では歩けず、食事も食べない(食べられない?)
仕方が無いので、鼻から管を入れて栄養食を注入するようになってしまった。
「どうしちゃったんでしょうねえ、ぜんぜん食べたくないの。先生、なんとかしてくださいな!」
病室で話すたびにKさんが訴える。
記録では、小さなおにぎりを少しは食べたりすることもあるようだが、
病室で「今日は何か食べられましたか?」と、聞いても・・・
「さあ、どうでしたっけ?」と覚えていないのか、とぼけているのか・・・会話はしっかり成立しているので
認知症が急に進んだとも思えないし・・・
毎日がこんなことの繰り返しになってしまった。(つづく)
視線が・・・
実感は無いが、世の中の景気は好転しているらしい・・・
ただ、医療界には木枯らしが吹き荒れている。
4月の診療報酬、介護報酬の影響は中小病院を竜巻の中に巻き込み、ずたずたにしている。
周囲の病院でも病室を閉鎖し、診療所になってしまったところも、ひとつやふたつではない!
平和病院も、厳しい状況におかれている。
いくら厳しくても、毎月職員には給与を払わなくてはならず、賞与も支給しなくてはならない。
(平和病院は私が所有している個人病院ではないので、私が給与を払っているわけではない。
もちろん自分も給与をもらっているし、理事長と言ったって、自分の給料も決められない。))
ずっと前から、賞与の支給日には「賞与支給式」がおこなわれることになっていて、
各部署の責任者が一同に会し、院長が一人ひとりにその部署の職員の賞与を手渡す(もちろん明細だけで現金ではない)。
そのあとで賞与支給にあたっての一言話すのだが・・・
職員は本当に一生懸命働いてくれている。
でも、制度が変わったとたん,同じ職員が同じことをして、同じ患者さんのお世話をしても・・・
ある日突然、病院の収入が大幅に減らされてしまう。
極端な例えだが、政府が、ある日突然一方的に、ハンバーガーの値段を
「全国のハンバーガーの消費金額が増えているので、今日から30円以上の価格は許さない!」
と決定するようなもんだ。
ハンバーガーは小さくしたり、肉の質を落としてしのげるかもしれない。
フライドポテトの長さを短くしたり、少なくしたり・・・
店員の数を減らして人権費を減らすことも出来るだろう。
人の命を預かる病院はそんなことは出来ないし、
診療報酬は減らしておいて、病院には、サービスの質をもっと上げろ!人を増やせ!
看護師が少ない病院は報酬もずっと少なくしてやる!
診療報酬がほしければもっと人を雇え!
と、追い討ちがかかる。
職員に支給するはずの賞与の資金はごっそり減ってしまう。
制度が変わり,病院の収入が大幅に減っていることは多くの職員が知ってはいるが、
実際の仕事の内容は,よけい大変になっている。
人を増やせば人件費はかさむ!
今期は賞与の明細を見て、目を丸くしている職員も多いに違いない。
病院の現実はそれほど厳しい。
全員がニコニコし、お土産を買って帰りたくなるくらいの賞与を払ってみたいもんだ!
支給式が終わると、各職場で職員にそれぞれの明細が配られる。
しばらくたってから、院内を歩いてみたが、外来に行っても、病棟に行っても、職員からは、
「すくな〜い」
「みんなショックを受けてますよ」とか・・・・冗談混じり?(やっぱり本音だよな〜)の声がかかる。
何も言われないところでも、なんだかいつもより視線が冷たいように感じて・・・・
「厚生労働省の役人が悪い!」などと、逆切れしそうな思いをぐっと飲み込み、
申し訳ないとの思いをもちながら・・・
その日は、なるべく職員に顔を合わせないよう、早めに家に帰った。(18年12月2日)
女たらしの悪党!
この前、テレビ朝日の関係者から電話だと言うので、何事かと思ってでてみると・・・・
ドラマの撮影に病院を使わせてくれないか・・・というものだった。
今回は、来年の1月から金曜日の午後9時に放映され、3月までの連続ドラマだそうだ。
原作は松本清張の有名な小説「悪いやつら」で、
有名な美人女優さんが主演らしい!
どんなものかわからないので、企画書を送ってもらったが、
それによれば、病院を経営する医者が出てくる。
主人公は病院の院長で、経営手腕や医者としての能力に乏しく、病院は火の車!
色事と女を騙すことが得意の女たらしの悪党で、
愛人から金を引き出すことで病院の赤字を補填し、
院長という社会的地位を気に入り、固執している・・・という、とんでもない設定だが、
自分の事言ってんじゃじゃないだろうな・・・等と考えながらも
基本的に、患者さんに迷惑がかからないのならかまわないと返事をしたら、
翌日、さっそく担当者が病院を見にきた。
撮影は5〜6回必要なようで、夜間も行うと言う。
廊下、屋上、外来待合室などを、デジカメで撮影しながら見ていったのだが、
稲垣吾郎のドラマ「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」や、フジテレビの昼のドラマ「新・冬の輪舞」でも使われた長くて暗い廊下を見て、
「いいですね〜、フジテレビさんが使ったのがわかります!」って・・・
またここかい!
せっかく改装し、きれいにした廊下には、ぜんぜん興味がなさそうだった。
一度撮影に協力すると、製作会社間で情報が流れるのかとも思ったが、
今回は舞台が横浜方面なので、担当者が本を使って、大病院でもなく、そこそこの規模の病院を探していたら、
平和病院にたどり着いたとのことだった。
今までにも何回か現場を見に来ても、結局使われないことも多かったので、
(篠原涼子の刑事ドラマは使われず、残念だったが・・・)
今回は、果たしてどうなることやら・・・・・
と、思っていたら、先日連絡があった。
「他のスタッフと相談した結果、今回は別の病院を使用することになりました。
せっかくご相談に乗っていただいたのに申し訳ありません。」
とのことで・・・・
結局、今回は平和病院は使用されない事になった。
米倉涼子が初めての看護師役とのことで注目されそうだが、
使われる病院のシーンを見てみたいものだ。(うちの病院よりきれいなのかな〜?)
(18年11月24日)
微笑疲れ!
先日「ヘルスケアレストラン」の取材が行われた。
当院の管理栄養士が他の職種のスタッフと連携をとりながら
チーム医療を通して患者さんの栄養マネージメントを行う姿を記事にするものだ。
私も院長として管理栄養士に期待すること、チーム医療に対してどのように考えているのか・・・
30分くらい取材を受けた。
取材には二人の編集者と一人のカメラマンがやってきた。
「ふだんのままの姿で」、というので、院長室の自分の椅子に座って話すことになった。
机の上や本棚が散らかっているのが少し気になったが、「顔がほとんどですから」ということで、
話をしている間にいろんな角度からバシャバシャとシャッターが切られる。
「顔がほとんど」だったら、やっぱりいい顔に写りたいのは人情というもんだ!
出たがりの血が騒ぐ!
正月に掲載された毎日新聞の顔写真は他の人が見たらそれなりなんだろうが、
自分では「もう少しましなんじゃないか」と思っていたので・・・
今回こそは・・・と、なるべく目を開いて・・・さわやかな感じで微笑んで・・・・
などと、話す内容よりも、そっちのほうばかりが気になってしまう!
もっとも、取材する側もなれたもので、私の話を聞きながら(全部がテープで録音されているのだが)
ときおり身を乗り出し、「そうなんですか〜」「すばらしいですね〜!」などといいながら目を開き、
感心したように大きな相槌をうち、メモを取る。
おだてられた本人を高い木のてっぺんまで上らせてしまうほど、乗せるのが上手だ!
「どうもありがとうございました」の声で、取材は終わってしまったが、
乗せられるままにしゃべってしまったので、後から考えても、自分が何を話したのか内容を細かく覚えていない。
まあ、記事になる前には確認のために、内容を送ってくれるということなので、大丈夫だとは思うが・・・
カメラマンと編集者が院長室から出て行った後は、妙に顔の筋肉に力を入れていたせいなのか・・・
口元が突っ張ったようになってしまい、さすがに作り笑いをしすぎたか!と、自分でもあきれてしまった。
あと1回取材があってから、11月に発売されるようだが、
はたしてどんな顔で写っているやら・・・(18年10月9日)
難関突破なるか!?
平和病院は100%鞄月ナ出資の病院であることは、病院のHPなどでご存知の方も多いと思うが・・・
それでも、「医療法人」平和会なので、「え!そうなんですか?」と驚かれる患者さんも多い。
東芝関連病院には大井町の「東芝病院」、健保組合が運営している「東芝林間病院」(以前は東芝鶴見病院があったが、
残念ながら廃院してしまった)があり、毎年、平和病院も含めて「東芝医療責任者会議」が開催される。
医療部分を担当するHASという会社関係、本社、健保組合の幹部職員、各病院の院長、看護部長、事務長などが集まり、
東芝の事業所、工場などの現場を見学し、その後会議がおこなわれ、健保の状況、各病院の収支報告、今後の方針などが発表される。
今年は「東芝松下ディスプレイテクノロジー株式会社」の石川工場、「加賀東芝エレクトロニクス株式会社」にお邪魔した。
ふだん働いている病院とは、まったく別の世界を見ると、新鮮な感じがする。
ところで、今までいくつもの工場にお邪魔したが・・・
今回の加賀東芝ほど職員の「挨拶」が、徹底されているのは見たことが無かった!
平和病院でも「挨拶」の大切さを強調し、職員たちにも指導し、実際患者さんやご家族の方にも、お褒めの言葉をいただくことが多いが・・・
自分が見ても、加賀東芝の職員の皆さんにはとてもかなわない。
すれ違う職員の全員が声を出し、礼をして通り過ぎていく!
なんだか、こちらもさわやかな気分になってくる!
廊下には改善すべき事項、改善結果などが明確に掲示されており、病院でも参考になることが多く、
肝心の製品の説明より、そちらのほうばかりが気になってしまった。
その後の会議では東芝病院、東芝林間病院の運営状況が各院長から報告されたが、
やはり今回の診療報酬改訂の影響はどこの病院でも大きく、苦しい運営が続いている。
ただ、平和病院だけは他の二つの病院と違い、独立採算であるので、年度初めに予算がリセットされることが無い!
出した赤字は、当然次の年も引きずらなくてはならない。
出席していた本社の役員の方から、今後の病院の方向性を前向きに検討することが明言されたので、
先に少しの明かりが見えたような気もしたが・・・
やはり「おまかせ」では事は進まない!
自分たちが将来の病院で何をやりたいのか、どういう病院にしたいのか(それにはいくらかかるかは別にして)を
明確にしていかなくてはならない。
無事に会議は終わったが、加賀まで来ていると、例年のようにその日のうちに帰れる場所ではない。
このため、その日は東芝健保の加賀保養所に泊まり、翌日は飛行機の時間まで観光をすることになった。
時間もあまり無いので、そんなにたくさんの場所は回れなかったが・・・
高野山真言宗別格本山「那谷寺」
加賀伝統工芸村「ゆのくにの森」
弁慶、義経の勧進帳で有名な「安宅関」を訪れることが出来た。
安宅関は、義経一行が平泉に落ちのびるとき、頼朝の命令によって作られた関所で、
歌舞伎で有名な勧進帳に見られるように、義経一行が絶体絶命の危機を乗り越えた場所のため、
現在、その場所にある安宅住吉神社には当時の模様を表す絵馬などが飾られており、
巫女さんが、弁慶の読み上げた台詞などを名調子で説明をしてくれる。
説明の途中でジェット機のものすごい音がしたが、翌日に自衛隊の航空ショーがおこなわれるらしく、
近くに小松基地があることが実感された。
帰りがけに見ると、どんな難関も突破できるという、「難関突破」のお守りやお札が売られている。
安産とか交通安全とか、学業成就とか、別々でなく、ただ「難関突破」という、何でもござれの単刀直入な所がすごく新鮮だ!
いま、病院の経営は、頼朝に追われ(さしずめ頼朝は、厚生労働省か・・・)落ちのびていく義経のような、絶体絶命のピンチにある。
東芝病院も、林間病院も、何とかこの危機を乗り越えるためにと、ありがたいお札を手に入れていた!
果たしてご利益は・・・・
看護部長から、「平和病院の分はいただかなくてもいいんですか?」といわれたのだが・・・・・
もちろん平和病院も絶体絶命の難関にさしかかってはいるけれど、
目下の我が家の最大の難関は来年の娘の大学受験だ!
最近の模擬テストの状況は、弁慶と義経どころではないほどの極めて厳しい状況にあり・・・・
病院のピンチは自分たちで何とかしなければならないが(もちろん神様が味方してくれれば助かるのだが・・・)、
娘の受験ばかりは、自分ではどうしようもない。
今年の息子の受験で厳しい思いをしているだけに、来年のことは、もはや神に頼るしかない!
鮭の携帯ストラップでは役に立たない!
平和病院のためではなく、、娘のために「難関突破お守り」を手に入れた。
それでもやはり、平和病院はもちろんのこと、東芝関連の各病院が難関を突破することを祈り、
その数倍も娘が難関を突破するよう頭を下げてきたのだが・・・・
後で考えると、お賽銭を入れるのを忘れたような気がする・・・!
だ、だ、大丈夫だろうか?
あせってみても後の祭り、バスはすでに小松空港に到着し、飛行機は羽田へと飛び出した。
家に帰って、勧進帳の場面の薀蓄をたれ、娘にお守りを渡したが、はたして難関突破なるか!?(18年9月17日)
取材依頼
先日、日本医療企画社から電話があった。
「ヘルスケアレストラン」の編集部の担当からで、今度その本で「術前・術後の栄養管理」の特集をおこない、
その時に使う手術のイメージ写真に平和病院のものを使わせてくれないか・・・との依頼だった。
日本医療企画から発売されている「ホスピタウン」という雑誌に以前、平和病院が紹介されたことがあり、
その時に使用した写真のようだ。
どんな写真だったかと、見てみると・・・
3年前のもので、私を含めたスタッフしか顔は認識できず、患者さんは写っていない。
特に問題もないようなので(出たがりの血も騒いで・・・?)OKした。
「ヘルスケアレストラン」という雑誌をよく知らなかったので、
どんな本なのか聞いてみると、
医療、福祉、保健、介護の栄養と食事サービスを考えることをコンセプトに作られている、
主に、栄養士、管理栄養士さん向けの雑誌のようだった。
各施設の栄養士の取り組みなども紹介されているという。
このコーナーの「地域連携プロジェクト」のところにも書いたが、
いま、平和病院では栄養管理、栄養サポートに力をいれ、4人の管理栄養士が各職種と協働して取り組みをおこなっている。
話のついでに、その担当者に当院での取り組みを話すと・・・・
ちょうど「栄養士とチーム医療」というコーナーがあり、ぜひ取材をさせてほしいということになった。
先週、正式な取材の依頼、企画書が届いた。
11月に発売される号で、カラー3ページだそうだ。
取材は来月おこなわれる。
一生懸命仕事に取り組んでいる管理栄養士にとって、記事になることは、励みにもなる!
いい顔で写りたいものだ・・・て、管理栄養士が主役だから、院長は関係ないのかな?(18年9月10日)
地域連携プロジェクト
先日「地域連携プロジェクト」が開催された。
平和病院が代表世話人になっている、患者さんに対しての栄養サポートをテーマにした連携会議だ。
比較的最近になって、患者さんに対しての栄養管理の重要性が認識されるようになり、
当院でも栄養サポートチーム(NST)が結成された。
いままで「食事」はおいしいか、まずいか・・・という点が主な問題となり、
治療に関しての関与は重要視されていなかった。
栄養士は、いかに材料を安く仕入れ、献立を工夫し、患者さんに、いかに効率よく配膳するか・・・
などを一生懸命考えていた。
看護師は患者さんの食事量をチェックし、何割摂取したかを看護記録に記載し、
医師はそれを見て、点滴を調節した。
ところが、最近、患者さんの栄養状態を把握し、摂食、嚥下の状況を理解し、それにあった食事の形態、内容、量を調節し、
嚥下の機能を訓練していくことで、患者さんの状況が改善し、「食べる」ことの機能の回復が見られることが認識されるようになり、
介護報酬、診療報酬にも、この栄養サポートに対しての評価がつけられた。
いままであまり栄養に関して関心のなかった施設でも、この動きに後押しされ、
栄養に関しての取り組みを真剣におこなう様になってきた。
極悪非道といわれる診療報酬改定の唯一の救いだ!
しかし、まだまだNSTの活動は試行錯誤の状態のところがほとんどだ。
平和病院は比較的早くから栄養管理の重要性を認識し、
管理栄養士を4人に増員した。
150床の病院で管理栄養士が4人活動している施設はあまり無い。
増員に際しては、平和病院が栄養管理、NST活動に関し、他の病院の先駆けとなれる様、
さらに地域に対し広く情報発信が出来るよう全面的にバックアップするので、自由に活動してほしいことを伝えた。
その後、看護部長、管理栄養士が中心になり、鶴見地区周辺病院に声をかけ、
地域連携プロジェクトが結成された。
8月末の会合には、日本歯科大の口腔介護・リハビリセンター長の菊谷武先生をお招きしての公演、
平和病院栄養課から「ソフト食」の試みが発表された。試食体験もあったりして、退屈せずに時間が過ぎた。
私自身はこの会合の報告は毎回受けていたが、実際に参加したのは今回が初めてだったのだが・・・
参加者は50人近くにも達しており、参加施設もかなりの広がりをみせている。
正直言って、ここまでになっているとは思ってもいなかったので、いい意味で驚かされた。
平和病院のスタッフはもちろんのこと、参加各施設のスタッフの皆さんには頭の下がる思いだったし、
わが職員のことを、ずいぶん頼もしく思えたことも喜びだった。
会合が終わった後、キリンビアビレッジでの懇親会も開催され、こちらにも参加した。
いろいろな施設の看護師さん、DR、栄養士さんなどと話が出来、
院内の宴会とは違った感じも新鮮だった。
もっとも、「平和病院の院長」という、ややよそ行きのキャラになっていたのと、
自分の病院の職員ばかりでないぶん、いつもよりくつろいだ部分とが半々だったような気がする。
(外科の外来にいると、「素」の姿が出てしまうらしく、スタッフからは、新入職員への挨拶などのとき、
「いつもの感じとぜ〜んぜん違う!」「よそ行きモード」などと言われてしまう。
自分ではあまり意識していないのだが・・・)
それはともかく・・・
今後もこの会は、大いに発展してもらいたいし、将来は、地域の先生方、患者さん、それを支えるご家族の方にも
「公開講座」として情報発信が出来るようにまで育っていってほしいと思った。(平成18年8月31日)
聴診器より計算機
7月から診療報酬の改定の大きな目玉、「療養病床の機能分化」の名のもとに、
医療療養病床の入院患者さんに対しての保険請求点数が大幅に変わった。
「社会的入院」や「医療の必要性の低い患者さん」を入院させている場合、
病院の収入が大幅に減り、運営が非常に厳しくなるような誘導がおこなわれた。
今までと同じスタッフが、同じ患者さんに同じケアをおこなっていても、
病院の収益は1日にして大幅な減少になってしまった。
ちょっとやそっとの額ではない!病院全員の職員の1回分の賞与額などは軽く吹っ飛んでしまう!
療養病棟を抱えている病院はパニック状態になり、さまざまな対応を急ぎ始めた。
「病院」としての許可病少数を捨て、介護保険施設に転換をはかるもの。
病床を閉鎖してしまうもの・・・
厚生労働省の誘導は着々と実現されていく。
いわゆる「医療の必要性」を判断する「医療区分」の基準はかなり厳しく、
こんな患者さんが、本当に「療養」の状態なのか?と思われるほどだ。
しかも、療養病床は、一般病床に比べ、看護師の配置基準は少ないので、重症の患者さんが入院した場合、
看護師の負担はかなり重くなってくる。
医療事故を起こさぬよう、看護師の肉体的、精神的負担は極限に達している。
実際、平和病院の療養病床看護師も悲鳴を上げている!
当然、病院は基準以上に看護師の配備を厚くせざるを得ず、
その人件費はますます病院経営を圧迫する。
しかも、さらに悪いことには、周辺のどの病院も看護師が不足している!
募集をかけても反応はほとんど無い。
看護師さんたちはいったいどこに行っちゃったんだろう?
厚生労働省が「医療療養病床」に入院する必要が無い!と、判断する「医療区分1」の患者さんは
どこの病院でもまだまだ多い。
今、そんな患者さんが、多くの病院から退院をせまられている。
残念ながら、平和病院においても、「医療区分1」の患者さんが多ければ多いほど
傷はどんどん深くなり、厚生労働省の思惑通りに、療養病床を減らさざるを得なくなる。
平和病院には介護療養型医療施設があるので、「医療区分」の低い患者さんは今のところ介護保険の病棟で対応しているが・・・
その病床も、2011年までには、なくなることが決定している。
いつまでも介護保険病床をもち続けることは出来ない!
「医療区分1」の患者さんには介護施設、有料老人ホームなどへの申し込みをお願いしなくてはならない。
また、在宅部門を総動員して、ご自宅への復帰をサポートしてはいるが・・・
なかなかご家族の受け入れは困難なケースが多い。
平和病院は地域の中で医療、介護を必要とする方々のために存在している。
何とか行き場の無い高齢者を生まないように考えてはいるが・・・・
他の病院では既に医療区分2・3」の患者さんの「抱え込み」、
「医療区分1」の患者さんの「紹介退院」、「在宅復帰」に名を借りた「追い出し」が始まっている。
残念ながら、今と同じ病床構成、患者さん構成では、病院は全く運営出来なくなってしまった。
そんな中、平和病院では今、介護療養病棟を医療療養病棟に、医療療養病棟を一般病棟に変更しようとしている。
しかし、療養病棟を一般病棟にするには多くの看護師を新たに採用しなければならない。
現存のスタッフで、配置転換を行い、集中配備をおこなって対処しようとすれば、
一時的に入院患者さんの数を減らす必要がある。
厚生労働省の誘導に従い、療養病床を閉鎖し、老健施設に転換し、規模を縮小し、
細々と生き続ける道を選べば、そのほうが楽なのかもしれない。
療養病床を一般病床に転換した場合、現存の看護師を集中配備し、何人まで患者さんに入院していただけるか?
どうすれば看護師を確保できるのか・・・
これでもか!と踏みつけられるような圧迫から病院を守ることが出来るのか・・・
何人の患者さんに他の介護施設に移っていただいたり、在宅へ移行していただかなくてはならないのか・・・・
病院の運営状況はどうなるのか?
最近は聴診器を持つ時間より、計算機をたたく時間のほうが多くなってしまっているような気がする!
おそらく来月以降、多くの患者さんに、病床の移動、在宅への復帰をお願いしなくてはならなくなるだろう。
近隣の新たな介護施設の整備は十分とはいえない!
厚生労働省は行き場の無い高齢者をどうするつもりなのだろう?
それとも私の病院運営手腕が足りないのか・・・
崖っぷちの攻防の中、奇跡の大逆転満塁さよならホームラン、土俵際のうっちゃりは起きるのか!
多くの職員に支えられながら、院長としてのアドレナリン大放出は続く!(18年8月22日)
メンバーシップドクター
平和病院は地域に根ざした病院ですが、
周辺には多くの診療所の先生方が、日常の診療をなさっておられ、
ご自分たちのかかりつけの患者さんの状態が悪くなり、
入院が必要になった場合や、専門外の検査や治療が必要な場合、
その患者さんたちを平和病院に紹介してくださいます。
私たちは、検査をし、ベッドを提供して治療をし、
状態の改善を待って、その患者さんを、紹介してくださった先生にお返しして、
その後の治療継続をしていただきます。
このように、いまや単独で地域の患者さんを支えていくことは不可能であり、
病院と診療所との「病診連携」はますます重要になっていきます。
ご紹介いただいた患者さんが入院した場合、
診療所の先生が病院に顔を出してくださり、患者さんの病室を訪れてくださると、
患者さんはいつもお世話になっている先生の顔を見ることで、大きな安心感を得ることが出来るのを目にします。
また、診療所の先生が、平和病院の診療機器を利用し、かかりつけの患者さんを
当院のスタッフとともに治療行うケースも見られるようになりました。。
このため、ただ患者さんの紹介を受け、治療するだけでなく、
いままでより一歩進んだ形での病診連携を構築し、地域の医療機関が協力して
患者さんを支えていくため「メンバーシップドクター」制度を考案しました。
周辺の診療所の先生方に、「メンバーシップドクター」として登録をしていただいた場合、
その先生方が平和病院の担当医師と、診療方針について意見の交換をしたり、
カルテを閲覧、記載していただくなどが可能になり、
協働による治療を行うことを可能にしました。
先日、周辺の先生方にご案内をさせていただいたところ、
思っていた以上に、多くの先生方にご賛同いただき、登録いただいており、
連携による地域医療の大切さを改めて感じています。
ご登録いただいた先生方は「協力連携医療機関」として院内に掲示、また病院のホームページにも掲載させていただき、
連携を行う「メンバー」として、ともに地域医療を担っていきたいと思います。
平和病院はこれからも、ますます地域の診療所の先生方との協調、連携を大切にしていきます!(18年7月2日)
「負け組」?
診療報酬を担保にして違法な金利で医療法人に貸付をしたとして、
出資法違反容疑で貸金業の社長が逮捕された。
全国で78もの医療機関に貸付が行われ、そのうちの55の医療機関が廃業に追い込まれた。
国の医療費抑制政策により、長期の入院患者さんをかかえる病院などが、
資金繰りに困り果て、高金利の貸付に手を出してしまったようだ。
銀行は経営状態の悪くなった医療機関を見放すようになってきている。
いまや、民間病院の四分の一は赤字経営だといわれている。
それでも・・・
これでもか!というほど診療報酬はどんどん削減されていく。
病院は、国が設置したはしごを、ひたすら上らされたあげく、
はしごをはずされ、しかも下から火を放たれるような状態だ!
「専門家」のもっともらしいコメントが新聞に載っている。
「医療機関の経営を維持するには、診療報酬の動向や、患者さんのニーズに合わせ、
サービスの内容を絶えず見直す必要があり、それに乗り遅れた医療機関の経営はさらに厳しくなるでしょう・・」
とのことだ。
医療費の政策的な配分を背景に、経営難に陥る病院と、収益を伸ばす病院の二分化が進み、
経営難に陥る病院は「負け組」呼ばわりされる!
しかし・・・・
本当にそうなんだろうか?
どの病院だって経営努力はしている。
それら全ての病院が診療報酬で優遇される患者さんだけを扱っていたらどうなるんだ?
診療報酬から見放された、行き場のないお年寄りや、
基幹病院が「もう当院では治療の対象ではなくなった」と、退院をせまられた患者さんたちの受け入れ先は、
厳しい診療報酬改定の中であえいでいる中小病院なのだ。
大病院は「連携」、「機能分化」の名のもとに、そういった患者さんを押し付けてくる。
長期の入院患者さんの収益性がまったく無くなった(厚生労働省の誘導によって)今、
地域に根ざした病院はそんな患者さんたちを、その地域の人達のためにお役に立ちたいとの思いで
苦しみながら受け入れているのだ!
そんなことはお構いなしに、「社会的入院の根絶」を目指し、締め付けはますます厳しくなっていく。
かといって・・・
そんな人達を受け入れる施設の整備はまったく整っていく気配が無い。
少しひどすぎないか?!
「負け組」呼ばわりにあまんじても、地域のためにと健闘している病院を、
これ以上締め付けてどうするつもりなんだろう・・・
平和病院にも「診療報酬を担保に資金を援助します!」といったダイレクトメールやFAXが
多く送られるようになった。
弱った動物を見つけると「はげたか」は鋭くかぎつけてその上空を舞い始めるという。
「ハイエナ」はよだれをたらしながら、遠まきにうろつくようになる。
あわれ、平和病院はもはや死にかけた獲物なのか!
でぇ〜〜い!そうはいくか!
確かに職員には高い給料やボーナスは払える環境ではないけれど・・・・
頭と体をフル回転させて生き延びていくことを考えてやる!
はたして、平和病院の運命は・・・!(平成18年6月14日)
理事長再任
今日、第60回平和会の社員総会が行われ、平成17年度、第55期会計年度における事業概況報告、
経常収支等が承認され、引き続き行われた理事会において、
私が今後2年間、継続して理事長を勤めることが決まった。
今回で4期目となる。
いつの間にか初代理事長の安孫子先生についで2番目に長く理事長を務めさせてもらうことになった。
院長になり丸6年が経過した。
この6年の間、自分なりに病院をいい方向に変えていこうと、職員の協力を得ながらがんばってきたつもりだ。
前回、2年前に理事長に推挙されたのも6月だった。
その2週間くらいあとには、自分で手術を受けることが決まっていたので・・・
理事長を継続して引き受ける事に不安があったことも事実だ。
退院し、現場に復帰した後は、遅れをとりもどそうと、自分でもかなり無理をした。
あせりもあったのだろうが、さすがに半年くらい後になってから、肉体的にも精神的にもかなりきつくなった。
意欲も空回りし、やろうと思うことがやり切れずに、たまるようになって来た。おまけに胸にも水がたまった。
医療機能評価を受審したころ、自分にも職員の間にも緊張感があった。
はりつめたパワーが感じられた。
1年位前、いつのまにかそんな空気が緩んでいるような気がした。
たぶん、理事長として先頭を走らなくてはならない自分のパワーが落ちていたせいだと思い、
責任を感じた。
責任は感じたが、前になかなか進めない自分がいた。
最近、体力が戻るにつれ、気力がまた盛り返してきた。
たぶん、診療報酬改定、介護報酬改定で、病院がどうにもならないところまで追い詰められたからかもしれない。
ここで舵取りを誤れば、60年も続いた平和病院の歴史に、
自分が理事長、院長の時代に終止符を打たなくてはならなくなる可能性もあるのだ。
この病院は、地域の皆さんに長い間信頼され、利用していただいてきた病院だ。
今までの形態にとらわれず、存亡をかけた改革をしなくてはならない。
今回の任期の2年間、病院は今までにないようなスピードで変わらなければならない。
責任は重大だ。
総会が終わった後、懇親会が行われた。
東芝の理事、監事の皆さん、平和会の各部門の責任者が集まった。
病院の部門責任者が一人ずつ挨拶で話すことになった。
誰もが患者さんへの思い、病院の運営適正化について話をしてくれた。
みんな・・・ちゃんと考えてくれている。
いつもは改めて聞けない言葉の中に、職員の思いが伝わってきた。
なんだ・・・結構いけるじゃないか!
この職員がいれば、大丈夫!
そんなことを感じさせてくれる言葉が続いた。
確かに今は病院にとって厳しい時代だ。
でも、自分にはこんなに熱い思いを持った職員がいてくれる。
この職員たちがいればやれる。
この職員たちのためにも、自分はもっとがんばらなくてはいけない!
今日は職員たちに元気をもらった。
明日は新しい任期の初日、大きく息を吸って病院に出かけることにしよう!(平成18年6月5日)
反対署名始まる!
この4月から行われた診療報酬改定の大きなポイントの一つとして、
「リハビリの日数制限設定」が行われるようになった。
脳血管障害は180日、骨折などは150日、呼吸器疾患は90日と設定された背景には、
効果のないリハビリが漫然と行われており、医療費のムダになっている!
というのが本当のところなのだが・・・
どこかのもっともらしい統計が根拠になっており、リハビリが必要な状態になってから半年程度経過してしまえば
その効果は見られなくなるというのだ。
「リハビリ患者の多くは、医療上の必要というより日課の感覚で通っているのに過ぎない!」
と、厚生労働省の幹部が話しているという・・・
上限期限を過ぎれば医療保険からはリハビリの費用が支給されなくなる。
確かに、リハビリによってどんどんよくなる時期は限られているかもしれないが・・・
それ以上機能を落とさないためのリハビリはどうなるのだろう??
リハビリをやめたら寝たきりの状態になってしまわないのか・・・
東京大学名誉教授の多田富雄先生は、4年前に脳梗塞になり、重度の右半身麻痺になった。
言語障害もあり、嚥下障害もあり、左手でパソコンを操作して文筆活動を行っているが、
「私はリハビリを早期に再開したので今も少しずつ運動機能は回復している。
私と同様に慢性期、維持期の患者でも、リハビリに精を出している人は少なくない。
それ以上機能が低下しないよう、不自由な体に鞭打って苦しい訓練に汗を流しているのだ。
そういう人たちがリハビリを拒否されたら、すぐに廃人になることは火を見るより明らかである。
今回の改訂は障害が180日で回復しなかったら死ねというのも同じことである」
と「オピニオン」誌で述べている。
この多田先生を中心とした人達が「呼びかけ人」となり、「リハビリ診療報酬改定を考える会」が
リハビリ打ち切り改定への反対署名運動を始めた。
「全てのリハビリテーション対象者にリハビリテーションの継続と機会を求める請願署名」だ。
平和病院では、この趣旨に賛同し、署名運動に積極的に参加しようと思っている。
6月末までに10万人の署名を目指している!
当院のリハビリをご利用の皆さんも、ぜひ参加していただきたい。(5月16日)
創立60周年の日
4月25日は平和病院の創立記念日で、60周年の節目の年だった。
前日の24日には恒例の永年勤続表彰が行われた。
5年ごとに表彰の対象になり、今年は栄養課職員が25年勤続となり、
私と外科の下田も15年の勤続表彰対象者になった。
各部署の管理者と、対象者が集まり該当者に賞状と記念品を授与する。
「あなたは、勤続○○年、よく職務に精励され・・・」と全員の賞状を読み上げる。
さすがに自分の時には自分で読んで自分でもらうのも変なので、
そのまま賞状と記念品を脇に置いたが、参加者から拍手をいただいた!
その後は恒例の「理事長挨拶」がある。
もう理事長、院長になってこの6月で満6年になる。
いつの間にか在任期間は初代安孫子院長についで2番目になってしまったが・・・
立場上、何かにつけて挨拶をさせられる。
年頭挨拶、新人歓迎、創立記念日、社員総会、忘年会・・・・
毎年同じような行事があるので、いい加減慣れても良いと思うのだが・・・・
あいかわらず、どうも挨拶での話は苦手だ!
文章を書くのはあまり気にならないのだが・・・
挨拶をさせられて、話そうと思っていたことを、すべて要領よく伝えられたためしがない!
それはともかくとして・・・
今までは10年ごとの節目の年には、必ず記念誌を発行していた。
「30年の歩み」、「40年のあゆみ」、「50年のあゆみ」と題して、
理事長の挨拶、理事さんたちや職員のの思い出話などとともに、
その当時の写真や各年の出来事が年表形式で書かれている。
「60年のあゆみ」も作成しようとは思っていたのだが、
残念ながら、今のところ企画を実現させることが出来ず、責任を感じている。
それでも、この10年はずいぶん病院が変わった時期でもあり、せめて年表でも・・・と思い、自分なりにまとめてはじめたところだ。
少し遅れてもいいので、何らかの形のものは残したいとは思っている。
そんなわけで、それぞれの冊子を読み返し、平和病院の歴史をたどってみたが・・・
初代院長の安孫子先生が、私の着任する1年前になくなったことなど、
今まであまり意識していなかったことをいくつも知ることが出来た。
昔の出来事を読み返してみると、昭和50年代の平和病院は最先端の医療をいち早く取り入れ、
胃X線検査の草分けとも言うべき白壁先生(後に順天堂大学の教授になられた)が来院されて
撮影、読影の指導に当たられたり、
東大の先生方が8名も来院し、人工腎臓による急性腎不全治療を行ったり・・・
神奈川県で初めて人工透析を開始したり・・・
東大、昭和大、東京女子医大、横浜市大等の教授が6人も同時に平和病院に来院し、
病院幹部と懇親会をするなど・・・
今ではとても考えられないようなことが行われていた。
これも初代院長の実力、人格のなせる業だと思われ・・・
一方・・・今の自分はどうなのかと思えば・・・
病院の運営もままならず、安孫子先生の業績の足元にも及ばず、
大いに反省させられる1日になってしまった。
先日、このコーナーで、古い病院のパンフレットのことを書いたが・・・
昔の平和病院は、今よりもっと「最先端医療を行う第一線の」病院だったようだ
病院の所在を示す地図が、鶴見駅からではなく、ずっと遠い所から描かれているように、
対象患者さんも、今より広い範囲から来院されていたのかもしれない。
休診となった創立記念日の午後、そんな思いを抱きながらも
久しぶりに早く帰るかな・・・と思ってはいたが、
ターミナルの在宅患者さんのことが気になり、外来が終わった後往診に出かけ、
帰ってきたら、休診をご存じなかった患者さんにばったりあったので、
そのまま診療をし、それが終わったと思ったとたん、
ご近所の方が、ご家族のお見舞いにいらした帰りに、リハビリ室の前で転倒しているのが発見され、
急いで外来に運びこみ、処置を行ったあと入院となり・・・病室で指示を出し、
やれやれと思ったら、「まき爪」の患者さんが2ヶ月ぶりに来院された。
インターネットで当院の「まき爪」治療を知って通院される患者さんは、かなり遠くから来院される方もあり、
わざわざ来てくださったのに「休診ですので」と帰すわけにもいかず、結局診察することになり・・・
終わってみたら、もう4時半をとっくに回ってしまっていた!
まあ、これも自分なりの「創立記念日」なのだろう。
この4月の診療報酬、介護報酬の改定で、病院は甚大な打撃をこうむることが決定的になった。
この節目の年、自分は長い歴史を途切れさせることなく、病院を荒波から守りきれるのだろうか・・・
こんな時こそ基本を見直し、その土台を強固にしていくことが大切なのだが・・・
もっと時間がほしい、もっと頭がほしい、もっと手足がほしい!(5月1日)
500分の1
病院のホームページには皆さんからのご意見やお尋ねなどをお受けするために
病院のメールアドレスが載っている。
heiwa-hosp@heiwakai.com が、そのアドレスだ。
最近、私が日に何回かチェックをして、なるべく迅速にお尋ねなどに対してレスポンスできるようにしているのだが・・・
だいたい、日に30〜40件以上のメールが届く。
ところが、なんと、そのほとんどがアダルト系の勧誘メールだ!!
送信者が個人名のもので、「重大なお知らせです」、「返信遅くなりました」
「先日は失礼しました」などはまだましなほうで・・・
春奈やら、綾香やらの女性の名前で
「ずっとまってるのに・・・」「もうあきらめなきゃだめなのかな・・・」
「これで最後にするから・・」「今から会えますか?」「あれからずっと考えて・・・」「やっぱり忘れられない」・・・などなど
病院のメールアドレスだというのに、こいつらいったい何考えてんだ!というようなメールばかりだ。
題名だけつなげるとストーリーが出来そうで・・・
個人宛のメールなら思わず開けてしまいそうだ!
あけたら最後なので、片っ端から消去するのだが、
月曜日の朝などは、土曜、日曜日の分がたまっているので、どうかすると100件以上届いていることがある。
ただ、その中にまぎれて、本当にお問い合わせのメールがあるので、それを読まずに消去してしまわないよう、
題名をいちいちチェックしなければならない。
これが結構めんどくさい!
ボランティアの申し込みなどのメールをいただくこともあり、細心の注意を払って、怪しげなメールを削除していく。
本来のメールは500件に1件あるかないかで、ひょっとすると、もっと確立は低いかもしれない!
医者はよっぽどスケベだと思われているのか?
ただ、メールアドレスを閉鎖するわけにもいかず・・・
今日もむなしくHメールの題名を読み続けている。(18年4月18日)
古いパンフレット
現在、一般病棟の一部が改装工事の真っ只中にあり、
名誉院長室も新しい部屋に引っ越した。
自分の場合もそうだが。ただ、移動するだけといっても、
20年前の医学雑誌とか、長く読まないままの本とかが気になり、結局大量の処分になってしまうのだが・・・
名誉院長室の処分品の中から、ずいぶん前の病院パンフレットが出てきた。
現在も非常勤で勤務してくださっている柴田先生が院長の時のもので、
今まで、このパンフレットは一度も見たことがなかった。
私が平和病院に赴任したときから長い間、病院のパンフレットは基本的に同じデザインで、
院長の写真が変わるだけで、本格的に直したのは、私が院長になってからだった。
出てきたパンフレットは長い間使われてきたものの前に作ったものらしい。
基本的に、創設者で、当時も理事長を勤められていた安孫子連四郎先生と、
院長の柴田先生のメッセージが顔写真と一緒に載せられている以外は、ほとんどが写真で構成されており、
後に院長になった伊藤先生(私が赴任してきたときに院長だった)の診療風景、
待合室、手術室、透析室、受付・・・
今はなくなってしまった中庭など、懐かしい!
裏表紙には平和病院の地図が描いてあるのだが・・・・現在のパンフレットが鶴見駅からの詳しい地図なのに対し、
なんと、山手線、中央線、京浜東北線、東急東横線などの線が白く描かれ、
駅の名前は東京、新宿、渋谷、横浜、綱島、品川、そして鶴見だけが書かれている。
その真ん中で黒い丸が描かれ、「平和病院」とポツンと書いてある。
めちゃくちゃアバウトだが・・・
考えようによっては、昔はこんな遠くから患者さんが来たんだろうか・・・とも思ってしまう。
開いてみると、大きな字で「こころは最良の薬である」と書かれている。
いいじゃないか!
単純だが、今の基本理念にもつながる言葉で、どこかで使ってみたくなる。
次のページにも「先進の医学、最新の設備、あたたかいこころ」とある。
「心」でなく「こころ」と、ひらがなになると柔らかな感じが伝わってくる。
安孫子先生のメッセージには・・・
「私たちの病院は、東京近郊、総持寺の広大な境内のうっそうとした森を眼前に、
鶴見の高台に位置し、大都会の混雑から離れた閑静な住宅街にあります。
耐震耐火の鉄筋コンクリート3階建ての近代設備と高度な医療サービスを提供し、
人の和を基調とし、生命の尊厳に奉仕する横浜屈指の病院であります。
私たちの地域社会に奉仕する姿は、ますますその声価を高め、
看護婦さんの献身的な看護サービスは患者さんの感謝に包まれています。
患者さんと、病院側の心の通いが、この病院お特徴と申せましょう。
現代のとげとげしい世相の中にあって、私たちはひたすら生命の尊厳を追求し、
人類愛に徹した医療サービスを念願し続けています。
平和病院という名前は、
敗戦直後の貧困と疾病の二重の悲惨さをやわらげたいと云う、善意の人々の熱意によって名付けられました」
と書かれてあった。
現在、病院は診療報酬、介護報酬の改定の荒波に巻き込まれ、存亡の危機を迎えている。
そんな中、今は亡き安孫子先生に励まされたようでもあり、
創立60年目を迎える今も、そして今後もずっと、安孫子先生の思いを変わることなく引き継いでいくことが、
今の我々職員に課せられた使命であると、あらためて心引き締まる思いがした。(18年3月17日)
現在、一般病棟では、かなり大掛かりな改装工事がおこなわれています。
患者さんが入院したまま、また外来も通常通りのままでの工事のため、
騒音などでご迷惑をおかけしたり、使用可能な部屋が制限されたりで、かなり大変ですが、
先日、一期工事の応接室、小会議室、名誉院長室、理事長室の工事が終了しました。
工事期間中は私も病室に移っており、毎日出勤すると病室入り、「入院中」のような状態でしたが、
昨日ようやく新しい部屋に入ることができました。
今までの部屋は、ずっと以前から理事長室として使われていましたが、
会議室と隣りあわせで、しかも仕切りがアコーデオンカーテンだけだったので
隣の会議室が使用されていると、声もつつぬけで、どうしても落ち着かず・・・
また、ボランティアの人たちの控え室、休憩室にも使用されるので、
土曜日はそこで練習が始まり、ギターアンサンブル、合唱、民謡・・・
ダンスなども踊られ、まるでライブハウス状態でしたが・・・
アコーデオンカーテンがこちら側に大きく動いたりして・・・
別に悪いことをしているわけでもないのに、音を立てないように動いたり、
とても落ち着いて仕事をする雰囲気ではありませんでした。
職員数も多くなり、集まって会議をするには会議室は手狭で、
各部署が集まる会議のときは、アコーデオンカーテンは大きく開かれ、
院長室まで人があふれる状態でした。
今回は会議室のスペースを広げる目的があったため、
院長室はかなり狭くなり、今までおいてあった会議机は入りきらなくなってしまい、
急遽、カウンターのような机と折りたたみ椅子を購入して、間に合わせるしかなくなってしまいました。
それでも、自分で選んだ壁紙とフロアの色なので、気に入らないわけがなく、
蛍光灯を増やしたので、部屋の雰囲気はずいぶん明るくなりました。
改装中にはカタログを見たり、ホームセンターなどに行ったりして、
新しい部屋にふさわしい書棚や机や椅子をみたりしていたものの・・・
やはり素敵なものは高い!!!
病院の経営状況はこの4月におこなわれる診療報酬、介護報酬の同時改定の影響で、
かなり悪化することが予想されており・・・
そんなさなかに、院長室に高価な書棚など入れられるわけはなく・・・
机も椅子も変わらず、ただ、いままであった、鶴見病院からのお下がりの書棚は、さすがに処分したので、
新しい事務用キャビネットがひとつだけ運び込まれました。
かなり狭くはなったものの、ようやく完全に独立した空間になったので、
以前よりずっと落ち着けるような感じはします。
ただ・・・ドアに関しては、以前がかなり重厚な木製のドアだったのに対し、
今度は「病室仕様」の引き戸になり、しかも中央が曇りガラス様なので、
外に移る人影が結構気になりますが・・・
とにかく新院長室!
来週からは2期工事が始まり、最終的な完成までには5月いっぱいかかりそうです。
以前の院長室で時々見かけたヤモリが、無事どこかに避難して生き延びていることを祈っています。
(18年3月3日)
ほんとに小沢真珠だったの??
先日、フジテレビからファックスが届いた。
「先日撮影にご協力いただいた新・風のロンド、平和病院でのシーンの放映は20日(月)、21日(火)に決まりました。
ぜひご覧ください」
というものだった。
物語の内容は番組のホームページに毎回掲載されているが・・・
「昼メロ」のパターンにふさわしく、愛憎入り乱れ、ぐちゃぐちゃの状態になっているようだ。
現在、主人公の小沢真珠は「愛を貫くため」、恋人とともに炎の中へ身を投げ、死んでしまっており、出演していない。
今は、娘と、恋人の息子(いとこ同士)が「運命の糸に導かれ」恋愛関係になり、
ついには妊娠してしまうところまで話が進んでいる。
平和病院でのシーンまであと数回しか残されていないが、
婦人科の診察室が使用されたのは、子供を無理やり中絶させられてしまうシーンだったようだし・・・
そう考えると、あの診察台に乗っていたのは、ひょっとして小沢真珠じゃなくて、娘役の藤澤志帆なんじゃないの???
確かに新保悟志や田中美奈子は来ていたけど、
どうもテレビで見ている小沢真珠とは顔が違うような気がして
撮影当日も、出勤していた施設課の主任や事務当直の職員と「小沢真珠ってあんな顔だったっけ」などと話し合っていた。
事務長はあらすじの書いてあるホームページをプリントアウトし、
「ぜったい真珠に間違いないですよ!」と言うんだけど・・・
どうも違うよなあ〜
まあ、いずれにしても来週はちょっと見てみることにしよう!
ところで、
この撮影が終わってしばらくたったころ、
またテレビ局から撮影の依頼があった。
一度使われると、連絡網かなんかに病院の名前が出るのか?
今回は現在放映中の篠原涼子主演の「アンフェア」からだった。
使われるシーンの台本を送ってもらい、担当が病院を見に来た。
今回は今までのように、平和病院得意の「古い病院」の設定ではなく、
ばりばりの「現代」、しかも「警察病院」の設定だ。
警察病院といえば、かなり大きくて立派な病院のイメージがする。
しかも番組の中ではかなり重要なシーンに使われるようだ。
ただ・・・確かに、手術室やそこに通じる廊下は去年直したばかりで、きれいではあるが・・・
「警察病院」の手術室の入り口のイメージなの・・・と言われれば、
院長の私でも、「う〜ん、そこまでずうずうしくはないかな!」といった感じだ。
ただ、若い職員は大喜びで、絶対見に来る!などといっていたが・・・
ざんねんながら、「俳優さんの時間の調整が出来ず」キャンセルとなってしまった。
おそらく「警察病院」の設定に無理があったんだろうが、
そんなことも言えずに、俳優さんの都合ということにしたのかもしれない。
現在一般病棟の一部では改修工事が始まっている。
病室もかなりきれいになる予定だ。
イメージもだいぶ変えるつもりだが、
もし、「きれいな病室での撮影」で使われても「どんなもんじゃい!」と言えるようなものにしたいと思うし
撮影などには関係なく、患者さんにも職員にとっても快適できれいな新病院を絶対に建ててやる!とあらためて心に誓った。
(平成18年2月17日)
新・風のロンド:小沢真珠来院!
この前の日曜日(1月15日)に今、フジテレビで昼に放映されている連続ドラマ「新・風のロンド」の撮影が行われた。
製作は東海テレビだが、何日か前、撮影に使わせてくれるかどうかと、電話がかかってきた。
「廊下」のシーンと「婦人科の診察室」のシーンが必要とのことだった。
日曜日はほとんど患者さんもいないことと、病棟での撮影ではないので、OKした。
スタッフが視察に来て、使えそうだと判断したらしく、15日の午前中の撮影になった。
田中美奈子や小沢真珠など、主演クラスが来ると言うので、
ミーハーの血が騒ぎ、
「病院の責任者として、見届ける必要があるから・・・」などと、もっともらしい理由をつけ、
休みだというのにわざわざ見に来た。
廊下のシーンは稲垣吾郎のドラマの時に使われたのと同じ場所で、
どうも「長い廊下」という設定にあう場所が他にはあまりないらしい。
使われた廊下は確かに長くまっすぐで、私の足で90歩くらいある。
「古い病院の感じ」にはもってこいらしく、
稲垣吾郎のときの設定は「昭和50年代」とのことだったが・・・
今度はなんと「昭和39年!」とのことだ!
いくらなんでも・・・・とは思ったが、監督がOKしたのだから、それくらいにも見えるのかもしれない。
ただ歩くだけのシーンなのに、何回も取りなおしがある。
一度はいい感じだったが、廊下に療養病棟の患者さんが歩いてきたので中止になったりして・・・
俳優さんも大変だなと思った。
婦人科のシーンでも、さすがに診察台は電動なのだが、
そこは映さず、昔のイメージを作り出していく。
まったく、もっと新しいイメージのシーンで撮影がないのかなとも思うが・・・
そういうシーンを映すような、新しくてきれいな病院は都内のどこにでもあるらしい。
もうすぐ2病棟の本館部分の大改修を開始して、一番きれいな病室に変える予定なのだが・・・・
今に見てろよ!などと、関係ないところでわけのわからないファイトを燃やしてしまう。
それはともかく、主演の小沢真珠は「牡丹と薔薇」で一躍有名になったが、
実はこの「牡丹と薔薇」のときも、撮影に使わせてくれと依頼があり、
スタッフが見に来たことがあった。
確か、主人公の実家の病院という設定だったと思うが、(それもけっこう古めの設定だった様だ)その時は結局使われなかった。
稲垣吾郎のときと違い、ガードが厳しくないので、小沢真珠を間近に見れたが、
これが小顔!というほど小さく、テレビのイメージとはずいぶん違っていて驚いた。
でも、やっぱりきれいだよな〜!
婦人科でのシーンは子供を中絶するシーンのようで・・・
「やめて!赤ちゃんをたすけて!」などと診察台の上で暴れる主人公を
看護婦が押さえつけ、医者が注射で眠らせる・・・という、平和病院の基本理念には程遠いものだったが・・・
台詞が、外のモニターを通してけっこう聞こえるので、
これが、患者さんがいるときだったら、
「この病院は、なんて病院だ!」と、思われそうで、人が通りかかるたびにヒヤヒヤものだった。
放映日は未定だそうだが、勤務中だけど・・・やっぱり見てみたい。(18年1月20日)
三度目の正直?B
元旦の朝、新聞を見た。
急いで神奈川版を開くと、「名にこめた思い、今」の大きな見出しが目に飛び込んできた。
2ページを使った紙面の中央には、「平和ものがたり−61年目の戦後にー」と書いてあり、
平和交通、平和映画祭、平和堂、平和湯など、平和病院を含めた色々なイラストが描かれていて、
右側にはノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊さんが平和への想いを書いている。
そして左側には広告を除いた全部を使って平和病院のことが載っている!
「寄り添う優しさを」の題で、平和病院誕生のエピソード、付けられた名前のいわれ、
開設者の土光敏夫さんが病院開設を決意した当時のこと、初代院長、安孫子連四郎先生の平和への想いなどが、
「人との和重んじ」のサブタイトルでうまくまとめられていた。
また、「小さな平和から」とのタイトルで、私の話したことがちゃんとまとめて書かれている。
毎日新聞・・・えらい!!
まさに、めでたく三度目の正直になったわけで・・・
しかも創立60周年を迎える年の初めに病院の記事が掲載されたので、
非常にインパクトのある元旦にしていただいた。
I記者にはあらためて感謝の気持ちでいっぱいだ。
文字だけでなく、創立当時の病院の前で撮影された職員の記念写真、
現在の平和病院正面の写真もでており、
土光さん、安孫子先生と並んで私の写真も載せていただいた。
偉大な創設者と、名医と言われた初代院長と並ばせていただき、恐縮してしまう。
ただ・・・・
「黒革張りの椅子も、重厚な医学書もない院内で一番粗末な昔からの院長室」
とばっさり書かれていたが・・・まあ、まさにそのとおりなので何の文句もないが・・・
それはともかく、「小さな平和の砦で、安孫子さんの物語は受け継がれていく」と結ばれた文は
さすがうまいことを書くな・・・と気に入った。
この新聞は多量に購入し、事務長が手配して職員に配った。
多くの職員にとって自分達の病院がどんなふうにして誕生したのか、あらためて意識するいい機会になった。
縮小コピーしてそのうち外来待合室においてみようと思っている。(18年1月6日)
三度目の正直?A
「平和病院」と言う名前が付けられた当時は、日本中が戦争、敗戦という苦しい体験の直後であり、
人々が戦争のない、平穏な暮らしを望む気持ちは切実だったと思われ、
平和な時代がずっと続くようにとの願いをこめて付けられたようだ。
それから60年、世の中、少なくとも日本では戦争のない状態が当たり前のことになり、
それにつれて「平和」という名前が持つ響きは、開院当時に比べればずいぶん重みを失っていったように思う。
思い返してみても、自分がこの病院に赴任した当時の頃は、「平和病院」という響きに、
なんて単純な名前なんだ!と、思ったのも事実だ。
○○記念病院とか、○○中央病院とかの名前のほうが、格調が高いようにも思えた。
他院に電話をかけたりするとき、「平和病院の・・・」と名乗ると、
相手の交換手に「は?」と聞き返されたりすることも多く、
店で領収書をもらうとき、「平和病院で・・・」と言うと、「あの平和でいいんですか?」などといわれることも多い。
かなり前、鞄月ナに対して、グループ病院なんだから、「東芝平和病院」にしてくれなどと話したこともあった。
(東芝と名前を付けるのにはかなり厳しい条件があり実現しなかったが・・・)
ただ、最近は、「平和」というものには、必ずしも国家間の戦争がない状態だけではなく、
「家族」や「一人ひとり」が感じる「平和」があり、
そのささやかな「平和」があってはじめて地域の、国の平和が成り立っていくと思っている。
健康であること、もっとつきつめれば、見ること、聞くこと、呼吸をすること、食事を食べられること、歩けること・・・
そんな、ふだんは全く当たり前のこととして、意識もしないことがが、実はとっても幸せで、「平和」なことであることは、
あまり考えることもなく、それが危うくなったとき、失ったときに初めてその大切さに気づくことも多い。
そういう自分も、手術をした後では、以前には何とも思わなかった「当たり前」のことの大切さを感じることも多い。
「平和」という言葉が持つ意味は、平和病院が出来てから60年、
時代によって少しずつ変わって来ているのかも知れないが・・・
それを当たり前のこととしてではなく、その大切さをあらためて意識してみることが必要なのだと思っている。
今では,60年前、初代院長の安孫子先生が名づけた「平和病院」という名前を、
70年、80年、100年と受け継いでいかなければならないと思っているし、
「へいわ」が単純な言葉のようでいて、実は病院の求める姿を現しているのだと感じ、
今はこの名前に誇りを持っている。
と、いうようなことをとりとめもなく話したのだと思うが・・・
どれくらいの記事になるのかとI記者に聞くと、
元旦の新聞にかなりのスペースをさいて(神奈川版で)掲載されるとのことだった。(但し、I記者の原稿しだいで・・・)
取材もひと段落した後、I記者はカメラを取り出した。
私の写真もうつすとのことで・・・
昔の病院の写真だけが出るのかと思っていたら、ついでに、もしかしたら私の写真も載るかもしれないとのことだ!
あわてて白衣を一番のり付けのいいもに着替え、目を開いて笑顔をひきつらせ、撮影してもらった。
(この写真は使えないと・・没にされるかもしれない・・・)
それはともかく、創立60周年の節目を迎える年の元旦早々、平和病院のことを紹介してくれるのはありがたい!
毎日新聞をとっている人はもちろん、とっていない人も、元旦の新聞は販売店で買ってでも手に入れ、
是非読んでいただきたい。
私も、どんな記事になるのかいまから楽しみだ(我が家はさいわいにも毎日新聞をとっている!)
ただ・・・・
ずっと前にも京都で「北国新聞」の記者から取材を受けたとき(ホームページにも書いてある)も没にされたし・・・
この前は稲垣吾郎の番組で、フジテレビから、「病院の名前を出します」とか言って、すっぽかされたし・・・
2度あることは3度あるというからなあ・・・・
でも、今度こそ「三度目の正直」であってほしいものだ。(17年12月30日)
ぜんそくのサンタ
12月24日のクリスマスイブは土曜に重なり、街は賑わっていたようだが・・・
残念ながら、今年は当直にあたってしまい、病院で過ごすはめになった。
イブの日には、私たち外科のスタッフが平和病院に就任以来、ずっと各病棟と外来にクリスマスケーキを配っている。
近くに「清月」という和洋菓子やさんがあり、ここに注文し、配達してもらっているのだが、
生クリームがしつこくなく、かなりおいしいと思っている。
去年はどういうわけか間違ったサイズのものを頼んでしまい、まるでウェディングケーキのような、むちゃくちゃ大きなケーキが届き、
もらうほうは大喜びだったが、ケーキ代だけで7万円もかかり、目の玉が飛び出た!
生ものなので返品もきかず、泣く泣く支払ったので・・・
今年は、「くれぐれも小さいケーキを!」と念を押して注文した。
昼には無事ケーキも届き、外来も終わり、午後には病院はあっという間に寂しくなった。
患者さんが来ないときの土曜当直は、比較的自由な時間がある。
毎回DVDを借りてくるのだが・・・
今回は「フライ、ダディー、フライ」を借りた。
原作は、父の日に、娘からもらった同名の小説で(前にこのホームページにも書いたことがある)、
映画化されたとき、一緒に見に行こうと約束をしていたが、忙しくて見にいけなかったものだ。
けっこうおもしろかったが、小説を読んだ時の自分のイメージと、主人公や登場人物の配役にずれがあり、
少し欲求不満になる。
そんなことをしているうちに夕食時になった。
最近、当直のときの食事はいまひとつといった感じだったが・・・(けっこう好き嫌いが多いので・・・)
なんと、クリスマス特別食で、チキンのもも、野菜、卵、パスタ、スープもついて、おまけに小さなケーキまで皿に乗っている!
なかなかやるじゃないか!
あとは器かな・・・とか言いながらも全部たいらげた。
夜、緊急の患者さんも来院せず、このまま静かな夜になるのかな、と思いながら、
当直室のベッドに横になった。
娘は友達と「ガクト」のコンサートを見に行った帰りに祖母の家に泊まりにいって
家には妻と息子の二人だけだ。
下の子は小学6年生になったので、毎年書き続けてきたサンタからの手紙も今年で終わりだ。
我が家では、小学生まではサンタがプレゼントを持ってくるが、
中学生になると、サンタは卒業なので、代わりに親がプレゼントを買ってあげるようになると、ずっと前から子供たちには言ってある。
左手でわざとへたくそな字で「サンタより」などと書くのだが、娘が小さい頃からもう15年以上も書いてきたのに、
それも今年で終わるのかと思うと、複雑な感じがする。
今年は当直なので、前の日に書いておいたが・・・
まだサンタを信じているのか・・・信じたふりをして、親に付き合っているのか・・・・
などと考えているうちに眠ってしまった。
リンリンリン、リンリンリン・・・・・
あ〜クリスマスだなって・・・どこか違うと思ったら
リンリンリンじゃなくてリ〜〜〜ン、リ〜〜〜〜ンだ!
当直室の電話の音だ!
寝ぼけ眼で時計を見ると、夜中の3時半だ。
うす明かりの当直室の椅子には寝る時に脱いだ靴下がぶら下がっている。
さすがクリスマスだな・・・などとつまらないことを考えたが、
当然、中にはプレゼントなどは入っていなかった。
外来におりると、苦しそうな息をしたご高齢の患者さんがいた。
どうやらぜんそくの発作をおこしたようだ。
赤いショールを巻いて、体型が太っているのでサンタのようにも見える。
そう思ってみると、乗っている車椅子はあたかもそりのようだ。
プレゼントを配っている間に調子が悪くなったのか・・・などとつまらない考えはすぐにしまいこみ、
治療を開始したが・・・
発作はけっこうひどく、外来だけの治療では無理と判断し、入院治療にした。
病院にはクリスマスも正月も無い。
治療がひと段落して、横になったのは5時近くだ。
朝、その患者さんのところに顔を出したが、発作はずいぶんおさまっていて、食事も食べられていた。
このぶんなら、早く退院できそうだ。
当直明け、病院を出ると、植木屋さんが作業をしていた。
7月頃から頼んでいたのだが、引っ張りだこのようで、やっと来てくれた。
玄関前の駐車場の周りの植栽が見違えるようにきれいになっている。
来週は外壁の洗浄作業も入り、建物も化粧直しだ。
病院もすっきりとした表情で新しい年を迎えられそうだ。
今日はクリスマス、娘は17歳の誕生日を迎えた。(17年12月25日)
三度目の正直?@
先日のこと、毎日新聞の横浜支局のI記者から電話があった。
どうやら平和病院のことを取材したいとのことのようだった。
取材などと、いきなり言われると、ドキッとする。
何も悪いことをしている覚えもないのに・・・
一瞬、多くの記者の前で頭を下げている姿が浮かぶ!
よく話を聞いてみると、毎日新聞では来年早々から「平和」について考える特集を組むそうで、
戦後60年を過ぎ、戦争の記憶も風化していく中、節目の年ばかりでなく、毎年忘れないように、
戦争と平和について振り返るといった企画らしい。
神奈川県のなかで(全国版ではないので)名前に「平和」のつく企業、学校、病院などに取材を行い、
「平和」と名づけた理由、戦争とのかかわり、平和への想いをたどるとのことだ。
何でも、正月の特別企画に平和病院が取り上げられる!・・・らしい。
(一瞬、このまえフジテレビにすっぽかされた悪夢がよみがえる・・・)
平和病院は、病院のホームページやパンフレットにも書いてあるように、
戦後間もない昭和21年4月25日に、終戦の混乱の中、食べるものもなく、
住む家もなく、病に苦しむ人達のために手をさしのべようと、初代の院長が鶴見の地で
石川島芝浦タービン梶i後に東芝と合併)の寮を改装し、病院としたことが始まりだ。
平和な世の中が続くように、との願いをこめて命名された。
名前の由来は今回の企画にぴったりだ!(と思う)
取材の約束の日、記者が病院を訪ねて来た。
やってきたのは、なんと若くてかわいい女性記者だ。
事務長と一緒に少し話をし、
30年記念誌、40年記念誌、50年記念誌、(来年は60周年なので、何か企画しなくては・・・)
また、初代院長、安孫子連四郎先生の回想録などをみせ、
古いアルバムから、創立当時の写真を探しながらの取材が進んだ。
ただ、私も平和病院に来て、たかだか15年なので・・・
昔のことは良くわからない。
近くに住む初代院長の息子さんに来ていただいたり、
ずっと昔のことに詳しい元理事に連絡したり、
たまたまその日、近くに来ていた初代の総婦長(まだお元気だ)や、
ず〜〜っと昔からいる看護職員(なんと、初代院長から8代目の私まで、すべての院長の下で働いている看護師さんが3人も現役で働いている!)
などを呼んで、昔のことを語ってもらった。
その後、しばらく連絡がなかったので、どうなったのかと思っていたが・・・
このまえ、I記者からまた電話がかかってきた。
追加の取材をしたいとのことだった。
古い写真をもう少し貸してほしいのと、現在の院長(つまり私)が、平和病院と名づけられたことをどう思っているか、
「平和」への想いなどを聞かせて欲しいと言う・・・
なんか・・難しそうだけど・・・あらためて取材の日を約束した。
家に帰って子供たちに話すと・・
娘からは、「父さんは絶対ウケを狙ってキザな事話そうと思ってるでしょ!だめだよ、自然に話すんだからね!」と言われるし・・・
息子まで、「あんまり恥ずかしいことは話さないでね・・・」と、全く信用がない!
いったい父親を何だと思ってるんだあ!
そうこうするうちに取材の日がやってきた。
平和病院を創立したとき、安孫子先生の「平和」への思いはどんなだったのか・・・
今、私の「平和」に対しての想いは・・・
と言っても、なかなか話はまとまらない。(17年12月17日)
それって・・・誰よ?
このホームページでも「院長への手紙」に寄せられたご意見に対してのお返事を、ダイジェスト版として書いているが、
今でも外来待合に設置したポストには、ご意見、ご要望、お褒めの言葉、お叱りなどをいただく。
だいたい3ヶ月くらいおきにまとめてお返事を書き、外来待合に掲示しているが、
そろそろたまってきたので、お返事を書かなければいけない時期になっている。
最近はうれしいことに、お褒めの言葉をいただくことも多く、
名前もはっきりと書いてくださっている場合には、その職員には伝えるようにしている。
やはり、お褒めの言葉は、職員にとって大いに励みになる。
つい最近のこと、外来看護師に対してのお手紙をいただいた。
看護師の対応に関するお手紙なのだが・・・
「検査の予定日、待ち時間が長くてもイライラしないで順番を待とうと、
覚悟してやってきたが、検査室への案内や、車椅子の操作もてきぱきとした対応で
心温まるものがあった」
とのご意見だった。
ただ、、名札が見えにくかったのか・・・
名前ではなく、その看護師の特徴だけが書いてある。
読んでみると・・・
「背が高く、スマートで、小顔、髪を後ろに長く結んで一本にしている、少し茶系の」看護師さんとのことだ。
ぱっと見て・・考え込んでしまった。
背が高く・・・だとすると、ああ、あの子かあの子のことかな。
スマートで・・・て、あんまりいないしなあ・・・
小顔??え〜〜?
髪を後ろに…?やっぱりあの子のことかな?いやまてよ・・・
茶系????
あ〜〜〜わけわかんない!
せっかく褒めていただいたのに、誰だか全くわからない。
外来にはクラークもいるが・・・制服が全く違うし・・・
まあ、お叱りをいただいたあげく、「ずんぐりむっくりして、顔がでかく・・・」などと書かれているわけではないので
誰だかわからなくても、いいといえばいいのだが・・・
どうしても気になるので、直接、外来の看護師にお手紙を見せてみた。
すると、なんと・・・何人かが、「それって私のことかな・・・」と言うではないか!!
え、小顔なの?とか、スマートなの?とか、
余計な疑問をはさむと、袋叩きにあいそうなので
「そ、そうなのかもしれないね・・・」
と、適当に返事をして早々にひきあげてきた。
全部に当てはまるイメージを想像すると、
めちゃくちゃ美人で、スタイルがよく、しゃきしゃきとした、すっごいすてきな看護師さんになるのだが・・・
それって・・・いないよなあ〜(もちろん、外来の看護師さんたちは、みんなそれなりに素敵だとは思っていますよ・・・)
皆さんも今度、平和病院の外来を受診するときには、
誰のことだか・・・ぜひ探してみてください。(17年12月5日)
シャケ好きの娘さん?!
外来で診療をしていると、たまに赤ちゃんや、小さな子供がやって来る。
平和病院には小児科がないので、
だいたいは、どこかに怪我をしたとか、火傷をしたとか・・・
あるいは、お母さんの具合がわるくて、一緒に連れてこられた子供なのだが・・・
おとなしい子もいれば、待合室で大声を上げてかけまわる子もいる。
がまん強い子もいれば、診察室に入る前から大泣きの子もいる。
兄弟や母親が傷の手当を受けるのを心配そうに見守る子・・・
そんな事など、おかまい無しに、患者さん用の丸椅子をぐるぐる回し、
自動車を運転している気分になっている子
(何が面白いんだか、本当に椅子を回す子は多い!)
恥ずかしがっているのか、恐がっているのか・・
何も話してくれない子、
ず〜〜〜〜っと何かしゃべっている子・・
きれいな服を着ている子、泥んこの服でやって来る子・・
いろんな子がいる。
でも、どの子供たちを見ても、その白目のきれいさには本当に感心する。
「白」と言うより薄いブルーがかっていて、
透明な空を見ているようでもあり、いつも、なんてきれいなんだろう!と思う。
一方、自分の顔を鏡で見ても、
残念ながらもはや、その瞳の透明さは全くと言っていいほどなくなり、
ひどいときには充血していたり、どろ〜んとしていたりするのが悲しくなるほどだ。
小さな子供を見ると、自分の子供たちにもこんな時があったな・・・と、思い出す。
今では上の子は高校2年生だし、下の子は小学6年生になった。
娘が休みの日に、たまにしている化粧も、
はじめのうちは、パンダか狸のようになっていたのが、だんだんさまになってきた。
もちろん、まだまだ成長は楽しみだし、素直に育っていって欲しいと思うが・・・
やはり、小さい頃のかわいさには格別のものがある。
少し前のこと、処置に通ってくるお母さんに、いつも連れられてくる赤ちゃんがいた。
毎日、ベビーカーにのせられて診察室に入ってくる。
眠っていることもあるし、おきて、きょろきょろしているときもあるが・・・
お人形さんのようで、ほっぺたがプクプクしていて、本当に天使のようにかわいい。
その子もやっぱり瞳はブルーがかって澄んでいる。
お母さんの傷をほっぽらかしにして、ついつい見いってしまう。
「かわいいですね〜、でも、子供って、すぐ大きくなっちゃって・・・
だんだん親離れしていって、ぐちゃぐちゃに撫で回すことも出来なくなって・・・
なんだかつまんないですよね・・・」と言った時、
そのお母さんが、「あ、あのシャケ好きの娘さんですネ!」と言った。
予想外の言葉だったので、しばらく後の言葉が出てこなくなってしまった。
どうやら、このホームページを見てくださっているようで・・・
娘のシャケ好きのことも知っていたらしい。
長いこと通ってきている患者さんばかりでなく、傷の手当だけに通っている人の中にも、
病院のホームページや、私のサイトを見てくださっている人もいることをあらためて感じた。
なんだ、うちの娘も有名人じゃないか!
その日のことを、帰ってから娘に話すと・・・
「だ〜か〜ら!、あんまり変なこと書かないでって言ってるでしょ!!」
と、怒られた。
そんなこと言ったって・・・
あいかわらず、毎日シャケばっかり食ってるくせに!(17年11月1日)
稲垣吾郎・涙の好演B
こら、フジテレビ!!
この放送は娘と一緒に見たのだが・・・
後半の再発後のストーリー展開は、やはり見ていてもつらいものがあった。
どうしようもない自分の命の終わりがわかっていて、しかも子供は小さい・・・
そんな状況を冷静に受け止められることなど、とうてい出来そうもない。
主人公は再発をしばらくは妻に隠しているが・・・
当然病状が進行してくれば、隠しきれなくなってしまう。
「家族に心配をかけたくない」という気持ちは、本当によくわかる。
特に、手の施しようがないとわかった場合には、
隠せるものならぎりぎりまで話さないものなのかもしれない。
ただ、実際の場合でも、本人の思いと家族の立場では、また違うことが多い。
隠していても、何かいつもと違う雰囲気になるのはどうしようもないようで・・・
「何かあったの?」「どうしたの?」と尋ねられることがどんどん多くなる。
自分の場合も、いつ術後の検査をするのか、必ず教えてくれと言われているが、
いつも言わずに検査を受けている。
話すのは結果がわかってからで・・・
細かいことはあまり話さない。
娘は、ティッシュの箱を抱えて、ぐすぐす鼻をすすったり、涙を拭いたりしながら見ていた。
私の前では何も言わなかったが、
後から妻に、私が手術を受けたことや、癌になったことを知ったときのことが重なって・・・
と言っていたようだ。
このドラマを見て、全国で何人の人が泣いているのか・・・
きっとティッシュの売れ行きが伸びるに違いない。
死が近づいたとき、「死にたくないなあ」と泣きながらつぶやく台詞に
主人公の思いが凝縮されているように思えたが・・・
自分にとっては、主人公が転移を疑ったときの「きたかな・・・」はずいぶんと身につまされた。
いつもより体調が悪いとき、天気によって創が重苦しく感じるとき、咳が出たときなど・・・
大丈夫とは思っていても、頭のどこか片隅に「来たんじゃないだろうな・・・」との思いはよぎる。
残された主人公の娘さんたちが、幸せになることは主人公にもきっと伝わると思うし、
昔はそうでもなかったが、こういった「見守る」とか「見ている」というような霊的な存在はあると思いたいし、信じるようになっている。
自分も誰かに見られているだろうし、
自分が仮に同じような立場になっても、意識だけは家族の中に残り、見ていたい・・・
などと隣でぐすぐす泣いている娘を見ながら、ぼんやりと思った。
そんなことを、色々考えているうちに、番組はあっという間に終わってしまった。
画面には主演の稲垣吾郎の写真をバックに出演者の名前が字幕で流れていく。
「撮影協力」のところで・・
さあ!平和病院の名前が出るぞ〜〜!と思っていたが・・・・・
あれ??え〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
見慣れたロゴマークも、病院の名前も出てこないぞ!
と、思っているうちに画面は製作フジテレビ、となり、目玉のマークになってしまった。
節目の重要な場面は平和病院で撮影されているのに・・
こら!フジテレビ!
話が違うじゃないか!
名前を出しますとか言っといて、何がロゴマークのサイズが変わるかもしれませんだ!
しかも、稲垣吾郎が着ていた寝巻きだって・・まだ返ってきてないぞ〜〜!
などと叫んでみても始まらず
今までメソメソしていた娘まで、
「なんだ、名前なんかでないじゃん!」と、大ブーイングだ。
病院がどんな感じで映るかもわからず「昭和50年代のイメージで」使われたと言ってあったので、
娘は「お父さんの病院、けっこう古臭いね」などと言われることを恐れたようで、
幸いにも友達には言っていなかったようだが・・・
「よかった、友達に言わなくて!」などと怒られるしまつだ。
翌日には多くの職員から「先生、病院の名前もロゴマークもでませんでしたね!」と言われるし・・・
その翌日に往診に行った先の患者さんからも同じことを言われた。
そんなこといわれても・・・
私のせいじゃないぞ!
ところで、協力病院の名前に「八日市場市民総合病院」の名前が出ていたのには驚いた。
この病院は平和病院と同じ千葉大学臓器制御外科の関連病院で、私も研修していた病院だ。
昨日、大学の会議で院長のK先生(私が勤めていたとき、一緒に勤務していた)に会ったので聞いてみた。
「先生の病院で、撮影があったみたいですね」
「そうなんだよ、病院のホールで主人公の両親が話しているシーンだけどな・・・3時間くらいしか撮影しなかったけど、
病院の名前、出すんだろうな!って言っといたからな・・・」
「あれ、お前のところも使われたの?」って・・・
なんだよ、使われたどこじゃないぞ。これって、えこひいきじゃないの?
というわけで、ドラマそのものは感動的で、稲垣吾郎も熱演していたのに・・・
なんだかしりつぼみの後味になってしまったのは残念だったが
まあ、確かに病院はちゃんと映っていたし、こんなことはめったにあることではないし、
なまの稲垣吾郎もすぐそばで見られたし・・・そしてなによりも
わずかの場面ではあったけれど、このすばらしい作品のお手伝いを出来たことは本当に光栄に思っている。
DVDの「完全版」も発売されるとのこと、
せめてこのホームページを読んだ人は、「撮影協力・平和病院」という幻のテロップを頭に浮かべてみていただきたいものだ。(17年10月16日)
手術室のシーンでは高い位置からのアングルから撮影されていたので、
いつも見慣れている視界と違い、新鮮な感じがしたが・・・
見慣れた棚、壁、床・・・まぎれもなく、いつもの手術室だ。
ここで主人公は肉腫におかされた足を切断されてしまう。
平和病院の中のシーンでは一番長い間映っていた部分だ。
あ、ここに映っている足は稲垣吾郎の足ではなく、
待合室で足をむき出しにしたまま、うろうろしていたエキストラの人の足なんだな・・・と思い出す。
最後は整形外科の外来診察室で撮影されたシーンだ。
シャーカステンには肺のX線写真がかけられており、丸い形の影が、肺の両側に写っている。
「コインリージョン・・・」
肺への転移を示す所見だ。
飛鳥とプールで遊んでいた主人公が激しく咳き込んだとき・・・
痰に血液が混入しているのに気づく。
「来たかな・・・不吉な予感が走りました」
と言うナレーションには、つい自分の状況と重ねてしまい、妙にリアルに感じてしまった。
診察室のブラインドは明るく光り、まぶしいほどだ。
太陽の光のように映っているが、実際の撮影の時はもうかなり暗くなっており、
窓の外では大きな照明器具で強烈な光が窓に向かって当てられていたのだが・・・
この明るすぎるほどのブラインドの光が、
「転移・・・、あと、半年ってとこですか・・・」
という重く、暗いせりふをよけい印象付けるシーンだった。
ここまでで平和病院で撮影されたシーンはすべて放映されてしまった。
それまでは正直いって、ストーリーより病院がどんなふうに映るのかのほうが気になってしまっていたが・・・
その後の息詰まるような展開はみごたえがあった。
ただ・・・自分だけがそう思ったのかもしれないが、特に前半はCMがやたらと多すぎない?
ぐっと盛り上がったかんじんな時にCMになってしまう。
見ている人は肩透かしを食らったようになるんじゃないか・・
フジテレビに苦情が来るんじゃないか・・・などと、よけいな心配をしてしまった。
まあ、あれだけいろいろな場所でロケを行い、有名な演出家の手で作られ、、有名な俳優が出演しているのだから・・・
制作費も尋常ではないだろうから、多少はしょうがないんだろうが・・・
ただ、平和病院の撮影のとき、あれだけ大勢のスタッフ、エキストラ、
トラック何台分もの機材、照明が持ち込まれ、丸2日間をかけて撮った映像は、
診断、手術、再発の告知と、それぞれがこのドラマの重要な場面ではあるが、
実際に映る時間が本当に短いと感じた。
その分、ドラマ撮影の大変さとスタッフの苦労、編集の難しさが本当によくわかった。(つづく) (17年10月12日)
稲垣吾郎・涙の好演@
稲垣吾郎in平和病院
10月10日の夜、フジテレビで稲垣吾郎主演のドラマ「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」の放映があった。
前にも書いたが、このドラマは平和病院の廊下、放射線撮影室、手術室、整形外科外来で撮影が行われていたので、
どんな感じに映っているのか、見るのを楽しみにしていた。
撮影に協力するとのことで、最後に病院の名前とロゴマークを流します!といわれ、
ただし、ロゴマークの縦横の比が少し変わるかもしれませんなどと具体的なことまで言われていたので
最後の最後まで目が離せない!
病院の職員もかなり見ているはずだ。
はじめの登場シーンは廊下だ。
主人公が廊下で看護師さんと話している。
前にも書いたが、この看護師さんは俳優ではなく、スタッフの中の一番かわいい(私の基準で・・・)女の子が演じている。
トイレから車椅子に乗った男の人が出てくる。
なかなか前に進めない。
それに気づいた主人公が駆け寄って患者さんの車椅子を押し、優しく語りかけながら廊下を歩くシーンだ。
よく見ると廊下に面した部屋に「人間ドック控室」だの「101号室」だの、見慣れた文字が並んでいる。
紛れもなく平和病院の廊下だ。
けっこう、きれいな病院に映ってるじゃないか!
このシーンの撮影の時は日曜だったのだが、私は日勤の仕事中で、
撮影中に患者さんが来たので、この廊下に面した薬局に薬を取りに行かねばならず、
その間、稲垣吾郎を待たせてしまったことを思い出した。
とすると・・・このときトイレの中には車椅子に乗った患者さん役の俳優が閉じ込められていたことになる。
次のシーンは足の痛みを感じた主人公がレントゲン写真を撮るシーンだ。
撮影台に乗っている稲垣吾郎が着ている寝巻きの柄にも見覚えがある。
少し前まで人間ドックの患者さんに使っていたものだ。
平和病院での撮影が終わった後も、その後のシーンでも使う可能性があるからと、
スタッフが貸しておいてくださいと、もって行ったものだ。
(後で返しますから・・・と言われていたが・・・)
主人公の病気が始めて発見される重要なシーンだ。
そして・・・手術室。
6時間以上もかけて撮影が行われた場面だ。
注射を打たれ、マスクを顔にあてがわれ、眠りに落ちていく主人公。
無影灯がともるシーンだ。
いつも見慣れている無影灯なのだが、あらためてパッ明るくなるところを見ると、
「手術が始まる緊張感」が漂ってくる。
テレビで見ると、実際より高級品のように見えてくるから不思議だ!(つづく) (17年10月11日)
愚痴の影響
最近、病院でもごちゃごちゃといろいろなことがあり、
「雑感」のところで愚痴を書いた。
このホームページは病院の公式サイトではなく、
私のプライベートなサイトなので・・・
「で〜〜〜〜い!」
と言う感じの逆切れ状態で書いたのだが、
翌朝、事務長が院長室にやってきて、
「院長のホームページにあんなことが書いてありましたけど・・・大丈夫ですか?」
と、心配そうにきりだした。
職員が見たら、活気をなくすんじゃないか・・などとも気にしている。
そのすぐ後、病棟の師長からも同じようなことを言われた。
まあ、あくまでも愚痴は愚痴であって、たまには言いたいことを言ってもいいんじゃないかと思って書いたのだが・・・
やはり、そうも言ってはいられない。
もっとも、下の子供はまだ小学6年生だし、独り立ちには10年以上もかかる。
病院を放り出して、すぐにも無医村に行こうと思っているわけではない。
確かに病院を取り巻く環境は年々厳しくなってきている。
来年の4月には平和病院は創立60周年を迎える。
私の前に7人の院長が、それぞれの信念を持ち、病院のために奮闘努力してレールをひき、私にバトンタッチしてくださった。
私の代で平和病院を脱線させるわけにはいかない。
連結を確認しながら、先頭きって突っ走っていかなくては病院も良くならないし、職員のモチベーションも下がる。
今では250名以上の多くの職員が私を支えてくれるし、後押しをしてくれている。
大丈夫!
たまには愚痴でも言いたくなることもあるが・・・
愚痴は、血圧のあがった同級生の院長や、抗潰瘍剤をのんでいる後輩の院長と一緒に言いあうことにして・・・
一歩病院に入れば背筋を伸ばし、颯爽と歩くことが一番だ。
まだまだ舵取りの手を緩めるつもりもないし、走るのをやめる気もない!
自分のカラーをもっと強め、思うような病院にするにはまだまだ時間がかかる。
平和病院は発展途上だ。
もっともっとよくすることが出来るし、そうしなければならない。
「前に比べて、ずいぶんよくなりましたね!」と言ってくださる皆さんの声をエネルギーにして、
先を見据える気力も残っている。
「新病院を建設する」という悲願ともいえる大きな目標もある。
まあ、たまに出る愚痴は聞かなかったことにしてもらおう。
そんなに簡単にはへこんでなんていられない!(17年10月6日)
サンタルチア
少し前のこと、神奈川ゐのはな会が横浜駅の近くのホテルで開かれた。
千葉大学医学部同窓会の神奈川支部会だが、
自分も地区幹事を務めている関係で、最近は毎年参加している。
今年は神奈川県出身の在学中の学生さんも18名参加し盛大だった。
特別講演は藤原歌劇団のテノール歌手で、現在オペラの舞台でも活躍している田代 誠氏だった。
「オペラよもやま話」と題して、舞台の裏話などを楽しく話してくださったが・・・
やはり、歌と違って、医者という、畑違いの分野の面子の前で話をするのは、非常にやりにくそうで・・・
大汗をかきながら話しをされていた。
最後の最後に、話よりは、やはり歌のほうが・・とアカペラで一曲披露してくださったが・・・
さすがの迫力で、すばらしい歌声だった。
拍手喝采で、これで終わりと思ったのだが・・・
「さあ、最後は皆さんにも立っていただいて、一緒に歌いましょう!」と言い出した。
曲は「サンタルチア」ということになり・・・
全員が立たされてしまった。
小学校のときの学芸会で歌った以来、「サンタルチア」なんて歌うのは久しぶりだ。
もともと、歌は嫌いじゃない。
そのうち書こうかとも思っているが・・・
大学の頃は「ウボイコール」というサークルで、今でいう「バンド」みたいなものを組んで歌っていたし・・・
大学祭では「歌声喫茶」(いまや死語か・・・)を開いて「さあ、皆さんも一緒に歌お〜」などと叫んでいた。
前に書いたこともあるが、スナックで弾き語りのアルバイトをしたり・・・(店はすぐつぶれた)
医者になってからは熊谷の飲み屋のカラオケコンテストに出て「敢闘賞」などをもらったりしていた。
(当然優勝は、その店に通いつめ、それなりの出費をしているおじさんだったが・・・)
最近は飲みに行っても一次会で帰るようになり、カラオケなどにも行かなくなったので・・・
「歌う」こと自体、ものすごく久しぶりなような気がした。
はじめは参加者も小さな声で遠慮がちにぼそぼそと歌っていたが・・・
「もっと大きな声を出して!」
と、言われ、だんだん大きな声になってきた。
自分も大きな声を出したつもりだったが、前よりも声量が落ちている。
それでも・・・なんだか気持ちがいい。
いろいろな会合で、「はじめの挨拶」なんかやらされるよりもよっぽどいい。
講演の話は正直言ってあまり面白くなかったが・・・
最後の歌はよかった。
たまには大きな声で歌うのもいいもんだ!
最近、平和病院の療養病棟では「音楽療法」を取り入れている。
音楽を聴いたり、歌を一緒に歌ったりすることは、ずいぶんと心と体をリラックスさせ・・・
脳を活性化したり、免疫力を高めたりするのか・・・認知症の方たちの表情が見違えるように豊かになったり、
活気が出たりすることが現実に起こっている。
昔は毎日弾いていたギターも、もう、新しく弦を張り替えることもなく、ほとんど触ることもなくなった。
ぼろぼろになったケースから取り出し、新しく弦でも張り替えてみようかな・・・とも思うようになってきた。(17年9月17日)
東芝林間病院竣工式
もう、ずいぶん前になったが、今年の4月25日に東芝林間病院の竣工式に出席した。
林間病院は、平和病院と同じ東芝の関連病院で、東芝健康保険組合の病院だ。
東林間の駅前に広大な敷地を有し(建設費用捻出のために一部を売却したが)、199床で、
一般病床、回復期リハビリテーション病棟、療養病棟を有するケアミックス病院として生まれ変わった。
5階建ての新しい病棟は蓄尿不要のトイレや(トイレにおしっこをすると自動的に尿量がプリントアウトされるのだ!
大きいほうと一緒だったらどうすんだろう・・・などとつまらない心配をしてしまう)
デジタル表示される患者さん用ネームボードなど、最新の設備を完備し、
正直言って、うらやましくてしょうがなかった。
建設費用は平和病院のささやかな収益を全額つぎ込んでも30年分程度にもなる!
ただ、同じ健康保険組合の東芝鶴見病院が、この3月にひっそりと閉院したことを思うと、複雑な思いだ。
林間病院は今年で創立50周年、平和病院は来年には60周年を向かえる。
100%東芝出資の病院と言っても、グループ病院の中で平和病院だけは独立採算の病院だ。
経営状態は今でこそ、この厳しい医療、介護の波になんとか飲み込まれないでふんばってはいるが・・・
毎年赤字を振り撒いていた10年程前には東芝内部でも平和病院を「整理する」プロジェクトもできていたとう。
首の皮いちまいで生き延びた病院だ。
今でも東芝に借金の返済をしなくてはならないし、当然、他からの借入れ金もまだまだたくさんある。
赤字でも年度末にリセットされ、また新しい予算が始まるわけではない。
出した赤字は延々と背負い続かなくてはならない。
よほどチエを絞って、周囲からの評価を得ながら、しかも職員の満足度も高め、モチベーションを維持し続けなければならない。
新しい病院を建て直すことなど並大抵の事ではない。
あと何年院長を任せてもらえるかはわからないし、私自身の気力・体力をあと何年維持できるかどうかはわからないが・・・
(最近は子供が成長したら、無医村で診療してみたいと思うようにもなってきている)
任期の間になんとか「新病院」を建ててみたい思いは強い。
ただ、莫大な借入金を作り、豪華絢爛な院長室で少しの間をすごし、「後の返済ははよろしく!」と言うわけにも行かない。
長期計画を持つことは必要だが、計画には確実に実行可能な資金計画を伴うことが要求される。
院長は医者なんかしていたらダメ!といわれる。
それも正しいかもしれないと思うが・・・
今はまだ医者の時間も多い。
院長業務は時間外になることがほとんどだ。
中途半端と思う状況が続くことは、ずいぶんストレスになることも事実だ。
自分でも時間の切り替え、気分の切り替えがへたくそだと思うが・・・
不器用なのは直しようが無い。
東芝林間病院のすばらしい病棟はしばらくの間は見なかったことにして、
平和病院の現実を受け止め、地道に、亀のようだが、確実に前進していくしかない。
職員にもずいぶん苦労をかけているが、おかげで以前よりは確実に「いい病院」に変わっていっていると感じている。
これからもついてきてくれることを祈っているし、そのように思ってもらえる病院・院長でありたいものだ。(17年8月28日)
当直復活
以前というよりもう5年以上前は、私も当直をやっていた。
当直の手当ては給料とは別に支給されている。
月に数回やっていたのだが、
院長になったとき、給与体系が月給制から年俸制になることを知らされた。
今までどおり、当直はするつもりだったのだが・・・
理事長は普通の職員とは違い、、年俸制になったのだから、当直をしてもしなくても給料は変わらないといわれた。
いくらお人よしでも、当直をやってもやらなくても給料が同じなら、
誰だってやる奴なんていない!
当然私もなくなく(当時は)当直をやらなくなった。
院長になったばかりの時は忙しく、仕事の要領もわからなかったので、ずいぶん夜遅くまで残って仕事をしていたが、
もちろん1年働いてナンボの給料なので、時間外手当などはいっさい出ない。
当時は医者の数も少ない時期もあり、私が抜けた分、他の医師は回数が増えたし、非常勤の外部の先生の当直アルバイトも増えた。
副院長の時には当直料が加算されていたので、
院長になったとたん、今までの副院長のときより給料が大幅に減ってしまうという事態になってしまった。
そのうち、何年かたってから、さすがに当直をするなら、誰がやっても同じでは・・・ということになり、
当直をすれば当直料はそれなりに支給されることにはなったのだが・・・
当直をやらなくなって何年か経っていたので、今度は気力・体力が追いつかなくなった。
その後自分が手術を受けたりしたので、体調管理を考え、このままでもいいか・・・と思っていたのだが・・・
なにかと物入りな今日この頃・・・背に腹はかえられず
最近になって月1回、土曜日の当直と日曜の日勤を復活させた。
今月からはもう一日、土曜日に当直することになった。
この前は月曜日の当直医が体調を崩したため、私がやることになり、
土曜の朝から火曜の夜まで、日曜の夜を除いてず〜っと院内にいるはめになり、
さすがにまいったが・・・
平和病院は救急指定病院ではあるが、
そんなにひっきりなしに患者さんが夜間来院するわけでもない。
運がよければ何事もなく朝までぐっすり!なんてこともある。
そのかわり、ついていなければ夜中の間に寝るまもなく外来患者さんがポツリポツリと来たり、
病棟の患者さんが急変したりする。
どんなに夜中に患者さんが来たって、眉間にしわを寄せて、ぶっきらぼうに対応するわけには行かない。
名札には「院長」と書いてあるし、
初めての患者さんは、自分の対応いかんで、その後も平和病院を利用してくださるようになるかもしれない。
「インターネットで調べてきました」と、転居したばかりの患者さんもやって来る。
(最近、病院周囲は新しいマンション建設ラッシュだ!)
眠くたって眉間のしわを伸ばし、寝ぼけた笑顔で対応する。
基本的には患者さんはどうしようもなくなって、夜中にやってくるのだから。
ただ・・・
やはり、なかには正直に言って「これはな〜〜」と思うような患者さんだっている。
夜中の2時に、5日ほど前から指が痛かったが、治らないので見てほしい・・とか
明け方に、酒を飲みすぎて気持ちが悪い・・・だとか
べろべろに酔っ払った患者さんや付き添いさん(同じように酔っ払っていることが多い)から罵詈雑言をはかれたりすることだってある。
正直言って、もっと早くから来ればいいのに・・とか、夜中までのんでんじゃないよ!と言いたくもなる。
基本的に自分の当直の時は、来るもの拒まずでやっているので、
夜勤の看護師さんは忙しくなるらしく・・・この前の当直では夜に3人も入院になってしまったので
ついに、夜勤の看護師さんから「もう先生が当直の時は夜勤をしないようにする!」などと言われてしまった。
なんでも、私の背中からは「患者さんを入院させたいオーラ」が出ているのだそうだ!
確かに入院患者さんが多ければ、病院の運営を考えれば望ましいのかもしれないが・・・
こっちだって夜中は平穏に過ごしたい!
ただ、毎回そんなわけではなく、運がよければやり残していた仕事を片付けることだってできるし、
DVDを借りてきて、見られなかった映画を見ることだってできる。
しばらくすると、また、当直は大変!と思うようになるのだろうが・・・
今のところは復活した当直生活をけっこう楽しんでいる。(17年8月18日)
どろぼう
病院にはお金がたくさんあると思われているのか、狙われることが多いらしい。
かなり前、平和病院にも泥棒がはいった。その時には何キロもある重い金庫ごと事務室から運び出された。
最近はセコムを取り付けており、セキュリティー対策をたてている。
病院はどこでも個人情報を多く取り扱う関係上、神経を尖らせているが・・・
先日在宅支援センターが狙われた。
幸い、個人情報にかかわる書類には全く被害がなく、パソコン類も無傷ですんだが・・・
職員がコツコツと積み立てていた現金だけがやられた!
何より、職員にけがなどがなかったのが不幸中の幸いだったが・・・
机の引き出しやキャビネットはバールのようなもので滅茶苦茶に壊されたので、
直す費用がかかるのは痛い!
さっそくセコムを取り付けることにした。
個人的には今まで何回か、どろぼうに遭遇している。
大学病院に勤めているころには通勤に使っていた原付が盗まれ、数ヵ月後にバラバラになって発見され、使い物にならなかった。
その後は、車のトランクからゴルフセットをバックごと盗まれた。
朝ゴルフ場について、さあやるぞ!と車のトランクを開けて初めて、なくなっているのに気づいた。
仕方なくその日はゴルフ場でクラブを借りてプレーしたが、
なぜかいつもよりずっとスコアはよかった。
一番の被害はやはり大学にいる頃、新潟の学会に行く途中のことだった。
運悪く、そのときは研究室の会計係りで、しかも出かける直前に、当直のアルバイト代が現金で渡され、
研究室のお金と、自分の生活費を合わせ、
財布をパンパンにして、今は大網病院の院長になっている同級生と出かけていく途中だった。
新幹線の中で、ビールを買おうとして、財布がないのに気づいた!
確かに上野駅まではあったのだが・・・
ホームで、何人かの集団にものすごい勢いでぶつかられたことを思い出し、
おそらく、そのときにすられたらしかった。
あわてて途中下車し、上野に戻り、駅員や警察に届けたが、結局出てこなかった。
その学会は自分の演題発表があるので、同級生から借金して新潟まで行き、
発表だけ済ませ、新潟の夜を堪能することもなく、ラーメンだけを食べてすごすご帰ってきた。
もちろんボス(今の教授)からはこっぴどく怒られた。
その月は生活費もなくなってしまったので、当直をしまくった。
その後、自宅に生年月日を尋ねる電話などがかかってきたところを見ると、
カードで金を引き出すつもりだったのかもしれない。
もちろん、その日のうちにカードは全部ストップした。
余談だが、その頃は研究室の学会の会計担当はついていなかった。
私の4年後輩は、やはり学会の会計担当の時、遅れそうになり、
あわてて大学の裏門から道路に飛び出したとたんに車にはねられ、入院してしまった。
そのときは連絡がつかず、大騒ぎだった。
何年か前には、家族で旅行に出かけた時、ガレージの扉を開けっ放しで出かけてしまった。
2日後に帰ってきたときに気づいたが、荒らされていないようだった。
いつもは車に積んであるゴルフバックもガレージの中に置きっぱなしにしていったが、そのままになっている。と、思ったが・・・・
開けてみたら、買ったばかりのドライバーだけが一本抜かれていた!
まだ練習場で一回使っただけだったのに。
そもそもゴルフクラブは、ほとんど買い換えない。
どんどん換える人もいるようだが・・・
バックごと盗まれたときに、仕方なく買い換えて以来、セットとして買い換えたのは
今回手術をした後、傷の負担にならないように、軽くて振りやすいものするために買ったのを含め、
25年で2回しかない。
最近の身近な盗難といえば、上の子が学校で財布を盗られたのと、
下の子が学校で「バトエン」(転がしてゲームをするための鉛筆)を盗られたくらいだ。
(それ以来、学校でのバトエンは禁止になったらしい)
あとは結婚前に、妻に「心を奪われた!」ことか・・・・とかいっちゃって・・・ははは・・・
近頃は世の中すさんでいるのか・・・・人の物ばかりではなく、命までとる奴が増えているらしいが・・・
最近のこと、娘が、お年寄りの荷物を持ってあげようと声をかけたら・・・
「上手いこと言って、ひったくるつもりでしょう!」といわれたことがあったらしく・・・
かなり落ち込んで帰ってきたことがあった。なんて奴だとあきれ果てたが、
盗る側でない人たちの心も殺伐としてきているのだろうか・・・・
私も美人の心を盗むことくらいはやってみたいが、最近ではそんな美人からは全く相手にされない!(17年7月15日)
誰だ!いたずら書きした奴は!
「お知らせ」のコーナーでも紹介したが、
平和病院の広報誌「へいわ」の記念すべき第1号がようやく完成した!
他の病院の広報誌は印刷業者に依頼し、ちゃんと刷ってあるものがほとんどだが・・・
平和病院の広報誌は手作りで(といえば聞こえはいいが、節約した)
広報委員が中心となってパソコンで作成し、原本をカラーコピーして作ることにした。
原本の内容をチェックして、OKと思われたので、外来の待合室に積み上げた。
表紙は「広報誌発刊にあたって」と、題して私が原稿を書き、写真も載せた(出たがりでしょうがない・・・)
そのあとは看護部長が療養病棟の音楽療法のこと、臨床心理士の院内活動状況についての紹介記事、
あとは、外来紹介、個人情報報保護に関しての文章が書いてある。
夕方、外来に行ってみると、看護師さんが、
「先生大変!これ、見ました?」と、カラーコピーしたものを一枚持ってきた。
自分の写真を見て驚いた!
誰かがいたずら書きをして、両方の頬に赤い丸を書き、唇を真っ赤に塗っている!
これじゃ「おかま」か、大阪の「くいだおれ」の前にいて太鼓をたたいているピエロの人形にそっくりじゃないか!
だれだ!こんないたずらした奴は!・・・せっかくのいい男がだいなしじゃないか!・・・と、おこってみたが・・・
よく見るとこれ一枚ではなく、待合室においてあるぜ〜んぶが同じ顔になっているではないか・・・
これは・・・いたずら書きされたのではなく、原本をカラーコピーしたために、、顔の部分が異様に赤くなってしまっていたようだ。
あわてて、「即・全部撤収!」の大号令をかけ、引き揚げさせた。
平和病院の院長は「化粧をしてる」などと思われるかもしれないではないか・・・
値段の高い厚めの紙にコピーするとそれほど目立たないのだが・・・
安めの薄い紙にしたのが災いしたようだ。
ただ、他のページのスタッフの顔は大丈夫なんだが・・・?
事務長が色を調整し再度コピーしてみたが・・・
今度は顔を白っぽく出そうとしたせいで、全体がかすんでしまい、影が薄い。
陽炎の中にいるようで、まるでバイタリティーが感じられない。
そもそも、この写真は最近替えた病院のホームページの「院長挨拶」の写真と同じものなのだが・・・
広報誌のほうは、背景に映っている絵の部分に、撮影してくれたクラーク二人の姿が、
心霊写真のように写っているし・・・(ホームページのものはトリミングしてある)
まあ、病院の中で配る広報誌なので、実際の姿を知っている人が持っていくのだから・・・
と思ってあきらめた。
記念に、「落書き版」を一枚家に持って帰って、娘に見せたら・・・
「あははははははは・・・この顔、超うける!・・おてもやんかい!」と大笑いされ、
息子からも、「なんだよ、父さん化粧してるみたいじゃないか!」とはっきりいわれた。
妻からは、「大丈夫、どんな顔してても・・・」と、わけのわからない慰め方をされた。
修正版は、待合室に置いてあるが・・・
こうなったら早く第2号を作ってもらわなくては!(17年7月1日)
稲垣吾郎がやって来るC
ファンの気持ち
廊下を進んで薬局の前に着くと・・・
ドアのすぐ先に医者と看護師が立っている。
その日は日曜日で、医者は自分ひとりだし・・・
よく見ると稲垣吾郎だ!
看護師役はどこかで見たことがあると思ったら・・・俳優じゃなくて、
さっきまでジーンズをはいて働いていたスタッフの女の子じゃないか・・・
あとから聞いたら、急遽駆りだされたそうで・・・
それでも白衣を着ると、全く違う感じになるから不思議だ。
しかも、女性スタッフはいっぱいいたのに・・・
やっぱり一番かわいいな、と思っていた子が看護師役になっている。
自分と一緒に薬をとりに来た看護師さんも、もちろん負けないくらいにかわいいのだが・・・(若干年上だが・・・)
「医者と看護師」の構成は同じなのに・・・・
やっぱりあっちのほうが見栄えがするよな〜と感心してしまう。
どうやら、撮影の真っ最中に割り込んでしまったので、
稲垣吾郎を待たせてしまっているらしい・・・
「すみませんね〜」などと、妙にどぎまぎしながら稲垣吾郎に謝って薬局に入り、薬を処方した。
向こうも軽く会釈したが、
「どうぞ〜」とか言うのかと思ったが、声は出さないで真剣な顔をしている。。
それだけ役に入り込んでいるのだろう・・・
薬局を出て、ドアに鍵をかけるのだが・・・
なんだか看護師さんの動作がいつもより遅い!
まあ、これだけ至近距離にいられることなんて、めったにないだろうから、しょうがないか・・・
後ろ髪をひかれる思いで、カメラのほうに歩いていった。
その後は患者さんも来なかったので、廊下のシーンも順調に進んで・・・
「オッケ〜イ」の声が聞こえて、スタッフがあわただしく動き出し、
稲垣吾郎は控え室に戻り、私服に着替えたあと、前日よりゆっくり病院の受付前に立っていた。
前日は手術をされるシーンで、ターバンのようなものを頭に巻かれていたので、髪型が乱れたせいか・・・
帽子を深くかぶっていたが、その日はサングラスだけだ。
ちょうど保険請求の時期だったので、医事課の職員もほとんど出勤しており、
ぞろぞろ出てきて「がんばってください!」などと声をかけている。
大勢のスタッフが見送る中、玄関前の駐車場から、車に乗って帰っていった。
そのあとからは、使用した機材がなどがトラックに積み込まれていく。
ちょうど救急車で患者さんが来院したので、少しバタバタしたが、大きな混乱もなく平和病院での撮影は無事終了した。
前日、稲垣吾郎が着ていた平和病院の寝巻きは、今後も使う可能性があるとのことで、
スタッフが、「もう少し貸しておいてくれ」とのことだった。
あとで病院に送り返してくれるそうだが・・・もちろん洗濯して返してくれるのだろうが・・・
「洗濯なんてしないでそのまま送り返してくれればいいのに・・・」
などと、職員の女の子たちが、老いも若きも、その寝巻きを狙っている雰囲気さえある!
ある職員などは、稲垣吾郎が横になったレントゲン室の撮影台さわり・・・
「ここに吾郎ちゃんが寝ていたんですね・・・」などと、目を潤ませている!
ファンの心理は計り知れないものがある。
自分の当直の仕事も終わり、部屋に戻り、控え室として使われていた部屋に入ってみたが、
すっかりきれいに片付けられていつものまま、この部屋に稲垣吾郎がいたなどと、想像もできなかったが、
稲垣吾郎が使っているコロンの香りなのか・・・?なんとも表現の仕様がないような香りがした。
放送は秋とのことで、決定しだい連絡をしてくれるそうだが・・・
どんなふうに映っていることやら・・・
楽しみではあるが・・
平和病院がふるくさ〜いイメージで映るのも寂しい気がするし・・・
複雑な思いで待っている。
稲垣吾郎の白衣姿が鮮やかだったせいか、
「あのね、モトが違うんだから、張り合ったってダメだよ」などと、妻や娘に言われながらも・・・
撮影の日以来、ワイシャツやらネクタイを選ぶのに妙に時間をかけるようになってしまった。
白衣も何とか糊付けを強くするよう、業者に注文をつけている。
(6月12日)
さて、これで稲垣吾郎の話も終了で・・
稲垣ファンの皆さん!お付き合いいただきありがとうございました。
このホームページにしては、驚異的なペースでのアクセス数で、逆に、早く書き上げてしまわなくては!とプレッシャーがかかりましたが・・・
ところで、この「飛鳥へ、そしてまだ見に子へ」の原作は
以前にも読んだことがあり、この機会に、もう一度読み直してみました(今は看護師やクラークが回し読みしている)
若くして肉腫にかかった医師の話で、
自分も肺癌の手術を受け、もうすぐ1年になろうとしているからか・・・
以前に読んだ時よりも、感情移入してしまい、かなり複雑な気分だったことも事実です。
主人公の医師の思いを、SMAPの稲垣吾郎ではなく、
俳優の稲垣吾郎として、しっかりと演じてもらいたいと思うし、
単にSMAPの稲垣吾郎にたよる番組でなく、しっかりとしたものに作り上げてもらいたいと思っています。
来週には自分にも転移・再発がないかどうか・・・肺のCTをとる時期になりました。・・・
稲垣吾郎がやって来るB
どっちが医者だか・・・
午後からは整形外科の外来でのシーンが始まった。
午前中に手術室で撮影が行われている間に、スタッフが整形外科外来を50年代の姿に変えていく・・・
パソコンを片付け、古い診察ベッドや椅子を運び込み、白いカバーをかける。
机の上に黒いダイアル式の電話機が置かれ・・・
喉を見るための舌圧子を入れる懐かしいガラスの容器がおかれると・・・
同じ部屋とは思えないほどあっという間にレトロな診察室に早がわりだ。
おまけにブラインドが少しゆがんでいる(これはもともとか・・・)
結局その日の撮影は夜遅くまでかかり、昼間の雰囲気をだすため、窓の外ではめちゃくちゃ明るい照明が照らされたので・・・
ご近所から苦情が来ないかと、はらはらした。
撮影が終わる頃は、玄関の前の事務室で様子を見ていたが、
稲垣吾郎は帽子を深くかぶり、夜にもかかわらずサングラスをかけ、あっという間に帰ってしまった。
サインのひとつももらいたかったが、そうもいかないらしい・・・
あわただしかった撮影騒動もこれで終わりかと思ったが、
監督が、X線撮影室と、廊下のシーンも平和病院を使いたいので、明日も撮影に使わせてくれとの事だった。
日曜日で、外来患者さんもいないのでOKしたが
そんなに「50年代」の雰囲気が漂う病院なんだろうか・・・?と少し複雑な心境だ。
どうせ自分は当直だし、翌日も夕方までは日直で病院にいなくてはならない。
翌日もじっくり撮影が見れそうだ!
次の日は、入院患者さんも何人かが気づき、外来待合室をうろうろしている。
スタッフも「仕事熱心」に予定外の休日出勤をしているのが何人もいる!
稲垣吾郎は今度は医者のシーンで、前日の手術衣の姿と違い、白衣をビシッと着こなし、
ネクタイをキリリとしめ、当直明けでよれよれの白衣を着ている自分より、よっぽど医者らしく見える。
やっぱり白衣はパリパリがいいのだが・・・
今の病院の白衣はレンタルで、生地のせいなのか・・・洗濯に出したてでもふにゃふにゃとしていて・・・
着易いといえばそれまでだが、実はあまり気に入っていない。
それはともかく、その日は病院が休診で、人もあまりいないため、、
安心したのか、稲垣吾郎も外来待合の椅子に座ったりしてゆったりしている。
前の日に比べれば露出度は大幅にアップだ!
ただ、休日といっても緊急患者さんは何人か受診する。
院外薬局は休みのところも多いので、薬が必要な患者さんには院内の薬局から処方することにしている。
院内の薬局はちょうど撮影が行われている廊下に面している。
たまたま撮影中に患者さんに薬を出さなくてはいけなくなった。
廊下に通じる通路にはスタッフが立っており、通行止めにしている。
ただ、治療で薬局を使うのだから、天下御免の通行手形を持っているようなもので・・・
カメラの前を通り過ぎ、そのままカメラを回してもらってもいいのにな・・などと考えながら、撮影の行われている廊下を進んだ。
なんだか自分も50年代にタイムスリップしたようだ。(17年6月3日)
稲垣吾郎がやって来るA
撮影開始
5月7日の朝は6時半には家を出て、7時前には病院に着いた。
事務長や手術室の看護師や施設課のスタッフも早朝出勤だ。
しばらくすると、撮影スタッフやコーディネーターなどが次々にやってきて、
昭和50年代に使用されていたような古い麻酔器や心電図モニター、手術機材などを手術室に運び込んでいく。
照明関係やカメラなど、その他の荷物も膨大な量で、
何をするのかもわからないような大勢のスタッフがどんどん手術室に入り込む。
前回の打ち合わせでは決めていなかった、俳優さんたちの控え室が必要との事で・・・
急遽、会議室(院長室とはアコーデオンカーテンでしきられているだけ)が手術室の看護師、麻酔医、執刀医役やエキストラの控え室となり、
稲垣吾郎の控え室は院長室の奥の生活機能訓練室にしてもらった。
土曜日の午前中は通常の診療が行われるので、
待合室には患者さんも増えてきた。
TV撮影が行われることは、お知らせしていなかったが、
患者さんが気づいて混乱しないかが心配だった。
自分は外来の担当日で、診療をしなければならない。
代診をたてて、手術室の中の撮影を見たいところだがそうも行かない。
外来開始時間になったので院長室を出て行くと、
奥の控え室のドアが開いており、稲垣吾郎が座っていた。
入ってくるのがわかるように気をつけていたのだが・・・・
いつの間に院内に入り、控え室にいたのか、隣にいて全く気づかなかった!
後ろ髪を引かれる思いで外来に降りていき、診療を開始した。
後から聞いた話では、かなりの人数の待合室の前を、術衣を着て稲垣吾郎が通っても、
ほとんど気づく人はいなかったようだ。
ドラマはその日がクランクインで監督さんも気合が入っているらしく、
撮影予定時間はどんどん延びていき、外来が終わる頃になっても手術室のシーンはまだ終わっていなかった。
外来を出ると、「脚を切断される」シーンで、脚だけうつるタレントさんが、
脚をむき出しにしてバスタオルを巻いた姿でうろうろしているところだった。
しばらくすると娘(SMAPのファンクラブ゙にはいっている)からメールが届き、
「今、お母さんと一緒に病院に着いた!」との事だった。
全く!・・・ふだんは病気になっても病院に来るのを嫌がるくせに!こんな時になると・・・
病院に来ても稲垣吾郎に会えるとは限らないのに・・・
しかたが無いので、院長室に連れて行きドアを全開にしておいた。
こうしておけば、控え室は院長室の奥なので、
控え室に戻るときにはどうしてもドアの前を通らねばならず・・・
顔ぐらいはみれるだろう。
しばらく院長室にいたが、その日はちょうど当直の日で(平和病院の給料は「高給」なので、院長でも、当直をしないと妻や子供を養っていけない!)
時間外の外来患者さんも診察しなくてはならない。
たまたま患者さんがやってきたので外来診療室に下りていく時、
階段で手術室のシーンを撮り終えた稲垣吾郎とばったり鉢合わせになった。
思っていたより背が高い。
患者役なので寝巻き(平和病院で以前使用していた人間ドック用の服を提供した)を着てサンダル履きだったが、
やはり「スター」は何かしらオーラのようなものを感じる。
常に人に見られる事によって養われるものなのか、あるいはこちらがそういう先入観で見るからなのか・・・
これがやはり「かっこい〜〜〜」というのだろう!
後で娘から聞いた話だが、
控え室に入ろうとしたとき、院長室のドアが全開になっており、
中に、わけのわからない高校生とおばさんがいて、じ〜〜〜っと見ていたため、
驚いたらしく、院長室の中を覗き込むようにして通り過ぎていったので、
妻と娘は間近で稲垣吾郎と目を合わせることが出来たと、大喜びしていたが、
その後すぐに、スタッフからドアを閉められてしまったようだった。
その日は土曜日で午後は休みなのにもかかわらず「仕事熱心な」職員が大勢居残りをしており・・・
まるで平日の午後のようなありさまだった。(つづく)(17年5月25日)
稲垣吾郎がやって来る@
昭和50年代の雰囲気!?
ある日、事務長が一枚のFAXを持って院長室にやってきた。
フジTVから、ドラマの撮影で病院を使わせてくれないか・・・との打診だった。
フジTVといえば、昼の連続ドラマ「冬の輪舞」が始まる前にも同じような話があり、
撮影スタッフが、かなりの人数やってきて玄関のサイズなどを測って行ったことがあったが・・・
結局は連絡がないままドラマは始まってしまった。
けっこう視聴率がいいらしい。
また、同じようなことかとも思ったが、
企画書を見ると、単発のドラマで、「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という実話に基づいたものだった。
この話は以前に読んだことがある。
足の肉腫に侵された若い医師の話で、足を大腿上部で切断したが、病魔があっという間に肺に転移し
幼い子を残して命を失う話だ。
妻と幼い子を母一人、子一人にしたくないと、手術のあと、抗がん剤を使いながらも子供を作るのだが・・・
二番目の子供が生まれる前にその医師は帰らぬ人となってしまう。
その医師が書いた日記、手紙などから構成されている話だ。
主演のところを見ると、「稲垣吾郎」と書いてあった。
え!あのSMAPの稲垣吾郎!?
めちゃくちゃ有名人ではないか・・・にわかにミーハーの血が騒ぎ出す!
コーディネーターが病院を見にきたいというので、即OKした。
数日後、コーディネーターがやってきて、院長室で面会した後、事務長が病院内を案内した。
手術室、診察室、廊下、病室などを撮影に使いたいとのことだったが、
手術室も1年前、外来はついこの間全面改修したばかりで、ピカピカだ。
どこに出しても恥ずかしくはないのだが・・・
何しろ実話に基づいており、時代背景も当時のまま!という設定らしい。
実際の話は昭和50年代、私が医者になった頃の話だ。
新しくした外来は「きれい過ぎて」当時の雰囲気が出ないから使えないという!
ここ数年平和病院はいろいろと改修していき、以前に比べるとずいぶんきれいになっているが・・・
創立は昭和21年で、昭和50年代どころの話ではない。
改修されずに残っている部分は、幸か不幸か、まだ思い切り昔の雰囲気が残っている。
コーディネーターは整形外科の診察室が気に入ったらしく(ここはまだ改修していない)
写真を何枚も撮っていった。
家に帰って妻と娘に話したら、絶叫された。「絶対に使ってもらって!撮影の時はぜ〜〜〜ったい見に行く!」
とのことだったが・・・撮影に使うかどうかは私が決めることではない。
どうせこの前の「冬の輪舞」の時のようにすっぽかされるのだろうと思っていたが・・・・それから少したった日、
事務長が「撮影に使わせてくれと言ってきました」と院長室に報告に来た!
後日スタッフと一緒にもう一度詳しく打ち合わせに来るとのことだった。
何日か後、先日来院したコーディネーターがADと一緒にやってきた。
最終的に手術室、整形外科の診察室を使うとのことで、特に手術室では手術の方法、術者、助手、看護師の位置、
麻酔器、モニターの位置などから、手術方法など細かなことまで聞かれ、手術器具などもみせた。
平和病院の手術室ではモニター、麻酔器などは最新の機器を使用している。さすがに昭和50年代のものではないことは一目でわかる。
撮影当日は、麻酔器も、モニターも当時のものを運びこむとのことだった。
「手術台に乗っているとき顔は見えますかね?」と、質問された。
顔が見えなければ、稲垣吾郎でなくてもいいわけだ・・・
「いやいや、顔はばっちり見えますよ!」
稲垣吾郎を手術台に乗せたい?一心で強調した。
その日の打ち合わせは2時間ほどで終わり、いよいよ撮影は5月7日の土曜日に決まった。
午前中に手術室、午後に整形外科外来での撮影予定で、朝の7時頃から機材を運び込むことになった。
ついに稲垣吾郎が平和病院にやってくる!(つづく) (17年5月11日)
地獄からの開放!
乳癌の診断は、触診だけでは見逃しの可能性があり、最近はマンモグラフィの重要性が認識されてきている。
マンモグラフィの読影には認定試験があり、私もかなり苦労して検診精度管理中央委員会の試験を受けたことがある。
(このホームページにも試験の時のことを書いたことがあるので見ていただきたいが・・・)
かなり厳しい試験で、合格はしたものの、2日がかりの講習と試験は、終わったときには朦朧とするほどで、
もう二度と勘弁!といった感じだったのだが、
5年毎に更新のため、再度試験を受けなければならないことになっていて、考えただけでもうんざりしていた。
平和病院では私のほかに、下田も認定を受けている。
今回笹田が認定試験を受けた。
幸い、何とか合格していた。
平和病院くらいの規模で3人の読影認定医師がいる病院は、自慢するわけではないが
(と言いつつ自慢しているのだが)あまりない。
平和病院のマンモグラフィの読影は読影認定医師が、ダブルチェックを行っている。
先日笹田が合格の報告に院長室に来た時、合格認定の書類を見て驚いた。
合格通知の後に書いてある文章に・・・
なお、今後は認定の更新制度はなくなりました、と書いてある。
と、いうことは・・・あの地獄のような試験を受けなおさなくていいのだ!
や〜めでたい!
笹田が受かっためでたさなどは、どうでもよくなってしまい
自分が試験を受けなおさなくてよくなったことのほうが、ず〜っとうれしく、
やった〜!と思わず叫びたくなった。
もちろん、マンモグラフィの読影は日常欠かさず行っており、
検診の読影医師の所見と自分の所見は対比して、見直しもしている。
また、少しでも気になる所見があれば、超音波検査も必ず行うようにしており
見逃しの無いよう、細心の注意を払っている。
更新試験が無くなったのには、複雑な事情があるようだが・・・
そんなことは関係なく、無くなったことは、とにかくめでたいことだ!
だいたいこの年になると、「試験」という言葉だけで憂鬱になってくる。
医師免許の更新制度を行うべきだという意見も、現実味をおびつつある今日この頃・・・
まさか医師国家試験を受けなおす制度が決まり、
もし落ちたら、医者を廃業せざるを得ないような事態になるとしたら・・・
考えただけでも気が重くなる。(平成17年4月9日)
基本理念そのもの
昨日、病院の有志による送別会が開かれた。
施設課に長年努めてくれていた渡辺さんの送別会だ。
もう、病院に勤務して19年になる。
施設課と言っても、平和病院のような中小病院では、何でもこなす縁の下の力持ちだ。
もちろん、医師、看護師などの医療スタッフは病院には必要だが、
施設課の職員のように、土台を支えてくれる人たちがいないと病院は身動きが取れなくなる。
今でこそ、施設課は職員が2名だが、渡辺さんは、今の主任が勤務するまで、ほとんど一人で病院を支えてきた。
昔、まだ、暖房がボイラーだったころは、朝の4時に起きて、病院にきて、夜遅くまで管理の仕事をこなしていた。
そればかりではない、やれ蛍光灯が切れただとか、ドアが壊れた、床がはがれた、雨漏りがしたなど・・・
ありとあらゆる雑用が病院中のあちこちから湧き出てくる。
中には、ずっと年下の職員から、生意気な口調で頼まれたこともあったに違いないが、
私は、平和病院に来てから、昨日の送別会まで、
渡辺さんが怒ったことや、嫌な顔をしたのをただの一度も見たことがない!
「忙しい」とか、「出来ません」とかの言葉も聞いた事がない。
「少し時間がかかるかもしれませんが」と、言っておいて、あっという間に対応してくれる。
誰からも、渡辺さんのことを悪く言う言葉を聞いた事がない。
いつも優しく、誠実で、ニコニコと笑顔を絶やさず、物静かで、病院の基本理念がしみこんだような人だった。
病院のために、好きな旅行も我慢して、身を粉にして働いてくれた。
私など、ちょっと忙しくなると、眉がつりあがったり、眉間にしわを寄せてしまうのに・・・
まだまだ、渡辺さんの域に達するには修行が足りないと痛感する。
さすがに、年齢的なこともあり、惜しまれながらもリタイアになった。
昔は、いろいろ部署を超えて飲み会も行われていたが、
それも、職員の数が、今の半分以下の時代だ。
今は、何事も部署単位のことが多くなったが、送別会には部署を超えて、多くの職員が集まり、
皆が心から名残を惜しんだ。
やはり、えらそうなことなど一言も言わなくても、黙々と行動で示せば、人は信頼を寄せるものだということを
背中で教えてくれた人だ。
送別会も終わりに近くなって、本人が、挨拶にたったが・・・
人柄をを示すような、朴訥とした、しかも、飾りのない、心に響く言葉だった。
これからは、健康に留意して、奥様と二人で、今まで出来なかった旅行にいったりして、
たまった疲れを癒していただきたいと思う。(平成17年3月25日)
つりあがる眉!
現在、外来の改装工事が急ピッチで行われている。
外科外来、内科の一部が新しいブースで診療を始めているが、ここも仮の場所で、
全部が完成したら、また、移動しての診療になる。
工事計画の時点では、眼科開設の予定がなく、
鶴見病院の閉院に伴い急遽追加でスペースの確保が必要になった。
旧薬局部分は、救急対応の診察室兼外来点滴室の予定だったのだが、
眼科開設に伴い、眼科診察室が当然必要になる。
はじめは、泌尿器科、皮膚科に使用している多目的診察室でも・・・
などと考えていたが、
正直言って、眼科にあれほどのスペースが必要とは思わなかった。
旧薬局部分だけではとても足らず、現在の心電図室までが眼科検査室にとられてしまう。
当然心電図室をどこかに確保しなくてはならない。
外来の看護師からは、処置室はどうするんですか!X線保管庫はどうなるんですか!
点滴室がなくなるじゃないですか!
と、せめられ、最後には天下の宝刀、「このままでは患者様にご迷惑がかかりますよ!」の言葉でとどめを刺される!
言われているうちに、さすがに眉がつりあがってくる。
しかも、予定になかった電気工事(眼科の機器にかなりの容量の電気が必要になるため)が発生したりで・・・
費用はどんどんかさんでいく!
患者さんに気持ちのよい環境で診療を受けていただくためとはいえ、
このまま鶴見病院と心中!なんてことにはならないだろうな・・・と、眉と眉の間にどんどん縦じわが増えていく!
工事の騒音では入院中の患者さんから苦情をいただくし、
鶴見病院からの患者さんには、平和病院に移ったら、薬の値段が高くなった!と、おこられるし、
(「お知らせ」の部分でご説明してありますが・・・)
昔の漫画「巨人の星」の星一徹のように「でえい!」と、ちゃぶ台をひっくり返したくなるような心境になるが・・・
いかんいかん・・・と、気を取り直し、にっこり引きつった笑いをうかべ、あと2週間ちょっとで、何とかまとめ上げなければならない。(平成17年3月19日)
え〜!パクリ??
今、いろいろな病院で広報誌が作られるようになり、送られてくる。
平和病院も、広報委員会で、広報誌の発行を計画し、名前まで決まったが、まだ第1号の発行にこぎつけていない。
先日、比較的近くにある日本K病院の広報誌が送られてきた。
当院の広報誌の参考になるかな・・・と思って読んでみると、
「病院のロゴマーク決定!」の記事がトップニュースになっている。
職員から募集し、いくつかの候補から選んだとか・・・
どれどれ、と思って見てみると・・・
あれれ!どう見てもどこか見覚えのあるような感じが・・・
色はグリーンで、Kの文字が擬人化されていて、顔を現す丸が加えられているって・・・
おいおい、平和病院のロゴマークと、うり二つじゃないの!
ご存知のように、平和病院のロゴマークはHを擬人化し、顔をあらわす丸が加えてあり、元気に右手をあげているように描かれている。
HがKに変わっているだけで、色も一緒だ!
うちのマークのHがクイッと少し腰をひねったイメージで・・・
こうするとHがKになる。うちのマークは四角で囲んであるが、向こうは楕円で囲んである。
まあ・・・要するに、ありふれた発想といわれればそれまでだが・・・
平和病院のロゴマークは私が原案を作って、デザイナーにまとめてもらったもので、それなりに気に入っている。
いまや、病院の「顔」だ。
ここまでイメージを似せられると、正直言ってあまりいい気持ちはしない。
まさかうちのマークをぱくって応募したのではないだろうが・・・
一刻も早く平和病院の広報誌を完成させ、ロゴマークを付けて、この病院にだけは絶対に送ってやろう!と思っている。(平成17年2月26日)
お父さんを信じなさい!
外来に、うら若き女性が来院した。清楚な感じの、それはきれいな女性で
20歳だった。
風邪で、薬をのんだのだが、効かないので受診したとのこと。
売薬でものんだのかと思い・・・
どんな薬か見せてもらったが、
自分が処方しても、こんなもんだというような、ちゃんとした薬が処方されている。
「どこの病院で処方されたんですか?」
「あの、父が医師なので、父から処方してもらったんです」
「何科の先生なんですか?」
「内科なんですけど、血液内科が専門で、父の薬は効かないので、他の先生に診ていただこうと思って・・・」
効かないっていったって、昨日のみ始めたばかりじゃ・・・
よく、風邪で他の病院の薬が効かないと言って、受診してくる患者さんがいるが、
そもそも、のんで、いっぺんで治るような魔法の薬があるはずはなく・・・
だいたいが、何日かしてから、徐々に効いてくることが多い。
よほどのことがなければ、十分に休養をとり、栄養を取っていれば自然に治ってくるもんだ。
後から別の医師を受診したころには、もうすぐ治る時期なので、薬を新しく処方するころには、すぐ治ってしまい・・・
前の先生は「風邪も治せないやぶ医者」という評価になり、後の先生は「名医」となったりする。
自分も、娘の体調が悪い時には、薬を処方するが・・・
娘の評価はいまいちだ。
なんだか、自分の娘に言われているような感じになってしまい、この患者さんの父親の医師に同情してしまった。
「お父さんの処方は、すごくいい薬ですよ!もうしばらくのんでいれば、必ず良くなるはずです!
もう少しお父さんを信用してあげなくちゃかわいそうでしょ!
出された分をのみきって、それでもダメならもう一度お父さんに相談してごらんなさい」
と、会ってもいない医師のことを必死で弁護してしまった。
その患者さんの父親は、たぶん私と、ほぼ同じ年代だと思うと、なおさら違う薬なんか出せずに・・・
「おだいじに」ではなく「お父さんをだいじにね」などと、とんちんかんなことを言って送り出した。(平成17年2月19日)
外来大忙し!
最近、風邪やインフルエンザがはやってきているのは感じていましたが・・・
2月12日(土)の外来は今まであまり記憶にないほど、多くの患者さんが受診し、
待合室には人があふれんばかりの状態になりました。
内科は2診で行っていましたが、
あまりに多くの患者さんがいらっしゃり、待ち時間がどんどん長くなり・・・
私が外科の外来を担当していましたが、風邪症状の患者さんを何人も引き受ける羽目になりました。
インフルエンザ検査で陽性の患者さんが何人も出て、皆さんにマスクを着用していただきましたが、
風邪症状ではなく、いつもの外来にかかっていらっしゃる患者さんに、うつるのではないかと、ひやひやする始末です。
あまりにも患者さんが多いので、11時半の受付終了にもかかわらず、私が診療を終えたのは2時になっていました。
インフルエンザの検査キットの在庫は残り2人分しかなくなってしまい、急遽発注かけなければいけなくなってしまいました。
まさに、「猛威をふるっている」という感じです。
外出時はマスクを着用し、帰ったら手洗い、ウガイをし、十分栄養、休養をとって、風邪にかからないようにご注意ください!(平成17年2月12日)
女子事務職員の制服
お気づきの方も多いと思いますが、今月から、女子事務職員の制服が変わりました。
以前はピンクの上下でしたが、
今回はネイビーのスカートに、うすいグリーンのチェック柄、おなじネイビーのリボンがネクタイのようについています。
感じが変わって、なかなかいいと思いますが・・・・
新しい制服をどのようなものにするか、
以前はカタログから、事務職員が自分たちで選んだようですが、なかなか意見がまとまらずに苦労したようで・・・・
今回はカタログが院長室に届き、選んでくれとのことでした。
受付の職員も着るので、病院のイメージも左右しかねません。
結局、どんなものを選んでも、「院長の趣味だから・・・」と批判を一手に受けることになるので、責任重大です。
(最近は改装時に床の色や、クロスの色も、全部私が決めるようになっています)
「院長ったら、全く趣味が悪くて・・・」などといわれないようにしなければなりません。
カタログをめくりはじめましたが・・・・
かなり厚いものが何冊もあり、種類も多く、迷います。
また、悪いことに、写っているモデルが、皆スタイル抜群で、美人の外人さんときているので・・・・
どの制服を見ても素敵に見えるし「かわいいじゃな〜い!」と思えてしまい、
ページをめくっている間に、いつの間にか制服ではなく、モデルのほうを見ているのに気づく始末です。
事務職員の顔を思い浮かべて、想像してみても、どうもピンときません。
何点か選んで、この中から選ぶように言ったのですが・・・・
(スチュワデスが着るようなものや、秘書が着るようなイメージのものが多かったのか・・・)
やれ、白は汚れが目立つだとか、スカートがタイトすぎて動きにくいとか、結局全部却下されてしまいました。
それなら、自分たちで何点か選び、その中から私が決める、ということにしたのですが・・・・
はじめに私が選んだものとは、だいぶ違ったイメージになっていましたが、
なかなか落ち着いた、無難なものが選ばれていました。
その中で選んだのが、今の制服です。
職員が試着したのを見ましたが・・・・もちろん外人モデルが着ていたイメージとは若干ちがってはいるものの、
なかなかにあっていて、今までの制服よりは、しまった感じが出て、今はけっこう気に入っています。(平成17年1月22日)
町内会の底力!
先日「院長への手紙」にお手紙をいただきました。
平和病院は住宅街の中にあり、広い道路に面していません。
しかも、朝の7時から9時は途中の道が一方通行になり、
細い道を迂回してT字路を曲がらなければなりません。
このT字路は見通しが悪く、以前ずいぶん苦労をし、ミラーがついたのですが、
片側しかついておらず、反対側(病院側)から来る車が見えず、危険でした。
このことをご指摘いただき、「病院でミラーをつけるように検討してくれ」、という内容でした。
病院内の施設と違い、私が勝手につけるわけには行きません。
以前の大変さを知っているだけに頭を抱えました。
確かに、病院の近くには幼稚園もあり、いつ事故があってもおかしくない状態でした。
ミラーの重要性は十分理解してはいましたが・・・
お役所はいくら危険性を強調しても、実際事故が起こらないと、なかなか動いてくれないことも多く・・・
平和病院の話ではないのですが、ず〜っと前、私がまだ大学病院に勤務したてのころ、
千葉大の病院の前の細い道に、信号が無い交差点がありました。
見通しが悪く危険で、不自由していましたが、ある日、私の第一外科の同級生の「O」が案の定、その交差点で接触事故を起こし、
たまたま、相手が県会議員の奥さんだったようで、その後あっという間に信号がついて、
それ以後、ずっとその信号は「O信号」と呼ばれていたことがありました。
話を戻しますが・・・
私の患者さんに、町内会の役員をやっていらしたSさんがいるので、
外来にSさんがいらしたとき、この手紙をお見せして、相談してみました。
Sさんはさっそく町内会に持ち帰ってくださりましたが・・・
翌日の午前中にも外来に顔を出していただき、「今、町内会で動いていますから」
との事でした。その日は午後から手術があり、夜に終わって院長室に帰ると、
机の上にメモがおいてあります。
読んでみると、「夕方、町内会のSさんから連絡があり、ミラーを付けましたので確認してください!とのことでした」、との文面です。
え!!昨日お願いしたばかりなのに!?
帰りに確認すると、確かについているではありませんか!
信じられないほどの迅速な対応に、呆然とミラーを見つめました。
平和病院は地域に密着した病院です。
地域の皆様に支えられて半世紀以上も続いてきたことが、
実感として理解できました。
病院からのお願いに、こんなにも早く対応していただき、本当にありがたく・・・
これからも地域の皆さんのために頑張っていこう!という気持ちを新たにしました。(平成17年1月16日)
新年にあたって
昨年の一年間を象徴するかのように、大晦日は雪が降り、厳しい寒さになりましたが、
元旦は抜けるような青空が広がり、気持ちの良い朝になりました。
今年は、休み明け早々に、外来改修の本格的工事に突入します。
この3月で閉院となる東芝鶴見病院の患者さんを、
グループ病院として、責任を持って診療継続を行うため、
新たな診療科の開設や、職員の増員、鶴見病院の非常勤医師による診療継続など・・・
また、送迎バスのルートおよび時間帯変更など
前半は、かなりばたばたすることが予想されます。
ご利用いただく皆様に、ご迷惑をおかけしないよう、
細心の注意が必要ですが、診療場所の移動、騒音など、頭の痛い問題を抱えています。
さらに、外来を受診される患者さんも増えることが予想され、待ち時間、駐車場の問題など
解決しなくてはならない問題が山積みです。
「今年はのんびり」、というわけには行きそうもありません
箱根駅伝で優勝したチームの監督が言っていました。
「監督はレースのストーリーを作り、配役を決める。ただ、それがうまくいくかは、それを演じる役者がきちんと演じてくれるかどうかなのだ・・・」と。
病院の運営も似ていると思います。
どのような方向性で病院を運営するのか、舵取りをするのは院長の仕事ですが・・・
職員が実力を発揮し、患者さんのことを大切にし、病院の基本理念に即した行動を取ってくれなければ、
あっという間に荒波に飲み込まれてしまいます。
幸い平和病院は役者に恵まれています。
それぞれの部署で主役、脇役、裏方が力を合わせて病院を支えてくれています。
私はこの職員が気持ちよく仕事ができる環境を、責任を持って整えなければなりません。
そして、そのことが患者さんにとっても、よりよい医療、介護を提供できる原動力になると思っています。
昨年は健康面で足元をすくわれましたが、
今年はそのぶん挽回し、年初からフル回転で行きたいと思います。
皆様にとっても、職員にとっても、そしてもちろん私にとっても、すばらしいとしになることを願っています。(平成17年1月3日)
良いお年をお迎えください
病院も29日で今年の外来診療を終了した。
夕方からは、食堂で納会がひらかれ、いつものように1年が終わった。
ただ、病院には入院している患者さんもいる。病棟の看護師に休みは無い。
医事課の職員も、薬局の職員も、年末年始は何日か出勤する。
もちろん、当直医も勤務している。
透析は元旦だけしか休めない。
多くの職員が病院の年末年始を支えてくれている。
今年は病院にとっても、自分自身にとっても激動の年だった。
外来待合、玄関正面、受付の全面改装、医療機能評価受審があり、
ほっとした矢先に、6月には体調を壊して手術、
手術後よりも、むしろその前の1ヶ月くらいは精神的にもかなり落ち込み、
正直言って仕事も手につかない状態だったが・・・
さいわい大きなトラブルも無く7月に復帰、
パンフレットの作り直しを行い、
さて・・というころに東芝鶴見病院の閉院の決定、これに伴う検査、診療などの継続のための準備開始、
外来診療ブースの全面改装着工と、息をつく間もないほどだった。
さらに暮れになってから、ぎっくり腰だ、歯が割れるだと体調を崩し
若いころにお世話になった先生方の訃報が続き、数日前には「雑感」の「同門会」のところで書いた、医局のおばさん、
野村さんの訃報が届いた。交通事故だったそうだが、つい1ヶ月前に話した元気な顔が思い出され、ショックだった。
大事な人が、次々にいなくなってしまった。
自分が病気になったから余計感じるのかもしれないが、
悲しい知らせを受けたときの落ち込みが、以前よりもずっと大きいのを感じる。
病院に関しては、今年1年で、大きく成長したと思っている。
これも多くの職員が私を支えてくれ、理念どおりの働きをしてくれたおかげだと感謝している。
もちろん、ご利用していただいた多くの皆様にも支えられて、
厳しい医療、介護の荒波を、何とかのみこまれずにしのいで来れた。
「おかげさま」の気持ちを、いつもの年の何倍も強く感じている。
平和病院をご利用の皆様、そして、それを支える職員の皆さん、今年は本当にありがとうございました。
来年は、今年よりずっといい年にしたいと思います。
皆様も良い年を迎えられますようお祈りしています。(平成16年12月30日)
夢のお告げ
よく、夢でお告げがあって、宝物を掘り出したとか・・・・いう話を聞いたことがある。
自分自身では、あまり信じていなかったが、
先日患者さんがやってきて、
「夢のお告げがあって、乳がん健診を受けなければ、大変なことになる・・・というのでやってきました」と言う。
幸いその患者さんは異常所見が見つからなかった。
今後、定期的に経過観察となったが、これがきっかけとなり、
続けて検査を受けることで、早い時期に病気を発見出来る可能性があることは事実だ。
夢のお告げに従ってよかった・・・ということになるかもしれない。
話は変わるが、私は豚汁が大好物だ。
残念なことに、子供たちは豚汁が大嫌いなので、我が家の食卓には豚汁がめったに出てこない。
ある日、帰ったら、珍しく豚汁がでてきた。熱々の豚汁にはごま油と七味唐辛子をたっぷり入れるのが、なんともいえない。
ところが、いざ食べようとすると、七味唐辛子が出てこない!
「どこを探しても見つからない」という・・・
唐辛子のかかっていない豚汁なんて・・・豚汁じゃない!!!
めったに食べられないのに、唐辛子が無いなんて・・・と断腸の思いで食事を済ませた。
今度豚汁が出てくるまでには、何ヶ月も待つしかない・・・
その日の夜、夢を見た。
七味唐辛子を探している夢だ。確かこの辺に・・・とかいって、ゴソゴソと冷蔵庫の棚の奥を探したいたら・・・
あったあった!ほ〜ら、こんなところにあるじゃないか!という夢だ。
夢にまで見るくらいなので、よっぽど唐辛子の無いのが悔しかったようだ。
翌朝、パン食にもかかわらず、残り物の豚汁が出てきた。
ふと、昨日見た夢を思い出し、冷蔵庫をあけ、夢の中で見つけたあたりを探してみたら・・・
なんと、いつもなら置いていない場所から、本当に七味唐辛子が出てきた!
やはり、夢のお告げは実際にあるのだ!と驚いたが・・・・
まてよ、夢のお告げなんてものは、おそらくそんなにしょっちゅうあるわけが無い。
そんな大事なチャンスを、豚汁に使う七味唐辛子のために使ってしまったことが、猛烈に悔やまれた。
何かをすれば命が助かるとか・・・宝くじが大当たりするとか・・・もっとスケールの大きなことに使いたかったような気がしたが・・・・
朝の豚汁は、おいしく飲めたので・・・
それはそれで、感謝しなければならないと思い、
ささやかな幸せで満足することにした。(平成16年12月26日)
歯をくいしばらない!
前から時々左の下の歯が痛くなることがあった。
抗生物質や痛み止めをのむと数日で治っていたので
今回もたかをくくって、薬を飲んでいた。
ところが、今回ばかりは一向によくならない。
それどころかどんどん痛みが強くなり、痛み止めをいくらのんでもまったく効かなくなった。
土曜日の外来の時には、歯があたると飛び上がるほどの痛みになり、食事が食べられなくなった。
物がかめずに、ゼリーとか飲み物だけしか入らない。
「歯が痛いといって、実は心臓がおかしかった」という話がよくあり、ひょっとして狭心症や心筋梗塞にでもなったのかと恐ろしくなった。
それでもまだ、坐薬でもいれれば何とかなるだろうと思っていたのだが・・・
日曜日には、さらにひどい状態になった。「歯が浮いている」ので
口を閉じると一番痛い部分がまっ先にあたって、思わず声が出てしまう!
たまらず月曜日の朝一番で、いつもお世話になっている鶴見歯科大の瀬戸先生のところに駆け込んだ。
レントゲンをとり、保存科に回されたが、
治療をしてくれた先生が「高橋さん、よっぽどストレスがたまったり、我慢したりしているんですか?」という。
「歯が割れてますよ!よっぽど強く歯を食いしばるみたいですね・・・」
あまりにも強く歯を食いしばるので、歯が割れたんだそうだ。
そんなに意識して歯を食いしばった覚えも無いのだが・・・
割れた歯の間から、ばい菌が入り化膿したとの事で、反対側の奥歯も割れかけていると、恐ろしいことを言われた。
まさか、そんなことは無いんじゃないの?と半信半疑だったが、
次の治療のとき、違う先生からも、「そうとう歯をくいしばっていますね!」と言われた。
確かに、院長なんていう仕事は、ニコニコ笑ってばかりでは勤まらない。
もちろん患者さんの前では、そんな態度は見せられないが、イライラしたり、思うようにいかず、「歯を食いしばる」事だって多い。
この前手術を受けて、痛みをこらえたりしたときには、歯もくいしばったかもしれないが・・・・
歯が割れるほどとは・・・・
「くれぐれも意識して、歯をくいしばらないようにしてください!」
と、注意を受けたが・・・・
口を半開きにしているわけにもいかず・・・
ストレスの感じない病院にするしかないか・・・と思ったが、
そうするまでには、全部の歯が割れてしまうかもしれない!(平成16年12月12日)
あんぱんまん
前に書いたように、病院のパンフレットを新しくすることになって、
写真なども撮り直し、内容も大幅に刷新し、
印刷前の原版が出来上がってチェックすることになった。
表紙の写真を見て、まず驚き!
なんか顔が変!
笑い顔が引きつってるし、ほっぺたの色が妙に赤っぽく、ふくれているし・・・
手も、なんかこむら返りを起こしているように不自然な格好をしているではないか!
ごく一部からはではあるが、平和病院の「ヨンさま」とまでいわれたのに・・・これでは「アンパンマン」そのままではないか・・・・
院長挨拶の部分の写真も微妙にに年をとって写っているし、笑顔もぜ〜んぜん不自然!
どう見ても4年前のパンフレットのほうが、いい男に写っている。
まあ、それだけ年をとったといわれればその通りなのだが・・・
言い訳するわけじゃないが・・・(って、思いっ切りいいわけなのだが・・・)考えてみれば、この写真を撮ったのは手術後復帰して2週間足らずのときだった。
体重は今より4キロも多かったし、体全体が浮腫んでいた時期だ。
ただ、あんなに何枚も写真を撮ったんだから・・・
きっといい男に写っている写真があるに違いない!
もう、一緒に写っている女の子の写り具合には目もくれず、
「撮った写真をぜんぶチェックさせてくれ!」と駄々をこねた。
「紙の質のせいもあるんじゃないですか?」などと、事務長が慰めるのも聞かず、
何日か後に写真を持ってきてもらい、食い入るようにしてチェックした。
やはり!み〜〜〜んなアンパンマンだ!!!
がっくり来たが、無いものはしょうがない。そのままの写真を使うことになった。
一緒に写っている女の子にも見せたが、彼女は彼女なりに、もっとず〜っと美人のつもりらしく、
少なからず不満げだったので・・・皆こんなもんか・・・とも思った。
印刷の注文に出し、つい先日、出来上がってきた。
「紙質」で少しでもカバーできれば・・・と淡い期待を抱いていたが・・・
自宅に持って帰り、子供に見せたら・・・
「アハハハ・・・お父さんの顔、アンパンマンみたいじゃん!」と、見たとたんに、言われたくないことをモロに言われた。
つい最近、横浜市病院協会雑誌の病院紹介コーナーの原稿依頼があった。
写真も添えて・・・との事だったので、自分のデジカメを病院に持って行き・・・
外科のクラークに、もういいんじゃない、というくらい激写してもらった。
印刷してみたが・・・ほ〜〜〜ら、こっちのほうが、どう見ても男前に写っている。
少し安心した。
こちらは、来年に発行されるとの事だが・・・
私の顔は別にして、パンフレットそのものは、けっこう良くできていた。
特に、青い空をバックに、患者さんと、看護職員が笑いあっている写真は、
すごくほのぼのとして素敵だ!
入院される患者様には、皆さんにお配りしている。(平成16年12月4日)
大逆走:ぱーと2
あの事件以来、最近は交通規則もきちんと守り、
逆送することも無く、通勤しているのだが・・・
ほとんど毎日といっていいほど、同じ車が逆送してくるのに気づいた。
だいたい8時半少し前に駐車場に着くのだが、ほとんど同じ時間に、すれ違うはずの無い道ですれ違う!
運転しているのは少し年配のおばさんだ。
もう、文句を言うのも面倒なので、やり過ごしていたが、
ある日たまたま、道が少し細くなっているところで、すれ違う羽目になった。
今度こそこっちが正しく、相手が違反をしている!
ところが、おばさんは、さも迷惑そうに私のことをにらみつける!
さすがに、すれ違うとき「一方通行だよ!」
と、言ってやった。
恐縮すると思いきや・・・
「そんなこと無いわよ!」とおこられた。
さすがに頭にきた。しかも止まっている所は、標識のまん前で、
「7時から9時までは一歩通行」の表示が書いてある。
もちろん、矢印は私の進行方向と同じ方向を向いている。
「そこに標識があるじゃないですか!見えるでしょ!」
「この道はね、8時半までが一方通行なのよ!」と相手も譲らない。
そんなこといっても、少し上を向けば、標識が見えるじゃない!・・・
と思ったが、相手はかたくなに前を見て、標識を頑として見ようとしない。
「だ〜か〜ら!9時までなんだよ!」
と言っても、
「私はずっとこの道を通ってるのよ!8時半だったら8時半なのよ!」などと、どっかで聞いたようなことを言って逆切れし、怒り出した。
周りには人が通っている。場所も病院の近くだ。
平和病院の院長が女の人に向かって、意地悪をしている!などといわれたら、たまったもんじゃない。
しかたが無いので、こちらがすごすごと道をよけた。
まったく!
朝から気分が悪い・・・
それから何日かあと、
駐車場に車を止め、病院のほうに歩き出したとき・・・
けたたましいクラクションの音がして、「一方通行だぞ!」と、大きな声がした。
よく見ると、この前のおばさんの車が、怖そうなお兄さんの乗った車にクラクションを鳴らされ、どやしつけられていた。
ほ〜ら、だから言わんこっちゃ無い・・・(平成16年11月14日)
大逆走
在宅支援センターの建設に伴い、一部の職員の駐車場が移動になった。
私も、今までは病院の目の前だったのだが、少し離れた場所に移動になったのだが・・・
駐車場に行く道は、ちょうど、小学校の通学路になっているため、朝の7時から9時までは一方通行になっている。
このため、わざわざ規則どおりに、一方通行を遠回りするようになった。
狭い道を通り、曲がり角では切り返しをしなければならない。
とこるが・・・
自分は毎朝ちゃんと規則を守っているのに、一方通行の反対側から、
必ずといっていいほど逆走して来る車がある。
時々はパッシングをして、「一方通行だよ!」などといっていたのだが・・・
ある朝、軽自動車が、逆送してきた。
普通は道の端によけるのに、正面に突っ込んでくるではないか・・・
まったく、不届きな!
規則を守っているのはこっちなのに・・・と、頭にきていると、
すれ違いざま窓が開き、若いお兄さんが、「一方通行だぞ!」と言ってきた。
こいつ、なに考えてんだ!
こちらも窓を開け
「こっち側の一方通行だ。逆走してるのはそっちだろ!」ときりかえす。
お兄さんも負けていない・・
そんなことは無い!自分はちゃんと標識を見てきたばかりだ・・」と譲らない。
「い〜〜〜や!、そんなことは無い。絶対にこちら側の一方通行だ。自分は10年以上もこの道を通っているのだから、間違うわけが無い!
間違っているのは、あんたのほうだ!嘘だと思うなら、もう一度標識を確認してみろよ!」と、こちらも譲らない。
何しろ、自分は100%正しいと思っているので・・・
「間違いない!ぜ〜〜〜ったいこちら側の一方通行だ」
と、きっぱり言い切ってしまう。
あまり私が言い切るので、相手もやっと自分の間違いを認めたようで・・・
「すいません」と、素直にうなずいて行ってしまった。
まったくしょうがないな・・・などと思いながら、駐車場に向かった。
少し走ると、標識が見えてくる。
覗き込んで確認すると・・・
「あれ・・・」
青地に白い矢印は、私の進行方向と逆方向を向いている!
逆走してるのは、自分か!
実は・・・この道は、途中のT字路を境にして、なき別れ状の一方通行になっていたのだ。
新しい駐車場に移ってから、全く疑いも無く自分が一方通行路を、途中のT字路まで逆送していたことに初めて気づき・・・
じっとり汗が出てきた。
もしかしたら、さっきのお兄さんが標識を確認し、怒りまくって追いかけてくるかもしれない・・・
まずい!
あわてて駐車場に車を止め、しばらくかくれて様子をうかがっていたが、
どうやら大丈夫だったようで・・・
こそこそと病院に向かう坂道を小走りでおりていった。
もちろん今ではちゃんと逆送せずに通勤しているが、
あのお兄さんには悪いことをした。
ただ、間違っていても、それに全く気づかずに自信を持って言い張ると・・・相手が説得されてしまうこともあるんだ・・・
と、変なところに感心した。(平成16年10月29日)
医師スタッフアンケート結果
先日おこなった医師に対してのスタッフアンケートを集計しました。
多くの職種の職員から医師、医局に対しての意見、要望がだされました。
個々の医師に対しての意見はそれぞれ集計し、
各医師に院長室まで来てもらい、個別に面談し,,結果をフィードバックしました。
本人にはなかなか直接言いにくいようなことも記入されており、
それを伝えるのには、伝える側の私もかなりのプレッシャーとストレスになりましたが・・・
せっかく出してくれた意見を無駄にすることは出来ません。
各医師が素直な気持ちで指摘をうけとめ、
職員に慕われる医師として、平和病院を支えてもらいたいと、心から思いました。
確かに、長年の診療スタイルや、考え方、話し方などを変えるのは
簡単な事ではないと思いますが・・・
職員に信頼され、慕われての業務は、本人にとっても、気持ちよく、充実感が得られ・・・
そしてそれが患者さんにとっても、快適な医療につながっていくと思っています。
これを機会に、各医師がステップアップしてくれることを祈っています。
スタッフアンケートを基にした、「スタッフに求められる医師像」はこのようになりました。
出勤時、さわやかな笑顔で玄関を入り、顔を合わせた職員に自分から挨拶をします。
挨拶されても返事もしない・・ということはありません。
外来担当日、診療時間に遅れることなく外来にたどり着き、診療を始めます。
診察に際しては、患者さんの顔をはっきりと見て、話もよく聞き、やさしく対応します。
カルテはきちんとした字で判りやすく記載し、
診療中に頬杖をついたりせず、パソコンの画面ばかりを見て対応するようなこともありません。
処方内容はよく確認し、処方箋とカルテの内容が違わないように注意を払い
新しく発生した病名は必ずカルテの病名欄に記載します。
患者さんが途切れて、暇なときでも、決して外来の診療台で寝転がるようなことはせず、
記載すべき書類を速やかに処理します。
もし、外来を離れる場合には、必ず看護師に行き先を告げてから出て行きます。
そろそろ診療終了という時間になって他科から依頼があったり、受付時間が過ぎて患者さんが来た場合でも
嫌な顔をせずに診療します。
病棟当番の日にはどこにいても連絡がつくようにポケットベルを持ち、
探し回っても連絡がつかないというようなことが無い様にします。
患者さんや、家族の方に病状の説明をおこなうときには姿勢をただし、
相手の目を見て誠意を持って説明し、相手に不安を与えるようなことはしません。
入院患者さんを頻回に回診し、回診後、直ちに、きれいな字でカルテを記載し、サインをすることも忘れません。
治療方針を明確に持ち、他のスタッフとも積極的にカンファレンスを行い、
良好なコミュニケーションをとり、スタッフの意見に耳をかたむけ、また、疑問点には快く、そして判りやすく説明し、
気持ちよく相談にのり、話にくい雰囲気は作らないようにします。
患者さんの具合が悪いと連絡を受けたときには出来るだけ速やかに病室を訪れます。
当直時間帯、患者さんからの依頼は断らずに、診療するように努め、専門外の疾患などで無理な場合には、
きちんと理由を説明し、納得してもらうようにします。
翌朝には新たな気分で仕事に精をだし、もちろん挨拶と笑顔も忘れません。
委員会の日には積極的に建設的な意見を述べ、リーダーシップをとります。
決定事項は遵守し、議論の無いまま覆すようなことはしません、
他の委員の意見にも十分に耳を傾け納得のいくまで話し合い、感情的になることもありません。
正直に言って、平和病院の医師が、全員こんな感じなら、このような意見は出ないのかもしれません。
私も、一歩でも理想の医師に近づくようにしたいと思います。(平成16年10月17日)
ちんちんがない!
先日のこと、診療時間を少し過ぎて患者さんから電話がかかってきた。
子供が保育園で股の部分をぶつけて痛がっているとのこと・・・
診察してもらえるか、との問い合わせだった。
とにかく来てもらうことにした。
しばらくして、おばあちゃんにつれられて、小さな子供がやってきた。
半ズボンで、元気そうな顔をしている。
ないてもいないし、黙ってうつむいている。
きっと緊張しているのかもしれない・・・
精一杯優しい先生の顔をし、「どうしたの?ちんちんのところ、ぶつけちゃったんだ。いたかったかな?」
それでもその子は何もいわずに黙っている。
「ちんちんって、ぶつけると痛いよね〜。どれ、そこのベッドに横になって、ちんちん見せてごらん」
その子は相変わらず何も言わずにベッドに横になった。看護師さんがズボンとパンツを脱ぐのを手伝ってくれる。
「どれどれ!」
思わず絶句した。
ちんちんがついてない!
女の子じゃないか〜
髪も短いし、男の子っぽい顔立ちだったし・・・などと、言い訳しても始まらず・・・看護師さんも教えてくれないし・・・
「あれ、女の子だんたんだ・・・ごめんね、元気がよさそうだったんで・・などとわけのわからないことを言って、カルテを確認すると、
紛れもなく、かわいい女の子の名前だ!
ついてきたおばあちゃんも、一言、「女の子です!」と言ってくれればよかったのに・・・
最後になって「先生ったら・・しょうがないね!」と背中をたたかれてしまった。
さいわい女の子の怪我はたいしたこともなく、消毒しただけで終わったが・・・
いくら子供とは言うものの、レディーの前で「ちんちん」を連発したことを後悔した。(平成16年10月4日)
○○に似てる!
誰でも芸能人とか、有名人とか、○○さんに似てる!といわれることがあると思うが・・・
大昔、子供のころに、「ハタ テルオ」に似ていると言われていたことがあった。
確か歌手だったと思うが、どんな字を書くのかも知らないし、どんな顔をしているのかも知らない・・・
大学のころは当時の野球選手、大洋ホエールズの斉藤投手に似ていると言われた。
今は解説者で時々テレビにも出ているが・・・当時は鼻の下にヒゲをはやしていたので、千葉の飲み屋では、本当に間違えられたことがあった。
残念ながら、あまりかっこいいとは思えない。
医者になって、よくのみに行っていたときには、何件かのお店のお姉さんたちが、お世辞半分に
「石田純一に似てるう〜!」などと言ってくれることもあった。
これにはけっこう満足していたが・・・
清酒「白鶴」のCMで、漁船に乗って「まる」などと叫んでいる俳優にもそっくりだと言われた時には、少しがっくり来た。
少し前、外来で患者さんから、「先生、冬のソナタのヨンさまに似てますね!」と言われた。
一人からならその気にならなかったが、そのあと3人くらいから言われた。
そのことをうちに帰って話したら、妻と娘から大ブーイングを浴びてしまった。
手術室でも話したら、「え〜〜〜〜!」と、これまた非難ごうごうで・・・
「先生!ヨンさまのイメージを壊さないでくださいよ!」と、本気で怒られた。
別に自分から言い出したわけではないので、不本意だったが・・・
冬になったら、髪でも伸ばしてマフラーをぐるぐる巻いて、にっこり微笑み、オロナミンCでも飲んでやろうかと思っている。(平成16年9月18日)
在宅支援センターの建設が始まります
近年、ご高齢の方の在宅介護をささえるため、平和会では
居宅介護支援事業所、訪問看護ステーション、訪問介護サービス、訪問リハビリ、通所リハビリ、ショートステイなど、
さまざまな介護保険関連事業を立ち上げてきました。
このうち、居宅支援事業所、訪問看護ステーション、訪問介護サービスを一箇所に集め、
綿密な連携をとりながら、効率的により質の高いサービスを提供するために
在宅支援センターの立ち上げを計画していました。
かなり以前から計画していたにもかかわらず、土地の利用の問題等で延び延びになっていましたが・・・
まもなく、病院の前の調剤薬局の裏に建設が始まります。
建設予定地は、もともと一般の駐車場で、私も含めて病院職員も賃貸契約を結んで利用していましたが・・・
建設に伴い移動が必要になり、私も少し離れた別の駐車場に移ることになりました。
何人かが移動の対象になったのですが、私が率先して移れば、他の職員からも文句が出ないだろうと思い・・・
気楽に「自分が移るよ」といってみたものの・・・
よく考えてみると、新しい駐車場に行く道は、7時から9時までは一方通行になり・・・
私の自宅からはめちゃくちゃ細い角を曲がらなければいけないことに気づきましたが・・・
後の祭りで、今朝初めて利用しましたが、やはり一回で曲がりきれず、脱輪を起こしそうになりながら、やっとの思いでたどり着きました。
しかも、駐車場からは急な坂を下りて(と言うことは、帰りは登るんだよね!)今までより、歩く距離もだいぶ伸びました。
まあ、術後のリハビリと思えばいいのかもしれませんが・・・
ともかく、新しい試みがだんだん実現していくのを見ると、気力も充実してきます。
いまから完成が楽しみです。(平成16年9月11日)
あんりちゃん、よかったね!
今日、「院長への手紙」が部屋に届きました。
めずらしく子供の字で書いてあります。(というより、初めてです)
自分の手を、紙の上において、鉛筆でなぞってあり・・・
その手の指に絆創膏が巻いてある絵が描いてあります。
絆創膏のところには矢印が書いてあり、「ここ」・・・
と説明してあり・・・
「ゆびをなおしてくれて、ありがとう。あんり」と、ひらがなで書いてありました。
なんともほほえましくて・・・
いままでいただいた手紙の中で、いちばんほのぼのとして・・・
思わずうれしくなってしまいました。
あんりちゃん!指がなおって、よかったね!(平成16年8月30日)
トイレでのいたずら!
先日、外来の女子トイレでトイレットペーパーカバーがぐんにゃりと曲げられているのが発見されました。
ご丁寧に、3室あるトイレ全部でやられました!
朝、職員がトイレに入ったときにはなんでもなかったとのことなので、
外来の最中と言うことになります。
水曜日の午前中は、外来患者さんも多く、トイレを使う方も多いのですが・・・
男子トイレは無事だったところをみると・・・
女子トイレに男性が入っていれば、大騒ぎになるでしょうし・・・
やはり犯人は女性なのでしょうか・・・・
よほど面白くないことでもあったのか・・・
病院が気に食わなかったのか・・・
かえって心配になってしまいますが、そうかといって、カバーを折り曲げても良い、というものではありません!
金属製なので、簡単には曲がらないのでは・・・と、こっそり自分でも触ってみましたが・・・
意外にすぐに曲がりそうになり、あわててやめました。
すぐになおしましたが、何かご不満なことがありましたら、「院長への手紙」をご活用ください。
いたずらはご勘弁願います。
短気は損気ですよ!(平成16年8月20日)
医師に対するスタッフアンケート開始
平和病院のような中小病院にとって、医師の診療姿勢は病院そのものの評価を大きく左右します。
先日、患者様に、医師の診療に対するアンケート調査を実施し、このホームページにも結果を発表しましたが・・・
院内にも掲示、各医師にも結果をフィードバックしました。
このアンケート調査は「ユニークな試み」として医療情報誌にも掲載されました。
患者さんを診療するのはもちろん医師ですが、医師が一人いても実際の治療は成り立ちません。
看護師、看護補助者、薬剤師、検査技師、栄養士、理学療法士、事務系職員など、
さまざまな職種の多くのスタッフが、一人の患者さんを、それぞれの専門の知識、技術で支えあい、
協力して初めて質の高い医療、介護の提供が可能になります。
しかし、現実を見ると、他のスタッフが医師に対して、要望、不満を持っていても、それを直接言うことは、なかなか難しい風土がある様に感じます。
それぞれのスタッフが、自由に意見を言い合い、お互いに改善が必要と認めたことを、なおしていくことが、
患者さんにとっての快適な医療、介護につながります。
そこで、今回、全職種のスタッフに対し、医師に関する要望、不満など、あらゆる意見を集めることを目的とした
スタッフアンケートを実施することにしました。
意見が出しやすいように、記載は無記名とし、各部署の責任者が集め、院長まで提出してもらうことにします。
集まった意見は解析し、医局会で検討、改善すべき点は謙虚に受け止め、改善を目指し、
医局サイドの意見も説明し、個人的に改善が必要と認められた指摘点は、私が該当医師に面接して伝え、改善を促すことにします。
病院のすべてのスタッフ間の風とおしをよくすることは、必ず病院の質の向上に役立つと思っています。
アンケートは今月いっぱいおこなわれます。(平成16年8月6日)
パンフレット写真撮影
現在使われている病院のパンフレットは、この「病院よもやま話」の一番初めに書いてあるように、
4年前に私が院長になったばかりのころに作り変えたものです。
あれからまる4年、病院も大きく変わりました。
今は看護師はキャップをかぶっていませんし、
当時のパンフレット作成時には病院の基本理念も、職員の行動基準も、患者様権利宣言も作られていませんでした。
もちろん私もそれなりに年をとりました。
建物もいろいろな場所がきれいに改修されたし、最新医療機器も新しく導入し病院の機能、体制も改善されてきました。
このため、新しくパンフレットを作り変えることにしました。
今日、そのための写真撮影が行われました。
今のパンフレットの表紙は、私が二人の看護師と一緒に「人のよさそうな笑顔」をして遠くを見ているイメージです。
(かわいい子に囲まれて喜んでいる写真ではなくて・・・)
今回の打ち合わせでも、表紙をどうするか・・・という話になったのですが、
以前、病院の説明会で、いくつもの病院のパンフレットの中で、平和病院のパンフレットの表紙が一番ほのぼのとしていて良かった!という話も出て・・・
(私の手前、一番ダサかったとも言えなかったのかもしれませんが・・・)
ただでさえ出たがりの血が騒ぎ・・・結局今回も同じ構図で・・ということになりました。
いつもより早めに起き、ネクタイを選び(3本も!)、ひげも入念に剃り、気合を入れて出勤、
8時過ぎから院長室で撮影が始まりました。
本格的な照明装置でいろいろな角度、ポーズで何十枚も撮られると・・・
これで写りが悪ければ、モデルが悪いと、あきらめるしかないか・・・という感じになります。
それが終わると、今度は白衣を着て外に出て、表紙の写真撮影です。
二人の看護師役と一緒に「はい、楽しそうに見詰め合って・・」とか「笑って、何か話しかけて」とか「歩いている感じで足踏みをして」とか・・・
「斜め目線で遠くを見る感じで・・・」とか、カメラマンの注文にあわせ、ポーズをとります。
ちょうど患者さんが来院する時間で、道路をタクシーや車がひっきりなしに通り過ぎ、それをよけながらの撮影になりました。
午後からは、院長回診の場面と、患者さんとその家族に、X線写真を見せながら病状説明(インフォームドコンセント)を行っている場面の撮影があり、
さすがに自分でも、「こりゃ出すぎかな・・・」と思いつつも、いちいち、そのたびにネクタイを換えるこりようで・・・
その間にも、各部署で、多くの職員がモデルになりながら、さまざまな場面の撮影が行われ、あわただしい一日が終わりました。
どんなパンフレットになるのか、今から楽しみです。(平成16年7月28日)
ただいま!
今日、3週間ぶりに病院に復帰した。
午前中に各部署をまわり、「顔見世」をした。
やっぱりなつかしい!
山のようにたまった書類や郵便物に目をとおし、
午後からは手術・・・
自分が入院している間に、私が外来でずっと診ていた患者さんが二人入院していた。
病室を訪ね、ベッドサイドの椅子に腰掛けて、少し長い時間お話した。
二人とも癌の末期の患者さんだ。
一人は、どんなに具合が悪くなってもあきらめず、治療を積極的に望み、病状の回復に意欲的だ。
その意志の強さは驚異的でさえある。
もう一人は、治療に関してのことは、もうあまり話さず、家に帰りたがっている。
「私もやっと退院して来ましたから・・ご希望があれば、ご自宅での治療もサポートできます。帰りたいときはいつでも行ってください・・・」
奥様もご主人の希望を叶えてあげたいようだ。
ひとたび病院に来れば、つい最近まで、自分の寿命を心配していたことが嘘のように時が回り始める。
自分の病気が見つかる少し前までは、「人の生き死に」に関しての本ばかり読んでいた。
「命の器」「癌を病む人、癒す人」「日本人はやさしいのか」「死ぬ瞬間」「幸福な死に方」
「がん患者180の本音、がんばって!っていわないで」「ケアの心理学」「患者革命、納得の医療、納得の死」
「死への医学への日記」「がん患者学」「禅的生活」「死にゆく人のための医療」などなど・・・
妻にも、よくそんな本ばかり読む気になるわね・・とあきれられた。
ところが、不思議なことに、自分の病気が判ってから、一切読む気が無くなった。
本屋に行ってもこの手の本はどうしても手に取る気になれず、目をそらせた。
今日、二人の患者さんと話して・・・
先のことはわからないが、自分がまだまだへこたれるわけには行かない・・・と感じた。
目をそらさないで、今までのように、あるいは今まで以上に・・・
末期の患者さんたちにかかわっていけそうな気がしてきた。
やはり、大病院でなくても、平和病院は、自分にとって活力の源なのかもしれない。
久しぶりに職員の顔を見て、話をして・・・少し疲れたものの、昨日よりずっと体調がいいような気がする。(平成16年7月12日)
いってまいります!
先週の土曜日、外来待合室と、外科外来の前に、私が治療、療養でしばらくお休みを頂く旨の掲示を貼り出した。
文章をどうかくか・・・事務長とも事前に相談していたのだが・・・
「お休みをいただきます」だけでは遊びに行っていると思われるのも心外だし・・・
「療養のため」だけ書くと、何の病気だとか、いろいろと憶測が飛び、外来の職員がいちいち説明しなくてはならなくなり・・・
結局、最初は「肺腫瘍切除のため」と書いて、貼りだしたが・・・
職員からも、文章が刺激的すぎる、と指摘されたり、
患者さんの中には、血圧が急に上がってしまった方や、
外来診療中に泣き出す方までいて・・・
「腫瘍」という文面が刺激的だったかと反省し・・・
急遽、「肺部分切除手術のため」と変更した。
ただ、結局はいちいち説明しなくてはならくなっている。
このホームページを見てくださっている患者さん達は、事情をわかってくださっていると思うが・・・
全員がそういうわけには行かない。
今日、19日、土曜の外来が終わった。これからは、しばらくこっちが患者になるばんだ。
多くの患者さんが「先生、お大事に」といって診療室を出て行った。
いつもは私が言うセリフなのに・・・
と思いながらも、ご心配、ご迷惑をおかけして申し訳ないという思いと、ありがたい思いで、胸がいっぱいになった。
職員や、いつも連携をしている診療所の先生方からもお電話で激励していただき、
多くの皆さんに気にかけていただいている自分は、幸せ者だ・・・と思った。
さてと・・・更新もしばらくお休みにして・・・治療に専念することにしますか・・・
それでは皆さん、行ってまいります!(平成16年6月19日)
理事長再任
6月10日、第56回平和会社員総会が開催され、第53期会計年度における諸事項が承認されました。
また、平和会の理事、監事の任期満了に伴い、全員が再任されました。
引き続いて開催された理事会において、理事長選任が行われた結果
私が、ご推挙いただき、引き続き平和会の理事長を務めることになりました。
武井前理事長の退任以来、2期、4年間にわたり、理事長兼院長として努めてきましたが・・・
毎日が、平和病院は良くなっているんだろうか?
自分は病院を良い方向に導いていけているんだろうか?
不安と、葛藤の連続でした。
振り返ってみると、平和会の基本理念は職員に次第に浸透し、
ご利用いただく皆様にも、私の目指す病院のイメージが、少しずつご理解いただけてきているような気がします。
ただ、これも、厳しい医療状況の中、決して高いとはいえない給与、賞与にもかかわらず、
一生懸命、私を支えてくれる職員がいてくれたからこそ・・・と思っています。
今後も、病院には今まで以上に厳しい舵取りが要求されます。
「平和病院はこんなに良くなった」とご利用いただく皆様にも、職員にも認められるよう
今後も力の続く限り努力してまいります。(平成16年6月11日)
ゆがむ性格
病院は医療の質を維持、向上するために新しい医療器械をそろえていかなくてならない。
医療器械はたいてい高額なものが多い。
内視鏡一本で定価が300万近くもする。
購入するときには見積もりが提出され価格の交渉がおこなわれる。
院長になる前には自分で使っている機器がいくらするのか・・・定価がいくらで、納入価がいくらで、など気にもとめなかった。
おなじ機械を購入するなら1円でも安いほうがいいに決まっている。
最近は高額医療機器の場合は、業者の人と直接自分が価格交渉するようにしている。
どうも医療機器の定価というものはピンとこない。
一般的な値引率の感覚だと、常識的には考えられない。「2割、3割はあたりまえ!」などというCMもあるが・・・
とてもそんなものではない。
まさかここまでは引かないだろう・・・と思う価格を提示しても、少し考える(ふりをする?)程度で、あっさり値引きがおこなわれ、
「それならもっと低い値段で交渉すればよかった!」と後悔することが何度もあり、最近では
むちゃくちゃ低い値段を言って交渉開始するようになってしまった。
正直なところ、このような交渉ごとは好きではない。
機械の故障のクレームも直接伝えるようになり・・・自分の性格がゆがんでくるような気さえする。
家族でファミリーレストランに行っても、昔は注文したものと違うものがきても、「まあいいですよ」とか言って食べていたのに・・・
最近はしっかり換えてもらうようになってしまった。
このまえ、デパートからお歳暮を贈ったとき、12月になってからの発送をお願いしたにもかかわらず、11月に礼状が届いた。
届いているからいいか・・・とも思ったが、「どうなってるんですか?」と電話した。
「老舗のデパートなんだから、ちゃんと客の注文を守ってくれないと困ります云々・・・」
昔はこんな電話なんかしなかったのに・・・と思いながら電話している。
その後、そのデパートで時計を買う機会があったが、「先日は大変失礼しました」と、かなり値引きをしてくれたのは、
さすが老舗と思ったが・・・やはり、言うべきことは言ったほうがいいのか、とも感じた。
病院にいれば、立場は逆だ。
患者さんからのクレームを自分が受ける立場になる。
ただ、病院は人の命を扱う場所だ。簡単に取り替えることが出来ないものを扱っている。
医療事故を起こさぬよう、全職員が神経をとぎすませている。
デパートで少しくらいおまけをしてもらっても、ばちはあたらないか・・・・
と、思っていた矢先、せんべいの箱を空けたら、中に虫の死骸が入っていた。
さあ・・どうする?(平成16年5月21日)
手術室のドア
手術室の改装工事が3月末に完成した。
なにせ、私が平和病院に着任以来というか、以前からそのままの状態で・・・
もちろん麻酔器、各種モニター類など、実際の手術に必要な機器は最新のものをそろえてはいたが、
外からはそんなことはわからない。
そもそも入り口のドアがいけない。
中の手術室に入るドアはもちろん自動ドアだが、廊下からの出入り口は木製で、あけるときにギ〜と音がしていた。
よく、テレビなどでは自動ドアが開き、患者さんを乗せたベッドを医師や看護師が押しながら出てくるシーンがあるが・・・
とてもそんな感じではなかった。
手術が終わり、ご家族が待つ出口が開くとき、あの音はどうもいただけない。
長いこと気になっていたが、機器をそろえるのに追われ、外装まで手が(お金が)回らなかった。
風呂もそうだ。血液などで汚れたときのため、風呂があることはあったが、
ハンドルを回して点火する古いタイプのやつで・・・
シャワーもあったが、冬になると適温にするためには水量が極端に少なくなり、子供用のじょうろで、かけるくらいしかお湯が出ず、
イライラするし、風邪を引きそうだった。
今回は出入り口はもちろん、中扉も新設し自動ドアにして、清潔区域のゾーンニングを明確にし、天井、床を張替え、壁もきれいにした。
床の色も自分で選んだので気に入っている。
さらに空気の流れも一方通行にし、一般区域からエアーが流れ込まないような工事もおこなった。
これぞ手術室といった感じで、患者さんや、ご家族の方の安心感も少しは違うかな、といった感じがする。
もちろん手術のよしあしはドアや、内装で決まるものではないが、音のする木のドアよりはいいに決まっている。
手術室に入るたび、「よしよし」、とうなずく毎日だ。(平成16年5月7日)
医療雑誌に掲載される
「お知らせ」のコーナーでも書きましたが、今月発売された医療経営誌「最新医療経営:フェイズ・スリー」(日本医療企画社)に
平和病院が掲載されました。
先日行った「医師診療アンケート調査」がユニークなものとして取り上げられたものです。
「医師の診療態度こそ病院のイメージに直結」とのサブタイトルがついています。
この「病院よもやま話」の部分も写真に載っています。
病院の写真と私の写真も載っていますが・・・
先日、取材に来た記者の人からメールがあったとき、「写真写りはどうです?」と聞いたところ・・・
「先生の人柄がよく出て、やさしそうに写っていますよ」との返事でしたが・・・
病院のホームページの写真に比べると・・・老けたかな?と感じます。
もっとも病院のホームページは院長になったばかりの4年前の写真で・・・
しかたないか・・・との感じもある反面、もっといい男じゃない??との思いもありますが・・
ともかく、当院の取り組みがいろいろ注目されるようになったのは、喜ばしい事でもある反面、
それだけ責任も感じます。(平成16年4月15日)
涙腺が・・
また、年度末がやってきました。
毎年のことですが、今年も外科のスタッフは交代があります。
千葉大学の臓器制御外科(第一外科)の医局人事によるものですが、
柴田は船橋中央病院へ、高野は大学に、転任になります。
引越しなどの準備もあり、柴田は26日、高野が27日に最後の勤務になりました。
26日は私は外に出ていましたが、夕方、「これから緊急手術です」との連絡がありました。
柴田にとっては最後の日まで手術となり、そのまま仕事納めになりました。
27日(土)は私は外来担当でしたが、朝、私服の柴田がわざわざ外来に顔を出してくれました。
「一年間お世話になりました」
握手をして・・・最後の挨拶にしましたが・・・
なんともいえない寂しさがこみ上げてきます。
1時過ぎに外来が終わり、病室へ行くと、高野がまだ働いていました。
院長室へ戻り、仕事をしていると、3時ころノックの音がして、高野が入ってきました。
「先生、半年間でしたが、本当にありがとうございました」と頭を下げられて・・・
外来で、ほかの職員がいるときにはまだ我慢が出来ましたが・・・
院長室の中で、二人きりで挨拶をされると、もういけません。
最近年齢とともに、ただでさえ涙腺が弱くなっているのに・・・
思わず目がうるうるとなりそうで・・・
わざと「元気でな」と威勢のよい声を出し・・・部屋を出て行く高野を見送りました。
柴田も高野も、こちらが教えることなどほとんど無く、逆に新しい知識、技術を教えられることも多い年でした。
彼らが、新年度、新天地でますます羽ばたくことを祈って、涙は独りになってから流しました。
がんばれ柴田!がんばれ高野!(平成16年3月28日)
医師診療アンケート調査結果@
先日、外来において医師診療アンケート調査を行いました。
医師の診療の質の向上を目指し、平和病院を初めて受診する患者様にお願いし、調査したものです。
全部で134名の患者様にご協力を頂きました。
お約束どおり、結果を発表します。
@全体評価
診察に入る時、医師はきちんと挨拶しましたか | ||
人数 | 割合 | |
した | 108 | 80.5% |
しない | 10 | 7.4% |
覚えていない | 16 | 11.9% |
医師の身嗜みはどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
きちんとしている | 97 | 72.3% |
まあまあきちんとしている | 10 | 7.4% |
普通 | 20 | 14.9% |
ややだらしない感じがした | 0 | − |
だらしない感じがした | 0 | − |
医師の態度、話し方、言葉遣いから感じた印象はどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
とても丁寧で好感が持てた | 70 | 52.2% |
まあまあ好感が持てた | 36 | 26.8% |
普通 | 27 | 20.1% |
余り好感が持てなかった | 2 | 1.4% |
無愛想で感じが悪かった | 1 | 0.7% |
医師はあなたの訴えをよく聞いてくれましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく聞いてくれた | 92 | 68.6% |
まあまあ聞いてくれた | 13 | 9.7% |
普通 | 26 | 19.4% |
余りよく聞いてくれなかった | 1 | 0.7% |
殆ど聞いてくれなかった | 0 | − |
医師は病気や検査、治療に関してきちんと説明しましたか | ||
人数 | 割合 | |
丁寧に説明してくれた | 78 | 58.2% |
まあまあ説明してくれた | 27 | 20.1% |
普通 | 13 | 9.7% |
余り詳しく説明しなかった | 0 | − |
殆ど説明しなかった | 0 | − |
治療の方針は解りやすく納得出来ましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく解り納得出来た | 71 | 52.9% |
大体解った | 38 | 28.3% |
普通 | 15 | 11.1% |
余りよく解らなかった | 1 |
0.7% |
解りにくく納得出来なかった | 0 | − |
薬を処方された患者さんにお尋ねします。医師は処方する薬についてきちんと説明しましたか。(効能・服用・副作用等) | ||
人数 | 割合 | |
きちんと解りやすく説明した | 46 | 34.3% |
まあまあ説明した | 23 | 17.3% |
普通 | 11 | 8.2% |
余り説明しなかった | 3 | 2.2% |
殆ど説明しなかった | 1 | 0.7% |
全体の印象として今回診察を受けた医師は100点満点として何点位ですか | ||
最高点 | 最低点 | 平均点 |
100点 | 50点 | 85.7点 |
あなたは次回受診の時、今日の担当医師にかかりたいと思いますか | ||
人数 | 割合 | |
是非かかりたい | 50 | 37.3% |
どちらかと言えばかかりたい | 27 | 20.1% |
別にこだわらない | 38 | 28.3% |
余りかかりたくない | 2 | 1.4% |
絶対かかりたくない | 0 | − |
医師診療アンケート調査結果A
次に、各科別の結果を発表します。内科、外科、整形外科以外は数が少ないのでこの3科のみお伝えします。
科別評価
@内科(81名)
診察に入る時、医師はきちんと挨拶しましたか | ||
人数 | 割合 | |
した | 62 | 76.5% |
しない | 7 | 8.6% |
覚えていない | 12 | 14.8% |
医師の身嗜みはどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
きちんとしている | 53 | 65.4% |
まあまあきちんとしている | 5 | 6.1% |
普通 | 16 | 19.7% |
ややだらしない感じがした | 0 | − |
だらしない感じがした | 0 | − |
医師の態度、話し方、言葉遣いから感じた印象はどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
とても丁寧で好感が持てた | 38 | 46.9% |
まあまあ好感が持てた | 22 | 27.1% |
普通 | 20 | 24.6% |
余り好感が持てなかった | 1 | 1.2% |
無愛想で感じが悪かった | 1 | 1.2% |
医師はあなたの訴えをよく聞いてくれましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく聞いてくれた | 55 | 67.9% |
まあまあ聞いてくれた | 7 | 8.6% |
普通 | 17 | 20.9% |
余りよく聞いてくれなかった | 1 | 1.2% |
殆ど聞いてくれなかった | 0 | − |
医師は病気や検査、治療に関してきちんと説明しましたか | ||
人数 | 割合 | |
丁寧に説明してくれた | 40 | 49.3% |
まあまあ説明してくれた | 22 | 27.1% |
普通 | 10 | 12.3% |
余り詳しく説明しなかった | 0 | − |
殆ど説明しなかった | 0 | − |
治療の方針は解りやすく納得出来ましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく解り納得出来た | 38 | 46.9% |
大体解った | 23 | 28.3% |
普通 | 13 | 16.0% |
余りよく解らなかった | 1 | 1.2% |
解りにくく納得出来なかった | 0 | − |
薬を処方された患者さんにお尋ねします。医師は処方する薬についてきちんと説明しましたか。(効能・服用・副作用等) | ||
人数 | 割合 | |
きちんと解りやすく説明した | 29 |
35.8% |
まあまあ説明した | 16 |
19.8% |
普通 | 10 |
12.3% |
余り説明しなかった | 2 |
2.4% |
殆ど説明しなかった | 1 | 1.2% |
全体の印象として今回診察を受けた医師は100点満点として何点位ですか | ||
最高点 | 最低点 | 平均点 |
100点 | 50点 | 84.9点 |
あなたは次回受診の時、今日の担当医師にかかりたいと思いますか | ||
人数 | 割合 | |
是非かかりたい | 20 | 24.6% |
どちらかと言えばかかりたい | 18 | 22.2% |
別にこだわらない | 28 | 34.5% |
余りかかりたくない | 2 | 2.4% |
絶対かかりたくない | 0 | − |
A外科(34名)
診察に入る時、医師はきちんと挨拶しましたか | ||
人数 | 割合 | |
した | 32 | 94.1% |
しない | 0 | - |
覚えていない | 2 | 5.9% |
医師の身嗜みはどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
きちんとしている | 30 | 88.2% |
まあまあきちんとしている | 2 | 5.8% |
普通 | 2 | 5.8% |
ややだらしない感じがした | 0 | − |
だらしない感じがした | 0 | − |
医師の態度、話し方、言葉遣いから感じた印象はどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
とても丁寧で好感が持てた | 24 | 70.5% |
まあまあ好感が持てた | 6 | 17.6% |
普通 | 4 | 11.7% |
余り好感が持てなかった | 0 | - |
無愛想で感じが悪かった | 0 | - |
医師はあなたの訴えをよく聞いてくれましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく聞いてくれた | 26 | 76.4% |
まあまあ聞いてくれた | 3 | 8.8% |
普通 | 4 | 11.7% |
余りよく聞いてくれなかった | 0 | - |
殆ど聞いてくれなかった | 0 | − |
医師は病気や検査、治療に関してきちんと説明しましたか | ||
人数 | 割合 | |
丁寧に説明してくれた | 26 | 76.4% |
まあまあ説明してくれた | 5 | 14.7% |
普通 | 1 | 2.9% |
余り詳しく説明しなかった | 0 | − |
殆ど説明しなかった | 0 | − |
治療の方針は解りやすく納得出来ましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく解り納得出来た | 22 | 64.7% |
大体解った | 8 | 23.5% |
普通 | 1 | 2.9% |
余りよく解らなかった | 0 | - |
解りにくく納得出来なかった | 0 | − |
薬を処方された患者さんにお尋ねします。医師は処方する薬についてきちんと説明しましたか。(効能・服用・副作用等) | ||
人数 | 割合 | |
きちんと解りやすく説明した | 9 |
26.5% |
まあまあ説明した | 5 |
14.7% |
普通 | 0 |
- |
余り説明しなかった | 1 |
2.9% |
殆ど説明しなかった | 0 | - |
全体の印象として今回診察を受けた医師は100点満点として何点位ですか | ||
最高点 | 最低点 | 平均点 |
100点 | 60点 | 93.9点 |
あなたは次回受診の時、今日の担当医師にかかりたいと思いますか | ||
人数 | 割合 | |
是非かかりたい | 21 | 61.7% |
どちらかと言えばかかりたい | 8 | 23.5% |
別にこだわらない | 2 | 5.8% |
余りかかりたくない | 0 | - |
絶対かかりたくない | 0 | − |
B整形外科(18名)
診察に入る時、医師はきちんと挨拶しましたか | ||
人数 | 割合 | |
した | 13 | 72.2% |
しない | 3 | 16.6% |
覚えていない | 2 | 11.1% |
医師の身嗜みはどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
きちんとしている | 14 | 77.7% |
まあまあきちんとしている | 3 | 16.6% |
普通 | 1 | 5.5% |
ややだらしない感じがした | 0 | − |
だらしない感じがした | 0 | − |
医師の態度、話し方、言葉遣いから感じた印象はどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
とても丁寧で好感が持てた | 8 | 44.4% |
まあまあ好感が持てた | 8 | 44.4% |
普通 | 2 | 11.1% |
余り好感が持てなかった | 1 | 5.5% |
無愛想で感じが悪かった | 0 | - |
医師はあなたの訴えをよく聞いてくれましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく聞いてくれた | 11 | 61.1% |
まあまあ聞いてくれた | 3 | 16.6% |
普通 | 4 | 22.2% |
余りよく聞いてくれなかった | 0 | - |
殆ど聞いてくれなかった | 0 | − |
医師は病気や検査、治療に関してきちんと説明しましたか | ||
人数 | 割合 | |
丁寧に説明してくれた | 12 | 66.6% |
まあまあ説明してくれた | 5 | 27.7% |
普通 | 1 | 5.5% |
余り詳しく説明しなかった | 0 | − |
殆ど説明しなかった | 0 | − |
治療の方針は解りやすく納得出来ましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく解り納得出来た | 10 | 55.5% |
大体解った | 7 | 38.8% |
普通 | 1 | 5.5% |
余りよく解らなかった | 0 | − |
解りにくく納得出来なかった | 0 | − |
薬を処方された患者さんにお尋ねします。医師は処方する薬についてきちんと説明しましたか。(効能・服用・副作用等) | ||
人数 | 割合 | |
きちんと解りやすく説明した | 8 |
44.4% |
まあまあ説明した | 2 |
11.1% |
普通 | 1 |
5.5% |
余り説明しなかった | 0 |
- |
殆ど説明しなかった | 0 | - |
全体の印象として今回診察を受けた医師は100点満点として何点位ですか | ||
最高点 | 最低点 | 平均点 |
100点 | 75点 | 88.0点 |
あなたは次回受診の時、今日の担当医師にかかりたいと思いますか | ||
人数 | 割合 | |
是非かかりたい | 9 | 50.5% |
どちらかと言えばかかりたい | 1 | 5.5% |
別にこだわらない | 7 | 38.8% |
余りかかりたくない | 0 | - |
絶対かかりたくない | 0 | − |
今回の集計では、各医師ごとの集計もしました。結果は各医師にフィードバックし、
自分に対する評価を知ってもらい、診療の改善に役立てたいと思います。
結果を発表する責任上、ここには私に対しての評価を掲載します。
私の診療に対するアンケート結果(26名)
診察に入る時、医師はきちんと挨拶しましたか | ||
人数 | 割合 | |
した | 26 | 100% |
しない | 0 | - |
覚えていない | 0 | - |
医師の身嗜みはどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
きちんとしている | 25 | 96.1% |
まあまあきちんとしている | 1 | 3.9% |
普通 | 0 | - |
ややだらしない感じがした | 0 | − |
だらしない感じがした | 0 | − |
医師の態度、話し方、言葉遣いから感じた印象はどうでしたか | ||
人数 | 割合 | |
とても丁寧で好感が持てた | 20 | 76.9% |
まあまあ好感が持てた | 5 | 19.2% |
普通 | 2 | 3.9% |
余り好感が持てなかった | 0 | - |
無愛想で感じが悪かった | 0 | - |
医師はあなたの訴えをよく聞いてくれましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく聞いてくれた | 22 | 84.6% |
まあまあ聞いてくれた | 2 | 7.6% |
普通 | 2 | 7.6% |
余りよく聞いてくれなかった | 0 | - |
殆ど聞いてくれなかった | 0 | − |
医師は病気や検査、治療に関してきちんと説明しましたか | ||
人数 | 割合 | |
丁寧に説明してくれた | 20 | 76.9% |
まあまあ説明してくれた | 4 | 15.2% |
普通 | 1 | 3.9% |
余り詳しく説明しなかった | 0 | − |
殆ど説明しなかった | 0 | − |
治療の方針は解りやすく納得出来ましたか | ||
人数 | 割合 | |
よく解り納得出来た | 20 | 76.9% |
大体解った | 4 | 15.2% |
普通 | 0 | - |
余りよく解らなかった | 0 | − |
解りにくく納得出来なかった | 0 | − |
薬を処方された患者さんにお尋ねします。医師は処方する薬についてきちんと説明しましたか。(効能・服用・副作用等) | ||
人数 | 割合 | |
きちんと解りやすく説明した | 8 |
30.6% |
まあまあ説明した | 4 |
15.2% |
普通 | 1 |
3.9% |
余り説明しなかった | 0 |
- |
殆ど説明しなかった | 0 | - |
全体の印象として今回診察を受けた医師は100点満点として何点位ですか | ||
最高点 | 最低点 | 平均点 |
100点 | 85点 | 97.0点 |
あなたは次回受診の時、今日の担当医師にかかりたいと思いますか | ||
人数 | 割合 | |
是非かかりたい | 17 | 65.0% |
どちらかと言えばかかりたい | 6 | 23.0% |
別にこだわらない | 1 | 3.9% |
余りかかりたくない | 0 | - |
絶対かかりたくない | 0 | − |
以上が、今回のアンケート調査結果の報告です。
自分に対する評価を見るのは、非常に心配でもあり、どきどきしました。
こうして振り返ると、全体に甘めの点数をつけていただいたのかな・・・との印象です。
ただ、その中には「感じが悪かった」、「挨拶をしない」等、反省しなくてはならない点も、ご指摘がありました。
「心のこもった挨拶」は平和会職員の行動基準にも定められている事項であり、
院長就任以来、各職員に対して厳しく指導している項目でもあります。
挨拶したかを「覚えていない」との回答は、その医師がはっきりと印象に残る挨拶が出来ていないと判断します。
今後は私自身も今回の結果を厳粛に受け止め、「ぜひ次の機会にもかかりたい」と言われるような診療に努めたいと思います。
今回は、ご協力ありがとうございました。(平成16年3月6日)
病院の階段(怪談?)
つい最近、外科医が、外来の診療に向かう途中、階段で転んだ。
手すりに指をかけたまま転んだようで、
翌日レントゲンを撮ってみたら、骨折していた。
しかも右手の指なので、仕事にならない・・・
しばらく前には、同じく当直をしていた内科医が、階段で転んで、足を骨折した。
こちらはもう治っているが・・・
足腰の弱った患者さんが一回も転ばない階段で、元気な医者が二人も骨を折るなど・・・
階段に何かがとり付いてるのか・・・とでも思いたくなる。
最近、私も平坦な廊下で、つっかかることさえあるが・・・
これは、年をとって、足を上げずに歩くからだそうで・・・
院長室は2階にある。夜遅く帰るときには、注意する事にしよう・・・(平成16年2月9日)
具合が悪くて・・・
外来で診療をしていると、患者さん本人が来院せずに、ご家族の方が、いつもの薬を取りに来ることがあります。
「具合はいかがですか?」
「今日は具合が悪そうなので、私が薬を取りに来ました。今度よくなったら、つれて来ます」
そうですか・・・と、思わず言ってしまいそうになるが・・・
まてよ・・病院は具合が悪いから来るところじゃなかったっけ?
また、ご本人が来院される場合でも、
「この前は体調が悪くて来れませんでしたが、今日は調子がいいので来ました」
ということもある。
みなさん!
病院は具合が悪く、体調がすぐれないときにこそ、受診していただくところですよ。
調子が悪いときにこそ、ご利用ください!(平成16年1月21日)
お年寄りばかりで・・・
少し前のこと、東芝鶴見病院の外来で小児科から11歳の男の子が外科に回されてきた。
2日前からの腹痛があり、救急診療所で「ウィルス性の風邪でしょう」といわれたらしいが・・・
翌日になっても治まらず、夜間の救急センターを受診、投薬を受けていた。
お腹を触ると右の下腹部を痛がる。
熱も出てきており、血液検査で白血球が異常に多く、炎症反応も亢進している。
明らかに急性虫垂炎(いわゆる盲腸)で、すぐに手術が必要な状態と判断した。
母親に、入院のうえ、すぐに手術が必要なことを説明した。
東芝鶴見病院で手術が必要になった患者さんは、原則、平和病院で手術を施行している。
同じ東芝の関連病院として地域連携を行っていることを説明し、平和病院の部屋を確保し、
手術室に連絡し、緊急手術の準備を指示した。
さあ、救急車の手配・・・の段階になったとき、母親が「あの、ちょっと主人と相談します」と言い出した。
え?・・・またきたか・・・と感じた。
こういうことは時々あることで・・・
患者さんの大病院嗜好は歴然としている。
大学病院、がんセンター、市立病院など、大きな病院で治療を受けたい、との気持ちはわからないわけではない。
くるぞ・・と思っていると、案の定、しばらくして「手術は横浜労災病院で受けたいのですが・・・」といってきた。
もちろん、手術をどこで受けるかは、患者さんに選択権がある。治療する側、される側の信頼関係は非常に大切で、
特に人間の体に「メス」をいれる手術の場合は信頼されていなければ、こちらもやりにくい。
「もちろんかまいません。では労災病院に連絡をとってみましょう」
にっこり笑って受話器をとり、受け入れをお願いし、紹介状を書きはじめた。
「すいませんね〜お手数をかけて・・・」
「いえいえ、とんでもない」
と言ったまではよかったが、そのあとがいけない。
「平和病院はお年寄りばかりで、若い人を見たことが無いんで・・・」ときた。
おいおい・・いくらなんでもそりゃないだろう・・・
確かに平和病院は療養病棟、介護病棟が、あわせて96床あり、入院患者さんはご高齢の方が多い。
鶴見の駅前にある東芝鶴見病院と違い、周りは古くからの住宅街で、外来の患者さんも
ご高齢の方の比率が多いのは事実だが・・・
一般病棟54床はきちんと機能しており、それなりに手術もこなしている。
日本外科学会、消化器外科学会の指導医、認定医をかかえる学会認定関連施設だと言う自負もある。
最後の一言が無ければ別にこだわる気持ちも無かったが、
さすがにそこまで言われると、いい気持ちはしない。
ただ、腹を立てても仕方が無い。笑顔を絶やさず黙々と紹介状を書いた。
実は横浜労災病院の外科は千葉大学の第二外科の関連出張病院で、一方、平和病院は同じ千葉大学の第一外科の関連出張病院だ。
今、千葉大学の外科は、第一、第二の枠をとりはらい、臓器別外科に再編成されようとしている。
今までの枠をこえ、混成のスタッフで手術を行うようになるとも言われている。
今後、それぞれの関連出張病院のスタッフはどうなるか・・・
われわれのように、大学から外の病院に出た外科医にとっては、おおいに関心がある。
近い将来、労災病院とも「同じ関連病院」ということになるのかもしれない。
確かに病院の規模、設備、手術総数は労災病院にはとてもかなわないが・・・
何も・・・わざわざ同じ大学の第一外科から第二外科に移らなくても・・・という思いもある。
「労災病院の外科へ」といわれる時はいつも少し引っかかる気持ちを感じてしまう。
ただ、一番大切なのは、患者さんが納得した施設で安全に手術が行われることだ。
少し悔しい気持ちを抑え、「おだいじに」の気持ちをこめて、遠ざかる救急車を見送った。(平成16年1月8日)
本を執筆しませんか?
ある日の午後、院長室に小包が届いた。
ある出版社からのもので、
開けてみると、ハードカバーの本が6冊と、手紙が入っていた。
読んでみると・・・
「先日、平和病院のことを紹介した医療情報誌(ホスピタウン)を見ました。
その内容を読み、さらに病院、院長のホームページを見せてもらったが、先生の医療、患者さんに対しての考え方に共感を覚えました。
その考え方、医療に対する姿勢を、病院の歴史を絡めて、専門書でも実用書でもなく、
先生の人柄がにじみ出るようなノンフィクションの読み物として、本にまとめてみまたいと思い、突然ですが手紙を出しました。
ぜひ、一度お会いして、お話を伺いたい・・・」といった内容で、
原稿は、プロのノンフィクション作家がインタビュー取材を行うことで作成するとの事・・・
医療に対する姿勢・・・といわれても、そんなことを語るにはまだ20年早い。
現在の厳しい医療情勢の中で、必死でもがいている状態だ。
医療を語っている間に、病院がつぶれる事だってある。
まして、自分の本に、お金を出して買ってもらうような、りっぱな生き様はしていない。
職員、友人、親兄弟、親戚一同に配っても200冊もさばければいいところだ。
さらに、手紙を読むと・・・
初版に関しては多少費用がかかりますが、再版からは規定の印税をお支払いします、と書いてある。
「多少の費用」がいくらかを見ると・・・
なんと220万円!!!!
印税が5%ということで、1000円の本として50円・・・200万を回収するには40000冊!
思わず気絶しそうになった。
妻に手紙を見せたら、「そんな無駄なお金は一銭もありません!」と、一蹴された。
手紙と一緒に送られてきた本も、こうしてできた本なのだろうか・・・
その中の一冊に、偶然、私と同じ千葉大学の第一外科の先輩で、
私が入局した時の助教授の本が入っていた。
先生の学生時代からのこと、千葉の大学時代、そして九州の大学の教授になり、
今は、横須賀の、海の見える病院の理事長としての人生が書かれてある。
これくらいの先生になれば、歴史が感じられ、懐かしく、楽しく読ませていただいた。
このホームページもあと10年くらい書いていくと、自分で愛着を感じ、自費出版でもしたくなるものなのかもしれないが・・・?(平成15年12月8日)
医療功労者表彰を受ける
11月18日、横浜市の保険医療功労者表彰式が行われました。
なぜか、私も救急医療事業功労により、表彰してくださるとのことで、
野毛にある市長迎賓館に出かけていきました。
母子保健事業、老人保険事業、精神保健事業、ボランティア活動、地域保健医療事業、救急医療事業の6分野で
それぞれ表彰がおこなわれ、記念品が贈られます。
人数が多いので、一人ひとりに表彰状は授与されず、各分野の代表が前に出て、市長から授与されます。
代表者は、「あいうえお」順で一番前のものがなるようでしたが・・・
救急医療事業功労の部門は、私のほかは、「な」、「は」、「ほ」、「む」・・・などで「た」の私が代表ということになりました。
式次第には、表彰式の前には「横浜市歌斉唱」があります。
いきなり横浜市歌斉唱っていわれても・・・
そもそも横浜市に市歌があるのさえ初めて知ったくらいです。
驚いたことに、作詞者はあの有名な「森鴎外」なのです!
我が日の本は島国よ
朝日かがよう海に
連なりそばだつ島々なれば
あらゆる国より船こそ通え
されば港の数多かれど
この横浜にまさるあらめや
昔思えばとま屋の煙
ちらりほらりと立てりしところ
今はもも船もも千船
泊まるところぞ見よや
果てなく栄えて行くらん御代を
飾る宝も入りくる港
いつに間にかピアノの音がして、前には指揮棒を持った女の人がにっこり笑いながら現れ、棒を振り始めました。
こんなの歌えるわけない・・・と思っていると、
なんと、周りの人が歌ってる!!!
なんで知っているの?と思うまもなく、仕方がないので口をパクパク・・・
中田市長や来賓の挨拶も終わり・・
中庭で記念写真、その後懇親会があり、終了になりました。
なかなか今までにはない経験をさせてもらいました。
最近、表彰されたと言えば、
平和病院の永年勤続表彰(10年)で、そのときは自分が自分に授与するという、とんちんかんな状況でしたが・・・
今回の医療功労者表彰は、私がもらったといっても、横浜市における医療は、平和病院で行ったもので・・・
私個人ではなく、病院の全職員の努力が認められたものだと思います。
厳しい医療情勢の中、一生懸命がんばってくれる職員に、改めて感謝!(平成15年11月19日)
おだいじに
11月13日(木)で私の東芝鶴見病院での外来担当が終了しました。
3年余り、毎週月曜日と木曜日の午前中の外来を担当していました。
平和病院と東芝鶴見病院は同じ東芝のグループ病院なので、
「東芝地域医療グループ」として病病連携を構築し、ひとつのユニットとして外科を運営してきました。
今後もその形態は変わりませんが、
私は平和病院の「管理者」なので、自院での業務に専念するように、との福祉保険センターの指導によるものです。
当日はあまり最後という意識もなく鶴見病院に行き、外来を始めたのですが・・・
まだ薬が残っていて、受診日でもないのに、「最後なのでお顔を見に来ました」と何人かの患者さんが来院され、
「残念です。せっかく慣れていたのに・・・」と皆さんがおっしゃいました。
もちろん治療は継続して行われるのですが・・・
「担当医が替わる」事に対する患者さんの不安は、こちらが思うよりずっと大きい、ということを感じさせられ、
治療を担当できなくなることへの申し訳ない思いでいっぱいになりました。
「先生、どうかお元気で・・」とあまり体調のよくない患者さんにも言っていただき、
おそらく、またお目にかかることがないかもしれないという思いが、一人ひとり、診察が終わるたびにだんだん高まり、
朝、家を出てきたときに比べ、外来が終わって平和病院に帰るときには重いものが心の中に残り、
複雑な思いでした。
皆様こそ・・お元気でお過ごしくださいますよう、お祈りいたします。
どうか「おだいじに」 (平成15年11月14日)
研修医が手術!?
最近新聞などで、いろいろと医療事故や手術ミスの話題が取り上げられているように思います。
患者さんたちも、あれほど記事になれば、「医療不信」とまでは行かないものの・・・
不安になることもあるのかもしれません。
最近立て続けに、手術を受ける患者さんが、「院長に手術を執刀してもらいたい」、おっしゃいました。
一人は確かに私の外来に長く通院している患者さんで、他の医師にはなじみがありません。
他の病院で手術をするつもりが、私を信頼してくださって平和病院を選んでくれた方なので、
そのようにおっしゃる気持ちはよくわかりました。
ただ、別の患者さんからは、「この病院は研修医に手術をやらせるんですか」との発言があったようで・・・
平和病院の外科スタッフは、現在5人ですが、そのうち病棟は主に若いスタッフが中心で動いています。
ただ、若いといっても、いわゆる「研修医」ではありません。
私が着任したばかりの頃は、確かに卒後2年目の経験の浅い医師が派遣されていましたが、
今は、一番若いスタッフでも、卒業して大学で研修し、その後何年も関連病院で経験をつんだ新進気鋭の医師が着任しています。半年後には大学に戻り、いわゆる研修医を実際に指導するようになります。
また、その次に若いスタッフは、本来なら、関連病院に就職し、第一線で中堅として働く年代ですが、
医局の関連施設が多いために、人事の関係で大学に残り、出張医師として派遣されてきています。
彼らは今の私には、とてもまねの出来ないような技術も持ち合わせています。
確かに手術を受けられる患者さんにとっては、どんな小さな手術でも不安がいっぱいと思います。
なんとなく年配の医師が執刀した方がいいような気がするのかもしれません。
ただ、外科はチームで治療を行うもので、手術も一人で行うものではありません。
麻酔、術者、前立ち、助手と全スタッフが協力しながら行うものです。
安全に、確実に行われるよう、複数の目と手が術者をサポートしています。
どうか若いスタッフも信頼し、安心して治療をお任せいただきたいと思います。(平成15年10月30日)
申し訳なく・・・
平和病院の外科と東芝鶴見病院の外科のユニット化は2年以上前に実現し、運営されてきました。
私も月曜日と木曜日の午前の2単位、鶴見病院で外来を担当していましたが、
「お知らせ」のコーナーで書いたように、
11月17日から、鶴見病院の外来を担当することが出来なくなってしまいました。
外科の外来といっても、怪我など、短期間の通院で済む方ばかりではなく、
手術後の経過を長期にわたって見ていかなければならない患者さんも多くいらっしゃいます。
さすがに2年も経つと、毎回私の外来に通ってくださる患者さんも多くなり・・・
そんな患者さんに対し、最近、「11月から、担当医師の変更があり、私が担当できなくなりました」と
お知らせする時期になりました。
「せっかく慣れて、何でも話せるようになったのに・・」
「え〜いやだ〜」
「何処に行っちゃうんですか・・・」
など・・・
顔なじみの患者さんに言われるのは本当に申し訳なく、こちらもつらい思いがします。
確かに鶴見病院と平和病院は、歩こうと思えば歩ける距離にあり、タクシーでもワンメーターの距離です。
ただ、ユニット化しているとはいえ、それぞれの経営形態は異なり、
同じ東芝の病院でも平和病院は独立採算の医療法人、鶴見病院は東芝健保の病院です。
私の外来の患者さんを、全部平和病院につれてくることは出来ません。
「平和病院から、責任を持って、担当医師を派遣し、継続治療しますので心配ありませんよ・・・」
とお伝えはしますが、ただ、中には「どうしても平和病院に通院する」とおっしゃってくださるる方もおり、
本当にありがたく、医者冥利につきる、という思いもある反面、複雑な思いがします。(平成15年10月25日)
K医師の本
平和病院の外科と東芝鶴見病院の外科がユニット化され、同じスタッフで運営されるようになってから、
検診も含め、乳腺疾患を扱うケースが増えています。
先日、一目で乳癌とわかるような患者さんが受診されました。
2年前、他院で乳癌の疑いがあるといわれたが、ちょうどその頃
有名な放射線科のK医師の本を読んだようで・・・
その先生は乳癌だけでなく、他の癌の検診や手術に否定的な意見で脚光を浴び、
その後も多くの著書を発表しています。
患者さんの知る権利、説明を受けた上で治療を選択する権利はもちろん大切で、
当院でも、行動基準や「患者様の権利」宣言にも明確にしています。
ただ、対面での診療ではなく、相手の反応が見えない一方的な情報提供である「本」の場合は、
読む側の状況、誤った思い込みをチェックできない恐さが潜んでいます。
実際その患者さんは、その時点でK医師の本を読み、「手術をしなくても大丈夫」と信じたわけで・・・
その後の2年間は大きくなっていくシコリを気にしながら、大変不安な思いをしてきたわけです。
思い余ってたまたま私の外来を受診した時には、
2年間の空白は、もはや埋めようも無く、病状はかなり進行しています。
「何でもっと早く・・・」という言葉が出そうになっても、そこには、その患者さんの2年間の様々な思いがあるわけで、
それは決して言ってはいけない言葉だと思いました。
「2年間も心配なさって、大変でしたね」と声をかけるしかありません。
「まずは、今がどういう状況なのかを検査して、一番いい治療法を見つけていきましょう」とお話をしました。
もちろん本を信じて受診しなかったご本人も悪い・・・と言えばそれまでかもしれませんが・・・
いま、巷には「癌が○○で消えた!」などの類の本があふれています。
いちいち全部を読んだわけではないので、なんともいえませんが・・・
不安にかられ、藁をもつかむ思いの患者さんは、希望を託してその治療法にすがるわけで、
そのような本の著者達は、私のもとを訪れた今度の患者さんのようなケースがあることを強く認識すべきだと思います。
「2年前に先生にお目にかかりたかった」
とおっしゃってくださった患者さんと一緒に、これから病気との長い戦いが始まりますが・・・
センセーショナルに取り上げられる本に対するやりきれない思いは消えません。(平成15年8月22日)
「巻き爪治療」に関して
当院のホームページの「リンク」の部分を開くと、巻き爪に関してのリンクが設定されています。
平和病院では陥入爪を切らずに治す「超弾性ワイヤー」を使った治療法を採用しています。
今でもホームページを見て、比較的遠方からも患者さんが訪ねてきます。
医学雑誌「小児外科」の8月号の特集「日常外来診療における小創傷への適切な対応」の中で、
私が執筆した「超弾性ワイヤーを用いた陥入爪の治療」が掲載されました。
現在ではかなり手ごわい、進行した肉芽を形成した難治性の患者さんもお見えになり・・・
陥入爪も奥が深い・・・と感じます。
巻き爪でお悩みの方、手術を受ける前に、一度、ご相談ください。(平成15年8月14日)
待ち時間調査結果
先日6月23日から6月28日まで、外来および会計の待ち時間調査をおこないました。
結果は以下のとおりです。
各部署平均待ち時間(単位:分)
月曜日 | 火曜日 | 水曜日 | 木曜日 | 金曜日 | 土曜日 | |
内科 | 20.7 | 27.3 | 43.3 | 30 | 54.8 | 34.2 |
外科 | 16.9 | 21.8 | 10.8 | 17.2 | 16.8 | 39 |
整形外科 | 7.9 | 7.5 | 14.5 | 7.8 | 9.0 | 10.8 |
泌尿器科 | 34.4 | |||||
皮膚科 | 12.4 | |||||
会計 | 5.8 | 4.4 | 4.5 | 4.6 | 6.8 | 4.1 |
各部署最長待ち時間(単位:分)
月曜日 | 火曜日 | 水曜日 | 木曜日 | 金曜日 | 土曜日 | |
内科 | 51 | 70 | 78 | 63 | 128 | 68 |
外科 | 61 | 57 | 28 | 58 | 38 | 98 |
整形外科 | 29 | 20 | 45 | 25 | 16 | 31 |
泌尿器科 | 75 | |||||
皮膚科 | 21 | |||||
会計 | 24 | 18 | 12 | 36 | 26 | 12 |
内科:水曜日は糖尿病特殊外来のため、検査などに時間がかかる影響と思われます。木曜日は午後診療ブースが一つだったための影響も考えられます。金曜日の午前の担当医師は、ひとりの患者様診療にじっくり時間をかけているためと理解しています。土曜日は横浜労災の循環器科の加藤部長の診察日であり、受診患者様が多数であるためと思われました。
外科:土曜日は私の担当でもあり、申し訳なく思いますが、陥入爪治療が入った場合、どうかすると、ひとりの治療に15分以上かかる場合もあり、また、他の曜日に比べ、受診患者様が多いせいもあります。このため、水曜日午前にも診察日を増やして、対応しています。
机の前にカルテがどんどん並んでくると、患者様を長くお待たせしていることは肌で感じてわかります。
診察室に入ってこられた時は「お待たせして申し訳ありません」とお詫びをするのですが・・・
長くお待たせしていると感じると、よけいに診察時間を長くかけてしまう傾向があり、
この結果として、さらに待ち時間を長くしてしまう・・・・という悪循環になってしまいます。
患者様の苦情にも「待ち時間の長さ」がいつも指摘されます。
この結果を参考にして、今後も待ち時間短縮の努力を続けたいと思います。(平成15年7月29日)
院内全面禁煙へのお願い!
平成15年5月1日、健康増進法が施行されました。
第25条では、受動喫煙(室内または、これに準ずる環境において他人の「たばこ」の煙を吸わされること)の防止が
謳われています。
この法律の施行により、病院などでは受動喫煙防止のために必要な措置を講じることが義務付けられました。
平和病院では以前より、皆様のご協力の下、
院内においては分煙を実施、
換気および空気清浄機の設置を行っていましたが・・・
患者様の健康をサポートするべき医療施設としましては、
病院内すべての場所における禁煙が望ましいと考え、
病院全館における完全禁煙実施を決意しました。
もちろん、たばこの臭いのする白衣で患者さまに接することの無いよう、
全職員にも周知徹底します。
患者様、ご家族、ご面会の皆様におかれましては、
院内完全禁煙化の主旨をご理解の上
ご協力くださいますようお願いいたします。
なお、周知期間をもうける関係上、
完全実施は平成15年9月1日からといたします。 (平成15年7月12日)
あてにげ!
病院の裏には駐車場がある。
道路から駐車場までには通路があり、病棟に面している。
2階病室のエアコンの室外機が通路側に設置してあるが・・・
先日、台ごとひん曲がっているのが発見された。
かなり背の高いトラックがぶつかったようで、
誰がぶつけたかもわからない。
この季節、エアコンを使わない訳には行かず・・・
泣く泣く交換した。
数日前、同じ場所が、またまたぶつけられているのを発見した。
ご丁寧に、往復でぶつかったらしく室外機の位置は動いていないように見えるが・・・
新しくしたばかりのエアコンは、見事に使い物にならなくなっている!
今度も誰がやったか判らない。
そんなに背の高い車は頻回には通らないので、ある程度のめぼしはつけたのだが・・・
実際に見ていないので何ともいえない・・・
病院の設備は、職員にも節約を徹底させ、給与、賞与も我慢をしてもらい、購入している。
一度ならず、二度、三度とやられては、たまったもんではない!
大型車両の入る日はだいたい決まっており、今度こそ見つけ出そうと、てぐすね引いている。(平成15年6月14日)
大河ドラマの女優が・・
大病院ともなると、有名な俳優や歌手が入院したりするのがワイドショーなどでも報道されるが・・・
先日、平和病院に、おでこに、かすり傷をおった女性が来院した。
おでこの半分くらいに、かさぶたがついている。
「どれ位で治りますか?」
「う〜ん、きれいに治るまでには2週間くらいかかるかもしれません」
「明日がかつら合わせなんです!」というので・・・
よく話を聞くと、なんと、NHKの大河ドラマ「武蔵」に出演するとのこと。
本番の撮影が1週間後にあるそうだ。
「女優さんなの?」と聞くと、側にいたお母さんが「そうなんです」と、うなづいた。
女優は「顔が命」にもかかわらず、
なんでも、学校の鉄棒で回るときに顔から落ちたのだそうで・・・
患者さんは小学生!
役は「寺子屋の子供」だそうだ。
寺子屋の子供でも、転べば、かすり傷くらい作るのだから、関係ないような気もするが、
やはりそんなものでもないらしく、心配そうなお母さん・・・
寺子屋の生徒は10人くらいいるのだが、女の子は3人くらいなので、すぐにわかるとのこと。
「将来は女優さんになるの?」と聞くと、「うん」と、はっきりうなづいた。
未来の大女優の可能性もあり・・・
幸い、かつら合わせも無事おわたっようで(結局、髪が長いので、かつらはかぶらないとのこと)
何日か後に受診した時には、傷も驚異的に早く治っていた(治療が良かったか!)
「サインもらっちゃおうかな・・」とお願いすると・・・
「せんせいへ」とのコメントの後に名前を書いてくれた。
名前も、いかにも女優、といったような素敵な名前だったが・・・
先生の「先」の字がちょっと間違ってたけど・・・
将来「お宝」になるかもしれず・・・大事にとっておくことにした。
「武蔵」は今まで見ていなかったが・・・寺子屋のシーンが出るまでは、目が離せない!(平成15年5月22日)
トイレは洋式?和式?
平和病院の外来トイレは洋式と和式がひとつずつ設置してある。
2階のトイレは全部洋式でウォシュレット付きになっている。
最近、院内の巡視をして思ったのがこのトイレのことで・・・
当院はご高齢で足腰の弱っている方も多く、和式のトイレに一度しゃがんだら、
立ち上がるのが大変なのでは・・・と思った。
もっとも洋式のものがあるので、そちらを使えばそれでいい・・といえばそのとおりなのだが・・・
どうにも気になって、いろいろ聞いて見ると、
どうも、洋式トイレは便座に他の人も座るので、そこにおしりが触れるのがいやだ!
という人が、かなりいるらしいとの事だった。
そんな人が、和式のトイレを好んで使うとの事で・・・
デパートなどではトイレに流せる便座シートを設置しているところもあり、
これを設置すれば全部洋式でも問題はないのだろうか・・
個人的には洋式のトイレの方が楽なような気もするが、
いざなおしてみて「和式のトイレがなくて困る」とか、投書をいただいたりしたら・・・
などと考えてしまう。
この前の「患者様満足度調査」のときに、アンケートにトイレは和式?、洋式?の項目でも入れておけばよかったが・・・
どうもフンギリがつかない。(」平成15年4月29日)
平成15年度予算案
3月27日に平和病院の社員総会が開催され、平成15年度の平和病院予算案が承認されました。
この4月からは、介護報酬の改訂があり、
平和会は、介護保険病棟、通所リハ、訪問看護、訪問介護、訪問リハ、居宅介護支援事業など、
多くの介護保険対応領域を運営している関係上、
大きな影響を受けることになります。
今年度は、昨年4月の診療報酬改訂の影響をうけ、経営面はかなり厳しくなっており、
追い討ちをかけられる感じですが・・・
病院の質を上げるためには、人員確保、施設、設備の充実も必要で、
これから病院の舵取りはますます難しくなっていきます。
もうすぐ新しい年度が始まります。
職員一丸となり、気合を入れて厳しい状況を乗り切っていくつもりです。(平成15年3月29日)
もう年度末
今年度も残り1ヶ月を切ってしまいました。
外科も千葉大学臓器制御外科(第一外科)の医局人事で、スタッフが交代します。
森田は同じ医局の関連病院の、都立府中病院に2年間の派遣になり、
4月からは東京都の職員です。
篠崎は大学に戻り、半年後に大学院の関係で神戸にいくことが決まりました。
この時期になるといつも思うのですが、本当に一年は短いもので。・・・
もう送別会の日が決められていきます。
来年度からは大学も研修制度が変わり、平和病院のような、いわゆる「医局の関連病院」に
派遣される人材の確保が困難になってきています。
医局長も来年度の人事にはかなり苦労をしたようでした。
「人を派遣できない」というと、その病院の外科部長や院長から「何とかしてくれ」と、クレームが寄せられ、
医局長にとっては皆先輩にあたるため、先日、手術(肝切除術)の応援で平和病院に来てくれたときには、
「胃に穴があきそうだ・・」とこぼしていました。
幸い、平和病院には、今年度と同じ2名が派遣されてきます。
現在、千葉労災病院に勤務している柴田と、茨城の県西病院にいる久保木です。
外科として、どれだけ頑張っているか、学会発表や論文も書いているか・・・
教授の厳しいチェックが入ります。
厳しい医療情勢の中、さらに気合を入れなおす時期でもあります。(平成15年3月7日)
総回診と巡視
今までも院長回診は不定期に行っていましたが、今月から原則として毎週水曜日に
院内巡視も兼ねて定期的に行うようにしました。
全病室を回り、患者様や面会のご家族の方にお会いし、
ご不自由な事や気になることがないかもお聞きしています。
「御用聞き」のような感じですが、貴重なご意見をうかがうことも出来ます。
清掃の状況もチェックし、終了後は各部署に結果を伝達するようにしました。
次の回に前回の指摘事項が改善されているのを確認でき、納得できます。
人情ドラマのお姑さんのように埃のチェックなどもしています。
前回は、本館個室にカーテンがついていないことも始めて気づきました。
エレベーター前についたてが置いてあるのに気づき、師長に理由を聞いたところ、
本館部分の個室は、ドアを開けるとすぐにベッドがあり、
処置中にドアを開けられると遮蔽できないので置いてある、と聞いたため、初めてわかったのです。
今までは全然意識していなかったのですが・・・・
小さなことですが、気をつけて病院を眺めてみると、まだまだ変えなければいけないことも多いようです。
(平成15年2月15日)
院内成人式
1月13日は成人式でした。横浜ではアリーナで開かれましたが、
平和病院では毎年、その年、成人式をむ迎える職員を祝って、院内成人式がおこなわれます。
今年は5人の職員が成人式を迎えました。
クラーク2名、医事課職員2名、看護補助1名です。
16日の昼休み、私と看護部長、事務長、直属の上司にあたる医事課主任、病棟師長が集まり、
記念品を贈呈しました。
5人の職員には、およそ次のような話をしました。
20歳になれば法律的にも成人と認められるが、それだけ社会的な責任も負うことになり、
気持ちを新たにしていることと思います。
今までは気の合う人、仲のよい友達とだけ過ごすことが多かったかもしれません。
しかし、いったん社会に出れば、それではすまないことも多く経験するようになります。
平和病院には200人を超える職員がおり、また、毎日多くの患者様、ご家族の方、面会の方が訪れ、
あななたたちは、その人たちに接し、何らかの対応をしていかなくてはならなくなってきます。
「大変だ、めんどうだ」と思うこともあるかもしれません。
ただ、成人式にあたり、あなた達に言いたいことは、
そんな、一つ一つの出会いを、大切にしてもらいたい
と言うことです。
病院は多くの職種が患者様にかかわることで、よりよい医療、介護を提供することができます。
自分ひとりが与えられた仕事をすれば、という考えでは、病院は成り立っていきません。
他の職種の職員を思いやり、協力し合い、患者様にかかわることで、病院は大きなパワーを発揮できるのです。
最近はこれが出来る人たちが少なくなってきています。
出会いを大切にし、出会った人たちを思いやり、大切にする。
それは将来必ず自分に帰ってくるし、自分のことを必ず成長させてくれるはずです。
殻に閉じこもらず、出会った人たちに自分から心を開き、積極的に係っていってください。
「そんな事をいわれても、どうしたらいいか・・・」
と思うかもしれません。
まず病院に入ったら、すれ違う人に、大きな声で「おはようございます」と挨拶してみてください。
心のこもった挨拶は、相手に自分の心を開くことに通じていきます。
たまには相手が何も言わずにすれ違い、いやな思いをするかもしれません。
それでもくり返し挨拶してごらんなさい。
必ず相手も少しずつ変わって来るではずです。
あなた達は若く、自分でも気づかないようなすばらしいパワーを秘めています。
これから私たちの仲間として、成長していってくれることを信じています。
少し長くなってしまいましたが・・・
5人には、私の言いたかった事は伝わったでしょうか・・・
話のあと、みんなで会食をし、院内成人式は終わりました。
自分は20歳の時、なぜか成人式には出席しませんでした。(理由が思い出せないのですが・・)
今思うと、少し残念な気がします。 (平成15年1月19日)
年の初め
新しい年を迎え、病院の職員達もまた気持ちを新たに業務を始めています。
年明け、通所リハでは餅つきがおこなわれました。
看護部長、事務長も杵をふるい、
利用者の皆様からも、とても喜んでいただきました。
つきたての餅は餡子、きな粉、おろしをからませて皆さんに振舞われ(のどに詰まらせないように・・・)
院長室の机の上にもおすそ分けが置いてあり、
とてもおいしくいただきました。
また、11日には「生麦囃子」の皆さんがボランティアできてくださり、
小学生、中学生も交えてお囃子と獅子舞が披露され、療養病棟の各部屋をねりあるきました。
一般病棟には重症の患者様もおいでになるため、回りませんでしたが、
お囃子の音が聞こえ、正月の気分を盛り上げていました。 (平成15年1月19日)
病院機能評価受審にむけて
最近「選ばれる病院」という言葉が聞かれるようになっています。
病院が自らの努力で「質の向上」を目指さない限り、
厳しい医療状況の中で、生き残っていくことが出来ない時代になってきています。
この病院の質を見極める基準として、
日本医療機能評価機構が行う、病院機能評価があります。
@病院組織の運営と地域における役割
A患者様の権利と安全の保障
B療養環境とサービス
C診療の質の確保
D看護の適切な提供
E病院運営管理の合理性
に関し、多くの評価項目が設定され、審査、認定を受けるものです。
審査を受けるまでに、病院自らが、足りない部分を認識し、改善に取り組むことで、
質の高い病院に成長することが目的です。
平和病院もこの評価を受審することをきめ、先日プロジェクトが発足しました。
来年度の受審をめざし、職員一丸となって、頑張っていこうと思います。 (平成14年12月14日)
もうかんべん!後日談
試験の後、何の番組の取材だったのか・・・すごく気になりました。
毎日NHKの番組を新聞で見ていましたが、ある日の「ニュース10」で、
乳癌検診に関しての特集があるのを見つけました。
これに違いない!
よせばいいのに親兄弟や病院の看護師さんたちに
「もしかしたら、今日テレビに出るぞ!」と言いふらしてしまい・・・・
「これでテレビに出るのは3回目だ〜」と一人で興奮していました。
初めてテレビにでたのは大学1年の時の千葉テレビです。
もう30年くらいも前の話で、詳しいことは覚えていませんが・・・
いまどきの「若者の」ファッションとかいって、ジーンズに関しての取材だったと思います。
「動きやすくて・・・」とか何とかしゃべったような記憶があります。
2回目はキューピー3分間クッキングの、「浜辺のお弁当」特集とかで、
葉山の海でロケがあり、出来上がったお弁当を食べ、
「あ〜おいしかった」とかいって海に入っていくところの場面です。
親戚が料理番組の先生のため、駆り出されての出演でした。
さて、当日はテレビの前に家族中が集まり、画面を食い入るように見ていました。
下の子供などは、いつも寝る時間をとっくに過ぎているのに
「お父さんがテレビに出るのを見るんだ」と、睡魔と闘っています。
番組が始まると、やはりマンモグラフィに関するもので、
診断のできる医師が読影することが必要、との事で、先日の試験の場面が映り始めました。
まずは試験場に入場の場面です。
講義で隣の席に座っていた人が大写しになっています。
ありゃ、確か試験場には一番初めに入ったのに・・・しまった、早すぎたか!もう少し遅れて入っていれば・・・・・
その後の場面では、試験場が暗いので、何人か映っているものの、自分なのかどうか、全然わかりません。
探しているうちに終わってしまいました。
テレビの前では、気まずい沈黙が流れ・・・・
「僕、もう寝よう・・・お父さん映んなかったね!」と・・・グさっとひとこと・・・
翌日は病院に行っても、ひたすらこの話題には触れないようにしていました。 (平成14年11月26日)
続、もうかんべん!
初日、朝6時の新幹線に乗り、名古屋で降り、国立名古屋病院に着きました。
集合したあと、開講の挨拶があり、講師が紹介されましたが、
どこかで見たことのある顔の講師がいます。
自己紹介の時、「千葉県対癌協会の○○です」とのこと。
やっぱり・・・千葉大学の第一外科の後輩だよ・・・
ここで変な成績で試験に落ちようものなら・・・そう思うとますますプレッシャーがかかります。
なるべくばれないよう、顔を合わせないようにしていました。
講義は延々続き、その後グループに分かれて実際の画像を使って読影の講習
終わったのは8時近くです。
しばらく講義などというものを受けていなかったので、終わる頃には意識が朦朧として・・・
名古屋の夜を楽しもうなどと言う考えも吹っ飛んで、
(味噌煮込みうどんが食べたかった・・・)
ホテルの隣の牛丼屋で食事を済ませ、復習も出来ずに眠りこけてしまいました。
二日目も午前中はグループ講義、昼食の後はいよいよ試験です!
その日は、なんでもNHKの取材が入るということで、撮影のスタッフが来ていました。
試験風景を撮影するため、特別に試験時間も5分間延長するとの事でした。
試験に集中すればいいものを、撮影と聞くと、「映ってやろうか・・・」などとよけいなことを考えてしまいます。
試験は100例の画像を100分でカテゴリー分類し、マークシートに記入する方式ですが、
100例といっても左右あるので結局は200枚の写真を100分で判断しなくてはならず、
1枚30秒!・・・とても見直す時間などありません。
会場に入るところを、テレビカメラが撮影しています。
「緊張した顔をすればテレビに映るかな・・・」などと、まだよけいなことを考えながら試験場に突入しました。
暗い中、200枚の写真が並んでいます。あとは時間との勝負です。
困ったことに、今までの講義やグループ講習で、散々所見のあるマンモグラフィの写真を見せられてきたので
普段なら「異常所見なし」と問題なく判断するような写真も「何か所見があるのでは・・・」と思ってしまいます。
80問位解いたところで猛烈に胃が痛くなってきました。
情けないと思いながらも、何とか時間内に残りを解き終わりましたが・・・
その後、自分の解答がのコピーが渡され、再び試験会場にもどると、
写真の横に、有所見のものだけ、解答(異常部分)を図示した紙が張ってあります。
初めに思ったことは・・・「こんなに異常無しの写真が多かったのか!」ということでした。
明らかに「読みすぎ」ています。
これはまずい・・・・いや〜ナ予感がじわりと広がります。
そこへ後輩の講師がそっと近づいてきて・・・「高橋先生、どうでしたか?」・・・やっぱりばれていました。
「ん〜、難しい!ダメかもしれないな・・」と言ってはみましたが、
「まだ試験は何回もありますから」って・・・おいおい、まだ落ちたわけじゃないんだけど・・・
最後に講義を受けた部屋に戻ると、もう採点結果が出ています。
結果は・・・・・何とか合格です。
胃の痛みもウソのように消えていきました。
今回は本当〜に疲れましたが、休みを二日もつぶした甲斐がありました。
でも、もう今度こそ「試験」を受けるのは最後にしたい!・・・と真剣に思いました。
もう、かんべん! (平成14年11月8日)
もうかんべん!
11月3日、4日の二日間、名古屋にいってきました。
マンモグラフィ検診制度管理中央委員会が主催するマンモグラフィ指導者講習会に参加するためです。
乳癌は次第に増加の傾向にあり、その検診が積極的に行われていますが、
最近、検診におけるマンモグラフィの有効性が証明され、
その、高い精度の読影力が重要視されるようになってきました。
今回の講習は連休を利用して、国立名古屋病院で開催されました。
1日目は8時半から夜の7時半まで昼休みの50分以外、ず〜っと講義、実際の読影のグループ講習・・
2日目はやはり8時半から昼までがグループ講習、
そして・・・評価試験が行われるのです。
この試験点数により評価が下され、マンモグラフィ読影の実力の有無が判断され
合格者には認定証が交付され、合否の結果は検診制度管理中央委員会のホームページに掲載されるというものです。
平和病院は以前から乳癌検診を積極的に行っており、
マンモグラフィの画像の撮影、読影も行っており、別にこの試験は義務化されているわけではないので
受けなかったからといって「読影をしてはいけない」、というわけではありません。
ただ、講習を受け、「試験がある」となると話が違います。
これで落ちたら「実力不足」と判断されてしまうわけで・・・・
今までの検診はなんだったの・・・ということにもなりかねません。
そんなわけで、かなりのプレッシャーで名古屋に出かけていきました。
「試験」は何年か前、ケアマネージャーの資格を取った時に受けましたが、
そのときにはもうこの先「試験」などは受けることもないだろう・・・と思っていたのに・・・(つづく) (平成14年11月4日)
「自宅で死ぬ」ということA
癌の患者様が最後を迎える時心臓マッサージ、気管内挿管などの救急救命処置は、今ではほとんど行われなくなりました。
それは、最後をの日を迎える前、ご家族の方に、どのように最後の時を迎えるかにつき、
十分話しあっているからです。
たいていのご家族の方は、患者様がもうじゅうぶん癌と戦ってきたこと、
これ以上苦しい思いはさせたくないとおっしゃることがほとんどで、、
また、こちらも、最後の時にはご家族の方がそばにいて、声をかけ、手を握り、静かに見守っていただきたいとお話するからかもしれません。
(よく、意識がなく、反応がなくなっても、耳は最後まで聞こえる、と言われていまます。
わたしもご家族の方には、そのようにお話し、お声をかけてあげてくださいとお話します。
私が死ぬ時には、聞こえなくても、声はかけて欲しいと思うせいもあるのですが・・・本当のところはわかりません。)
ただ、私が医者になったばかりの頃は、ご家族の方々にもそのようにおっしゃる方は少なく(こちら側もあたりまえのように救命処置を行っていたせいもありますが)
心マッサージ、人工呼吸を1時間以上も行って、「もうやめようか」と思っていたときに、
遠くからやってきて、やっと間に合ったご家族から、「もう、さじを投げるのか」といわれ、
その方が納得するまで延々とマッサージを続けたこともありました。
「心臓マッサージをいつ止めるのか」には別に基準があるわけではありません。
時計を見ながら、○時になったら、とか、後15分たったらとか、決めてやっていました。
「どんな最後を迎えるか」を考える時、やはり避けて通れないのが「告知」の問題です。
いまでは大学病院、癌センターなど、大病院では、ほぼ100%が告知されます。
ホスピス、緩和ケア病棟などもなども告知が原則です。
平和病院でも、もちろん早期の場合、手術でじゅうぶんに予後が期待できる場合、
乳癌の場合などでは、ほぼ告知しています。
ただ、全例が告知されている訳でありません。
私が赴任したばかりの時には、告知される場合の方が少なかったように思います。(つづく) (平成14年9月29日)
トイレを患者様の声にあわせて・・
3病棟に入院中の患者様から、トイレが使えない!との苦情がありました。
車椅子をご利用の患者様ですが、
もともとは1病棟に入院され、最近転棟された方でした。
3病棟は平和病院の中で、一番新しい病棟ですが、1病棟、2病棟の車椅子用トイレは
最近改装したため、全て自動ドアにしてありますが、
3病棟のトイレは手動でドアの開閉をしなければなりません。
このため、入った後、鍵を閉めるのに車椅子を回転する必要があり、スペースがやや狭く、
手すりもついているのですが・・・
その患者様は、真夜中でもエレベーターを使い、スロープのある廊下を進んで、
2病棟のトイレを利用しているとの事でした。
事務長と、業者と私の3人で、問題のトイレを見ているとき、
ちょうどその患者様がいらっしゃいました。
詳しく話をお伺いし、目の前で実際にトイレを使っていただき、何処が問題で、何処どのように変えれば使いやすくなるのか、
患者様と一緒に検討しました。
今までのドアをはずし、間口を広くし、アコーデオンドアにして、車椅子が内部で楽に回転できるスペースを確保し、
手すりの長さ、位置を変れば、かなり改善されることが判り、
さっそく改装を始めました。
見た目はちょっとした変化なので、気がつかない人も多いと思いますが、
その患者様からは、「とても助かりました」と、言っていただき、
病院の設備は、頭の中だけで考えるのと、患者様の使いやすさが、必ずしも一致せず、
難しいものだと痛感したとともに、
この3病棟のトイレが、患者様の声を直接反映して改善されたことが嬉しく思われ・・・
通りかかるたびに、ドアの開け閉めなどしてしまいます。 (平成14年9月6日)
なんだか・・・・
平和病院は一般病棟54床、療養病棟96床で構成されています。
私は外科医なので、一般病棟の外科の回診を水曜日に担当しています。
療養病棟には出来るだけ顔をだそうとしていますが、なかなか雑用に追われ、
水曜日の午後や、土曜日の午後の空いた時間にラウンドするようにしています。
今日は土曜日、3時過ぎに病棟を回りました。
この時間、お昼寝をしている患者様も多く、そんなときは、おこさず,様子を見ていきます。
そんな患者様からは、次に回診した時に、「あら先生、ずいぶんお久しぶり!」などと言われてしまいます。
ある病室に、いつも、手の痙攣と強張りを訴える患者様がいらっしゃるのですが、今日は特に訴えが強く・・
「状態はよくならないし、もう死んでしまいたい・・・」とまでおっしゃいます。
確かに、完治は望めず、身体は麻痺、ずっと寝たきりの方で・・・薬もあまり有効ではありません。
「どうしたんですか?リハビリの先生も一生懸命に頑張っています。少しずつ、焦らずにいきましょう・・」
とは言ったものの、療養病棟での患者様に対する、精神的なサポートの重要性を強く感じさせられました。
その病室を出て、しばらくして、別の病室に入りました。
いつもは話しかけても黙って私のことを見るだけで、
「お大事にしてくださいね」の言葉に、ごくたまに、うなずくことがあるだけの患者様のところに来たとき・・・
「もう来なくていいよ!」
「何で来るんだよ、家にも帰れないし、死んじゃった方がいいんだ・・・」
といわれてしまいました。
この患者様の声を聞いたのは、かなり長く入院なさっていますが、実はこの時が初めてで、
こんなにはっきり話せるとは思っていなかったこと、
また、このような言葉を、同じ回診中に2回も聞くなどということは
今まで経験がなかったため、かなり驚きました。
療養病棟に入院なさっている患者様は、やはりご自宅に帰りたがっていらっしゃる方が多く・・・
「いつ家族は迎えにくるんでしょう」とか
「あした帰りますから、家に連絡してください」とか
「もうすぐ息子が迎えにくるんです」とか(実際はそんなことはないのですが・・)
等の言葉が必ず聞かれます。
ただ、ご家族の方々のご事情もあり、ご自宅への受け入れは、かなり困難なケースがほとんどです。
在宅支援部門の強化は、平和会の今後の最重点目標の一つとなっているのですが、
基本的にはご家族の方々の「頑張って介護をやっていこう!」という気持ちが大切だと思っていますが、
実際、介護を必要とされる方のご家族のご苦労は、大変なもので、
とても「入院から在宅への移行を促進させる」と厚生労働省が言ったところで、
現場ではそう簡単にはいかないのも事実です。
ひとりでも多くの患者様が、ご家族に囲まれ、安らかな療養生活を送れるよう、
多方面からのサポートを目指していますが・・・
こんな患者様の声を直接聞くと・・・・
まだまだ、なにか足りない、と思えてきて、
今日の回診が終わった時には、なんだか・・・・(平成14年8月30日)
まだまだ優しくない:後日談
日曜日になったばかりの午前1時、枕もとの携帯電話が鳴りました。
その日は12時過ぎに寝たので、なかなか起きられず、出ようとした時には、切れてしまいました。
最近は夜中に、いわゆる「ワン切り」がかかってくることも多いのですが、
着信履歴は病棟からでした。
折り返し電話してみると、食道癌の末期の患者様(まだまだ優しくない、で書いた患者様です)の血圧が下がってきているとの事です。
「他の先生は?」という妻の眠そうな声を聞きながら、病院に急ぎました。
最近は若い出張医が、病棟の管理をしっかりやってくれており、私が着任したての頃に比べると、
夜中に連絡がくることもずいぶん少なくなりました。
以前から、平和病院で手術をし、治療を受けてくださっていた患者様が最後の時をむかえるときには、
なるべく、立ち会うようにしてきました。
「当直医がいるのに、なぜ先生を呼ぶのですか?」
と尋ねる看護師さんがいます。
確かに当直医師がいるので、私が行かなくても問題は起こりません。
なぜなのか、と言われても、感覚的な問題が、かなりの部分を占めており、
自分でも、「そうしなければならない理由」を細かく説明は出来ません。
医者と患者様の関係は「めぐりあわせ」だと思っていますし、「一期一会」の関係を大切にしたい、と考えています。
大病院嗜好の強い中、平和病院を信頼し、治療を継続してくださった方々・・・
中には、周囲の人が、「大学病院に・・癌センターに・・・もっと大きな病院に・・・」というのにもかかわらず
治療をまかせて下さった方もいます。
そんな患者様が、癌との戦いにやぶれ、最後の時を迎える時、
力及ばず、申し訳ありません、との思いを込め、最後の時に立ち会っても、ばちはあたらないだろう!
と、言ってはいるのですが、あまり理解してもらえないこともあります。
自己満足、との指摘もありますが、それでも手術後、長く外来でお付き合いさせていただいた患者様の場合、
最後の瞬間に立会い、時間の許す限り、お見送りをするのは自然のことだと思っています。
ともかく、その日も車を飛ばし、病院につきました。
病室を訪ねると、すでにご家族の方々が患者様のベッドを取り囲むように集まっておられ、
もちろん、奥様は一番近くにいらっしゃり、ご主人の手を、一生懸命さすってあげていました。
私の顔を見ると、静かに微笑みかけてくださり・・・・
実は、病室に入る前は、奥様が、悲しみのあまり、取り乱していらっしゃるのでは・・・と思っていたので
正直、予想外のことに驚きました。
あらためて、いよいよ最後の時が迫っていることをお話し、静かに最後を見守ることを確認しました。
夜も明けかけ、少し明るくなった4時近く、院長室の電話が鳴りました。
患者様は呼吸も止まり、心臓が、最後の動きをしていました。
しばらくして、その心臓も動きを止め・・・
「残念ですが、ご臨終です」
そのときも、奥様は、一時の混乱がウソのように、静かにご主人の「死」を受け入れてくださいました。
もちろん、心の中では、いままでの、様々な思いが走馬灯のように駆け巡っていたのだと思います。
終末期医療を扱う者が、必ずと言っていいほど読む本に、E、キューブラー、ロスの「死ぬ瞬間」というのがあります。
この本では末期をむかえる患者様の心の動きに関し
「否認と孤立」、「怒り」、「取引」、「抑鬱」、「受容」と、段階をふんで死を受け入れていく、と述べており、、
「患者の家族」の章では、
家族も死を受け入れる時、いくつかの異なる適応段階を経験していく、と書いています。
私も、この本は読んでいましたし、内容は理解していたつもりだったのですが、今回の件の後、
あらためて、読み直してみました。
「家族の悲しみと怒りの解消」の部分に次のような文が書いてありました。
「私がここでくり返し強調したいのは、遺族が話をしたり、泣いたり、わめきたければ、わめいたり出来るようにしてあげるべきだ、ということである。
話をさせ、感情を表に吐き出させてあげ、いつでも話し相手になってあげなければいけない。
遺族は、患者の問題が解決した後も長い悲しみが待っている。・・・・
家族の怒りが直接私たちや神に向けられても、ひろい心で受け入れれば、
彼らは死の受容へと大きな一歩を踏み出せる」
今回の件で、自分はこの本に書いてあるような行動が取れていたかを考えると、
「まだまだ・・」との思いが強く、あらためて、奥様に対しての対応の不十分さ、
充分に理解してあげられなかったことへの後悔の念が残りました。
今回の、奥様の反応の変化は、確かに、本に書いてあるような、段階を経ての心の変化もあるとは思いますが、
もう一つには、息子さんの存在が大きかったと思っています。
結局は第3者の医師より、やはり家族の中で、信頼でき、理解し、時にはしかることのできる方の存在が、
大きく影響したと思われ、受容の気持ちが芽生えていったのではないかと思っています。
家族の葛藤の中で、支えあう絆の深さ、大切さも、あらためて教えられました。
いまは、感謝の思いでいっぱいです。
後日、奥様が、改めて私を訪ねてきてくださいました。
奥様は、他の病院の看護職の方で、
これからも終末期を含め、患者様に対していく、と話しておられました。
短い時間でしたが私も今回の件では、いろいろ教えられ、少し、成長できたような気がします。
ご主人のご冥福をお祈りし、奥様がお元気で暮らしていかれることをお祈りし、
ご家族のかたが、これからも暖かく奥様を見守っていっていただきたい、と願っています。 (平成14年8月1日)
似顔絵
病院のホームページの、外科スタッフの似顔絵を、やっと更新しました。
はじめの頃は、出張医の送別会の時のポスターに、似顔絵を描いていたのですが・・・
もう15人の出張医の似顔絵がたまりました。
ここ数年は、外科外来の入り口に、担当医全員が並んだ絵を張り出しています。(病院のホームページのものと同じものです)
今年は忙しかったせいもありますが、描きかえるのに3ヶ月もかかってしまいました。
いままで描いていて思うのですが、描きやすい顔と描きにくい顔があります。
今年時間がかかったのは森田君の顔が、カナリ難しかったせいもあります。
逆に篠崎君の顔は非常描きやすく、あっという間に仕上がります。
また、今年は自分の顔も、今までの若いイメージと描きかえ、ふけさせたせいもあります。
やはり一番難しいのは、自分の顔で、今年は、眉間のシワをはっきりさせました。
病室や、外来、手術室のスタッフから、最近「先生、眉間にしわが寄って、怖い顔をしてますよ」といわれます。
すれ違う時、眉を広げる動作をされ、指摘されることもあります。
あまりよくないことなので、気をつけるようにはしているのですが・・・・
そんな自戒もこめ、今回の似顔絵にはシワをはっきり描いてみました。
下田君の顔と身体も少し横に広げ、少し、ふけ顔にしてみました。
そのうち、「外科ものがたり」の中に、描いた絵をのせてみようか・・・とも思います。(平成14年7月21日)
癌の末期、病状が日に日に悪化してく患者様が入院しています。
奥様に、もう回復することが困難なこと、残された時間は少なくなったこと、
今となっては、出来るだけ痛みや苦しみをとってあげるように努力するしかないこと、
痛みが強くなればモルヒネも投与すること等を何回もお話してはいましたが・・・
急速に病状は悪化していきます。
胸水、腹水が貯留し、呼吸困難があらわれ、酸素も必要になってきます。
話は聞いていても、現実に衰えていくご主人を見て、奥様は状況を受け入れることが出来なくなり
治療に対して不満をぶつけるようになります。
癌だということはわかっている。ただ、急に具合が悪くなっていくのは理解できない。
お腹もパンパンに張ってくるし、足もむくみ、眠っている時間が長くなっている。
どうしてくれる!食事も出来なくなった!元の身体に返して欲しい!
担当医、看護師などのスタッフも対応に困っていると聞き、
もう一度、直接お話しなければと思い、病院に来ていただくよう電話をしたのですが・・
いつもそちらの都合のいいときに呼び出して、勝手じゃないか!
いつも娘にばかりに話をしている。私は何も話を聞いていない!
先生は何時も言い訳ばかり言って、あの人をあんな身体にしたことを何とも思っていない!
なんて冷たい人なんだ!こんな医者は見たことがない!
あの人がいないと暮らしていけない、もうどうしていいかわからない!
みんな先生のせいだ!あんなに元気だったのに、病院のせいであんな身体にされてしまった!
と、1時間以上も電話でくり返し非難され、大声で「ばかやろう」と何回も言われてしまいました。
電話では状況が改善せず、話にならないので、直接顔を合わせてお話しましょう・・と、お願いしましたが・・
それでも電話口から時々私を非難する絶叫が聞こえます。
奥様は、ご主人の病状をを受け入れられず、混乱しているのだと何回も自分に言い聞かせてはいたつもりだったのに
あまりの罵声に、つい気がたかぶり、「いいかげんにしてください」と、思わず口から出てしまいました。
その日、改めて息子さん、娘さんと一緒に、奥さんが病院にお見えになり、1時間以上お話しましたが、
そのときにはずいぶん冷静になっておられ、
さっきは怒鳴ってしまってすみませんでした。気持ちではわかっていても、まだ受け入れられなくて・・・
でも先生に大声を出したら少し落ち着きました。
他の先生には怒鳴っても、そのうちかわいそうになってしまい、
先生にはついつい言いやすいのでしょうか・・とおっしゃってくださいました。
確かに以前からも感情をぶつけてくる方ではあり、
私も、最愛の夫の病状を見かねてのことと、理解はしていたつもりだったのですが・・・
何を言われようと、全てを受け止めて、相手の気持ちを思いやり、サポートしていくことが出来ない自分に
まだまだ優しさが足りない・・・と大いに反省し
その日はずいぶんへこみました。 (平成14年6月30日)
理事長再任
6月4日、平和会の理事会が開催されました。
理事長選任にあたり、私が引き続き推薦されたため、
また2年間継続して理事長を務めることになりました。
前期の2年間は、ただ夢中で突き進んできましたが・・・
職員の協力により平和会の各組織も成長を実感できるようになってきています。
今期はこの4月に施行された診療報酬改定の荒波の中、舵取りをしていかねばなりません。
中小病院にとって経営状況はますます厳しくなりますが、
地域の方々が、安心して平和会をご利用いただけるよう、
質の高い医療、介護を提供していきたいと思っています。
今後ともよろしくお願い致します。(平成14年6月5日)
医療事故は身近に・・・
最近新聞、テレビなどで医療事故が取り上げられる機会がかなり増えてきました。
今回の診療報酬改定でも、医療事故防止の対策がとられていない施設は診療報酬に減算が設定されました。
平和病院では比較的早い時期から、医療事故防止に力を入れており、防止マニュアルの作成、医療事故防止委員会の開催、医療事故報告書、ニアミス報告書の提出の徹底などをおこない、事故の芽を未然に摘み取る対策を立ててきました。
保健所の調査の時にも医療事故対策への取り組みに関しては、毎年お褒めの言葉をいただいていました。
事故を起こした病院の院長がマスコミの前で深々と頭を下げる場面を見ては、自分が頭を下げる場面が浮かび、
いや〜な感じをあじわっていました。
そんな矢先、あやうく大変なことになるミスが発生してしまいました。
乳房のしこりを訴えて来院された患者様がいらしたのですが、反対側にもしこりが発見されたため、両方から細胞の検査を施行しました。結果は両側ともに「悪性」の診断です。
両側に悪性の腫瘍が出来ることはないわけではありません。
そのままいけば両側の乳房の切除になります。
ご本人にも、ご家族にも両側の手術についてのお話はしたのですが・・・・
片側は触診でも悪性の所見に乏しく、どうしても気になったため、もう一度細胞の検査をさせていただいたのです。(反対側は明らかに悪性でしたが・・)
結果は再検査した側は良性!との診断です。
このため、初めに検査したときのプレパラート((細胞を吹き付けるガラスの板)をもう一度再検するように、検査会社に依頼したところ、検査会社で、プレパラートに標本番号を記入したシールを貼り付けるとき、ミスが発生していたことが判明しました。
本来あってはならない事が起こったわけで・・・
患者様、ご家族の方にはただちに、何も隠さず、ありのままをお話し、お詫びをした上で、このまま平和病院で手術を受けてくださるかどうかをお聞きしました。
患者様と病院はお互いの信頼関係が全てです。
「もう信用できない!他の病院で手術をしたい」・・・とおっしゃるのを覚悟していましたが・・・
「引き続いて治療を」というお返事をいただき、ありがたかったと同時に心引き締まる思いをしました。
もしあのとき、自分が検査報告を信用して再検査しなかったら・・・・考えただけでぞっとします。
患者様やご家族の方々に、取り返しのつかないことをするところでした。
後日、検査会社の病理担当者、所長と原因を再確認し、二度と同じことが起こらぬよう、病院側の対策、検査会社の対策を確認しあいました。
新聞などで報道される医療事故も、今回のような、ほんのちょっとしたミスで起こってしまうことが今更のように思い知らされ、病院の医療事故防止対策に、さらに力を入れることを心に誓いました。
今回、こんな病院のミスをホームページに書くのも・・・・とのためらいもありましたが、、深い反省の思いを込めて、あえて書くことにしました。(平成14年5月24日)
「病院で死ぬということ」、という有名な本があります。
ターミナルケアに関して書かれたもので、著者の山崎章郎先生は、いまや、全国的に有名になり、
本は映画化され、その後も大活躍をされていますが、
山崎先生は、私と同じ、千葉大学第一外科の出身で、3年先輩でした。
大学でも、また、出張した八日市場市民病院でも、一緒に勤務していました。
私にはじめて超音波検査を教えてくださり、
著書の中にもあるように、南極に行く船に乗って帰国した時には、
お土産の「南極の氷」をみんなでいただいたこともありました。
治療によっても治らない病気になったとき、「安らかな最後」をいかにして迎えるか・・・
ターミナルケア、緩和医療に関しては、様々な取り組みがされるようになり、
私が医者になったばかりの頃に比べると、まったくといっていいほど、
考え方が変わってきたように思います。
私の父も、自分が勤めていた病院で、私が高校3年の時に死んでしまいましたが、
悪性疾患の再発にもかかわらず、ずいぶん長い間、心臓マッサージなどの、延命処置がされていたように記憶しています。
(自分の父親のことなので、よけいに長く感じたのかもしれませんが・・)
医者になりたての頃の大学病院でも、患者様の状態が悪くなれば、それが癌の末期でも、必ず気管内挿管をし、
心臓マッサージが儀式のようにおこなわれ、救命に関するあらゆる薬剤が投与されていたのを覚えています。
その間、家族は病室の外に出されてしまいます。最後の別れの時なのに・・・
たいてい心臓マッサージは、若い研修医の仕事で、
先輩の医師が、それを見ながらやり方を指導したりもしていました。
当時はそれがあたりまえであり、何も疑問を感じていませんでした。
それこそ必死の処置により、止まりかけた心臓が、また規則正しく動き出すこともありますが、
結局はもともとが癌の末期なので、またすぐに心臓は動くのを止めてしまいます。
そして、また繰り返されるマッサージ・・・ (平成14年5月6日)
(つづく)
寂しい年度末
3月28日、2病棟の送別会がありました。
今年度後半の半年を頑張ってくれた牧野、1年間頑張った志田が今日最終勤務を終え、平和病院から去っていきました。
明日(30日)は下田君が東芝鶴見病院に出ているので、
平和病院の外科は、私一人です。
4月1日からは、新たな交代医師が、大学からやってきますが、ぽっかり開いた「空白の1日」という感じです。
この1年、前半の佐藤を含め、本当に良くやってくれました。
なにかひとつでも「平和病院での勤務を通して、学び取るものがあった」と、感じてくれていることを願っています。
毎年のことですが、明日の勤務は、寂しいものになりそうで・・・・(平成14年3月29日)
消える看護婦
平和病院から「看護婦」が、ある日突然いなくなる・・・
そんな日が来てしまいました。
おそらく日本中の病院から「看護婦」がいなくなるようです。
昨年「保健婦助産婦看護婦法」の一部を改正する法律が可決されました。
これに伴い、看護職などの資格名称が変わることになりました。
「看護婦」の名称は「看護師」に変更されます。
テレビでも男性看護職、「ナースマン」が放送中ですが・・・
男性の看護職員の増加に対応するものと思われます。
主任看護婦も主任看護師、婦長も看護師長になります。
「看護婦さん」という響きは慣れているせいか、優しげで好きなのですが・・・
「看護師さん」、「看護師長」というのは・・なにか軍隊のようでなじめない感じがします。
馴染むまでには時間がかかりそうです。
余談ですが・・・テレビや映画の病院の看護婦さんは、なんであんなにきれいな人が多いのでしょう?
女優さんが演じているので、あたりまえといえばあたりまえなのですが・・・
一度はあんな病棟で勤務してみたい!などと言うと、袋叩きにあいそうですが・・・
平和病院も美人で優しい「看護師さん」揃いですよ! (平成14年3月9日)
2月8日に大学(千葉大学医学研究院臓器制御外科学)の来年度の出張者会議が開かれました。
毎年、出張医が、各学年毎に割り当てられた関連出張病院への1年間の勤務を決める会議です。
現在平和病院には牧野、志田の二人が赴任していますが・・・
牧野は大学に戻って研究に(私と、下田がいたのと同じ肝胆道研究室で)、志田はあと一年間出張することになっています。
出張病院は圧倒的に千葉県内が多いのですが、栃木、長野、茨城、東京、埼玉、神奈川などをあわせ、50病院を超える数があります。
神奈川県には、平和病院(東芝鶴見病院)、小田原市立病院、住友重機械健保浦賀病院、国立横浜東病院の4病院があります。
(ちなみに、ほとんどが国公立、日赤、国保、労災、医師会立などのいわゆる大病院で、民間病院は平和病院と浦賀病院くらいしかありません)
それぞれの出張医は自分たちが割り当てられた病院のなかから自分の出張する病院を決めることになっています。
だいたいが、くじ引きなどで順番を決め、上のものから希望の病院を選んでいきます。
最後に残るのは一番人気のない病院、ということになります。
選ぶ基準としては、やはり「手術症例が多いところ」が一番のようですが、
病院の場所、勤務している医師の人間関係、指導する先輩医師の人柄なども影響するようです。
実のところ、平和病院は今まではあまり上位の順番で選ばれる病院ではありませんでしたが・・・
ここ数年だんだんと出張医の評価も上がってきたようで、
今年はまだまだ他の病院を残した時点で決まってしまったようです。
やはり、東芝鶴見病院の外科との一体化による、手術症例の倍増が影響しているものと思われます。
もっとも、今までには「1年間横浜に住んでいろいろな観光スポットをきわめたい」というような
不純な動機で選んだ者もいましたが・・・
そんなわけで、来年度は森田泰弘、篠崎秀博の2名が着任することが決まりました。。
今年度は佐藤、牧野、志田と、全員がかなり積極性を持って仕事をしてくれたので、外科はおおいに活気づきました。
来年度はよりいっそうの飛躍をし、いちばんに出張医から選ばれるような病院にしたいものです。(平成14年2月15日)
優れた人は優しい人
先日、平和会の基本理念を「患者様にとって、いつも優しく、誠実であること」と宣言しました。
「優しさ」、は簡単そうでいて、とても難しいことだと思っています。
最近宮崎医科大の皮膚科の教授だった井上勝平先生の文を目にしました。
太宰治が友人に送った手紙に
「人を憂へること。これが優しさであり、また人間として一番優れていることじゃないかしら」
と言う部分がある。
漢民族は4000年も前に「人の憂いのわかること」を「優」と表現し、
日本人の先祖も「人のことを憂いて、やせる思いである」という語源のやまと言葉「やさしい」に
「優」という字をあてた。
私は何日間でも鷺のように白衣をまとい、赤い目を燃やして病者のそばに立ち通すことのできる
優れた優しい看病と看取りのできる医師になりたい。
自分も同じような気持ちを持っていきたい、
平和会の全ての職員が同じような気持ちを持っていてもらいたい。
そんな文でした。(平成14年1月15日)
ホームページの表紙の部分に書いてあるように、院長室と会議室はつながっています。
その境はアコーデオンカーテンで仕切られているのですが、
かなり前から半分が動かなくなっていました。
20年位前に設置されたようで、修理するにも部品はもう作られていません。
やっとのことで、新しいものに替えてもらう事にしました。
あたりまえのことなのでしょうが、スムーズに開いたり閉じたりするではありませんか!
なんと感動的なのでしょうか・・
しかもロック付き
思わず何回も開けたり閉めたり・・・
そんなわけで、ホームページの表紙の部分は書き換えることにしました。(平成14年1月4日)
平和会の基本理念と職員の行動基準
今日は少し堅いお話を・・・
平和病院が皆様に選ばれる病院になるためには・・・・
病院が、その方針を職員に明示し、その力を結集していかなくてはなりません。
先日、職員に対して、平和会が目指す基本的な考え方、平和会の職員としてどんな思いで日常の業務にあたるべきか、について考えてもらい、それを提出してもらいました。
多くの職員が真剣に考え、いろいろな意見を述べてくれました。
その意見のほとんどが、私の思いと、かけ離れていないことに安心し、力づけられました。
今まで新旧のパンフレットなどに色々な言葉が書いてありましたが、
平和会の基本理念として統一したものはありませんでした。
今回、私は次の言葉を平和会の目指す基本的な考え方としたいと思います。
患者様にとって、いつも優しく、誠実であること
この言葉には「平和会の職員がこうありたい、こうなってほしい」との思いがこめられています。
難しい言葉で、もっともらしいことをいうつもりはありません。
簡単な、覚えやすい言葉で、メッセージを伝えたいと思います。
また、これに伴い職員の行動基準も明らかにしました。
私達、平和会の職員は、
今後これらの言葉は、各職場、また、患者様やご家族の方々の目に止まる場所に掲示し、平和会がより良い方向に変わっていけるよう、気持ちを新たに頑張っていきたいと思います。
(平成13年12月16日)
学会で新聞社の取材を受ける?
先日、京都で開かれた日本消化器関連学会週間に参加してきました。
宝ヶ池の国際会議場で開かれていましたが、昼の時間を利用して、大心院の庭園を見に行きました。
池を巡って茶屋の前までくると、カメラを持った若い女性が話しかけてくるではありませんか!
「あの・・・スミマセン・・」
てっきりカメラのシャッターをおしてほしいのかと思い、相手が若い女性だったこともあり、
せいいっぱいの笑顔で話を聞いて見ると、
「新聞社のものですが、今、旅行の企画の記事を書いていて、料理と一緒にこの場所を紹介したいのです。茶屋の中で、景色をバックに、料理を食べているところを写真に撮りたいのですが、モデルになってください。」というのです。
ちょうど昼飯も食べずに来ていたので「こりゃあ食事代が浮いた」と、二つ返事で引き受け、茶屋に上がりこむと・・・・・
なんと「松茸尽くし」の豪華料理が並んでいるではありませんか。
「こりゃあしめた」と、思わずにっこりしているうちに撮影が始まり、「景色を眺めてください」とか
「料理に箸をつけるまねを?してください」とかの注文がきて、フラッシュがたかれます。
周りの人は、何者?という感じでこちらを見ています。芸能人と間違われるかも・・などと思っているうちに撮影も終わり、
「ありがとうございました」の声もかかり、さていよいよ松茸尽くしを食べられるかな、と思いきや・・・
豪華料理はさっさと片付けられていきます。
「え〜!食えないんかい!」
なんでも料理は記者が食べて、記事にするとの事・・・しばし呆然としていると、
「お礼にお抹茶とおかしでもいかがです?」とのことで・・・・すっかりあてが外れてしまいましたが、
すきっ腹に、苦いお茶と甘いお菓子をほおばって、学会場にもどりました。
北国(きたぐに、ではなく、ほっこく)新聞の記事だそうで、カラーで掲載という話です。
「記事になったらぜひ送ってください」と住所を教えてきましたが、没にならないことを祈っています。
(平成13年11月16日記載)
3病棟名物さかさ金魚
3病棟の廊下には金魚鉢が置いてあり、かなり前から飼われている金魚がいます。
もうだいぶ大きいのですが、その前を通るたびのぞいてみると、必ずと言っていいくらい、お腹側を上にしています。
いつからこうなのか、どうしても思い出せません。
初めて見る人は、「寿命がつきたのか」と思ってしまいそうで・・・・
どう見ても、療養病棟にはふさわしくない姿なのですが・・・・
金魚鉢をコンコンとたたくと、もぞもぞと動きながらかなりの時間をかけて本来の姿に戻ります。
浮き袋に奇形があるとか、餌のやりすぎとか・・・
いろいろな説がありますが、それなりに長生きしており、
今日はちゃんとした姿勢で泳いでいるのか・・・・どうしても気になり、思わず立ち止まってしまいます。
続、悪夢
最近、医療事故がマスコミに報道されることも多く、テレビで病院の院長が、多くの報道陣の前で、「申し訳ありませんでした」と深々と頭を下げる場面が映し出されます。
平和病院では医療事故防止マニュアルも独自に作成し、医療事故防止委員会も定期的に開かれ、また、各部署でも事故の撲滅を目指して積極的な取り組みが行われています。
先日、保健所の医療監視が行われた時にも、その取り組みに対して、お褒めの言葉をいただきましたが・・・
「一生懸命取り組んでいるところにかぎって、事故がおこったりしてしまうんですよね〜」という保健所長さんのさりげない一言が、グサっとつきささり、その日は自分が深々と頭をさげている姿がテレビに映る夢を見てしまいました。
「人間は過ちを犯すもの」という大前提に立って、いかにそれを少なくする環境を整えるのか・・・
まだまだ取り組みは続きます。 (平成13年11月9日記載)
悪夢
最近でこそ、あまり見なくなりましたが、少し前までは、医師国家試験の夢をよく見ました。
日本の医師は、一度国家試験に合格すると、その資格は、よほどの悪いことをしない限り、一生維持していくことが出来ます。
このことが最近問題視されてきており、「年齢制限を設けるべきだ!」とか
「一定の資格試験を受けさせて、更新する制度にするべきだ!」などの声も聞かれるようになってきました。
私がよく見ていた夢も、「国家試験を受けなおさなければならなくなった」というやつでした。
また、あんなに大変な苦労をしなければならないのか・・・・
硬くなった脳みそに、あの膨大な知識をつめこめるのか・・・・
うなされつつ目を覚ますのです。
記憶力は、たしかに若い頃に比べると落ちている。と感じることもあります。
40歳を過ぎてから受けた試験は、日本消化器病学会の認定医試験と、
最近受けた介護支援専門員(ケアマネージャー)試験でした。
この時も、頭に入れたはずの知識がいとも簡単に消えていくので、脳味噌が、ざる状態なのかと腹立たしくさえ思いました。
消化器病学会の試験の時には、たまたま同じ医局のK君と一緒の試験場でした。
彼は4年後輩ですが、今年、大宮赤十字病院から大学の医局に戻り、講師になりました。
学会発表も論文も多く、手術の腕も立ち、優秀だとは思っていましたが、
試験が終わった時、こちらがかなり苦戦し、合格するのかなと心配して、「いや〜難しかったね〜」と言おうとした前に、
「先生、かんたんでしたね〜」と言われてしまい、青ざめたことを覚えています。
介護支援専門員試験では、平和病院が介護保険型の療養病棟、通所リハ、訪問リハ、居宅介護支援事業所、訪問看護ステーションなど、介護保険関連の事業に多くかかわっていますので、その時に勉強した知識は、今でもずいぶん役に立っています。(ちなみに、両方とも試験は合格しています。)
もう試験は受けないだろう・・と思っていましたが、最近、乳癌の検診にマンモグラフィーが重要視されるようになり、
その写真を正しく読影するための講習が開始されており、、講習のあとで試験があることになっています。
この試験によって、読影に関してのランク付けが行われるようで・・・もうすぐその試験を受けなくてはなりません。
ああ、また悪夢が・・・・ (平成13年11月3日記載)
続、病院の怪談
7年前のことです。外科に、大学から派遣されてきたY先生がいました。外科には珍しく、ひょろりと背の高い色白の女性で、白衣を着て暗がりに立っていると、それこそ幽霊のような感じがしましたが・・・・
彼女が当直をしたときの夜のことです。
当直室は3階にありましたが、夜中の2時をまわった頃、ぞくぞくと寒気がして目を覚ますと、
静まりかえった廊下からペタン・・・ペタン・・・・とゆっくり足音が近づいてきます。
3階は管理棟ですので夜中に人が通ることはありません。
風の音かと思い耳を澄ましてみても、やはりペタン・・・・ペタン・・・・・
足音はゆっくり、しかも確実に近づいてきます。
そして、ついに彼女のいる当直室の前でぴたりと止まったのです。
すりガラスのむこうには、髪をふりみだした影がぼうっと映っています。
ゆっくりとドアノブがまわります。鍵がかかっているので開きませんが、ノブはまわされつづけ、ドアがガタガタと音を立てます。
そして細く、震える声で、「あ〜け〜て〜」、「あ〜け〜て〜」
彼女はてっきり幽霊と思い、恐ろしさのあまり、ふとんをかぶって震えていました。「助けて、助けて」と祈りながら・・・・
翌日になって判ったのですが、幽霊の正体は入院中の患者様で、かなりの痴呆と徘徊があり、夜中に部屋がわからなくなって3階に迷い込み薄明かりのついていた当直室を自分の病室と間違えていたようです。
今思えば笑い話ですが、実際はかなりの恐怖だったようです。 (平成13年10月23日記載)
だいたい、どこの病院に行っても怪談話はあるようです。
夜勤の看護婦さんが、夜中に「空いているはずの部屋からすすり泣くような声が聞こえた」とか・・・・
平和病院ではあまりそのような話は聞きませんが、
私が赴任したばかりの頃ですから、もう10年も前のことです。
病棟の角にある部屋に悪性の病気のため、状態のかなり悪いAさんが入院していました。
病状は日増しに悪化し、どうみても残された時間は数日・・・・となっていましたが、ちょうど同じ時期、角をはさんだ病室に、たまたま同じ病気に侵され、さらに状態の悪いBさんがいました。
治療のかいも無くこのBさんは亡くなられたのですが・・・・・
その日からAさんが窓の外を見て、「向かいの部屋の人が、私に手招きをしている。」と言うようになりました。
向かいの部屋は亡くなられたBさんの部屋で、それ以後は空き部屋になっていましたので、誰もいるはずがありません。
それから数日してAさんも静かに息をひきとられましたが・・・・・
手招きしていたのが誰だったのか、誰にもわかりません。
具合が悪く、朦朧とした状態での幻だったのか・・・・それとも・・・・・・ (平成13年10月12日記載)
リンゴの木
副院長の頃、医局は3階にあり、部屋の前にはベランダがあって、窓から出入りが出来ました。
中庭に病棟が新しく立ち上がるまでは日当たりもよく、いろいろな花を植え、いわゆる「ガーデニング」を楽しんでいました。
何年か前、部屋でリンゴを食べていたとき、何気なく余っていた植木鉢に種を埋めてみました。
しばらくはリンゴの種のことなどすっかり忘れていましたが・・・・
しばらくして気がついてみると雑草とも違う芽がでていました。
日当たりのよい場所に鉢を移動して、水もこまめにやってみると、どんどん大きくなってきます。しかも3本・・
10pくらいになったときにそれぞれ別の鉢に移し、育ててみると・・・
院長室に移る頃には私の背丈くらいになっていました。
院長室で育てるわけにもいかず、駐車場の整備と周囲の植栽をしたとき、植木屋さんに頼み、一緒に植えてもらいました。
そんなわけで正面の駐車場の周りには、種から育てたリンゴ(たぶんリンゴだと思うのですが、まだ花も咲かず、もちろん実ならないのでなんともいえません)の木が3本植わっています。
立派に育って、実をつけてくれたらいいのに・・・・・と思っていつも見ていますが、まだまだひょろひょろで、頼りなく育っています。がんばって育って欲しい・・・・・・・・
病院のパンフレット
院長を交代して比較的間もない頃、病院のパンフレットを新しくしよう!ということになりました。
ちょうど中庭に新しい病棟も立ち上がり、通所リハビリ、訪問看護ステーション、居宅介護支援センターも併設し、今までのパンフレットとは内容がかなり変わってきたためです。
東芝健保の情報誌を作成していた業者に依頼し、レイアウトや内容の検討が始まりました。
病院の持つイメージ、内容を簡潔に、アッピールできるもの・・・
表紙をどうするか・・他の病院のパンフレットも参考にし、病院の建物、こもれびのイメージ、清らかな水の流れのイメージ、患者様とナースが楽しそうに語り合う姿、など、いろいろな案が出されましたが、結局「やさしそうで、親しみのあるドクターとナースのイメージで・・・」という方向に話がまとまり、「私とナースが並んで、遠くを見ながら楽しそうに語り合っている」姿を写真に撮ることになりました。
ナースは、初めはプロのモデルさんを使うと聞いていたので、実のところ、どんなきれいな人がくるのかとドキドキしていたのですが・・・結局職員で、ということになりました。(少しがっかり・・・?)
さて、誰を・・と人選が始まりましたが、なかなか決まりません。
撮影の当日になっても決まらず、結局事務の女性の中で「かわいい」といわれていた二人を当時の事務長が選び、看護婦さんの制服を着せて撮影することになりました。
当日は天気はよかったものの、風が強く、乱れる髪を気にしながら、ご近所の、緑のきれいなカイヅカイブキの生垣の前で撮影が始まりました。
かなりの枚数を撮影し、やっとOKが出ましたが、出来上がった写真を見ると・・・
ナース役はかなりかわいく撮れていましたが、肝心の自分の写真がいまひとつピントきません。
自分ではモットいい男だろう!と思っていたのですが、みんなに聞いても、「こんなもんですよ」とか「実際よりずっとよく撮れてますよ」とか言われてしまいました。
昔のCMに「きれいな人はよりきれいに、そうでない人はそれなりに・・」というのがありましたが、なるほどと、納得せざるを得ず、結局その写真が現在のパンフレットの表紙になっています。
平和病院に入院なさる方には、必ずお配りしていますが、そんな事情で撮られた写真、ちょっと見てやってください。