目次
始めの一歩 | だいぶ話が違うんじゃない |
ともかくスタート | ふけた新人 |
嵐を呼ぶ男 | 2枚目ではなかったが・・・ |
看護婦さんの視線 | きらいっていったじゃない! |
気遣いの大食漢 | もろだし送別会 |
留守番かよ! | あの病院の息子が・・・ |
闇に消えた男 | 悩めるロミオの囁き |
疲れやすい「もてもて医師」 | スッチー恋の悩み |
うちとけるのに1年 | 一番の前評判 |
ハワイでも色白? | 番外編:S君来訪 |
番外編:助っ人 | 番外編:小高先生と石黒先生のこと |
あ、は〜ん、う、ふ〜ん | 第一外科を正式に辞し |
温泉フリーク | 病院旅行幹事? |
ペーパーはどうなったんだ? | 番外編:祝!副院長就任 |
番外編:洽仁会幹事 | 大腸内視鏡のプロ |
番外編:一鯨会でのショック! | 童顔のギャンブラー |
仕事やつれ? | 突然の助っ人@ |
久々の女性外科医 |
久々の女性外科医
このコーナーの更新を1年半も行っていないことは、自分なりに気にしてはいたのだが・・・
突然の助っ人S君が勤務するようになると、出張医の数は当然のことのように減員となったが、
ベテランでもあったので、病室、外来はほとんど任せることが出来、
手術も実際に自分が執刀することも少なくなっていった。
おかげで院長業務業務に専念することも出来、病院の管理面で言えば好ましいことではあったが、
その分、出張医とのかかわりが、以前に比べるとずいぶん希薄になっていった。
毎日、昼ごはんはそろって食べるのは、自分が就任してからいまだに続いているが、
実際の業務の指導は副院長とS君が行っていたので、自分は麻酔業務に回ることも多く(標榜医の資格を持っているので)
印象がだんだん薄れていってしまっている。
オマケに、派遣期間が半年ずつになってしまっており、めまぐるしく交代するので、ゆっくり話す暇もない。
平成16年の4月に派遣されたのは、当院にとって11年ぶりの女性外科医、K君だった。
以前に比べると、医学部も女性の割合が多くなり、その分外科を志望する者も、ちらほらでてきている。
実際,先日まで平和病院で研修していた聖隷横浜病院の研修医も女性で、
自分達と同じ千葉大学臓器制御外科への入局が決まっていた。
K君は才女で、他大学の別の学部を卒業後、医学部に入りなおし、医師になったので、若干年齢は高かったが、
それなりに落ち着いた雰囲気があった。
現在は乳腺外科医として活躍しているが、
ちょうど彼女が着任してすぐ、自分の病気が見つかり、入院、手術など、自分にとっても人生最大の危機を迎えていた時期でもあり、
ほとんど指導ということをする余裕もなく、忙しい思いをさせてしまい、申し訳ない気がしている。
体調のこともあり、出張医と飲みに行く機会もほとんどなくなり、話す機会も多くなかったが、
K君は美人で一見穏やかそうであったが、中にはしっかりした芯がとおっており、
きちんと納得しないと、何でもかんでも単純に「先輩の言うとおり」には動かないこともあったように感じた。
ただ、これは決して悪いことではなく、実際、外科医に限らず、必要なことだと思っている。
まだ結婚したという噂は流れてこないので、きっと「納得のいく」男性が現れないのだろう・・・?
1年の予定かと思っていたが、半年で大学に引き上げることになり、
K君の任期が終わった10月からは、大学も出張の出す医局員の数が少なくなったせいもあり、
また、ベテランのS君が着任していることもあり、そのまま減員が決定し、初めて「出張医がいない」時期を迎えることになった!
自分の体調も、まだ十分とはいえない時期だったので、かなり厳しい時期を過ごすことになった。
17年度の人事もまだまだ決まらず、かなり不安定な運営を強いられた時期で、
今、こうして思い返してみると、よく乗り切ったとも思う。
大学の関連施設といっても、中小病院にとって出張医師の派遣は生命線であり、それなりの実績を上げることが求められる。
はたして17年度はどうなったのか・・・?
次回に続く!(平成22年7月30日)
突然の助っ人@
平成16年度の出張人事が行われる時期になったある日、
受付から「千葉大学の宮崎様からお電話です」と、電話がかかってきた。
宮崎っていったら、たぶん教授だよな・・・・
どうも、この時期の教授からの電話はドキドキする。
大学の医局制度が云々という話は、いわゆる各大学医局の関連病院への医師派遣に絡んでいろいろ言われてきている。
わが千葉大学臓器制御外科は、いまだに医師派遣に関しては教授が大きな力を持っており、
「手術症例が少ないと、人は出せないぞ!」など、顔を合わせるたびに、散々言われてしまう。
指導的立場にいる医師は、外科学会、消化器外科学会の指導医、専門医認定をうけることは、かなり厳しく言われる。
さもないと、出張に派遣される医師が新たに専門医資格を取るとき、
資格基準認定の条件となる、「関連病院、認定病院での勤務実績」にカウントされなくなりるからだ。
「はい、電話かわりましたが・・・」
やはり電話は教授からだった。
「この時期に先生じきじきにお電話いただくとは・・・・何かいやな予感がしますが・・・・」
「何言ってんだ!実はな、今日は高橋を見込んで頼みがあってな・・・」
なんだか、ますますいやな予感がする。
「M病院のS、知ってるだろ?お前のところで、少しのあいだ預かってくれないか?」
S君とは一緒に勤務したことはないが、同じ研究室なので、会合やら宴会やらで顔は知っていたし
律儀にも、毎年年賀状ももらっていたので、悪い印象は持っていない。
確か、学年もかなり上で、昭和63年入局だった。
外科医としては今が盛り・・といった年代だ。
「あずかるって・・・うちに就職するってことですか?」
「う〜ん、それはどうかわかんないけどな、とにかくちょっと急にM病院をやめることになってな。
時期が中途半端なんで、公立や日赤なんかじゃ空きが無い。
お前のところなら民間だし、何とかしてくれると思って電話したんだけど・・・」
まあ、確かに平和病院の医師人事には定員なんてないし、自分が採用を決めているので、
誰にも文句は言われないので、どうにでもなるといえばどうにでもなる!
まして、学年が上の実力のある医師が来てくれるのなら大歓迎だ。
「でも先生・・急にどうしちゃったんですか?」
「う〜ん、実はな・・・・・かくかくしかじか」
事情はともかく、当院にとって戦力アップは望むところであり、結局、二つ返事で了解した。
そんな電話のやり取りがあってしばらくたった頃、S君が挨拶に平和病院を訪ねてきた。
「先生、突然のことで、いろいろご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
「しばらく、酒は飲まないことにしようと思います!」
そんなわけで、S君は平成16年3月という非常に中途半端な時期に着任することになった。
もともと3月は、まだ出張中のSi君とTa君が在席していたので、この1ヶ月間は私を含めれば、外科医が5人という、
中小病院の外科としては、ありえないくらいにスタッフが充実した。
まあ、ずっとこんな人員構成なら、さぞかし楽だろう!と思えるほどで、
つかの間の黄金時代ともいえる時期であった。
ちょうどその頃は、医療機能評価の受審が予定されていた時期でもあり、管理業務や準備に関わる時間ができたのは助かった。
ただ、S君が勤務することになった分、本来の出張医師は当然のことのように4月からは急遽減員となってしまった。
(平成20年11月16日)
仕事やつれ?
Ta君は童顔のギャンブラーと交代で着任した。
半年の任期だったが、同じ時期に一緒に出張となったSi君とは非常に仲良く、
また、内科の若手の先生たちとも意気投合し、相当の回数飲みに行っていたようだ。
他の出張先の病院で胃癌の手術を相当経験してから平和病院に来たので、
平和病院での胃癌の手術は確かにオリエンテーションもよく、手際よく正確で上手だった。
患者さんに対しての言葉遣いも丁寧で、どの病院に出張にいっても戦力になるタイプだと思われた。
来た時からやせていて、体力があるようには見えなかったが、
ある日、階段の手すりに手を引っ掛けて指を骨折した。
外科医として、指を骨折してしまうとかなり厳しい状況になる。
固定をするので、当然手術には入ることが出来なくなり、麻酔に回ることが多くなったが・・・
Ta君が骨折した階段は、その少し前にも内科の常勤医師が当直中の夜に患者さんが来て、
起こされてふらふらと寝ぼけ眼で外来に行く途中、足を踏み外して転げ落ち、足を骨折したその場所だった。
「のろわれた階段」のうわさが立ち、自分もそこを通る時はめちゃくちゃ慎重になった。(今もすごく意識している)
その後、骨折も治ってきた頃、Ta君の頬がどんどんこけてきた。
ただでさえやせていて、ふっくらした感じではなかったので、ぼこッとへこんだようにこけてしまい、
ただでさえ大きな目がますますギョロっとしたようになり、見るからにやつれ、今にも倒れそうなイメージになった。
若いので、悪性の病気ではないとは思ったが、どこか悪いのではと、本気で心配になった。
当時は外科の中の人間関係が若干ギクシャクしていた時でもあり、板ばさみになったための心労かとも思われたが・・・
結局倒れることも無く、無事に任期を終えることになった。
(余談だが、平和病院にいたとき、食いまくりで太っていたO君が激やせしているが・・・大丈夫なんだろうね!)
その後は大学に帰り、大学院に行き、今もまだ大学だが、そろそろ就職だろうか・・・
いまだにやせたままでがんばってるので、大丈夫のようだ。
この頃には自分があまり出張の先生たちと「一緒に働く」という感じではなくなっていたが、
本当に良く働いてくれた。
「いい奴」が自分の病院をやめていく時の3月末は気が重くなる。
新しい旅立ちを応援したい気持ちと半々で、Ta君がやめる時と同時にSi君がやめる時には涙腺が緩んだことを思い出した。
(平成20年2月17日)
童顔のギャンブラー
Ku君はSi君と一緒の前半の半年間勤務してくれた。
声も高めで、小柄の上、顔も童顔で、かわいらしい感じの子(と、思わず言いたくなるような・・・)だった。
性格も素直だったので、パラメディカルからの受けも非常によく、
「癒し系」の雰囲気がいつも漂っていた。
このころになると、もう自分は院長になっており、
病棟や手術など、大学からの出張の先生たちと「一緒に働く」といった状況ではなくなってしまっていたこともあり、、
プライベートなことに関してのアンテナがずいぶん低くなってしまっていたので、
(この時期には、女の子たちとの飲み会はずいぶん多かったようだが、残念ながらお誘いもなくなっていたし・・・・)
この年代の出張医に関しては、十分把握しきれていない!
ただ、顔に似合わず、熱狂的なギャンブル好きで、
夏休みには単身?でラスベガスに出かけ、ずっと勝負をしていたらしい。
かなり儲けて帰ってきたとのうわさも聞いた。
きっと、勝負している時の顔は、平和病院で見せた顔とは全く別人のようになっているのかもしれないが・・・
そんな様子が想像が出来ないほど、ニコニコしているイメージしかない!
大学に帰ってからは留学も決まり、今は・・・あれ、
もう帰ってきているのかな?
まだ結婚してないんだっけ?・・・・
こんな調子で、自分の記憶力も大分減退してきている?ので、
この「外科ものがたり」も、早めに書いていかないといけないと、真剣に思っている!(19年7月30日)
番外編:一鯨会でのショック!
神奈川県内には千葉大学臓器制御外科の関連出張病院が4箇所ある。
小田原市立病院、保土ヶ谷にある聖隷横浜病院、、住友重機浦賀病院、そして平和病院だ。
毎年親睦を深めることを目的にして集まる会が開かれる。
もうずいぶん前から開催するようになっている。
今の横浜ベイスターズが横浜大洋ホエールズだった頃、
会の名前を何にするかとアンケートをとり、
ホエールズの「鯨」と、出身医局の「一外科」をひっかけて「一鯨会」と命名した。
もう20年近くも前の話だ。
今年も先日横浜のホテルで開催された。
総勢20人以上になるが、現在軽井沢病院の院長で小田原市立病院の名誉院長のF先生を除くと、
その次の年長者が私になっているのには驚いた。
小田原にはY先生がいて、私より確か5年くらい先輩だが、その先生も都合が悪かったようだ。
毎年、大学から各病院に派遣されてくる若い先生たちには、初めて顔を見る者もいて、
卒業し、もう大学を長くはなれていることを実感させられた。
若い先生たちの中には以前平和病院に出張に来ていて、その後大学に戻り、
研究と臨床の腕を磨き、就職したMくんや(相変らず温泉には行きまくっているらしい)、私が浦賀病院から平和病院に移った年、一緒に働き、
今は浦賀病院の副院長のO君もいて、それぞれずいぶん立派になり、「外科医」としての部分が年々少なくなっていく自分と比べ、
若い先生たちの自信に満ち溢れている姿がまぶしかった。
隣の席には、聖隷横浜病院のG君がいたが、
彼は初めて医者になって大学の医局に入った時(当時は第一外科といっていた)
私のネーベン(私が、直接指導をする立場)だった。
今はマンモグラフィ読影の指導者的立場になり、認定試験の講師なども務めている。
横浜市の乳癌検診はマンモグラフィを持つ施設で撮影を行い、
その病院の医師がフィルムを読影して所見を記載し(一次検診)、そのあとフィルムが検診センターに送られ、
指導者が再読影し(二次検診)、結果が送り返されてくる。
時々、私が所見を読影したあと、G君がチェックした結果が送り返されてくる。
G君は「先生が読影したあとのフィルムを見るのは、やりにくくてしょうがないですよ・・・」と、こぼしていた。
「先生の名前を見ちゃったら、とてもじゃないけど直せないですよね・・・もう、フリーパスです!」などといっていたが・・・
もちろんちゃんと厳しくチェックしてくれているのでありがたい。
私も読影の資格は持っているが、その時の話の中で、
最近、マンモグラフィの読影認定資格に有効期限を設けることにしたみたいですよ」との話が出た。
「認定獲得から5年たったら、連絡が来て、再試験を受けるんですって!」
え〜〜〜〜〜!
再試験は無くなったんじゃないの???
以前平和病院に勤務して、昨年開業したS君が試験を受けた時、更新制度がなくなったといっていたのを聞いて、
狂喜乱舞した覚えがあったのに・・・
何しろ、認定資格を取るのにはめちゃくちゃ大変な目にあったので(「病院よもやま話」のなかでも書いたことがある)、
あの苦労をもう一度やることを思うだけで、いっきに酔いがさめた。
慌てて病院にある認定証を調べたら・・・認定日が「14年12月認定」になっている。
5年間っていったら・・・・今年じゃないかあ!
するってえと、今年、試験を受けるわけね!
と、いうわけで、一鯨会は楽しかったが・・・・今の気分はめちゃくちゃブルーだ。(平成19年2月3日)
Mo君とSi君は二人とも1年間の赴任だったが、この頃になると、各関連病院の需要と、
大学の医局の供給関係のバランスをとることがだんだん困難になってきた。
教授や、医局長はずいぶんと苦労をしたようだが、次の年には2名を1年間派遣するのは困難とのことで、
Si君が1年間、Ku君とTa君が半年交代で着任することになった。
Si君は今も月に1回土曜日、日曜日の当直をやってくれているので
土曜日には彼が到着するまでは私が残り番をしているし、月曜の朝は6時半頃には病院を出なくてはならないので、
私が早番で6時半までに病院に出勤する関係で、毎月顔をあわせている。
なかなか彫りの深い顔で、一見、俳優の反町に似ている(かもしれない)
今、臓器制御外科は旧第一外科の一研と呼ばれた、胃・大腸グループはなくなってしまったが、
彼はその研究室に所属しており、大腸内視鏡検査は抜群にうまかった。
検査を始めてからあっという間に盲腸(大腸内視鏡検査の終点)までファイバーが到着し、
その年の大腸内視鏡の検査数は飛躍的に伸びた。
内科の出張医とも気が合い、若いクラーク、他部署の男子職員とも分け隔てなく付き合い、
その年はプライベートな飲み会がずいぶん多かったようだ。
自分が納得できないと思うことは、相手が誰でもはっきりと言う男っぽいところがあり、
何回か副院長とぶつかる時もあって、当時は心配したが、それでも本当に熱血漢の「いいやつ」だった。
この頃になると、自分もほとんど出張医と飲みにいく機会がなくなったが、
ちょうど私が東芝鶴見病院の外科外来の担当をはずれる時期にあたり、
(当時の福祉保健センター長から、院長は自院での診療を責任を持っておこなうべきで、
他院での診療は好ましくない・・・との指導をうけたため)
送別会を行うというので、鶴見病院の外科外来の看護師さんと、当時一緒に出張で赴任していたTa君と
6人でのみにいった。一次会のあと、鶴見のカラオケ屋の2次会まで付き合ったが、
今は、どの飲み会に行っても1次会で帰ってしまうので、2次会までいったのはたぶんこれが最後だったように思う。
もともと飲むのは嫌いではなかったので、楽しかった。
「先生、これからも2次会まで参加しなくちゃ駄目ですよ。また一緒に行きましょう!」
といわれたが・・・実現はしていない。
今は船橋の病院で同じ平和病院に出張していたO君(「もろだし送別会」で書いたが・・・)の下で働いているが・・・
どうだい、また横浜で勤めてみるかい?(18年12月15日)
番外編:洽仁会幹事
洽仁会は、千葉大学臓器制御外科学の関連出張病院の院長、医長会議で、毎年一回開催されている。
大学の近況報告、臓器制御外科の医局の状況報告、各関連病院の出張および就職医希望状況
出張予定学年および人数などに関しての討議がおこなわれる。
以前は千葉県内の関連病院と、県外の関連病院が一年ごとに交代で幹事を務めていた。
私は平和病院に勤務するようになってから参加するようになったが、
初めて参加したのが長野県の阿南病院だった。
学生時代の夏休みに2週間ほど実習をした病院でもあり、懐かしかったが・・・・
かなりの田舎にあり、延々と電車に乗ってもつかず、閉口したことを覚えている。
一昨年は浦賀病院、昨年は聖隷横浜病院と、神奈川にある関連病院が連続して幹事だったので、
今回の幹事はさすがに千葉県内の病院だろうと思っていたら・・・
神奈川シリーズなのか、わけのわからない理由で平和病院が第25回洽仁会の幹事病院になってしまった。
昨年は横浜駅前のシェラトンホテルという超豪華な会場で開催したためか・・・
だいぶ赤字が出たとのことだったので、
今年は、少し予算を抑え、会場は駅から少し歩いたところにある、ホテルキャメロットジャパンにした。
大きな病院で開催される場合は、会議は自分たちの病院内の会議室で行えるのだが・・・
平和病院の会議室は病院幹部職員の集まる運営連絡会でさえも座りきれない!
80人以上が集まる洽仁会の人数が入りきれるわけが無い!
また、会議の前には通常、「病院見学会」なるものが行われるのだが・・・
関連病院のほとんどが、国公立病院、がんセンター、救急医療センター、日赤病院、労災、済生会など・・、
施設、設備のそろった大きな病院ばかりなのに対し・・・
民間病院は浦賀病院と、平和病院くらいしかない。
それでも浦賀病院が幹事を務めた一昨年は、新しい病院になったばかりだったのだが・・・
昔ながらの平和病院は、大病院の先生方に改めてお見せできるような施設でもないので、
勝手ながら、病院見学はキャンセルさせていただいた。
そのかわり、懇親会のときにスライドで簡単な病院紹介をすることにした。
会議は自分が司会進行役だったが、予定どおりに終了し、引き続き、懇親会になった。
幹事病院の院長ということで、一番上のテーブルに座らされた。
(あらかじめ、テーブル表を医局に送り、教授のチェックを受けなければならない。
結婚式の席順じゃないが、それなりに教授も気を使うようだ)
同じテーブルには、宮崎教授、奥井元教授、(中島前教授は欠席された)、同門会(臓器制御外科の同窓会のような組織)会長、
洽仁会会長、など、大先輩方がいらっしゃり、この中に入ると、私もさすがに「ひよっこ」になってしまうので・・・
けっこう緊張する。しかもホスト役なので、自分勝手に飲んでばかりもいられない。
皆さんがあまり酔っ払わないうちに病院紹介をすることになったが・・・
紹介の資料を作るにあたって、臓器制御外科(旧第一外科)と平和病院の関係を調べてみたが・・・
なんと、病院創立の時、昭和21年4月には医局出身の村上泰邦先生が常勤外科医として名前を連ねていた。
その後も昭和45年7月まで、25年間も連続して医局から常勤医師が派遣されていたことがわかった。
この間、常勤医師の他にも短期出張、アルバイトなどで、多くの先輩たちが平和病院に勤務していたようだ。
奥井元教授は初代院長の安孫子先生に、よく中華街に連れて行ってもらったことを、懐かしく話しておられた。
昨年なくなった、石黒先生(このコーナーでも登場している)も、よく、平和病院の医局でマージャンをしたことを話しておられた。
その後、私が勤務を開始したのが平成3年だから、その間21年間ものブランクがあった事になるが・・・
それからさらに、16年もたってしまったので・・・
平和病院創立以来の外科の歴史の、ほぼ3分の2の期間を臓器制御外科の医師が担ってきたことになり、
あらためて、平和病院と臓器制御外科との絆の深さを知ることが出来た。
病院説明も無事終わり・・・さらに宴は続き・・・
来年の幹事病院、君津中央病院の土屋先生による中締めとなった。
直前のキャンセルが出た影響で、残念ながら、若干の赤字を出してしまったが・・・・
実務は下田、土田、梅木にやってもらい、何とか大役を果たすことが出来、ほっとしている。(18年10月14日)
番外編:祝!副院長就任
4月は人事交代の時期でもあり、毎年いろいろな施設、病院、会社から、
社長交代、院長交代、校長交代などの挨拶状が郵送されてくる。
先日その中に、浦賀病院からのものを見つけた。
浦賀病院は私が平和病院に着任するまで3年間勤務した病院で
今は同じ研究室の2年後輩が院長をしている。
最近病院を新築し、すばらしい経営手腕を発揮しており、時々電話をしたり、会ったときに話を聞いたり、
お互いに情報交換をしているが・・・
今年の4月から、副院長にO君が就任したとの挨拶状だった。
O君は「ふけた新人」として書いたように、
平和病院外科が、千葉大の臓器制御外科(当時は第一外科)の関連病院として
新しいスタートを切ったとき、初めて大学から派遣されたDRだ。
彼は卒後2年目での着任だったので、しばらくはほとんど戦力にならず、
苦労をしたが・・・その後いくつかの関連病院を回り、
大学病院で研究生活を送って学位を取り、実力をつけ
浦賀病院へ就職し、院長の右腕としてがんばってきたが・・・
ついに副院長に就任したとの知らせに、改めて、昔を懐かしく思い出した。
もう、平和病院の卒業生が、病院の副院長になるんだからなあ・・・・
自分もそれだけ年を重ねたということなんだろう・・・
ともかくO君!
副院長就任おめでとう!(18年5月1日)
ペーパーはどうなったんだ?
Mo君とSi君のいた1年は手術症例数も比較的多く、しかも膵臓がんなどの大きな手術もいつもの年より多く、
今まで平和病院では行われていなかった治療法なども導入し、それなりに充実していた。
また、珍しい症例も見られたので、症例報告として、医学雑誌に投稿することになった。
そもそも平和病院の外科は千葉大の臓器制御外科の関連出張病院なので、
人事も大学でコントロールされている。
宮崎教授からは、医局員を派遣するからには、それなりの手術をやらせること、
手術症例数を増やし、外科を活性化させること、
学会発表や、医学雑誌への投稿をどんどんやらせること・・・など
顔をあわせるたびにやかましく言われる。
ほかの関連出張病院は、日赤、県立病院、市立病院、がんセンター、労災病院など・・・
大病院や、地方の基幹病院が多く、平和病院くらいの規模の病院は例外といってもいい。
大病院に比べるとやはり手術症例数は、かなわない!
ただ、この年はMo君もSi君もがんばって、雑誌に症例報告を投稿することが出来た。
MO君は堅実に「日本臨床外科学会雑誌」に投稿し、既に掲載されたのだが・・・
Si君は、「先生、投稿するならやっぱり英文で書かなければ!」などと言い出した。
虫垂内部からの出血が原因で下血をきたした症例の報告をすることになったのだが・・・
病理組織結果を横浜市大の先生にコンサルトしたりして、お世話になり、
何とか英文のペーパーを書き上げ、原稿を見せてもらった。
何箇所か直したほうがいいところを指摘したあと・・・
確かイングリッシュ何とか・・・・という英文雑誌に投稿し、
原稿を受け付けた、という返事が来たところで4月になり、大学に戻っていった。
その後、神戸の大学病院に派遣になったが・・・
いまだに、掲載されたとの報告がない!
無理せず邦文のペーパーにしていれば、とっくにどこかには掲載されていたはずなのに・・・
お〜い、Si君!いったいペーパーの行方はどうなってんだ?(18年4月16日)
病院旅行幹事?
次の年は、1年間の通年で二人の出張医が着任した。
Mo君とSi君だ。
Si君は着任当時はバリバリの独身だったが、Mo君はすでに妻子もちで、
愛妻家であり、子ぼんのうではあったのだが、
やんちゃなSi君とも付き合わなくてはならず、その狭間で苦労したようだった。
それでも着任中に新しいベビーが生まれたところを見ると・・・
仕事でも家庭でも頑張っていたようだ!
そういえば、平和病院にいる間に子供が出来るパターンはけっこうあるような気がする。
なにしろ、独身の女医さんまでお腹が大きくなるくらいだ!
微妙なフェロモンでも漂っているのだろうか・・・
それはともかく、Mo君は通常の出張期間を終えた後、大学に戻り、研究もほぼ終わらせた後、
関連病院の派遣要請により駆り出される、いわゆる「後期出張」のメンバーであり、
(まだ実験が終了しておらず、仕事を終えた後、はるばる大学に戻って、実験をしたり、
日曜日にも大学で追加実験をするなど、当時はかなり苦労をしていたが・・・)
学年がかなり上での出張のため、今までより格段にパワーアップしたように感じられた。
性格は温和で、話し方も非常にマイルドで、パラメディカルからの人望も厚く、
患者さんの対応にも全く問題がなく、医療技術も優れていた。
今まで平和病院で行っていなかった治療法にも積極的にチャレンジしたり、
在任中、日本臨床外科学会雑誌に投稿し、それが後日掲載されるなど、
大いに実力を発揮した。
もっともMo君やSi君が着任した頃には、もうこのホームページは書き始めていたので、
彼らも、この「外科ものがたり」を読んでおり、
そのうち、自分たちのことも書かれるのがわかっているようで・・・
「なにとぞお手柔らかに・・・」と、頼まれた。
平和病院にいる間になにかペーパー(投稿論文)を書けば
やばい事は書かないようにしようかな・・・などと言ったので、
頑張ったのかもしれないが・・・
実際、1枚ペーパーも書いたので、もちろん約束は守るつもりだ。
こんなことを書くと、Mo君が本当は何かやらかしたようだが・・・
もちろん、そんなことは全くなく、彼は非常にまじめだった・・・・と思う。
というのも、この頃には彼らと一緒に飲みに行くことがほとんどなく、
夜の行動はほとんど把握していない。
飲み会は大好きだったようだが、いかんせん子供が小さく、奥さんも妊娠、出産を経験する時期だったので、
そうそう外出するわけにもいかないようだった。
ただ、彼が一番輝いたのは秋の病院旅行ではないだろうか・・・
その年は韓国に出かけることになったのだが、さすがに身重の奥さんには言いにくいらしく、
自ら「幹事」に就任してしまった。
「病院旅行なんて、本当はめんどくさくて行きたくないのだが、院長から無理やり幹事を押し付けられ、
しかたが無いので行かなければならない。
本当は家にいて子供たちと過ごすほうが、どれくらい楽しいかしれないのに・・・
ただ、自分は幹事なので、行かないと院長に怒られるし、他の職員にも迷惑がかかる!」
と、奥さんの了解を取り付け、「イヤイヤ」出かけていった。
しかもSi君と一緒に、はじめはツインの部屋だったのだが、
お互い、ものすごいイビキをかくので、迷惑をかける、とのことで別々の部屋を追加料金を払って確保するという
後輩思いの一面もみせ、立派に幹事の役割を果たし、ニコニコ顔で帰ってきた。
「どうだった?」と、何回聞いてもSi君と顔を見合わせ、具体的なことを何も言わない・・・
「日韓親善について考えた」とか「歴史を探る旅だった」とかわけのわからない答えしか返ってこない。
ただ、「イヤイヤ」行ったにしては、帰ってからの仕事の充実振りをみると・・・
さぞかしリラックスし、息抜きが出来たのだろう・・・ということは十分想像された。
平和病院のあと、都立F病院に就職し、現在も都立病院という厳しい状況の中、頑張っている。(11月25日)
温泉フリーク
Sa君が9月いっぱいで大学に戻った後、10月からはMa君が着任した。
今度も任期は半年の予定だ。
半年の、特に広範の任期はやはり短い。
なれたころにはもう年末のあわただしい時期になり、
正月気分が抜けた頃には短い2月になり、あっというまに送別会はどこでやろう・・・
などと考える季節になってしまう。
Ma君の印象と言えば、やはり大型のアメ車に乗っていたことだ。
とても一般市民の乗るような車ではなく、どちらかと言えば、恐いお兄さんが乗るような車だった。
宿舎として病院が借りていたアパートの駐車場には、でかすぎて駐車できず、業者から苦情が来たほどだった。
ただ、外見も、中身も決して恐いお兄さんではなく、
また、アメリカンとも程遠い、いたってまじめな風貌をしていた。
けっこう早口で話すので、外来でご高齢の方は彼の会話のスピードについていけないこともあった。
(私も時に、聞き取れないこともあった・・・・)
気立ては、いたって優しく東芝鶴見病院とのユニット運営を軌道に乗せるのに力を発揮してくれた。
趣味は「温泉めぐり」だったようで、全国各地の温泉をかなり巡っていて、
秘湯といわれるところにも行っていた様だ。
仕事が終わってから何人かのスタッフをアメ車に乗せ、
温泉につかりに行き、明け方帰ってくることもあったようだが・・・
疲れを癒すのが温泉なのに、余計疲れるのではないかと、かえって心配をしたものだった。
大きな事件も、トラブルもなく、その話し方のように、あっという間に大学に帰っていったイメージがある。
彼は同じ研究室に所属していたので、
大学に帰ってからも大学の行事や、研究室の行事でちょくちょく話をしたが、
印象は平和病院にいたときと全く変わらず、飄々としていた。
そろそろ大学を去って就職の時期が近いと思うが、温泉の近くを志願するのだろうか・・・・
さて、次はMo君とSino君の番になったけれど・・・
彼らとは平和病院にいる間に学会誌に投稿すれば、変なことは書かないとの密約があるのだが・・・
もう時効かな〜(9月17日)
第1外科を正式に辞し・・・
Si君と前半の半年間ペアを組んだのはSa君だった。
鶴見病院の外来に一人はとられるので、外来診療時間の間は今までどおりなのだが、
鶴見病院の午後の外来受付終了は3時半なので、
それが終わると平和病院に戻ってくるし、
手術日の月曜、木曜の午後は鶴見病院の外来は担当しなかったので、
夕方と、手術日には、スタッフが増えたことが実感された。
Sa君は一見すると斜に構えたような雰囲気の持ち主だった。
ホームページ閲覧好きとのことで、午後の空いた時間は
かなりの時間パソコンの前で調べ物をしていたとの未確認情報があったが・・・
患者さんへのかかわりは、見た目と違い濃厚だった。
外来での対応も丁寧で、患者さんの話もよく聞いていた。
ちょうど彼が赴任してまもなく、かなり進行した状態の乳癌再発の患者さんが入院してきた。
乳癌は早期に発見されることも多いが、シコリに気づいていても、なかなか病院を受診する勇気が出ず、
誰にも相談できずに、どうしようもなくなってから受診される患者さんも多い。
その患者さんも、初診の時には、すでに巨大な腫瘍は皮膚を破り、潰瘍を形成していた。
手術、抗癌剤、放射線療法などが行われたが、
数年後、再発して、末期状態になっての入院だった。
彼女はとても繊細な神経の持ち主で、子供のような反応を見せるときもあったが・・・
治療・看護に関しては、こちらがハッとするような意見を聞かせてくれることも多かった。
Sa君はこの患者さんの担当になり、真剣に向き合っていた。
長時間を割いてベッドサイドにでかけ、ややもすると、受け流してしまうような、細かなことにもまともに対応していたため
逆にこの患者さんとぶつかることも多かったようだった。
一度は「先生なんて大嫌い!」
と、言われたようで、ものすごく落ち込んで勤務室に戻ってきた。
「患者さんから嫌われちゃいました。もう病室までいけないかもしれません・・・」
きっと、この患者さんにはSa君が真剣に自分と向き合ってくれていたことは伝わっていたのではないだろうか・・・と今でも思っている。
癌の末期の患者さんと病室でお話しするとき、朝、夕の2回の回診では十分に接することは出来ない。
回診の時には、どうしても症状の話だけになり、精神的な悩みを十分に聞くことも出来ない。
雑談でもいいから時間をかけてじっくりお話しすることが大切だと考えているが、Sa君も、同じように考えていたのかもしれない。
平和病院を去った後、しばらくして大学の医局を離れると、挨拶状が届いた。
「このたび、千葉大学第一外科を正式に辞し・・・」
同じ第一外科のホスピス医師、山崎先生(病院で死ぬということ:の著者)を頼って、聖ヨハネホスピスでターミナルケアに専念することになった。
挨拶状が届いたとき、ある意味羨ましかったことを覚えている。
山崎先生もそうだが、外科医がターミナルケアの専門医になることは、大きな決断が必要だったと思われる。
この乳癌の患者さんとのかかわりも、Sa君に少なからず影響を与えたのではなかったろうか・・・
ターミナルケアで相手をする患者さんは、「治ることがない」人たちなのだ。
元気になりました、と笑って病院から退院していく人たちではない。
先日、山崎先生に会った時、Sa君が都内の超一流のS病院の緩和ケア病棟に移ったことを聞かされた。
立派な設備、すばらしい環境、もちろん個室料金は半端ではない。
そんなところでターミナルステージを迎える患者さんは、どんな人たちなんだろう・・・
癌の末期に、その人や家族の経済状態など、本来関係ないのだが・・・
S病院でSa君が看取る患者さんと平和病院で私が看取る患者さん、
その療養環境はかなりの差があることは、紛れもない事実だ。
ただ、患者さんに対する思い入れはもちろん変わらないだろうし、どれだけ心安らかな最後を迎えられるかが重要だ。
最高の環境で自分の目指した患者さんとのかかわりを続けられるSa君は幸せ者だと思うし、
この恵まれた環境の中で、「一外科を正式に辞した」時の思いをさらに熱く持ち続けていってもらいたいと思っている。
私も負けてはいられない!
彼が、ホスピス医として成長し、平和病院に、ターミナルの患者さんとのかかわりについて講演に来てくれることを願っている。(平成17年5月5日)
「あ、は〜ん、う、ふ〜ん」
次の年は、平和病院と、東芝鶴見病院が、「東芝地域医療グループ」として、連携を強化し、
外科が、同じスタッフで運営される、ユニットを形成をしたため、
鶴見病院の外科外来も担当しなければならなくなり、
大学からの派遣出張医師が増員された。
Si君が1年Sa君とM君が半年交代でやってくることになった。
Si君は、今は千葉大学の大学院にいるのだが、昨年から隔月の土曜日当直、日曜日勤を担当してくれており・・・
おおいに世話になっているので、あまりへんなこともかけないが・・・
彼は一言で言うと「非常に器用な」医師だった。
新しい知識も豊富だったし、日常診療における機器、医療材料についても詳しく、
新しい気管切開のキットなど、彼がいた1年間で新しく平和病院に導入されたものはかなり増えた。
カルテの文字は達筆すぎて読みにくい欠点はあるが、一文字が大きいので、まだ救いがあった。
普通の人の倍以上のスペースを使う。
記載は正確でもれは無いのだが・・・
彼の印象で強烈に残ったのが、その英会話能力だった。
何でも帰国子女らしく(外見は全くそんな感じではないのだが・・・)
子供のころは長い間外国暮らしをしており、
それに加えて、彼の奥さんが国際線のフライトアテンダントとのことで・・・
(これだけでもさぞかし美人なのだろうと、うらやましくなる)
お互い英語がぺらぺらで、週に1度は「英語の日」があり、日本語を一切使わないで生活をするらしかった。
我が家でそんなことをしようものなら、朝の「グッドモーニング」だけで、後はし〜んとしてしまうに違いない!
たまたま、イギリス人の患者さんが鶴見病院の外来に来ており、Si君が担当していた。
その患者さんが帰国するとのことで、病状説明を紹介状に書いてもらうため、平和病院の外来を受診した。
そのころ、土曜日は患者さんが多く、二人で外来を担当していたため、
私もその場にいあわせた。
外来に入るなり、握手、挨拶に始まり、ぺらぺらと猛烈な速さで会話が行われる。
字幕が無いので、こちらはほとんど内容が理解できない。
Si君は時々手振りを交えながら、「あ、は〜ん、う、ふ〜ん、お〜いぇあ」などと相槌を打ち、笑いあったりしている。
その場に居合わせた看護師もクラークも唖然として見とれていた。
もちろん、患者さんが外来を出て行った後、拍手喝采が起こった!
ずっと前、やはりイギリス人が平和病院で急性虫垂炎の手術を受けたことがあり、
その何日か後、イギリスにいる彼の父親から、国際電話がかかってきたことがあった。
あいにく私が電話口に出る羽目になってしまった。
彼の病状を聞きたがっているのだが、頭の中で文章は出てきても、電話口では急に無口な自分になってしまう。
病棟に電話を回し、外来から猛スピードで病室に駆け上がり、彼の病室に行き、
父親から電話がかかっていることを説明し、車椅子にのせて電話口に連れていった覚えがある。
えらい違いだ!
たまたまこの前、フィリピンの女性が手術の必要な病気になった。
家族がいるフィリピンで手術を受けたいと言うので、紹介状を書いてくれと頼まれた。
彼女は日本語がぺらぺらなので「わかりました、2、3日で準備しておきます」といったのだが・・・・
いざとなると、妙に意識して、一向に進まない。
そうだ、とSi君を思い出し、大学に電話をして事情を説明し、文章をメールで送ってくれるように頼み込んだ。
あっという間に返信が来て、こんなもんでいいですか、と、簡潔であるが、要点を確実につかんだ文章が送られてきた。
ほんの少しだけアレンジして、看護師やクラークには、Si君に頼んだことは言わずに、さも自分が書いたようにして、患者さんに渡した。
あれ位英語ができたら、さぞかし気持ちがいいだろうに・・・
大学にいたころ、今の教授から、カナダのトロントに留学するように強く勧められたのに・・・
断ってしまったことがいまさら悔やまれた。(1月30日)
番外編:小高先生と石黒先生のこと
この両先生は平和病院の出張の先生ではない。
千葉大学第一外科の大先輩だ。
どこに書こうかと思ったが・・・
結局このコーナーに書くことにした。
石黒先生はず〜っと前(40年近く前)に平和病院が千葉大学の第一外科の関連病院になったころの
医局長を務めていらした。(その後しばらく派遣は途切れてしまったが・・・)
医師の派遣のため、平和病院にも何回か行ったことがあるとおっしゃっていた。
両先生は同級生で、非常に仲がよく、たいていお見かけするときにはご一緒にいらした。
私が出張から大学に戻ったころだから、昭和57年から58年ころから、
小高先生の開業されていた小高病院でアルバイトをさせていただいた。
主に内視鏡と、超音波検査の仕事だった。
小高病院は千葉の大多喜という古い城下町にあり、当時は「千葉のチベット」とも呼ばれ、
大学から車で1時間半以上の山道を越えていくところだった。
仕事が終わると、豪勢な昼ごはんが出てきて、当時は独身で、食生活が不規則だったので、とてもおいしくいただいた。
帰りにはアルバイト料をもらい、懐も暖かく、遠い道のりも苦にならなかった。
石黒先生は、千葉大学の看護学部の初代学部長になられた方で、
小高病院で手術があるときには、呼ばれて手伝いにいかれていた。
どういうわけか、私のことをかわいがってくださり、
手術がある日は大きな目をくりくりさせながら私を探し、
「橋君、一緒に来てくれない?」と声をかけてくださった。
先生の手術の麻酔を担当するのだが、「お抱え麻酔医」のようになって、
何度もお供をさせていただいた。
手術の日は大学病院の研究棟(旧病院)の前の玄関に小高病院からの迎えの車が到着する。
初めてのときは、ベンツが来たので、たまげたことをよく覚えている。
ふかふかのクッションにゆられ、小高病院に着き、麻酔をかける。
石黒先生の手術は非常に早く、確実で、見ているだけですごく勉強になった。
手術のあとは小高先生のご自宅に呼ばれ、石黒先生と夕飯をご馳走になるのだが・・・
内視鏡のアルバイトのときの昼飯とは比べ物にならないくらいの豪勢な内容で、
お酒も出て、天にも昇る気持ちだった。
何しろ大学からの給料は2万円以下の時代で、ろくな飯も食っていないころだ。
お腹がいっぱいになったころ、帰りのタクシーが呼ばれ、ほろ酔い加減の石黒先生と一緒に、
いろいろお話をさせてもらい、また、聞かせていただきながら千葉まで帰った。
これだけならまだしも、両先生には、一生忘れないようなお世話になった思い出がある。
ある日、いつものように小高病院で内視鏡のアルバイトをしていた。
胃にポリープのあるお年寄りがいて、内視鏡的にポリープを取ってくれとの依頼だった。
当時、私は同級生に比べ、内視鏡の数もかなりこなしており、ちょうど自信過剰になるころだった。
ポリープにスネアーをかけ、いつものように電気を通電した。
順調にポリープの根部が焼け、取れた。と思った瞬間、あっという間に内視鏡の視野が真っ赤になった。
ポリープの切り口から血液が噴出したのだ。
今なら、止血の道具が開発されており、クリップをかけたりすれば比較的容易に止められるのだが・・・
当時はそのような器具も無く、何とか止めようと悪戦苦闘しているうちに、胃の中は見る見る血液がたまってきて、
出血部位も確認できないほどになった。患者さんの血圧も下がってくる・・・
「気が遠くなる」様な感じになり、こちらが倒れそうになったが、倒れるわけにもいかない。
小高先生がかけつけてきてくださり、即時に緊急手術を決断された。
すぐに大学の石黒先生に連絡をし、輸血をしながら、先生の来るのを待った。
「早く、はやく・・・」と祈りながら、先生が来るまでは、ものすごく長く感じた。
石黒先生は私の青ざめた顔を見て、大きな目をくりくりさせ、「大丈夫だよ!すぐにやろう」と、言って下さり、手術が始まった。
小高先生はその間、ご家族や、患者さんに丁寧に説明してくださり、手術は無事終わった。
今なら、「医療事故」で、問題になるところだが、20年ほど前は、今とは事情がだいぶ違ったことと、
小高先生は、地域に長く開業されており、患者さんや、ご家族の信頼が非常に厚く、
もちろん深くお詫びはしたものの、強く攻められることも無く、一件落着した。
その後も、大学を去るまで、小高病院のアルバイトと、石黒先生の麻酔係りは続けさせていただいた。
ずっと前の苦い思い出だ。
私が院長になったときは、本当に喜んでくださり、心のこもった激励のお手紙をいただき、感激したことを覚えている。
先日、11月の同門会のときに小高先生が、この夏に亡くなったことを知らされた。
私が病気で療養しているときだったのか、連絡が無く、ご挨拶にもいけなかったのが悔やまれた。
同じ同門会の懇親会のとき、石黒先生が秋の叙勲を受けられたとのことで、壇上に上がりご挨拶をされるのを懐かしく聞いた。
お元気そうで、ご挨拶をしようと思ったが、ほかの方とお話されており、少しはなれたところから頭を下げたが、
にこっと笑い、手を上げて答えてくださった。
1ヶ月前はお元気そうだったのに・・・・
今月訃報が届いた。目を疑った。
あいにく、病院の予定がどうしてもはずせず、通夜にも告別式にも参加できなかった。
今年は、若い時代に、かわいがってくださった先生を二人も失なった。ものすごく寂しい思いがしている。
自分も年をとったので、先生方もたしかにご高齢にはなられていたのだが・・・・ずっとお元気でいてほしかった。
心からご冥福をお祈りしたい。(12月16日)
番外編:助っ人
この4月から始まった親臨床研修医制度は、平和病院のように、大学から毎年医師の派遣を受けている病院を直撃した。
今までは、新卒業生が毎年10人位、臓器制御外科の医局に入局し、1年間の大学での研修のあとで
実地訓練を受けるため、外の病院に派遣されていた。
ところが、これからの2年間は、少なくとも、新しい医師は特定の医局には属さず、さまざまな科をローテートすることになり、
その分だけ、いわゆる出張医の頭数が足りなくなることになった。
平和病院もあおりを受け、10月から、門脇医師が浦賀病院に転任となり、補充がない。
困るのは当直だ。特に土曜、日曜の当直は順番に割り当てられていくが、ひとりあたりの当直回数が多くなる。
私はしばらく当直業務から免除されているが・・・
「10月からは先生にもお願いしなくてはならなくなりますよ!」と言われ、覚悟をしていた。
このコーナーにはまだ登場していない高野君(3月まで勤務していた)が、大学に帰るとき、
「大学の生活が落ち着いたら、少しお手伝いが出来るかもしれません」と言ってくれていたのだが・・・
それきり半年がたってしまった。「毎月はつらいが、これも以前平和病院に来てくれていた志田君(同級生)と交代でなら・・・」
とのことだった。
この前、教授に会いに大学行った時、高野君を探したが、あいにく夏休みでいなかった。
秘書の女の子に、無理やり志田君を探してもらい、どうなっているのか聞いてみた。
(こういうときのため、大学に行くたび、秘書の女の子には、必ずお菓子のお土産を持っていく)
「当直がまわりきれなくてね・・・何とか手伝ってもらえると助かるんだけどなあ〜」
「私にも当直が回ってきそうで・・・まだ術後で、当直は少しつらいな・・・ゴホンゴホン・・・」と、咳などして頼んでみた。
すると、「何とかやる方向で検討してみます!」との返事で・・・
本当にありがたかった。
そのあと何日かたって、高野君から電話があって、さっそく今月から二人で、交代でやってくれることになった。
やはり3月まで努めていた柴田君も4月から当直をやってくれており、(今日、明日と当直をしてくれている)
みんなわざわざ千葉から助っ人に来てくれることを思うと、感謝の気持ちでいっぱいだ。
このコーナーで3人のことを書くのはもう少し後になるが・・・
これじゃあ、あんまり変なことが書けなくなるよなあ〜(9月11日)
番外編:S君来訪
この前の水曜日の夕方、外来も終わり、部屋に引き揚げようとしたときのこと・・・
事務職員が心配そうな顔で私を呼び止めました。
「先生、今窓口に若い男が来て、院長に用があるから会わせろ、といっているんですが、どうしますか?」
実は、アポイント無く、セールスやら、ご挨拶とかいった投資の勧誘とかの面会者がよく訪れる。
電話などはしょっちゅうで、相手も個人名で電話をかけてくる。
患者さんからの電話のこともあるので、ご用件をうかがってから受けるようにしているが、
たいていの場合はその時点で「また電話する」といって切ってしまう。
たいていの変な電話はこれで防げるのだが、今まで一番たちの悪かったのが「○○病院にいる××というものですが・・」
といってかかってきたものだ。てっきりこちらは○○病院の先生からの電話だと思い、取り次いでもらうと・・・
「先生にみみよりなマンションの物件が・・・今私○○病院にいるんですが、これからお話にうかがいたい・・・」とのこと。
今実際に○○病院から電話をかけているので、言っていることに嘘はない!
まんまとだまされたことがあり、このときはさすがに怒る気もせず、感心した。
話は戻るが・・
「なんという名前の人?」
「Sと言っていますが・・・先生ご存知ですか?」と、入り口のほうを心配そうに覗き込む。
患者さんでSという苗字の人に、あまり覚えが無い。「外科ものがたり」Jに出てきたS君くらいしか思い当たらない。
ただ、S君は大学に戻っており、こんな時間に平和病院にいるとは思えない。
「どんな感じの人なんだい?」
「なんか、態度がなれなれしくて、少し横柄な感じの話し方なんで、ちょっと心配になったものですから・・
面会の理由を言わないんですよ・・・不在と言って一度帰ってもらいましょうか」
話を聞くと、柄の悪いお兄さんが、病院に何か文句を言いにやってきたようなイメージだ。
あまり、この手の方にはかかわりたくないが・・・そうも言っていられない。
どうしたものかと考えていると、昔から病院に勤めている看護師さんが、通りかかり
「S先生が来てますよ!」と教えてくれた。
なんだ、やっぱりS君か・・・と受付に行ってみると・・
すっかりぽっちゃりと変身したS君が立っていた。
突然の来訪に驚いたが、なんでも今、大腸、肛門疾患の専門病院のM病院で研修中で、千葉からアクアラインで通っているとのこと。
私のホームページを見て、手術を受けたことを知り、驚いて見舞いに駆けつけてくれたのだった。
あまり、そんな気遣いをするようなイメージが無かったので、正直驚いたが、ものすごくうれしかった。
せっかく見舞いに来てくれたのに、S君が平和病院にいたのもかなり前のことなので、顔を知っている事務職員も無く・・・
「たちの悪そうな人」に間違えられたのは非常に気の毒で、申し訳ないことをした。
なにせ彫りの深い顔で、目つきも濃く、鋭い感じで、全体に丸くなったものの、昔のイケメンのイメージが残っているので、
勘違いされたようだ。
車で来ていたので、ひさしぶりに酒でも・・と言うわけにもいかず、
短い時間で帰っていったのが残念だった。
お見舞いにもらった果物、おいしかったよ!どうもありがとう・・・(7月30日)
ハワイでも色白?
いつもまじめに働いているT君でしたので、ちょうど夏休み期間でもあり、
ハワイ行きは問題なく決まりました。
常夏の島ハワイ、太陽はさんさんと輝き、健康的に日焼けした姿で帰ってくることを想像していましたが・・・
帰ってきたT君は、まったくといっていいほど日焼けしていませんでした。
もともと色白でしたが・・・よほど天気が悪かったのか・・・
日焼け止めクリームを頭からかぶっていたのか・・・
紫外線を強烈に撥ね返す肌の持ち主なのか・・・
彼が平和病院から卒業した少しあと、、結婚式の招待状が届き、出かけていきました。
がちがちに硬くなっているT君がチャペルで純白のウェディングドレスの花嫁を迎えている姿を、懐かしく見ましたが、
披露宴のとき、彼女には、平和病院にいたときの夏、ハワイでプロポーズしたとの話を聞きました。
なるほど、仕事同様、プロポーズにも一生懸命で、日に焼ける暇も無かったのかと、変に納得しましたが・・・
大学に帰ってからもまじめに勉強し、現在は留学中です。(5月21日
一番の前評判
次の年にはT君がやってきました。
毎年出張の人事が発表されると、どんな性格なのか、仕事はきちんとやるのか・・・
気になるので、その出張医が今まで勤務していた病院の先輩医師に聞いてみたりするのですが・・・
誰から聞いてもT君の評判はぴか一でした。
何しろ、あまりにもよく働くので、「次の年に、その病院に派遣される出張医師が、T君と比べられるのを嫌がる」というくらいの評判でした。
実際にやってきて仕事ぶりを見ても、評判どおり、非常に優秀でよく働きます。
人間関係もそこそこでしたが、積極的に皆と飲み歩くタイプではなく、
あまり自分から冗談を言ったりするタイプでもありませんでした。
時々何か面白いことを言っているのでしょうが・・・声が小さく内容がよく聞こえないので、
本人だけがニコニコ笑っている、といったことが多かったように思います。
独身でしたが、浮いた話はまったく聞こえてきませんでした。
あとから思うと、そのときには結婚を意識した女性がいたようで・・・
女性関係にも、まじめな性格なので、おそらくその女性に操を立てていたものと思われます。(私の若いころのようです!?)
そんな彼が、夏休みにハワイに行く!と言い出しました。(4月17日)
うちとけるのに1年
次の年に派遣されたのはO君でした。
彼はとてもシャイな性格で、誰とでもうちとけて話す、ということが苦手なように見えました。
外見にこだわるタイプではなく、はだしにサンダル履きといった格好でいることが多いものの・・・
仕事は着実にこなしました。
ただ、惜しいことに、進んで相手の懐に入っていく事ができないようで、
そのぶん若い看護師さんたちに受け入れられるのに、時間がかかりました。
ただ、年配の看護師さんたちにはかわいがられていましたが・・・
毎年、大学の医局では同門会という行事があります。
大学の現役医局員や関連病院の医師が、学会形式で発表を行う集団会です。
それまでは毎年、出張してくる医師に、テーマを出し、スライド作りや発表原稿をチェックし、仕上げていましたが・・・
O君は、「平和病院における高齢者手術についてまとめてみよう」という言葉だけで
すべての症例、疾患、術式などを調べ上げ、発表のストーリーをまとめ、
ひとりだけでスライド、原稿を完璧に仕上げてしまいました。
今までの出張医と違ったので驚いたことをよく覚えています。
スタッフに対しての口の聞き方は、一見ぶっきらぼうにとられがちでしたが、
一緒に外来をやってみると、患者さんに対しては別人のように話し方がかわり、
丁寧で、ご高齢の方にもやさしく接していました。
もう少し人付き合いがうまくこなせたら、もっと仕事もしやすくなるだろうに・・・と
少し歯がゆい思いをしながら見ていましたが、
送別会の声も聞かれるようになった頃になって
やっと彼を理解してくれるスタッフが増えてきました。
そして送別会の日・・・
恒例になっていた「派手なガラのトランクス」をプレゼントされると、それを頭にかぶり、一気にはじけました。
それから最終勤務の日まで、みんなからは「もっと早くはじけていればよかったのに・・・」
と、変に残念がられていました。
平和病院の勤務が終わってから大学に戻り、
私と同じ研究室に所属したのは意外でしたが、
大学の行事があるたびに、必ず私のところに話に来てくれ、
そのたびごとに頼もしい印象に変わっていきました。
先日も、関連病院の会議が千葉の病院で開かれました。
この病院は新築されたばかりで電子カルテも導入されていましたが、
電子カルテの立ち上げに、彼が中心的な役割を果たしたことが紹介され、
挨拶した姿を見ましたが、同門の先輩方の前でも落ち着いてユーモアを交えながら話し、
平和病院を離れてから数年間の彼の成長ぶりを目にすることができ・・・
とてもうれしく感じ、まじめな仕事ぶりに加え、対人関係に丸みが出た彼は
今後もきっと伸びていくのだろうと感じました。(11月14日)
スッチー恋の悩み
そんなK君を尋ねて、若くて美人の女性が病院にやってきた。
患者さんとして、外科にかかったのだが・・・
腕のいぼをとって欲しいということだった。
なんでも、某有名航空会社のスチュワデスさんらしかった。
ところが、K君はなかなか手術(といっても局所麻酔で行う簡単なものだったが・・・)をしたがらない。
ある日、私のところにやってきて
「先生、私のちょっとした知り合いの女の子なんですが・・・手術をやってもらえないでしょうか・・」
と、いいだした。
「君がやってあげればいいじゃないか・・・」と、いってみたが・・・
「私が手術をして、若い女性なのに、もし、傷跡が汚くなったりして、
責任を取らなくてはならなくなったら、どうするんですか!」
と、いいだした。
どうやら「責任」というのは「一生彼女と一緒にいる・・」という意味らしいことは伝わってきたが・・・
しかたがないので、武士の情、私の外来に来てもらうことにした。
よくみると、確かに美人で魅力的な女性だったが・・
話しているうち、「先生、K先生はお忙しいんでしょうか?」と聞いてくる。
「お知りあいになったばかりの頃は、毎日電話もかかってきたし毎日バラの花もとどいたのに・・・、最近はあまり連絡も取れなくて・・」
えっ!毎日かよ・・・と、K君のまめさに感服したものの、
「いやあ、アフター5でおお張り切りですよ」と話す雰囲気でもなく・・・
「最近はいろいろ手術も多く、彼には忙しく働いてもらっていますから・・・」などと
わけもなく、しどろもどろで、かばいながら・・
結局私が手術をすることになってしまった。
その後、傷がどうなっているのか・・・気にはなっているのだが・・・
彼女はその後受診してこないし、K君が結婚したという話はまだ聞こえてこない。(7月13日)
疲れやすい「もてもて医師」
次の年にはK君がやってきた。
前の年にいたH君に負けず劣らずひょろっとして色白の男だった。
2月頃、着任が決まった挨拶で、病院に来た時、
いきなり、「平日に1日お休みをいただけないでしょうか」・・・といいだした。
「出張の時期に平日休みなどとんでもない!」と一蹴したが・・・
「そうですか・・・」と、すごくつらそうな顔をしていた。
4月の着任後も、あまり「ばりばり働く」というイメージはなく・・・
疲れやすいのか・・・
普通、若い外科医は、少しでも多く手術をしたい、と思うものなのだが・・
そんな雰囲気は微塵も感じさせず、長い手術が終わると、目が落ち窪んで、ぐったりしていた。
ところが、手術がない日の「アフター5」になり、
飲み会でもあれば、今までの疲れはどうした? というほどの全開パワーとなり・・
別人と思うほど生き生きとして、まさに「よみがえる」という感じだった。
話題は豊富で、場を盛り上げ、女性にやさしく、扱いも手慣れたもので・・
側にいると「なるほど」と、思わずメモを取りたくなるほどだった。
実際すご〜くもてた。(独身だったせいもあるが・・・)
なにしろ若い看護師さんたちが彼を取り合うありさまであった。
友人にも同じようなタイプの医者が多いらしく、
ある日、フジテレビの報道番組で、「医者とOLの合コン」のシーンに出演するとかで・・・
「早退させてください」と言ってきた。
顔にはモザイクがかけられるし、平和病院の名前は絶対出しませんから・・・というので許可したが、
「私も一緒に行くから出演させろ」とは、思っていても口には出せず・・・
断腸の思いで見送った。 (6月6日)
悩めるロミオの囁き
次の年にやってきたのは、古くから千葉で開業しているH病院の息子、H君でした。
就任直後に父上の体調が悪く、手術を受けるとの事で、実家の病院のこともあリ、
なかなか仕事に打ち込める状態ではありませんでしたが、
5月には、何とか通常の勤務が出来るようになりました。
彼も、前の年のM君同様、「開業医の息子」といったイメージは全くありませんでした。
ヒョロっとした体型で顔も長く、目はたれて細く、いかにもひ弱な感じに見えましたが、
性格は優しい中にも頑固なところもありました。
人当たりは非常によく、優しいイメージがあったので、患者様はもちろん、スタッフの評判も上々でした。
ただ、困ったのが、声が非常に小さく、しかも、こもってしまい、よく聞き取れないのです。
ご高齢で、耳の少し遠い患者様には、彼の言うことが良くわからないこともあり、
このため彼は顔をぐっと近づけて話していました。
我々に話す時も、その、優しそうな垂れた目をした長い顔を、ぐっと近づけ、ぼそぼそと話しかけてきます。
耳もとで囁かれると、少し、ゾクっときましたが、そんな頼りなげな雰囲気が、看護師サンたちには気に入られ、
よくみんなで食事に行ったり、飲みにいったりしていたようでした。
あまり脂ぎった雰囲気がなく、危険な感じがしないためか・・
いわゆる「いい人」どまりで、独身にもかかわらず、浮いた話も聞きませんでしたが、
噂によると、年上の女性と真剣に付き合っているものの、親に反対されており、
反対を押し切って結婚すべきかどうか・・・かなり悩んでいるとの事でした。
その後、酒を飲んだ時に、例の、ぼそぼそとした声で、私にも、その悩みを打ち明けてくれましたが・・・
あまり無責任に、けしかけるわけにもいかず、気の利いたアドバイスも出来ませんでしたが、
看護師さん達からは、「もう!優柔不断なんだから!反対されても結婚すべきよ!」と、散々言われていました。
結局は悩んだままで、1年間が終わってしまい、その後、千葉県がんセンターに1年間勤務した後で、
大学に戻って研究活動に入りましたが・・・
何年か前、彼が、同じ医局の女医さんと電撃結婚した。との噂が流れた後・・・
「結婚しました」との挨拶状が届きました。
「人生いろいろ」あったのでしょうが・・・子供も生まれ、幸せいっぱいに暮らしている・・・・・でしょうね。(5月5日)
闇に消えた男
予想に反してM君はいわゆる「生意気」さの全くない男でした。
物腰はマイルドで、言葉遣いも丁寧で、誰にでも優しく接し、
こちらの方が「ストレスがたまらないのか・・・」と、逆に心配するほどでした。
今では結婚し、海外に留学中ですが、
以前、結婚披露宴に招待された時には、その規模の大きさに、たまげました。
あれほど広い会場に招待されたことはなく、新郎新婦が、やけに遠くに見えたことを覚えています。
当時はまだ独身で、患者様ばかりでなく、職員にも人気がありました。
「飲み会」の席でも明るかったのですが、どうもアルコールに弱いらしく、
かといって飲まないわけではないので、ほとんどの場合、
途中で目がトロ〜ンとなってしまい、めちゃくちゃハイになった後、パタリと意識をなくしたように、眠りこけてしまいます。
そんな彼を「しょうがないわね・・」と、いつも心にとめ、介抱する、おおがらな看護師さんがいました。
声も大きく、がらっぱちな性格でしたが、おそらく、彼に淡い恋心を抱いていたのかもしれません。
当時、彼にはすでに心に決めた彼女(現在の奥さんでしょう・・・)がいたようで、
片思いのまま日が過ぎていき、あっという間に送別会のシーズンになってしまいました。
外科恒例の送別プレゼントの「派手な柄のパンツ」も贈られ、会は大いに盛り上がりました。
いつもよりピッチが上がったせいか、2次会に行く頃には彼はすでにかなり酔っており、
まっすぐ歩けないほどでしたが・・・
案の定、2次会ではぐっすり眠ってしまい、勝手にみんなで盛り上がっていました。
さすがにお開きの時間になったのですが、いっこうに起きません。
このまま一人で返すわけにも行かず、困っていると・・・
「しょうがないわね・・・」と、例のおおがらな彼女が、「ほら、先生、しっかりして」と
彼を軽々とおんぶして歩き出しました。(ちなみに、彼は小柄でしたが・・・)
どうなるのかと思いましたが、周りの看護士さんたちが、「いいのいいの・・」というもので・・・
そのままにしていましたが・・・
彼は気持ちよさそうに眠ったまま、彼女の背中におんぶされ、夜の闇に消えていきました。
その後のことは・・・今もってなぞです。(12月15日)
あの病院の息子が・・・
翌年、おっとりとした歌舞伎役者のような顔立ちのM君が赴任してきました。
M君の実家は京成津田沼駅の近くにある、個人経営にしては大きなN病院でした。
実は、この病院は私が医者になって5年目、大学病院にもどって勤務し始めたころから大学を離れるまで、
当直のアルバイトでお世話になった病院でした。
大学病院に勤務する研究生(医員の定員は限られているため、身分が保証されない医師は、研究生にしかなれませんでした)には、給料が支給されず、医員の給料を山分けしていましたので実質は月に2〜3万円しかありません。
当然これでは家賃も払えないので「夜のお仕事」をせざるをえません。
一番頑張った頃は、月に15日以上も当直をしていた時期もありました。(大学の当直も含めて)
N病院は、当直のバイト病院の中では「高給」で有名でしたが・・・
仕事の内容はむちゃくちゃハードで、一人で当直をしているのに病院の救急受付の前に
救急車が何台も縦列駐車をしていることもありました。
それこそ、なんでも来るという感じで・・・
手におえない場合には院長(M君の父上で整形外科のDR)や副院長(母上で、耳鼻科のDR)が手助けに来てくれましたが・・・
「夜遅くに鼻の穴にビー玉をつまらせて取れなくなった子供」、「耳の穴に虫が入って、奥に行き、出てこなくなったが、ごそごそ音がする」とか、「肩が外れた」、「股関節が外れた」、「顎が外れた」、「服毒自殺を図った」、「赤ちゃんの熱発、痙攣」、「指を詰めた血だらけのヤクザ(近くに事務所があるのか、考えられない頻度で遭遇しました)」とか・・・・
一般の外科ではとても経験しないような患者様も多く、今思うとたいへん勉強になりましたが・・・・
だいたい一晩で5〜6人は入院があり、ほとんど眠れませんでした。
いまでこそめずらしくありませんが、当時、民間病院にはあまりなかったCTもありました。
そんな病院の息子が赴任すると聞き、人の縁というのはおもしろいものだと感じるとともに
少し不安にもなりました。
というのも、私の頭の中には、大きな開業病院の息子というと、
若いときから外車を乗り回し、はでで、チャラチャラとした生意気そうな姿がイメージとしてあったからです
(11月1日)
留守番かよ!
次の年にやってきたのは、今まででは一番の二枚目、S君でした。
名前は忘れましたが、当時よくドラマにでていた俳優に似て、濃い顔だちで、
いかにも「独身の若先生」といった感じでした。
初めて病院に来た時には、若い看護婦さんの目の輝きが違いました。
毎年1月に、次の年度にやってくる出張医を決める会議が大学で開かれるのですが、
次の日には、「今度はどんな先生がくるんですか?」と、聞かれます。
毎年、「今年はむちゃくちゃいい男が来るぞ〜、ジャニーズ系!」
といって、いつも「どこがジャニーズよ!」と、怒られていました。
たまたま、この年は病棟に若くてかわいく、のりのよい看護婦さんが多く・・・
(決して今がかわいくない、というのではありません。ごめんなさい)
一気に華やいだ雰囲気になりました。
飲み会の数も急増したらしく(と、いうのも、この頃から若いもの同士の飲み会にはあまり声がかからなくなってきてしまったので、未確認情報なので・・・)
彼のアパートで夜中まで集まって騒いでいたようです。
(中には年配の看護婦さんも紛れていたとか・・・)
下田君もその年は、華やいだ雰囲気に刺激されたようで、
冬に若い看護婦さんを集め、スキーツアーをやろう!という話が盛り上がりました。
病棟の看護婦さんの参加人数がかなり多くなったため、婦長さんにも許可を得なければならないほどでした。
話はどんどん進みましたが、どうも平日にかかるような雰囲気で・・・
おいおい、仕事はどうすんだ、と思っている矢先、「先生はスキー、やらないんでしたよね」
との一声で・・・・
え〜?俺が留守番かよ!
最近Iで書いたO君の結婚式で久しぶりにS君に会いましたが、いつのまにか結婚しており・・
平和病院でのいくつかの恋は実らなかったようでした。 (9月24日)
もろだし送別会
O君の送別会は川崎の「かに」の店で行われましたが、
その前の年の静かなものに比べ、むちゃくちゃ盛り上がりました。
それも、彼の人柄の良さなのでしょうか・・・
スタッフからトランクスをプレゼントされたのですが、みんなの前で、いきなりズボンとパンツを脱ぎ、下半身スッポンポンになって、プレゼントされたばかりのド派手なトランクスに(浮世絵の柄だったでしょうか・・・)はき替えて見せ、一同大受けでした。
さすがに女性スタッフが多く、後ろを向いて履き替えたので、尻だけしか見えませんでしたが・・・
反対側には店の仲居さんが何人かいたので、
彼の一物を真正面から拝むことになり、(かなり立派な物のようでした・・・)
これまた大受けしていました。
これが体育会系の「のり」なのでしょうか・・・
数年前、そんなO君が結婚するとの事で、披露宴によばれて出かけていきました。
祝辞は、彼の先輩達をたてる気配り、同僚、後輩に対するめんどうみの良さが披露され、
彼の人柄、みんなから慕われている様子が伝わり、とても心温まるものでした。
ただ、キャンドルサービスで後輩のテーブルまで来た時・・・
後輩がテーブルの上で、尻にローソクをはさんで待っており、O君もあわてず、火をつけていたのを見ました・・・
どうやら伝統の行事のようでしたが、度肝を抜かれました。 (7月30日)
気遣いの大食漢
次の年度にやって来たのはO君でした。
野球部出身の体育会系で体格のよい(横方向に)男でしたが、
礼儀正しく、がさつなようで、細かく気を使うことの出来るタイプでした。
着任早々、驚かされたのは、その食事量と、食べる速さでした。
今までのY君のゆうに5倍は食べたでしょうか・・・・
カレーの時などは、皿に盛りきれないほどの山盛りのライスに、ルーをたっぷりかけ、2杯をあっという間にたいらげた後、
カレーのルーだけを、スープ代わりといって、たっぷり飲み、
それだけでは足りず、夕方になると夜勤の看護師さん用のカップラーメンを、毎日食べていました。
大学に帰ってから、私と同じ研究室に入ったため、最近もよく会いますが、
先日、一緒にゴルフをした時には昼食にビールの大ジョッキを2杯、ステーキ定食をライス大盛りで食べた後、
ビーフシチューをまた注文してあっという間に平らげていたので、
相変わらず食いまくっているのかと、感心しました。
当時も、色気より食い気だったのか、独身にもかかわらず、浮いた話は聞こえてきませんでした。
それどころか、若い看護師さんたちと近くのデニーズに食事に行き、割り勘にしたのがたたって、
「O先生はけちなんだから!」
などと、かわいそうなうわさが流れる始末でしたが、
忘年会の幹事になったとき、ビンゴの商品をほとんど独りでパチンコで稼いできて提供したため(そうとう元手がかかっていたのでは?)
そんな噂も吹っ飛んでしまいました。
仕事はまじめで、人懐っこい性格のため、多くの人からかわいがられました。
後で知ったことですが、O流という、名を聞けば誰でもわかる生け花の家元の家系の次男坊だったとのこと、
今は研究も終え、船橋の病院で張り切っています。(7月21日)
きらいっていったじゃない!
彼女の思い出といえば「飯を食わない」ということでししょうか・・・
外科は、昼飯をみんなで一緒に食べる習慣になっていたのですが、
おかずはほとんど残す、おままごとの茶碗でも入ってしまうくらいしか飯はよそらない・・・
これで、午後の手術に体力が持つのだろうか・・・と、心配になるくらいでした。
あまり目の前でぼそぼそ食べるので、こちらの食欲もなえてしまい、この頃は、私も下田君も、当時の写真を見ると
今より、かなりやせていました。
仕事の面では頼りないようでいて、そこそこ頑張っていましたが・・・・
あるとき彼女が神妙な顔で、私のところにやってきて「ご相談したいことが・・・」
なんとなくいやな予感がしたのですが・・・
「どうした?赤ちゃんでも出来たのか?」と、冗談のつもりで言ったのに・・・
「はい」の返事が速攻で返ってきてしまいました。
新しい命の誕生!もちろん結婚はまだでしたが、交際中の彼との子供ということで、
祝福しなければならないのですが・・・
つい、仕事のことを思うと、目の前が真っ暗になり・・
心の中では思わず「なんだよ〜、そういうことはきらいっていったじゃないか〜!」
と、叫んでももはやどうしようもなく、
「それはおめでとう!」と、にっこり笑い・・・
それからは、彼女はX線関係の検査からはずし、長い手術の手洗いはさせず、大事に大事に扱いました。
1年間の出張を終え、千葉に帰って出産しましたが、
生まれてからすぐ、病院に赤ちゃんを連れてきてくれました。
すっかりお母さんになって、ちょっと信じられない思いでしたが・・・
今は就職し、ママさんドクターとして、千葉で頑張っています。(6月7日) つづく
看護婦さんの視線
次の年にやってきたのはおよそ外科医のイメージとはかけ離れたY君でした
「病院よもやま話」の「続、病院の怪談」に登場している女医さんです。
ひょろっとして、色が白く、声もボソッという感じでしたが、なかなかの美人でした。
それまでは男ばかりでしたが、手術場でも同じところで着替えるわけにも行かず、
見るからにひ弱そうで、顔色も悪く見えるため、手術中も倒れるようなイメージがあり、
今までのように怒鳴りつけることもできず、正直,戸惑いました。
赴任したばかりの時に、ナースステーションで仕事を教えていると、
看護婦さんが、いつになく静かな声で申し送りをしています。
よく見ると看護婦さん達の耳がダンボのようになっているのが判ります。
「まったく!先生達はちょっとかわいいと思って、今までの先生達に対する接し方とぜ〜んぜん違うんだから」
と、看護婦さんたちから厳しい批判を受ける始末です。
しかし、慣れてくると、性格はかなり男っぽく(無理にそうしていたのかもしれませんが・・・)
看護婦さんにはかわいがられたので、この点はほっとしました。
(今まで,看護婦さんと,女医さんがうまくいっているのをあまり見てこなかったので・・・)
今は結婚していますが、当時は交際中との事でしたので、
彼女には、頼むから,この1年はなんとか赤ちゃんだけは勘弁してくれ・・・と頼んだことを覚えています。
何しろぎりぎりの人数で業務をしていたため、レントゲン検査や手術が出来なくなられると
外科の機能が麻痺してしまうからです。
「だいじょうぶですよ!私、そういうことはあまり好きじゃないんです」彼女はきっぱりといったのですが・・・
(4月19日)
2枚目ではなかったが・・・
重症患者様が多かったため、術後の管理は、大変でしたが、
N君は患者様のそばに「張り付く」ように、熱心に働きました。
性格はひょうきんで、記念写真を見直しても、まじめな顔をしていることがありません。
「クリスマスの日には、新人はサンタの格好をして、各勤務室にケーキを配って歩くのが決まりだ」
という言葉を真に受け、イブの日には、どこから調達したのか、
本当にサンタの格好をして勤務室に入ってきました。
私がいるとは思わずに入ってきたらしく、目が合ったとたん、耳まで真っ赤にして
ケーキを置いて、逃げるように出て行ったのを今でも覚えています。
どうみても二枚目ではないのですが、
性格が良かったためか、若い看護婦さんには(おばさんにも)人気があり、
ひそかに思いを寄せる者もいたようですが・・・・
結局、独身のまま、平和病院去っていきました。 (3月2日)
嵐を呼ぶ男
新しいスタートとなった1年間もあっという間に過ぎていき、O君の送別会の日がやってきました。
鶴見の駅前のピザの店だったと思います。
今思うと、何回も大学からの出張医の送別会を経験しましたが、この時がいちばん感極まって、
涙が出たのを覚えています。
自分でも1年間、初めて外科のトップとして必死で頑張ってきたのを支えてくれた仲間がいなくなる、
そんな思いがして無性に淋しかったのだと思います。
O君は、その後いくつかの病院をまわり、大学に帰ってからは、私と同じ研究室で学位を取って、
今は、私が以前勤めていた浦賀病院で大活躍しています。
同じ神奈川県にある関連病院ということ、また研究室も同じということもあって、
彼とは今でもちょくちょく顔を合わせますが
今はお腹も立派になり、結婚して子供もでき、すっかり落ち着いてしまいました。
その年の4月、交代でやってきたのは、O君とは全くタイプの違うN君でした。
やっとO君が一人前になったと思ったのに・・・
N君も、大学での研修を1年間終えたばかりの2年目での着任で、
また1年前の繰り返しで、はじめから教えなくてはなりません。
なぜか、その年は、食道癌、肝臓癌、膵臓癌など、消化器外科にとっては比較的大きな手術も多く、
緊急手術も多かったので、術後の管理、重症患者さんの看護も大変で、病棟がゴタゴタし、
N君はいつしか、「嵐を呼ぶ男」といわれるようになりました。(1月17日)
ふけた新人
平成3年の4月、大学から昭和59年卒業の下田君と、卒業2年目のO君が着任し、浦賀病院から移動した私と、遠藤先生の4人で新しい平和病院の外科がスタートしました。
O君は卒後2年目といっても下田君より年上でした。
ということは、かなりのブランクがあるはずで・・・・詳しいことは語りませんでしたが、
新宿あたりでバーテンダーをしていたとか・・・・
なぞの経歴を持つ男でしたが、人柄は良く(人生経験が豊富だったせいか?)仕事ぶりもまじめでした。
しかし、医師としての経験は大学の医局での1年間だけ、という実戦経験の無さはいかんともしがたく、
何をするにも、私か下田君が付きっきりでいなければなりませんでした。
遠藤先生は外来だけを担当し、私達3人に検査、病室、手術のすべてを任せてくださったので、
私にとっては外科を思いどうりに運営でき、本当に助かりましたが、
3人といっても実際はどちらかが、O君につきっきりになっている分、しばらくは1.5人で働いているようなものでした。
また、それまでとはがらりと回診、オーダー書き、手術方法などが変わったため、
病棟の看護婦さんや、他のスタッフの仕事の内容も変えざるを得ず、
「今まではこんなやりかたではありませんでした!」という言葉を何度聞かされたかわからないほどでした。
スタッフとなんとか協調体制を作りたい、との思いもあり、
今に比べて思うと、仕事が終わったあとの飲み会が、なんと多かったことか・・・
当時は今に比べ、職員の数も半分くらいしかいませんでしたので
今よりもずっと部署の分け隔てなく、和気あいあいとしていたように感じます。
最近は職員の数も増え、あのときのように、いろいろな人たちと楽しく飲み明かすことが少なくなってしまいました。
それとも自分が年をとったぶん、若い人たちからさそわれなくなっただけなのでしょうか・・・?
(12月5日)
ともかくスタート
ともかくその年の10月から非常勤としてのスタートになりました。金曜日だったと思います。
私の他にも、大学から、平成2年卒業の若いY先生(中井貴一に似たハンサムボーイでした)が、助っ人としてやはり週1回派遣されてきました。
Y君は今は千葉市立海浜病院の心臓血管外科でバリバリ働いていますが、当時は卒業間もない頃で、
手術にしても、検査にしても、教えながらでなければ勤務出来ない状況でしたので、自分一人で勤務するよりも、よけい大変に感じました。
その他の日でも、手術がある日は、浦賀病院に連絡があり、一人で鶴見まで出かけてきました。
遠藤先生は外科医としては私など、はるかに及ばぬ経験の持ち主でしたが、
その時の手術は、全て私に任せてくださり、助手として立ち会ってくださいました。
今思うと、ご自分が執刀されるより、かなりのストレスだったと思いますが、それでも細かな材料の使い方や、手術器具などもすべて私に合わせてくださり、随分助かり、勉強もさせてもらいました。
その頃、外科に、かなり長期間入院されている患者様がいらっしゃいました。
クローン病という難病で、手術のあとの傷がなかなかふさがらず、食事も出来ず、高カロリー栄養で体力を維持していました。
私は週1回しか行きませんでしたが、何回病室を訪れても、その患者様は、同じベッドに横になっています。
見かねて、何回かめの時、「少し遠いところですが、千葉の大学病院に転院して治療してみますか?」と話してみると、
意外にも「お願いします」との返事が返ってきました。
やはり、なんとか治って退院したいとの気持ちが強かったのでしょう。
さっそく大学に連絡し、転院したあと、かなり大きな手術が施行されました。
その時、大学にいて、その患者様の受け持ちになったのが、今、平和病院でいっしょに働いている下田君だったのも、何かの因縁でしょうか・・・・
ともかく手術は無事終了し、経過もよく、患者様が、明るい顔で平和病院に戻ってこられました。
その患者様は、今でも私の外来に通院していらっしゃいますので、平和病院でかかわってきた患者様の中で、もっとも長いお付き合いになっています。
そのとき浦賀病院の外科は、私の3年先輩のM先生と、若いローテーターと私の3人で頑張っていました。
M先生は翌年の4月に開業する予定になっていたのですが、そのことはまだ誰にも話していませんでした。
ローテーターはもともと1年で交代しますので、私が平和病院に移動すると、外科のスタッフが一度に総入れ替えになってしまいます。
浦賀病院は、もともと院長が平和病院のため、大学に口利きをしたのに、結局自分のところが大変なことになってしまったのです。
浦賀は横浜に比べればずいぶん田舎でしたが、M先生はとても温厚でいい先生でしたし、病院は人情味にあふれ、観音崎など、景色のよい場所もすぐ近くにあり、とても働きやすかったのですが、
「おまえぐらいの学年で、自分が外科の責任者になって、自由にやれるポストなどそうはないぞ。絶対に移るべきだ。」
というボスの勧めもあり、ひとまずは週に1日、非常勤という形で、勤務してみることになりました。
ただ、ボスも私も、いちども平和病院を見たことが無かったので、二人で挨拶がてら見学に行こう、という話になり、
ある日の午後、鶴見の駅で待ち合わせ、平和病院に出かけていきました。
当時の平和病院は、現在に比べるとかなり外観もボロボロで、、玄関には汚いスリッパ置き場があり外来待合室は暗い雰囲気で(今は、そんなことはありませんよ・・・)外科の入院患者さんは、たったの数人しかいませんでした。
病院に着くまでの道を歩きながらボスは私に、「常勤2人とローテーター1人を大学から派遣してサポートしよう」、とか「東芝の病院なんだから、かなり立派な施設なんだろうな」、とかを熱く語りながら来たのですが・・・・・
病院を一目見たとたん、急にふたりとも無口になってしまったのを今でも鮮明に覚えています。
な〜んだよ・・・だいぶ話が違うんじゃない?
始めの一歩
私が初めて「平和病院」という名前を聞いたのは、大学から住友重機械健康保険組合の浦賀病院に勤めて3年目のときでした。
当時の平和病院には外科医が二人いたのですが、そのうちの一人が定年になって退職することになりました。
外科は一人では手術も出来ません。
たまたま当時の平和病院の名誉院長が千葉大学の出身で、浦賀病院の院長の同級生であったこともあり、浦賀病院の院長をとおして第一外科の教授に医師の派遣依頼の話が届いたのです。
当時の教授は、たいへん面倒見のよい先生で、また、ずっと以前には平和病院に千葉大学の第一外科から医師が派遣されていた経緯があったため、話はとんとん拍子に進み、翌年の4月から常勤医師が派遣されることになりました。
初め、教授は私ではなく、他の病院に出張していたA先生を送り込むつもりだったようです。
ところが、私の所属していた研究室(当時は肝臓研究室と呼ばれていました)のボスは、平和病院の内科には肝臓を専門とするドクターがいるので、今後肝臓の手術が増える、と考えたようで、教授に私を推薦したようです。(なんでも、A先生は寝ながらテレビを見るとき、テレビも横にして見るような変わり者だから、やめといた方がいいのでは・・といって反対したとか)
そんなわけで、夏の終わりの頃、夜、ボスから電話がかかってきたのです。
「平和病院にいってくれ」と・・・・・