雑感


目次

インターネットの威力 検査はつらいですか
夫婦の絆 吉野家の牛丼
こわれたピアノ 続、インターネットの威力
目からうろこ サンタからの手紙
忘年会も終わって 年の初めに
やっぱり 上の子の憂鬱
誕生日 診療報酬改訂
元スナック歌手 あ!浦賀病院も・・・
けんもほろろ いいなあ~ボーナス!
霊のいる家 読者増加?
かっこいいお父さん OB会
ちんちんの筋肉! 意外な進路
イヴも手術が・・・ 年末あれこれ
はかせ 消えた総持寺
恐くて聞けない・・・ 手当て」ができない・・
毎年の事ながら・・・ 病診連携
金のなる木と幸福の木 ラーメン屋での怒り!
歯医者さん ゴミだし
焼き鮭のキーホルダー 禁煙に思う
続、焼き鮭のキーホルダー 大人になって
短気は損気 青虫とワシントン
続、青虫とワシントン 肩こり:磁気ネックレス
続・肩こり:お灸 ホームページ復活!
早かった10000人 送別会
誕生日も「しゃけ」!? 金のなる木に花が咲く
バレンタイン え!
タバコの話余話 背が高い理由
え!・・・癌? さすがにペースダウン
入院・手術体験記① 院・手術体験記②
夢で泣く コントンクラブとセブンクラウン
院・手術体験記③ オレオレ詐欺
もはや歴史! 入院・手術体験記④ 入院までにめげたと
入院・手術体験記⑤ 医者から患者へ 入院・手術体験記⑥ いざ出陣
同門会 入院・手術体験記⑦
入院・手術体験記⑧ 退院決まる! 入院・手術体験記⑨ 一番はじめにやったこと
娘から学ぶ 連続TVドラマ
入院・手術体験記⑩ 残念!やはり 恐怖の3ヶ月
人情報保護法に思う 初めての肝切除
初めてのぎっくり腰 白髪が・・
稲垣吾郎の威力 「おっさん、空を飛んでみたくはないか?」
弱肉強食!  スマップ独身
眼科受診はいかが? 介護報酬改訂での愚痴
検察審査員候補予定者 説得力「0」
琴の若 お父さんのおねしょ!
家庭内隔離 バックアップは大切に!
リハビリ難民・療養難民 さすがにうるさい!
「サクラサク 留守番を探せ!
骨折ふたたび 2年前の6.21
画伯 大ブレイク
ヨン様の凋落! ささやかな幸せ
YS-11 いつの間にか5年!
玉砕デビュー戦? 大善戦!(続:玉砕デビュー戦)
2ヶ月の差、2分の差 まりもっこり」津軽海峡を渡る!
酒を見るのもイヤ! 年末年始
大学受験に思う 真昼の動物園
救急蘇生失敗! ライディーン
お墓へGO! 孤立無援の年度末
I記者へのエール 検査の季節
道具なければ・・・ 3本目のろうそく
テレビ父さん 夜のお仕事
脳味噌からっぽ!? このサポーターは何よ?
どうして雨が降るのかね! 「あのね、父さん・・彼が出来たの!」
考えることは ウボイコール
Oh No! グリンピース
娘の逆襲 魔法の黄色い液
肺の値段 右大臣・左大臣
疑惑の韓国旅行 医師会のCM
鬼になる日! パパになる日!
続:ウボイコール まるこちゃん・・ごめん!
寿命の目標 胸部CTに異常影!
オレンジバルーン え~っ キャンセルかよ!
「凍結」という名の無策 驚愕の写真!
こら! おかげまいり
「がん緩和相談外来」の2ヶ月 時の流れは・・
 成人式の日  一つ目のハードル
 ダイエットなんて簡単!?  立候補
 日曜日だよ、全員集合!  着信にぶちぎれ!
 横浜労災病院緩和ケア研修会  なにかいいこと・・・
 狭まる行動範囲  シルクの下着
 歯がキラリ!  腰がギクリ!
 夏休み 夜の京都
 オブラディオブラダ!  在宅緩和ケア連携カンファレンス
 パパふたたび・・・  あの頃の歌声ふたたび!
 起立!、礼!  芽が出た!
 ほんとに連休?  やっぱり記憶喪失かい!
 2題はしんどかった!  「シェ佐山
 リセット  Aに復活!
 またやっちゃったよ!  仕事に行きたくない・・・
 今年もよろしくお願いします!  あなたがなくしたのは?
 卒業式中止  パパカラ
 肺癌ふたたび?  パンチラ
 温泉ひとり旅(前編)  温泉ひとり旅(後編)
 いつの間にか10年!  あけましておめでとうございます!
 笑えないはなし  サクラサク
 芽がでた!  お姫様と召使い
 墓参り  学会いろいろ
 夏は避暑地に限る!  あわや大惨事!
 2等当選!  銀婚式の日に
 5研新年会  還暦
 久々の体調不良 片側のスネ
 高速廻診? スマホデビュー!
 10年ぶりの幸福  術後9年めの日
先祖をたどる旅  夏休み
 娘に講義  懐かしのハイランド
 ハードな初日  平和病院は生き残れない?
 スキルアップ研修再スタート!  頼朝と義経
 久々に患者に変身!  やはり…①
 やはり…②  やはり・・・③
 今年初めの雑感  娘の門出①
 娘の門出②  娘の門出③
 忘れるくらい?  待ち伏せ!
 ほろ苦同窓会①  ほろ苦同窓会②
 誕生日  現在30日目!
 ついに休日!  音が出るじゃないか!
宮崎教授退官記念祝賀会 ギター抱えて青山に!
 テレビの取材を受ける!①  テレビの取材を受ける!②
 テレビの取材を受ける!③  テレビの取材を受ける!④
われわれ年寄り  部屋の片づけ
 理事長退任のご挨拶  訪問診療が少し増えています
 何が起こるかわからない  CD作るぞ①
 ラジオで語る!  ライブするぞ!
 初ライブ TOSHIBAとの別れ
 初めてのファンクラブ💛  HPがかわってた!
 いつになったら・・・  久しぶり
PCR検査を受ける  褒められたぁ
 たすけてください!NEW  


たすけてください!NEW

年末年始でも緩和ケア科では毎日誰かが出勤して入院患者さんの回診を行っている。
この時期になると患者さんも不安になるのか、毎年緊急入院も多く、在宅の先生からの入院要請も多くなる。
平和病院は以前から12月29日が仕事納め、1月5日が仕事始めになる。
29日の夕方、部屋に多くのスタッフが挨拶に来てくれた。
以前は食堂に食べ物やビールが用意され、納会のようなものが開催されていたが、コロナの感染が広がってからは
3年間開催されず、病院の忘年会も開催されていない。
29日は薬剤課がピザをとるとのことで、いつも世話になっていることもあり、ふとっぱらで自分がおごることになっていた。
歌も・・ということなので6時過ぎにギターを抱えて薬局へ!
1曲歌い始めた途中で電話がなり・・・
病棟の入院患者さんが吐血したとのこと!

歌ったりピザを食べているような状況でもなく、慌てて病棟に駆け付けた。
治療がひと段落したころにはもちろん薬局は暗くなっていた
バタバタした仕事納めになった

30日と31日は自分が出番で緊急入院が4人
1日、2日は高田先生が対応してくれるので、母親や娘の家族、金沢にいる息子も帰ってきて正月を過ごすことができた。
3日、4日も自分が出勤、4日の勤務が終わり、屋上庭園の花でも買おうかと、ガーデンセンターについたとたん
病院からの電話が鳴った
緩和ケア科の患者さんとのことか思ったら・・・
緊急入院になった内科の患者さんの状態が急激に悪化し、当直のDRが応援を頼んでほしいといっている。
内科の先生に電話したが誰も来院することができない、先生、助けてくれませんか・・・という内容だった

まだ若い患者さんとのこと
自分は緩和ケア科の休日当番であるが、それはあくまで緩和ケア科の患者さんの対応あり、
すべての患者さんを診るわけではないし、
本来は当直業務、手に負えない場合は担当科医師が対応するべき問題であって、
何で自分が休日に行かなくてはいけないのか・・・との思いもあるが
当直は外部の年末年始のアルバイトの先生、対応に困っている様子であり、患者さんもかなり重症化しているらしく
看護士の声も不安げだった。
本来、設備の整った病院にお願いして救急搬送してもらうような状況なのだが、
たしかに医者ひとりではむずかしいしだろうし、手は多い方がいい
「助けてください」と言われればことわるわけにもいかない

急いで病院に戻り、病棟に行き、患者さんの病室に入ると、もうほとんど呼吸が止まりかけている、
血圧も触れないし酸素濃度も保てず、顔は土気色、もちろん反応もない!
このままではお迎えが来てしまう.転送するどころではない
急いで気管内挿管、心臓マッサージなど緊急蘇生を行い、昇圧剤など薬剤も使用し、人工呼吸を行っていると
さいわい血圧、酸素濃度も回復、わずかに反応も出てきた。
当直の先生には基幹病院に転送する準備をしてもらい、救急車を呼び、なんとか転送させることができた・
一緒に救急車に乗っていった当直医が戻るまでは留守番している必要があるの帰ることもできない、
当直医には戻ったら自分は帰るから必ず連絡してほしいと言ったはずなのに何時までも連絡がない!
あまりに遅いので事務当直に確認したら
「もう戻ってますよ!」とのこと・・
文句を言っても始まらないのでそのまま眉間にしわを寄せながら帰ってきた!

翌日、搬送先に確認したら、患者さんの状態は持ち直し、人工呼吸器からも離脱できているとのこと、
まだ油断はできないがとりあえず救命できたようだ!

緩和ケア科の入院患者さんは、状態が急変しても、気管内挿管や、心臓マッサージなどは通常行わず、症状緩和を行い
ご家族との最期の時間を穏やかにすごしていただくので、今回のような救命蘇生処置をおこない、
患者さんの命を何とか救ったという達成感は久々に感じることができた

翌日病棟に行くと、前の日一緒に修羅場をサポートしてくれた看護師さんたちが、「先生昨日はありがとうございました」
「先生が来てくれなかったらあの患者さん亡くなってましたよ」なんてことを言ってくれたので・・・
「いやあ・・当然のことをしたまでだよ、患者さん、持ち直してよかったね‥きみたちもお疲れさん!」」などと少し鼻の穴を膨らませて、いつもより大股で、さりげなくかっこつけてステーションの前通りすぎた!

病院に向かう車の中で、「なんで俺がいかなくちゃなんないんだよ!」などと思ったことは口が裂けても言えない!

(2023年1月6日)

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褒められたぁ

今日は午後に休みをもらい自動車教習所へ!
来年1月に誕生日になると恐ろしいことに古希を迎え、『高齢者ドライバー』になるので免許更新前に高齢者講習を終了していないと免許が更新できない!
講習の予約を取るのも結構大変だったけど今日受講
DVDを使った講義の後に視野角度、動体視力、眩光下視力検査の検査があり、その後に実技があり、教習所内のコースを教官の指示で10分ほど運転する。
一緒の車もう一人の講習者と同乗
先にかなりご高齢の女性がまず運転、普段運転されていないのか、えらく緊張されていて、教官が補助ブレーキを踏む場面もあり、自分が運転する頃にはプチ車酔い状態になっており、結構ドキドキしたけど・・
『大変お上手です』との言葉をいただき無事終了
家までの帰り道は心持ち慎重な運転になったのは、やはり講習の効果か?
来年の免許更新ができることになったが、さらに5年後には認知症検査も追加されるらしい...
高齢者は無理に運転するな!というプレッシャーをひしひしと感じる講習と感じたのは、年寄のひがみか?

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PCR検査を受ける

コロナ感染まだまだ猛威を振るっている
毎日ニュースでは『医療崩壊が迫っている』といわれているが、街の人出は変わらず
平和病院の発熱外来を受診する患者さんも大幅に増加しており、
陽性者も増えて自分が結果を電話で知らせることも増えてきた
現在緊急で入院が必要な患者さんに対しては外来の救急ブースで抗原検査を実施し陰性の結果を確認してから諸検査、入院になる。さいわい今までは陽性患者さんは出ず、全例入院が可能になっていた
平和病院緩和ケア科では、患者さんが状態悪化した場合は24時間365日対応することを頑なに守り、受け入れをお断りしたことなく経過できていたが・・・
先日帰宅途中に携帯を病院に忘れたことに気付いた。若い緩和ケア医が夏休み中で、すべてのコールを自分が受ける必要があるので携帯がないと話にならない
引き返し病院に着いたときにちょうど救急車が着いた。事務当直に確認すると緩和ケア科の患者さんとのことで「自分が診るよ」と着替えて救急ブースに向かった。
肺がんの患者さん、呼吸困難感,酸素飽和度は低下し、救急車では10L も使用されていた。ご家族は要介護5の娘さんで来院できず、1週間前まで近隣の基幹病院に入院して退院したばかり。訪問診療医は夏休み中、その後外出はしていないとのこと。抗原検査の結果を待つ間に診察、今思えば、ここで完全防御をしているべきだったのだが、マスクのみで対応していた。しばらくして看護師が「先生、陽性が出ています!」
残念ながら当院でのコロナ肺炎の治療は困難と判断し、受け入れ先の病院を探すことになった。当直医と一緒に、先日まで入院していた病院をはじめ、協力受け入れ施設に電話をしたがどこも対応困難、保健センター、Y-CERT、県の入院調整本部、救急本部にも連絡したがどこも対応困難、やむを得ず外来救急ブースを閉鎖し、酸素投与を継続しながら片っぱしから受け入れ先を探すことになったがどこもダメ
ニュースで見ていた状況がよもや突然自分たちに襲ってくるとは…と思っても後の祭り、結局その患者さんは受け入れ先の見つからないまま翌日の朝を迎えた。
翌朝には酸素化の状況はさらに悪化、PCR検査を実施、他の救急患者さんの受け入れをお断りするなか、県の調整本部からも連絡をいただいたので状況悪化の報告、県でも受け入れ先を探しているとのことで待つしかないが、病院としてこれ以上の待機は対応困難と判断されたため、在宅酸素を手配し、自宅待機して受け入れ施設を待っていただくことになった。
PCRの結果が陰性の場合は(抗原検査が擬陽性)そのまま受け入れることも可能なので結果が出るまでは待機していただいたが、残念ながら結果は陽性。このままもう一晩待機はできないためコロナ対応の移送サービスを手配しご自宅へと見送った。
最悪の場合、受け入れが見つからなければ在宅でそのまま亡くなる可能性もないわけではない。「見捨てる」ような状況の中、早く専門施設への入院ができるように祈りながら苦い思いで車を見送った
結局翌日に家族のPCR検査に向かった在宅スタッフが救急要請、さいわい4時間ほどで受け入れ先が見つかったと、ご家族から連絡があったときは胸をなでおろした(当院でのほぼ24時間待機の間になぜ受け入れ先が見つからなかったのか…との思いもあったが、それほど調整は微妙な段階なのだろう)
ただ、はじめに受診したときに診察した自分をはじめ、その時の当直医、対応看護師、翌日の隔離スペースで介護した看護師などは感染の危険がある。
特に自分は抗原検査の結果が出るまでしばらくの間マスクのみの対応になっていた(自分のせいではあるが)患者さんは激しくせき込んでおり、カーテンはしたが、それほど距離を置かない場所で受け入れ先を探す電話をかけ続けていた。しかも自分は高齢者、基礎疾患ありときている!感染リスクはどう見ても自分が一番高い。家にはまだワクチン接種していない家族がいるため、家庭隔離状況にし、PCR検査実施、体調は変らなかったが、結果が出るまでは気が気ではない。最悪の場合も考える。
そもそも携帯を忘れなければ、など、どうしょうもないことも考えた。
翌日に結果判明、さいわい陰性だったが、今回の騒ぎを期に、病院としての救急受け入れ態勢を大幅に見直し、救急入り口近くに待機部屋を確保し、抗原検査陰性確認まで外来に上げず、汚染を広げない体制も再構築した
『一般病院でもコロナ患者を受け入れるように』との話も出ている。平和病院では今でもポストコロナの患者さんは積極的に受け入れ、受け入れ施設で対応できない他の患者さんを積極的に受け入れるバックアップ体制にはしてはいるが、やはり陽性患者を受け入れるのはそれなりにハードルが高い。
『緩和ケア科患者さんの状態悪化時の100%受け入れ』はついに崩れてしまったが、患者さんが陰性化した場合には速やかに受け入れたい。
今回の経験で自分もまだ感染に対する油断があったことは正直認めざるを得ない、ワクチン2回摂取してあるからと言って免罪符では決してないのだから…怖い思いもしたが勉強させてもらった。


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久しぶり

先日、済生会横浜市東部病院で開催される緩和ケア研修会のお手伝いを頼まれた
いままでも毎年依頼されていたが、今回はコロナの感染騒ぎでなかなか開催されない状況が続いていた

最近では日本緩和医療学会が開催する緩和ケアの指導者講習会を受講する医師もずいぶん増え、
緩和ケア研修会を開く施設では自院でスタッフが充実し、また、以前は2日間の開催で、講義の部分も多かったが、
eラーニングが導入され、ロールプレイや、ワークショップ部分だけが集合研修になり、1日間の開催になっている

自分は指導者講習が始まる前の時期にEPEC-Oという研修を受け、その後指導者講習を受講している
かなり早い時期の受講者なので、まだ講習受講者の数も少ないため多くの病院の緩和ケア研修会のサポートを依頼された
国立がんセンター中央病院、横浜市大センター病院、横浜労災病院。済生会横浜市浜市東部病院、東海大学附属病院、
みなと赤十字病院、横浜市立市民病院、横須賀共済病など、はじめのころの受講者が、もう診療科の部長になっていたりして、ずいぶん時間が過ぎた印象がある

今回の研修会は研修1年目、2年目の若い医師限定での開催で,人数も絞っての開催になっていた
東部病院の研修医のうち何人かは平和病院緩和ケア科での研修を1~2週間程度行う場合があり、
今回の研修医の中にも、この12月から平和病院での研修が決まっている医師もいた

緩和ケア病棟そのものは増えてきているが、実際に働く若い医師はどこも不足しており、望む医療もできない場合も多い
平和病院はその点では横浜市立大学麻酔科から医師の派遣を受けているため、今のところ」恵まれた環境にある

明後日には『かながわ緩和ケアキャリアパス説明会」』といって、緩和ケア医を目指す医師向けの説明会が
横浜市役所で開催される
自分は緩和ケア医としては、年だけは上の方になってしまっている。
若い多くの医師が何科の医師になろうとも「緩和ケアマインド」を身に着けてもらいたいと思う
(2020年10月4日)


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いつになったら・・・

新形コロナウィルスは収まるどころかますます広がりを見せている
病院の診療も今までとは大きく違ってきているが・・・
私生活でも今までの暮らしは何だったの? というほどの変わりよう
講演や長年鶴見区医師会と行ってきた在宅スタッフ向けの緩和ケアスキルアップ研修も中止、
ささえ合う遺族の会「ハナミズキの会」も開くことができず、学会もすべてウェブ開催になった
本来ならマンモグラフィ読影の更新のための講習を受ける時期だったが、これも中止になり、資格は自動的に1年延長措置
プライベートではボイトレも狭い部屋で歌うことなどできず結局退会(美人の先生にも会えない!)
サックスも練習はカラオケでやっていたので、そこも営業時間短縮や休業などで出来なくなり、
横浜モアーズののクロサワ楽器のレッスンも行けず、
毎月1回銀座のスタジオで集まって練習していたバンドの活動が全くできなくなり
1月に1回集まったきり・・・
その分新しい曲はできてきて、編曲もできているのるのに、実際に集まることができず「自主練」が続いている
さらに、妻と息子は金沢にいて8月後半まで独身生活!
炊事、洗濯、買い物など家事もろもろをこなす必要があり、苦痛ではないが、時間の使い方が全く変わってしまった!
やめればいいのに、家にいる時間が多くなったので「オンライン英会話」などに手を出したので
さらにバタバタした時間が続いている
外食もためらわれる雰囲気の中、セブンイレブンのなんと頼もしいことか!
今のところ独居高齢者なので家で倒れているのを発見される…なんてことが無い様、
ひたすら感染のおさまるのを待つしかない!(2020年8月2日)


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HPがかわってた!

平和病院のHPが先月初めにフルリニューアルされたのを今日初めて知った!
以前のHPは自分が院長の時に、当時の副院長で、今は都内で開業しているS君と土台を作って、予算もないことから
安く作成してくれる個人経営の会社に依頼して管理してもらってきた

追加情報が増えてきたこともあり、ごちゃごちゃした感は否めなくなった
脊椎脊髄病センターは独自のHPを作成し、病院HPからリンクするようになったが、
明らかに病院そのもののHPより洗練されており
病院のHPの見直しは課題にはなっていたが・・・それなりの費用はかかるので実現しないまま経過していた
平和病院が東芝の手から離れ、ある程度資金の調達が可能になったのか、医療機能評価受審の時期もあったためか・・・
3月はじめにあらたにリニューアルされ、今までのイメージとはがらりと変わった「すっきりした」印象になっていた

いままで緩和ケア科に関してはそれなりに自分で記載内容を考えていたので、自分たちの提供する緩和ケアの考えとか、
連携の先生方の情報とかが今回削除されているので、消化不良のような印象もある
このサイトや、平和病院緩和ケア科のFBへのリンクは貼られているので、
細かな情報はこのサイトやFBで発信するしかないようだ。
実は平和病院緩和支援センターのツイッターも開設しているが、こちらはほとんどつぶやく時間がない!

最近このサイトは以前に比べ更新頻度が少なくなってしまい、FBでの情報発信の方が多くなってきていたが・・・
病院のHPがあっさりしてしまった分、こちらのサイトの充実も考えていかないと・・・

(2020年4月29日)

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初めてのファンクラブ💛

最近はなんのかんので人前で歌う機会が増えた
毎回思うことだが・・・歌うことは嫌いではないが、いざとなるとむちゃくちゃ緊張するので
声は震え、ギターのアルペジオの時に指が震える
講演の時などで話をするときには声は震えたりしないんだが・・・
なんとか少しでもうまく歌えるようになりたいと思い、ボイストレーニングを受けることにした。
よさそうなスクールをネットで調べて、新横浜のスクールの体験レッスンを受けたが・・・
結局、同じスクールの横浜校での月に2回のコースを選択!
受講可能な日に予約が取れた講師は、女性のC先生
初めてのレッスンで、「髙橋さんおまたせしました」との声をかけてくれた先生があまりにも美人で驚いた!
若い女性で、プロフィールによると、女性4人のボーカルグループのLuminousのメンバーで、
メジャーデビューもしているらしい・・・
予想外の展開に、いい歳こいて、緊張してしまい、余計声が震える始末!
初めてのレッスンの後はぐったり疲れてしまった
家に帰ってLuminousのユーチューブを見てみたら、ものすごくきれいなハーモニーでメンバーはいずれも美人ぞろい!
最近では松岡修造が歌うオリンピックの応援歌「CANDO」のコーラスにも参加している!
ユーチューブでファンクラブのメンバー求めています!
とのことだったので・・・しばらく迷った挙句、生まれて初めて「
ファンクラブ」なるものに入会してしまった!
まったく…何をやってるのかと、家族にも呆れられる始末・
コンサートなども聴きに行こうかなと思っていた矢先
FBやツイッターで、先日Luminousからの重要なお知らせ・・・とのことで、見てみると
C先生はめでたくご結婚され、Luminousから「卒業」するとのことだ!
え~~~!
ファンクラ入ったばっかりなのに!
家庭にに入りボイトレの仕事もやめてしまうのかと思ったが・・・こちらはしばらく続けてくださるとのことでほっとしている。
最近は基礎練習のほかに、自分が作った歌でレッスンをしてもらっている。
曲や詩に関しては褒めていただいているが・・・
歌い方になると、やはりそれなりに厳しいご指摘がある
いかに詞の内容をイメージして伝えるか…ということが基本ではあり、自分の作った曲なので、そこらはイメージ出来ていても
声の出し方とか呼吸の仕方とかはなかなかうまくいかない・・・
昨年行った初のライブについては、さいわい評判も良く、いろいろな方から、
「今度はいつですか?」と聞かれることも多く、新しい曲も何曲かできているので
自分の曲をイメージ通り聴いてもらえるように、まだまだ特訓は続く!

(2020年2月23日)

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TOSHIBAとの別れ

平和病院は医療法人ではあるが、出資は100%(株)東芝だった
創立は昭和21年、それこそ終戦直後で、その歴史は70年以上になる。
平和な世の中を…という願いを込めて病院の名前になった。
かつて、東芝は関連病院を4か所持っていた。
本体ともいうべき東芝病院、健康保険組合が運営する東芝林間病院、東芝鶴見病院、そして「東芝」の名前はついていないが、
100%出資の平和病院
東芝の経営はニュースにも再三取り上げられたように数年前に激変し、あおりを食うように東芝病院は売却された。
東芝鶴見病院はかなり前に閉鎖された。
東芝病院が売却された時、残された平和病院も同じように売却されるのでは…という思いはあったのは確かだが・・・
新病院にかかわる借入金の返済は確かに経営を圧迫していたものの、独立採算制を堅持しており、毎年東芝の資金を減らすような状態ではなく
資金繰りも改善のめども立っており、東芝からの借入金も返済を行っていたため、
足手まといになっている」とは思っていなかったが・・・
東芝は業務見直しの中で、病院運営に関しては構想外となり、ついに平和病院の売却を決定した!
病院に伝えられたのは今年の春・・・
そこからは現在の経営陣・東芝、譲渡先を決めるために東芝から依頼されたKPMGヘルスケアジャパン株式会社でプロジェクトが立ち上がった。
自分はもう理事長は引退していたが、25年近く理事・理事長として病院の経営に携わってきたこともあり、
このプロジェクトのメンバーとして参加させてもらっていた。
かなりの数の候補の中から、最終的に数施設に絞られて行く中で、
最終的な譲渡先として
(株)地域ヘルスケア連携基盤(CHCP)に譲渡先が決まり
平和病院は新たな出資者のもとで生まれ変わることになった。
CHCPに決まった最終的なポイントは、医療法人平和会・平和病院の独立性が担保され、
名称変更もなく、スタッフも継続勤務、日常の業務は今まで通り継続できる点だった。
いずれの候補者も脊椎脊髄病センターの業績に注目しており、売却にあたって田村センター長の魅力は平和病院の価値を高めたことは間違いない。
CHCPの代表取締役会長の武藤氏はひろく在宅医療を展開する医師でもあり、
話し合いの中で緩和ケアに関しても興味を持っていただいていた。
長くかじ取りをしていた病院の名称の維持には、自分としても強いこだわりもあり、CHCPの方針には賛同できるものがあった。
ほかの候補者の場合は、「吸収合併」は避けられず、病院の性格自体を大きく変えることになっていた。
もちろん、今の平和病院の運用状態は、大いに改善の余地はあり、資金の調達が十分でなかったために
あらたな設備投資も難しく
医師の不足という面はあるとしても、基本診療科の低迷は、自分が理事長をしているときからの大きな課題でもあり、
事務部門の強化も課題であった。
今後は人員の補強、借入金の一括返済とあらたな資金投入が行われ、機能強化が期待される。
緩和ケア科としてもまだまだやりたいことは多く、CHCPの武藤会長の在宅医療へのビジョンとコラボできるのではないかと考えている。
ただ・・・
東芝の手を離れることは、長くともに歩んできた自分にとってみれば、複雑な思いもある。
かかわってきた多くの東芝関連の皆さんとの想い出もある。
若い職員の中に、はあまり東芝とのかかわりを知らない者も多くなった。
平和病院はもうすぐ創立75周年になる。自分が理事長だった時、70周年を迎えたが、
資金も厳しく、派手な行事もできなかった。
当時は歴史を振り返った記念誌も・・・と考えたがそれもかなわなかったことは今でも悔いがのこる。
平和病院の歴史には、東芝が深くかかわっており、その歴史が風化しないよう、
自分の思い出せることは記録に残していければとも思う。
と、言うわけで…わかる範囲で、平和病院の歴史に関しても、このページで紹介できればと思っている。
クリスマスの日、職員に対しての病院譲渡の説明会が行われた。
動揺することなく、一人の離脱者もなく、新たにスタートを迎えた平和病院を支えていってくれることを願うばかりだ。

(2019年12月27日)

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初ライブ

12月8日は所属するバンドの初ライブ!
当直明けはさすがにきついので、前日は若いDRに交代してもらい万全の体調で!
開場は横浜関内のライブハウス
Kt Bears
お客さんが来てくれるか心配だったけど、事前予約ですでに満員御礼の状態になり、60名近くの来場者
さすがにフリーの観客ではなく、メンバーの友人、家族、職場の同僚、大学時代のサークルの仲間など・・・
全曲自分が作詞作曲したオリジナル曲
学生時代に作った曲から最近の曲まで・・・
*小さな花
*クリスマスの夜に
*春を呼ぶ唄

*通り雨
*私を乗せた舟は
*走馬燈

休憩をはさんで・・・
*希望という名の若者(ワンコーラス)
*人は川の流れのように
*ほおずき市
*ハッピークリスマス
*一緒にいられる、
*想い出の街
*思い出の景色
*青い炎
*またいつかね

アンコールで・・・
*風になるんだ
全部で16曲
すご~く楽しい時間を過ごせた!
患者さんから花束が届いたり、会場に花を持ってきてくださったり、差し入れがあったり
ライブで歌った曲のうち10曲を収録したCD「小さな花」も会場で販売し、40枚近くお買い上げいただいた!
2016年に大学時代のサークルの仲間がまた集まって始まった「Happy Time]というバンド
CDも1年以上かかってようやく完成、ライブもやろう!と決まってから半年以上・・・
何とか有言実行することができた!
自分が作った歌・・・楽譜に書いて、自分で歌っているだけではただの曲だったけど
それがバンドになって、CDやライブで聴いてもらうと、聴いてくれた人が何かを感じてくれて、楽譜に羽が生えて、
歌に命が吹き込まれたような
なんだかふしぎな感じがする・・・
特に、最近作っている曲は、大切な人を想うイメージの曲が多く患者さんやご家族へのメッセージソングでもあるものも多い
また新しい曲を加え、練習して2回目のライブを絶対やりたい!
と、思わせてくれるような、素敵な1日を過ごさせてもらい・・・
メンバーや来てくれた人たちに感謝の気持ちでいっぱい!
本当にありがとう💛
(2019年12月15日)

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ライブするぞ!


このサイトをしばらく更新しなかった間に、大学時代のサークルの仲間たちと始めたバンド、Happy Timeで練習してきた曲のCDを出そう!ということになり、さらにはライブもやっちゃう?みたいなノリで話が進み・・・
無謀?にも初ライブが決まった!

12月8日(日)
14時半開場
15時開演
場所:関内 kt.Bears


同時に全曲オリジナルのCD発売となり、練習と準備に大わらわの日が続いている
CDは修正を重ねて、先日入稿終了し、11月7日に納品になる予定!
ジャケットデザインも自分で描いたイラストにしたり、メンバーの似顔絵も描いたりと、手作り感満載の作品になる予定だ。

10曲すべて自分が作詞作曲した曲で作ることができたが、学生時代に作った曲も含まれていて感慨深い!
CD作成の様子は、改めて書こうと思っているが、ライブはやり直しがきかない。
メンバーは月に1回集まるのがやっとで練習量も豊富とはいいがたいので、どんな出来になるか不安はあるが・・・何とか成功させたい
さてこのサイトを見てくださった方で行ってみようかな…なんて思ってくださった方がいたら、、ぜひご連絡をいただきたいと思っています。
kanwa@heiwakai.comで予約を受け付けていますし、もちろん当日ぶらりとおいでいただいても結構です
多くの方々にお目にかかれるのを楽しみにしています!


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ラジオで語る!

3月15日、表参道にあるインターネットラジオ局「ホンマルラジオ表参道」で緩和ケアについて話す機会をいただいた
パーソナリティのエンジェル山田さんは、以前からの知り合いだったこともあり
30分間のトークにさそっていただいた
当日は5時過ぎから収録とのことで、打ち合わせのために3時半に表参道駅で待ち合わせ、トークの流れを確認
30分というと、講演の感覚だと短いけど、スライドを写すわけではなく
ひたすらトークで、黙り込むわけにもいかず、、ぶっつけ本番で取り直しなし!
収録後1週間でアップされるとのことだった

緩和ケアの誤解を解く」ことは自分にとって大きな目標の一つであり
このことを重点的に伝えたいとの思いがあったが、最近バンドでCD作成を目指している曲の中で、患者さんや、ご家族へのメッセージソングがあり、その「
小さな花」も」うまくいけば流してくれるとのことでUSBに落として持参した
まだ完全に修正が終わっていないバージョンだったが、そんなことは言っていられない!何とか代替の流れを確認し、スタジオへはいった
簡単な説明を受け、曲をどこでどのくらい流すか…ということになったが、終盤でエンディングとして使用し、前半はトークとかぶせ、結局はフルコーラス流してくれることになった!

自分で作詞作曲し、メインボーカルで歌いっている曲で、講演や病院の行事などで何回か歌っている
深谷赤十字病院での講演の時には、歌を聞いてくれた全く初対面の患者さんが、歌に勇気づけられたから歌詞のコピーが欲しいと言ってくださった曲でもある。

トークに関してはやり直しがきかない一発勝負で、自分が何話したかいちいち確認できないので、アップされたのを聞いてみないと、自分でも何を話したか細かいことまでは覚えていない
なんかとんでもないこと言っちゃってるなんてことはないとは思うが・・・・
すこし不安もあるなあ・・・
インターネットラジオなので、アップされればいつでも聴ける
http://honmaru-radio.com/category/honmaruomotesando/
是非、これを読んだ皆さんも一度はチェックしていただけると嬉しいです!

(H31年3月17日)

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CD作るぞ①

何年か前から大学時代のサークルの仲間たちと、「バンド」をつくり、毎月1回集まって練習している。
たいてい、銀座のスタジオに集まるのだが、8人編成で、遠くから参加しているメンバーもいて、
必ずしも毎回全員揃うわけではない
何回か「そのうちライブでも」との話が持ち上がっては実現せずに来ていたが・・・
最近、
CDを作ろう!ということになり
今まで練習してきた曲の中から先日3曲をレコーディングした
自分が作ったオリジナルで、今回は全部自分がメインボーカルの曲
①小さな花
②思い出の景色
3想い出の町

「小さな花」と、「思い出の景色」は比較的最近作った曲だが、「想い出の町」は、もう40年以上前に作った曲だ
もともとの題は「下北沢」だったが、最期の部分の歌詞をいじって題も変えた

フェイスブックにはアップして見たが、そのままCDにするわけではない
一つのパートごとに録音するので
ギターも1本ずつ、コーラスもひとパートずつ、1曲作るのに12~13パートの録音が必要になり、それをミックスして1曲に仕上げる
さらに音の修正やら音量の調整やら細かな作業をしてCDに落とす原音がようやく出来るという、
想像以上に細かな作業になった
そもそもレコーディングなどしたこともなく、当直明けのコンディションで歌うというハンデもあったんだけど・・・
(と、言い訳しつつ)
出来上がった最初の音を聞いて、我ながら「こりゃひどい」という感じで、音は下がるし、声は震えるしで、
散々な出来栄えになってしまい
手直しにずいぶん苦労をかけた
メンバーの娘さんが、プロのミュージシャンだったこともあり、修正やミックスをお願いして何とか形にはなったが・・・
先が思いやられる

10曲から12曲のCDという遠大な計画なので、近いうちにさらに3曲録音を目指している
(今度は自分の曲ではあってもメインボーカルはほかのメンバー)
今のところ全曲オリジナルを予定しているので、どの曲を選ぶか、など悩みは尽きない
どうせならもっと早くからやりたかったとも思うが、1年前まではとてもそんな状況でもなく、
これも仕事上の役を降りて余裕ができたおかげだと思う
CDにこぎつけるにはそれなりの資金も必要で、どう調達するかも課題になっている
ただ、もういろんな人に「
CD作る!」と宣言してしまっているので、後には引けない。
何とか今年のうちにCDのめどをつけて、完成ライブをやってみたい!
(H31年3月1日)


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何が起こるかわからない!

何か、久しぶりに更新した感じですが、最近はフェイスブックに書き込むことが多く、さらに、パソコンを買い替えてこのサイトを作るのに利用しているホームページビルダーをバージョンアップしたため、転送のやり方がわからなくなり、本日やっと開通…といった感じです。

先日は、緩和ケア病棟の忘年会兼、10月から中間に加わった清水裕子先生の歓迎会が鶴見で開かれた。
6時からなので、そろそろ病院を出ようとした矢先、訪問看護師から連絡があり、救急受診の要請、待機していると、もう一台救急車で患者さんが搬送されてくるとのこと。
サイレンが聞こえたので病室に行くと、緩和ケア科の若い医師がいる!
事務当直から連絡があり、店の直前で引き返してきたらしい
私が残っているのを知らなかったようで、さすがに私に仕事をさせて自分が宴会に行くのも気が引けるのか、
「先生、私がやっときますから先に行っててください」と言ってくれたので、1時間遅れで参加した

何年か前の一人で緩和ケア科を切り盛りしていた時と違い、今は常勤4人という恵まれた状況なので、前よりはゆとりをもって仕事をさせてもらっている。

料理もおいしく楽しい時を過ごせた。
若者たちは2次会などに行くのかもしれないが、最近は1次会で帰ることにしている

その日も鶴見駅からタクシーに乗った
いつもの道と違う道を勧めるので、OKしたが、明らかにかなり年配の運転手さんで、運転が荒い!
車間距離は短いし、車線変更も結構大胆だ
2国に出て、自宅のある菊名方面に右折する直前のこと
いきなり中央分離帯の縁石に激突(こする、というような状況ではなく、もろに突っ込んだ!)
かなりの衝撃の後、車は左方向に、ガードレールにぶつかり、タイヤはバースト、車体の左側をこすってようやく停車
運転席のエアバックは飛び出てくるし、車内は煙臭くなる
火でも噴いたらまず無事では済まない
「ドア開けて!」と、大声で叫び車外にでた

両膝を前の座席にぶつけたものの、シートベルトはしていなかったのに、飛び出すこともなく
興奮しているせいか、痛むところもない
運転士はどこかに携帯で電話している
出血などはなさそうだ

ほどなくパトカーが到着
自分は簡単に事情を説明し、名刺を渡して、タクシー会社が手配した別の車で帰宅した

帰ってからよく見たら、右の膝が擦り剝けており、少し出血はしていたが、他は特に異常なく・・・
いまのところ、むち打ちの症状も出ていない
縁石を乗り越えて反対車線に飛び出したら、対向車ともろにぶつかっただろうし、左に進行していた時に後続車がいたら、もろに自分が乗っている左側に突っ込んできた可能性があるし、そのまま歩道にでも行ったら誰かを跳ね飛ばしてたかもしれない

翌日、タクシー会社の役員さんが病院に訪ねてきて状況を説明してくれたが、結局なんでいきなり見え見えの中央分離帯に突っ込んだのかがわからない
居眠りか、体調でも悪かったか?
適性検査なども実施するとのこと・・・
事故車を点検したが、かなりの損傷だったようで、擦り傷くらいで済んだのはまさに奇跡的な状況だったようだ

まさか自分がこんな目に合うなんて、もし、2次会に行っていたら、もう何秒か、何分か、店を出るのが早かったり、遅かったら、あのタクシーには乗らなかっただろうし、運命というか、何か自分ではコントロールできないことに自分の命が決められている…と改めて感じた

「不幸中の幸い」、「九死に一生」
まだまだ自分はしぶといのかもしれない!


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訪問診療が少し増えています
 
平和病院緩和ケア科では従来から在宅支援診療所の先生方との良好な連携を大切にしており、
現在50施設に緩和ケア科の連携在宅医として登録していただいています

 治療病院から在宅サポートを依頼された先生方からのバックアップ依頼
(当院と在宅の先生に同時にご紹介いただくケースもあります)もありますが、緩和ケア科外来通院中の患者さんの状態悪化で、
通院が厳しくなってきた場合に、あらたに訪問診療をお願いするケースや、緩和ケア科に入院した場合、いったん改善し、
在宅復帰の際に新たにサポートをお願いする場合もあります...

 どの患者さんに対しても、緊急入院が必要な場合は24時間365日のバックアップ体制はお約束しています

 連携の先生方は、私たちが行う緩和医療のほとんどすべてをカバーしてくださり、在宅でのお看取りも含め献身的にかかわってくださっています
最近は退院時カンファレンスなどで、院内で頻繁に先生方と顔を合わせるケースも多くなってきました

 ただ、あまり状態が良くない患者さんの在宅復帰の場合、その時点で新しくお願いすることは、かかわりが大変なだけに、
患者さんやご家族の思いと、在宅の先生方のご負担を思うと、その間で悩むことも多くみられるようになっています  

 在宅で過ごしたい、在宅に戻りたいと願う患者さんや、ご家族の中には、ずっと家で過ごしたいと思う方もいれば
いよいよ辛くなったら病院に戻りたいと思う方もいて、さらにその気持ちは揺れ動きます。
実際当科では患者さんの「出入り」は頻繁で、「出たり入ったりすることは全然かまわない…」と患者さんやご家族にも伝えています
(その都度在宅のスタッフにはご迷惑をかけるかもしれませんが・・・)

 現在私たちは常勤3名、非常勤2名体制になっていますが、緊急入院も多い30~40名の病棟管理、
300名を超える通院患者さんのための外来(緊急受診を含め)もあり、サポートしてくださる在宅の先生方にも恵まれた環境にいるため、
自分たちで訪問診療を行うことは多くはありませんでした

 ただ、当院でのかかわりの継続をご希望される方も多く、長く外来に通院していた患者さんが入院して、いったん在宅復帰をする際、
残された時間が残念ながら長くはなく、特に再度状態悪化した場合に入院を希望されているときには、
外来看護師の協力をもらい、自分たちでも訪問診療を行い、患者さんやご家族の気持ちを支えるお手伝いを広げることにしました

 そんなわけで、最近は毎週水曜日(髙橋)、木曜日(川田)の午後、あまりたくさんの患者さんに対応することはできませんが、
酷暑の中、エアコンの効きの悪い車(エアコン使用中は病院周囲の坂道でアクセル目いっぱい踏んでも20㎞以上はでない)を運転し走り回っています。
(週1回で暑いなんて言ってたら、毎日訪問している皆さんには怒られますよね)

 時々、連携の先生方の診療車とすれ違ったりすることもあり、「あ~仲間だ!」と、なんだかうれしくなってしまいます。
これからも出来るだけ診療の幅を広げられるよう、頑張っていきたいと思います!
(H30年8月3日)


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理事長退任のご挨拶

本日開催された医療法人平和会の第84回社員総会で、平成12年から続けていた理事長職を退任することになりました
18年の長きにわたり法人の、そして平和病院の舵取りを任せていただき、任期中には新病院の建設という大事業にもかかわることができました

中小病院が厳しい経営状況にある中、昨年度は10年ぶりに経常収支の黒字化を達成し
安定経営への道筋をつけてのバトンタッチができましたことに、とりあえず安堵しています

在任中は全てのスタッフ、多くの皆様に支えられ、何とか大役を果たすことができました

理事長、院長に任命された直後には、はりきりすぎたのか、大病を患いましたが、何とか本日無事定年を迎えることができました

今思えばかなりハードな働き方をしたこともありましたが・・・
やはり年齢を重ねるごとに、バイタリティーや集中力、新たな取り組みに対する湧き上がるようなエネルギーが
鈍くなってくるのを止めることはできず、今回「経営」の責任者からは身を引き、
自分の専門とする「緩和ケア」分野に残ったエネルギーを集中していきたいと思います

今後に関しては、ありがたいことに、お誘いしていただいたところもいくつかありましたが、
自ら立ち上げた平和病院緩和ケア科をもう少し見守り、自らもかかわっていたい気持ちが強く、
「終わった人」として引退することなく「緩和支援センター長」として、
外来、入院、在宅の先生方との協働・バックアップなど従来の診療体制をさらに強化し、
緩和ケアの啓蒙、教育などにも力を入れ、地域としての「緩和ケア力」を高めていくため、もう少し平和病院に残り、
微力ながら地域と病院を支える力になれたらと思っています

また、平和病院緩和ケア科を中心となって支えてくれる若手医師を育成し、その成長を見守り、
老害とならぬよう、円滑なバトンタッチを目指していくことも今後の大切な役割であると思っています

皆様、理事長在職中は長い間お世話になり、本当にありがとうございました

今後とも私と平和病院緩和ケア科を温かく見守っていただきたいと思います

なお、今後は院長の増田益功が理事長兼院長となります
皆様におかれましては従来にも増してご指導、ご鞭撻を賜りますよう、お願いいたします

平成30年6月
医療法人平和会 平和病院
緩和支援センター・緩和ケア科
髙橋 修


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部屋の片づけ

最近、土曜の当直の時に、理事長室の片づけを開始している
今いる部屋は、以前は理事長・院長室だったが、去年の4月からは院長を引退し、名誉院長になり、理事長は継続しているので
理事長室と院長室が分かれている状態になっている
ただ、この6月の社員総会では理事の選任が議案になる平成12年から続けてきた理事長としての任務も退任し、
病院の経営責任からは久々に解放されることになっている
今のところ平和病院での勤務は継続し、緩和支援センター長として院内の緩和ケア科の運営、
また、地域におけるスタッフ教育、啓蒙などには関わっていこうと思っているが・・・

役を降りるので、当然いただく給与は激減してしまう。これが定年(一応医師は65歳定年と決められている)というものなのか・・・
と、少しさびしい思いもする
同じ仕事をしていても給与が減るので、モチベーションを維持するのも大変になるのかもしれない
そんなわけで、役付きでは禁止されていた「外勤」も、声をかけてくださるところがあれば、やらせていただこうかなとも思っている・・・
外科医としては使い物にならないと思うので、やはりどこか・・・在宅も含めて緩和ケアに係る仕事があればと思う

そんなわけで、今いる理事長室は6月には出なければならず、昔の書類とか、大学時代の学位論文の資料とか
経営資料、コミック(けっこうある)、ギター(2台もおいている)、アンプ(大きくはないが)、観葉植物などなど
次に移動する予定の部屋にはとても収まりそうもないので、整理せざるを得ない
もう10年以上一回も見ていない資料もあり、シュレッダーのかける必要のあるものも多く、けっこう時間がかかる
片づけている途中で、懐かしい資料が出るとついつい見てしまうので余計進まない!

一番困るのが、緩和ケア病棟のイベントの時に使うクリスマスツリーや、オーナメント、ハロウィンの人形、5月の節句の時の兜などで
病院で保管場所を確保してもらわないとかなり厳しい

緩和ケア科いつまでも自分が中心になってやっていては後が続かない
65歳ということは、それなりの転帰なのだろう・・・
少しさみしい気持ちもあるが、老け込むのも嫌だしご隠居になるつもりもなく、転帰には違いないので、日常がどう変えていくのかという楽しみもある

とりあえず、片づけはもうひと踏ん張りしなくては(平成30年4月1日)

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われわれ年寄り

だいぶ前の話…平和病院の外科症例がだんだん少なくなってきて、緩和ケア科がまだ独立していなかった時代・・
外科の外来で自費診療で「陥入爪」(巻き爪)の治療を行っていた
『小児外科』という医療雑誌に治療に関しての原稿執筆を依頼されたこともあったのでそれなりに患者さんもいて、
結構な価格設定(新患の場合は足指1本1万円!)だったが病院のホームページを見て、
一時は新幹線で静岡から患者さんが来院したりしたこともあった

最近では忙しくなり、結構時間もかかるので、治療は行っていないが、
不良肉芽がひどい場合は手術室でガター法と言われる手術も行っていた

今、緩和ケア科の診療以外、月に1コマだけ、以前からず~っと外科外来で診てきた患者さんを、予約制で診察している。
だんだん人数も少なくなり、今では全部で30人ほどになってしまった
皆さん状態は安定しているので、診察は2か月に1回程度、世間話で終わってしまうことも多い。

その中に、ずっと前に巻き爪の手術を受けた患者さんが一人
爪が伸びるとネイルサロンのように爪を削る

爪がもろい人は、爪切りを使うと、爪が折れたりかけたりするので使えない。
グラインダーで伸びた爪を削っていると(掃除機で削った爪の粉を吸い取りながら治療?するので)結構大きな音がひびく。
ふと気が付くと、私の2代前の院長(現在は名誉院長、もと外科医、80過ぎてもバリバリの現役!)がいつの間にか傍に立っていらして、
「懐かしいですなあ先生、外科で爪を削ってあげたり、治療するのは、もう『
われわれ年寄り』だけになってしまいましたね!」と・・・

「ほんとにそうですよね~」と言ってはみたものの、20年以上先輩に『われわれ年寄り』と仲間として認めていただいたうれしさと同時に、
そうか~もう『年寄りの医者』なのかと、少々複雑な思いもしたが・・・
患者さんはきれいな爪になって喜んで帰って行かれたので、深く考えないようにしよう!

(平成30年1月19日)

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テレビの取材を受ける!④

 











実際の放映のことを書こうと思いつつ、フェイスブックの更新はするのにHP更新がかなり滞ったせいで、かなり前のこととなってしまい、記憶もあいまいになってしまったが・・・
放送の日は家族全員でテレビの前に集まり、どんなものになっているのか(事前に確認はさせてくれない)ドキドキしながら画面を見つめた!
癌にかかった医療者が何人か登場する中のひとりだ
他の人たちは、食事療法が主な内容だったりしていたが、自分は「家族への告知」に焦点があてられた構成になっていた。
妻にはどう伝えたか、その時の反応は・・・子供たちにはどう伝えたか・・・
実際の放映時間は10分くらいだったか・・・その中には再現ビデオも含まれるので、自分の画像が流れるのはもっと少ない
妻や娘や息子は写真で登場するだけで、後は再現ビデオだ
息子役や娘役のタレントも「写真と似たような感じの子役」を選んだとのことだが・・・
娘は、自分役のタレントさんに対抗意識を燃やしたのか・・・
「え~~っ、これが私なの? 絶対あの頃の自分のほうがかわいかったよ!とその点ばかりに集中し、話の内容は入ってこない様子だった。
息子を演じた男の子は結構イケメンだったのでそのことも気に食わないらしく、「ずるいよ!」と、おかんむりだ
病気がみつかった時の気持ち、家族への告知など・・・実際のその時の気持ちは、このページにも、「
入院・手術体験記」として詳しく書いてあるので、
もし興味があれば見ていただきたい!
サックスの演奏場面は全面カット、サックスを「持って」語る部分が数秒!
銀座で撮影した、バンドの練習場面も2時間近くカメラは回っていたのに、実際に写ったのは10秒くらい!に編集されていたが・・・
患者さんと話している自分の顔が結構気に入ったので(写真の真ん中)講演のスライドやFBのプロフィール写真に使っている
いちばん印象的だったのは妻が、告知の場面を見て涙ぐんだことか・・・
すいぶん昔のことになったようでも、やはりその時の印象は強烈だったことを改めて感じさせられた。
その後・・・放映があった数か月は、多くの患者さんから「先生テレビ見ましたよ」と言われた。
初めて受診する緩和ケア科の医師が、同じような病気を経験しているということは、それなりにインパクトがあるようだった。
その意味では、受診のハードルを少し下げられたのかとも思う。
いずれにしても、病気なんてならないにこしたことはないが、緩和ケア医となった大きな転機になったのは間違いないのだから・・・
このテレビ番組で、「病気になった自分」を改めて見直せたことはよかったのかもしれないと思った。

さすがに今になって、このテレビのことを覚えている患者さんもないと思うが、先日、ある出版社から取材のお話が合った。
集合」という医師向けの医療雑誌で「病気になって分かった患者のこと」という特集があり、2月号、3月号で掲載されるとのことで、
先日ライターとカメラマンが来院し取材を受けた。
どういう記事になるのか楽しみだ!
(平成30年1月1日)

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テレビの取材を受ける!③

 自分の再現ビデオが撮影されるという、何とも不思議な感じだったが、
 自分役の俳優さんももちろんだが、妻役の女優さんも病院にやってきた
「イメージが似ている」俳優さんを選んだとのことで・・・
実際の俳優さんとのツーショット写真も撮ることが出来た!
ふだんは画像も電子カルテで見るのだが、
実際の自分の病変のX線写真も、シャーカステンにつけて撮影された
気管支鏡の検査の手配をしてくれたり、治療の相談をした日産玉川病院の
栗原先生役の俳優さんも来て、告知やら、妻に病気のことを話す場面などが撮影されていく。
自分役の俳優さんが、妻役の俳優さんに伝える場面・・・
もちろん撮影は平和病院で撮影されているので、当時とは全く違う雰囲気ではあったが・・・
遠くから、妻への告知の場面が撮影されている2人を見ていた。
夕暮れ時の少し暗くなりかけた人気のないホール
病気のことを妻に告げる自分!
もう10年以上前のことだったし、普段はもうあまり思い出すことも少なくなっていた場面が、現実に目の前で再現されていくのを見ていると、
初めはミーハー的にはしゃいでいたが・・・あれっといった感じで、何だか無理やりタイムスリップさせられたような気分なってしまったのには驚いた。
そうだよな・・・そうだったよな・・・やっぱりしんどかったよな・・・などなど・・・実際の放映ではどんなイメージになるのかその時にはわからなかったが、
今では日常生活の中に紛れていた、少し辛かった時間の想い出がよみがえって複雑な想いだった。
手術場に運ばれる場面も手術室を使って撮影された。
あの時、横になって流れていく天井を見ていた感覚、麻酔医の顔、遠ざかる意識の感覚までがよみがえる。
自宅での場面や退院した日に出かけた息子の授業参観の場面などは、別の場所で撮影されるらしい。
かなり長時間(土曜の午後を使って、夜まで)撮影は行われ、後は編集、放映を待つばかりとなった。
(平成29年4月30日)

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テレビの取材を受ける!②

撮影は自分自身がインタビューを受ける部分と、俳優さんが当時(12年前)の自分や妻や子供や、
相談に乗ってもらった日産玉川病院の栗原先生役を演じた「再現ビデオ」で構成されるとのことだった。
取材も、再現ビデオの一部も平和病院で撮影されるとのことで、
患者さんがいる時間帯を避け、土曜の午後、日曜に行われることになった。
まずは自分がインタビューを受ける部分の撮影が行われた。
当直明けの日曜の朝8時半から、緩和ケア病棟モーニングカンファレンスの撮影が始まった。
そのあと、病棟ホールでの患者さんとの会話(患者さんは顔を移さずに後姿だけ)
看護師さんも患者さんも、撮影に協力するという承諾書が必要になる!
外来で、当時の自分のレントゲンフィルムを見ながら、外来の診察室、院長室、手術室など・・・
場所を変えながら、当時考えたこと、診断までの様子、家族への告知、手術までの経過、手術後の様子などなど・・・
ディレクターさんが質問した内容に答えていく。
出来れば奥さんと娘さんにも話がききたい、自宅での食事風景などもとらせてもらえれば・・・
などの話もあったが、妻が「絶対に写りたくない!」とのことで、そのシーンは撮影されず、没になった。
どうやら食事に気を付けたこととか…に話を持っていきたかったようだ。
実際の放映では私が映る前の部分に、同じようなサバイバーの先生が出演し、
食事に関して語っており、自宅の様子も奥さんと一緒に写っていた。
かなりの豪邸で、それを見ていた妻は、
「あ~よかった!、うちみたいなこんな狭い場所で、食事だってどこにでもあるようなもんだから、撮影されてたら大恥かくところだったわね!」
と、胸をなでおろしていた。
それはともかく、
病院での撮影は5時間以上におよんだ。
さらに、今ストレス解消法として何をしているか・・との話になり
大学時代のサークルの仲間とバンドを組んで練習していたり、サックスを習い始めていることを伝えると
練習風景(バンドは銀座、サックスは新横浜のカラオケボックス)を撮影したいということになり、
この部分は別どりで、違う日に各1時間以上かけて撮影が行われた。
バンドの練習は当直明けの日曜の午後、銀座のカラオケボックスをテレビ局が予約してくれて
何時もより広い部屋で練習できたのでラッキーだった!
バンドの仲間には事情を説明し、また承諾書を書いてもらい、練習風景を撮影された。
練習している曲はオリジナルもあり、自分の作った曲が、全国ネットで流れるのか!!との期待もあり
熱を入れて練習したが・・・・・
さらにサックスの練習風景も、実際のサックスを吹いているところを撮影され、その場でのインタビューも追加撮影された。
それぞれが2時間近くは撮影していたので、総撮影時間はかなりの時間になった!
サックスは気合を入れすぎで、きれいな音が出ず、できれば流してほしくない状況になってしまった。
カラオケボックスも予約してくれ、待ち合わせをしたが、いつも行っている店の店員さんが、
サックスの撮影と聞き、「有名な方だったんですね!」などと言われてしまい・・・
返事に困った!
初めの話では、スタジオ収録に来て、サックスを吹かないかとも言われたが、さすがにビビッてお断りした!
自分のインタビューが撮影された翌週の土曜には再現ビデオの撮影が病院であり、
実際の撮影をすべて見ることが出来た。
(つづく)(平成28年10月23日)

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テレビの取材を受ける!①

少し前のこと、自分が顧問をさせていただいているNPOの理事長から連絡があった
テレビ局から取材の依頼が来て、サバイバーの医療者を紹介してほしいとのことだったようだ。
患者さんやご家族のためになる企画なら、お役にたってもいいとお伝えし、その後直接メールで連絡を取るようお願いした。
「がん」は最近芸能人が次々とカミングアウトし、視聴者の関心が高いのだろう
今回もがんにかかり、その後社会復帰している医療者ということで白羽の矢が立ったようだ
自分のほかにも医師や看護師、芸能人など何人かの取材を行い、その様子を放映し、
がんにかかった人、そうでない人にも何らかのメッセージを・・・という企画らしい。
自分は知らなかったが、テレビ東京で放映されている番組の秋のスペシャルとのことだった。
とりあえず、担当の人とアポを取り、病院で話を聴くことになった。
当日は3人がやってきて、番組の内容、どのようなことを伝えたいか、私がどのようなことを話したり伝えたらいいのかを聞いてみた。
癌になって何を感じ、どう対応したか、その時の様子は、何を支えにしたか、その時のエポソードは
現在がんを克服して何か変わったか、何を支えにしているかなどなど・・・
自分だけではなく家族が何を感じたか、どう伝えたか、も取材したいとのことだった。
その日は簡単に話をして、後日正式に依頼するかの連絡をくれるとのことだったが・・・
何日かして、ぜひ取材をさせてほしいとのことになった。
まあ…根がミーハーなので、つい乗り気になってしまう。
テレビはずっと前、「所さんの目が点」に2回ほど、ほんの何秒か写ったことがあるが(病院で撮影が行われたため)
今回は少し長い取材になりそうな感じだった。とりあえず病院の中で話を聴きながら撮影もしたいとのことで、土曜に来てもらうことになった。
院内の施設使用なので事務長にも話を伝え、スタッフも付き合ってもらうので、看護部長にも調整してもらうなど、けっこう大事になってきた(つづく)

(H28年9月4日)

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ギター抱えて青山に!

昨日、大学の時のサークルの、自分と近い年代で開かれる同窓会が青山で開催された
土曜だったが、あらかじめ当直を外してもらい、事情を話して仕事を切り上げ、早めに出かけた。
今回は、幹事の発案でリクエスト企画というものがあり、歓談の合間に何人かが事前のアンケートによってきめられ、歌うことになっていた
自分も選んでもらったので、ギターを抱えて出かけた。
最近月に1回同じサークルの後輩たちと、おじさんおばさんバンドを組んで練習していて、
あわよくばどこかでそのうちミニライブでも・・・と大それたことを考えている!
そのバンドで今練習している、昔のオリジナル「
走馬燈」もリクエスト曲の中に含まれていた。
「走馬燈」は自分にとっての最後のコンサート、
今はつぶれた渋谷の「ジャンジャン」で歌った思い出がある(メインボーカルは「エメロン」というあだ名の子が歌っていた(今のバンドのメンバーでもある)
残念ながら、リードギターとフルート担当のメンバーが仕事で参加できず、しかも人前で歌うのは、結成してからはじめてなので、
いくら仲間の前とは言い、けっこう緊張した。
その前にはやはり自分のオリジナルの「
通り過ぎる季節に」というのも弾き語りで歌わせてもらった。
♪お前はいつも言っていたね
秋の風が冷たすぎて、私の胸に入り込み
心のロウソク消しそうだと・・・

お前はいつも聞いていたね
日々に近づく冬の中に、氷と雪に閉ざされた
誰かの心の叫び声を・・・・・♪

というような感じの詞で、もう40年くらい前に作ったことになる!

この日のために、というわけではないが、最近はギターを弾くことが少し多くなったので(仕事で少し余裕も出来たせいもあるが)
前からほしかったK・ヤイリのギターを思い切って買ってしまったので、その日は初めて持ち歩いて青山まで出かけて行った。
まあ、いい年をしたおじさんが若作りをしてギターを抱えているという、完全に「年齢に抵抗している感」が半端でない感じではあったが・・・
同窓会は2年ぶりに開催され、懐かしい顔が集まった、昔の写真がスクリーンに流され、
 自分のイメージもこんな感じの時だったので
 今さらながら、年を取ったもんだということもいやというほど感じさせられることになったが・・・
 まあ、気持ちだけは若く!
 一次会の後は、原宿のカラオケになだれ込み、楽しい時間を過ごさせてもらった。
 次回は2年後の開催という予定だが・・・
 2年後の自分はどんな感じになっているのか、皆目見当もつかない
 最近は年甲斐もなく、学生の時のようにオリジナル曲もポツポツと作り出しており・・
 サックスのレッスンも始めてしまうなど
どう見ても老いに抵抗しているとしか思えない状で、着る服にしても、なんだかだんだん逆に派手になっているような気もする!
若いときはそれが当たり前で、何も不思議に感じなかったし、2年後の自分は明るいイメージが多く
ましてや、「2年後に、この世の中に存在しているのだろうか…」など、これっぽっちも感じていなかった。
ポケモンGOをインストールしちゃったり・・・
何をやってるんだか・・というような今日この頃ではあるが
仕事は仕事で意欲は衰えることなく続けられるということは悪いことではないとは思うし、
いろんなことをごたごた始めたことで、仕事のモチベーションもキープできているのかもしれない。
院長室には、別のアコースティックギターと、サイレントギター、アンプなどがおいてあり・・・
当直の夜は、一人コンサート状態の今日この頃(仕事もしてますよ!)
勉強もしないとなあ・・・
(平成28年7月24日)

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宮崎教授退官記念祝賀会

5月15日、千葉大学医学部臓器制御外科の宮崎勝教授退官記念祝賀会が、幕張のホテルで盛大に開催され出席してきた。
毎年開催される同門会をはるかに上回る出席者で、おそらく400人以上はいたのではないだろうか・・・
退官後はのんびり…というわけにもいかないようで、三田に病院を持つ某大学の副学長、三田病院長に就任し、新たに成田に開校が予定されている
医学部の立ち上げにも関わり、さらには4年後に開設されるその大学の附属病院にも関わっていくという
まさに、パワー全開といった感じで、とても自分も疲れたとか、忙しいとか言うのが恥ずかしくなるような感じさえ受ける。
出席者の中にはもう10年以上もお会いしていなかった先輩の姿もあり、
同級生も、開業してすでに引退を考えているもの、自分と同じ現役の病院長、週3日だけ老健施設で働き、後はのんびり余暇を過ごしているもの
人間関係のしがらみで、不本意にも病院長のポストを離れ他院に移動するものなど・・・
人生いろいろ・・
病院長の定年となった先輩方も次々に引退し、、世代交代が一気に進んでいる感じも受ける。
かつて平和病院に外科で派遣されていた若い先生たちも、それぞれの病院の中心的な役割を担っている
挨拶に来てくれたが、成長した姿を見るのは頼もしくも、うれしいものだ!
そのぶん自分も年を取ったと感じさせられるが
それにしてもまだまだ若いイメージの人と、え~ずいぶんふけちゃったな・・と思う人が、極端なような気がして・・・
何が違うんだろうと考えてしまう。
もちろん体調そのものを壊した人も多いのだが、それだけではないような感じなので、
自分も何とか歳以上には老け込まないようにはしたいと思う。
この4月からは仕事そのものは少しハードでなくなったぶん、若さを保てるか、逆に老け込むか…微妙な気もするが
来週は宮崎先生と何十年かぶりにプライベートでお付き合いしていただく予定になっており
公の席では決して話せないような昔話も楽しみたいと思っている。
今後もお元気で活躍される姿を我々後輩に見せていただき、元気を与えてもらいたいと願っている
(平成28年5月15日)

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音が出るじゃないか!

何か月前からか突然サックスのレッスンに通い出した。
月曜の夜、隔週に横浜駅近のスクールに通うときには、何が何でも定時に帰るようにしていた。
楽器は入会の時、保証金を払えば、1年間は無料で貸し出し、1年レッスンを続ければそのままもらえるというシステムで
そのサックスを使っていた。
何回レッスンを受けても、どうしても低い音、ドとかシがまともに音だし出来ず、長く音を鳴らすことも出来ない。
高い音になると、半音以上音が高くなり、口の形とか舌の位置とか、息をふく方向とか、最近は、基礎のレッスンばっかり続けたが、
ど~~~~してもうまくふけない!
こんなに難しい楽器だったのかと、始めたことを後悔してきたが・・・
先生もおかしいと思ったのか、先日のレッスンの時、使っている楽器を、自分が吹いているときに
指で色々なところを押さえはじめたら・・・
あれ!
なるじゃないか!
腕も確かに悪いのだが、楽器もさすがに無料提供ということもあるのか?
どうもおかしい・・ということになり、楽器屋さんに点検してもらいにいったら…
これ…低い音の部分が全然閉まってないですもの・・・
と、光の出るファイバーみたいなものを楽器の中に入れて見せてくれた。
光が漏れるはずのない部分から、明かるい光がはっきり見える!
「これじゃあプロに音出せったって、出ませんよ!」と断言されてしまった!
治すのにどれくらいかかるかを聞いてみたが・・・
25000円くらいとのこと・・・
治せといえば治しますが・・といった感じだったので、先生にも相談したところ
新しいのをそろそろ購入してもいいのかもしれませんね…とのこと。
生徒さんたちがよく使っている機種を聞いて楽器屋さんに行くと・・・う~~ん、けっこうなお値段!
ちょうど緩和ケア科に新しく2名が来てくれたので、少し時間に余裕もできる時期でもあり
このまま音のならないレッスンを続けても、曲が吹けない状況であったので・・・
ムチャクチャ迷った挙句、清水の舞台から飛び降りるように新しい楽器を購入してしまった!
新しい楽器でのレッスンはまだ受けていないが、。先日時間を見つけてカラオケに行き、初めて音を鳴らしてみたら・・・
えっ、あれだけいろいろやっても鳴らなかった音が、出るじゃないか!
高い音だって普通に吹いても外れないし!
しかも息も続くし・・・なんだよ!
そうだよなあ・・・光が漏れるってことは息だってもれちゃってんだから・・・
と、いうわけで、新しい楽器を手にしたため、もうサックスは続けざるを得ない状況に自分を追い込んでしまった。
ただ、最近は昔の学生バンド仲間と月に1回集まって練習するのも始まったから(今日も銀座に練習に出かけてきた)ギターだってほしいのがあったのに
当面は、我慢して今の超入門者用のギターを使うことになった。
でも、考えてみればこんなことが出来るようになったのも、緩和ケア科のスタッフが充実したおかげなんだろう。
確かに最近は生活パターンが一変したような感じで、(これが当たり前なんだろうが)何か「悪いことをしている」ような感じで落ち着かない!
仕事が終わって病院を早く(といったって7時は過ぎてるが)出るのも、なんだかおどおどしちゃうので、
これではいかんと思い直し、今はリハビリ期間と考え、仕事が終われば「早く帰る」ことにしている
とりあえずは、「音の出る」サックスを手に入れたので、練習に励んでみたい!
(平成28年4月24日)

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ついに休日!

ついに4月1日、新しい緩和ケア科常勤医師が2名着任した!
1日は金曜日で本来は研修日となっていたが、やはりいきなり仕事をお願いしても出来ないので、
何時ものように出勤し、オリエンテーションを行った
そしてついに・・・
長かった76日間の連続勤務が終わり、明日は77日ぶりの完全OFF となった。
1年の5分の1以上を休まず勤務したことになる・・・はっきり言って常軌を逸しているとしか思えない!
新人…といっても一人は緩和ケア病棟勤務経験があり、もう一人は近隣病院の外科から転身したベテラン医師だ
仕事ぶりも申し分なく、何しろまじめで他のスタッフからの評判も上々だ。
ただ、今までほぼ一人でこなしていた仕事を単純に3人でシェアするのでは、楽にはなるだろうが発展性がない
出来ていなかったことをこなし、遅れていた対応を早め、
より多くの患者さん、ご家族がたどり着けるようにしなくてはならない。
ただ・・・やはりONとOFFの切り替えは大事だ・・というのはわかっているが、
もともとのワーコホリックなのか、あまりにも連続で勤務したせいなのか・・病院に行くことが「
あたりまえ」になってしまい・・
いざ、完全にOFFになって、あれをしよう、、これをしよう…との楽しい計画が直ぐには出てこない!
これはまずい・・・
とりあえず、今日はビールでも飲み、明日はのんびり過ごすとするか
この連続勤務の中で一番きつかった時期は、3月半ばあたりだったか・・・対応能力や実績を落とすのは意地でも避けたかったので
多少無理をしたこともあり、気持ちも「穏やか」というわけにもいかず・・・
スタッフには迷惑をかけたと思っている。
そんな中で、大学時代のバンドの仲間に当直明けの午後に会い(途中でさんざんコールがあったが)、復活の練習を少しやったことは
随分と気分転換になり、残りのスパートのパワーをもらった。
今月は慣らし運転として、来月からはフルパワーで緩和ケア科の業務を盛り返したい。
新しいギターもほしいし、サックスの練習もしなくてはならないし、キーボードもほしくなってきたし、ベースも…など、頭にはいろいろ浮かんでくる
春になって庭の花や盆栽なども手入れが待っている
やっと日常の、当たり前の業務に戻れた幸せを、大切にしたいものだ
無理をした体が、ほっとしたことでガタガタにならないことを願って・・
(平成28年4月7日)

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現在30日目!

緩和ケア科常勤の林医師が休養中で、3月末で退職となった。
緩和ケア科の常勤は自分と林の2人で対応していたので、1人ぬけられると、2-1=1で、すべての業務を一人でこなすことになる
平和病院緩和ケア科は地域の中の緩和ケア提供の中心となっており、年間新たにご紹介いただく患者さんは750名を超えるまでになっている。
外来も週3日は行い、緊急対応はいつでも行い、緩和ケア病棟だけでなく、一般病棟、療養病棟にも入院患者さんがいて
増減はあるが常に30名ほどが入院している
患者さんの状況は変わるので、必ず毎日の廻診が必要で、日曜、祭日は関係ない。
毎週土曜日は原則として当直をしているので、自分の労働状況はかなり厳しくなっており、医師になって35年以上になるが記憶にない!
丸々休める日は1月末から皆無となり、本日で
連続30日目の勤務、この間当直7回、土曜の早番3回、水曜の残り番3回をこなした。
もはや曜日の感覚はなく、一般職員がこの勤務をすれば、定められた労働時間を軽くオーバーして指導ものだ!
ただ自分が理事長であり、病院の開設者の場合は、当てはまらない?らしい・・・
体はつらいのだろうが、アドレナリンが出ているのか、ランナーズハイのような状況なのか・・・
変に高揚している自分が怖い!
緩和ケア科としての対応を落とすわけにもいかず、2-1=2+にしようと意地もありフル稼働状況だ
イライラしたところを出さないように、かえっていつもよりスタッフとの会話や電話の対応には気を使ってしまう。
家に帰るとさすがに食後にあっという間睡魔が襲ってくる!
4月には新たに常勤医師が2名着任し、10月にはさらに1名増員にはなるが、新しい医師が馴れる4月1週目までは休みが取れない状況は続く、
あと40日以上も残っており、まだ折り返し地点にも達していない。
もう63歳なので、若作りはしても体力は落ちている分、気力で補うしかない!
幸いスタッフも気遣ってくれ、最近優しくしてくれる(気がする)ので、何とかこのまま乗り切れることを願っている!
今つらければ、4月からはパラダイスの様になるのか・・・・
少し落ち着いたら連続して何日か休ませてもらい、充電できることを願っている。
(平成28年2月21日)

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誕生日

1月20日は誕生日だった
63歳という年齢には、自分でも年を取った…と感じざるを得ない

(87歳になる母から電話をもらったが、63歳の息子がいることが信じられないそうだ・・・)
ついこの前、還暦の赤いちゃんちゃんこを着たばかりだと思ったのに・・
まあ、12年前には大病を患い、今のところ再発、転移もなく経過しているのだから、これからも1年ごとを大切にしていきたい。
まだまだ息子はスネカジリの身で、悠々隠居というわけにもいかない
緩和ケア科の常勤医師からは退職希望が出ており、4月には新しく着任予定はあるが、これから年度末にかけては
今より多忙になるだろう。
来月は5回の当直、日曜祭日はすべて出番で午前中は勤務していることになる。
現在緩和ケア科の常勤は私を含めて2人になってしまっているが、もう一人は、子供さんの都合や体調不良の理由で突然の欠勤があり
午前、午後の外来がある日に突然休まれると、病室にいる30名ほどの患者さんの廻診、緊急外来対応、新規入院など
それこそ食事も満足に食べられない状況になる。
こんな状況が果てしなく続けば、さすがに長生きはできないな・・・と感じてしまう。
最近はフェイスブックに投稿することが多く、このホームページの更新もペースダウンしており、
最近あまり更新していませんね…などと患者さんに言われたりする!
誕生日の日にはFBでは多くのお祝いのメッセージをいただき、とてもうれしかった。
20日は水曜で「遅番」、外部の当直の先生が来るまで帰れない。
といっても、たいていは7時過ぎまでは帰らない(帰れない)ので、遅番をすることが多い
他の先生たちは、遅番の手当ては出るが、自分がやれば年俸制なので手当ては出ない
病院経営にとっては人件費削減にはなるが、やるせない気持ちもある
娘はもう嫁いでいるが、火曜、水曜は菊名の近くの病院で勤務しており、
朝は菊名の駅で待ち合わせ、勤務先まで相変わらずのアッシー君状況になっている。
まあ、週2回は娘に会えることは悪いことじゃない!
その日は娘がケーキを買って家に来てくれた(来てくれた…というところで、ああ、嫁に行ってしまったんだな、と思う)。
家族4人で短い時間でも過ごせたので、何よりのプレゼントになった。
平和病院の定年は65歳なので、もう残り少なくなっている。
着任が平成3年なので、もう25年も務めたことになる
着任したときの姿と、今の病院の姿は大きく変わっており、自分の仕事の内容も一変した
この年になってもまだまだ仕事の上でやりたいことがたくさんあることは、悪いことではないと思うし、
歳を重ねるごとに、お付き合いも増え、その方々が、自分に飛躍のチャンスを与えてくださる。
昔の仲間がバンド復活の動きもあり、ぜひ参加したいと思うし、体がいくつあっても足りない!・・・と思うのはもう性分なので、
体がいうことを聞かなくならない限り、このペースは続いていくのかなとも思う。
病院の経営責任者でもある以上、厳しiい収支の現状を立て直すことも大きな責務になっている。
今年は自分とって「八方ふさがり」の年だそうだ。
安宅の住吉神社のお守りを身に着け、何とか無事に切り抜けていけることを願っている!
(平成28年1月22日)

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ほろにが同窓会②

駅から降りてしばらくすると区役所が見えてきた
少し時間が早いので中に入らず、入り口近くの小さな公園のような場所で時間をつぶそうとしたが・・
木陰のベンチに自分と同じくらいの年齢のカップルが座って、話していた。
時々笑っているような声も聞こえる、何だか仲よさそうじゃない…などと思っていたが
しばらくして、そのカップルも、区民会館に入っていった
あれ・・・ひょっとして
少し遅れて自分も会場に入って受付のところに行くと、案の定、さっきのカップルはRちゃん夫婦だった!
何十年かぶりに会ったRちゃんは、確かにそれなりの年齢を重ねていたが、黒のシックな衣装に身を包んだイメージは
まぎれもなく中学の時のあこがれのRちゃんであったが、
隣にはガードするような鋭い目で(考えすぎか・・・?)ご主人が寄り添っており、別に気にすることもないのだが、
どうも気おくれしてしまい、ドギマギしてしまう
クラス会なのだから、当然自分と同じ年の連中が集まるので、あまり爺にはみられたくない!
少しでも若作りに…という気負いもあり
明るいエンジのスリムフィットのズボンに、辛子色のジャケットという、けっこう派手目の色彩で出かけたのを少し後悔したが・・
「あっ久しぶり、元気だった?」
などと全く当たり障りのない言葉しか出てくることがなく、
顔もまともに見れない根性なしの状況に陥ってしまい
早々に自分たちのクラスの席へと移動してしまった。
同級生たちからは「Rちゃん来てるわよ、話してきたの?」などといわれるところを見ると
それなりに当時は「うわさ」はあったのかもしれないが、結局振られてんだからな!
今思えば、昔の中学生なんて、純情だったよなあ・・・
手もつないでないんだからな・・・(って、相手にされなかっただけなんだが)
そもそも、自分が女の子と初めてデ~トしたきっかけだって、「
映画雑誌の文通」から始まったという、化石並みの展開だからね!
それはともかく
クラス会の時には、自分の通っていた学校がすでに廃校になり、統合されてしまったという衝撃的な事実を聞かされた。
懐かしい話に花が咲いたが
最後には出席者全員での記念写真を撮影し、先日その写真が送られてきた
その日には、あまり感じなかったが、写真は実に正直で、自分も含めて写っている姿は、皆がそれなりの初老の男女であり
ただ・・・その中でもRちゃんの姿は
その部分だけが鮮やかに写っているような感じがした。
初恋はレモンの味!
という飲料水のCMも昔あったが・・・
当時の流行の飲み物は「チェリオ」であり(知ってる人は少ないかな・・・)
会も終了し、それぞれが、またの出会いをいのって現実の世界に戻っていった
(平成27年12月4日)

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ほろ苦同窓会①

先日中学校の同窓会があった
自分は地元の公立小学校に通っていたが、そのころはまだ珍しかった中学受験(クラスの4~5人しか受験はせず、ほとんどが地元の公立中学に進学した)
だったが、残念ながら、すべて玉砕(といっても教育大駒場:今の筑駒と麻布だけ受けて、いわゆるすべり止めは受験しないという
母親のムチャクチャ強気の作戦が原因だったとも思うが・・・)
このため、中学は地元の公立には通わずに、いわゆる越境といって、
当時は高校受験の実績が高いといわれていた世田谷区立山崎中学に進学することになった。
小田急線の梅ヶ丘で降り、少し歩く場所にあったが、
国士舘大学も近くにあった
今でこそ子、国士舘も普通の女子大生も通う大学になったが、
当時は(もう半世紀前!)は学ランを着て、ほとんどが角刈りで先輩後輩のけじめが厳しく、「オス!」の声が町中に響く、硬派で中学生から見れば
めちゃくちゃ恐ろしい学校だった。
同じ小学校の、同じクラスからもRちゃんが同じ中学に通っていた
Rちゃんとは小学校の時はず~っと同じクラスで、彼女は途中で神戸に転校したが
また戻ってくるまではずっと「文通」していた。(恐ろしいことに、今でもその住所を暗記している!!)
確か小学校5年の時に戻ってきたときも同じクラスで、
英語の家庭教師の先生の所にも二人で通い習っていた(二人だけで!)
帰るときは、わざわざ駅まで送っていったこともあったが、まだ当時の「純情な」小学生は、手を握ることさえできなかった。
中学に入ってからは、同じクラスになることはなかったが、越境組は多くはなかったので電車で一緒になったりすれば、ときめくものがあった。
中学の時の自分は肥満児だったので、あだ名も「マル」といわれていた。
運動が苦手で、剣道部に入ったものの、すぐに挫折
特に夏のプールの時間は、プヨプヨの身体をさらすことが恥ずかしく、しかも泳げなかった!
水泳大会などは地獄だったな・・・
マラソン大会などは、もちろん得意なわけがなく、、完走するのがやっとだった。
受け持ちの先生から、「マル、遅いほうの代表で文集に体験談を書いてくれ!」などと無茶ブリをされたこともあった
中学でモテルのは、やっぱり運動部でスリムな体型の奴というのに相場が決まっている
実際、中学の時にはま~~ったく女子からは相手にされなかった。
当時は、今はほとんど行われなくなった「フォークダンス」が昼休みなどに行われていた。
オクラホマミキサーとか、マイムマイムなんてえ曲だが、
女の子と堂々と手をつなげる数少ないイベントは、モテない中学生にとってのパラダイスだった!
相手がどんどん変わっていくのだが、当然Rちゃんも参加しており、
踊りながら、Rちゃんまであと5人、あと4人…など数えていき、少し手前で曲が終わった時には、猛烈に自分の不運を嘆いた!
いわゆる「初恋」だったんだろうが、結局告白することもなかったし、進展もなく別々の高校に進んでいった。
自分は渋谷から今の日赤医療センターまでバスに乗り、そこから10分くらい歩いた高校に通った。
「学バス」といわれ、実践女子、国学院大学、東京女学館などの生徒がぎゅうぎゅうになって乗り込む、
むさくるしい男子校の生徒にとっては女学館の生徒たちは、目もくらむまぶしさだった!
そのバスに、ある日Rちゃんを見つけた!
都立高校に通っていたのだが、同じバスを利用しているようだった。
今考えると、なんと意気地の無いことか、声をかけたい気持ちばかりがMAXになっているのに、一言も声をかけられなかった。
自分は高校2年くらいから急に背が伸び、いわゆる肥満体型ではなくなったのだが、
Rちゃんは少し大人っぽくなり、女学館の生徒たちのなかにいても、ひときわ輝いて見えた!
中学の時には仲のいい同級生が二人いた
大学になってからも付き合って、一緒に遊んでいたが、残念ながら一人は大きな電車事故で亡くなり(たった一人だけ亡くなったのに、そいつが友人だった)
もう一人は、何年か前に癌で亡くなってしまった。
その友人たちと会っていたときに、Rちゃんの話題になり、今は中学の同級生だった○○と付き合ってんだってよ!・・と聞かされた。
その時には、自分にも彼女はいたのだが、それはそれ!
ものすご~~いショックを受けたことを覚えている。
全く知らない相手ならともかく、「ど~きゅ~せい~!」という感じ。
結局Rちゃんはそのまま結婚した。
さて、話は戻って同窓会
同じクラス(3年F組)の同窓会は何年か前に原宿で開催され、それには参加した覚えがある。
RちゃんはA組だったのでもちろんその会には出席しない
還暦を迎える年には今回と同じような学年同窓会が開かれたのだが、その時は当直があり参加できなかった。
Rちゃん夫婦も参加していたことをあとから聞いた
そして今回・・・
あらかじめ、当直はできないことを医局長に話し、参加することが出来た。
世田谷区役所の地下のレストランで開催されるので、渋谷から東急田園都市線、三軒茶屋で乗り換え、世田谷線で松陰神社前まで行きたどり着いた(つづく)

(H27年11月1日)

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待ち伏せ!

自分の運転免許証はゴールドで長年違反もなく経過していたのだが・・・
先日ついに違反切符を切られた!
外部の先生が当直をやる場合、朝早く病院を出るので、月に2回程度「早番」が回ってくる
土曜日はその日だったが、うっかり忘れそうになり、慌てて家を出た。
菊名の駅前の信号待ちをしていたとき、バイクに乗った警官が窓をたたくので、何事かと思ったら
「すいませ~ん、さっき一時停止しなかったでしょう?」
「え?」
どうやら横浜線のガードをくぐる合流の場所できちんと一時停止をしなかったとのことらしい・・・
この道はいやというほど通っている道で、平日は車の通りや人の通りが多く、「
止まらざるを得ない」場所なので、
わざわざ一時停止を意識していなくても自然に止まる。
その日はたまたま運が悪く、土曜で人や車も何もない状況だったし、ミラーもついているので減速はしても「停止」はしなかったらしいが、
そんな不運な運転士を警官はどこかにひっそり隠れて「
網を張って」いたらしい。
そういえば時々近くで車が止められているのを見たことがあるが、こんなところで何の違反をしたのかね・・・などと思っていたこともあったことを思い出した。
これか~~と思った時にはもう遅い。
「ちゃんと減速しましたよ」
「そうですか
?私も完全に止まるまでは求めてませんけど、びゅ~んて走っていったでしょ?」
何だよ、あんたのさじ加減で違反が決まるのかよ!と、思わず言いそうになったが、火に油を注ぐ必要もなく・・
精一杯の申し訳なさと笑顔で・・・「早く病院につかないと、一人も医師がいない状況になってしまうので、勘弁してくれませんか・・・急がないといけないんですよ」
といったが・・
「あ~急いでいたんで止まらなかったんですねえ?」
しまった・・余計なこと言っちゃったよ。
「そこの角曲がったところで止まってくれませんか?」
てなわけで・・
一時停止違反3点・7000円
ゴールドもパーになった。
完全に
狙った通りに引っかかって切符を切られた感じだ。
「危険なんですよね~」なんて言ってるなら、こっそり隠れて違反してからとめるんじゃなくて、その場所で堂々と姿を見せていれば
いやだって止まるだろうし、事故だって起きないだろ?
と思うんだが、どう考えても目的は事故防止・予防ではなく違反切符をきって、反則金を徴収することにあるらしく、
違反を反省する前に、まんまと引っかかったことに腹が立ち。反省する気も失せる!
実は前の日に、小松空港の近くの安宅の住吉神社を参拝し、「お礼参り」に出かけた(日帰りで!)。
家内安全を祈ってきたし、難関突破のお守りもいただいてきたんだが・・・
交通安全のお守りもついてきたのに・・・神様も違反は大目に見てくれないようだ。
結局病院についたのは予定の時間を過ぎてしまい、何事もなかったからいいようなものの
患者さんの急変でもあったら、あの警官は責任とってくれるのかね・・・むりだよなあ(はいはい、違反をした私が悪いんです)
神様も、患者さんに何ごともないほうにご利益を使ってくれたのだろう・・・
なのかあったら自分にも禍になるのだから・・・
ただ、どうしても「
待ち伏せされた」感は拭い去れず、警官の成績アップに貢献したモヤモヤと腹立たしい気持ちのほうが強くなる。
違反を未然に防ぐのが正しいやり方なんじゃないのかい????
って、言いたくなっちゃうのは間違いなのかね!!

(平成27年7月31日)

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忘れるくらい?

もう、この時期になれば、必ず書く日がやってきた。
6月22日、自分が肺の切除を受けた記念日だ。
ちょうど緩和医療学会も終わり、月曜はオンコールから外れている。
夕方に、癌研有明病院の地域連携室のスタッフの方との打ち合わせがあり、
そのあとは何も予定もなく、少し早めに帰ることが出来た。
もう11回目になった。
今年もこの時期には色々な検査を行う、
毎年必ずと言っていいほど、この時期に咳が止まらなくなり、検査をするのが怖くなる、今年はちょうど先週から同じ症状が出ているが、
検査の結果は、さいわい明らかな再発や転移は見つからなかった。
その代り・・・胃の内視鏡も受けたのだが、その1週間後、内科の先生から電話があった。
「先生…大丈夫とは思うんですが、もう一度写真を見直してみて、どうしても気になるところがあるんです。良ければ再検査させてもらえませんか?」
え~~~っ
今度は胃がんですか!?
自分でも写真を見たが・・・
そういわれれば、ごくわずかに胃の粘膜が乱れているように見えなくもない。
明らかな腫瘍ではないので、最悪でも早期癌というところだとは思うが・・・
昔は経口内視鏡だったので、反射が強く、おえおえと、つらい状況だったが、最近は経鼻になったので、全然辛くない。
「少し朝食を食べましたが、その部分だけなら今日でもいいですよ。ぜひやってください」
ということで、即日再検査・・というはめになった。
一瞬、手術になったらどうするか・・などの考えが頭の中を駆け巡る。
胃の前庭部後壁・・・
先生は集中的にその部分をチェック、色素も撒いて粘膜の微妙な凹凸を見やすくする。
結果・・・
「何回も往復して(内視鏡を)、色素も巻いたんですけど、今日は異常と思われる部分は、見つかりませんでした。問題ないですね・・・」
と、言うことで、ピロリ菌の検査が追加になっただけで、さいわいにも組織検査もおこなわれなかった。
1回目の検査の後、
「前の検査の時は、看護師さんが検査中、背中を軽くなでてくれて、けっこう安心して検査を受けられた
(患者さんからの当初にも同様の意見は時々いただく)
今回はやってくれなかったなあ~」と、半ば冗談でほかの看護師に言ったのだが・・・
その苦情!?が伝わっていたのか、
2回目の時は、2名体制で、、一人の看護師さんがず~~~~っと背中を撫でてくれた!
あ~、さては、これはこの前言ったことが伝わってんな!
と、バレバレの状況なので、今さら気を遣わせて申し訳ないのと、おかしいのと、半々の気持ちで、かえって緊張して力が入り
肩がバリバリに凝ってしった。
今、ステント挿入後なので、いわゆる「血液をサラサラにする」薬を飲んでいる。
組織検査の場合はちょっと厄介なのだが、無罪放免になった。
ひとつのところに癌が見つかり、治療をしたからと言って、他のところに癌が出来ないかといえば
そんなことは全くなく、よく外来でも、なんで神様はこんなに意地悪をするのか…と思うほど
1人の患者さんに3か所も4か所も次々に新しく癌が見つかることもある。
油断はできない!
負荷心電図も異常所見なく、治療したバイパスの経過もいいようだ。
そんな状況で迎えた記念日・・・
去年は10年目だというので気合も入ったが、
今年はもう改めて…という気も家族にはないらしく(娘がいたら違ったのかな・・・)
帰ってしばらくして妻が「あれ、今日は記念日じゃない?」と気が付くしまつ。
風呂に入る準備をしていると、妻と息子がひそひそ話・・
息子がこっそり出かけて行った。
コンビニでケーキを買ってきたらしく、ささやかなお祝いとなった。
まあ、それだけ、いい意味で時間がたったということなんだと思う。
手術の前の日には、息子の頭をなぜながら(この時は息子と隣で寝ていたので)、
この子が大きくなるまで自分は見ていられるだろうか…などと思ったのがずいぶん前のことのようだが、
自分としては、やはりこの時期にはいろいろなことが鮮明に思い出される。
娘ももう結婚した。
あの時みられるかな・・・と思っていた光景を一つひとつ見られているのは、やはり幸せなことなんだと思う。
その分、自分の前に現れる患者さんに対して、精いっぱい関わらなければならないことを、再認識する時期でもある。
次は、息子が卒業する姿を見られるか・・・毎日毎日を大切に過ごし、それを積み重ねていくしかないのだろうと思う
(平成27年6月28日)


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娘の門出③

いよいよ結婚式の日がやってきた。
土曜日だったが、さすがに仕事は休みをもらった。
式は4時から始まりだが、妻も着物に着替える準備もあり、息子と3人で昼前には家を出た。
娘はすでに入籍も済ませ、既に同居しているので、結婚式当日に、娘が出ていきそのまま帰ってこない…という状況でもない。
久しぶりに娘とホテルでおちあい、昼食を食べた後、ロビーでボーっとしていた。
しばらくして自分も着替える時間になったので、レンタルのタキシードを受け取り、着替え(けっこうきまってるじゃないか!)、親族控室に。
お互いの親族紹介を済ませ、式のリハーサルをすることになる。
バージンロード歩き、新郎に手渡す・・・新婦の父にとっては、こなさなければならない重要な役割だ。
ドレスを踏まないように、ゆっくり一歩ずつ・・・新郎のそばに来たら一礼して娘から離れ、自分の席に・・・
左手は曲げ、新婦は軽く腕を組む・・・
呼ばれた結婚式では何度もみかける光景ではあるが、いざ自分がやるとなるとやはり緊張してしまう。
珍しかったのは、バージンロードの途中で一度立ち止まり、自分の妻がベールをかぶせる場面があった。
新婦がひざを折ってベールをかけてもらい、そのあとまた腕を組んで新郎のもとへ・・
一歩・・そしてまた一歩
まさに「娘を手放す」瞬間が近づいてくる
子供だとばかり思っていた娘が旅立っていく
式は滞りなく終わり、出席者と中庭で記念写真
ブーケトス・・と進んでいく
ブーケトスの時、娘がムチャクチャ思い切り投げたので、危うく誰も取れないところに落下するかと思ったが、
かろうじて最後尾の女性が何とか受け取ることが出来た!
そのあとは親族の写真撮影、そしていよいよ披露宴の始まりだ。
今どきの結婚式は仲人を立てるものはなくなってきており、自分が院長になった時には、職員の誰かの仲人でもするのかと思いきや、今まで一回もしたことはない。
主賓の挨拶は毎回だが、今回はその挨拶を後ろの席で聞いている。
娘のエピソード・・「お祭り女?」と呼ばれていたとか・・・家では見せない顔も持っていること、
娘が外の世界で生きてきたことを少しでも垣間見ることが出来、
知らず知らずのうちに成長していったことが改めて感じられる。
お色直しがあり、宴はすすみ、
いよいよ最後のあいさつ・・・
あれほどやめろと言ったのに、娘が父、母への手紙を読むとのこと・・・
明らかに「わざと」父親を人前で泣かせようとする魂胆が見え見えだ。
その手に乗ってはいけない。何とか涙腺を閉めて・・・
娘が手紙を読み始めた。
おとうさん、おかあさん・・・・
いか~~ん
やばい、もう読むのをやめなさい!涙せん決壊!…と思ったら
自分で書いた文章を読んでいた娘が自分で泣き始めた!
おいおい…大丈夫か、ほら、がんばれ!
しっかり読まんかい!
なんて、心配しているうち、「感動」の場面は終わってしまった。
えっ、これって、ウェディングケーキ入刀と並んで見せ場じゃないの?
期待どおり「号泣」してやろうと思ったのに・・・かえって涙が引っ込んじゃったよ!
なんだか来賓の男の子が貰いなきしちゃってるし!
泣くのは君じゃないでしょう!
と、言うわけで、式も無事に終了、娘から花束と記念品を渡され、新郎の父がお礼のあいさつを述べ、出口で来賓を見送り、お開きになった。
家に帰って、写真やビデオをチェック、娘が読んでくれた手紙を開けて改めて読んでみた。
あれ・・・これはいかん、涙が止まらない。
というわけで、式での号泣はなかった代わりに自宅で号泣してしまった。
娘には内緒にしておこう・・・
家族にとって
娘の結婚という一大イベントは何とか終了した。
娘が独立し、なんだか急に年を取ったような気もするが…息子はまだ学生ですねかじりだし、まだまだ引退して老け込んでもいられない。
検査を受けて何かあってもいけないと思い、結婚式前はわざと検査をしなかったので・・・そろそろ健康チェックもしなければならない。
親としては、娘が末永く幸せな家庭を築いてくれるのを祈るばかりだ。
頑張りなさい。何のかんの言っても、お前には根性あるんだから。性格は自分に似てるところもあるんだから・・・
でも、どうしても困ったことがあったら言いなさい。
いつだって父さんはお前の味方だし応援団長だから。(平成27年5月15日)


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娘の門出②

翌日は土曜日だったが、休みをもらった。
いつも通り仕事に行き、帰ったら娘が出て行ったあと…というのは、さすが寂しいと思ったので・・・
引越しのトラックは朝8時には到着とのことだったが、
何とか終わったのが夜中の3時近く・・・
娘の荷物はいろいろな部屋に分散しており、自分たちが寝ることも出来ず、手伝いには直接参加することなく
かといって先に寝ることも出来ない…という、中途半端な状況になった。
朝は6時前には全員が起床!
朝食を全員でそろって食べた。
この時点で、ようやく準備していたプレゼントを渡した。
妻からはシャンパングラス
息子からはクリスタルの花瓶
自分はシャンパン(かなり奮発!)
引越しが終わり、入籍し、新居で二人でゆっくり祝ってもらおう・・・と思った。
最期の荷物と一緒にこのプレゼントも荷造りされ、いよいよ引越しのトラックが到着した。
若いお兄さん3人がてきぱきと段ボールを運んでいく。
事前の打ち合わせではクローゼットの中身は動かさず、「そのまま」運んでくれる…という契約だったはずだが
いざ動かそうとすると、運び出せず、結局ハンガー付きの段ボールに詰めなおす羽目になり
時間もなくさすがに家族全員で手伝う羽目になった!
トラックが出発し・・・
娘がコートを羽織り、ブーツを履き
あっというまに出て行った。
今日は「行ってらっしゃい」ではなく「お帰りなさい」の無い出発
「まあ…元気で・・幸せになりなさい」と、一言
家の玄関から道までは階段がある。
その階段を娘が下りていく、姿がだんだん小さくなる。
フェイドアウトのように・・・
道まで下りて、振り向いたと思ったら、何も言わずに深々と頭を下げた。そして視界から消えた。
足音だけがしばらく聞こえ、それも聞こえなくなった。
「行っちゃったね・・・」
娘の部屋はがら~~んとしていた。
不思議な感覚だった。
26年間、一緒に暮らしていた家族が今日から髙橋ではなく、違う苗字になり、違う場所で生活を始める。
それはめでたいことであり、新たな門出であり、親から独立し巣立つことであるのだが・・
これが娘を手放すということなのか・・・
視界がぼける。
これは涙ではない・・・急に花粉症になったか、ごみが目に入ったらしい。そうに違いない!
夕方、娘からラインが届いた。
写真には新しい伴侶と結婚届を一緒に持ち、笑顔で写っていた。
ドラマなんかでは
「お父さん、お母さん、お世話になりました・・・」なんていうセリフを残して出ていくもんなのに・・・
うちの娘のあっけないこと!
あとは5月の結婚式がある。どんな式になるのか・・・
娘のウェディングドレスを見て・・・バージンロードをエスコートし、生涯の伴侶となった男性に手渡す作業が待っている。(つづく)

(平成27年3月27日)

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娘の門出①

今朝、娘が家から出て行った。
朝の8時前には引越しの車が到着し、荷物を運んで行った。
それからしばらくして、新しい住まいに出かけて行った。
今日から髙橋ではなく苗字が変わる!
それまで・・・
引越しが決まってからも一向に準備が進まず、妻からはガンガンせっつかれているのに、
どんどん引越しの日が近づいてきた。
さすがに自分も心配になり、「お前、大丈夫なのかよ!」というと・・・
「引越しの準備って、そんなにかかんないでしょ? クローゼットの中身はそのままでいいって言うし・・・
あとは段ボールにちょこっと詰めるだけでしょ? 1日あれば大丈夫でしょ!」と余裕綽々だ!
後2日となっても、荷造りは一向に進まず・・・焦るのは周囲ばかり、本人は終わると思っている。
「今日は職場の上司や仲間が、お祝いをしてくれるから、ご飯はいらない」
「え~!おまえ、今日も荷造りしないのかよ・・」
「1次会で失礼してきなさいよ、ほんと~~に終わんないよ!」
結局その日も12時少し前に帰り、バタンキュー
この時点で残りはあと1日
次の日、金曜日で自分は休みの日だったが、午前中に仕事をしなければならず出勤した。
朝、今日の予定は?と聞けば、
今日は仕事の面接がある!とのこと・・・
「面接だ~~? お前ねえ、今日1日しかないってえのに、また出かけるんかい!」
さすがに切れた!
「さんざん言っただろ、終わんないって・・本当に大丈夫だと思ってんのか?」
それでも根が頑固なのか・・・(私の遺伝子ではないと思う)、無言のまま逆切れ寸前な状況。
結局帰ってきたのは5時前
これもさんざん言っていた、転出届をまだ出していないので、区役所に行ってきたとのこと
戸籍謄本も、ぎりぎりに速達で頼む始末・・・
このままではぜったい終わらないと思ったので
「どうすんだ、さんざん言ったはずだぞ! 見込みが甘い! 自分の非を認めて手伝ってくださいって言えば家族みんなで手伝ってやる・・」
と助け舟を出すが、何も言わずダンボールを組み立て始めた!(ほんっとに強情!)
その夜、引っ越し業者から確認の電話があり、明日は
朝の8時に到着とのこと、その時点で間に合わない場合は、出来上がった荷物だけを運ぶしかないといわれた。
見かねた妻が、やるべきことをメモ書きにして渡し、少しは効率が良くなったが、相変わらずSOSは出さず
夕食は、最期の機会なので、余裕があれば、家族でゆっくり話しながら、ほのぼのとした雰囲気で・・と思っていたが、
ほとんど口もきかず・・・
この時のために…と思って家族が一人ずつプレゼントも用意していたのだが、とても渡す雰囲気ではない・・
こうして、時間は過ぎていき・・・
荷物は残ったまま・・
さあ、どうなる!?    続く・・・
 (平成27年3月14日)

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今年初めの雑感

このホームページも開設してからかなりの時間が経ちました。
まだ子供も小さい時期でした。
サーバーはOCNのものを使用していましたが、ホームページのサーバーを中止するとの連絡があり、
急きょほかのサーバーを使用することになりました。
そんなわけで、カウンター(このサイトを訪れてくれたお客様の数)がリセットされてしまい、
平成27年1月からの数字になってしまいました。
うまくやれば継続でも出来るのでしょうが、何せ詳しいわけではなく、何とか以前の数字を表示して合計が分かるようにしています。
小さかった娘は、初志貫徹で何とか臨床心理士試験に合格しました。

息子は進級をかけ勉強中!
そんな子供たちの姿を見ると、自分が年を取るのも当たり前だなあ・・・と思う今日この頃ですが、
昨年12月には緩和ケア科の常勤医師が在宅に転身し、仕事の面ではかなりハードな毎日になってしまいました。
まあ、子供が成長した分、小さい子供のいる医師の家庭の事情、行事の参加は優先にしてもらっているので
日曜、祭日の出番はほぼ自分で対応、土曜日も、特別な用事の無い限りは当直…といった状況です。
この前の土曜日も、近くの診療所の先生から電話がありました。
腸炎だと思うが、吐き気が強く、点滴が必要、この時間では当直の先生になると思うが、先生からお願いしてくれませんか?
というものでした。
「先生、当直医にお願いって言ったって、
私が当直ですから・・・」
「え~~~っ、先生、まだ当直やってんですか!院長なのに
? ははは・・・大変ですねえ」
何か、笑われちゃったよ!とおもいつつ・・・
「いいですよ、すぐに来てもらってください」
と対応しました。
でも、土曜日、日曜日は、緩和ケア科の患者さんの緊急受診がかなり多く、そのたびに呼ばれるくらいなら、自分が当直やってたほうがいい・・・
というのが基本的な考えで、さらに言うと、自分の給料は年棒制で、いくら時間外をやろうが、緊急呼び出しだろうが
給与には全く反映されず、「ボランティア」状況なので、どうせ働くなら当直料(これだけは別だて)をいただいたほうが…という現実的な考えもあります。
日曜と言っても、家族そろって何かをすることも少なくなったのも、子供たちが成長した証なのかもしれません。
(たまには娘と二人カラオケ4時間超…というのもやりますが・・・)
今思えば、もっと子供が小さいときは、運動会や授業参観などの行事などに積極的に参加してやればよかったな・・・と思うことがありますが、後の祭り
それだけ、小さい子供を持つ若い同僚には、そんな時間を大切にしてもらいたいという気持ちがあります。
最近は当直をやりたがらない、出来ない、当直なしを就職の条件にする、月2回まで・・・などなど、
若い外科の出張医の派遣が無くなったりなどして、病院の常勤医師だけで当直を回すのが困難になりつつあり、
自分も当直をやらざるを得ない…という事情もあります。
昔、自分が若いころは、当直をやるのは「
あたりまえ」と考えていましたが・・・
こんなことも「時代」の違いを感じます。
平和病院で当直をやりたがらない医師が、医師紹介サイトで他院の当直を登録しているなど・・・を知ると
ただ当直手当を高くすればいい…という問題ではなく、勤務している病院に対する愛着心とか、帰属意識というのか・・・
そういうものも、自分の考えそのものが古くなっているのかもしれません。
今年初めの更新なのに、それこそ「
雑感」、取り留めもない話(愚痴)になってしまいましたが、
自分が「院長」だからこんな考えになるのか・・・
「院長」としての牽引力、求心力が衰えているのか・・・緩和ケア医としての実務に追われすぎているのか
今年も悩みは尽きそうもありませんが、自分のやるべきことを粛々とこなしていく・・・
そんな一年にしていきたいと思っています。
今年もどうかお付き合いください。(平成27年1月12日)

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やはり…③

当日、朝は5時半ころには目がさめた。
夜中もずっと気になっていたが、モニターの警報音が、かなりの大きさで響いてくる
まあ、循環器科の病棟なのだから、心電図に異常のある患者さんは多いだろうから仕方がないんだろうが、
その患者さんが大丈夫なんだろうか? と、かえってこっちが心配してしまう。
6時すぎには採血と心電図検査があり、点滴が始まった。
治療は本日の3人目と聞いたので、11時過ぎくらいでしょうか…といわれた。
朝の食事は「半分だけ」食べてください、昼は絶食ですとのことなので、
出された食事を律儀に半分だけ食べた。
検査着に着替えなくてはならないし、いよいよパンツを脱いで「T字帯」をつける時がやってきた。
もしかしたら、足からのカテーテル挿入になる可能性もあるので・・とのことだが、
パンツと違い、どうもこのT字帯ってやつは頼りない・・・
隙間風が入り込む感じで(もっともトイレの時は便利だが、真っ白なので。汚さないように(片手に点滴されているので)するのに苦労する!
点滴につながれていると、ますます「患者」のイメージが強くなる。
治療が始まるまでの時間は、いつもの仕事の時より10倍くらいゆっくり過ぎているような感じがして、時計ばかり見つめていた。
11時半過ぎ、「お待たせしました」と看護師さんが部屋に入ってきた。
車いすに乗って治療のための部屋に移動だ!
透視台の上に横になると、主治医のA先生と、部長のK先生がやってきた。
K先生も以前は平和病院で外来を担当してくださっていたので、懐かしかった。
右腕の消毒が始まり、いよいよ治療の開始、
今回は局所麻酔で、緊急のトラブルがあれば、全身麻酔で開胸手術になる可能性もある(確率は低いが・・・)
意識はシッカリ保たれているので、
前回の肺の手術の時のように、眠りに落ちて、気づいたら病室に戻っている・・ということもない。
ある程度の太さのカテーテルを右手の橈骨動脈から挿入するので、少しは痛かったり違和感があるかと思ったが、
ほとんど痛みはなく、あっという間に検査が始まった。
カテーテルが腕を移動していく感じが分かるのが何とも言えない!
造影剤が注入され、CTで狭窄が疑われた部分の確認、他の血管の状況が確認される。
「痛くないですか? やはりステントを1か所挿入しましょう」とA先生の声が聞こえた。
カテーテルを狭窄部に通し、バルンを膨らませ、ステントで細い部分を拡張させる。
K部長とA先生が相談しながら、入れるステントの内径、長さなどを話し合っている声がした(部長と看護師さんの楽しそうな会話も・・・)
バルンを膨らませる時は、当然、血の流れが止まるわけで、胸が痛くなる
これが狭心症の時の痛みなのだろう…そう考えると、少し前から階段を上ると感じていた息苦しさと。胸の違和感に似ている!
「ニトロ」という声が聞こえるが、痛い、というほどでもなく、
ほどなく治療は終了した。カテーテルは抜かれ、挿入した部分が圧迫止血用のバルンで抑えられ、
腕が動かないように固定された。
確かに、動脈に刺すのだから、静脈と違い、圧も高く、普通の採決や、点滴のように、しばらく抑えただけでは出血は止まらない。
以前、大学にいる時は、肝動脈の塞栓術などを多く行っていたので、大腿動脈からカテーテルを挿入していたが、
圧迫を十分におこなわないと、血腫を形成したりすることもあり、止血は大切だ。
思ったより簡単に治療は終わり、車いすに乗り、病室に戻った。
妻が待っていて、後から娘も来るとのことだった。
「夕方、先生から結果の説明があります」とのことだったが、
しばらくしてA先生が病室にやってきて、造影時のビデオを見せながら説明してくれた。
「やはりCTと同じ部分に狭窄がありました。おそらく感じていた症状はこの部分が原因と思われ、ステントを入れました
造影剤はステント挿入前でも末梢には流れている(流れなかったら心筋梗塞だ!)が治療後は狭窄部分が広がり、明かに違う!
「治療はうまくいきました。ただ、これから半年は3種類の薬を飲んでもらいます。半年後に1種類にへらしましょう・・
外来は平和病院で私が行った時に受診してください」
ここがありがたい!
実際、昨日も、平和病院の外来を仕事の合間に受診し、薬の処方を受けた
薬は、いわゆる血液をサラサラにする薬なので、当然違血が止まりにくくなる。
ぶつけると内出血が出やすいということは知ってはいるが、実際注意していても
特に緩和ケア病棟のスタッフステーションの机の角がとがっていて、右足と左足の同じ部分にあざが出来た、
てきめんで、あっ!ぶつけちゃった!と思った時には遅く、翌日にはあざが出現するので、けっこう注意が必要な状況になっている。
入院の予定は日曜までと言われたが、「退院は明日でいいでしょう」と言われた。
その日は、止血のためのバルンを徐々にへこませていき、固定を解除するのだが。
1回目の減圧の時に、少し血がにじんだので、圧迫時間が延長されてしまい、結局完全解除されたのは夜の11時半を過ぎたころになってしまった。
翌朝は、採決と、心電図検査があった。
すでに着替えて退院する体制万全だったが、心電図に少し異常所見が出ている…とのことで、とり直しになった・
もしかしたら治療の結果が良くなかったか…との不安がよぎる。
またT字帯をつける羽目になるのか?
A先生は当日は平和病院の外勤をしているので、若い先生が検査をしてくれたが、
どうもA先生と相談するらしく、不安な気持ちで時間が過ぎた
「ステントを入れる時に、壁の一部が末梢にとんで、細い動脈を閉塞することもあるので・・・」と言われたが、それってまずいんじゃないの?
そういわれると、また胸が痛くなるような気もしてきてしまう・・・
さいわい、A先生との相談の結果、とりあえず退院は許可されたが、若い先生は
「もし家で何かあったら救急車ですぐ来院してください」と言われた!
え~~っ、救急車を呼ぶほどの可能性があるわけ??
そういわれると、せっかく治療したのに、なんだか歩き方もゆっくりになってしまう!
とりあえず。タクシーに乗って帰宅した。
連休だったので、翌日も休みでたすかった。
その日の夜はさいわい何事もなく、救急車は呼ばなくても済んだ。
2日後の月曜日はゴミ出しの日だ。
最近は、ごみの収集所までの坂道をあがった時には、息が上がっていたが、治療結果を試すチャンス!
ゴミを抱えて坂を上がったが・・・いいじゃないか!!
全然違う(気がする)
翌日からは仕事復帰だ!
今回の入院のことは、限られた職員にしか言っていなかったが、多くのスタッフが退院を祝ってくれた。
でも・・・仕事に容赦はしてくれない。
めちゃくちゃ忙しく、緊急入院も多く、決済の書類も溜まっていて、その日は9時過ぎまで帰れなかった!
この調子じゃ、下手すると、今大丈夫な血管も細くなって、元の黙阿弥だよね・・・
2日前まで入院していた人間の仕事の仕方じゃないと思いながらもワーコホリックの性で・・・
妙にアドレナリンが出てしまうのが悲しい・・・
さて、そんなわけでふってわいた様な入院騒動もひと段落、
フェイスブックでは多くの方から激励のメッセージをいただき、ありがたかった。
最近は、また階段を使っての移動に戻っているし、内出血しやすい以外は生活は快適になったが、
「おしらせ」のところでも書いたように、緩和ケア科の加藤君が在宅に転身するため退職が決まったので、仕事量はかなり増えることになる。
現在の受け入れペースはどうしても落としたくないので、結局自分の仕事量を増やすしかない。
さいわい、院長業務に関しては、増田副院長と奥富副院長が、ずいぶんカバーしてくれているので。
その分、院長業務は楽になっている、看護部長も、5月に新たに着任した土屋事務長も、いい感じだ。
あとは、ストレスを感じないように(無理かな)適度に息抜きしながら(できないな)過ごしたいものだ。
心臓には、今までより多くの血流が流れるようになったのだから、
熱きハートでもうひと踏ん張りするか!
(平成26年11月16日)

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やはり・・・②

入院は2時までに、ということだったが、、少し早めに家を出た。
入院受付で説明を受け、4回の病棟にエレベーターで上がった。
今回は個室を使ったが、スタッフステーションからは一番離れた部屋に案内された。
採血と、心電図検査があるといわれ、寝巻に着替えるように言われた。
思い出した!
この、寝巻に着替えたくない感覚・・・10年前と同じ
寝巻に着替えてベッドに横になったとたんに、自分が抵抗できない「患者」になってしまうからだ。
荷物を整理し、コップやティッシュなど、足りないものを妻が売店に買いにいった。
落ち着かない時間は、過ぎていくのが遅い。
夕方、担当のA先生が病室に来て、前回のCT検査の結果と、明日の治療予定の説明をするので、ステーションに来るように言われた。
患者に、ステーションで説明をすることは、平和病院では行わないが、やはり自分が医者だから…ということもあるのか?
見せられた画像では、やはり、明らかに冠動脈の一部が細くなっていた。
でも、この程度で、あの息切れや何とも言えない旨の不快感が出るのだろうか?との印象だった。
他の部分は大丈夫そうなので、明日造影を行い、正確に血管の状況を判断し、治療を行うことになるとのこと
ステントを狭窄部分に留置して、血流の改善を図る治療だ。
さすがに、入院前にはステント拡張治療に関することを調べ上げた。
最近、緩和医療以外の分野で、こんなに調べたのは久しぶりだ。
カテーテルは、右手(橈骨動脈)から挿入し、ステントを留置する場合は、薬剤が徐々にしみだすタイプのステントを使用するとのことだった。
手からうまくいかない場合は、足の付け根から挿入、この場合は治療後には足を動かせず、トイレにも行けなくなるので
尿の管を入れるという話だった。
尿の管のつらさは、前回の手術から10年たっても鮮明に覚えている!以前の闘病に関して書いたこともあるが、
抜くと胃の痛さも半端ではない!
入院後の生活は、右手で重いものを持たない事とかの注意以外には大きな制限はない
仕事の制限もない(制限してくれてもいいのだが・・)とのことだった
ただ、ステントのつまりを予防するためには、半年間は3種類の薬を飲み続けることが必要らしい。
いわゆる「血液がサラサラになる薬」だ。
同じような薬を服用している患者さんを多くみているが、ちょっとぶつけると青あざになったりすることも多い・・・
自分もたぶんそうなるのだろう・・・
説明は簡単に終わった。
自分も患者さんが「医師」の場合は、どうしても「ある程度はわかっている」と判断してしまうので、
一般の患者さんの時よりは細かく説明しなくなる傾向がある。
前回の肺の手術の時の説明も、妻が一緒に聞いていたが、看護師の資格を持っていても、ちんぷんかんぷんだったようだ。
さあ、後は結果を待つのみ!
夜には研修医の先生が、明日の点滴のための留置針を差しに来るとのことで、その前に風呂に入った。
夕食はカツ・・・受験生じゃないけど、何となく縁起がいいのかな、などと考えた。
実はこの病院の食事に関しては、入院したことがある多くの知人が共通して「ひどい!」との評判があった。
覚悟はしていたが、なんだ、、それほどでもないじゃないか!
味噌汁はついてるし(量は少ないけど)、カツだし(うすいけど)、全然いける。
最近体重が増加傾向にあるので、何日か入院していれば、ダイエットにもなる予感はした。
8時ころ、研修医の先生が入ってきた。
大きな病院では注射や点滴は医師が行う。(平和病院では看護師さんがやってくれる)
さていよいよこれで前日の予定はすべて終了、後は寝るだけだったが・・・
さすがに寝付けない、看護師さんが巡視に来るたびに目が覚めてしまう
でも、この病院は静かだ・・・
看護師さんたちの大きな声などは聞こえない。
平和病院では時々職員が廊下で声をかけ合ったるするときに大きめの声を出すこともあり、
苦情のお手紙をいただくこともある。この静かさは見習いたい!
「せん妄」の患者さんもいないのだろう・・・ほかの患者さんの大きな声も聞こえない。
でも、自分が眠れないのは、やはり明日の治療のことを考えるからなのか。
大丈夫とは思うが、治療に「万が一」の事態はつきものだから、無事治療の部屋から出るまでは安心できない。
熟睡できないまま、治療当日の朝を迎えた。(つづく)

(平成26年11月9日)


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やはり・・・①

心臓CTの検査を行って翌日の夜、A先生から携帯に電話があった。
てっきり、次回の土曜日に結果を教えてもらうと思っていたので、嫌な予感がした!
「結果を見てみたんですが、やっぱり、冠動脈に細くなっているところがあり、場所が心電図の所見とも一致しますし、
詳しい造影の検査と、その結果、狭窄があれば、その場で治療を行うべきだと思います」
「今、痛みとかはないですか・・・」
「早いほうがいいと思うので、予定を組んでしまおうと思うんですが」
慌てて手帳を見たが、いろいろ詰まっているので・・「それでは11月の・・・」
「先生、早いほうがいいと思います。今度の金曜日でいかがですか?よければお部屋を確保し、検査予定を組みます」
どうも、A先生の話ぶりからすると、のんびり予定検査・・という雰囲気でもなさそうな状況は伝わってくるし、
外来の予約は入っていたが、さいわい加藤君も林君もいる時なので、その時にお願いすることにした。
「CTから判断すれば、おそらく一か所だけの変化と思うので、、造影結果でその場でステントを入れることになると思います。
入院は3泊4日にしましょう。10月30日に入院してください。もし、その前に何かあったら救急車で来院してくださいね!」
え~~っ、救急車で来院しなくてはならないほどの厳しい状況も起こりうるってことだよね!
自覚症状は、階段を上った時の息切れと、胸の圧迫感だから、
確かに心筋梗塞になったりしたら、あっという間に命取りになる可能性だってあるわけで・・・
そういう意味では、「がん」には時間がある…という言葉が、実感としてわかるような気がした。
最近、自分の人生をどう生きるか、自分自身で意思の伝達が出来なくなったとき、どのような最期を迎えたいか・・・
アドバンスケアプランニングや、リビングウィル、などの話題が多くなってきた。
今回の鶴見在宅ケアネットワークの市民公開講座のテーマもまさにこのことで、
自分は座長を務めさせていただくことになっている。それが11月8日に迫っている。
入院の2日前には「ハナミズキの会」もありその夜は川崎緩和ケアフォーラムの特別講演を依頼されている
講演会後に懇親会も計画されており、参加したかったが、申し訳なかったがさすがにお断りした。
その次の日には緩和ケア病棟で「ハロウィン」のイベントがあり、
コスプレで患者さんの病室を回るのだが、次の日に入院と思うと、今ひとつ乗り切れない気持ちもあったが・・・
(フェイスブックではノリノリのイメージで、過去最高の「いいね」をいただいたが・・・)
何とか乗り切り、入院準備のものをそろえて帰ろうとした矢先、連携の在宅のK先生から緊急入院要請があった。
このように、在宅の先生方のバックアップを確実に行うことは
平和病院緩和ケア科の絶対的な使命と考えている。
30分ほどで運ばれてきた患者さんはかなり状況は厳しく、意識もない状況であり、
K先生も救急隊と一緒についてきてくださった。
呼吸状態が悪く、薬剤を調整し苦痛の緩和に努め、奥様に病状を説明した。
この患者さんは抗がん剤の治療中で、初診の相談の時にはご本人と奥様が来院された。
治療に対しての意欲はあったが、お子さんたちには、まだ厳しい状況をお話ししていないとのことだったので、
「ホープツリー」のサイトもご紹介し、どのように説明するのが望ましいと思われるかを説明した覚えがあった。
奥様の話では、救急車で運ばれたことはまだ伝えていないとのこと
どう見ても、その患者さんは翌朝までがんばれるとは思えない状況であり、
厳しいお話をさせていただいた。
お子さんたちもすぐ呼ぶようにお話しし、その日は付き添っていただくほうがいいこともお願いした。
ひとまずの治療が落ち着いたのは9時まえ、それから帰って入院の準備をおこなった。
入院は3泊4日の予定であり、前回の肺切除の手術よりはどう考えても楽だろうと思ったので
本やらゲーム(実はゲーム好き!)などをカバンに詰め込んだ。
入院当日の朝8時ころ、病院から電話があり、昨日の患者さんが息を引き取ったとの連絡を受けた。
自分も入院するので、お看取りは他の医師に任せることにしたが、
まだお若い患者さんで、自分が10年前に手術を受けたときと同じ病気、年齢だった、
ちょうど子供も同じくらい・・・
昔のことをいろいろ思い出し、今回の入院の結果もどうなるかわからず、急に不安になってしまった。(つづく)

(平成26年11月2日)

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久々に患者に変身!

先週、久々に「患者」として自宅近くの某病院を受診した。
最近、体調がいまいちだったので、この際思い切って受診した。
平和病院で負荷心電図をとり、結果は大きな異状はなかったが(心電計の自動解析では)、
Y病院から来ている循環器科の先生から、変化が若干認められ、負荷後の戻りが遅い・・・
と言われ、心臓CTの検査を勧められたので、今日受けてきた。
検査前に何かあったら救急で…などとも言われたので、かなりビビった!
残念ながら、平和病院のCTは心臓の動きをチェックするほど高性能ではないので、Y病院での検査になった。
検査前の薬剤を服用し、検査直前にはスプレー式の冠動脈拡張剤を使用、点滴を刺され、造影剤を急速に注入しながらのCT検査だった。
自分でも造影CTを患者さんにするとき、「体が熱くなるような感じがしますけど、心配ありませんよ・・」とは言っていたが(長年)
実際どんな感じで熱くなるのか・・・全く分からないままだったが、注入後、しばらくすると、
身体の頭側から肛門にかけて、「熱さ」がジワーっと下がっていき、おもらししたような感覚にさえなる(もちろん、漏らしてないが)
なるほど・・・これが「熱くなる」ということなのか、と初めて分かった。
何事も、自分で経験してみないとわからないものだということはつくづく感じた。
何時もの「医者」は、検査着に着替え、点滴台を持って歩けば、いきなり「患者」になり、やはり心細くなる
前に手術を受けたときにも感じたが、寝巻とか検査着は病院内では白衣との立場を際立たせる。
Y病院の職員の対応は平和病院と比べてどうか?
待ち時間は?など、
きょろきょろする余裕はまだあったが・・・やはり溜息は出てしまう。
これからどうなるのか…との不安もよぎる。
基本的に小心者なのでこんな時の思考回路はかなりネガティブだ。
さて、肝心なのは「結果」だが・・・
このまま「異常なし」で済むとは、自分の最近の体調の変化からして、可能性は低いような気がする・・・
薬で済むのか・・・?
入院してカテーテル検査になってステントでも入れるか・・・?
バイパス手術になるのか?
それとも全く別の異常が見つかるか・・・
検査から結果を知るまでの期間は、本当に気がめいる!
自分が行う日常の診療はとどまることはないし、講演などの依頼もある。当直もこなさなくてはならないし、
医療監査、機能評価受審、
病棟構成の変更も視野に入れた経営立て直しの検討・・・
やることはきりがない。
身体があってこその仕事ということは、以前手術を受けたときからわかってはいるが、のんびりしていられる性分でも状況でもない。
ただ、さすがに今回の結果次第では、少し減速や休養、最悪の場合は責任者としての立場からのリタイアも、やむを得ないとは思うが・・・
結果はいかに??
(平成26年10月24日)

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頼朝と義経

基本的に我が家は無宗教だが、
初詣やら厄除けなどは何十年も鶴岡八幡宮に出かけ、祭殿に上がり、おはらいを受け、お札をいただいてくる。
神棚こそは祭っていないが、家内安全やら身体健全、病気平癒などのお札が並べてあり、
毎日、米、塩、水を供え、朝と寝る前には2礼2拍手1礼を欠かさない。
いっぽう、以前にも書いたが、安宅の住吉神社の難関突破守りは、娘の大学受験、息子の大学受験の時に力を発揮し、
我が家では絶大な信頼を寄せている。
息子が大学に受かった夏は、お礼参りに連れて行ったが・・・
どうも最近、というか、2年ほど自分も含め、我が家の運気はあまりよくない状況が続いている。
誰のせいにするわけではないのだが、
何か変わったことがあったかな・・・と考えてみたら、
ちょうどお礼参りの時に住吉神社のお札をもらい、鶴岡八幡のお札に並べて祭ってからのような・・・
先日、ふと思いついたのだが
鶴岡八幡は源頼朝ゆかりの神社で、住吉神社のある安宅はその頼朝に追われた義経が逃げ延びて
歌舞伎の勧進帳の舞台になったように、東北に落ち延びる時に通過した関所であり
難関突破の所以になっている。
考えてみれば、よりによって頼朝と義経のゆかりのお札を同じ場所に祭っていたことに気付いた。
これはまずい!
いくらなんでも、義経も、頼朝ゆかりのお札の前では難関突破を助けてくれるどころではないのだろう・・・
家の中でお札が喧嘩しているようなもんだ。
慌てて住吉神社のお札を、息子の部屋に移動した。
きっと、ずいぶん窮屈な思いをさせていたことが、最近の運の無さの原因のような気がしてきた。
ぜったいそうに違いない!
これから自分も我が家も病院も、難関を突破しなくてはならないことも多い。
お詫びがてら、住吉神社に日帰りでもいいから出かけて、再度、難関突破(超難関突破というのもある)守りをいただいてこようかと
真剣に考えている。
(平成26年8月3日)

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スキルアップ研修再スタート!

昨年度は鶴見区医師会在宅部門と一緒に、在宅ケアスタッフ向け緩和ケアスキルアップ研修「初級編」を6回シリーズで開催した。
2グループで、各40人程度、合計80人以上もの多職種スタッフが参加してくださり、6つのテーマで行ったが、
受講できなかった他のスタッフから、再度「初級編」行ってほしいとの希望があるとのことで、今年度も行うことになった。
このほかにも、昨年度、初級編を「卒業」したスタッフの皆さんに対し、「中級編」を行ってほしいとのお話もいただき、
来月からは3回シリーズで「中級編」も並行して行うことになっている。
鶴見区の研修のほかに、川崎市のクリニックが主催している、同じような研修会も併行して行っていたが、そちらはまだ最終回が残っている。
鶴見区周辺では新たに在宅専門の先生方が、相次いで開業され、緩和ケアに力を入れている。
その分、在宅緩和ケアに係る、ケアマネさん、訪問看護師さん、医療介護用品のレンタルスタッフ、薬剤師さん、ヘルパーさんなどなど
多くの人たちが、緩和ケアを必要とする患者さんやご家族と接することになる。
在宅ケアスタッフに、緩和ケアの基本的な知識を身につけてもらうことのお手伝いは、地域全体の緩和ケアの質の向上になると考えているので、
このような機会をいただけるのは、こちらにとっても望むところではある。
平和病院緩和ケア科では、自分たちでも訪問診療を行っているが、
今後は、すこし在宅緩和ケアの患者さんとのかかわりを増やしていこうと思っている。
最近では、自分が講演を依頼される内容も、「病院から在宅への移行」に関してのものや
「病院と在宅の緩和ケアの関係、連携」に係るものがほとんどになってきており、
病院側だけの目線ではなく、在宅も含めた地域全体としての視点に立った緩和ケアのかかわりが求められているように感じる。
今度の日本緩和医療学会でも、この研修会に参加した皆さんからいただいたアンケート結果をもとに発表させてもらうことになっている。
ただ・・・
自分でこれらのことを行うのはいいが、指導医としての役割には緩和ケア専門医の育成も求められている。
平和病院緩和ケア科の常勤医師にも、早く専門医資格を取得してもらいたいが、
資格条件には「教育活動」も含まれている。
自分ばかりではなく加藤君や林君にもこの役割を担ってもらうことが必要になる。
いっぽう、認定研修施設以外で勤務している医師が緩和ケア専門医資格を得るためには
日常働いている施設ではない認定研修施設に研修に行き、そこで指導医の「対面指導」を受けることが必要とされている。
今年度からは、他施設からの研修医師を2名受け入れている。
後から知ったことだが、、一人の指導医は、院外研修医師を2名までしか受け入れられないとのことで、
しかも研修期間が3年もあるので、これからの3年間は、自分はこれ以上受け入れられないことになっている。
(常勤医師は別だが・・)
いま、いろいろな専門医制度の見直し、統一化が盛んに話題になっている。
おそらく、日本緩和医療学会の専門医制度も、その流れに巻き込まれ、今後は変わっていくと思われる。
自分の指導医としての認定期間は10年間で、3年前に資格を取得したのであと7年ということになる。
その時は67歳になっている(生きていれば・・・)のだから、後輩に道を譲り、今よりゆったりと緩和ケアに係っていたいと思う。
話は戻って・・・あらたにスキルアップ研修が再スタートした。
1年間の長丁場になるが、熱意ある在宅ケアスタッフとふれあうことは自分にとっても大いに刺激になる。
このネットワークがどんどん広がり、結果として、ご家族の多くの患者さんのお役にたてればと思っている。
(平成26年5月18日)

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平和病院は生き残れない?

先日医療経営誌からの取材を受けた。
厳しくなる病院経営、これまでと同じことをただ続けていくだけでは生き残ることは難しい。
5年後、10年後の医療を見越したうえで、今から対策をとる必要がある。
特集のテーマは
2025年までになくなるのはこんな病院だ!
タイトルは結構刺激的だ。
いくつかの事項が挙げられ、「こんな病院がなくなる!」と書かれている。
平和病院が取り上げられたのは、その中でも各論、中長期スパンで経営戦略を考えていない:[地域の中で果たすべき病院機能」、の部分だ。
病院は地域の中で機能を分担し、地域の中でおかれた状況や医療ニーズを踏まえたうえで方向性を定めるべきであり、
そうでなければ地域から孤立し、目先の収益や「やりたい医療」だけを追い求めていては生きていけない・・・ということが述べられている。
もちろん、平和病院がつぶれる「こんな病院」として紹介されているわけではなく、
「こうした社会変化にいち早く対応し、変革を遂げた中小病院」として平和病院が取り上げられているのだが・・・
緩和ケアに力を入れ、地域連携に注力していることを記事してもらった。
緩和ケアに関しては、確かに鶴見区には平和病院しか緩和ケア病棟はなく、地域の中での大きな「特色」となっているが、
自分にとっては、同時にこれは「やりたい医療」でもあるわけで、恥ずかしながら、病院の中長期的な経営戦略を考えた結果、緩和ケアに注力したのではない・・
脊椎脊髄病センターも、今や全国から患者さんが集まる状況になり、常勤医師も新たに増えるようになったが、
これも田村センター長が「やりたい医療」を受け入れた。
(田村センター長は同じ雑誌に今月号で掲載されている)
もちろん自分は平和会の理事長であり、平和病院の院長でもあるので、経営、病院の生き残りに関しては当然頭に中の大きな部分を占める。
ただ、経営のために「やりたくない医療」を仕方なく行っているわけでもない。(やらなくてはならない医療は行っているが)
そう考えれば、やりたいことをやり、このように取材を受けるのは、熟考した結果ではなく、「たまたまついていた」だけなのか?
確かに平和病院の診療の特色は緩和ケア、血液浄化センター、脊椎脊髄病センターであるが、
基本的な診療部門、一般内科、一般整形外科、在宅医療などは今後も強化していかないと
それこそ「生き残れない」病院になってしまう。
現在平和病院の経営状況が順風満帆かといえば、決してそうではない。
新病院はできたが、当然借入金の返済はそれだけのしかかる。
新病院は、建てるまでも、もちろん大変だが、建ててからはもっと大変なのだということを、いやというほど思い知らされている。
自分が病院の舵取りを行うのもそんなに長い期間ではなくなってきた。
安定した経営状況で、次世代にバトンタッチし、後は、それこそ「やりたい医療」に専念していくことで、病院経営に貢献したいと思うが・・・
2025年といえば、あと11年だから、自分は72歳だ。
そこまで生きているかどうかも分からない。
このサイトでも、自分が病気になったときのことは書いてあり、自分でもたまに読み返すと、当時のことは記憶の中に鮮明に残っているのが分かるが・・・
自分にとって、今までの10年は病気にかかり、手術治療を受け、生き延びられた10年でもあり、
毎日、自分と同じ病気で亡くなる多くの患者さんを診ていれば・・・
「幸運にも」与えられた10年だったと思っているし、緩和ケア医としてのモチベーションにもなっている。
そういえば、手術は6月に受けているので、もうすぐ定期的な全身チェックの時期になる。
毎年この時期になって行う検査は、結果が出るまで不安な時を過ごさなくてはならない。
それは10年目になっても決して変わることはなく、逆に10年も時間を与えられた分、もし、何かあったらという恐怖は逆に強くなるし、
おそらく何かあった時のダメージも強いのかもしれない。
決して幸運な10年があったから、もういい…というものではなく、そういう意味では、自分は達観もしていないし、欲が深いのかもしれない。
話はそれてしまったが・・・
もうすぐ病院は創立記念日を迎える。
昭和21年4月25日、終戦直後に生まれ、地域に根を張ってきた平和病院を次の世代に残すことは、自分にとっての使命であり、
駅伝のように、自分が受け取った襷はシッカリと次につなげていかなくてはならない。
2025年、平和病院は地域の中で立派に「生き残っている」ことを信じたいし、その姿をこの目で見てみたい。
それが出来るということは、娘が結婚する姿や、息子が一人前の医師になる姿や、もしかしたら孫の顔も見れるかもしれない。

自分が長く病院の舵取りをしていると、たまに、自分がいなくなれば病院が回らなくなるような錯覚を覚えることがあるが、
決してそんなことはなく、自分がもし病院を去っても、平和病院は変わらずに診療を続けていくだろう、
自分のカラーではなくなるだけで、基本的な部分は変わらず、その時の院長のカラーで地域の中に在り続けるだろう。
そんな意味では結局、「自分にとっての今」を与えられた時間の中で自分なりに生きていくしかないのだろう・・・(平成26年4月13日)

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ハードな初日

今回の年末年始は、長老をいたわる配慮か、加藤君と林君が緩和ケア科の出番、当直を引き受けてくれたおかげで
12月30日から1月3日まではフリーにしてもらった。
病院は28日(土)の午前で通常業務を終了したが
午前中に自宅から電話があり、娘の体調が悪いとの連絡だった。
話を聞くと、いわゆる「盲腸」の可能性もあるので、すぐに病院にこさせ、検査をした。
腹部の所見は典型的な「アッペ」
CTで見たが、どうも虫垂炎というより「憩室炎」のようだ・・・
手術をしても簡単に虫垂をとるだけでは済まないので、即入院、絶食、抗生物質投与となった。
このまま悪化すれば、正月どころではなく、下手をすれば全身麻酔の緊急手術になりかねない。
さいわい抗生物質で炎症が治まってきたので30日に何とか退院できた。
ただ、油断はできないので食事制限、抗生物質の投与は続けた。
そんなわけで、いつもは逗子の実家で富士山と海を見ながら新年を迎えるところが、自宅での正月となってしまった。
逗子の魚屋さんには毎年刺身を頼んでいるため、わざわざ31日に刺身を取りに出かけ、とんぼ返りで帰ってきた。
病院の営業は明日(1月6日)からだが、昨日の4日(土)は当直、今日は出番と
自分にとっては一足早い仕事始めになった。
病院は年末年始といっても「誰かが」働いている。
出勤した職員にはご苦労様!と伝えたいが・・・
久々の出勤で電子カルテを開くと、緩和ケア科では、休みの間に旅立たれた患者さんも何人かいらっしゃった。
業務開始いきなり、緩和ケア科の患者さんの状態悪化の救急要請があり、その日は緊急入院3例、
電話の問い合わせでの入院要請もあり、本日2名、
帰ってくるまで5人の緊急入院があり、
その間にも、当直なので、けがの処置やら、風邪やら、下痢やら、不眠やら、いろいろな患者さんが来院し、
何時もの日よりめちゃくちゃ忙しく、しばらく休んだ分、体がついていかない。
部屋と外来と、病棟の行き来で結構歩くので、正月の食べすぎた体にはちょうどいいのかもしれない!
この間にも、入院中の患者さんのお看取り、お見送りもあり、
家に帰ったのは2時前、遅い昼ご飯を食べていたら、「ライディーン」が鳴り出した。
緩和ケア科の患者さんの緊急受診要請だ・・・
とりあえず、当直の先生に確認してもらい、状況によってはこれから再出勤となる。
こんな具合で、今年の仕事も始まった!
相変わらず、平和病院緩和ケア科は「
緩和野戦病院」のありさまで、今年も、モットーにしている「コンビニ緩和」が
まさに始まった感じがした。
明日も予定入院がある。
この調子だと、今日は夜も呼ばれる可能性は高いが、ゆっくり休ませてもらった分、パワー全開で新しい年のスタートダッシュをしていきたい。
あとは・・・
この増えすぎた体重をいかに戻すか・・・!
現在、
生涯最重量を更新し続けているので、この流れを断ち切ることも、今年の大きな目標の一つに掲げて、
今年もよろしくお願いします!
(平成26年1月5日)

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懐かしのハイランド

先日、神奈川県病院薬剤師会の卒後教育研修会にお招きをいただき、緩和ケアに関する講演をさせていただいた。
「緩和薬物療法のいろは~代表的な症状コントロールと薬剤~」
と題してお話しした。
泊りがけで2日間の研修のうち、1日目の夜7時からの予定だった。
参加者は薬剤師になって数年の比較的若いひとたちだった。
会場は、三浦海岸駅の近く、オーシャンリゾート、マホロバマインズ三浦だった。
完全な温泉リゾートホテルで、フロントに入ると、ふろ上がりで浴衣姿のおじちゃんやおばちゃん、
子供やおじいちゃん、おばあちゃんがウロウロしており、スーツ姿の自分は完全アウェイで、
ホテルの従業員さんと間違われそうな状況だった!
講演は午後7時からで、参加者も一風呂浴びて、食事が終わった後なので服装もリラックス!
こりゃあ、講演どころじゃなく、2次会でしょう!
とも思ったが、講演の後にもミーティングがあるとのことだった。
平和病院に勤務するまで、自分は浦賀駅前にあった住友重機浦賀病院に3年間勤務していた。
少し早めに家を出たので、講演が始まるまで、だいぶ時間があり、
脇道に入り、以前住んでいた
横須賀ハイランドを久しぶりに訪れた。
少し迷いそうになったが、すぐに「ごんべや米店」を見つけた。
この斜め前の家が、当時の住まいだ。
家は当時と同じようにそこにあった!
賃貸だったが、庭付きの一戸建て、しかも新築だった!
庭には少し掘り返すと、がれきが出てくる状況だったが、生け垣を自分で植えたことも思い出した。
その生垣も、ずいぶん大きくなっていたが、配置が微妙にずれており(アバウトに穴を掘って植えたので・・・)、
当時の面影そのものだった。
庭には娘が遊ぶ砂場を作ったりもした。今は芝で覆われていたが、当時は家庭菜園を作っていた。
椿の木に花がついていたが、その木もたぶん実家から運んで植えたものだと思う。
娘を抱っこしながら、出かけた公園も、まだ昔の面影を残したまま残っていたし、
魚がめちゃくちゃ新鮮で安かったスーパーも残っていた。
当時は、ハイランドの入り口には岡本太郎の太陽の塔のようなモニュメントがあったが、
それはなくなっていた。
すぐ近くにはゴルフの練習場もあった。
今と違い、当時は5時には病院を出られる日も多く、明るいうちに練習場につき、しばらくすると、
ベビーカーに娘を乗せた妻が、迎えに来たことも思い出した。
「なつかしいなあ~」
車を降りて少し歩くと、そんな言葉が、つい声に出てしまう!
タイムスリップしたような感覚になり、ノスタルジックな想いに、昔のいろいろなシーンが頭の中を駆け巡った。
今回の講演の場所は少し遠かったが、おかげで想い出の場所をふたたび見ることが出来た。
こんな機会を与えてくれた皆さんに、感謝したい!
(平成23年10月6日)

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娘に講義

先日、ある病院で緩和ケア研修会のお手伝いをした。
がん診療拠点病院では開催が義務付けられており、
毎年、5か所くらいから依頼を受け、講義や、ロールプレイの進行役(ファシリテーター)などを担当する。
娘は、臨床心理士資格取得のために病院勤務をしているが、
その病院で開催される研修会に参加することになった。
この研修会は、医師だけではなく、パラメディカルも参加するところも多く、
その中の一人で、娘も紛れ込む事になったようだ!
まさか、自分の娘の前で「
講義」をすることになろうとは、少し前までは全く想像すらできなかったので、正直困惑した。
と、いうより、ひじょ~~~~~~~にやりにくい!!
講義する部分は、いつもよく担当する「消化器症状」なので、改めてどうということはないのだが・・・
質問が出て、答えられなかったら「
父親のメンツが丸つぶれ!」・・・などと考えだし、いつになく予習も行ったりした。
当日、家から一緒に出掛けたが・・・
企画責任者のA先生からは、打ち合わせの時
「先生、さすがに娘さんはロールプレイの担当にあたらないようにしておきました」と、いわれた。
そりゃそうだ。そんなことされたらムチャクチャ緊張してしまう!
前日(2日間の開催だ)のロールプレイの時は当院の加藤君が、娘のグループを担当したようだ。
講義は午前中だったが、当日の参加者は非常に熱心で、「呼吸器症状」を担当したK先生の講義の後、
いつもはほとんど出ない質問が多数飛び出したので、
そのあとの「消化器症状」も同じ状況だと非常にまずい状況になるのでは・・・と余計力が入り、
A先生からは「先生、平常心で行きましょう!」などと言われ、講義を始めたが・・・
やはり、どうにもやりにくい、娘とはなるべく顔を合わさないように(前から2列目に座ってるよ・・・)
かつ、「うまくやらなくては!」との思いが前面に出すぎて、初めから「かみまくり」状態で、何とも情けない。
とても「平常心」どころではなかった。
ほかのファシリテーターの先生方も自分の娘が受講しているのを知っており、
似てますねえ」(この言葉は、娘が最も嫌がる言葉のようだが・・・)などと、娘を「確認」している。
午後は講義はなく、娘以外の受講者のロールプレイ担当なので、気が楽になったが、
ほかの講師の先生が、受講者に質問するときなどは、「あ~~、どうせ答えられないから、娘に答えさせないで!」
などと、変なところでドキドキしてしまったり、寝てんじゃないだろうな!などと気になったりで、
やはり、いつもの状況とは違い、終わった後はぐったり疲れてしまった。
息子も、あと何年かしたら、どこかで緩和ケア研修会を受講するかもしれないが、
おそらくそのころには自分も引退しているだろうから、こんな機会は、もう2度とないだろうと思うと、
貴重な経験をさせてもらったことに感謝する気持ちになった。(気は使ったけど)
帰りも娘と一緒に帰ってきたが・・・
「父さん、途中からはまあまあだったけど、初めは噛みまくりだったね!」と、辛口のコメントも出たので
「あのね、何時もは
も~~~っとうまくやってんだよ!」と、一応抵抗しておいた。
最近は研修会以外でも、いろいろ講演を依頼されることも多くなった。
鶴見区の在宅スタッフ向けのスキルアップセミナーも毎月開催されて講義をするようになり、
来月からは同じような勉強会が川崎南部で開催されることになり、講義を依頼された。こちらは5回シリーズになる。
まだまだ、それぞれの講演や講義が終わってから、自分でも、
今日はうまくできたぜ!と、納得出来る日はほとんどない。
まあ、本業は患者さんやご家族へのかかわりなので、講演のプロではないのだが、
やはり、わざわざ自分の話を聴きに来てくれている人には、少しでも何かを感じて帰ってもらいたい、と思うのも事実だ。
それはともかくとして、今回のようなことは、何年か前には想像もできなかったことで、
そんなことが実際に起こる・・・ことを思えば、これはもしかしたら、幸せなことかもしれないし、人生はそれだから面白い!
もうひと踏ん張りするのも悪くない・・・そんなことも感じさせられた1日だった。
(平成25年9月13日)

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夏休み

緩和ケア科の常勤が3人になったおかげで、夏休みが取れるようになった。
加藤君は先日、家族で避暑地に、林君はもうすぐ休みになる。
と、言うことで、今、自分が夏休みをいただいている。
去年は、娘も働いていなかったので久々に家族そろって旅行に出かけた。
もっとも、むちゃくちゃ暑い時期だったので、観光どころではなかったが・・・
今年は娘も仕事で休みが取れず、息子は合宿だの、東医体(医学系大学のスポーツ大会のようなもの)で、休みもあわず、
何もすることがない」まま、夏休みに突入した。
もともと、ワーコホリック(
仕事中毒)と言われているので
(自分では仕事に出かけないと落ち着かない…というほどではないとは思っているのだが)
何も予定がない休み…というのはしばらく経験したことがない。
スタッフステーションのカレンダーには「高橋先生夏休み不在(盆栽いじり)」と書かれてあったので、
盆栽いじりの部分は消して、「勉強・充電期間」と書き直しておいた。
この際、ふだんはやろうと思っていてできなかったことを、いくつか考えてみた。
運動不足なので、久々にワーキングでもするか、ゴルフの練習にでも行くか・・
映画でも見るか・・
頼まれている講演の準備でもするか・・・
投稿論文でも書くか・・・
いろいろ考えたが、結局初日は「
庭いじり」でカレンダーに書かれていた通りになってしまった。
次の日は「
年金の手続き!」にチャレンジだ。
60歳になったので、年金の手続きが必要なようだが、説明書を読んでもなにがなんだかわからない。
わざと年金を払いたくないので、難しく書いてあるのではないかと勘繰りたくなるくらいだ。
ふだんの日なら、めんどくさくて途中で投げ出してしまうところだが、平日に役所(年金事務所)に行けることなどまずないので
頑張ってみることにした。その前に電話でも相談したのだが、それでもよくわからない。
さらに、自分は1年間だけ千葉県の八日市場の病院で「地方公務員」として働いているので、厚生年金と、両方手続きが必要で、
お互いの役所にそれぞれの役所が発行した証明書を送らなければならず、
さらには戸籍謄本も必要で、住民票も必要、
おまけに今の住所と本籍地が違うので、戸籍謄本は東京から取り寄せなくてはならない!
住民票には本籍も書いてあるのに・・・
仕方がないので、年金相談(これをやること自体、自分は年を取ったことを認めざるを得ず、ひじょ~~に複雑な思いがする)の予約を取って
直接相談に出かけた(いつもより若作りで・・・)。
相談窓口のお姉さんは若くて(ラッキー!)親切に教えてくれたおかげで、
めんどくささも吹っ飛んで、ようやく申請が出来る見通しになった。
まだ、戸籍謄本が送られてこないので正式な申請はそのあとになるが、郵送でできるめどがついた。
ただ、手続きは終わっても、まだ働いて給料をもらっているので、実際にお金をいただけるわけではない。
その分プールされて、あとでその分を上乗せして貰えることもない!
それなら手続きをしなくても同じとじゃないか・・・とも思うが、
65歳になった時の手続きが、ものすごく面倒になりますよ!と言われれば、やらないわけにはいかない。
ワーコホリックではないことを証明しようと、この休みは「
絶対に仕事場に顔を出さない!」と考えていたのだが・・・
年金手帳を病院に預けてあるので、取りに行く必要があり、そのついでに(気になる患者さんもいるので)
ちょっとだけ顔を出してしまった。
結局、貴重な1日は年金がらみで終わってしまった。
今日は今日で、この前。宮崎県の飫肥を訪れたあと、城下町保存会の方とメールを交換する中で
曽祖父が、父の誕生の時に送った(初孫だった)武者人形を、
今、公開されている曽祖父の家に飾る計画が持ち上がり(来年の端午の節句のころに)、
人形の状況(何しろ自分の息子の初節句の時に出した以来、飾っていない)を確認しに実家に出かけた。
かなり大きなもので、箱が4つ、「大正3年4月3日誕生・初孫宏ノ為ニ求メ・・」と書いてあり
馬、大将、従者、旗持ちがそれぞれ別々に入れられている。
もう
100年も前の人形なので、どうなっているかと心配したが、意外に状態はよく、十分飾れそうだ。
この写真が「大将」、八幡太郎義家で、兜をかぶり、刀を差し、弓矢を背負い、白馬に乗る姿は、
結構迫力がある!
うまく話が進めば、来年は飫肥まで旅立ち、曽祖父の家に飾られ、観光客に見てもらうことになるかもしれない。
そんなわけで、なんやかんやで、時間は何となく過ぎていく。
その間に病院からのメールで「
内科の常勤医師の新たな就職内定!」のビッグニュースも飛び込んできた!
休み明け、来週末は、マンモグラフィ読影認定医の資格更新講習と試験がある!
この年になってなんで今さら試験なんだよ!と思ってしまうが、
今は何でも資格時代だ。指導医、専門医、認定医などなど・・・
昔は「医学博士」になることが目標の一つだったが、今は名刺の肩書にしかならない!
それなりに研究を行い、学会発表を行い、学位論文を書くのは大変な作業だったが・・・
実際、マンモグラフィに関しては今でも月に何百枚も判定してはいるし、
資格がない医師が読影してはいけないという規則もない!
何しろ、「名古屋」で開催されることが圧倒的に多く(主催者の都合で)、今回もわざわざ泊りで出かけなくてはならない!
ただ、夏休みをつぶしてマンモグラフィの勉強もね
…5年ごとの更新試験も、今回が4回目、
60歳以上は試験免除なんてこと、してくんないかなと、こういうとこだけ「歳」の恩恵を受けたくなる。
まだ休みは2日残っている。「仕事中毒」の緩和ケア医は、はたしてこのまま仕事を忘れ、病院に近づくことなく過ごせるか・・・?
(H25年8月16日)

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先祖をたどる旅

先日、宮崎で、日本消化器外科学会が開催された。
緩和ケア関連の要望演題があり、演題が採用されたので、久しぶりに宮崎まで出かけた。
発表は、初日のしかも午前8時半からの一番初めのセッションだったので、前日の火曜日に出発した。
羽田で飛行機を待っていると
同じ医局出身の同級生やら後輩やらがぞろぞろ集まってきた。
飛行機の便数もそれほど多くないので、集中したようだ。
宮崎には学生の頃、一度行ったことがあるが、もう37~38年も前のことだ。
実は父方の先祖は宮崎県の日南市、飫肥の出身で、
曽祖父は貴族院議員(多額納税者だったため)を2期務めた髙橋源次郎で、地元では、そこそこ有名だったようだ。
今回は息子も休みに入るので、ご先祖の地を見せるため、一緒に連れて行った。
発表の後、まずは鵜戸神宮に出かけた。
鵜戸神宮は、第1代神武天皇の御父君を祭っているが、前回訪れたときには、自分の祖母
(一緒に暮らしていたが、自分が小学1年の時に他界した)
が4歳の時に書いた「鵜戸神宮」という文字が彫られた石柱があったのを記憶していた。
今回の目的の一つが、この石柱を息子の見せることだったが、なかなか見つからない。
神社の人に聞いても分からないという・・・
今回は海沿いの比較的新しい道から入口にたどり着いたが、
前回はたしか、比較的急な階段の途中にあったような気がした。
よく見ると、「八丁坂」という場所があった。
以前は鵜戸神宮への参拝路として吹毛井の港から神宮の山門までの約800mほどの石段が続いているとのことだった。
ここではないかと思い、酷暑の中、息を切らせながら、階段を上ると(体力が落ちているのを痛感しながら・・・)
途中に古い石柱を見つけた!
全く人通りはなく、蔦が絡んでいる。彫られた文字も風化して読みにくくなっているが・・・
裏側には・・・「ワカ 女」と、書いてあった。
これに間違いない。ただ、以前に来たときには、もっと人通りも多く、こんな山の中、というイメージはなかったが・・・
それだけ時間が過ぎて行ったということなんだろう・・・
息子には見せることが出来たが、息子がもしかしてその息子を連れてくることがあっても、この石柱は、もう朽ち果てているかもしれない・・・
翌日は飫肥を訪れた。宮崎から飫肥へは杉(飫肥杉として有名)がびっしり植えられた山道を超え、宮崎から1時間以上かかる。
五万一千石の大名、伊藤家の居城だった飫肥城を中心に、古い街並みが続き、「九州の小京都」として、観光にも力を入れている。
電線がすべて地下に埋設されており、電柱が一本もない。
飫肥は小村寿太郎の生まれた町でも有名で、小村記念館もある。
曽祖父の建てた家は、飫肥城下町保存会が作った観光パンフレットにも「旧髙橋源次郎家」と、観光スポットとして掲載されていた。
茅葺だった民家が瓦葺へと転換していく初期の建築としても価値が高く、平成22年に母屋、倉などの5件が国の登録有形文化財として指定されて、今はだれも住んでおらず、
 
一般公開(有料で)されている。
まずは飫肥城観光駐車場の、案内書に出かけ、入館料が割引になる「食べ歩き・町歩き」MAPを購入する。
この時、「高橋源次郎の曾孫とその息子です」というと、MAPをオマケしてくれた!
まずは飫肥城、小村記念館に立ち寄り、いよいよ曾祖父の家に行こうとすると、・・・
記念館から男の人が走ってきて、「あの、、もしかしたら、髙橋源次郎さんのゆかりの方ですか?」と尋ねられた。
なんと小村記念館の館長さんだそうで、ご丁寧に名刺もいただき、
「おいでになる前にご連絡いただければ、ご案内したのですが・・・」と言われた。
どうやら観光案内所で素性を話したのが伝わっていたらしい。
こんな調子で、行く先々で「おかげさまで・・」とか「お世話になっています・・」とか言われるところをみると、
飫肥では髙橋家はそれなりの名士だったようだ!
今も残る明治時代の家屋を特別公開(宮崎県日南市飫肥) - YouTube
その後、オマケしてらったマップを見せて家の中をみた(先祖の家でも入場料は必要だ!)。
なぜか、この先祖の家を訪ねた人には「あゆみちゃん(飫肥のキャラクター?)かりんとう」がもらえる。
内部の様子は動画を見ていただくとわかるが、
時間もあまりなく、足を延ばして源次郎の別荘だった竹香園に出かけた。
今は日南市に寄贈され、桜の名所として有名のようだ。
その日、外はめちゃくちゃ暑く、とてもゆっくりと散策できるような雰囲気ではなかったが、
機会があれば、もう一度訪れてみたい・・・
飫肥名物のてんぷら(衣がついたいわゆる天ぷらではない)、
卵焼き(普通の卵焼きとは全く違い、どちらかというとプリンのようだ)を堪能し、飫肥を後にしたが・・・
これを読んだ方で、九州に出かける人がいたら、ぜひ、時間をつくり、飫肥の町まで足をのばしていただきたい。
同じ日、テレビの旅番組の取材で、よく見かける女優さんが撮影をしていた。
今回、息子はあまり興味なさそうについてきたが、できれば息子もその息子を連れて、
この静かな町を一緒に歩いてほしい・・・そんなことを思いながら、
しばし仕事を忘れ、のんびりした1日を過ごした。
(平成25年7月24日)


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術後9年目の日

6月22日
自分にとっては忘れられない日を今年も迎えることが出来た。
9年前のこの日、自分は51歳で右肺の一部を失った。
今年はちょうど横浜で日本緩和医療学会が開催され、自分も口演発表があり、朝早くから会場のパシフィコ横浜まで出かけた。
この日になると、必ず思い出すのは、手術当日、台風一過の朝、朝早く起きて病室の窓から見た外の景色・・・
今まで見たこともないような
真っ青な空と、木々の深い緑、まぶしいくらいの朝日
今も鮮明に思い出すことが出来る。
あれほどの青い空と、木々の緑は、それまでも、そしてそれからも見た記憶がない。
何か特別な思いが、網膜を刺激していたのかと思うほどだ。
平和病院の緩和ケア科に紹介されてくる患者さんの約25%は肺がんの患者さんだ。
年間600名以上の患者さんが来院されているので、単純に計算しても150人は自分と同じ病気の患者さんと巡り合う。
その患者さんの多くが、発見時には手術も出来ず、抗がん剤の治療や放射線治療となり、あるいはそれも出来ず
再発、転移が見つかり、痛みや息苦しさを感じ、短い間にお別れになってしまう場合も多い。
あのとき・・・
病気が見つかり、手術が出来、さいわい再発や転移もなく、今まで生きてこれた自分と、その患者さんたちは、何が違ったのか・・・
分かれ目は何だったのか・・・たんなる運のよさなのか・・・
あの時、あと数か月検査が遅れていたら、おそらく、今、自分はこの世にいなかったろう・・・
いろいろ考えても答えは出てこない。
先日、在宅スタッフ向けの緩和ケアスキルアップセミナーで、受講者の方から質問が出た。
「時々、『癌になって良かった・・』という患者さんの話を聴くことがあるが、本当にそんなことがあるのか?
もしあるとしたら、どんなことなのでしょうか・・・?」
という趣旨のものだった。
今日、当直明けで、緩和ケア病棟の病室を回った時、入院中のTさんと少し長くお話をした。
膵臓癌の患者さんで、ご自分の病状は十分ご理解され、抗がん剤の治療を自らの判断で中止し。
自分のやりたかったことをこなし、最近入院された。
治療医からは、「抗がん剤やらないと死んじゃうよ!」と言われたとのこと・・・
抗がん剤はつらく、体力がどんどん落ちていくのを感じ、元気なうちに、やりたかったことをやりたい・・との思いで、
自らの意志で治療を中止し、
色々な場所に出かけ、趣味を楽しむことも出来たが、徐々に体力の衰えを感じ、ついに当院にたどり着いた。
「初めは、なんで自分が…って、思いましたよ。でも、考えてみたら、今までの1年間は、つらさもなく、好きなことをでき、
色々な人に巡りあうことが出来ました。心臓の病気や、脳の病気では、そんなことも出来なかったかもしれないと思えば、
自分はまだ癌でよかったのかもしれませんね・・・」
もちろん、癌になんて、ならないほうがいいに決まっている!
はじめて癌を告知された時に、ああ、よかったと思う人など誰もいないのではないかと思う。
そういう意味では「癌になってよかった・・」ことを探すのは、難しいのかもしれないと思うし、
もし、自分に再発や転移がおき、残りの時間が短いことを悟った時に、そう思えるのかと言われれば、まったく自信はない。
ただ、確かに、急変する病気に比べれば、発見の時期によっては、家族、友人との時間を過ごし、
仕事の段取りをつける時間が残されているが・・・
それでも、その間に自分の人生の理不尽ともいえる運命を、素直に受け入れられる人は多くはないのでは・・・と思っている。
癌の告知を受けると、自分の周りで、今までは当たり前と思っていたこと、自分の周りの景色、家族、日常の仕事・・・
あらゆることが自分の前から消えてなくなることを想像する。
そして、その「当たり前と思っている日常」の、大切さや価値を思い知らされる。
自分が手術の数か月後に初めて出かけた北海道の、何でもない景色さえ、もしかしたら、もう見られなくなる、
これが一生の中で最後のチャンスかもしれないことを思うと、その景色が、名画のように、素晴らしいものに感じられた事を覚えている。
家族や友人と過ごす1日、仕事ができる1日が、以前に比べれば、ずっと大切に思えるようになる。
どんなに忙しくて、「あ~めんどくせえ」と思っても、それが出来る自分は幸せなのだと割り切ることもできる。
「癌になってよかった」ことがあるとすれば、もしかしたら、そんなことなのかもしれない・・・・という答えをした。
手術が出来て、何とか今のところ、再発も転移もなく暮らせている自分に比べれば、
自分の目の前の患者さんやご家族は、あの時の自分より、心も体も何倍ものダメージを受けていると思わるが
そのつらさやショックの、ほんの一部分だけでも、かつて自分も同じように経験し、
それを知らされた時に妻や子供たちが流した涙を見たことのある自分は、
それを経験していない医師に比べたら、少しは患者さんやご家族の気持ちに近づける経験を積んだのかもしれない。
もしかしたら、そんなことも、自分にとっては「癌になってよかった」ことなのかもしれない。
毎年、この時期は、いろいろと検査を行うが、何年か前からどうもこの時期は、咳が長引く。
去年も、おととしも同じような症状があり、CT検査を受けるのが、ものすごく怖かった。
検査当日、出来上がった画像を見た瞬間、自分の人生が大きく変わる可能性があるのだ。
何年たっても、出来上がった画像を見る時の不安や恐怖は消えない。
今年は、少し早めに検査を受けたが、検査の後で同じような症状が始まった
(今はだいぶおさまってきたが、マスクをしていないと怒られた!
周りの職員が風邪気味になると「院長風邪」の感染源とさえ言われる始末だ)
さいわい結果は今年も異常所見は発見されず、自分にとっての新しい1年が始まった。
6月22日は、正月、年度初めなどとは違った、自分にとっての節目の日になる。
そんな日に緩和ケア関連の発表をした今年は、なにか特別の1日になった様な気がした。
(平成25年6月吉日)

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10年ぶりの幸福

息子が、「すごいにおいがするんだけど・・・」と言い出した。
2階の部屋に行ってみると、確かに甘い香りが・・・

  よく見ると、幸福の木に白い花が!
確か、ずいぶん前にも同じよう葉ことがあったと思ったら、やはり書いてあった。日付を見たら、平成15年の4月だから・・・
なんと、10年ぶりのことになる。
その時は、初めての経験で、絶対何か素晴らしいことが起こるに違いないと信じ、単純に宝くじを買い、億万長者を夢見たが・・・
あえなく全部がハズレだった。
今回はどんな素敵なことが…と、期待はしてしまうが、
さんまの出演したCMで、「しあわせ~ってなんだっけなんだっけ、ポン酢しょうゆのある家さ」なんて歌があったが・・・
何か特別のことではなくて、健康で、当たり前に、ささやかに暮らせることが、結局は「幸福」なのかもしれない。
緩和ケアにかかわると、夢に途中で「あたりまえ」の生活が出来なくなる人を多く見なくてはならない。
10年前に比べると、そんな患者さん、ご家族との出会いは比べ物にならないほど多くなっている。
自分も、今、こうして病気の再発もなく、転移もなく暮らせていること自体が「幸福」なんだと思う。
でも・・・
このま~~~しろな花を見ていると、やっぱり、それだけで何かちょっと特別なことが起こるかもしれない・・・と期待はしてしまう。
やっぱり、宝くじ…買っちゃうんだろうな
(平成25年5月26日)

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スマホデビュー!

携帯電話は、今までずっとドコモを使っていた。初めて使い始めてから12年近く!
ほかの会社に浮気もせず、他の家族全員がソフトバンクで、メールも携帯も家族同士は無料のなか、頑固にドコモだったのだが・・・
使っていた携帯の電池の部分のフタをどこかに紛失してしまい、
この際、スマホに変えてみようか・・・・などと思い、それでもなかなか勇気も出ず・・・
時間ばかりが過ぎて行ったが、先日、ついに決心してヨドバシカメラで品さだめし、ギャラクシーをいじり、
いろいろな設定変更もあると思い、モアーズのドコモショップに出かけた。
この時点では90%以上、ドコモを継続するつもりで、順番を待ち、担当のお姉さんの前に座った。
「あの、この携帯の電池のパックが無くなったのを機会に、スマホに変えようかと思うんですけど・・・」
清水の舞台から飛び降りる覚悟で相談したのだが・・・
このお姉さん、ニコリともせず、
「機種はお決まりですか?」
「現在の料金プランは…ですので新しくすると・・・・・」
説明はしてくれた。すご~~~く事務的な感じで!
それでも、機種変更の決断は時間の問題か・・・・とも思われたが、
やはり今の携帯の電池のフタを購入すればいいのでは…との思いが一瞬よぎり、
「ん~~」と少しの時間迷っていた。
商売熱心な店員さんなら、ここでひと押し、にっこり笑って、いい点を強調し、「いかかですか?」といえば・・・
たぶん、すんなり話は決まったのに、
考えようによっては、後悔しないようにじっくり考えてもらい、その点ではお客さん思いなのかもしれないが・・
その店員さんは、相変わらず無表情で、「もう少し考えてみたらどうです?」と、そっけなく一言!
ひがみっぽい目で見れば
「めんどくさいおっさんだな~~、早く決めてくんねえかな・・・」と、思わず声なき声が聞こえてくるような感じで、
とてもそれ以上話をする気にもなれず、「そうですね・・・もう少し考えます」と、店を後にした。
モアーズには同じフロアにauもソフトバンクもあるので、
スマホに未練たらたら、あきらめきれず、ソフトバンクの店にふらっと入った。
担当の男性社員は、にっこりと笑顔で対応、いろいろ話を聴いてくれ、料金プランを細かく説明、
「ほかのご家族全員が入っているなら、絶対お得ですよ!」
「今他社からの乗り換えの場合の特典は・・・・さらにギフトカードが3万円分!」と・・・・
スマホに揺らぐ気持ちをぐいぐい押してくる。
結局・・・
今、自分の手元には
アイフォン5が!!
ただ、今までの操作と違うので、まだメールを打つのにめちゃくちゃ時間がかかるし
どっちに指をスライドさせるんだっけ?上か?右か?左か?
といった状態で、病院のメールをアカウント設定するのにも手間取り、ようやく数日前に操作完了した。
(結局は以前とパスワードが変わっていたので、設定できなかったのだが、コールセンターの女性も非常に丁寧な対応をしてくれた。
実際に操作しながら説明してくれるのだが、アドレスなどの入力に時間がかかるのを「大丈夫ですよ、ゆっくりやってくださいね!」
などと、励まされながら、操作することが出来た)
着信音をどうしようか…と考えたが、
携帯電話を使い始めてから一度も変えることがなく、YMOの
ライディーンだった。
家族にとっては、このメロディーは即、緊急呼び出しを意味するので、「もういい加減に変えたらどう?」と言われたが、
結局、娘に操作を頼み、「ライディーン」のままにした。
この曲は自分にとって、長い間の「進軍ラッパ」のようなものであり、
「よっしゃあ!さあ、行くぞお!」と気持ちを奮い立たせる効果もある(ように刷り込まれている)
自分の葬式の時に流れれば、棺桶のふたを開けて出てくるかもしれない・・・
それにしても思ったのは・・・
サービス業における接遇の大切さで、
たぶんあの時、ドコモのお姉さんの対応次第では、たぶん、まだまだドコモのプラチナ会員として使い続けていただろうに…ということで、
医療スタッフの表情だとか、話し方とかの印象は、患者さんの、その病院に対するイメージっも大きく変えるのだろうと実感した。
たぶん、今の自分の操作は、アイフォン5の機能の5%くらい?しか使っていないと思うので、
そのうち、すいすいいろいろな操作できるようになりたい!
と、思い、本屋で思わず「アイフォン5:知りたいことがズバッとわかる本」を買ったら・・・
こんな本なんて買わなくて、ネットで調べりゃいいじゃない。こういう本を買うこと自体がもうおじさんなんだよ!」と娘からバカにされた。
(平成25年5月10日)


高速廻診?

わが娘も、病院勤務を開始し、早くも1か月近くになる。
いままでのんびり大学、大学院に通っていたので、朝の早起きは、なかなか慣れないようだ。
困ることといえば、息子と、娘と自分が洗面所を使う時間が重なるようになり、大混乱をきたすようになったことか・・・
臨床心理士を目指すといっても、医学用語はちんぷんかんぷんだし,
解剖はわからないしで大変なようだ・・・
先日も、「コウソク廻診」があるので一緒に回るように言われたようだが、
本来は「拘束廻診」で、いわゆる身体拘束を必要とされる患者さんに関しての廻診のことなのだが・・・
(身体拘束というと、ベッドに縛り付けられるイメージを持つ人もいると思うが、
今は、簡単なマットセンサー等も身体拘束に入るので、どの病院でも必ずこのような患者さんは入院している)
何を思ったか、娘は「高速廻診」と思ったらしく・・・
ものすごい勢いで、一気に患者さんの廻診をするのだと思ったようで・・・
「コウソク廻診て言うからさ・・・マジで、駆け足で廻診するのかと思って・・・。めちゃめちゃ気合入れてたんだけどなあ・・・
普通に歩いていくんで、あれ?とか思っちゃった!」
その発想って・・・
まあ、わからなくもないが・・・
先輩職員や、医師、看護師の話の内容も、さすがにまだまだ理解できないせいもあり、
それなりに自分でも努力して、いろいろ調べてはいるものの、「医学」を学んできたわけでも、臨床現場にいたわけでもないので
「CVポートってなんなの?」などと、家に帰ればいろいろ質問してくる。
こっちは35年も医者をやっているので、今のところは答えられないものはない。
(ただし、息子に関しては・・・自分がもうとっくに忘れていることや、新しい知識をを習い始めているので、
こっちにもわけがわからないことを聞いてきたりすることもあり、なかなかあなどれない!)
ちなみに、妻も、はるか昔、大学病院でたった1年間だけ看護師をしていたので、すこ~しは記憶に残っているようで、
娘の質問程度なら何とか答えられるものもあるようだ。
いずれにしても、子供達と自分の仕事の領域で話が出来るのは悪いことではなく・・・
ふたりとも早く一人前になり、古くなっていく自分にはわからないことの質問に答えてくれるようになってほしいものだ。
(平成25年4月29日)




片側のスネ

3月16日は、娘の卒業式だった。
大学の卒業式は2年前の3月12日の予定だったが、前日の予行演習中に、大震災があり、講堂の壁の一部は壊れたりして
もちろん卒業式は、延期ではなく中止になった。
当日は、自宅に帰れず、多くの卒業生は、今回の卒業式が行われたホールに泊まった。
その後、同じ大学の大学院に進学したので、今回は「修士学位記授与式」になった。
当日は気候も良く、広尾の日赤医療センターの近くにある学校は、緑豊かで、静かで、別世界のようだった。
同時に「博士学位記授与式」も行われたが、合わせても30人程度なので、ホールは、親や兄弟がいてもガラガラの状況だった。
当日は当直にあたっていたが、戻るまで加藤君に留守番をお願いして出席することが出来た。
式が始まり、羽織袴や着物ではなく、ハリーポッターの場面に出てくるような、帽子とガウンを着て、学位記をもらう娘の姿を見ると、
それなりに、子供のころからの場面が頭に中に次々に浮かんできて、感慨深いものがあった。
生まれたての頃、久里浜の自宅近くの公園に行って遊んだこと、
海でおぼれかけたこと、
階段から落ちて骨折したこと
小学生の時に誘拐されかけたこと・・・
花火の火が浴衣に燃え移って、やけどしそうになり、花火を消すために使っていたバケツの水をかけたこと・・・(なぜかこんなことばかり思い出す!)
中学校の入学試験の面接に付き添い・・・
先生から、「もし、空飛ぶ絨毯が、あなたのものだったら、どうしますか?」と質問された時
「友達に自慢します!」と即答してしまったこと・・・
「おいおい、そうじゃなくて、いろいろな国のお友達を作るとか…そういうことを言うんじゃないの?」と、これで不合格決定!と覚悟したこととか・・・
(結果はやはり不合格だった)
そのほかにも、このサイトでも娘のことはいろいろ書いてしまっているが・・・
大学の入試の前に、さんざん一緒に面接対策をしたこと(AO入試だったので)・・・などなど
大学と、大学院では心理学を学び、目指す臨床心理士になるために、さいわいにも4月からは、資格取得条件となる病院に勤務することが決まっている。
将来は「緩和ケア」にかかわる臨床心理士になりたい・・・と思っているようで、自分が緩和ケア科の医師として、患者さんやご家族とのかかわりの中で、
つらい思いを受け止める難しさは見ているだろうし、それなりに伝えているはずなのに・・・
「重い仕事になるぞ」、といったとき、
「はっきり決めたのは、父さんが病気になった時なんだからね!」と答えた。
娘は、娘なりに、高校生の時に、父親が「がん」になったのを知ってしまい、感じたことがたくさんあったのかもしれない・・・
「父の背中を見て」・・というより、そういう思いをさせたことには、病気だから仕方がないこととはいえ、どこか後ろめたさも感じてしまう。
まだ、試験に受かるまでは正式な資格はないので、給料は高くはないが、ようやくバイト(塾の講師や、児童施設での当直)以外で、収入を得ることになる。
息子はまだ大学生で、順調に行っても卒業までには5年もあるが、ようやく片側のスネはかじられなくなる!
ただ、資格試験までは1年半もあるが、
「初志貫徹」、思った道に進むため、これからも勉強して知識と経験を身に着けてもらいたい。
これから、自分の働く分野に「首を突っ込んでくる」娘に、嬉しいような、それでいて心配な、複雑な思いで娘のガウン姿を見ていた。
でも・・・今はただ一言・・・卒業、おめでとう!
(平成25年3月17日)




久々の体調不良

先日、寝ている間から変な汗をかき、体調が悪いな…と思っていたが、夜中に頭痛もひどくなり、鎮痛剤を使ったりしたが全く効き目がなく・・・
いつもの時間に起きたとたんに、急に吐き気がしてトイレから出られなくなった。
とても勤務に行けるような状態でもない。
一瞬、脳がやばいかとも思ったが、麻痺もないし、言葉もしゃべれるし・・・意識もしっかり?している。
火曜日だったので、外来はびっしり予約が入っていたが、とてもすぐに出勤できる状況でもなく、
病院の電話をし、加藤DRに外来をお願いし、再度横になった。
火曜の午後は、加藤DRは外勤のため、10時ころには何とか起き上がり、病院に向かった。
その日は緊急入院もあり、何とか新患枠の11時からは外来に出てみたが、電子カルテに打ち込みながら話を聴く元気もなく・・・
カルテはあとで書くことにして、話だけをさせてもらった。
外来が終了後は、吐き気止めを入れた点滴をしたが、それでも復活しない。
火曜日の昼は週1回の経営委員会があり、その後は病院の送迎バスを増やすためのミーティングなどの予定もあり、
なんのかんので帰ることも出来ず、かといって食事をする気にもならず、3時過ぎに早退させてもらった。
そのまま朝まで横になっていたが、さいわい翌日にはやや体調も復活したので通常出勤した。
前の日は、相当顔色も悪く、むくんでいたようで、いろいろな職員から、「だいじょうぶですか?」と、声をかけてもらった。
別に自分としては無理をした覚えもないのだが、体力は気力とは別に確実に落ちているようで・・・
少しセーブが必要なのかもしれない。
体調を壊すと、結局は仕事に支障も出るし、年間500人を超える新しい患者さんたちの対応も滞ってしまうことになる。
ただ・・・まだまだ新病院の経営状況は不安定で、手を抜くわけにもいかない。
とりあえずは患者さんの多い部署がMAXまで頑張って、弱体化した部分を強化するまで持ちこたえないといけないことになる。
緩和ケア科は、余力は十分ではないが、まだ伸びしろはある。
4月からは新たな戦力も加わる。
体を壊さないギリギリを見極めて、アドレナリンを出し続けなくてはならない。
今回の体調不良は、「警告」の意味もあったのかもしれないが、とりあえず、これを書いている時点では、
いつもより体調はいいくらいだ!
今日は土曜だが、当直はなく
横浜労災病院の泌尿器科・副院長の山口君(大学の同級生で)が鹿島労災病院長として4月から赴任する記念講演会に出席してきた。
彼も労災病院に、自分が平和病院に着任した平成3年に赴任した。
今の労災病院泌尿器科をここまで育てたのには、ずいぶん苦労があったと思う。
同級生が近くからいなくなるのはさみしい気がするが・・・新たな勤務先での健闘を祈りたい!
それはともかく。明日も当番ではないので、とりあえずはじっくり体調を整えることにしたい。
(平成25年3月9日)



還暦

今日は60回目の誕生日。還暦になってしまいました!
そもそも賀寿の祝いは、もともとは中国の風習だったようで、奈良時代に日本に伝わり、平安時代には貴族の間で広く行われるようになったそうです。
当初は数え年40歳の「初老の賀」に始まり、10年ごとに行われたようで、数え年61歳の「還暦」、70歳の「古希」
77歳の「喜寿」、88歳の「米寿」、90歳の「卒寿」、99歳の「白寿」など今もおこなわれる長寿祝いは室町時代に一般庶民の間でも広まったとのことです。
還暦は暦の干支が61年で生まれた年の干支に戻ることから名づけられたと言われ、
還暦祝いには赤ちゃんに還るという意味と、赤が「魔除け」の色と言われていることから、
赤い頭巾や、赤いちゃんちゃんこなどが贈られることが多いとのことです。
19日の土曜日は当直で、誕生日の瞬間は当直室で迎えました。
20日の午前中は病室を廻診し、昼頃に帰宅すると、
プレゼントが・・・
箱の中身は写真のような
赤い頭巾とちゃんちゃんこでした!
ケーキは定番の「不二家」
今回はただの蝋燭ではなく、ペコちゃん、ポコちゃんのスペシャルバージョン(有料)で「6」と「0」の2本
さっそく頭巾をかぶり、ちゃんちゃんこも着てみました。
実はこのほかにもプレゼントが・・・
赤いボクサーブリーフで・・・
前の部分に「60」、後ろの部分に「祝還暦」とかいてあるものですが、
さすがにこれを着ているところをアップする勇気はなく
ひそかに着用しました。
還暦は赤ちゃんに還るという意味もあるようなので・・・
年を取った!と嘆くよりは、初心に還ったつもりで、新しく成長していけたらと思います。
ただ・・・59歳と60歳はたったの1年ではあるのにすご~~~~~く違うような気もして、
49歳から50歳になった時とは違った感覚です。
今年は厄年でもあり、先日、鶴岡八幡にはお参りし、厄除けもお願いしてきましたが、
無事に、健康で、仕事も順調にいく1年であればと思います。
(平成25年1月20日:誕生日に)




5研新年会

1月12日(土)には毎年開催されている、千葉大学臓器制御外科5研(第5研究室)の新年会が幕張の中華料理店で開催された。
自分が、一応、OB会長になっているのこともあり、毎年よほどのことがない限り参加している。
今では研究室の誕生当時の第5研究室(肝臓研究室)はなくなり、教室そのものが肝胆膵外科として発展し、日本はおろか、世界にも名だたる業績を挙げるようになった。
何回か書いたことがあるが、今の宮崎教授と自分の同級生3人のたった4人で始まった研究室が、大きく世界に羽ばたくようになることなど、
結成当時は思いもよらなかった。
大学を離れてもう25年にもなるのだから(今でも関連施設には在籍し、平和病院の外科人事は大学の人事で動いているが)その間、
研究室を基礎、臨床で支えてきた多くの後輩の力が実を結んだものであり、それを指導してきた宮崎教授の並外れたパワーは尊敬に値するし、驚異的でもある。
大学を離れた後輩たちも、それぞれの派遣病院で、実績を積み、院長、副院長、外科部長になっている。
平和病院に出張していた、若いDRたちも、今の大学を支える中心的な役割を担っている。
自分が大学病院に勤務していたとき、新人で入ってきて、よく飲みに連れまわした清水宏明先生が、准教授になった!
大学を離れて今まで、自分は何をやってきたのだろうか・・・後輩たちの現状報告聞いていて、ふと思った。
4半世紀を振り返ると、バタバタとあわただしく過ぎていっただけのような気もする。
院長になって12年、病院経営にかかわり、新病院が出来上がり、
外科医から緩和ケア医へと、大きく舵を切ったここ数年は、自分にとっても大きな節目ともなった。
まだまだやりたいことはあるが、病院のトップとしての時間は、今までの時間に比べればあまり長くはない。
宴会の席は、くじ引きで決められたが、2席だけは確定で、教授の隣に私が座ることになっていた。
昨年は体調を崩され、途中で退席された教授も今回はお元気そうで、安心した。
教授に比べれば、自分の忙しさはまだまだ・・・という気にさせられる。
どこからあのエネルギーとモチベーションが生まれるのか不思議なほどだが、
そんな姿を見ると、自分も頑張ろうという気になってくる。
いろいろな人事の話も出てくるので、何気なく「先生、平和病院の人事も考えていただかなくては・・・」と話したら
「うん、その件では、今ちょっと考えてることがあってな・・・近いうちに電話する!」とのこと!
つつつ
いつも教授からの人事の話は突然夜、自宅に電話がかかってきたりするからなあ・・・
宴会の席なので、それ以上詳しくはきけず、しばらくは落ち着かない日々が続くことになってしまった。
毎年、今どきの時期は、若い出張医の人事が決まるが、関連病院に「就職」した、かなり上の学年(医長・部長クラスでさえ)も
様々な「おとなの事情」で移動がある。
実際、今の増田副院長の人事も。確か2月頃に突然決まったとおもう。
どうも、そんな感じを匂わせる発言だったが・・・気になるよね・・・
実は、昨年中も何件か、教授からは直接お電話をいただいたことがあったが、実際に平和病院への移動には至らなかった。
さて今回は???
それはともかく、
その日は、久しぶりに飲んだアルコールのせいばかりではなく、教授や後輩たちのエネルギーを分けてもらえたようで、
気分よく、楽しい時間を過ごすことが出来た。
(平成25年1月12日)



銀婚式の日に

先日、11月28日は自分たち夫婦の25回目の結婚記念日だった。
平日だったので、23日の休日に子供たちと4人で久しぶりに外食でお祝いをした。
25年といえば、四半世紀であり、お互いずいぶん年を取った。
子供にも二人恵まれ、それなりにぐれずに育っている。
途中で自分は大きな病気をしてしまったが、さいわい、まだ再発も転移もなく過ごせている。
記念日の当日は、たまたま東芝病院の新体制披露式典が、品川のホテルで開かれたので、
出席してきた。23日に食事もしたから、その日は改めて何をするわけでもない…とは思ったが、
やはり人生の大きな節目の日であることには間違いはない。
誕生日と違い、二人の記念日なので、一方的に何かをプレゼントするのも・・・とも思ったが、

何か記念品を買おう・・という話はあるが、結局まだ実現はしていない。
会場のホテルに早目に着くようににでかけ、せめて花でもと思い、フラワーショップを探した。
ベルキャプテンに聞いたところ、ショップは7時閉店とのことで、もう5分しか残っていない!
あわてて飛び込み、花束を頼んだ。
「今日は結婚記念日なので、嫁さんにプレゼントしようと思って・・・」
閉店間際だというのに、ショップのお姉さんは丁寧にアレンジしてくれた。
いつも、妻の誕生日とかにも花を買って帰るが、いつもよりずっときれいな感じで、
たぶん少しおまけもしてくれたようだ。
そんなわけで、写真のような花束を作ってもらい、会場に持ち込むわけにはいかないので、
いったん駐車場の車に戻り、パーティーに出席した。

東芝病院は院長、副院長、事務長が交代し、新たな体制で地域医療に貢献する決意が感じられた。
始まってしばらくたったころ、会場で、突然肩をたたかれた。

誰かと思ったら、長いこと会っていない大学の同じ医局の同級生で、開業しているM君だった。
驚いたが、東芝病院の近隣の医師会の副会長になっている関係で、招待されていたらしい!
世の中は本当に狭い・・
パーティーの途中に娘からメールが届いた。
「ケーキ買ったから、なるべく早く帰ってきて!」
とのことだが、途中で退席することも失礼なので、最後まで出席して、ホテルを後にした。
その日は緩和ケア科のオンコール当番が自分だったので、呼ばれる可能性がある。
実際、パーティーの途中でも病棟看護師から指示を仰ぐ連絡がはいった。
あと30分ほどで家に着く頃、また病院から電話があった。
2日前に他科から転科した患者さんの状態がやや悪化しているとのことだった。
平和病院の緩和ケア科では、学会中とか、重要な会議とか、特別の事情がない限りは、
原則、自科の患者さんの夜間対応は、当直医師ではなく、当番制を組んで自分たちで対応している。
ただ・・・
ここで病院の方向に向かえば、確実にその日のうちには帰れないことが予想された。
どうしようか・・・運転しながらも、かなり迷ったが・・・・結局当直の先生に電話で対応をお願いした。
普通の記念日だったら間違いなく病院に向かったとは思うが、やはり25年目の結婚記念日はその日しかなく・・・
そのまま花束をもって自宅に向かった。
結局、帰ったころには遅い時間だったので妻や子供たちは、、既にケーキを食べ終わっており!
自分だけでぼそぼそ食べることにはなったが・・・
それでも、なんとかその日のうちに、花束は渡すことが出来た。
「今まで一緒にいてくれてありがとう…これからもよろしく」などと、ありふれたセリフしか出てこなかったが・・・
娘がケーキを用意してくれたことはうれしかったし(息子はそこまで気が回らないようだ!)
やはり、節目の日には、それなりの感慨があった。
(平成24年11月30日)




2等当選!

先日、オータムジャンボ宝くじを買った。
みずほ銀行の職員が、病院に出張してくれるのだが、
病院経営の厳しい中、もはや宝くじに頼るしかないか…とのことで、思い切って買ってみた。
なんと・・・・・なんと・・・
題名のとおり・・
見事2等当選!
なんて、うまい話があるわけないじゃない。
いつものように、下一桁が当たっただけ、あっという間に紙屑と化した。
それからしばらくしてからのこと、
自宅に「やずや」から郵便物が届いた。
我が家では「やずや」の「にんにく卵黄」だとか「香醋」とか「おたっしゃ勇吉」とかを愛用している。
最近、「やずや」では、いつまでも青春キャンペーン!
といって景品が当たるキャンペーンがあったのだが、その2等にみごと(?)当選した!
わくわくしながら開封してみると・・・中から出てきたのは2本のDVDだ。
日活100年記念のDVDで、タイトルが「伊豆の踊子」と「太陽の季節」だった
伊豆の踊子は吉永小百合と高橋英樹、大阪志郎、十朱幸代、宇野重吉・・・
「旅芸人の踊子の初恋・・・吉永小百合の魅力がはじける珠玉の作品」
太陽の季節は長門博之、南田洋子、石原裕次郎、岡田真澄・・・
「すべてはこの映画から始まった!石原慎太郎が芥川賞を受賞し、センセーショナルな話題となった原作を映画化」
な~~~んてレトロな感じ、そしてワクワクするようなサブタイトル!
定価は1890円と書いてあったから、2等としては、まあまあなのか?
ただ、「太陽の季節」は1956年、「伊豆の踊子」は1963年制作だからなあ・・・
まだ、自分が3歳と10歳の時だから、ぜんぜん「青春」って感じでもないし・・・
それだけ、「やずや」の顧客層の中では、自分はまだまだ若いほうだということか・・・?
とにかく「感謝の気持ちをこめてお送りします」って封筒に書いてあったし・・・
ありがたくいただくことにした。
まだ、見ていないが・・・・
最近は韓国ドラマ(「栄光のジェイン」は、結構はまってしまった)ばっかりだったから、
たまには昔の日本映画もいいのかもしれない。
(平成24年11月3日)



あわや大惨事!

この前の土曜日、千葉大学の臓器制御外科の洽仁会(関連病院院長医長会議)が開催された。
関連病院の責任者たちが集まり、大学の現状、来年度の出張、派遣医師の状況などの報告が行われる。
今回の当番病院は国立病院機構下志津病院で会場は千葉市内のホテルで行われた。
いま、大学からは平和病院を含め34施設が医師の派遣を受けている。
大学時代、一緒に大学病院で働いていた、自分と近い学年の先生たちが、もう、それぞれの院長、副院長になっているが・・・
顔を合わせると時代が逆戻りし、懐かしい思いがする。(それぞれが、それなりに年取ってるんだろうけど・・・)
自分は、ここ数年、いつ呼ばれるのかもわからない状況だったので、増田副院長に参加してもらっていたが、
今年は久しぶりに参加した。
会議が進行し、宮崎教授が壇上で話していたとき・・・
すぐ近くで「ガシャ~~~ン」という、かなり大きな音がした。
何が起こったのかわからなかったが・・・・
自分が座っていた椅子のすぐ近くで、何かが壊れて落ちている。
場内は一瞬騒然となり、ホテルの職員がとんできた。
よく見ると、天井に吊り下げられているシャンデリアの棒状の装飾のガラス(50~60センチ)が2本落ちてきたことが分かった!
落ちた場所は、自分と浦賀病院の副院長の間。
ほんのちょっとずれたら、自分の頭を串刺しにされた可能性があったわけだ!
かなり高い位置から矢のようにまっすぐ落ちてくるんだから、まともに当ったら、けっこう大怪我だよね…どう考えても・・・
しばらくして会議はそのまま再開されたが、大丈夫なのかね?(部屋、変えてほしいんだけど・・・)
天井はかなり高いし、しばらくその部屋って使わないほうがいいんじゃないだろうか?
そのあとの会議は、上ばかり気になって、何回も天井を見上げていた。
まるで火曜サスペンス劇場かなんかの「院長殺人事件」の幕開け場面のようだ。
懇親会の時、教授が、「おい、高橋、大丈夫だったか?  もっとも、おまえは頭が固いから、あたったって大丈夫だろうけどな・・・あはは・・」って
何もなかったから笑い話ですんだけど、今頃は救急車で運ばれて入院してた可能性だってあるんだからなあ・・・おそろしい!
事故は、ほんとにこんな感じで突然襲ってくるんだってことが実感できたが、
今無傷でこの文を書いてるってことは、やっぱり、だれかが守ってくれてるのか・・・・。
(平成24年9月30日)



夏は避暑地に限る!

先日、本当に、久しぶりに(3~4年ぶりかな・・・)夏休みを利用して、旅行に出かけた。
夏休みといっても、日曜日を挟んで土曜日と月曜日を休み、2泊3日で出かけた。
子供たちも大きくなり、来年は娘も順調にいけば就職している(だろうな!)はずだし、息子も実習やら合宿やらで
休みもあわず、もしかしたら家族旅行など、これが最後かもしれない。
緩和ケア科には加藤君が常勤として働くようになったので、呼ばれることもなく、心おきなく出かけることが出来る。
外国でも・・・というわけにもいかず(財政的に困難なので)、どこに行こうかと迷ったが、
娘も、息子も安宅の住吉神社でいただいた「難関突破」お守りのご利益が素晴らしく、
無事に「難関」を突破できたので、「お礼参り」を兼ねて加賀に出かけることになった。
初日は羽田から小松空港まで移動、レンタカーを借りて住吉神社に出かけた。
この神社に関しては、何回か書いたことがあるが、お守りの効果は絶大で、そのパワーは信じないわけにはいかない程だ!
古いお守りと、お札をおさめ、新しいものをもとめた。今度はどんな「難関」を突破させてくれるか・・・
そのあとは、金沢まで1時間弱、近江町市場で「海鮮丼」を食べ、最近観光スポットになっている「現代アート美術館」を見学し、ホテルについた。
それにしても、金沢の暑いこと!
普段、炎天下に歩いたことなどないので、ぐったりと疲れ果てた。
それでも、夕食までの間「カラオケ」にいこう!と、いうことになり、「若い歌を歌わないとダメだよ!」と、娘に言われ、
昔の「おはこ」(村下孝蔵とかアリスとか・・・)は封印され、スキマスイッチだのコブクロだのを無理して歌ったものの、すぐに声がかすれる始末で・・・
大体、今どきの歌は一つの音符に言葉を詰めすぎるよね!はや口言葉じゃないんだからって・・・
こんなことをいうこと自体、還暦モードに(あと5か月)突入している証拠か?
次の日も午前中は兼六園とかに出かけたが、何しろ暑くて、動く気力もなくなり、茶店のかき氷を見つけて座ったら、
美しい庭園・・・を見る元気もなくなってきた。ちなみに、。かき氷と言ったら、やっぱりレモンミルクだよね!
その後、東茶屋街に移動したが、日曜なので駐車場は長蛇の列。
並んでいたら、なんだかランニングと短パンのおじさんが自転車に乗って近づいてきた。
「いっぱいで、なかなか入れないよ!、近くに空いてる駐車場があるからどう?」
怪しげでもあるが、人のよさそうな感じもしたので。OKすると
「案内すっから、ついてきて」と、
自転車で走りだした。
え~~っ、車で自転車の後についてくの?  という間もなく、おじさんは軽快に自転車を走らせる。
しかも、めちゃくちゃ狭い道をすいすいと!
そりゃあ自転車だからね。こっちはレンタカーだから、こすったりしたら大変なことになる。
少し走ると、民家の庭みたいなところを指さし、「ここにとめて」
なんだ、おじさんの家じゃないの!でも値段も聞かなかったし、ぼったくられるんじゃないの?
2000円なんていわれても、いまさら引き返せないし・・・・
「じゃあ300円ね!」
「えっ、300円って、1時間?」
「う~~ん、適当でいいや、時間制限なし!」
な~~~んてナイスなおじさんだこと!けっこう庭(空き地って感じ)も広く、お金を受け取ると、おじさんは次のお客さん?を求めて自転車で走り去っていった。
そこでしばらく観光、昼食を済ませ、、車で俵屋とか、落雁で有名な店に出かけ(空港で買えるんだけどな・・)、早々に切り上げ、車で山代温泉に直行。
少し奮発して「白金屋」に宿泊したが、部屋は広く、露天風呂がついていて、
雰囲気も、従業員さんたちのホスピタリティーも素晴らしく、妻と娘はエステに出かけて行った。
帰ってきたときの美しさは・・・確認できなかったが。
食事もおいしく(のどくろの濃厚さには驚いた)、日本酒もくいくい入ってしまう。
翌日は、足を延ばして永平寺まで。
永平寺は曹洞宗大本山で、1244年、道元禅師によって開かれた。
最近は、どうしても「死生観」について考えることも多く、
なかでも、「禅」の考えは、仏教に帰依していなくても、ある一定の道筋は示してくれているように思う。
とはいっても、お目当ての一つは「永平寺そば」で、門前には何軒もの土産物屋と、そば、だんごなど・・
しっかりいただいて、空港に向かった。
ところで・・・最近、旅に出ると、もみじの木が気になって・・・
今でも京都のもみじと、那谷寺のもみじを、もって来た種から育てて、順調に育っている。
今回も、住吉神社と、兼六園から種をゲット!ただ、時期が少し早いので、植えても芽を出すかどうかは微妙だ・・・
本当は、永平寺のものも手に入れたかったが・・・さすがに古い寺院で、まだ地面には落ちていないし、木の高さが高く、とても手が出なかったのが残念!
羽田には夕方ついたが、さすがに日本食、そば、うどんばかりだったので、空港ではパスタとピザを食べ、帰宅した。
もう少し、ゆったりと観光もしたかったが、何しろ暑さは半端ではなく、とても歩き回る気がしない。
やはり、夏の旅行は避暑地じゃないと・・・と、痛感したが、今回は「お礼参り」が目的だったので、しょうがない。
それでも、仕事を離れ、おおいにリフレッシュさせてもらった。
次の日からは、日常の仕事が待っている。
今度、家族で旅行に行けるのはいつになることやら・・・
もみじハンター」としては、いろいろな名所のもみじを自宅で育ててみたいものだが・・・
(平成24年9月1日)




学会いろいろ

6月22日~23日は、神戸で日本緩和医療学会が開催された。
ここ何年か演題を発表しているが、今回は緩和ケア病棟の認定看護師2名、
それぞれ別の演題が採用されたので、全部で3題の発表になった。
今年は、6月から緩和ケア科に加藤医師が着任したので、「お留守番」になってもらった。
今までは、留守の間の緊急外来や、病棟の患者さんのケアが気になり、早めに帰ってきたりもしたが・・・
今年は安心して出かけることができた。学会場では、加藤医師の、着任前の上司の先生にばったり会った。
今回、当院へ移動の理由が、もともと泌尿器科の医師だった加藤君が、緩和ケアの医師になることを決心したが、
今までいた病院には、緩和ケア科の医師の定員に余裕がなく、その病院にポストができるまで…ということで平和病院に就職した。
いつまで勤務できるかは、「状況次第」といったところだが、
「先生、このまま加藤君をずっと拉致しっぱなしでいい?」と聞いたら
「困りますよ先生!、ちゃんといつかは戻してくださいよ!」と、怒られた。
それはともかく、22日の夜は、「神戸牛」のステーキに舌鼓をうち、おいしいビールも堪能した。
帰ったのもつかの間、7月30日には日本在宅医療学会があり、シンポジウムに採用されたので、その準備にかかりっきりとなった。
「医療連携 在宅医療へのスムーズな移行のために」がテーマで
演題名は
終末期がん患者の在宅療養を支援する病院と診療所の良好な連携構築
~緩和ケア提供に関するアンケート実施による対応力把握の有用性~
と、かなり長いものだ。
この学会での演題発表は、後日、内容を論文にして投稿すると、「癌と化学療法」という医学誌に掲載されることになっており、
7月末までに原稿を送らなければならない!
7月17日(火)には当院と、協和発酵キリン共催の「鶴見緩和ケア研修会」が横浜崎陽軒ビルで開催され、
飛騨高山千光寺ご住職の大下大圓先生の「緩和ケアとスピリチュアルケア」の特別講演があり、
自分は前座で平和病院の緩和ケア病棟の1年間の実績を発表させていただく。
翌週の26日(木)には、川崎日航ホテルで開催される[第6回川崎南部緩和フォーラム]で、
緩和ケアの地域連携について講演させていただく予定になっている。
7月9日(月)は、[日経ヘルスケア]からの緩和ケア病棟に関しての取材申し込みがあり、
12日(木)にも別の会社から取材の依頼が来た。こちらは「病床調整」について・・・
今までこれほどごたごたと重なったことは経験したことがない。
今までコツコツとやってきたことが、少しずつ評価していただけるようになったとのことなのか・・・
忙しいけれど、ありがたいと思わなくては。
さいわい、加藤医師は大いに戦力になるし、パラメディカルの評判もいい。
ただ、人数が増えた以上、今までと同じ仕事量を単純にシェアするのでは何もならない。
楽をする気はさらさらないし、まだまだやりたいことも多い!(ビールを飲める日ができたのはすごくうれしいけど・・・)
人数が増えた分、今まで以上にパワーアップしないと意味がない。
今後も、平和病院緩和ケア科の活動に期待していただきたい!
(平成24年7月6日)




墓参り

5月19日は父の命日だった。
土曜日だったが、当直には当たっていなかったので、定時退社し、墓参りに出かけた。
前回の彼岸のとき、墓に植えてあるツツジの一本が枯れていたし、雑草も多かったので、
出かける前に新羽にある「ヨネヤマプランテーション」によって、ツツジや砂利、玉龍などを買った。
母の日に贈ると約束していた観葉植物「がしゅまる」を選び、母親に送ったりしたが、
久しぶりに出かけたので、他の花やら盆栽に目がいってしまう。
見ていると、何でもかんでもほしくなる。
野菜の苗も緩和ケア病棟の屋上庭園で育てたかったんだが・・・・(来年は絶対にやろうと思っている!)
店は、めちゃくちゃ混んでいたが、この時期、家の庭には新しく植えるスペースが無い。
とかいいながらも、結局「はぜ」の盆栽を買ってしまった!(いま、トップページに写真が掲載してある)
墓は川崎市の津田山にある。
その日は、暑いくらいの日差しだったが、彼岸のときと違い、人気はほとんど無い。
供える花を買い、墓の前に行く。
家からはシャベルやら、除草シートやらハサミ、スコップなどを持参していった。
先ずは枯れたツツジを抜く作業からなのだが、何しろ長年植えてあるので、根が太く、容易ではない。
すでに、この時点でくらくらしてきた!汗が噴き出してきて、体力の衰えを実感する!
ツツジはある程度の大きさのものは、時期が過ぎているせいで、いい形のものが無かったので、鉢に入った幼木を買っていった。
枯れた木が植わっていた場所に植えなおし、周りに玉龍を配置した。
以前から、敷石が沈み込んでいたのが気になっていたので、これもいったん取り除き、(これがまた重い!)
底上げし、除草シートを敷き、置き直した。後は砂利を追加して除草シートの上に敷き詰めれば完成だ。
結局2時間近くかかったが、ずいぶん綺麗になった!
きっと父も喜んでくれたんじゃないか・・・と自分に言い聞かせた。
疲れたけど・・・それなりの達成感はある。
その頃には風も出てきたし、夕方で気温も少し下がったのか、けっこう気持ちがいい!
石碑には昭和45年5月19日・・・と書いてある。
自分が高校3年になった年の春だ。
亡くなったのは56歳の時だから・・・
今の自分より若くて亡くなっている。まだまだやりたいこともあったろうし、家族のことも心配だったろうと思う。
息子が医学部に行くことなど知らなかっただろう(その頃は英語の教師になろうかとも思っていた)
今、息子が大学に入学するところまでは確認できた自分は、父親に比べれば、ずっと恵まれているのかもしれない。
自分自身が手術を受けたときには、その後のことは多くは望まなかったし、望めるような心境でもなかった。
1年、そして1年と過ぎていき、今年の6月には術後8年になる。
当時は考えられなかった思い、息子が医師になる姿を見てみたいとか、孫の顔が見てみたいとか・・・
そんなことも考えるが、今、現実として多くのがんの終末期の患者さんと係っている日々の中で、
長い目で見た希望は希望として、もう少し短いスパンで物事を考えようとはしている。
ここまでこれたのも、あの年、父親の墓参りの後、なんとなく検査した結果、比較的早い時期に手術が出来たおかげで、
今でも父が守ってくれたものだと信じている。
その日は、いつもより長い時間をかけて墓の前で手を合わせた。

と、ここまではいいんだが、・・・
最期の水やりのために、近くの水道のところに行こうとしたとき、
近くの墓でおまいりをしている人が、突然全力疾走で走り始めた。
何かを追いかけているような感じだが、「まて!」とは一言も喋らず、かといって、猫やカラスを追っ払うにしては
ずいぶん長い距離を走り回っている。目つきが半端でなく真剣そうだったので、
何事かと思って、よっぽど「どうしたんですか?」と、聞いてみようかとも思ったが、
スキンヘッドでちょっと見、怖そうなお兄さんだったので、聞きそびれてしまった。
それからしばらくして車にもどったが・・・
車の中の灰皿の部分が開いている!
灰皿といっても、タバコは吸わないので、いつもは小銭を入れている。
その小銭が一枚も入っていないことに気付いた。あれ・・・?
確か、墓に来る直前、墓地の入り口で花を買ったが、財布の中に札が一枚も入っていないトホホな状況だったので
花が買えないのではとあわて、
灰皿を開けて、小銭で花を買った覚えはある(1700円もするんだから!ちょっと高くない?)が、
綺麗にからにした覚えはないし、多分いくらか残したはず(詳しく覚えていない)だ。
カバンの中には札の入っていない財布もあったが、カードはなくなっていない。
さっきのスキンヘッドのおにいさんの車は10メートルくらいしか離れていなかったが、
ひょっとして「置き引き」「車上荒らし」でも見つけて追いかけていったのかもしれないと思った!
自分の車は鍵を持っていれば、わざわざ鍵を出さなくてもドアが開けられるタイプだし、
意識して鍵がかかっていたかどうか確認しなかったので、実際のところはわからないが・・・
どう考えても灰皿の蓋は開けっ放しにしていた覚えは無く・・・
多分、「やられた」可能性がある!
灰皿のすぐそばのエアコンの温度設定のメモリも、28度などという考えられない場所に動いていたし・・・
でも、車は墓のすぐそばに停めたし、ドアの音はしなかったけどなあ・・・
ただ、花を買ったおかげで、500円玉や100円玉はほとんどポケットに入れていたので、
残っていたのは10円玉や1円玉、多分、合計しても1000円にはなっていないと思う((これも覚えて無い!)
花を買う孝行息子のために、父親が被害を少なくしてくれたのか?
なんとなく釈然としない思いはあったが、気持ちの良い風の中で墓をきれいにし、命日の当日に墓参りが出来たという満足感が勝り、
残ったお金で飲み物を買って帰ってきた。
カードでもなくなっていたら、大騒ぎになっていただろうから、やはり父親は、まだ自分を見守ってくれているようだ!

(平成24年5月20日)



お姫様と召使い

2週間くらい前のこと、
仕事が終わり、8時過ぎに院長室へもどり、着替える時、携帯に着信履歴があるのに気付いた。
いつもは院内用のPHSと一緒に持ち歩いているのだが、
その日はたまたまスーツのポケットに入れっぱなしでロッカーにしまいっぱなしだった。
メールも何通も届いている。
発信は全て妻からだ!
朝の10時頃から何回もコールしていたようだ!
いまさらラブコールはありえないし・・・
何事かと思ってみてみると、どうやら自宅の階段で転倒し、臀部を強打してから、全く動けない状態にあるらしい。
SOSコールだったようだが、なんと10時間以上気付かずに放置していたことになる!
息子は大学の新歓の時期で遅いし、娘といえば、デートらしく家にいないようで、あわてて家に帰った。
妻はソファーの上に寝ていて、起きるのもしんどいらしい。
頭は打っておらず、体をかばった時に出来た擦過傷が腕にある程度だが・・・
腰椎の骨折かとも思ったが、足の痺れはなく、一番痛むのは尾骨のあたりだ。
とりあえず、安静にさせ、翌日は薬を処方し、様子を見たが、
軽快する気配は全くなく、次の日に病院に連れて行った。
整形外科でX線検査したところ・・・尾骨がみごとにポッキリ折れている!
治療はおとなしくするしかないらしく、骨がずれてくれば、直すためには、お尻の穴に指を入れ、グイっと圧迫して整復するという
拷問のような治療法になるようだ!「絶叫するように」痛むとか・・・
たまたまその日は緩和ケア科の外来のキャンセルが2件あり、少し時間があったので
家まで送っていった。
その日から、我が家は機能マヒ状態になった!
掃除、洗濯、料理、片付けなどなど・・・
動けない妻に代わって誰かがやらなくてはならない!
コンビニ弁当、出前が続いたが、娘もレシピを見ながら料理に苦戦し、自分も、何年かぶりに料理に挑戦するはめになった!
まあ、料理ったって、自分が結局作ったのはカレー、鶏肉となす、玉ねぎ、ピーマンの炒め物、
冷凍の餃子スープ、きゅうりとトマトのサラダくらいだったが・・・
独身時代は14年も一人暮らしで、それなりに食事を作ったりしていたのだから、やろうと思えば出来るはずだが
やはりめんどくさい!
(シュークリームやケーキ、プリンなんかも作っていた覚えがある)
朝の息子のココアの作り方からして、お湯で溶いて、牛乳を入れて、電子レンジは「牛乳」のボタンを押してチンするとか・・・
洗濯のやり方は、タオルと服を別にして、洗剤や柔軟剤や、塩やらをどれくらい入れて、洗濯何分、すすぎが何回、脱水何分、乾燥何分とか・・・
シャツは脱水する前に別にして干すとか、わけのわからないしきたりがあり・・・
洗濯機の中に全部ぶっこんで洗剤入れて後は自動でいいじゃん!と思ってもそうは行かないらしい。
階段で転んだきっかけが、娘が片付けていない服を拾っているときに、足を滑らせたことが原因なので
娘も責任を感じたらしく、いつもは昼夜逆転状態にもかかわらず、早起きして朝ごはんの準備などをするようになった。
普段は食器の使い方など気にも留めないが、食後のコーヒーでさえ、後でカップを洗うことを考えてしまい、めんどくさいので我慢してしまう。
今回の骨折で妻の偉大さを痛感する事態になったが、
妻はといえば、足も曲げられない状況なので、
靴下を履くときなどは、自分が足元にひざまずき、膝に足を乗せてやり、刺激がないように優しくはかせてやることになり、
まるで、お姫様に仕える召使い状態となった。
さいわい、2週間が過ぎ、しだいに妻の行動範囲も増えてきたが、まだまともに座ることが出来ず、
歩きも、まだスローモーションのようだ。
仕事もなるべく早く終わらせて主婦業もこなさなくてはならないが、なかなかそうもいかない。
息子が新歓の時期で、いろいろなサークルの勧誘に顔を出し、ただで食事をしてくるのがけっこうラッキーだった!
娘もいろいろなレシピに挑戦しているが、何しろ基礎が出来ていないので、むちゃくちゃ時間がかかる。
どうも、家事を手伝うというよりは、この機会に彼に作る料理の「練習」をしているようで、
動機が気に入らない!しかもアボガドとか・・・我が家では考えられない食材で料理を作るのは勘弁してもらいたい!
完全復帰までにはあと2週間程度はかかるだろうから・・・まだまだ我が家の苦難は続く!
ちなみに、今日の昼は、スパゲティナポリタンを作ることになった!(うまい!!)
もちろん、後片付けも完璧!
(平成24年5月3日)




芽がでた!

温泉ひとり旅(後編)」で書いたが、息子の合格祈願で安宅の住吉神社に行ったとき、那谷寺で拾った紅葉の種を、
植えていたが・・・

 出て来た出てきた!次々に双葉が土の上に顔を出してきた。
 京都で拾ってきた紅葉に続き・・・
 那谷寺の紅葉も自宅で楽しめるようになる!
 ただし、京都の場合は、夏の水やりに失敗し、何本か枯らしてしまった苦い経験があるので
 今年は気をつけないと・・・
 こんな調子で行けば、いろんな紅葉の名所の紅葉が自宅で楽しめるじゃないか!
 と・・・いっても、ちょうどいい時期にいろいろな紅葉の名所を訪れることが出来たらの話だが・・・
 今のところ残念ながら、そんな優雅な暮らしはしていない。
 さいわい、わざわざ出かけて行ったお守りの効果もでたし、そのときに拾ってきた種が芽を出す・・・
 来週の息子の大学の入学式にあわせて芽がでたようで、けっこう縁起がいい。
新しい病院も、芽を伸ばし、立派に育てていきたいものだ。
ただ、やたらにたくさん芽が出てきたので、全部を庭で育てるわけにもいかず・・・どうしたものか・・・
そのうち病院の何処かに移植するかな。
種から育てるのは、よけいに愛着がわく。
りんごの木」も自分の背よりも大きくなったが、新病院に移植した。もっともっと大きく育ってほしいと思っている。
(あいかわらず実が全くならないし、花も咲かないのが玉にキズだが・・・)・・・
トップページにも写真を載せてあるが、この時期は、いろいろな花が咲き始める。
ボケ、桜、ジャスミン、クリスマスローズ、サンザシ、くちなし・・・いつもは夜遅くしか帰れないが、
今日は当直明けで昼過ぎに帰ってきたので、久しぶりに庭の手入れ(と、いうほどでもないが)ができた。
何も考えずに木や花をいじり、雑草を取るのは、お酒を飲むのと違ったストレスの解消にはなる。
盆栽の手入れ」など・・・お年寄りの楽しみかと思っていたが、けっこう侮れないものがある。
もちろん、プロが作るような高価な盆栽ではなく、あくまで「盆栽仕立て」なので、そんなに専門的なことをしているわけではないが・・・
こり始めると、奥は深いらしい。
あと1週間もすれば我が家の桜の盆栽も開花しそうだ。春はもうすぐ

いいことがいっぱいあるような春になってほしいものだ
(平成24年4月1日)


サクラサク

今年、息子は大学受験だった。
いつの頃からだったか覚えていないが、いつの間にか医学部を目指すようになっていた。
自分の父親も医師だったが、開業しているわけでもなく、自分も勤務医なので、
何が何でも医者にして跡継ぎに・・・・という環境ではない。
かっこよく判断すれば「父の背中を見て」選んだ道なのか・・・・?
勉強を自分の部屋でしなかったので、しばらくの間、我が家は夕食が終わればテレビをつけることも出来ず、
妻は読書、自分はうたたね・・・いや、勉強!(ごくたまに?韓流ドラマ)という状況が続いた。
娘は自分の部屋に退散し、しずか~~~な、どこかピリピリした雰囲気が何ヶ月も続いた。
どの大学を受験するのか・・・
妻と相談するのは嫌な様子なので、自分と受験する大学を選んだ。
高3になったばかりの頃は、模試の結果はまあまあだったが、しだいに結果が伴わなくなり、
試験が近づくにつれ、合否判定は良くてC、ほとんどがDやE(ほとんど受かる可能性がない!)になってきた。
自分も1年浪人したので、まあ、現役での合格は難しいだろうと思っていた。
あとは神頼み・・・というわけで、わざわざ安宅の住吉神社まで出かけたりした。
さすがに受験直前は息子も「煮詰まった」状態になったらしく、
ストレス解消に「洞爺湖」と掘られた木刀(漫画:ワンピースで有名になって、外人観光客が大量に買ったりするらしい・・・)
を振るなどしていたが・・・
そうこうしているうち、ついに受験シーズンに突入した!
結果は・・・
(いまどきは発表はネットで知らされることがほとんどで、大学によっては自分の結果だけで、何人合格したかもわからない!)
いくつかの不合格のなかで、奇跡的に何とか合格を勝ち取ることが出来・・・(娘の時といい、「難関突破守り」のご利益は素晴らしい!!)
しぶとく、浪人することなく、この4月から某大学医学部への進学が決まった!
男の子は「一人住まい」を経験するのも必要とも思うが・・・自宅から通える大学なので、4月からも家族の構成は変わらないことになった。
ただ、さすがに大学生ともなると、自分の部屋での生活が主になる。
小学生の頃から、息子は自分と同じ部屋で寝ていた。
自分はイビキがものすごいらしいが、息子は全く気にせず眠ることが出来ている。
ただ、妻は今まで息子の部屋で寝ていたが、隣の部屋の自分のイビキでも眠れない!などということもあり、
4月からは息子が自分の部屋で眠ることになるので、自分と同じ部屋で眠らなければならない!
妻にとっては息子の合格を喜ぶ気持ちより、自分のイビキの中で眠らなければならない憂鬱のほうが大きいようだ。
娘は、「きゃー!!夫婦一緒の部屋で眠るの?ラブラブじゃん!新しい兄弟がができちゃたらどうしよう~~~!」などと、
妻を逆なでする様なことを言うし・・・
確かに朝の準備をするために早めに妻が起きれば、自分も目が覚めてしまうだろうし・・・
夜中の病院からの電話も日常茶飯事で、しかも確実に起きるように音量を最大にしているので、
どうしても妻も起こされることになる(息子は起きたことはほとんどない!)
あいにく部屋数も多い家ではないので、この事態を解消するには、どちらかがガレージで寝るしかない!
それはともかく・・・
自分の息子が、医師への入り口に立ち、これから医学の勉強をし、医師への道を歩き始めるのには、やはり感慨深いものがある。
新しい知識を身に付ける事はもちろんだが、患者さん、その家族の立場を思いやれる医師に育ってもらいたい・・・
自分の父親は、病に倒れ、自分が医師になる姿を見ることができなかった。
息子が小学5年の時、自分が手術を受ける前の日、同じ部屋で寝ていた息子の頭を、いろいろな思いでなでたことを思い出す・・・
自分は6年後(順調に行けば・・・)、同じ医師という立場になる息子の姿をぜひ見てみたい。
何十年も前の大学生活、自分は一人住まいで、サークルで歌ばかり歌い、楽しい思い出をたくさん作ることが出来た。
息子もこれから大いに学生生活を楽しんでもらいたい(もちろん勉強してもらわないと困るが・・・)
今日、通販で買った桜の盆栽が届いた。
4月にはきっと綺麗な花が咲くだろう・・・
(平成23年3月9日)




笑えないはなし

正月明けの1月4日、おせち料理も終わり、夕食はピザがいい!ということになり、
デリバリーを頼むことになった。
明日からは通常業務が始まり、入院予定の患者さんも2人いる。
今日は呼ばれそうもないし、当直は緩和ケア科兼務の内DRだし・・・
ワインでも久しぶりに・・・
届いたピザを食べ始めたとたん・・・がり!
何か異物が・・・・
貝殻?
でも、シーフードピザじゃないしなあ・・・・
口から取り出してみて驚いた。
歯だ!!
え~~~~
やっぱり自分の歯だよな・・・
おそるおそる舌で探ってみると・・・ない!
上の奥歯がない!
しかも取れた歯を見ると、抜けたのではなく、ポッキリ「折れている
歯根の部分は歯茎の中に残っているようだ。
歯が抜けちゃったよ~~!」と叫ぶと、家族全員から心配するどころか、大笑いされた!
娘にいたっては「あはははははははは!もうおじいちゃんじゃん!」ときた。
全くいつもながら腹の立つ奴だよな、こいつは!
以前も歯の治療に行き、定期的に通うように言われていたが・・・・
仕事が忙しかったり、新病院の移転などが重なり、ずいぶん長い間通院していなかった。
翌日、以前診てもらっていた鶴見歯科大の保存科のA先生に電話をかけた。
明日なら空いてますよ!
と、まさに天の声!
さっそく5日の午後に受診した。
長く通っていなかったので、ばつが悪い・・・
「1年ぶりですね!」
「実は、歯が折れちゃいまして・・・}
診察室に行き、椅子に座る。どうも、いつきても歯医者さんの椅子は落ち着かない。
A先生は診察するなり「う~~~~ん」と、しばらくフリーズする!
なんだか、やばい感じがする。
「どうも,歯根の部分が割れちゃってますね!、とにかくこのままじゃどうしようもないので、抜きましょう、お時間ありますか?」
このあと、緩和ケア病棟の入棟判定会議や、治験関係の面談があったが、先ずは自分の体でしょう・・・
「大丈夫です!」と即答した。
「麻酔は大丈夫でしたよね」
局所麻酔の注射をされ、痛くはないのだが、歯根を引っ張られていく感じや、ずずず・・・と、抜けていく感じはよくわかるので、
なんともいえない嫌な感じがする。
でも、抜いちゃうって事は・・・
ブリッジ?  刺し歯?  今話題のインプラントとかいうやつ??
治療費のことが頭をよぎる!
「とりあえず、この割れた部分を接着して、使えるようでしたら、それにかぶせて治療しますが・・・だめなら・・・
だめならなんなんだああああ~~~!
A先生は抜いた部分に細工をして(接着?)
驚いたことに、抜けた部分の歯ぐきをきれいにし、また埋め込み、周りを固定した。
今、舌で触ると何かすごく細いワイヤーのようなものが二本触るので、多分これで固定しているんだろう・・・
それが終わったら、今度は以前治療していた反対側の下の歯のチェックもしてくれたが・・・・
「え~~,こっちもすごいことになってますね、歯も動いてますよ!」と言われた。
「こっちもきちんと治していかないといけませんね!」
と、言うわけで、これからしばらく通わなくてはならなくなった。
忙しいとも言ってられない事態で、ここで徹底的に治さないと「総入れ歯」になったりしたら、いただけない!
困ったのは食事で、奥歯を使えないので、前歯でぼそぼそと噛み、まるでウサギがにんじんをかじってる様な感じだ!
もともと、早食いで、口の中にいっぱいほおばらないと食べた気がしない。
時間はかかるし、非常に厳しい事態になっている。
娘には「今度抜けたのは乳歯なんでね!そのうち大人の歯が自然に生えて来るんだよ!」と、強がってはいるが・・・・
生えてくるはずもなく・・・
抗生剤と鎮痛剤をのみながら、新年早々とんでもないことになっている!
固いせんべいでも食べて折れたのならまだしも、ピザで折れたなんてね・・・・
聞くほうは面白いかもしれないが、本人にとっては、全く笑えない「歯無し」になっている。
(平成24年1月6日)




あけましておめでとうございます!

平成23年は、平和病院にとっても自分にとっても、いろいろなことがあった年でした。
もちろん、病院にとっては、6月に新病院へ移転したことが、もっとも大きな出来事でした。
新病院に至るまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。
今思えば、この冬の時期、旧病院はなんと寒かったか!
新病院はもちろん全館空調で、さらに各部署にもエアコンが設置されていますが、前の病院の廊下にはエアコンはなく、
部屋から一歩出れば極寒で、特に医局のあった3階のトイレなどは窓が壊れ、当直の夜には、脳溢血になるんじゃないかと思うほどで、
思わず尿瓶でも用意しようかと思うほどでした。
改装した院長室でさえ、隙間風が入り、温風ヒーターをつけないと、足元が冷たくなっていました。
不思議なもので、あの時は、それが日常、当たり前のことだったので、それほどひどいとは思わなかったのですが、
今思うと、やはり、旧病院の建物は、もはや限界だったのだと思います。
一方、自分にとっては、やはり、日本緩和医療学会の認定暫定指導医となったことが大きな出来事で、
同時に病院も、認定研修施設となりました。
いろいろな施設から緩和ケアに関する講演などにも招いていただけるようになり、研修に関するお手伝いをさせてもらいました。
この12月には、緩和ケア科への新規紹介患者さんが、月間45人と、今までの最高を記録しました。
その分、自分の仕事量もかなりハードになりました。
12月30日には、朝から連続で携帯が4回鳴り、外来通院中の患者さんの状態悪化で救急受診が2件あり、
病棟の患者さんの疼痛増強のコントロールのため、昼過ぎには病院に出かけ、終わったのは5時過ぎでした。
そのうちの一人の患者さんは、K病院からの紹介患者さんで、
患者さんに状況を確認したところ、K病院の医師からは、「こちらに来ても、もうやることはないので、平和病院に連絡してくれ」
と、言われたとの事でした。
その患者さんは、ご家族だけが、数日前に相談に見えたばかりで、ご本人の受診は、まだ一度もありません。
休みの体制になってから、初めて会う患者さんの緊急対応に応えることは、実はけっこう厳しいことなのですが・・・
もちろん、平和病院の緩和ケア科は、いちど紹介を受けたら「状態が悪くなったり、心配なことがあったらいつでも受ける!」事を約束しているので、
それ自体はもはや受け入れる覚悟はしてはいますが・・・
何回か診療している患者さんではない場合には、少し複雑な思いもあります。
31日にも緊急入院に対応し、今日、元旦も朝の9時から携帯がなりました。
患者さんの生活の質(QOL)を高めることが、緩和ケア科の使命ではありますが、
自分自身のQOLを考えると、最近はかなり低下していると感じています。
病院にとっても、自分にとっても、今年は緩和ケア科の医師の確保が、最重要課題ではあります。
一方、2月からは、新たな脊椎外科医が着任し、横浜脊椎脊髄病センターが開設されるので、
外来、入院、手術と、今までよりずいぶん病院の業務内容も変化するでしょう。
準備は大変ですが、新たな機能を持つことは、病院にとっても大きな転機ともなり、さらに、活気が生まれる起爆剤となることを、
病院を経営する立場からは、大いに期待しています。
病院の日常診療は1月5日からスタートします。
休みの間も、病院の業務を支えてくれているスタッフには、大いに感謝したいと思います。
新しい年が、患者さんにとっても、病院にとっても、そして、私にとっても、良い年になりますよう祈りながら、
今年初めての更新をおこなっています。
今年は、新しい病院の診療充実を図り、投書などでいろいろご指摘をいただいた点を改善し、
患者さんやご家族はもちろんのこと
職員の満足度も高められるような病院に育てていかなくてはなりません。
今後も成長していく平和病院を、どうか温かく見守っていただきますよう、よろしくお願いするとともに、
皆様のますますのご健勝を祈念し新年のご挨拶とさせていただきます。

(平成24年1月1日)


いつの間にか10年!

このサイトの入り口には開設の時期が書かれていますが、
ふと、気がつくと、なんと
丸10年が経過していました。
うっかり10周年の時には気付かずにいましたが・・・・
10年一昔・・・と、言われますが、
確かにこの10年、自分にとっても、平和病院にとっても大きな変化がありました。
自分の係っていた仕事も、外科から緩和ケア科に大きくシフトしており、
鶴見区で唯一の緩和ケア病棟を開設・運営するようにもなりました。
昔書いていた、がんの告知や、終末期のがん患者さんに係る思いは
自分が同じ病気を患い、「患者」としての心境、不安を味わったことで、緩和ケア医としての方向転換の大きなきっかけにもなりました。
子供達もいつの間にか成長し、
シャケ好きの娘は大学院で臨床心理士としての道を目指し、「緩和ケア」に係りたいとの思いもあるようで、
これも、父親が病気を経験した事が影響しているのかもしれません。
息子も、いつの間にか医師を目指すようになり(まだ高校生なので、なれるかどうか・・・)ました。
ただし、今の自分のような医師(夜中も、休みもおかまいなしによばれる)には絶対なりたくないとは断言しています!
平和病院も、この6月に新病院が出来、自分が着任した時のイメージとは大きく変わりました。
これからの半年から数年の間には、診療内容も大きく変わっていくことになるでしょう。
10年の間、このサイトを見てくださった多くの方々、本当にありがとうございます。
思いついたことをダラダラと、書いてしまっていますが、
今、読み返してみると、自分の10年間の日記のようで、その時そのときの自分の想いが懐かしく思い出されます。
(初めの頃に書いたりんごの木は新病院に移植しました!)
そのうち、院長を辞す時も来るでしょうし、院長室を出るときが来るでしょうが
とりあえずは、これからも、書き続けていこうと思っています。
自分にとっても、病院にとっても、素晴らしい出来事を、たくさん書くことが出来、皆さんにお知らせできることを願っています。
これからも、たまにはこのサイトに遊びに来てください。
(平成23年12月2日)



温泉ひとり旅(後編)

翌朝、朝食は8時半にしてもらっていたので、
8時前に、温泉に入った。やはりだ~れもいない。昨日と同じ、独占状態だ。昨夜は暗くてよく見えなかったが、
露天風呂に行くと周りの景色が良く見える。周囲の旅館は今は使われていないのか、ベランダが草ぼうぼうだ!
泊まっている旅館の窓が良く見えるって事は、窓からは、すっぽんぽんの自分が見れるって事だよね!
思わず女湯はどうなんだ?と、心配してしまうが・・・
いいかげん暖まったところで、前の日と同じ食事どころに出かけていった。
昨日と同じおねえさんが「おはようございます」と、にこやかに迎えてくれる。
昨日の夕食も豪勢だったけど、朝食も・・・
フレッシュジュース
お惣菜:じわもん野菜と季節の小鉢3種
焼き魚も3種類から選べ、目の前で焼くことになっている。(のどくろを選んだ)
生野菜:香草若菜と柴山トマトのサラダ(加賀野菜の源助大根で作ったドレッシングがかかっている)
温物:焼きたてのふんわり出しまき卵
台物:加蓮根豆腐と出来立て源泉豆腐が絶妙食感、加賀野菜の「金時草」と紫蘇の特製餡
食事:釜炊きの石川こしひかり
宗太節と鰹節、いりこを2番だし汁でじっくり煮だし、数種の味噌で作った自慢の味噌汁(うまい!)
香物5種盛り・岩のり
デザート:ヨーグルトマンゴーソース
てな具合で、充実している。
けっこう満足し、部屋に帰るときには、またおねえさんが2人、エレベーターのドアが閉まるまで深々と頭を下げ、
「お気をつけてお帰りください、ありがとうございました」と挨拶してくれた。やっぱり気持ちがいい!
さて、いいよ目的の安宅住吉神社に行くのだが、前回は、その前に白山信仰の寺「那谷寺」に行ったことを思い出した。
ゲンを担ぐわけではないが、今回も行ってこようと思い、ナビを設定した。
那谷寺は717年に開かれ、十一面千手観音菩薩がまつられ、人としての罪を白く清める霊場とされている。
松尾芭蕉も立ち寄り「石山の 石より白し 秋の風」という句を読んだとされている。
紅葉にはまだまだだったが、もみじの木も多く,もう少しすれば鮮やかな景色となるだろうと思われた。
紅葉の木をよく見ると・・・
竹とんぼのようなものがいっぱい・・・
そう!
紅葉の種だ。以前も書いたが、京都の南禅寺から拾ってきた種は今では我が家の庭の鉢で15cmほどになっている。
夏の暑さで葉が少し焼けてしまってはいるが、もう少しで京都の紅葉が自宅で楽しめる?
今回も、種を拾い集め、かばんに入れた。(今は小さな鉢に20粒くらい植えてある。芽はでるか!?)
こんな感じでいろいろな名所の紅葉が家で見られたらいいよね・・・
しばらく那谷寺で過ごした後、最終目的地の住吉神社に向かった。
参道には一人もいない・・・、砂利を踏みながら
建物に近づくと、「どこからいらっしゃったんですか?」といきなり声がした。
建物の中にめちゃくちゃ美人の巫女さんがいて、話しかけてくれたとわかった。少しどぎまぎしながら、
「横浜から・・・難関突破のお守りをいただきに・・・」
「そんなら、どうぞこちらへ・・・」
ラッキ~!と思ったが、いかんいかん!初志貫徹!
前回は人数も多く、拝殿の中に上がり参拝したが、今回は外から2礼、2拍手、1例を行い、息子の「超難関突破」を祈った。
もちろん、娘の「難関突破」のお礼も忘れずにしておいた。(ついでに自分のも・・・)
お守りをいただき、お札ももらい、朱印帳に(遠くに行く時にはだいたい持ち歩いている)に朱印をいただいた。
安宅関そのものは、今は土台だけでな~んにもない。レストハウスと、日本海だけ!
ただ、この前と違うのは、新しく「勧進帳ものがたり館」なるものが出来ている。
パンフレットでは「英雄たちの名場面、安宅関を3つのゾーンでご案内」と描いてあるが・・・
資料も少なく、勧進帳の歌舞伎のダイジェストが見られる「シアター」もあったが、椅子はただのベンチで・・・
まあ、ワクワクするようなアトラクションがあるわけもなく、昼飯に「安宅うどん」を食べ、今回のひとり旅の目的はあっけなく終了した。
レンタカーを返し、小松空港に着いた。
羽田について、真っ先に病院に連絡を入れたが、幸い、患者さん達は比較的状態も安定し、
自分がいない間に「退院」してしまう事がなかったのは何よりだった。
おかげで久々に仕事を離れ、のんびりさせてもらった。
臨床心理士の言うように、たまにはこんなことも必要なのかもしれないとは思うが、現状ではそうも行かない・・・
(でも・・・局今回は出来たんだから、できるってことだよね!)
あとはお守りの効果と、紅葉の発芽がどうなるか・・・
期待は高まる(平成23年11月10日)



温泉ひとり旅(前編)

先日、木曜日の午後から仕事を休み、旅に出た!
もともと金曜日は「研修日」で、本来は出勤しないはずなので、(たいていは仕事になってしまうが・・・)正確には半日休みを取ったことになる。
別に仕事を放棄したくなったわけではなく、わざわざ石川県まで「お守り」を求めて行ったのだ。
娘が大学受験のとき、たまたま東芝医療責任者会議(年1回開催される)が、加賀の工場で開催されたおり、
会議の翌日に立ち寄った安宅の住吉神社で「難関突破守り」を求め(まさに神頼み)、
絶対に合格しないと思われた娘が、奇跡的に合格した(以前「難関突破なるか!?」として書いたことがある)事があり、
来年は息子が大学受験なのだが・・・、今のところ、わが息子にとっては受ける大学すべてが「超難関」の状態なので
奇跡よもう一度!
というわけで、羽田から小松空港に飛び立った。
娘も「お礼参り」と称して一緒に行きたかったようだが、残念ながら日程が合わず、「ひとり旅」となった。
学会以外で旅行をすることなど、ここ最近なかったので、
金沢のホテルとも思ったが、結局、近くの片山津温泉に宿を取った。
羽田から小松空港まではわずか1時間、日帰りで行こうと思えば行けたと思ったが、せっかくの機会だ。
空港からはレンタカーをかり、目的地に向かった。
片山津温泉と言えば、「歓楽街」のイメージもあったが、
来年は女性客の増加をねらい、総合温泉施設の建設が進んでいるらしく、先日は風俗店が取締りを受けたらしい。
普通は街の健全化として望ましいのだろうが、温泉街にとっては街の「活性化」のためにと、営業再開の嘆願が出たりしたようだ!
宿泊は、加賀温泉ホテル別館の「季がさね」を予約した。
航空券と「お一人様」限定のパックで、自分へのご褒美に、ゆったりと過ごしたい方へ・・・と書いてあった。
車を走らせ、片山津に着いたが、温泉施設関連の工事なのか、迂回路などもあり、ナビ付きにもかかわらず道に迷った。
仕方が無いのでタクシーの営業所の前で車を止め、「あの~『きがさね』を探してるんですけど・・・」
と聞いたが、「きがさね
?・・・・わかんねえな」とのことだ。
げっ、タクシーの運転手さんも知らないような旅館なのか???
と、不安になったが、「ああ、ははは・・・『きがさね』じゃなくて『ときがさね』だろ?」と、笑われた。
そんなのしるかよ!と思ったが、「あ~~~、そう読むんですか」とにっこり笑うと、
運転手さんは車から降りて、親切に教えてくれた。
工事の迂回路のために通り過ぎてしまったようだ。
ただ、周りの景色は、およそ温泉街のイメージはなく、普通の商店が並ぶ街で、ネオンの一つも見えない・・・
ようやくたどりついたが、入り口には人が立っていて、「高橋様ですね」と迎えてくれた。
フロントには他の客は誰もいない・・・
いろいろと説明を受け、宿帳を記入し、部屋に案内された。
「ゆっくりくつろいでいただくために、係りのものはお呼びがない限り、一切お部屋にはお邪魔しません」
と、案内してくれたおばさんがにっこり笑う!
「え、それって布団も自分が敷くの?」
「まさか
、お客様がお食事に行っていらっしゃる間にちゃんとご用意しますよ」との事だった。
かなりだだっ広い部屋で、湖が目の前、30分ごとにライトアップされた噴水が、水しぶきを上げて高く水を吹上げるそうだ。
食事の時間まで間があったので、やはり風呂!ということで、着替えて大浴場に向かったが、
平日のせいなのか、温泉そのものが寂れつつあるのか、大浴場には自分しかいない!
続きになっている露天風呂にも行ったがそこにも誰もいない、もちろん、併設のサウナにも!!
なに、これって温泉独占?
お湯は塩味がした。どうも硫黄泉は苦手なので、文句なし!
泳げちゃうよね!
露天風呂からの景色はいいが、周りに大きなホテルらしき建物があるのに、窓に灯りがついていない!
なんか、大丈夫なんだろうかと、心配になるくらいだ・・・
いつもは今頃の時間は、まだ病院で仕事していると思うと、なんだか悪いことをしているような気になってくる。
いかんいかん!
先日臨床心理士さんにも言われたじゃないか、
「たまには仕事をかなぐり捨てないと、今の先生の状態は完全に『仕事中毒』ですよ!」って・・・
結局、自分がかなり長い時間、風呂に入っていても、他の客はだ~~れも入ってこなかった。
食事は7時にしてもらったので、その時間に、食事どころに出かけたが、個室造りで、おねえさんがにこやかに迎えてくれた。
「神無月のお献立」は和食のフルコース!
食前酒:白山伏流水仕立て
先附:菊花アスピック(ふかひれ・胡蝶豆腐・小芋・蟹身・とんぶり・加賀金箔)
前菜:能登産ぎんば草・秋刀魚献珍焼き・海老テルミドール・公孫樹チーズ・干柿釜東大寺和え・網茸みぞれ・松葉串(鴨ロース・銀杏・零余子)
造り
焼物:天然鯛の香草塩焼き・アスパラ酢漬け・ライム
揚物:アナゴと秋茄子の欧風春巻き・加賀野菜天婦羅・天出汁・棒茶塩
蒸物:松茸と蕪みぞれ寄せの南禅寺蒸し・銀杏・百合根・茎山葵・銀餡
替鉢:和牛ロースステーキ、ヒマラヤ岩塩・特性ソース、のど黒と鮑の片山津源泉蒸し・アスパラ・タイム・柚子味噌
合肴:秋鮭ときのこの和風シチュー仕立て
食事:釜炊き石川こしひかり
香物:三種盛り
惣菜:白山特産の辛口胡麻味噌
留椀:清汁仕立て
甘味:分光町に志村農園の葡萄ゼリー・柿加賀生麩・金時草カステラ・パイン・加賀梨・五郎島金時レアチーズ
加賀には「京野菜」のように、独特な「加賀野菜」があるらしく、いろいろな料理に使用されている。
「のど黒」なる魚も初めてだった。
病院から呼ばれる心配がないのでビールと加賀の冷酒を頼んだが、
それぞれはすごくおいしかったが・・・さすがに量もたっぷりで、満腹を通り越した!
温泉宴会のさめた料理でなく、暖かく次から次に運ばれ、食事がこれほど本格的とは思っていなかったので、驚いた。
2時間以上も食事に時間がかかり、すっかり酔っ払って、
部屋にもどる時は、おねえさんがエレベーターの前で「お休みなさいませ」と深々とお辞儀をしてくれた。
やっぱり「笑顔」と「挨拶」の大切さをあらためて感じた。
さて、昔なら、温泉街にきたら(しかも一人で)、冒険心を出し、ネオンを求めてさまよい歩いたもんだが・・・・
周りはコンビにくらいしかないし・・・
本館からは離れた別館なので、バーも営業していない(本館までの送迎バスはある様だが・・・)
しかも今回の目的は、あくまで息子のための「お守り」なのだから・・・・あまり羽目もはずせない。
神様に不謹慎と思われ、お守りのご利益がなくなったりしたらたいへんだ!
そんなことより、あまりにも腹が膨れすぎたうえに、酒も300mlビンだったので(確かに弱くなった!)
胃薬と、二日酔い予防の頭痛薬を飲んだ頃には、久しぶりに飲んだ酒のせいもあって猛烈な睡魔に襲われた。
テレビはあるが、ホテルのような有料チャンネルもなく、食事中にしかれた布団にもぐりこみ、あっという間に爆睡状態になったようだ!(つづく)
(平成23年10月30日)





パンチラ

いつも寝る前には携帯でメールをチェックするのだが、ある日、何かが違うのに気付いた。
何か感触が違う。
電気をつけて見てみると・・・
いつもつけているストラップがはずされ、得体の知れないストラップが付けられているのに気付いた。
おねえさんが、風にあおられて、めくれるスカートをおさえている人形が!
ちょうど、有名なマリリンモンローが地下鉄の排気口からの風でめくれるスカートをおさえる有名なシーンがあるが、あんな感じのやつだ。
誰だ!!こんなことをする奴はって・・・
我が家でこんなことをする奴は一人しか考えられない。
翌朝、娘に、「おい、何だ、あのストラップは、どうせお前の仕業だろ!」
「なんだ~~、やっときづいてくれたんだ
、いつ気付くかと思って昨日はずっとワクワクしてたのに」って
「あのね、携帯は仕事にも持って行くし、外で使うこともあんだからな。誰かに見られたらどうすんだよ!
院長先生のストラップがパンチラのおねえさんじゃ、しめしがつかないだろ!」
「え~~~?いいじゃん。なんだかお茶目で」
「せっかく秋葉原に出かけたから、父さんにぴったりのお土産と思って、ガチャポンでとってきてあげたんだからね!
しかも、器械の調子が悪くて、お金入れたのに出てこないから、店員さんに、文句言いにいって・・・
どの器械ですかってきかれたから、これですって・・・パンチラのシリーズ(こんな専用のガチャポンがあるのが信じられん!
さすが秋葉原)指差したら、店員さんが、『これですかあ・・・しぶいですねえ・・・』とか言われて、めちゃくちゃ恥ずかしかったんだからね!」
「知るかよ、そんなの買うほうが悪いんだろ!」
なんでも世界のパンチラストラップというシリーズもので
全部で7種類あり、娘が手に入れたのには「爛漫ストライプ美咲」とか言う題がついている。!
よくみると、たしかにパンツはストライプだ!
他のものにも名前が付いていて、見本の写真が付いているが、ただ1種類だけ「隠しのターニャ」とかいうやつだけが、
黒いシルエットだけになっており、ご丁寧に「SECRET」とか描いてある。
きっと、これを手に入れたい奴は、何回も何回もガチャポンにチャレンジするんだろう。
それはともかく・・・
「こんなの付けられるわけないだろ!」
「絶対はずさないでよ!、娘の愛を感じるでしょ!」
「父親の携帯にパンチラのおねえさんを付けさせる娘がどこにいるんだよ!」
と、言いながらも・・・結局、今もおねえさんは携帯に付いたままだったが、
先日、ポケットに携帯を入れて外を歩いていたら、ポケットからストラップの足の部分が
にょきっと、はみ出しているのに気付き、あわてて押し込んだ!
だ~か~ら、イヤだっていったんだよ。
まあ、仕事で使う携帯ではないので、今のところ、はずさずにそのままにしているが・・・
外で携帯を使うときには、見られない様に隠さなければならず、けっこうめんどくさい!
変態親父などと思われた日にゃ、たまったもんじゃない。
まあ、この前、名古屋の学会に行ったときの娘へのお土産が、「金のしゃちほこもっこり」というマリモッコリシリーズのストラップだったからなあ・・・
こんなことなら、あの時手渡ししないで、直接娘の携帯に、こっそりつけときゃよかった・・・
と、こんなことを大人気なく考える自分の血を、娘は受け継いでいるのか・・・?
(平成23年8月14日)




肺癌ふたたび?

新病院移転前後のごたごたしている中、緩和ケアに関するいろいろな行事が重なった。
5月22日には横浜市立市民病院での緩和ケア研修会のサポート
6月22日には平和病院で初めて行う、対外的な勉強会(第1回鶴見緩和ケア研修会
6月29日には関東労災病院で行われる勉強会に講師として呼んでいただいた。
7月9日、10日には横須賀共済病院で開催された三浦半島地区緩和ケア研修会のサポートで横須賀まで出かけた。
この研修会には、浦賀病院の副院長、私が平和病院に勤務した時、
同時に大学からローテーターとして派遣された奥野君が参加していたのには驚いたが・・・
7月13日には、名古屋で開催された日本消化器外科学会で発表があり、
7月17日には、みなと赤十字病院で開催された緩和ケア研修会のサポート、
そして今週は札幌で開催される日本緩和医療学会での発表があり、28日の午後から出かける。
(絶対呼ばれない環境でビールが飲める!)
これが終われば、ひと段落で、後は8月末に横浜労災病院で開催される緩和ケア研修会のサポートまでは少し息がつける。
毎年、6月は全身状態のチェックを行うことにしており、
血液検査、胃内視鏡、腹部超音波検査、胸・腹部CT、注腸造影をおこなう。
幸いにして異常所見はなく、無事に手術後7年目の6月22日を迎えることが出来た。
ちょうどこの日は鶴見緩和ケア研修会の日で、帰ったのは遅かったが、
妻と、子ども達がケーキを用意してくれていた。7歳の誕生日だ!
いま、平和病院の緩和ケア科の患者さんの25%が肺癌の患者さんで、
手術後順調に経過している患者さんは、緩和ケア科に紹介されてこないのだから、あたりまえといえば当たり前なのだが、
自分が関わる肺癌の患者さんの状況は、今の自分の状況が奇跡としか思えないような経過をたどることが多い。
どの癌の患者さんも、もちろんつらい状況であることには変わりないが、やはり肺癌の患者さんを見る時には、
いつも自分と重ね合わせてしまう。
そんな中、みなと赤十字病院の緩和ケア研修会でのこと・・・
研修会の中にはコミュニケーションスキルを勉強してもらうセッションがあり、
バッドニュース」の伝え方をロールプレイを通じ
それぞれが、患者役、医師役、観察者となり、3つのパターンでそれぞれのスキルを評価するものがある。
シナリオはいずれも「手術不能な末期癌」であることを患者さんに伝えるように設定されている。
いつもはファシリテーターといって、参加者のロールプレイがうまく進行できるようにするのが役割なのだが、
たまたま自分の担当グループに欠席者が出てしまい、急遽、自分もそれぞれの役割を実際に演じることになった。
用意されたシナリオは「大腸癌末期」、「肺癌末期」、「乳癌末期」だが、基本的に、医師役が選択する。
この場合、患者役になる人が、あまりに役に入り込むと、感情がコントロールできなくなるケースもまれにあり、
親戚や、家族に癌患者がいたり、同様のケースを実際に体験した参加者には参加可能かを確認したりすることもある。
自分としては、はじめは全く意識していなかったのだが・・・・
自分のグループの医師役が「肺癌」を選択したため、自分は「末期の肺癌患者」の役割を演じることになった。
医師から検査結果が告げられる。
「肺のほかの部分にも転移があり、手術は困難です。StageⅣの進行がんで・・・」
設定では、子どもはまだ小さく、患者はそこまでの進行がんとは思っていない・・・
自分のときも、子どもが小さかったな・・・などと、よけいなことを考え始めてしまう。
患者役として、うまく医師役がバッドニュースを伝えるようにしなくてはいけないとは思うが、
「そんなに進行した状態なんですか・・・」といったきり、次の言葉がなかなか出てこない。
これはまずい!と思ったが、
検査で「異常なし」とわかっていた後だったからよかったが、検査前だったらかなりのダメージを食らったかもしれない。
医師役は、抗癌剤治療も提案してくれたが、いつもみている、同じような状態の患者さんと重なり、
一瞬、まるで自分が再発したような感じも受けてしまった。
いくら術後7年経過しているとはいえ、あの時のことを完全に忘れることは無理なようだ。
立ち直れないようなダメージではもちろんなかったが、
これから何回か、いろいろなところで緩和ケア研修会があり、お手伝いすることも多いだろうから、
ロールプレイといえども「患者役」にはならないようにしたいものだ。
(平成23年7月22日)



パパカラ

最近、休みの日に家族がそろうことがない。
娘は卒業してから旅行三昧、友達との飲み会で昼夜逆転しているし、
息子は受験生なので、休日も塾だし、
自分は休みなど関係なくオンとオフの境が完全に消失している状態で、もはや家庭崩壊状態だが・・・
たまたまある日、全員がそろう日があり、娘も暇をもてあましたのか「カラオケに行きたい!」と、言い出した。
たまには家庭サービスも必要だし、
遠出をするわけでもなし、呼ばれたら、出かけていけばいいので、新羽にあるカラオケに出かけた。
自分にとってはカラオケなどに行くのは本当に久しぶりだった。
ずっと以前は飲み会でも二次会には必ず付き合ったので、歌うことも多かったが、最近はどんな飲み会でも一次会で帰ってくるし、
(鶴見の飲み会では、駅前のミスタードーナツでお土産を買う自分がいじましい!)
いつ呼ばれるかもわからないので、お酒も飲まなくなった。(ノンアルコールビールはもう少し何とかならないのかね!)
もっとも、学生時代はサークルで歌っていたし、バイトでスナック歌手もしていたくらいだから、歌うのは嫌いじゃない
それはともかく、久しぶりのカラオケは以前のイメージから比べると、機械もハイテクで、まるで異次元の世界のようで・・・
それだけ自分が時代遅れになりつつあるようで、おどろいたが、
娘や妻の歌う歌が、マニアックなアニメの主題歌ばかりで、わけがわからん!
しかも、一つの音符にいくつもの単語を詰め込んでいるので、メロディーつきの早口言葉にしか聞こえない。
自分はといえば、さすがに「銀恋」は歌わないが、どうしても昔の曲なので、
娘から言わせると、「父さん、ほんとにうまいんだけどさあ、選曲がねえ・・・」
「もっと、今の曲を歌わないと、若者の心はつかめないよ!ポルノグラフィティとかさ・・・」
「あのね、もうカラオケなんか行く機会もないんだから、別に若者の心なんかつかまなくたっていいんだよ!」
「ダメだよ、そんなの、なんかの機会で、おじさんが今の歌を上手に歌えば、キャー、先生素敵って・・・受けるんだからさ!」
「娘としては、かっこいいパパでいてほしいでしょ」
パパだ
~?
バーゲンの時にしか使わない殺し文句!
全くこいつは人をのせるツボをこころえてるよな・・・
そんな事があった少しあと、娘がTUTYAで大量のCDを借りてきて、私のⅰ-podに曲を入れ始めた。
「父さんが歌えて、声の質に合った曲を選んでおいたから、練習して歌えるようにしなよ!」
パパのカラオケ、というわけパパカラと題して30曲以上も録音されている(あれ?録音・・・ていうのも古いんだっけ?)
「そんなの聞いてる暇なんてね
よ!」
とは言ったものの、結局は車のオーディオに入れなおし、通勤の時に聞く羽目になっている!
自宅には、Wiiのカラオケがいつの間にか買ってあり、これが本当に良くできたもので、
登録した自分のイメージキャラが歌いながら踊ったりしている!
すっかりのせられ、こっそり練習したりしている自分が情けないが・・・まあ、少しはストレス解消にはなるかもしれない。
ただ、もともと嫌いじゃないので、だんだん本気になってきている自分も怖いよね!
「仕事、いそがしいんだけどな
・・・」とは言いながらも、歌いこなせる日をめざし、大声を出しながら運転している!
(平成23年5月3日)




卒業式中止

3月12日は娘の大学の卒業式の予定だった。
前々からこの日は「絶対に休む!」と宣言し、緩和相談の予約もとらず、出席する予定だった。
このホームページを書き始めた時は、まだまだ子供(中学生)だった娘が、大学卒業を迎えるとは・・・
もっとも、4月からも同じ大学の大学院に進学するので、同じ大学で入学式があり、2年後にはまた卒業式がある!
ただ、自分の母親は、卒業式を楽しみにしており、その日も出席することになっていた。
実際に講堂に入れる家族は一人だけで、残りは別の建物で「中継」を見るだけなのが、
講堂には母親に入ってもらい、自分と妻は「中継」を見ようと思っていた。
娘は11日、予行演習で、大学に行っていた。
自分は、本来金曜日は「研修日」で仕事は「オフ」なのだが、
実際、最近は毎週のように呼ばれて結局出勤している。
11日も、朝の9時から携帯が狂ったように鳴り、昼前までに6回も電話がかかり、そのつど報告、指示など・・・
どうしても出勤させてやる!としか思えないような頻回のコールで、
昼過ぎ、出勤しようと車を運転している途中、大きなゆれを感じた!
電線が大きくゆれ、、とても運転を続けられる状況ではなくなり、しばらくハザードランプをつけ、車を止め、
ゆれが収まってから病院に急いだ!
尋常でないゆれだったので、患者さんや病院の建物に大きな被害が出ている可能性がある。
病院に着いたときには、職員が患者さんを正面の駐車場に避難させている最中だった。
職員からは患者さんの状況、建物の損傷状況を確認し、次々に報告が入る。
さいわい、けが人もなく、建物にも大きな損壊はなかった。
ただ、停電がおこっており、非常電源が作動していた。
復旧のめどは立っていない。
レスピレーターを使用している患者さんはなく、手術も行われておらず、
透析も、返血は終了しており、混乱もなかったのは不幸中の幸いだった。
ただ、夜間透析は行うことが出来ないので、日程変更を連絡し、外来も早めに終了、入院患者さんへの対応を最優先した。
非常電源の配線を確認、輸液ポンプなどの使用に支障ないように手配、何人かの患者さんには部屋の移動をお願いし、
夜間の対応にそなえた。
幹部職員や、病院近隣の職員も集合してきた。
余震が続く不安もあったが、患者さんへの全館放送もマニュアルに則って行われ、職員がきびきびと頼もしく動き回っていた。
ただ、夜になっても停電の復旧がなく、情報も伝わらない不安があり、
非常電源の灯油が切れる可能性もあるため、緊急調達を行った。
新病院建設を行っている大林組の工事関係の方たちには大変お世話になった。この場を借りて感謝したい。
外の様子を見に行った職員によれば、コンビニには長蛇の列が出来ているようで、食料品は底をついているとの話だった。
交通渋滞も激しいとの報告もあり、公共交通機関は麻痺、職員の中には自宅に帰れないものも多くでて、
栄養課の職員の手配で、炊き出しも行われた。
院内に備蓄している災害用の毛布がかき集められ、患者さんに配布、
薄明かりの中でも不安の無い様、職員がこまめに患者さんの病室を回ったが、
9時前、ようやく電気が復旧し、病院がパッと明るくなった!
あちこちで拍手が起こる!
もう、消灯時間も過ぎていたので、とりあえず、復旧は12日に行うことにして、最終安全確認を行い、
自分も帰宅することにしたが、道は大渋滞で、いつもなら15分もあればつけるのに、なんと1時間半もかかった。
携帯はつながりにくくなっているので、病院からの連絡が届かない可能性もあり、
病院に泊まればよかったと後悔したが、さいわい何事もなく翌日を迎えた。
娘はといえば・・・
大学の講堂に缶詰になっており、徒歩で帰宅可能な学生を除き、全員がそのまま泊まることになったようで
翌日の卒業式は「延期」ではなく、なんと「中止!」になってしまった!
まあ、この事態ではしょうがないのかもしれない。
ただ、それなりに、帽子とガウンを着た娘と記念写真でも撮りたかったし、仕事も休むつもりだったので・・・
なんだか拍子抜けしてしまった。
仕方が無いので、12日はいつもどおり出勤し、外来を担当したが、
まえまえから「代診」の案内を出していた影響もあるのか、いつもよりずっと患者さんの人数も少なかった。
地震の被害は甚大で、多くの犠牲者が出ている様子が刻々と報道されていく。
卒業式が中止になったのは残念だが、もはやそんなこともいっていられない状況だ。
まあ、2年後には大学院の卒業式があるのだから・・・そのときまでお預けにしておこう。
まてよ・・・2年後って・・・還暦じゃないのか!
息子も来年は大学受験だし、最近自分が年をとった感じるのも、やむをえないのかもしれない。(平成23年3月13日)


あなたがなくしたのは?

平和病院の白衣は就職した時に支給される。
ただ、看護職員の中には、もっと、かわいらしいデザインの白衣を着たい者もいて、
白衣のカタログから選んで「自前」で注文し、着ているものもいる。
自分はといえば、
前にも書いたが、韓国ドラマ「カインとアベル」で、出演者が着ていた白衣がめちゃくちゃかっこよく見えたので、
どうしてもほしくなり、カタログを探してみたが・・・
なかなかしっくりしたものが見つからない。
かろうじて、腰の部分にベルト様のラインが入って、少し絞まって見えるタイプのものが見つかり、2枚も注文した。
ただ、カッコはいいんだが、ポリエステルが混ざっていて、けっこう薄く、夏にはいいが、冬はなんとなく寒々しい感じがする。
そんな時、またまた見た韓国ドラマ「外科医ポン・ダルヒ」でも、医師が背中にベルトが付いているタイプの白衣を着ていて、
こりもせず、カタログを取り寄せ、探してみたら・・・
あったあった!
この前頼んだものより値段も高めだが、ポケットのラインも斜めではなくまっすぐで、
背中側にはきちんとボタンとベルト(完全に飾りだが・・・)が付いている。
ためしに1枚購入してみた。
少しオマケしてもらい、けっこうすぐに届いたが・・・
いい!
綿100%で、少し厚手で(夏は着れないかもしれない)、色も、もちろん白なのだが、真っ白で寒々しい感じではなく、
ややパールホワイト、少し光沢があるようにも見える。
ポケットの横にはスリットが入っていて、ここから手を入れれば、ズボンのポケットに直接手が入れられるようになっている。
すご~く気に入ったので、、もう1枚注文した。
白衣の洗濯は、業者さんが回収し、もどってきた白衣を総務課の職員が部屋に届けてくれるのだが、
前に買った薄手のほうの白衣がいつまでたっても一枚返ってこない!
他の部署に紛れ込んだ可能性もあり、探してもらったが、どうしても見つからなかった。
係の職員に、業者さんに問い合わせるよう頼んだが、結局見つからなかったようで、
ある日、職員が新品の白衣を届けに来た。
結局、業者さんが紛失してしまったようで、自前の白衣だったので、お詫びにわざわざ新しいのを購入してくれたようだった。
自分がどんな白衣を無くしたのか、職員に確認し、カタログを見て購入したようだが・・・
よく見ると、実際に無くなった白衣ではなく、一番新しく買った、お気に入りの白衣を持ってきている。
「あれ、この白衣じゃないんだけどな
・・・」
「でも、業者さんはこの白衣を持ってきましたが・・・」
これって・・・
なくした白衣より少し高いんだけど・・・めちゃくちゃ気に入ってるしなあ・・・
「この白衣じゃないんですか?」職員はたたみかける。
「え?う、う~~ん・・・ごにょ
ごにょごにょ・・・」
こちらも歯切れがだんだん悪くなる。
ふと、子供の頃に呼んだ童話を思い出した。
確か、グリム童話だったかな・・・「金の斧、銀の斧」だったと思うが・・・
こんな話だ。

むかし、むかし、貧しくても正直な木こりと病弱な妻が森の近くに住んでいて、木こりは森で薪を切って一生懸命働いていた。
でも妻の薬代に回すお金はない。
ある日の夕方、太陽がゆっくりと沈もうとしている時、男はまだ森の中、湖のすぐそばで、斧を持って仕事をしていた。
もう一振りで木が倒れるという時、最後の一振りは失敗し、斧は木立を抜け、小さな湖に落ちてしまう。
『ボチャーン』・・・斧はあっという間に水の中に消えてしまう。
男は湖のふちにかけより、膝まずき、斧が落ちた辺りを覗き込んだ。
長年使っている、ごくありふれた鉄の斧だったが、仕事を終えるといつも磨いでいたので、さび一つない。
家族を養っていくには、無くてはならない大切な斧だったのに・・・
木こりは大きく溜息をつき、つぶやいた。
「たった一つの鉄の斧。あれがなくては仕事ができない。どうしょう」
その時、水から靄が立ち上がり、まばゆい姿が現われた。男は驚きの目でその姿を見た。
そこには美しい女性の姿が・・・
驚く木こりに、女性は優しく声をかけた。
「そんなに恐がる必要はありません。私は湖の精です。とても困っているようですが、どうしたのですか?」
「斧を失くしてしまいました。たった一挺の斧です。あれがないと仕事ができません。」男は弱々しく答えた。
「それは気の毒に・・・。わかりました。私が力になってあげられるかもしれません」、と言い、
湖の精は水の中に飛び込み、しばらくすると、両手に斧を抱えて出てきた。
「あなたが落としたのはこの斧ですか?」それはまばゆいばかりの金の斧だった。
「と、とんでもない。私のではありません。私のは金の斧なんかじゃありません!」
「そうですか、それではちょっと待っていてください」と言うと、湖の精は再び水の中にもぐり、まもなく両手に銀の斧を抱えて出てきた。
「さあ、これはどうですか。あなたのでしょう。」
「申し訳ありません。それも私の斧ではありません。私のは木の柄がついたごく普通の鉄の斧です。
そのように光ってはいませんが、木を切るには十分です。手元に戻ってくればいいのですが・・・」
すると、湖の精はまた水の中に飛び込み、今度は両手に鉄の斧を抱えて戻ってきた。
男はそれを見て、顔を明るくし、
「そうです。それこそ私のです。私の愛用の斧です。よかった。何とお礼を言ったらよいものか。
あなたのおかげで使い慣れた斧が戻りました。一安心です。日も暮れました。
家に戻らなくてはなりません。本当にありがとうございました」
「待ちなさい。」湖の精の声に、木こりは歩みを止めまた。
湖の精は、また水の中に潜ると、すぐに両腕に金の斧と銀の斧の二挺を抱えて出てきた。
「あなたは稀に見る正直者です。あなたの正直さと誠実さには感動しました。この二挺の斧も差し上げましょう」
「私に金と銀の斧をくれるというのですか。本当にありがとうございます。」
湖の精は、さらにきこりに尋ねた。
「それから、もしもう一つだけ願いがかなうとしたら、あなたの願いは何ですか?」
「何もありません。ただ、実を言うと、妻が長年病気で床に伏しております。昔のように元気になって欲しいと思っております。
それが私の唯一の願いです。」
男が家に帰ると、驚いたことに、妻はすっかり元気になり、鼻歌を歌いながら晩ご飯の用意をしている。
夫は妻に素晴らしい斧を見せ、そのいきさつを話した。その日は二人にとって最高の一日になった。
数日たったある日、近所に住む木こりが一人やって来て、壁の古びた斧の隣に掛かった二挺の見慣れない斧に目を留めた。
「あれはお前のものか。金の斧と銀の斧じゃないか!一体どこでどうやって手に入れたのだ?」
疑いの眼で、でも、うらやましそうに尋ねた。
正直者の木こりは、あの不思議な体験を黙っているわけにはいかず、すべて正直に話した。
隣に住む木こりは錆びた斧を持つと、さっそく湖に駆けつけ、斧を水の中に投げ込み、
大きな声で、 「困った。どうしよう!」と、さも一大事のように叫んだ。
すると湖の精が現われ・・・
「何故泣いているのですか?」
「誤って斧を水の中に落としてしまいました。あれが無くては仕事が出来ません。どうしたらよいでしょう・・・」
「それはかわいそうに・・・」
湖の精は水の中に飛び込むと、すぐに金の斧を持って現われた。
「それです。それこそ私が失くした金の斧です。ありがたや」男は、湖の精に両手を突き出した。
「この嘘つきめ。そなたのような不正直な人は嫌いです。お前の斧も戻しません。」と言うが早いか、
湖の精は、水の中に戻ると二度と出てこなかった。
もちろん、金の斧は手に入らず、自分の斧も失ってしまったのだ。
欲深い、不正直な男はこれから先、斧なしでどうやって仕事をしていけるのか・・・

と、いうものだが・・・
なんだか、この話、自分の状況に似ているじゃないか・・・
美しい「湖の精」ではないが・・・(いやいや、もしかしたら、湖の精が事務職員に変身しているのかもしれないぞ・・・)
「あなたの無くしたのは、この綿100%のパールホワイトのお気に入りの白衣ですか?
それとも、少し薄めのポリエステルの混じった白衣ですか?」
ああ!
ここで正直に、「いいえ、この白衣は私がなくした白衣ではありません。もっと薄手の少し安い白衣です」
と言って新品の白衣を返したら、女神は、なくしたほうの白衣だけでなく、この「高いほうの」白衣も一緒にくれるのかも・・・
とも思ったが、
事務職員の、「でも、洗濯やさんは、この白衣を持ってきましたから・・・」の一言に負け・・・
「そうか、でも、この白衣じゃないんだけどなあ・・・一応、業者さんに言っといてくれる?」
と、言いつつ、結局受け取ることになった!
それからも、洗濯業者さんからは何も言ってこないが、一応新しくもらった白衣は、まだ包装を開くことなく、そのままにしてある。
案外小心者なので、なんだか罰が当たってしまうようで、まだ着る気にならない・・・
無くなった「本当の」白衣はあいかわらず出てこないままだが・・・・
さあ、どうする!
(平成23年1月23日)




今年もよろしくお願いします!

12月25日の土曜日は当直ではなかった。
娘の誕生日でもあり、少しはのんびり出来るかとも思ったが・・・
そもそも23日の夜中、実際には24日の午前1時半頃、当直医から連絡があり、
緩和ケア科の患者さん(肝臓がんの末期)に付き添っていた奥さんが不穏状態になっており、
どうしたらいいだろう・・・とのことだった。
もともと、ご主人の病状悪化をなかなか認められず、残された時間が少ないことを説明したあと、
ずっと病室に泊り込んでおり、奥さんの疲れもピークに達している。
電話口に換わってもらったが、内容が全くといっていいほどまとまっておらず、興奮した口調で話されていた。
これは、直接お話ししないと収まらないと思ったので、息子さんか娘さんにも連絡してもらい、病院まで出かけていった。
息子さんは眠そうな顔ではあったが(そりゃあ午前2時だ。眠いのも無理はない。私だって眠い!)来院してくださり、
一緒に奥様の話すのを聞いていただいた。
「癌は治っている。今まで出してもらった抗癌剤なんか、私がみんな捨ててしまっていた!
いい漢方の薬があり、もう200万円もつぎ込んでいる!
風邪だって何だって、それさえ飲めば3日もたてば治る!
お父ちゃんにもずっと飲ませていたから、もう癌は治ったんだ。私はちゃんとわかってる!
絶対、今の状態はおかしい。
だって、今まで動いていたのに、体の向きを変えさせられたら急に動かなくなった。
ありゃあ絶対なんかのトリックを使ったに違いない!
こんなところにいたら殺されてしまう!
腹水を抜いてそれを点滴するって言ったって、ほんの少ししか点滴しなかった。
きっと他の誰かに横流ししたに違いない!・・・・」
息子さんも、母親の尋常ではない様子に、「お袋、もう疲れてんだから寝ろよ!みんなに迷惑がかかるだろ!」
と、言っては下さったが・・・
ただ、病状を受け入れられない奥さんの気持ちもフォローするのが緩和ケア科の仕事でもあり、
このような状態のときに、理詰めで説明したり、反論しても逆効果になるのは明らかなので、
ひたすら話を聞いていた。
やっと落ち着いてきたのが朝の5時頃だった。
25日の午前1時頃にも病院から連絡があり、患者さんの家族からの相談だとのことだった。
23日に在宅に帰ったばかりの患者さんの家族からだったが
自宅で呼吸が止まっているようだが、どうしたらいいだろう・・・とのことだった。
この患者さんは、入院中もずっと自宅に帰りたがっていた。
ご家族も最後のチャンスなので、無理をしてでも一度帰してあげたいとのことだった。
他の親戚からは、こんな状態が悪いのに自宅に帰すなんて!と、息子さん夫婦は反対されたようだったが、
何とか実現し、状態が悪ければ、自分が往診することも出来るし、いつでも帰ってこれることをお話しし、退院していった。
ただ、話の様子では明らかに亡くなっている。
あらかじめ、状態悪化の時には、特別な延命処置は行わないことを確認してある。
これから救急車を呼んでも、救急車は「救命」をしなければならず、不本意な人工呼吸や、心臓マッサージなどが行われてしまう。
自分がお宅に伺うことを話し、病院に行き、カルテを用意し、ご自宅に向かった。
ご自宅に着くと、患者さんは静かにベッドに横たわっていた。ほんとうに眠っているようで・・・
在宅での看取りを行う患者さんの顔は、なぜか穏やかな場合が多いと思う。
ご家族の話しでは、その日は意識も病院にいるときより、はっきりし、朝、昼、夜と食事もし、みかんを少し食べ、
12時頃にはビダーインゼリーも飲み、眠りについたあと、12時半頃様子を見に行ったら、呼吸をしていないようだった、とのことだった。
家に帰してあげて、最期は静かに看取ることができたと、感謝していただいた。
病院にもどり、書類を作成し、家に帰ったのは朝の5時頃だった。
その日は朝から通常の外来で、夕方には早めに帰り、久しぶりに家族そろって娘の誕生日を祝った。
娘も、いつの間にか22歳になった。
来年は大学院に進学なので、あいかわらず自分のすねにかぶりつくつもりのようだ!
自分の妻が私と結婚したのが23歳の時だったので、今の娘の年には、もう自分と付き合っていたことになる。
結婚したのは自分が34歳の時だが、娘が、今33歳の男と付き合っているなどと知ったら、
何でそんな
ふけた男と付き合ってんだ!!!と、逆上して大反対する気がする。絶対にする!
それを思うと、妻の実家の両親は、いかに寛大だったことか・・・それとも自分の誠実さがつたわったか

それはともかく、26日の午前1時半にまた呼ばれた。
もう、こうなると、今日がいつなのか、わけがわからなくなってくる。
肺癌末期で入院していた患者さんが最期の時を迎えたとのことだった。
お見送りをして、帰ってきたのがやはり朝の5時!
3日間連続して、真夜中に仕事をしていたことになる。26日が日曜日で助かった!
いつもは患者さんの状態をチェックしに、休みの日にも顔を出すことも多いのだが・・・・
(そもそも緩和ケア科の患者さんなので、皆さん状況は厳しいので)
さすがに今日は「仕事に行きたくなかった!
呼ばれれば、もちろん出かけるが、自発的にはど~~~
しても行く気になれなかった
不穏になった患者さんの奥さんではないが、今日、病院に行ったら自分がおかしくなりそうな気もした。
そんなわけで・・・
久しぶりに、小さな庭に出てみれば、白梅の盆栽に花が咲いているじゃないか!
紅梅のつぼみも膨らんでいる。
花壇にガーデンシクラメンやビオラや葉牡丹などを植え、最近、最終巻が出た「鎧の錬金術師」(漫画)の一気読みを開始した。
(たまには仕事のことを一切考えず過ごさないと、今の精神状態は自分でもあまりよろしくないと思っている)
実は、以前から漫画好きで、結婚した当時はあきれるほどの漫画本が家に溢れていた。
何回目かの引越しの時に全部売ってしまったが、今考えると惜しいことをした!
その後も「島耕作」シリーズや「かわぐちかいじ」の本、などを、チョコチョコ読んではいたが・・・
鎧の錬金術師」は自分が手術をしたとき、お見舞いに7巻までもらって、それ以来読んでいなかった。
娘も、息子もこの漫画は読んでいて、娘が全巻そろえていたものだ。
最近、最終巻が出たばかりなので、ずいぶん長く続いていたようだ。
最終巻は27巻だから、先は長い。
ただ、悲しいかな、一気読みしないと、途中の展開を忘れてしまったりする!
漫画も韓国ドラマと同じで、一度読み出したら止まらなくなるんだけどなあ。
ただ、このあと、27日の早朝も呼ばれる可能性はいつだってあるわけだ!
4日連続して夜中の2時過ぎに仕事をしなくてすむよう願っているが・・・
どうなることやら・・・
(平成22年12月26日)

と、書いて、アップしないでそのままにしているうちに、あっという間に新しい年になってしまった。
結局、4日連続は免れた!
平和病院は毎年12月30日から1月4日までが休業になる。
昨年は年末年始に忙しかったので、
今回は年末前には緩和相談の受付も、新規入院も少し制限させていただいた。
(その代わり、年始からの予定はびっしりになったが・・・)
ただ、外来通院中の患者さんにとっては、「休みの間に何かあったら・・・」と、心配になることも多く、
以前から入院している患者さんもいらっしゃるので、緊急時の対応は休み中でも確実にすることは約束している。
12月30日には緩和ケア科の患者さんの状態悪化による入院があり、結局勤務になり、
31日も午前中に入院患者さんの様子をみにいき、午後からは実家に出かけた。
その夜は何事もなく、紅白歌合戦を見て(半分以上歌手の名前がわからん!)無事新年を迎えることが出来た。
実家は海を見下ろす山の上のほうにあるので、江ノ島と富士山が真正面に見える。
風もなく、凪いだ海、なかなか普段はのんびりと景色をみることもないので、冷たい空気がすがすがしく、新しい年を迎えた実感がわく。
1月2日には毎年、鶴岡八幡宮に初詣に出かける。
倒れた大銀杏からは、たくましく、新しい枝が何本も伸びており、生命力の強さに感心した。
毎年、拝殿にあがり、祈祷を受けるのだが、今年は石原慎太郎一家(の代理の人)の祈祷と一緒になったので、
ふだんとすこし作法が違っていた。
玉串奉納など、いつもは無いのだが、今年は最前列の正面に、その人が座っていて、神前にあがる人数もやや制限したようだった。
その人に合わせて二礼、二拍手、一礼を行うのだが・・・、
いつもだと神主さんに合わせるので、全員がそろってできるのだが、
今回は、よく見えないので、ばらばらな感じになってしまう!
まあ、拍手がそろわなくてもご加護は変わらないと思うので、大丈夫と思うが・・・
その夜は、隣の従兄弟の家で、食事をした。
いつもはけっこう飲むのだが・・・
もし呼ばれたらと、思うと、飲めない。
案の定、夜の10時過ぎに呼ばれた。仕事が終わったのが3日の午前1時過ぎだったので、
その日は一人自宅に帰って、朝、実家にもどった。
その日の夕方には息子は塾があるので、間にあうように昼過ぎに実家を出た。
状態の悪い患者さんがいるので、電話の指示だけでは不安もあり、帰ってから病院に顔を出した。
7時頃自宅にもどったが、10時頃また呼ばれた。
病院にいる間に、別の患者さんが急変し、結局自宅にもどったのが4日の午前5時!
さいわい、まだ休業中なので、朝の9時まで寝ていたが、
どうも最近、遅くまで寝ていることが出来なくなっている!
年を取った証拠なのかもしれないが、さいわい、今日はこの文を書いているまで、呼ばれていない!
ず~~っと気になっていたフェンスのラティスの交換を何とか終わらせることも出来た。
今年は庭と、家の周りの改造を計画しているが・・・
いつになったら終わることやら。
ただ、何も考えずに体を動かしているのは、けっこうリフレッシュする。
そんなわけで・・・
明日からは,もう通常業務が始まる。
あと4ヶ月もたたないうちに新病院が完成する!
最終の追い上げは、かなり予定がタイトで、まだまだ解決しなくてはいけない問題もてんこ盛りだ!
この文を書き上げたら、病院のホームページの「院長挨拶」の更新や、院内報、院外報のあいさつ文も考えなくては・・・
病院のホームページの私の写真もだいぶ古くなった。
いつも手術の手伝いに来てくれている日産玉川病院気胸センター長の栗原先生から、
先生、あの写真、どう見ても若すぎない? だいぶ前の写真でしょう!
と言われたが、確かに院長室を改装する前の写真なので、4~5年はたっているかな?
まあ、新病院の院長室に移ったら、そこで写真を取り直したいので、
それまではすこし?若めのイメージで、そのままにしておくことにしよう!
年明けからバタバタとして、あいかわらず忙しい1年になりそうだが、体調には気をつけて、新病院への移転をスムーズに行いたい。

このページをお読みの皆さんにとっても、良い年になりますよう、お祈りいたします。
今年も、よろしくお願いします。
(平成23年1月4日)



またやっちゃったよ!

あ~~っ、ほんとに忙しい!とかいってるのに・・・
今月、患者さんも安定している日曜日があった。
土曜の当直明けなので、日曜の午前中に患者さんもチェックできたし・・・
家に帰って至福の「うたたね」(これがほんとに気持ちいいんだな!)も終わり、さて・・・
今度発表する日本臨床外科学会の準備でもするするか、と思ったが、ふとパソコンの脇においてあるDVDの束が目に入った。
妻の友人がコピーしてくれたまま、見る機会もないままたまっていたものだ。
以前は「カインとアベル」という医療ものの韓国ドラマにはまってしまったことを書いたが・・・
そのあと、出演者が着ていた白衣がかっこよかったので、白衣のカタログから似たようなものを探し出し、
自腹で2枚購入してしまった!
少しウェストラインがしまっていて、後ろにベルト様のラインが入っているやつだ。
けっこう気に入っているが・・・
以前から、シリーズものは一度見始めるとやめられなくなるので、しばらく手を出していなかったのだが・・・
外科医ポン・ダルヒ」・・・
また医療ものかあ・・・
まあ、どんなもんか、ちょっとだけ見てみるか・・・と、パンドラの箱を開けてしまった!
インターン女性外科医のポン・ダルヒが様々なトラブルを乗り越えながら、一人前の胸部外科医になっていく話だ。
その間、ライバル関係の先輩外科医(消化器外科医と胸部外科医)がいて、この2人が、お決まりの複雑な人間関係にあり、
ポン・ダルヒをめぐって恋のライバルになり、
循環器センターと、がんセンターの設立の競合が絡む。
なんだか、部分的というか根本的な部分は、この前の「カインとアベル」の話に通じるものがある。
白衣は、やっぱり背中側にラインが入っている!韓国では一般的なんだろうか・・・?
手術シーンやERでの場面が頻繁に出てくる(あまりに「も緊急で心臓が止まる患者がいる設定には驚きだが)
ポン・ダルヒが殺人犯の治療中に、はさみで刺され、緊急手術をうけたり、
もともと心臓疾患を抱えるダルヒの心機能が悪化し、憧れの胸部外科医に手術を頼み、
大出血で人工弁置換になり、医師になるのをあきらめ、実家に帰るのを、胸部外科部長が迎えに行く・・・
けっこう波乱万丈で、また、終わるタイミングが、どうしても次が見たくなるような場面で切られるので、ついつい見続けてしまう!
だいたい、仕事場の病院でポケベルを鳴らし、「会いたかったから呼んだんだ!」など、廊下で待っていたり、
夜に食事をして2人で病院にもどってきて、病院内の部長の部屋の前で抱き合う・・・など!
こんなこと平和病院でやったらとんでもないことになるよね!
まあ、舞台は大学病院なので、平和病院みたいな狭い場所じゃないからなあ・・・
部長の部屋だって、今の院長室の4倍はあるし!
いやいや、場所の問題じゃなくて!
そんな燃えるような、ときめくような雰囲気を味わうような労働環境でもないしね・・・と、いうわけで、
夕食後の貴重な、うたた寝の時間を犠牲にし一気に見てしまった。
なんだ・・・・・けっこう、時間は作ろうと思えば作れるじゃないか!・・・とは思ったが、
これがDVDを見ていれば眠くならないんだけど、同じ時間に、さあ、勉強するぞ!と、意気込んで本を開いたりすると、
あっという間に眠りの世界に引き込まれる。
本には催眠作用があるらしい!
ポンダルヒを見る時間を勉強に費やしたら、少しは賢くなるのに、とも思うが、なかなかうまくいかないものだ。
それでも何とか学会の準備は終わらせ、22日の朝、発表も無事終わった。
今回の演題は、「がん治療病院と在宅診療所を結ぶ、緩和ケア病棟を持たない地域一般病院緩和ケアチームの取り組み
というもので、平和病院の緩和ケアチームの現状、システム、一般病院で緩和ケアを展開する重要性についての発表を行った。
今年はけっこう学会発表、講演など、去年よりずいぶん多くこなした。
やはり、外部に自分達の展開する緩和ケアを情報発信することは必要なことだと思っているし、
チームのほかの職種のメンバーにも求めたいところだ。
学会発表も終わった祭日・・・
まだまだ禁断の韓国ドラマのDVDがいくつも待ち構えている!
抵抗できるか・・・?
(平成22年11月23日)




Aに復活!

10月になるというのに、まだ汗ばむような気温になることも多いが、
最近はさすがに通勤にスーツを着ていくようになった。
夏の間は病院に着けば、結局半そでの白衣に着替えるので、正式な会合などがない限りはラフな格好で出かけていた。
今着ているスーツの大半は、もっと太っていた時に作ったもので、ウエストがけっこうぶかぶか(余裕があるといえばそうなのだが・・・)で、
その分、ズボンもダボダボした感じがある。
最近のスーツは「細身」が主流のようで、自分がみても、今のスーツは、特にズボンが「いけてない!
やせていた時のスーツは、ズボンが「入らなくなり」すててしまったが・・・今考えるとむちゃくちゃ惜しいことをした。
あの頃よりウエストサイズが4~5センチは少なくなった(体重は6Kg減)ので、多分、今なら十分入るのに・・・
それはともかく、礼服は一番太った時に作ったので、この前、職員の結婚式に呼ばれたときに着たが、「こりゃダメだ!」状態だった。
今月は職員の結婚式が2件ある。
外科の外来看護師が31日、病棟看護師と事務職員の結婚式が24日にある。2週連続だ!
ちなみに外科外来のクラークは最近出産したし、院長秘書兼務のクラークも双子を懐妊!
おめでたいことはいくつあってもいいことだが・・・
結婚式には礼服を着なくてはならず、さすがに新しく買うことにした。
たいてい、スーツは港北ニュータウンのAOKI本店で買う。
サイズが豊富にあるのが魅力だ。
今まではAB体から選んでいたのだが、イケメンの店員さんから、「お客様は細身なのでA体ですね!」と言われた。
いきなりうれしいことを言ってくれるじゃないの!
ずっと以前はA体だったが、その頃はあまりスーツなど着なかった。
A8サイズの売り場に連れて行かれたが、確かに、今のズボンは細身のタイプが多い。
ズボンはもともと細目が好きで、ジーンズもスリムを好んで買う(最近はユニクロで・・・)
もしもまた太った時のために・・・アジャスターの付いたタイプを選んだがのが、少し情けないが、
それでも今までのものよりはずっとフィットした感じになった。
「スーツもお安くなっていますが、一緒にいかがでしょう?細身のタイプはお似合いになりますよ!
一緒に行った妻は、「好きにしたら・・・」と肯定とも否定とも取れる微妙な反応だったが・・・
「最近のものは洗濯機で洗え、クリーニング代もかかりません!」の一言は、ニュースーツ購入の後押しをした!
試着したが、A8のズボンは今のウエストではぎりぎりで・・これ以上は絶対太れない!
すかさず「3センチは楽に出せます・・・」と店員さんがぐいぐい押してくる。
結局、このスーツも買ってしまった。
会計を待っていると靴が目についた。
前からほしかった先の細くなっているタイプがあるじゃないか!
自分の足のサイズは28cmなので、なかなか普通の店ではピッタリしたのが手に入らない。
「スーツをお買い上げのお客様は、靴は半額でご提供できます。いかがですか?」
ん~~~~ん!この商売上手!
と、言うわけで・・・今度の結婚式はおニューの礼服と先細の靴で出席することになった。
結婚する事務職員のトレードマークは「とがった靴!」なので、ちょうどいいかもしれない。
以前は腹筋のトレーニングをまめにやっていたのだが、最近は忙しさもあり、サボっている。
体重はそのまま維持できているが、息子のしまった腹筋を見ると、あまりの体型の差に悲しくなる!
A8のズボンのウエストを直さずにはけるように、もう少したるみをおとしたい!
それはさておき、職員の結婚式に呼ばれると、たいてい「スピーチ」を頼まれる。
今月も2件とも話さなければならない。
乾杯の前のくだけていない時だし、一生に一度のことなので、それなりの言葉は伝えたいし、
長すぎてもいけないし、よくある「人生には3つの袋があります・・・」なんて話は古臭いし、
あまりおちゃらけてもいけないし、どうせ話すなら後から「いいスピーチだった」と少しは覚えておいてもらえることを話したいし・・・
など、直前までいろいろ考えるのだが、結局いつもぶっつけ本番みたいになってしまう。
何とか「ハートウォーミング」な話ができればいいが・・・
(平成22年10月17日)



リセット?

先週の金曜・土曜日で毎年恒例の東芝医療責任者会議が行われた。
東芝病院、東芝林間病院、平和病院など、健保、各事業所の診療所関連などの合同会議だ。
今年は大分で開催された。
最近は毎日が、いつ呼び出されるかもしれない臨戦態勢だったが、
さすがに大分ともなると、呼ばれても駆けつけることも出来ない。
スタッフには、土曜の夜までは対応できないことを伝え、患者さんやご家族にも事情を説明して出かけた。
羽田に向かう途中で、病棟から連絡があったが、飛行機の時間があり、もどることはできないので、当直の先生に対応してもらった。
確かに、病院には必ず当直医がいるのだから、「任せる」気になれば、それでなにか問題があるわけではないし、
自分が対応できないのだから、「そうするしかない」のも事実だ。
自分で対応できる時にも、そうするかどうか・・・の問題だ。
東芝大分工場での会議も無事終わり、別府温泉の宿泊施設で風呂に入って、ふと、ものすごく久しぶりな感じがした。
今年の夏は、結局家族そろっての旅行にはいけなかったし、
土曜の当直が多いせいもあってゴルフも2年近くやっていない。
生活の質」のことを考えれば、決してゆとりのある生活とは言いがたい・・と、自分でも思う。
自分が始め、自分の思い入れでやっていることであり、誰にも文句をいうつもりはないが、
今の自分の対応の仕方を話すと、誰からも「そんなことをしていたら、そのうち絶対に続かなくなる!」と言われる。
頭の片隅で「もう、夜はぜ~~んぶ当直医に任せちゃいなよ!、お酒も飲めるし、ゆっくり眠れるよ・・・」と、ささやく声が聞こえる。
学会で遠方に来ていたり、講演や研修会の時には「どうしても対応できない」時間があるのだから、
自分でそんな時間を作り、どこかで「線引き」をするべきなのかと思うこともあるが・・・
一度そんなことを考え出すと、自分でも楽なほうに流れてしまうので、いまのところ深く考えない様にしている。
大分は以前、家族旅行で来たことがあった。
レンタカーを借りて地獄めぐりや、由布院にも出かけ、熊本まで足を延ばした思い出がある。
数年前のことかと思ったが、娘が小学校卒業の時なので、10年も前のことだった。
確かにあの頃、今のような生活をしていたら、子供達とゆっくり過ごす時間も無くなっていたかもしれない。
帰りの飛行機までの時間を利用して湯布院によったが、以前来た時に比べ、小さな店がごちゃごちゃと増え、
原宿や、鎌倉の小町通りや、軽井沢のように「観光化」したように感じた。
前はもっと落ち着いた感じがしたと思ったが・・・
娘からは、「温泉行くなら、美容系のお土産いっぱい買ってきてね!」と言われたが・・・
「遊びに行くんじゃないんだからな!お・し・ご・と・なんだよ!それに、美容系って何だよ!」
「化粧水とかあるでしょ!石鹸とか、お肌にいいやつ!」
めんどくせ
な、と思いもあるが、スベスベの肌とはいえない哀れな娘から頼まれれば、嫌ともいえない!
歩き回っても、「湯の花」だとか「ザボン石鹸」とか結局バスクリンみたいなものしかなく、
生産地だって東京だったり、岐阜だったり、わけがわかんない。
あとは、ゆずコショウとか、食べるラー油とかばかりで、さすがに顔には塗れないしなあ・・・
結局「男前プリン」と言う、ネーミングにひかれ、お菓子を買ってごまかした。
いざとなったら、豆乳使ってるみたいだし、顔に塗りたくってもいいか・・・?
時間もあまりないのに、探しまくってけっこう疲れてしまった。
ただ、天気はよく、由布岳がくっきりと見え、久しぶりに「遠くの景色を眺める」ことが出来た。
やはり、短い時間でもメリハリをつけ、「仕事のことは何も考えない」ことは必要なのかもしれない。
羽田に着いた時、「さあ、現実の世界、呼ばれれば出かける世界にもどってきた!」と感じたが、
2日間の仕事からの離脱は、それなりの充電にはなったような気がした。
そんなリセットもつかの間で、さっそくその日の真夜中には、患者さんの状態悪化の連絡があり、出かけることになった。
一気に現実に引き戻されたが、あのまま九州でのんびりしているわけにもいかない。
さあ、エネルギーをチャージして「戦闘再開」だ!
(平成22年9月20日)



「シェ佐山」

鶴見の駅の近くに民家を改造したちょっとした隠れ家的なレストランがある。
以前「ラ・ココット」というお店を経営していたシェフが新しく開店したお店だ。
「ラ・ココット」は鶴見区の医師会の中の寺尾地区の会「寺尾医会」が年に1回懇親会を開いていたので
何回か行ったし、おいしいので個人的にも出かけたことがあった。
創作料理でとてもこっており、色彩にも気を使い、器も素敵で、新しい「シェ佐山」にもぜひいってみたいと思っていた。
前回の「寺尾医会」の会場も「シェ・佐山」だったので、参加の返事を出しておいたのだが、直前に入院中の患者さんの状態が悪化し、
ドタキャンしてしまった。ものすごく残念だったが、いけないとなると、期待がよけいに大きくなる。
昨日は同じ鶴見区内の汐田総合病院に招かれ、緩和ケアの講演をさせていただいた。
がん難民ゼロを目指す、地域中小病院の役割」という演題で行ったが、平和病院の職員もずいぶん参加してくれ、
全体で90人を超える人が集まってくれた。
自分の病院で話すのと違い、他の病院で話をするのは、やはりそれなりの準備が必要だし、気を使う。
日常業務も結構忙しかったこともあり、スライド作りもぎりぎり間にあった。
自分の病院にいるときの顔と、外で講演するときの顔が違うと、少しは自分でも思っているが、
特に外科の外来ではけっこう「」の姿をさらしているので、昨日聞きにきた外来看護師と目が合うと・・・
何よそ行きの顔しちゃって!」と、明らかに思われているようで結構汗がでる!
それでも自院のスタッフが来てくれることはありがたいし、平和病院の緩和ケアが浸透しているという実感もわく。
質疑応答を含めて90分くらいになったが、
終わった後、汐田の院長が一緒に食事でもと誘ってくださり、
鶴見の隠れ家的な店がありますから・・・というので、お~~~!
もしかして「シェ佐山」か?と思ったら、そのとおりで、ついにこの日が来たか!と、喜んだ。
中は前の店よりも広々としており、庭も見え、雰囲気はずっと良くなっている。
ますます期待は高まる。
講演で喉もからからで、ビールでも一気に飲みたいところだ。
テーブルにすわったとたん・・・・
ポケットに入れていた携帯が震えている!
公演中に「ライディーン」が鳴り響かないようにサイレンとモードにしていたのだが・・・
電話に出ると、訪問看護師からだ・・・
入退院を繰り返し、結局在宅で療養していたターミナルの患者、Iさんの呼吸状態が悪化しているとのことだ。
病院の場合は当直医もいるが、在宅の場合はそうもいかない。
しかもIさんの自宅は通常の往診範囲よりもかなり離れており、時間がかかる。
せっかく席に着いたが、まだ、オードブルも出ていない!
でも食事が終わるまで待てるような場合でもなく、そんなことをしても喉も通らないので、
院長には丁重にお詫びをし、タクシーを呼んでもらった。
断腸の思いで病院にもどり、往診車でIさんの自宅に向かった。
酒を飲み始めていたら、タクシーで行かなくてはならず、ちょうどいいタイミングといえばそうなのだが・・・
今回も「シェ佐山」の料理はお預けになってしまった。(店の雰囲気だけはわかったが・・・)
こうなったら、何が何でも近いうちに出かけていき、3度目の正直で、実際に料理を食べてみたいものだ。
患者さんが、安定している時期は・・・・
いつだ!(平成22年8月27日)


2題はしんどかった!

6月18日(金)と19日(土)、東京国際フォーラムで第15回日本緩和医療学会学術大会が開催された。
昨年も発表したが、今回は一人が複数の演題をエントリーすることが可能といわれたので、
何を考えたか、2演題応募したら、両方ともアクセプトされた。
ひとつが、なぜ自宅に帰れないのか~「がん緩和相談外来」から見た終末期がん患者の在宅復帰へのバリアンス~
もう一つが、「いつでも、どこでも、切れ目のない緩和ケアを提供するため」に、地域一般病院がはたす役割
という演題で、両方の演題が18日に重なってしまった。
今までのカルテを130人分くらい見直す作業が発生し、思ったよりも準備に時間がかかった。
カルテの整理に院長業務を手伝ってくれる担当クラークが頑張ってくれたおかげで、ずいぶん助かったが、
学会の準備ばかりやっているわけには行かず、日常業務も結構厳しかったので、
資料を作り終えたのは、かなりぎりぎりというきわどい状況だった。
毎日かなり遅くまで準備に時間がかかり、肉体的にかなりしんどかった!
最近看護師や、患者さんからも、「先生、体調大丈夫ですか?」
と、言われたり、「ずいぶんやせましたね!」とか言われてしまう。
自分では意識していないのだが、もう少し、「はつらつ」としていなくてはいけないと反省している。
しかも、
学会直前、在宅で看取る予定の患者さんの具合が悪くなり、連日で往診していたが、微妙な状態で・・・
もし学会中に最後のときになった場合のため、緩和ケア科兼務の若いDRに引継ぎをおこなったが・・・
17日の夜、電話がなった。
患者さんの自宅まで出かけたが、奥様と娘さんに看取られ、静かな最期を迎えた。
娘さんにも、18日は学会に出かけなくてはならないことを伝えてあったので、
「おとうさん、良かったね、明日だったら先生大変だったよ!」と、言ってくれたが・・・
なんだか患者さんが気を使ってくれたようで・・・複雑な感じがした。
以前も学会や、緩和ケア研修会の講師・ファシリテーターの依頼を受けて、どうしても病院にいられないとき、
具合が悪くなりそうな患者さんがいる。
入院中の場合は若い出張医が助けてくれているので何とかなるが、在宅の場合は、かなり気を使う。
そんなわけで、18日は入院の患者さんも比較的安定していたので、学会に無事参加することが出来た。
今回は緩和ケアチームの薬剤師や看護師も参加し、来年の緩和ケア病棟開設に向け、
ずいぶん院内の体制も充実しつつあるのを感じた。
学会の前は、紹介されてくる患者さんの受け入れを少し待っていただいていたこともあり、学会明けはかなり忙しくなりそうだが・・・
来月には下関で開催される日本消化器外科学会があり、そこでも発表することが決まっているので、
こちらの準備もそろそろ始めなくてはならない。
来週は横須賀共済病院で開催される緩和ケア研修会のお手伝いがあり、その後も横浜労災病院、横浜市立市民病院での
緩和ケア研修会のお手伝いも依頼されている。(日曜日か土曜日に行われる)
いまや日常診療は完全に「緩和づけ」の状態だが、やはり学会で新しい知識を吸収し、自分達も情報を発信していくことは
重要なことだと考えている。
来年の学会の時期には緩和ケア病棟が出来ているので、看護師、管理栄養士、理学療法士、薬剤師など、
他の職種に関しても、さらに幅広く情報発信をしていきたいものだ。
(平成22年6月20日)


やっぱり記憶喪失かい!

「冬のソナタ」以来、韓流ドラマの人気は高まる一方らしく、
かつては、おば様たちが「ヨンさま
~~!」などと、黄色い声を上げていたが、
最近では若い女の子達も、韓国男優スターに憧れて、テレビでもドラマシリーズは高視聴率を稼いでいるらしい。
かつては「東寺尾のヨン様」・・・と、ごくごく一部の患者さんから言われていたこともあったが、今ではその手の話は全く聞かない・・・。
妻の友人が、よくDVDをくれるので、以前「犬とオオカミの時間」というのを見始めたことがあった。
忙しいのにけっこう夢中になり、当直の日に病院にもって行き、見ていたこともあった。
イ・ジュンギ(今は兵役についているらしい)が主人公の刑事ものドラマで、兄弟が実は本当の兄弟ではなく、同じ職業、
しかも同じ女性を愛してしまう。
あるとき主人公が事故に巻き込まれ、記憶喪失になり、愛する人の記憶も無くしてしまう。
兄弟は敵対する関係になり、兄弟の間で揺れ動くヒロイン!そこにアクションやら複雑な人間関係がからみ、どろどろの状態に・・・
はじめは馬鹿にしていたのに、見ているうちにやめられなくなり、けっこう夢中になってしまった。
最近の忙しさは、この前書いたばかりだっていうのに!
カインとアベル」というドラマを「医者が主人公で、けっこう面白いんだって!」と妻に勧められた。
「こんな忙しいのに、そんなもん見てる時間があるわけないだろ!」といいながら、
たまには息抜きも必要なんじゃない?」との誘いに、思わずDVDに手を伸ばし・・・
禁断の木の実・・・第1話を見てしまった・・・。
大病院を舞台に兄弟が救急部と脳神経外科の医師、
兄は恋人を置いて7年間外国で修行(実は自分も脳の悪性疾患で手術を受けていた)、
その間彼女を支えてきた弟(実の兄弟ではない!)に心引かれていき、結婚を誓うようになる!
そのときに帰国した兄、感動の再会だったはずが、恋人、病院の経営方針で兄弟の間には溝が深まり、
そこに救急センターと脳神経外科センターの開設争いが絡み、事態はさらにどろどろに・・・
ここら辺まで見て、あれ、なんだか物語の設定が前に見た「犬とオオカミの時間」にそっくりだよな・・・と思い始める。
これで記憶喪失が絡めばそのままんまじゃないか・・・などと考えているうちに・・・
弟は中国で何者かに拉致され、ついには砂漠の中で拳銃で撃たれ、弾丸が頭に!
え、これで死んじゃったら話が続かないし、もしかして・・・
頭に受けた弾丸が原因で、「記憶喪失」になるんじゃないよなあ?・・・・
あ~~~、かんじんなところで終わっちゃうし、これだから見はじめるのが嫌だったんだよ!
と、言いつつ、次の回を見てしまう。
場面は砂漠の中で、何者かが主人公を運んでいる!そうだよなあ・・・生きてないと話が続かないしね・・・
助けたグループは脱北者グループで、麻薬取引が絡み、中国ロケでスケールが大きくなってくる。
気がついた主人公・・・だが・・・やっぱり!以前の記憶が全くなくなっている!まさにドンピシャの設定!
拉致される前に主人公のガイドとして、中国で雇われていた女の子が、
偶然主人公を助けた脱北者グループのリーダーの妹で・・・という無理やりのような設定からも、新たな恋が始まる!
というわけで・・・
いつもは夕食を終わると、うたた寝したくなるのをぐっとこらえ、けっこう夢中で見てしまった!
学会も近いし、社員総会の準備もあるし、院外報の原稿もせっつかれてるってえのに!
しかもガイド役の女の子を演じた女優「ハン・ジミン」がやたらにかわいくて、
最終話のハッピーエンドのシーンは3回も見直してしまった。
ああ、幸せになってよかたね!などと口元が緩むのが情けない!
若いときに「オードリーヘップバーン」の大ファンになった以来の出来事で、
不思議なことに、見終わった直後は、見慣れた妻の顔さえ、「ハン・ジミン」に似ているようにさえ見える!?
今、院長室のパソコンのデスクトップでは「ハン・ジミン」の写真が(残念ながら妻の写真ではない)にっこりしているという、
我ながらトホホな状態になっている。
最終回も終わっちゃったしな
・・・さて、これからたまった仕事をこなさないと・・・とは思っているが、
我が家にはまだまだ「韓国ドラマシリーズ」のDVDが・・・
(平成22年5月23日)




ほんとに連休?

世の中はゴールデンウィークで、各地の観光地は賑わっているらしい。
高速道路の渋滞情報が報道され、家族連れで出かけるお父さん達のバイタリティーは尊敬に値する!
我が家といえば・・・
5月1日の土曜日は当直で、2日の昼まで仕事をこなし、
昼過ぎに、久しぶりに実家の母親に会いに出かけた。
実家といっても世田谷なので、1時間かからずに到着する。
妹夫婦も集まり、夕食を一緒に食べて、夜に帰ってきた。
その日の夜中に患者さんの急変で呼ばれ、2日(日)の昼前に帰宅。
どこにも出かけないというのもあまりにも気が引けるので、息子と出かけた。
娘はデート、妻は留守番。家族そろっておでかけ・・・はしばらくしていない。
その日の午後は久しぶりにボーっとして過ごし、夕飯は逗子の海沿いにあるファミリーレストランで食べた。
異様な混み方で、うんざりだったが、夜の9時過ぎに自宅にもどった。
その間にも入院中の患者さんへの指示をあおぐ電話が何回かかかっていたが、
もどったのも遅く、次の日の朝早くに顔を出そうと思っていが・・・
翌朝、出かける仕度をしている途中で「ライディーン」がなった。
あわててでかけた。
ここ数日で急激に状態が悪化していた患者さんだったが、
痛みを訴えることもなく、前の日から付き添っていたご主人と直前まで会話し、
ご主人が顔を洗ってもどってきた時にはもう呼吸をしていなかった。
本当に眠るような最期だったが、その前までの抗癌剤治療はやはりずいぶんつらかったようだ。
娘さんたちが来院するまでご主人と闘病のことなど、思い出を話しながら待っていた。
お見送りをして帰ってきたのが12時頃で、ほっとしたのもつかの間、4時に電話がなった。
数日前まで入院しており、最後のチャンスと、在宅復帰していた患者さんの自宅からで、具合が悪く救急車を呼んだらしい!
患者さんを受け入れるとき、休みの日でも、夜中でも、いつでも確実に受け入れます!
と・・・患者さん、ご家族には約束をしている。
この言葉を聞いて、ほっと安心する患者さんやご家族は本当に多い!
妻や、子供達のあきらめとも、あきれともつかない顔に送られて、また病院へ急いだ。
さいわい、「便が出ない!」ことがおもな病状だったが、全身状態はやはりかなり厳しいのでそのまま入院してもらった。
他の患者さんにも、状態の悪化している方もいたが・・・
6時頃に戻ったと思ったら、8時にまた電話がなった。
訪問看護ステーションの管理者からで、今度は往診対応している患者さんが痛がっているとの報告だった。
疼痛時の薬が切れるので、どうすればよいか・・・との問い合わせなので、処方内容を当直の先生に頼み、
ご家族に取りに来てもらうことにした。
その日の夜中・・・
1時に電話がなり、肝臓がん末期の患者さんの呼吸状態が落ちてきているとの報告があり、ご家族を呼ぶように指示した。
2時に、さらに具合が悪くなっているとのことで、また出かけた。
この辺になると、曜日だとか時間の感覚がわからなくなって、いつ働いてるんだか、いつ休んでるんだかも区別がつかない。
こうやって書いていると、少し整理されるが・・・娘に言わせると、もはや「仕事中毒!」だそうだ・・・
結局その患者さんは夜中の3時頃に永眠され、もう明るくなった5時頃退院していった。
最近はご家族に最期の着替えや化粧を手伝っていただく。
退院の時には闘病のときに比べ、見違えるように綺麗になって帰っていく方も多い。
家に着いたのが5時半!
5日の昼前、この文を書いている。
最近、。入院の方ばかりでなく、外来通院している患者さんが急に状態が悪くなり、緊急入院になるケースが増えている。
いつ呼ばれるかもわからない状況は、やはり「ゆったりと休日を過ごす」状況とはいえない!
明日からは、連休も終わり、また普通の(何が普通か、最近ではわからない・・・)生活が始まる。
今年の夏休みは・・・風前の灯か?
(平成22年5月5日)

芽が出た!

秋に京都の学会に参加したとき、紅葉は真っ盛りとはいえなかったが、きれいな「」を堪能で きた。
もみじの木には「竹とんぼ」のようなプロペラ状の「種」が付いているものがある。(知ってるかな?)
これが風にのって、それこそ竹とんぼのように飛んで行き、新しい木が増えていくらしい。
南禅寺禅林寺永観堂の、鮮やかなもみじの木の周りに落ちている「竹とんぼ」をいくつかひろって、
ティッシュにくるみ、ポケットに入れてしばらくほったらかしにしておいた。
家に帰ってしばらくたって思い出し、ためしにビニールポットに植えておいたら・・・
この前、3つだけ双葉が芽を出した!
実は数年前から盆栽の鉢をいくつかそろえはじめ・・・
今は紅梅、白梅、ぼけ、藤、さんざし、桜など、けっこう季節感が楽しめる!
ソメイヨシノは3年目で、去年はたった1輪しか咲かなかったが、今年は8輪咲いた。
高さはまだ20cmくらいだ。
今は八重桜が満開だ。こちらは木の高さが15cmくらいで、Coop のカタログで注文し、冷凍食品などと一緒に届いた!
値段も1200円くらいだったのだが、まるでアジサイのように小さな木に花がびっしり付いている。
(写真を一緒に載せようと思ったら、デジカメの電池切れになってしまった)
の盆栽からとった種もポットに植えていたため、双葉のうちは、どっちのポットにどっちの種を植えたのかを忘れてしまい、、
藤なんだかもみじなんだかわからなかったのだが、
最近双葉の間から特徴のある葉がでてきた!(藤のポットからはまだ何にも出てこない・・・)
ただ、困ったことに、混ぜて植えてしまったので、どれが南禅寺のだか、永観堂のだかわからなくなってしまったが・・・
とにかく「京都のもみじ」には違いない!
こんなに簡単に芽が出るなら、紅葉の名所の種を拾ってきて育てれば、自宅でいろいろな名所の紅葉が見られることになるじゃないか!
京都にいけなくても、京都のもみじと同じ紅葉が見れると考えれば、なんかいい!
(もちろん、実際に行ければ言うことなしだが、毎年、紅葉の時期に京都で学会があるわけではないので、そうもいかないし・・・)
秋になってもまだまだ、小さいだろうから、葉っぱだってたいして付いていないだろうが、なんだかむちゃくちゃ期待が高まるよね。
とにかく、今は2センチくらいの頼りない芽だけど、何とか丈夫に育ってほしい!
(平成22年4月17日)


起立!、礼!

先日、横浜市病院協会看護専門学校の生徒さんたち(2年生)に講義をさせていただくことになった。
緩和ケアをのぞいてみよう
と題して、緩和ケアの概念、自分の経験に基づいた患者さんやご家族とのふれあいを中心に話した。
学年全体の授業なので、人数もそれなりに多く、階段教室でパワーポイントを使った講義にした。
まだ、病院実習も始めていない生徒たちなので、あまり難しい理論や実際の治療のことを言っても始まらないし、
あまり厳しい現実を話しても、将来緩和ケアに興味を持ってくれなくなっては困る。
しかも90分休みなしなので、はじめは時間をもてあますかと思った。
自分にとって、生徒への講義は初体験なので、それなりの準備が必要だったが、
新しいことをやるのは自分にとっても刺激にもなり、勉強になった。
なにしろ、いきなり生徒全員が「起立」の声で立ち上がり「」でいっせいにお辞儀をされたのにはたまげたが・・・
よく考えれば、ここが「学校」なのだから・・・とあらためて思った。
終わるときは「気をつけ!」までおまけにつくので、久しぶりに自分でも「気をつけ」の姿勢になってしまった。
生徒さんたちは年齢もさまざまで、集中力もさまざま・・・、興味もさまざま・・・
それでも自分が学生の時を思えば、ずいぶんまじめに授業を受けている子が多い。でも・・・
決して子守唄を歌っているつもりはないのだが、授業といえば眠くなるもの?なので・・・
話の途中で机に突っ伏す子や、うつろなまなざしになる子
(けっして素敵な講師を見て、うつろになっているわけではないのは確かだ!)もいた。
なにしろ階段教室なので見晴らしがいい。眠りそうになる子を見つけるとチョークでも投げつけたろか

とも思ったが、あいにくパワーポイントの授業なので飛び道具がない!
講義を担当する各先生方は、いかに集中させるかに苦労されているのだろうと思った。
講義の内容は「緩和ケアって?」、「麻薬って怖い薬?」、「告知について」、「療養の場所・看取りの場所」、
「家族とのかかわり」、「最期の延命処置」、「安楽死とセデーション」に関して話し、最期に「皆さんへのエール」でおわった。
病院のホームページや、新病院の話(この学年が社会に出るのが平和病院の新病院完成の年なので)もしようかと思ったが、
時間がなくなってしまった。
ただ、講義が終わったあと、何人かの生徒さんが声をかけてくれたのはうれしかった。
中には「先生のホームページ、いつも楽しみにしています!」といってくれた子がいたのは驚いたし、むちゃくちゃ感激した!
講師控え室にもどった後、副校長先生と少しお話した時、「まあ、お若い格好で!」といわれ、
緩和ケアチームで企画した、緩和ケアでよく使われる携帯型持続ポンプの説明会に少し遅れたので、
病院にもどった後、着替えずにそのまま部屋に入ったら、
スタッフにも、「かわいい女の子がいると思って若作りしてったんでしょう!」などといわれた。
確かに、普段はスーツでネクタイを締めているが、そのときはスリムのコーデュロイパンツと、タートルにレザージャケットだったので・・・
雰囲気はいつもと違ったかもしれない(実は・・・自分でも、ちっとはおじさんくさくないように意識したんだけど・・・)
一回だけの講義なので、内容は忘れられてしまうかもしれないが、一人でもなにか、少しでも感じてくれていたらさいわいだ。
生徒さんたちが勉強して、知識を付けるのはもちろんだが、優しい気持ちを持って立派に卒業し、
それぞれの病院で立派に活躍してくれることを祈っている!
(平成20年1月31日)




あの頃の歌声ふたたび!

1月9日(土)は6年ぶりに大学のサークル「ウボイコール」の同窓会が乃木坂で行われた。
サークル自体は今もあるので、同窓会といっても自分の前後の学年だけが集まったらしい。
「らしい」というのも、実は自分も参加するつもりだったが・・・
と、言うより、参加できる日を選んで日程を決めてもらったのに・・・
鶴見区医師会の講演会の依頼が入ってしまい、キャンセルせざるをえなかった。
幹事の後輩には申し訳ないことをしてしまった。
前回の時も参加できなかったので、みんなにはもう35年くらい会っていないことになる。
(医学部の3年後輩「ペッパー」は、同じ医局なので今でもよく会うが・・・)
ただ、翌日の10日、1学年下の「キン太」(今はどうか知らないが、当時は全員があだ名で呼び合う伝統があった)夫婦
(嫁さんも部員で「花ちゃん」)が
渋谷に泊まっているというので、待ち合わせて会いに出かけた。
なにしろ30年以上も会っていないはずなので・・・
どうなることかと思ったが。
むかしのライブコンサートのテープを(もちろんオープンリールの)CDに焼きなおしてくれる!というので
何が何でも・・・と、出かけていった。
自分でも、当時のコンサートのテープは全部持っていたが、何しろ35年の間には引越しだとかも多く、
いつの間にかなくなってしまった。
自分にとっては青春時代の証みたいなもので、
当時は自分で作詞作曲したり、他の人の詩に曲を付けたりしてライブで歌っていた。
当時の楽譜ノートに関しても、しばらく残っていた記憶があるが、ここ何年かはそれもなくなってしまっていた。
楽譜や自分で作った詩の書いたノートは、この正月、まさに執念で実家で発見した!
ぼろぼろになった3冊のノートに詩や曲が書いてある。
今でも覚えていて歌えるものもあるが、残念ながら、作った当時はメロディーなど自然に出てきたので
歌詞しか書いていないものも多いため、旋律がどうしても思い出せないものもけっこうあった。
それでも、見つかった時のうれしさは、言葉では言い表せないくらい感動ものだった。
同時に、キン太や、他の仲間といった北海道旅行の旅行記なんかも出てきた。(ついでに予備校の時の成績表まで!)
ホテルのロビーで待ち合わせ、わかるかな・・・と、心配していたが、顔を合わせた途端すんなりわかった!
キン太」のイメージがほとんど変わっていなかったせいだろうが、
今では山梨の高校の教頭先生だそうだ!
前の日に集まった仲間の写真も見せてもらった。
ぜんぜんイメージの変わらない奴や、誰だかわからない奴もいる。
30年以上の月日はそれなりの時の流れをみんなに刻み込んでいる。
ラウンジで昔話に花が咲き、念願のCDをもらった。
なんと7枚もある!
自分が大学2年から4年までにやったものだ。
2年生の時の「はじめて世にでるコンサート」:千葉大学視聴覚教室
3年生の時の「Concert:火の車」:御茶ノ水全電通ホール
4年生の時の「御歳暮コンサート」:渋谷ジャンジャン
など・・・
自分のオリジナル曲の「街はいそがしく」「お嫁さんになっていい」「粉雪」「走馬燈」も入っていた。
(娘から言わせると、「鳥肌もの」だそうだ!)
家に帰ってさっそく聴いてみたが・・・・
確かにテープの劣化で音の悪い部分もあるが、不思議なことに、全てではないが、部分部分で、
そのときのシーンが鮮明によみがえってくるから不思議だ!
特に最期のコンサートになった渋谷ジャンジャン(今は残念ながら残っていないが、超有名なライブハウスだった)
のものは、涙が出るほど懐かしかった。
このときの「走馬燈」という曲はメインボーカルの「エメロン」と一緒に、松戸のデパートの屋上に出かけて
演奏し、NHKFM千葉の番組で流れたこともあった曲で、自分でも特に思い出の深い曲だ・・・
聞き終わった頃には、気分はすっかり大学生になってしまっていた。
キン太」が今でもギターを弾いているが、「サイレンとギター」がいい!といっていたのを思い出し・・・
高揚した気分のまま、今日、ヨドバシカメラで衝動買い!をしてしまった。
ヘッドホンを付けると周りに音は響かないが、自分の耳にはめちゃくちゃいい音が響く!
なんだか、ストレスも解消される感じさえする。
オマケに、「キン太」からは当時使っていた「歌集」のリメイクももらった。
この中にも、オリジナルの「希望という名の若者」「春を呼ぶ歌」「通り過ぎる季節に」など、
曲は覚えていても、逆に2番の歌詞が思い出せないものまで載っていた。
最近は「親父バンド」が多くなっているらしいが、何となくそれもわかる気がする。
仕事はけっこうハードだが、サイレントギターも買っちゃったしなあ・・・
少し若返ってしばらくはギターでも弾きまくるかな!
同窓会も、今度はいつになるかわからないが、
次回は万難を排して参加したいものだ!
(平成22年1月22日)



パパふたたび・・・

昨日は当直だった。
緩和相談外来が2件あったり、たまった書類の処理やら、土曜の午後はけっこう有効な時間帯だ。
緩和ケア科の入院患者さんのことも、ゆっくり対応できるし、会議が無いのが何よりだ!
最近、土曜日には弁当を作ってもらっている。
食堂の空いている時間に仕事が終わらないことも多く、結局昼飯抜きのことが多いので、助かっている。
実は、その日は22回目の結婚記念日だった。
ずいぶ長い時間を一緒に過ごしていることになる。
昔だったら当直は代わってもらったかもしれない。

以前は、「交際記念日」「婚約記念日」「入籍記念日」「結婚記念日」
など、それぞれに花など買って帰ったものだ!
さすがに、ご機嫌取りというわけでもないが、夜に病院から妻にメールを出しておいたが、
家ではそのメールを子供たちにも見せ、大笑いしていたらしい。
ハートマークの絵文字が失敗だったか・・・
当直の業務は日曜日の朝9時までだが、たいていは11時近くまでは仕事が終わらない。
あいかわらず、今年の出張医は必ず日曜日でも病棟に顔を出している。
出来そうでいて、なかなか出来ないものだ。
ようやく仕事を終え、家に帰ったら、めずらしく娘がおきている!
いつも、休みの日は冬眠の熊のように温かくなるまでおきてこないのに・・・
しかも化粧までしている。
パパ!お帰りなさい!」
パパだあ???
一瞬よぎるいやな予感!
以前書いたことがあるが、このパターンは自分にとっては好ましくない状況がせまっている。
「なんだよ、デートかい?」
「今日はパパと
お・で・か・け!
「アリーナでバーゲン!だって。ほら、ネクタイ買いたいって言ってたじゃない」
「そりゃ、最近買ってないからな、でも、お前に
関係ないだろ!」
「私も洋服がもうぜんぜんないんだ。このバーゲンのために、お金も貯めてたし、一緒に連れてってよ」
「やなこった!お前とバーゲンなんていったら、父さんのお金がなくなっちまうだろ!」
「こんな若い女の子と一緒に出かけられるなんて、幸せ者だと思うでしょ!」
「思わね~よ!いくにしたって、財布置いて行く!カードは抜いていく!万札も全部抜いていくからな!」
と、じたばたとしてはみたが、結局は抵抗むなしく、連れて行くことになってしまった。
会場の入り口で別れ、1時間後に待ち合わせだ。
結局、自分のネクタイはあまり種類も無く、マフラーはいいものがあったが、
いつも買っている靴下はサイズも無いし・・・時間をもてあましてしまう。
待ち合わせの時間に娘と合流したが、袋にはいっぱいの服が・・・
とても娘のこづかいでは買いきれるわけが無い!
しかも、妻の意見を聞きたい・・と、選んだ服を写メで送る!というので、
自分がその服を持たされ、まるで自分が試着しているような感じで写真を撮られる。
こんなところを患者さんにでも見られたら、と、思うと、トホホな心境になる。
娘は以前から「ミクシー」とかいう、友達だけに公開するブログのようなものをやっている。
どうも自分のことを、あることないこと書いているようだ!(まあ、お互い様といえばそれまでだが・・・)
こんな女の子の服を試着しているような写真でも公開されたら、たまったもんじゃない!固く釘をささなければ。
それはともかく、ようやく会計を済ませたが、結局娘はレジから遠くはなれ、財布を出すそぶりも無く・・・
え~~い!だ
、いやなんだよ!二度と来るまい!と誓ったのに・・・自分の財布は宙にうきそうなくらい軽くなってしまった。
出口近くで弁当を買い、家に帰ろうとしたのに・・・
娘は、ある店の前で、根が生えたように動かない!
えびちゃんファンなら、たまらない!アレッサンドラオーラの時計!定価4万円が
激安!
とかいって売っている。
おいおい、お前はエビじゃなくてシャケだろ!
さらに困ったことに、イケメンのお兄さんが、「にあいますよ
~、鏡で見てみたらどうです!」などと、誘惑している。
結局それまでおまけで買わされた。
家に帰ってネットで見てみたら、確かに人気商品らしいが・・・
えびちゃんくらい、かわいければ、高級時計にも見えるが、
定価は数万円というのになぜかどこでも数千円で買える!」と書いてあった。
そりゃそうだ、あんなかわいい子がしてたら、時計なんて、どんなんだって関係ないよね・・・!
と、言うわけで・・・当直明けの疲れた体を休む時間も無く、帰ってからは、ぐったりとしてしまった。
そもそも日曜日は、明日からの仕事の活力を蓄える1日のはずなのに!
来週はつらい1週間になりそうだ。
(平成21年11月29日)


在宅緩和ケア連携カンファレンス

11月12日(木)、国立がんセンター中央病院で緩和ケアチーム主催の第4回在宅緩和ケア連携カンファレンスが開催された。
前回も出席させていただいたが、緩和ケアに関わる連携医療施設のスタッフが多数参加する。
今回は、教育講演として、京都ノートルダム女子大学生活福祉文化学部の村田久行先生による
がん患者のスピリチュアルペインとケア」
事例検討として、私が「在宅療養移行後のがん治療病院との連携:地域一般病院の立場から」と題してお話しをさせていただいた。
地域で緩和ケアを提供している病院、しかも緩和ケア病棟も持たない自分に、このような機会を与えていただいたことは、
驚きだったが、自分の考えていることを伝えることが出来るのは、恵まれているし、光栄なことだと思う。
それなりのストーリーを考え、準備を行うのには緊張感があったが、
自分がふだんやっていることが,少しは認められたような気もして・・・
少しハッピーな気持ちにさせていただいたし、これからの活力にもなるような気がした。
来週は鶴見医学会があり、鶴見区の診療所、病院などのスタッフが集まって開催される小さな学会がある。
今回は「がん緩和相談外来の一年」と題して発表することになっている。
1月には鶴見区医師会の集まりで、やはり緩和ケアに関して1時間程度お話をさせてくださることになった。
2月には済生会東部病院で開催されている緩和ケア研究会で、
何か(題や内容はまだ決めていない)お話しする時間をいただけることになっている。
また、東海大学付属病院で開催される第2回緩和ケア研修会のお手伝いの依頼もまいこんだ。
(前回も、夏にお手伝いをさせていただいた)
2年位前と比べると、最近はずいぶんと、自分をとりまく環境、仕事の内容が変化しているのを実感する。
この流れに逆らう気持ちは無いが、「忙しさ」や「時間の使い方」から見ると、
自分が医者になってから、今が一番ハードな時間の過ごし方をしているようにも思える。
もっとも、これも自分が年齢を重ね、体力が落ちてきているからそう感じるのかもしれない。
さいわい、それをカバーする気力はまだまだ衰えていないようなので、何とかなりそうだ。
ただ、自分たちの足元をしっかり固めていかないと、外部からの依頼、期待にこたえられなくなる。
新病院開設までには自分自身のスキルはもちろんのこと、スタッフの基礎的、専門的な知識、技術、考え方を押し上げていく必要がある。
がんセンターでのカンファレンスには、東芝病院の緩和ケア科の茅根先生や、
東芝病院の緩和ケア病棟見学の時に、付き合ってくれた認定看護師さんも来ていた。
緩和ケア認定看護師の資格を獲得することは容易ではない。
その看護師さんの「目力」がとても素敵なので、そのまま平和病院に拉致してしまいたくなる!
自前のスタッフをこれから育成するには時間もコストもかかるが、やはり生え抜きの看護師にも認定資格を取ってもらいたい思いがある。
もちろん、自分自身の資格の取得も急務で、のんびりしていられない。
気が付けばもう11月も半ばになってしまった。
街に出ると来年のカレンダーやら、手帳やらが売り出され、年賀状も買わなければならない・・・
来年の2月は病院医療機能評価の再受審がある。
分身の術でも使いたいところだが、あいにくそうもいかない。
当直明けの日曜日、入院中の患者さんも落ち着いているので、今日はこのまま呼ばれない(?)だろう。(たぶん)
来週は日本臨床外科学会があり、評議員会に出るので、京都に出張だ。
ちょうど紅葉の最盛期!夜間拝観のできる神社仏閣も多いようだ。
気分を切り替え、いくぞ~~~京都!!
(平成21年11月15日)



オブラディオブラダ!

息子が何を考えたのか、選択授業で「音楽」を選んだ。
学年末に楽器を弾きながら歌うテストがあるようで、
ギターを弾きながら、オブラディオブラダを歌うようだ。
何せ、ギターなど手にしたことすらないのに、コードを弾くことなどできるわけが無い!
苦戦しているとのことを聞いた・・・
こっちは学生の時「ウボイコール」という音楽のサークルに入り、毎日ギターを弾き、
コンサートだ、スナックのバイトだなどしていたので、ギターを弾くのは「おちゃのこさいさい」だ!
オブラディオブラダは、たかだか4つか5つのコードを覚えるだけなのだが・・・
Fのコードが初心者にはちょっとむずかしいか・・・
教えてやりたいが・・・、今は自宅にギターが無い!
そんなわけで・・・
あまり気は進まなかったが・・・・?
ギターを買ってしまった!
横浜のヤマハに出かけたのだが・・・けっこうそそられるものもあったが、結局一番安いものを選んで買うことにした。
今は「親父バンド」がはやっており、自分と同じような年配のおじさんたちが楽器を買っていくことも多いらしい。
「コードの押さえ方」、みたいは本も買ったので、お店の人が「これからはじめるんですか?」などと聞いてくる。
ギターのチューニングの方法は・・・などと説明を始めようとするので・・・
「あの・・・自分は昔、少しやってたんで、わかります。息子が学校で使うんで・・・」などと、聞かれもしないことまで説明してしまう。
昔はハードケースに入れ、「Chibi」と、当時のサークルでのあだ名を書いて、持ち歩いていたが、
今はソフトケースが多いというので、「初心者セット」に付いているケースにした。
リュックサックみたいに背中にしょえるようにもなっている!
ピックやカポタストもオマケだそうだ。
ついでに「フォークソングのすべて」(プロフェッショナルユース)などという、くすぐるような題名の本も一緒に買ってしまった。
帰る道、ギターを持ちながら歩くのに、何かものすごい違和感と、恥ずかしさがあるのは、年をとったせいか・・・?
家に帰り、息子に教えたが、思ったほど自分も指が動かない!
まあ・・・昔やっていても、何年も弾いていないので、腕も落ちるのは当然のことなのだが・・・
少しがっくり来る反面、頭にきて猛然と弾き始めてしまう。
もうそろそろやめるか・・・と思ったときには、妻から「ほんとに好きなのね!もう2時間も弾きっぱなしだったわよ!」
と、言われた。
それ以来・・・
ギターは自分の「おもちゃ」のようになってしまい、本来の「息子の練習」という本来の目的とは程遠い状態になってしまっている。
不思議なもので、ギターを弾くとストレスの解消にもなるようで・・・イライラすることの多い今日この頃、けっこういい感じだ。
昔、自分で作った曲を書いてあったノートがどこかにあるはずなんだが・・・ここ何年も見つけられないままになっている。
なんだか、どうしても探したくなった!
(21年11月3日)


夜の京都

先週の木曜日、京都で開催された第17回日本消化器関連学会週間に参加した。
日本消化器病学会大会、日本消化器内視鏡学会総会、日本肝臓学会大会、日本消化器がん検診学会大会
日本消化器吸収学会総会が合同で開催されるものなのだが、自分の所属学会は日本消化器病学会と、日本肝臓学会で、
両方の専門医となっているし、平和病院が日本消化器病学会の認定関連施設として指定されている。
学会参加は専門医資格の更新に必要で、専門医資格がなくなると、病院事態の関連施設認定も取り消されてしまうので、
けっこう大変だ。
しかも学会はこればかりではなく、日本外科学会、日本消化器外科学会、日本臨床外科学会などもあり、
それぞれ研修教育施設だったり、認定関連施設に指定されており、自分の指導医、専門医資格の更新もあり、
うっかりしてると更新単位不足になりかねない。
今回も、日本消化器病学会の専門医資格維持のためにはどうしても参加が必要になってしまい、木曜日に出かける予定にしていた。
状態の悪い患者さんもいたので、いけるかどうか・・・考えていたが、
木曜日の夜中の3時にライディーンがなった。
乳癌の患者さんで、基幹病院から緩和ケアを目的に紹介されてきた患者さんの状態悪化を知らせる電話だった。
車を飛ばして病院に着いたときには、まだご家族も到着していなかった。
個室に移り、静かに目を閉じていたが、すでに呼吸、心拍も停止していた。
通常、状態が悪くなると、個室に移動していただくことが多いのだが、この患者さんは、最期まで個室に移ることを拒否された。
ご自分の病状のことはすべてご存知で、個室に移る時は、最期の時間が来たことを宣言されるように感じていたのだと思う。
病棟の緩和カンファレンスでも、部屋の移動はぎりぎりまで行わない。食事も最期まで出すことを確認していたので、
夜勤の看護師も、意識が完全に無くなってから部屋を移動したようだった。
ご家族が到着し、患者さんの闘病の経過について、しばらくお話しし、ご本人、ご家族のご苦労をねぎらい、
お見送りが終わったのが6時過ぎていた。
いったん家に帰り、学会の準備をしていつもどおり8時に、また病院に出かけた。
午前中は普通に仕事をこなし、午後から新幹線に乗ったので、その日は京都についたのが5時近くだった。
学会場に行っても間にあわないので、とりあえずホテルにチェックインした。
うっかりしていると、そのまま眠ってしまいそうだったので、とりあえず部屋を出て、
知恩院の近くの青蓮院が夜間公開をしているというので、出かけていった。
青蓮院は創建以来始めて、寺宝の絵画「不動明王二童子像」(
青不動といわれている)が開帳されており、
書院前の回廊式庭園はライトアップされていた。
紅葉にはまだまだだったが、紅葉の季節はどんなにかきれいだろうと思わせる名園だった。
観光客も多くなく、夜の静けさの中で鑑賞することができた。
最近は新病院の建設に関わるさまざまなストレスが多く、体調も万全とはいえないが・・・
香の匂いのなか、応仁の乱を逃れた門前の雄大なクスノキの見事な枝ぶり、太い幹を見ると、
今のストレスも、小さなことのようにも思え、何とかなる・・・という開き直りの境地になってくる。
お腹もすいたので、京都駅にもどり、「和久傳」のカウンターで食事をした。
(最近、学会でも結局焼き鳥屋か居酒屋で済ますことが多かったが、さすがに京都まで来たので、それなりのところを選んだ)
この店は、京都に来た時何回か来ているが(仁和寺の近くの「左近」もお気に入りだが、今回は、そこまで出かける根性が無かった)
値段の割りに味も良く、気に入っている!
その後は四条川原町や祇園で・・・などとも思ったが、
さすがに朝の3時から起きているのでアルコールの周りも早く、ホテルに帰って寝てしまった。
翌朝は学会場に直行したが、メールで事務長から急な連絡も入り、対処の連絡を入れるなど、ガタガタしたが・・・
土曜日には仕事があり、後ろ髪を惹かれる思いで夕方、京都を後にした。
新幹線が名古屋に着いたとき、何を思ったか、乗り過ごしたと勘違いし、「すいませ~ん」と叫びながら、
荷物を持って、乗ってきた人たちをかき分け、猛烈な勢いでホームにおりたところで我に返り、あわててまた乗り込んだ。
ドアが閉まらないでさいわいだったが、自分の席に帰るまでの体裁の悪いこと・・・
「あら、ねぼけちゃって!」・・・てな感じがありありだったが、さも、何事も無かったようなフリをして席にもどり
寝たふりをしているうちに爆睡してしまった!
実は、来月の日本臨床外科学会も京都で開催される。
こちらは評議員会があり、これも何年か続けて欠席していると、資格がなくなるので、でなくてはならない。
ただ、この時期はおそらく紅葉の真っ盛り!
次回は体調を万全にして夜の京都を満喫したい!
(平成21年10月18日)



夏休み

3日間、夏休みをとらせてもらった。
子供が大きくなるにつれ、友達との旅行やら、クラブの合宿やらで、なかなか一緒の時間が取れなくなってきた。
小さい頃は、毎年車に乗せて、あちこちと出かけたものだが・・・
子供が生まれて以来、我が家ではずっとワンボックスカーを使っていたので、
後ろの座席をフルフラットにして、2人の子供は横になって、「動くベッド」状態で目的地まで運転していた頃がなつかしい。
実は、お盆の頃も休みたかったが、東海大学の緩和ケア研修会の打ち合わせ会があったり、
緩和ケア目的で入院していた患者さんの具合が悪くなったりして、
夜中に頻回に呼び出されたりしていたので、休むどころではなかった。
具合が悪かったのが、20歳台、30歳台と、若い女性患者さんでもあり、亡くなる前後のかかわりの中では、
こちらも精神的な疲労というか、虚脱感というか・・・かなりのダメージのようなものを受け、
とてもしばらくはホームページを更新する気分にもなれなかった。
その後も、息つく暇も無く、次々に紹介患者さんは増えていたが、
8月の26日(水)~28日(金)にはホテルの予約も取っていたので、
紹介患者さんの入院は、週明けにしてもらうように手配した。
今、平和病院の緩和ケア科の入院患者さんは、他の外科医も緩和ケア科兼任になって手伝ってくれているので、
すべて自分一人だけでで診ているわけではないが、(手伝ってもらわないと、とても手が回らない)
それでも緩和ケア科の責任者は自分なので、休みの間は緊急で呼ばれても対応できない。
携帯は捨てていく!ので3日間はどうやっても対応できない!」
と、スタッフにも宣言していたのだが・・・
休みの直前に、都内の某大学病院の先生から直接電話がかかってきた。
この大学の地域連携室には、MSWを通じて、自分が3日間休みで対応できないので、
申し訳ないが、その間は大学病院での入院継続をお願いしていた。
「申し訳ありません、MSWから事情を伝えたと思いますが、私が3日間はどうしても対応できないのですが・・・」
「でも・・・それもわかっていますが、患者さんは末期の状況で、状態が悪く、入院を3日延ばすと、もうずっと転院出来なくなる可能性が高いと思います。何とかなりませんか・・・」
そんなに状態が悪いなら、そのまま静かに入院させてあげていたほうがいいのでは・・・とも思うが、
最近は一刻も早く受けてほしい・・・という紹介が本当に多い!
大学病院は、少しでも在院日数を減らさなければならないし、
治療の方法が無い患者さんを入院させておくことは出来ない。
患者さんやご家族が入院を続けたくてもかなわない・・・。平和病院の「がん緩和相談外来」を訪れる典型的なパターンだ!
結局、その患者さんは、自分の夏休みの直前に入院となってしまった。
患者さんの状況を確認し、治療方針のカンファレンスを行い、指示を出し、休みに突入した。
患者さんのご家族にも、自分が3日間留守になることも伝え、了解していただいた。
さあ、夏休み!
もはや「ライディーン」がなっても、病院に駆けつけることは出来ない。
夜中に運転する必要も無いので、久しぶりに夕食の時にビールを飲んだ!(まっ昼間からも生ビールを飲んだ!)
以前は、たまには自宅で飲むこともあったが、最近では入院患者さんや、
往診対応している患者さんの夜間の急変に対応することが多くなり、飲むことが出来なくなっている。
最近では平均して10人以上の緩和ケア科の患者さんが入院しているし、在宅ターミナルケアの患者さんにも数人対応している。
夜は当直の先生がいるのだから、任せておけばいい・・・とも思うこともあるが、
特に相談外来から、ご家族ともかかわりが深い場合は、具合が悪くなったり、最後の場面には、
可能な限り、駆けつけたいと思っている。
その分、オンとオフの切り替えが出来ず、実は、自分でもあまりいい状況とは思っていない。
今回の夏休みは、そんな気分をリセットするいいチャンスだった。
あまりうまくもないのだが、久しぶりにゴルフも出来たし、なにしろ家族4人で同じコースを回ることが出来たのは、
子供が小さい時の夏休みと違い、自分の中では感慨深いものがあった。
しかも息子がパーを3回もとったのにはたまげた!
去年の夏、初めて1回連れて行って以来、クラブも握っていなかったのに。
しかも、そのときは、めちゃくちゃへたくそで、後ろで回っている人か苦情が出るくらいで、
とてもゴルフなんて代物じゃなかったと思ったので・・・
「もしパーが1回でも取れたら、テニスラケット買ってやるよ!」などと挑発していたのに・・・とんでもないことになってしまった!
情けないが、もはやスコア逆転は時間の問題なのかもしれない。
昔、浦賀病院に転勤したばかりの頃には6時前にはゴルフ練習場にいて、
ベビーカーに乗った娘をつれて妻が迎えに来ていたこともあったのに・・・
今では残念ながら、とてもそんなのんびりした環境ではない。
とにかく・・・今回の3日間の完全なオフは、確かにリフレッシュ効果となったようだ。
休み明けの朝、久しぶりの出勤は、いつもより早めに出かけた。
さいわい緩和ケア科の入院患者さんに大きな変化は無かったが、
仕事はてんこ盛りにたまっており、いつもの土曜日に比べ、外来患者さんも多く、コンビニで買ったおにぎりを食べただけで、
仕事が終わったのは7時近くだった。
来週明けからは、待機してもらっていた入院患者さんがどっと入ってくる。
定例の医療監査もある。
東海大学や、横浜市民病院の緩和ケア研修会のお手伝いもせまってきた。
今度のんびりできるのは、いつになるかわからないが・・・
やはり、気持ちの切り替えは、日常業務の中でも行わないと、結局はパワーダウンしてしまうことを、
改めて感じさせられた夏休みだった。
(平成21年8月29日)


腰がギクリ!

今日のこと、外来で診察している時、患者さんのベッドのほうへ体の向きを変えたとたん・・・
フリーズした。
腰がやばい!・・・と思った時にはすでに遅く・・・
激痛が走り、動けなくなった。
ぎっくり腰だ
ただ、患者さんは運悪く、お尻の診察なので、パンツを下ろして、お尻むき出しのままベッドに横になっている。
そのままにするわけにはいかない!
痛みをこらえながら診察をしようとするが、かがめない!
仕方が無いので、ベッドを限界まであげ、お尻が目の前まで来るようにして何とか診察を終えた。
さいわい、診療時間が終わる頃だったので、数人の患者さんが残っているだけで、
何とか終わらせることが出来た。
指の処置の患者さんには、
「すいません、指を私のほうにずっと伸ばしてくれませんか?、いま、ぎっくり腰になっちゃって・・・動けないんもので」
などと、言い訳をしながら診察した。
診察が終わった患者さんから、「おだいじに!」などと、言われるしまつだ。
廊下の手すりにつかまりながら、整形外科まで行き、腰に注射をうってもらった。
途中で患者さんや、職員が何事かとふりかえる!
ぎっくり腰というと、たいていの職員は、「まあ、大変ですね」と、言ってはくれるが・・・
言う前に必ず笑う!
笑い事じゃねえぞ!と、言う元気も無い!
手すりにつかまりながら、そろそろと、すり足で移動する。やはり、病院には手すりが必要だということを痛感した。
ただ、前にぎっくり腰になったときは、もっとひどく、自分でソックスもパンツもはけなかった!
それに比べれば今日は、まだましなほうか・・・
明日も外来日だ。
これ以上悪化させずに持ちこたえられるか!?





歯がキラリ!

先日のこと、久しぶりに歯医者さんを受診した。
もう4、5年ぶりになる。
左上の歯ぐきが張れ、自分で抗生物質や鎮痛剤などをのんでいた。
もちろん、歯だって毎食後、きちんと磨いている!
それでもなかなかなおらず、一部分だけ色も変わってきたので、「口腔癌」でも出来たんじゃないかと心配になり、
ついに覚悟を決めて、昼休みに出かけた。(自分の病気のことになると、いつも最悪のことを考えて、くよくよ悩む癖がある!)
いつも歯科大に受診するのだが、大学なので、はじめの問診、診察は明らかに学生さんか、なりたての先生で、
後ろに、指導医と思われる先生が立っている。
自分の気になっている歯ぐきのことをなかなか聞いてくれないので、じれったい思いもしたが、
まあ誰でも初めの頃はこんなもんだろうと、されるがままになっていた。
レントゲンをとられたが・・・
昔はフィルムを自分の手で押さえていたと思ったのに、今は固定の器具があり、
何年かの間に進歩したのだな・・・という感じがした。
出来上がったフィルムを見て先生は、「う~~ん、歯根はまあまあですけどね
・・・」
「炎症だと思って自分でしばらく抗生物質をのんでみたんですけど・・・」
「だめだめ、抗生物質なんて、簡単にのんじゃあ!、どこでもらったの?」
「すいません・・・」
そのあと、歯周ポケットの深さを測られたが・・・「う~ん、だいぶ深く空いてますね」
結局、以前見てもらっていたA先生の外来予約をさせられた。
不思議なことに、翌日には気になっていた部分は元にもどってしまった。
ああ、こんなことなら、1日がまんしてりゃよかった・・・とも思ったが、後の祭り。
A先生の予約日、保存科の待合室で待っていると、後ろのほうで「あれ、平和病院の院長じゃない?」とか言っている声が聞こえた。
さりげなく声のするほうを見たが・・・あまり記憶に無い。
こちらが知らなくても、向こうが自分の素性を知っているのは、考えてみれば、恐ろしいことで、
鶴見界隈ではとても変な行動は取れないな!と、あらためて思う。
(もちろん、昔と違って最近は品行方正で、草食系の、仙人のような生活をしており、午前様になることも無く、伝書鳩のようだ!)
以前、A先生には、数ヶ月毎には通院するように言われていたので、
しかられる前の子供のようにおどおどと、診察室の椅子にすわった。
「だいぶポケットが広いので、炎症がおきやすいんでしょうね、お忙しいとは思いますが、時々歯石を取りに来てください。
特にこの部分は(と、フィルムにうつっている一本の歯をさして)どうも歯根にひびが入っているので、
これ以上ひどくなると、抜かなくてはなりませんね。」
「え?、抜くって・・その後は差し歯ですか?」
「ここはそれも難しいので、せいぜいブリッジですかね・・・この辺でしっかり手入れをしないと、一気にがたがたになりますよ!
「それって・・入れ歯ってことですか?」
「ひどいときはね・・・」
ひえ~~~
入れ歯は、まだ勘弁願いたい!
診察中、患者さんと話していたり、手術中にパカッとか歯が外れたりしたら、しゃれにならない。
一日何回でも歯を磨きますから・・何とかしてください!」と、いまさらながら、じたばたし始める。
「とりあえず、今日は歯石を徹底的に取りましょう!」
そういうと、椅子を倒された。
キ~~~ンという、特有の音がしたと思うと、治療が始まった。
思わず全身に力が入り、気がつくと、指が変なふうにこわばっている。
どれくらい時間がかかったのか知らないが、「もうゆるひてくらはい!」と、言いたくなるようほど長く感じた。
治療が終わり、今度は2ヵ月後に必ず来てください!と言われた。
はい!」と、素直に返事はしたが・・・気が進まない。
ただ、入れ歯になることを思えば今回はまじめに通院しようと思う。
病院に帰り、鏡を見ると・・・おいおい、確かに歯の間がきれいに空いているし、歯が白くなっているじゃないか!
漫画の世界では、さわやかな青年がにっこり笑うと、歯がキラリ!と光るんだが・・・
なんかそんな感じもするじゃないか!
その日は真夏を思わせる天気だったが、
意気揚々と外来に行き、看護師に、「どうだい、夏のような太陽に、きれいになった歯がキラりと光ってるだろ?」と言ったら・・・
「え?・・・それってただ金歯が光ってるだけなんじゃないんですか?」って・・・
え~~い、なんて失敬な!
金歯じゃねえやい!白い歯が光ってんだよ!
とにかく、今のところ、めちゃくちゃ時間をかけて歯磨きをしている。
(平成21年7月12日)


シルクの下着

6月21日は「父の日」だった。
前の日の土曜日の夜は学会で大阪に行っていた関係もあり、当直も無く自宅にいたが、
娘から電話がかかってきた。
息子が出たが、通話音量を大きくしているので、話している声がまる聞こえだ。
娘:「あのさあ、父さんのズボンのサイズわかるかって、母さんに聞いてくれない?」
娘:「父さんそこにいるの?・・・だったら、わかんないようにそっと聞いてくれない?」
って言ったって、すでに全部聞こえてんだけどな・・・
息子:「母さん・・・姉ちゃんが、父さんのズボンのサイズ教えてくれだって」
娘:「こら、そっと聞いてくれって言ってんでしょ!」
妻:「そんなことわかんないわよ」
父:「最近ずいぶんシェイプアップしたからな!前は91センチだったけど、どう見たって3~4センチはスリムだぞ!」
娘:「M?L?LL?」(相変らず全部聞こえている)
妻:「股下のサイズがあるんだから」
父:「股下は長いぞ!ジーンズだって短くしたこと無いからな!」
息子:「なんだかわかんないってよ」
妻:韓流DVDを見ているので・・・「もう、めんどくさいからお父さんに直接出てもらいなさい!」
息子:「母さんが、父さんに代わりなさいって」
娘:「え~~ダメだよ、内緒なんだから!」
娘:「父さんの下着って、ブリーフだったっけ、トランクス?」
息子:「ああ、それならわかる。トランクスだよ」
娘:「普通のトランクスだよね」
普通じゃないトランクスなんてあるわけ無いだろ!どんなのはいてると思ってんだ!
結局電話をかわり・・・
父:「なんだよ」
娘:「あ・・・ああ、あのさ、とうさんのウェストサイズってどれくらい?Lサイズって84から94くらいなんだけど」
父:「じゃあLだよ」
娘:「わかった。あのさあ、これって、ただ聞いただけだからね、なんでもないから気にしないで・・・」って・・・
なんでもなくて、いきなり父親のウェストのサイズを電話で確認する娘がどこにいるんだよ!
実は以前も父の日に下着をプレゼントされたが、
真っ赤な下着で、しかも尻の部分に浮世絵がでかでかと描いてあった!
さすがに一回もはかずにタンスの奥に眠っている。
「もう、浮世絵のパンツなんか買ってくるんじゃないぞ!」と・・いいたいが、
あくまでただ、聞いているだけ・・・と言うので、どうしようもない。
あいつのことだ。今度は
バックでも買ってくるかもしれない!
翌日・・・
息子と娘が父の日にと、手作りのカードをくれた。
娘が、「はい、プレゼント」と渡してくれたのは・・・案の定「下着」
ただ、今回はまともな、カラフルな袋に入っている。
Paul Smith」というブランド品だ!
袋と下着のデザインが全く一緒で、しゃれている。しかもシルク
ただし、めちゃくちゃ派手だ。
縦の細かいストライプで、黄色やら赤やら茶色やらえんじやら・・かなりカラフルで・・・はくには勇気がいりそうだ。
娘:「ね!今回はすごいでしょ!高かったんだよ!ちゃんと父の日貯金してお金貯めて買ったんだから!えらいでしょ!」
まあ・・・
そりゃあね・・・うれしくないわけは無いよな・・・。
父:「ありがと!」
娘:「絶対、ちゃんとはいてね!
説明書きには・・・シルクは強くて光沢のある自然特有の繊維です。
暖かい気候に着用していただくと吸収性を発揮し、寒い気候のときはその保熱性を発揮します。
お手入れはぬるま湯に中性洗剤をとかし、手洗いしてください。
優しく手でしぼり、水を切ってください。洗濯後は陰干ししてください。
と書いてある。どうやら洗濯機で洗えないようだ。
妻:「私は手洗いなんてしませんよ!はいたら自分できちんと洗ってくださいね!
父:「え~~!自分で手洗いかい!」
娘:「私だって洗ってあげないよ!」
けっこう柄はきにいってんだけどなあ・・・・
洗うのがめんどくさくて、まだ一回もはいていない!
(平成21年6月28日)



狭まる行動範囲

18日の仕事が終わって、大阪に出かけた。
19日(金)、20日(土)には大阪国際会議場で、第14回に本緩和医療学会学術総会が開催される。
19日には自分の発表、「終末期がん患者の閉塞性黄疸に対する減黄処置の意義」があり、
朝の9時には会場にいなくてはならないので、前の日から出かけた。
19日の朝には会場入り口で手続きを済ませ、発表会場に直行した。
今回は口演発表ではなく、ポスターセッションなので、作成してきた掲示資料をボードに貼り付ける作業を行わなくいてはいけない。
大阪は朝から真夏の暑さで、作っていった資料を割り当てられた位置のボードにピンで貼り付けていくのだが、
ボードが厚く、なかなかピンが刺さらない。
しかも、押し付けると、パネルが倒れそうになるので、貼り終わるまでに一汗かいてしまった。
今回の学会には785題の演題応募があり、439題が採用され、(採択率56%)口演は88題、ポスターは351題だった。
あとは、13時からの45分間、自分の演題の前で質問などに答えなければならない。
その前には、自分の興味ある口演を聞いたり、ポスターを閲覧したりして時間をすごし、
いつも緩和ケア研修会で一緒にファシリテーター(研修会の講師や進行の手伝いをする)をしている川崎市立井田病院の佐藤先生の発表があったので、聞きにいった。
ポスターセッションもさまざまで、A0の用紙に全面印刷しているものもあるし、普通のコピー用紙に5枚くらいの簡単なものまで、
ピンきりだ。
指定された時間に、誰も人が立っていないものもあるなど、意気込みはそれぞれといったところだ。

【学会場にて】
 多くの人が興味を持つ演題の周りには、人だかりが出来るが、ぜんぜん立ち止まる人のない演題もある。
 この写真は、まだほとんどのポスターが貼られていない時点で隣の演題の人に撮ってもらったので
 (自分も撮ってあげたが・・・)ポツンと、だ~れもいないように写っているが、
 その後はちゃんと人がいたので・・・念のため!
 13時からの45分は、何か店先に立っている販売員のような感覚で、
 「へい、いらっしゃい!」とでも言いたくなる。
 45分間がすぎれば、その場を離れていいのだが、
 ポスターは17時までは、はがしてはいけないことになっている。
 それまではみっちり他の演題を聞き、17時にはがし、会場を後にした。
 翌日の土曜日は外来担当日なのだが、代診をお願いし、
 翌日も参加するつもりで梅田の新阪急ホテルに泊まっ た。
 久しぶりの独身生活、夜の大阪、北新地!と、いきたいところだが・・・
以前、若い頃大学にいて、頻回に学会に出かけたときの夜の行動範囲は、今考えると驚くべき探究心と、嗅覚で、 
宿舎から数キロ範囲は平気で移動していたのだが・・・
今はネオンが目にしみて、よさそうな店を調べたり、歩き回って探したりするバイタリティーは影を潜めてしまったらしい。
しかも、気のせいかもしれないが、大阪の人は歩き方が早いような気がして落ち着かない!
人ごみの中にいるだけで疲れてしまう!
結局、10分くらいは歩き回ったものの、ホテルのすぐ近くの焼き鳥屋に入ってしまった!
なんか、岡山での緩和医療学会の時もこんな感じだったような気がする。
全くなさけない!
たまには全盛期のように、夜のネオン街を目を輝かせながら歩き回ってみたいもんだが・・・
と、思っているうち、すぐに酔いが回ってしまった。
翌日は午前中いっぱい会場にいて帰ってきたが、会場で、千葉市立青葉病院に勤務している、同じ医局出身の同級生Nに
ばったり出くわした。
今までNが緩和医療に興味があるなど、夢にも思っていなかったので・・・
あれ、何でお前が
こんなところにいるの?」と、聞いてしまった。
「うん・・・まあな、いろいろあってな・・」・・・って、何なんだよ!
急いでいたこともあり、結局聞かずじまいだったが、今度あったら聞いてみたい。
青葉病院で緩和ケアチームでも立ち上げる話でも出たのかな?
家についた後は患者さんが気になったので、少し休んでから病院に出かけたが、
患者さんの状況に大きな変化は無く、ほっとした。
明日は、横浜労災病院の緩和ケア研修会の事前打ち合わせ会がある。
仕事の軸足が緩和ケアにうつりつつあるのを感じてはいるが、
中小病院の医師にとっては専任というわけには行かない、いくつもの仕事を兼任しなくては病院は回らない。
2日間病院をはなれて気ががりはあるが、興味ある分野の学会参加は確かにリフレッシュにはなる!
学会で仕入れた知識をいかし、明日からの臨床に望みたい。
(平成21年6月19日)
 

何かいいこと・・・

5月19日は父の命日だった。
当日は平日で、仕事があったので、休みの日に墓参りに出かけた。
父が死んだのは、今の自分と同じ年なので、今年は特別な想いがある。
墓の両端にはつつじが植えてあるのだが、1輪だけ花が咲いている。よくみると・・・
最近ホームページのはじめの部分に写真をのせたのが、そのときの花だ。
花の半分が赤、半分が白で、くっきりと分かれている!
これほどきれいに分かれて咲いているのは今まで見た事がない。
多分、ものすごくめずらしいのではないかと思う。
母親に電話でこのことを話したら、妹と一緒に前の日に行ったときには、まだ咲いていなかったらしい。
自分が出かけた日に咲いたことになる!
紅白のおめでたい花が、わざわざ自分が墓参りをした日に咲いたとは・・・
父が「何かいいことがあるぞ!」と教えてくれているのかもしれない。
このホームページを見た人にも、何かいいことがあるように、写真を載せてみたが・・・
翌日の月曜日、いつもと同じように病院に出かけた。
月曜日は「ごみだし」の日だ。
我が家では「ごみだし」は、ずっと前から自分の役目にされている。
しかも、その日は生ごみの日なので、カラスに荒らされないように、しっかりとネットをかぶせる必要があり、
これがものすごくめんどくさい!
自分の前にごみを捨てた人が几帳面だったりすると、ネットを剥がすのも大変だ。
どうせ、すぐに他の人が捨てに来るのだから、ここまでやらなくても・・・・と思うくらい、
きっちりとゴミ袋をネットで包み込み、レンガでおさえてあったりする。
けっこう[ごみだし命!」みたいな人もいるので、自分がいい加減に捨てると、ご近所の評判も悪くなるので、
一応ていねいに捨てているつもりだ。
その日も、気の進まないままゴミ捨て場に行くと・・・
あれ、なにやら黄緑色の真新しいボックスが置いてある。
折りたたみ式で、蓋を開けて投げ込めばいいやつで、近くのゴミ捨て場にはずっと前から置いてあり、
自分のところも、このボックスになれば、どんなに「ごみだし」が楽になるだろうに・・・と、いつもうらやましかったやつだ。
ついに自分のところもボックスになり、その日が初めてのデビューだったので、
ま新しい色鮮やかなボックスが、朝の光に輝いて見えた!
蓋を開けて、ごみをいれて、はい、おしまい!
な~~んて楽なんだろう!
朝からなんだか幸せな気分になったが・・・
まてよ・・・
紅白の花で、父が教えてくれた「何かいいこと・・・」って、
まさか、このことじゃないよな・・・?
確かに自分にとっては、ごみだしボックスは、けっこういいことなのだが・・・
ジャンボ宝くじが当たるとか、病院の経営状態がドンドン良くなるとか・・・
何か、すご~~くいい事が起こるような気がして、ものすごく期待していたのだが・・・
いまのところ、目に見えておこった「いいこと」は、このごみだしボックスだけなので、少し拍子抜けの感じもする。
5月、6月は毎年自分でもいろいろな検査を受けることにしている。
血液検査、注腸造影と、胃の内視鏡検査はもう終わった。
さいわい特に異常はなかった。
後はかんじんのCT検査が残っているが・・・6月22日、手術後ちょうど5年目に受けようと思っている。
とてつもなくいいことなんて起きなくても、何も悪いことがおこらないことが、
実はすごくめでたいことなのかもしれない・・・とも思う。
(平成21年5月31日)




横浜労災病院緩和ケア研修会

5月16日(土)に、横浜労災病院がん緩和ケア研修会が開催された。
がんの診療に関わるすべての医師に、緩和ケアの基礎的な知識を身につけてもらうためのプロジェクトで、
PEACEプロジェクトと呼ばれている。
特に全国のがん診療拠点病院ではこの研修会を開催することが認定義務となっているため、
拠点病院となっている各地の大学病院、基幹病院などで開催されるようになってきた。
この研修会の企画責任者や、各項目の講義、ロールプレイなどの進行を行う「ファシリテーター」は
指導者研修を終了していることが必要で、今回の企画責任者は腫瘍内科の有岡先生が担当した。
今回の各「ファシリテーターは」同じ時期に研修を受けた県内の医師たちがあつまり、県立がんセンター緩和医療科の太田先生、
横浜市民病院緩和ケア内科の国兼先生、東海大学の斎藤先生、川崎市立井田病院の佐藤先生、
東京大学付属病院心療内科の冨田先生、横須賀共済病院の豊田先生と、自分が協力した。
労災病院でも初めての開催だったので、有岡先生はずいぶん苦労されたと思う。
今回は二日間の研修うちの前半で、後半は6月27日開催の予定になっている。
参加は18名の医師、12名の看護師、薬剤師などのパラメディカル3人で行われた。
全国で統一した内容が求められるので、使用する教材は決められているが、1週間前には事前の打ち合わせ会がおこなわれ、
当直明けの日曜日に出かけた。
今回自分が担当するのは「がん症例事例検討」でのグループワークの部分と、「オピオイドを開始するとき」の進行と講義だったが、
やはり院内の緩和ケア勉強会と違い、プレシャーが大きい。
あまりみっともない講義も出来ないので、講義のシナリオを何回も書き直したりで、けっこう準備に時間がかかった。
その間にも、6月に行われる日本緩和学会の発表準備も行わなくてはならず、もちろん病院の仕事がメインなので・・・
しばらくこのホームページをいじる余裕も無かった(けっこうプレッシャーに弱いので・・・)。
16日は朝8時半から打ち合わせ、9時から17時半までの研修で、自分の担当するセッションが一番最後となっている。
午前の担当の「ファシリテーター」は自分の担当が終わると、表情も緩んで来るのがわかるが、
こっちは朝のうちに出ていたアドレナリンもしだいに枯渇して、講義が終わった頃にはぐったりと疲れてしまったが、
さいわい、大きなトラブルも無く、無事終了した。
今回協力した「ファシリテーター」の先生たちは、近いうちに自分たちの施設での研修会の企画責任者になる人も多く、
自分も秋に行われる予定の東海大学緩和ケア研修会への協力を依頼された。
自分が担当したセッションには「ロールプレイ」を行う場面があり、それぞれの参加者が医師役、患者役、観察者役に別れ、
シナリオの内容にしたがって実際の臨床場面を再現する。
毎回の研修で、終わった後の感想を聞くのだが、
患者さんの役割を演じたとき、今まであまり意識しなかった患者さんのつらさがわかった」
などの意見がでることが多いのだが・・・
そんな意見を聞くたびに、「そうなんだよね・・・つらいんだよね!」と、
自分がその役割を演じたのではなく、実際の立場に立った側としては、納得はするが、
それでも、やっぱり、「本当になってみないとわからない」ことも多い・・・と感じてしまう。
6月の研修会には、また別のセッションを担当するので、これから準備がたいへんだが、
やはり終わった後の達成感のようなものは、疲れてはいても、どこか心地よいものを感じさせてくれる。
研修会の前日の夜、準備をしている時に「ライディーン」がなった。
事務当直からだったが、在宅でターミナルケアを続けていたFさんが急変したとの連絡だった。
肺癌、骨転移で基幹病院から緩和相談外来に紹介された患者さんだったが、
1ヶ月ほど入院し、疼痛緩和や、在宅復帰の準備を整え、退院後は娘さん夫婦の家で療養されていた。
入院中は動いていた上半身も、転移の進行により動かせなくなったが、痛みのコントロールは良好で、
呼吸苦もつい最近までみられず、食事もきちんと食べられ、意識もしっかりしていたのだが・・・
ご自宅に駆けつけたときにはもう、息を引き取っていた。
ご家族の話では、亡くなる少し前まで会話をし、その日の夕食も食べられていたとのことだった。
在宅酸素も使わずにすごせ、本当に眠っているような顔だった。
研修会の最中に呼ばれていたら・・・かなり対応に苦慮したと思われた。
Fさんが配慮してくださったのか・・・とも思ったが・・・
やはり、平和病院にもう一人、一緒にやってくれる医師がほしいと思う。
(平成21年5月17日)

着信にぶちぎれ!

仕事中、携帯電話をポケットに3個いれている。
個人用のと、地域連携室のピッチ、院内用のピッチだ。
着信音を変えないと、どれが鳴っているのかわからないので、それぞれ違うものにしなくてはならない。
個人用の着信音は前に書いたことがあるように「ライディーン」だ。
地域連携室のものはごく普通のベルにしている。
平和病院では各医師が同じ種類のピッチを持っているので、各自、着信音が違うものを微妙に選択しているようだが、
医局会などで誰かの着信音がすると、みな一斉にポケットのなかの電話をさぐる。
自分も、区別がつくように・・・と思い、院内用のピッチの着信音は以前は胡弓のような音色のものにしていたが、
ものすごく「突然」するどく大きな音で鳴り出すような感じで、鳴るたびに、あまりにもどきっとするので、
心臓に悪いと思い、女性の声で「電話です!、電話です!」と言うものに変えていた。
患者さんやご家族との大事な話の間や、特に緩和相談などの大切な面談の場合はマナーモードにして、
なるべく話を中断されないようにしているのだが、よく忘れて途中で電話が鳴ってしまう。
院長室にいる時には内線電話もあるので、どうかすると、内線電話で会話中に地域連携と、院内用ピッチが同時になることもある。
聖徳太子ならともかく、さすがに同時には話せないので、
切れるまでそのままにしていても、立て続けに何回もかけなおしてくる。(用事があるのだろうから仕方が無いのだが・・・)
最近、どうも電話が鳴ると、「うるさいな
」と思うことが多くなったような気がしていたのだが、
ある日、病棟で仕事中に院内用のピッチがなった。
いつも、聞こえないとまずいので、着信音ボリュームは最大にしていた。
手が離せない場面だったので「
電話です!、電話です!電話です!・・・・」と、機械的な女性の声は延々と叫び続けている。
なまじ「」を出して「呼ぶ」ので「わかったよ」、「今出れないんだよ!」などと、声に出さないまでも「答えて」しまう。
美人の院長秘書が微笑みながら「お電話です」と、優しく声をかけているのなら全く問題ないのだが・・・
声を聞き続けているうちに、ものすご~~く意地悪そうな女性が、大声で顔をしかめ、
電話です!」叫んでいるようなイメージも浮かんでくる。
ポケットの中で叫び続けている声を黙らせるために、。早く取ろうとポケットを探るのだが、
ピッチには、北海道土産の「じゃがいもっこり」と、今は退職したクラークからもらった沖縄土産の「ごーやくん」がジャラジャラとついているので、
いつもそれがポケットに引っかかってうまく取れないので、よけいに時間がかかる。
こんな調子で電話に出るので、「はい!」と、ぶっきらぼうな感じになってしまう。
その日も、ものすごく忙しかったこともあり、思わず「あ~~~、やかましいな!」と、言いながら、電話を取った。
終わってから、「この声聞いてると、ほんっ
つつとにイライラしてくるよな!」というと、
病棟にいた看護師に「そんなの、はやく着信音を音変えればいいじゃないですか!」と言われた。
そうか・・・なるほど・・・
わかったぞ。最近、前より電話が鳴ると妙にイライラするのはこの声のせいなのか?
確かに、「電話です!電話です!」を延々と聞いていると、「え~~~い。
わかっとるわい!」と叫びたくなる。
その場で、やわらかなベルの音に変更し、音量も下げた。
それからしばらくたつが・・・
確かに最近は忙しいさなかに電話が鳴ってもそれほど、「あ~~~~もうっ!」とは思わなくなった。
テレビや映画に出てくる病院の院長室には美人の秘書さんがいて電話を取り次いでくれるのにな
・・・
と、思いながら、今日もポケットいっぱいに電話を入れて歩き回っている。
(平成21年4月26日)



日曜日だよ、全員集合!

昨日は新しい年度になって最初の土曜日だったが、相変らず当直だった。
このごろ、土曜日の午後は、がん緩和相談の患者さんやご家族の予約がはいることが多かったが、
昨日は珍しく何も予約が一件も入っていなかったので、入院中の患者さんの管理や、院長室の片付けが出来た。
日中は緊急の患者さんもあまり来なかったが、夜中に事務当直から電話があった。
「足を切ったから診て下さいと言う連絡なんですが・・・」
OKして待っていたが、また事務当直から電話で、「さっきの患者さんなんですが、
お金が無いのでただで診てくれるか、と言っていますが・・・」
とのことだ。いくらなんでも、ボランティアではないので、規定の料金はいただかないと病院は運営できない。
ひとまず来院するように伝えたが、30分ほどしてまた事務から電話だ!
「来るかどうかまだ考えているようです」
そのあとも、どうなっているのかと思っていたら、しばらくしてまた電話で「来ることになりました」
その後、20分ほどたってから、ようやく「受診されましたのでお願いします!」となった。
この間2時間以上!電話のたびに起こされ、実際診療したのは夜中の2時過ぎだ!
診察してみれば、傷はバンドエイドでも済む程度で・・・この傷で4回起こされたのかい!とも思ったが、これが当直医の宿命なのだろう・・・
顔で笑って心で泣いて、「お大事にしてくださいね」、と、診療を終えた。
その後は外来患者さんは来なかったが、病室の患者さんの件で2回起こされた。
明けて日曜日の朝・・・
交代の当直は外科の増田副院長だ。交代時間は9時だ。
帰る前に緩和ケア目的で入院している患者さんの回診をしようと思ったら、三島がステーションに現れた。
「あれ、どうしたんだ?当直は増田先生だぞ?」
「ええ、知ってますけど・・・患者さんのことが気になって・・・」
と、看護師に患者さんの状況を確認し、病室を回りはじめた。
えらい!!
やはり若いうちは、こうじゃなくっちゃいけないよな・・・と、思いながら、別の病棟にいって退院予定の患者さんの病室に行き、
ステーションに帰ってきたら、今度は藤咲がやってきた。「あれ?お前も来たの?どうしたんだよ・・・」
「ええ、ちょっと木曜日の手術患者さんが気になったものですから・・・」
えらい!!
4月の最初の日曜日、朝の9時には外科が4人全員病院に勤務しているなんて!
やろうと思えば、今なら手術だって出来るじゃないか!
なんかもったいないような感じがして、緊急手術の患者さんが救急車で来ないかな・・・
などとも思ったが、そううまくは行かない。
若い先生たちのやる気に刺激され、明日でもいい仕事まで終わらせたので、結局昼近くまで病院にいる羽目になってしまった。
この調子で1年間続けばたいしたもんだが・・・
まあ、若いドクターが、泥臭く働くことはいいことだと思うし、そんな姿を見せることは、
看護師をはじめとした他のスタッフにもいい影響を及ぼすと思っている。
土曜日は増田副院長も研修日にもかかわらず、着任したばかりの若いドクターをサポートするために返上で勤務していた。
おいおい、なかなか、いい感じになってるな・・・と思いながら、病院の満開の桜を見ながら家に帰った。

(平成21年4月5日)




立候補

先日、横浜市病院協会の役員選挙が行われた。
横浜市にある病院が所属する団体で100以上の病院で構成されている。
看護学校を運営し、横浜市から桜木町にある救急センターの運営も委託されているが、
最近内部事情はかなりごたごたしており、内部は2派に分かれて分裂し、横浜市からの補助金をめぐり、新聞沙汰にもなるありさまだ。
今回の役員(理事・監事)選挙はそんな事情からか、
お互いが仲間を募り、自らの正当性を主張するかっこうの場になった。
もともと、病院協会の運営に関しては、自分は申し訳ないが無頓着で、
ごたごたの最中に送られてきていた文書にもろくに目もとおさず、ノンポリをきめこんでいたのだが・・・
ある日、知り合いの先生から電話があり、今回の理事選挙に立候補してくれないか、と頼まれた。
21年度は新病院建設の具体化、医療機能評価再受審の準備、経営の建て直し、看護職員の確保、医師の採用などなど・・・
やらなくてはならないことはいくらでもあり、とてもじゃないが病院協会の理事など受けられる状態ではない。
一度はお断りしたが、その後、別の先生からもお電話をいただいた。
今の横浜市病院協会を、本来のあるべき姿に戻すのに協力をしてほしい・・・と言われたが、
確かに今の病院協会は、とても本来の姿とは言いがたく、その状況に眉をひそめている先生方もかなり多いと思われた。
二つに割れている側のどちらが正しいのか・・・今まで無関心だっただけに判断しかねるが、
そのうち、はじめにお電話をいただいた先生とは別の派の先生からも突然お電話をいただいた。
こちらも、自分たちと、今の病院協会を正しい方向に改革していくのに力を貸してほしい・・と言うものだった。
なぜ自分が誘われるのか、理由がよくわからないが、よほど扱いやすいと思われたのか?
ともかく、自分としてはどちらの味方でもなく、自分の目と耳で確認しなければなんともいえない、と答えた。
理事になるには立候補することが必要で、どうしようかと悩んだ末に自分のボス、宮崎教授に相談したところ・・・
「そりゃ
なるべきでしょう!」
の、一言が返ってきた。教授の場合、いつも相談の答えは即決なのだが、今回はほんとに大丈夫かな・・・との思いもあり、
かなり躊躇したが、結局立候補することになった。
今まで横浜市病院協会の役員選挙では定数に対し立候補者が上回ることは一回も無く、
実際の投票が行われたことは無かったらしい。
ところが今回、蓋を開ければ、18人の定員に対して31人もが立候補する大混戦になった!
投票日までには、この先生方に投票を、この先生には投票しないように!などという文書が頻繁に届き、
しかも、対立する両方から同じような手紙が送られてくるという泥沼状態になった。
自分はと言えば、「中立的な立場の立候補者」との位置づけなので、どちら側からも投票を推薦されるような状態になっていた。
(お互いが、自分たちの仲間だけで候補者を立てられなかったようだ)
選挙は候補者の中から18人に○をつける方式で行われるとのことだった。
当直明けの日曜日、桜木町の病院協会に「投票」に出かけた。
今までかかわりが無かったので、病院協会の場所さえわからない!
投票用紙に自分の名前が載っているのが不思議な感じだ。
そもそも立候補なんてものは、小学校の学級委員も含めて今まで一回もしたことが無い!
それでも、せっかく立候補したのだから、さすがに自分の名前には○をつけておいた。
開票日には総会があって結果が発表されるのだが、その日は病院の用事が忙しく、出かけられなかった。
二日たっても何の連絡も無いので、てっきり落選かと思ったが、ある先生からメールをいただき、当選しているような内容だったので、
病院協会に電話したところ・・・
「今、結果をFAXで各病院に流しているところです。先生は当選されましたよ!」とのことだった。
74票の有効票とのことなので、かなりの投票率だったようだ。国政選挙よりもずっと多い!
自分に対しては何と66票もの投票をいただいたとのこと。
38票が当選ラインだったので、かなり多くの皆さんに選んでいただいたことになる。
やはり、両方の陣営から投票をいただいた結果なのだろうが、
それだけ責任を感じるし、今後が思いやられる。
ただ、やはり選んでいただいたからには、横浜市病院協会が今のごたごたした状況から抜け出し、
健全で、対立することなく、この苦しい医療状況の中で、お互い助け合って病院運営を行えるようにする本来の機能を営むよう
軌道修正のお手伝いをすることが必要だと思う。
ただでさえ自分の病院の運営でアップアップしているのに、何をわざわざ・・・という思いがあることは確かだが、
火中の栗を拾い、毒を食らわば皿まで!の心境で行くしかないのだろう。
軸足はもちろん、平和病院に置かねばならない。
新病院はようやく手が届きそうなところまでやってきている。
もうすぐ手術後5年!5年前も、今のように相当忙しかったことを思い出す。
体調管理には気をつけたい・・
・(平成21年3月22日)

ダイエットなんて簡単!?

先週の土曜日の朝、何の前ぶれも無く腹の調子が悪くなった。
土曜日は外来日でもあり、当直もしなくてはならず、
在宅ターミナルで診ている患者さんが腹水穿刺の目的で入院してくる予定になっている。
とても休むわけにも行かない。
午前中の外来をこなしたあたりで、症状は増悪の一途をたどり、「誰か・・医者を!」というほどの状態になった。
その日は春のような暖かさだったようだが、ゾクゾクと寒気がおさまらず、
トイレに行く回数も半端ではなくなった。そのままでは体中の水分が全部出てしまいそうな勢いだ。
満足に身動きもできず、当直室のベッドで暖房をがんがんにかけて丸まっていたが、
入院してきた患者さんは状態も悪く、日曜日に帰る予定だったのが微妙な状態になっていた。
その上、外来にはいっぺんに2人も救急の患者さんが来院してきた。
2人とも同じような症状で、「昨日からお腹の調子が悪くて、すこ~し下痢気味で、吐き気があるんです」
というのだが・・・
すこ~し下痢気味くらいなら、まだいいんじゃないの?」と、言うわけにもいかない。
何とかしてほしいのはこっちの方だ!
まあ、そんなことを言ったら、平和病院の医者は「ひどい!」などといわれてしまうので・・・
「それは大変ですね、お薬を出しておきましょう・・・」と、肛門を全力で閉め、トイレをがまんしながら診察を終えた。
(もちろん、手洗いは徹底的に行っているのでご心配は無用!)
さいわい、夜間は緊急の患者さんは来院しなかったが、調子が悪くてとても眠れたもんじゃない!
だいたい、トイレが当直室から遠すぎる!!
新しい病院の当直室は絶対トイレつきにしてやる!と、固く固く誓った。
翌朝は前の日に入院した患者さんの状態を確認し、やはりその日の退院は無理と判断し、
入院継続をご本人、ご家族にもお話しし、帰宅した。
家に帰ってからはそのまま寝込んでしまったが・・・
夕方、「ライディーン」が鳴り響いた。
入院患者さんの状態報告だったが、
自分が診ている緩和ケアの患者さんでもあり、その日の当直はアルバイトの外部の先生なので、
布団からおきだして、診察をするために病院に向かった。
いつもなら休みの日に呼ばれて病院に行くのはそんなにつらいとは思わない。
医者である以上はやむをえないと思っているし、ずっとそのスタイルでやってきた。
それが出来なければ在宅ターミナルなんてできない。
ただ、今回はさすがにきつい・・・
それでも何とか病院にたどり着き、指示だしや病状の説明を行い、いったん家に帰り、速攻で布団にもぐりこんだが、
2時間ほどでまた呼ばれた。
患者さんの状態がいよいよ悪くなっているとのことだった。
こんなことなら、そのまま病院にいればよかったとも思ったが、急いでまた出かけていった。
10時半頃帰宅し、さすがにへとへとだったので、食事もほとんどせず横になった。
もう呼ばれないだろうと思ったが、12時過ぎにまた「ライディーン」でとびおきた。
今度は別の患者さんの指示に関するもので、さすがに出かける必要は無かったが・・・
止めを刺すように明け方の5時にまたまた「ライデーン」でおこされた。
別の病棟に入院している患者さんに関する報告事項だった。
ただ、その頃にはゴロゴロとなりっぱなしだったお腹の音もようやく回復の兆しは見え始めていたが、喉が渇く!
朝はいつもどおり起きなくてはならず、何とか出勤した。
その日は昼もまだ食欲が無く、帰ったあとで体重を量ったら73キロ台になっていた!
ここ20年近く、こんなに体重が落ちたのは記憶に無い!
ダイエット中・・・とか言って、甘いものは極力避け(実はだ~い好き!)努力はしており、
一時は80キロ寸前だった体重を75キロ台まで落とした。
もう少し・・・という気はあるが、さすがにこんな体重の減り方はかんべんだ。
「いやあ、やせたなあ、二日で2キロだよ!」
それを聞いていた娘が
「え
、それって、ふるくなった菜っ葉がしおれるみたいに、単に干からびただけじゃないの?」・・・
ああ
、ひどい!こんなに体調がわるいってえのに・・・
娘の暴言に涙する父!
でも・・・確かに、そう言われれば、なんだか皮膚がぱさぱさで・・・目の下にはくまがあるし、顔も小さくなったような気がする。
よく考えてみたら、前の日は一回も尿がでていない!あわててポカリスエットをのみまくった。
そんなわけで、先週はホームページの更新など、とんでもない話で、久しぶりに今日、いじりだした。
体重はといえば、あっというまに75キロ台に復活し、ようやく体調ももどってきた。
体調がもどって体重がそのままならいいのに・・・そうはいかないようだ。
あの体重計の数字「73」は、おそらく今後はなかなかお目にかかれないだろうが・・・
健康のありがたさをあらためて感じた数日だった。
(平成21年2月13日)



一つ目のハードル

アメリカ新大統領就任の日、1月20日は自分の誕生日だった。
56歳になった。
以前も書いたように、自分は3つの寿命の節目を設定している。
56歳は自分の父親が死んだ年齢であり、56歳といっても56歳になったばかりで死んでいるので、
今の自分のことを考えれば、やはり早い。
とはいっても、一つ間違えれば、自分だって今の時点でこの世に存在していない可能性だってあったのだから・・・
誕生日は、特に今年の誕生日には特別な思いがある。
いつもより早めに家に帰ると子供たちが、色画用紙と格闘していた。
毎年、誕生日には、娘は手作りのカードをくれる。
今年は息子も影響されたのか、カードを作ってくれた。
カードは、娘がひらがなも書けなかった頃からずっと作ってくれており、今でも全部大切にとってある。
年を経ていくにつれ、だんだん手が込んだカードになってきており、
どれもが世界でたった一つのものなのでどんなプレゼントよりもうれしい。
今年は娘のにも、息子のにも、どちらのカードにも「元気で」の文字が書いてある。
健康であって初めて、いろいろなことが出来る。
あたりまえのことだが、最近、緩和ケアを求めて受診する患者さんと接する機会が多いせいか、
この、あたりまえのことがどんなに大切なことかを感じている。
と、思ったのもつかの間・・・
左目の視野に糸くずのようなものが出現した。ごみかと思ったが視界がぼやけるような感じがして、眼科を受診した。
飛蚊症ですね」
生まれて初めて散瞳薬を点眼され、眼底を細かく診察してもらった。
「網膜の剥がれは大丈夫のようですね。特に網膜の端をよくみましたが、今のところ大丈夫のようです。
ベロンと剥がれてくるようであれば、手術も考えますが、強度の近視の方は、なることも多く、
しばらくは慣れてもらうしかありません。薬を飲んでも治りませんし・・・」
え~~~!確かに自分は強度の近視ではあるが・・・
網膜がベロンと剥がれる可能性がある??そんな、おそろしいことをさらっと言われても・・・
「ひどくなったらまた見せてくださいね」
と、いわれても、ひどくなったらたまったもんじゃない。
というわけで、今でも目の動きによっては視界に邪魔なものが動き回っている。
さらに・・・
最近、急激にインフルエンザがはやってきた。
まさに爆発的に患者さんが増えていると思っていたら、息子のクラスが、インフルエンザで学級閉鎖になった!
息子は、はじめは学校が休みになってラッキーとかいっていたら、昨日から高熱が出てきて寝込んでしまった。
去年の暮れには家族全員、予防接種は受けているのだが・・・
思い出すのは3年前、息子が中学受験のとき、自分がインフルエンザになって大騒ぎになったことで、
そのときも予防接種は受けていた。
娘も鼻声になって、ティッシュを使いまくっているし・・・
いま、自分は息子と同じ部屋で寝ている。昨日は夜中に自分のほうを向いてゴホゴホ咳をしていたからなあ・・・
もう、自分もうつるのは時間の問題だろう。まさに風前の灯だ!
そういえばなんだか喉の調子が悪くなってきた。
明日は当直だし・・・当直の翌日は普通でも喉の悪くなるのに、まさに絶体絶命の状況だ。
何とかこの危機をのりこえて、今年は健康で、まずは一つ目のハードルをクリアしていきたい。
(平成21年1月23日)



成人式の日

1月12日は成人式だった。横浜では成人式は横浜アリーナで開催される。
人数があまりにも多いので地域によって開催時間が異なるらしいが、娘は一番初めのようだった。
朝の5時半には家をでて、パーマ屋さん(これを言うと、必ず娘に馬鹿にされる!「何それ、今はパーマ屋さんなんて言わないの!」
美容室とかだって、大して違わないとは思うが・・・何せ、気をつけていないとデジカメを写真機だとか、ピーナツを南京豆だとか、
ペアカップをめおとカップなどと口走ってしまう!)に髪のセットと着物の着付けに出かけていった。
8時半頃には帰ってきたが・・・振り袖姿ははじめて見た!
前にも書いたが、娘は新しく買ったものではなく、結婚前に妻が作った着物を着ることにしていた。
確か、自分たちが結婚する年の正月、その着物を着た妻と明治神宮に初詣に出かけた。
20年以上も前に妻が着ていた着物を、自分の娘が着ているなんて・・・
見慣れていない姿なので、こちらも落ち着かないが、めったに見られるものでもないので、写真機で撮りまくった。
親のひいき目で見るので、決して美人ではないわが娘も着物を着ればそれなりには見える。
そもそも娘は以前から、自分が母親よりも父親に似ているといわれるのが気に入らないらしい。
確かに妻は目が二重だし、唇も私より薄い。息子は二重まぶたなので、
「あ~あ、何で私の顔は母さんのほうに似なかったのかな!」と、ことあるごとに言われる!
まあ、そんなことは今更いわれても仕方が無いが、着物を着ているだけで今日の姿はなんだかまぶしいような気もする。
9時過ぎに近所の同級生の家まで出かけて行ったが、写真を撮っていると、周りのうちのおばさんたちも集まってきた。
近くにはたまたま同級生の女の子が3人いて、偶然父親の年が3人とも同じなので、(若い方ではない)家族ぐるみで付き合っている。
同じ幼稚園、小学校に通い、そのうちの1人は中学、高校、大学まで一緒だ!
親たちからは「あんなに小さかったのにね~~!」の言葉が自然に出てくる。
ほんとだよなあ・・・
それぞれに着物を着た3人をみると、やはり感慨深いものがある。
成人式はすぐに終わり、久しぶりに会った友達と話をしたりするらしく、しばらくたってから車で迎えに行った。
アリーナ周辺は大渋滞で、道には晴れ着姿の女の子があふれている。
それに比べると男の子はどれも同じような格好で、やはり主役は着物か!?という感じがする。
着物を汚すと大変なので、食事もせず、今度は中学、高校の友達が集まると言うので、
着物のまま、わざわざ明治神宮まで出かけていった。
そのあと焼肉に行く話しもあったようだが、絶対許さなかった。タレを着物につけてくるに決まっている!
さすがに娘の娘が、成人式に同じ着物を着て明治神宮に行くことはないのかも知れないが・・・
娘にとってはもちろん、成人式はそれなりの感慨もあるのと同じように、きっとそれぞれの親たちにとっても節目と言うか・・・
長い子育てを感慨深く振り返る日なのかもしれない。
とはいっても、いまだ娘のすねのかじり方はすさまじく、大学院に行くなどと宣言しているので(成績がそれを許すかは疑問だが)
まだまだ気は抜けない。
息子は今日から学校のスキー旅行に行って留守だが、今年やっと高校生だ。
そう思うと、もっと早く結婚して早く子供を作っておけばよかったかも・・・などとも思うが、
今の娘も、息子も、(もちろん妻も)今の人生が無ければ授からなかったわけなのだから、これでいいのだと思う。
明治神宮から帰った娘の話では、外人さんや知らない人からも写真を撮らせてほしいと頼まれたとか・・・
「父さん、私いけてるかもしれない、写真撮られまくりで、1枚100円もらったら1万円以上儲かったかもしれないよ!」
などと、わけのわからないことを言っていた。
ずっと着物を着ていたせいで、何も食べられず、猛烈にお腹がすいたらしい。
焼肉を許さなかった代わりに、一生に一度の日くらい外食でも奮発するか・・・!
(平成21年1月12日:成人の日)

時の流れは・・

クリスマスは娘の誕生日でもある。
昨年の誕生日で、娘は20歳になってしまった。
このホームページのを書き始めたはじめの頃、「上の子の憂鬱」で娘の成人式のことを思ったのが、ずいぶん昔のような気もするが・・・
今年は成人式を迎えることになる。
昨年は振り袖のダイレクトメールが狂ったように送られてきたが、結局、妻の振り袖を治してきることにした。
成人式前に、写真だけ「前撮り」するところが多いようだが、なかなか忙しくて時間がとれず、
結局、記念写真は2月の予定にしたが、12日の成人式には美容院を予約し、友達と一緒にアリーナまで出かけるらしい。
どんな姿になることやら・・・
自分の成人式と言えば、全く記憶が無く、たぶん千葉でひとり暮らしをしていたので、出席しなかった様に思う。
今から考えると、人生の節目の行事なので、出ておけばよかったと思うが、
いまさら言っても始まらない。
娘が生まれたのは自分たちが結婚して1年ちょっとしかたっていない時期で、その頃は浦賀病院に勤務しており、
仕事も今と比べればずいぶん楽で、早い日には5時20分くらいには自宅にもどり、娘と過ごす時間も多かった。
(今の生活からは考えられない)
3歳の時に平和病院に転勤になり、幼稚園の時に骨折して平和病院に入院したこと、
小学校、中学受験、大学受験・・・
ずいぶんいろいろなことがあったのに、振り返るとあっという間だったような気がする。
昨年のクリスマスイヴはデートとかでいないし、誕生日もデートで出かけて(よくも飽きないよね!)、
昔のように家族で一緒に祝うことも少なくなった。
少し寂しいような気もするが、まあ、こんなものなのだろう。
妻が自分と結婚したのは23歳の時で、付き合いだしたのは21歳の時なので・・・
娘だっていつどうなるかわからない!
考えてみれば、妻の両親は「結婚したい」、と、つれてきた男が、34歳だったわけだから、さぞかしびっくりしただろう!
仮に、娘があと1~2年で「結婚したい!」とかいって30過ぎの男を連れてきて、
そいつが「おとうさん!」などと、とぼけたことを言い出したら、
ふざけんな!」とか言って、激怒するかもしれない・・・
そう考えると、妻のお父さん、お母さんは太っ腹だったのだろうか?
あと少しで成人式、娘の振り袖姿を見るのはきっと感慨深いものがあるのだろうが・・・
それだけ自分も年を重ねたという事なのかも知れない。
(平成21年1月4日)



「がん緩和相談外来」の2ヶ月

この10月から、「がん緩和相談外来」を開設した。
もはや積極的な治療が望めなくなり、大病院や基幹病院では入院させてもらえず
自宅での療養も困難な末期がんの患者さん、ご家族のお役に立てればと、始めてみたのだが・・・
正直な話、短期間にこれほど多くの患者さんのご相談にのることになるとは思わなかった。
開設以来2ヶ月で、すでに19人の患者さんや、ご家族との出会いがあった。
当直の土曜日の午後には、毎回予約が入るようになり、外来を担当していない月曜日、木曜日の午前中も、
予約相談や、ご相談をいただいたあと、入院になる患者さんのための診察、時間をかけてお話を聞くことで、
ほとんどつぶれてしまうようになってしまった。
実際、緩和相談には、ご家族だけでこられるケースも多く、入院、あるいは初回の往診の時に、
患者さんには初めてお目にかかることも多い。、
初対面での診察はどうしても、1時間以上はかかり、カルテの記載や、指示だしなどを含めると、ほかの事をする時間がなくなってくる。
その間にもいろいろな部所からピッチに連絡が入り、
もう一つ持たされている「地域連携用」のピッチには、
救急情報センターからの入院依頼、近隣の診療所の先生方からの患者さん紹介の連絡が入る。
本当は、患者さんに対応している時にはピッチは取りたくないので、近くにいる看護師さんに預け、用件を聞いてもらう。
いままで相談を受けた19人のほとんどが、基幹病院、都内の大学病院などに入院中の患者さんのご家族からのものだ。
そのほか、他の病院での治療に疲れ果て、不信感を抱き、今後の療養に対しての相談に来る患者さんもいる。
一度の相談だけで、その後連絡の無い1人を除く18人のうち、外来で引き続き経過を診ている患者さんが3人、
往診の対応になったのが2人(自分が随時、往診しているし、在宅での看取りもおこなった)。
残りの13人が平和病院に入院した。
ただ、残念ながら、相談を受けた患者さんの半数はもう、帰らぬ人になってしまっている。
それでも、「いままでこのような人たちは、どうしていたんだろう・・・」と、不思議になるくらい次々に、患者さんは紹介されてくる。
平和病院も一般病院である以上、平均在院日数には制限が設けられているが、
このような患者さんの入院期間は手術患者さんなどと違って計算が出来ない。
紹介状の記載も、「予後は3~6ヶ月と思われます」のようにアバウトのものがほとんどだ。
もちろん、入院期間が長くなりそうだからといってお断りすることは無い!
入院後も、お引き受けした以上、自分で診察を続けるので、人数が多くなってくると、だんだん自分の首を絞める状況になってくる。
さいわい、一応、緩和の患者さんも「外科入院」になり、他の外科スタッフも手伝ってくれるので、何とか対応が出来ている。
ただ、相談外来からのつながりなので、ゆっくり時間をかけ、病室を訪問したいため、
外来や、手術、会議などが終わってから、とんでもない時間に病室を訪れることになることも多い。
そんな時でも、患者さんから、「あ~うれしい」などと言われると、疲れも吹っ飛んでしまう。
明日も相談外来を利用した2人の患者さんが入院してくる。あさってにも1人・・・。
土曜には新たな相談外来の予約が入っている。
このままのペースで患者さんが増えていくと、どうなってしまうのか・・・と、少し不安になることもあるが、
それだけ困っている人が多いということで・・・
まあ、自分の体力、気力の続く限りは何とかご要望に応えていこうと思っている。
(平成20年12月10日)

おかげまいり

今年も、年1回行われる東芝医療責任者会議が開かれた。
東芝関連の3病院(東芝病院、東芝林間病院、平和病院)の院長、事務長、看護部長
東芝健康保険組合の理事長、理事、HAS(東芝ヒューマンアセットサービス)といって、各工場の診療所を運営している会社の社長、
人事勤労部長、本社の専務などが集まって、東芝関連の医療、保険部門の運営状況を発表、情報提供などを行う会議だ。
東芝の各工場を訪れて会議が行われ、今年は四日市工場で開催された。
四日市工場は、三重県の四日市の広大な敷地にあり、
主に、パソコン、携帯電話、デジカメなどに使われる様々な記憶媒体を製造している。
四日市は今までもちろん行った事もなかったが、
名古屋まで新幹線にのり、近鉄特急に乗り換えて約1時間・・・
会議の始まる前に昼食、工場見学をさせてもらい、夕方まで会議が行われた。
東芝健保の厳しい状況もよくわかり、東芝病院の苦しい経営状況
(年間の収支状況はかなり厳しく、これが平和病院だったら、あっという間につぶれているし、新しい病院が一つ建つ!)
東芝林間病院の苦戦状況(外来単価、入院単価が平和病院に比べ驚異的に高いのには驚かされた!)
など、他人事ではない厳しい状況報告が続いた。
さいわい平和病院は19年度は何とか踏みとどまって入るが、今年は・・・・苦戦を強いられている。
会議の後は、四日市工場の関係者も交えて懇親会になるのだが・・・
さすがに四日市まで来ると、日帰りでは無理なので、一泊せざるを得ず、
平和病院だけが土曜も営業しているので、外来を代診にするのも気がひけたが・・・勘弁してもらい、
翌日は簡単な観光をすることになっており、バスで伊勢神宮まで出かけた。
こんなときでないと、伊勢神宮にわざわざ来ることは、なかなか無いだろう・・・
前々回の会議では能登まで出かけ、安宅の関(源義経と弁慶の話で有名な)に行ったのを思い出した。
ちょうど娘の大学受験の年だったが、安宅住吉神社の「難関突破お守り」のおかげで?無事難関を突破できた!
伊勢神宮は2000年以上の歴史のある神社で、天照大神を祭るだけあって、その規模は広大だ。
訪れる人も半端ではなく、参道は人、人、人でごった返していた。無事おまいりを済ませ、
出発時間まで、旧参宮街道(おはらい町通り)沿いの店をのぞいたり、
街道から少し横道に入ったおかげ横丁を散策した。
ここには、少し前に、話題になった「赤福」本店がある。
以前の騒ぎの影響は全く感じられないように、店は多くの人でにぎわっている。
思わず店に入ったが、中では実際にお店の人3人が餅をちぎったり、あんこをつけたりして、
あの有名な赤福を作っている!手際よくあんこをもちの周りにつけ、握りずしを握るときのように「指で
赤福に特徴的な2本の筋をつけているのには感動した。
あまりの手際よさに、さぞかしおいしいだろうと思い、店の奥の座敷に上がり、出来立ての赤福を食べたが・・・・
なんとなくいつもよりおいしいような気がした。
お土産にも買っていったが、新幹線の売店で買うのと違い、箱や、へらが立派で、さすが本店は違う!と感心した。
(しっかり、製造年月日も印刷されていた)
大昔は「お伊勢参り」は大変なことだったようだが、
なにかの出来事をきっかけとして、子は親に、妻は夫に、奉公人は主人に無断で「お伊勢参り」に出かけ、
多くの人々が歌い、踊りながら伊勢神宮を目指して歩いたといわれている。
日頃の苦労の多い、たいへんな生活を忘れ、自由に旅が出来、十分な費用が無くても
道筋の家々から食べ物をもらったり、宿泊場所を提供されたりして、それが神の「おかげ」とし、
妨げるものには天罰が下るとも言われ「おかげまいり」といわれたらしい。
文政13年には約500万人もの人たちが「おかげまいり」に参加したといわれている。
今回は、医療責任者会議のおかげで、自分も1日だけ、しばし日常業務を忘れ、「お伊勢参り」が出来たので、
いってみれば、これも「おかげまいり」なのかな・・・とも思った。
(平成20年10月19日)

こら!

最近、ゴルフをやる機会がほとんどなくなった。
毎年、昔の出張病院の仲間たちと、夏休みに一泊二日で北海道に出かけゴルフツアーを行っていたが、
メンバーが開業で忙しくなったりして、今年は久しぶりに中止になってしまった。
いつも音頭をとってくれていた匝瑳市民病院の院長のK先生も、いろいろ大変らしい。
つい先日、千葉の銚子市立病院が閉院することが朝のNHKテレビのニュースで取り上げられ、
近くの旭中央病院がものすごく忙しくなっているとの報道があった。
北総地域では旭中央病院が、いわば「一人勝ち」の状況で、
周りの病院は医師不足で干上がってしまっているらしい。
匝瑳市民病院も常勤医師の激減で、院長は崖っぷちに追い込まれているようだ。
いつも一緒にゴルフに出かけているK院長がテレビ画面に映り、医師不足を嘆いていた。
頭が白髪で真っ白になっている!
そうとう苦労しているようで・・・「院長なんていいことが一つもいない!」と言っていたことを思い出した。
そんなわけで、今年のゴルフは春に、近くの診療所の先生と一緒に出かけたのと、夏休みに家族でやった2回だけだ。
この連休にも、同じ先生と出かけることになっていた。
土曜の仕事が終わってから出かけ、日曜にプレイして帰ってくる予定だった。
もともと練習はほとんどしないのだが、あまりひどいゴルフをすると、迷惑がかかると思い、
金曜の夜に練習しようと、車にゴルフバックを積み込もうとしたが・・・
おいてあるはずのガレージの場所にゴルフバックが見当たらない。
一瞬何がなんだかわからなくなったが、他の場所には置いていないので・・・・
ガレージから消えた!」ことになる。
以前、同じガレージを、旅行に行くとき閉め忘れ、帰ってきたとき、ゴルフバックはとられておらず、ほっとしたのもつかの間、
バックの中のドライバーだけが消えていたのに気付いたことを思い出した。
今回、空気の入れ替えの為に、何回かガレージのシャッターを少し開けてそのままにしていたことがあったのだが・・・・
どうやら、そのときに誰かがガレージの中に入り込み、ゴルフバックを盗んでいったようだ。
翌日にはゴルフだってえのに・・・
自分のバックのことで頭がパニック状態だったのだが・・・・
よく考えると娘のバックも無いような気がしてきた。
あわててメールで確認したが、やはり持ち出していないようで、結局ゴルフバックは二つも盗まれたことになる!
娘のことは後回し、問題は翌日のゴルフだ!
しばらく考えていたが、しかたが無いので、新横浜のゴルフショップに出かけていった。
「とにかく安くて一番易しく打てるクラブを!」と、店員さんに泣きついてとりあえず道具をそろえた。
盗まれたクラブは、4年前に手術をして退院した後、体力もなくなっただろうから、
軽くて、振り回さなくてもいいようなものを・・・・と買い換えたものだ。
けっこう気に入っていたが、息子に、今度自分が新しくセットを買ったら、お下がりであげることになっていた。
息子も、もらえるはずのクラブが無くなり、がっくりきていた。
娘も、大学でゴルフサークルに入っているのだから、道具が無いのは大打撃だろうが・・・
まあ、しばらは15年物の、妻のクラブを使ってもらうしかない。
実はゴルフクラブを盗まれたのはもう一回あって、
大学病院に勤めていたころ、ゴルフ場について、車のトランクを開けてクラブを出そうと思い、
トランクが空っぽで、そのとき初めて盗まれているのに気がついたことがある。
そのときも何がなんだかわからず、仕方なく貸しクラブでプレイした。
今回のゴルフでは、全く練習もせず、新しいクラブを振り回したが、ただでさえそんなにうまくないのに、
うまくあたるわけが無い!
最初のハーフは散々なスコアで、翌日にはゴルフショップに行って、別のクラブに取り替えようと思ったが・・
(1回使って、あたらなかったら、無料で交換します!というシステムになっているので)
後半のハーフは、けっこううまくあたりだしたので、これからはこのクラブで、練習しようと決心した。
(と、いっても、一月に1回練習すればいいほうか・・・)
それはともかく、まったく、よくもまあ、ゴルフバックを二つも持っていくよなあ!
絶対歩いて持って行くわけはないので、軽トラックかなんかで、あたりを物色している奴らがいるんだろうか?
一応警察に届けたが、電話をしてすぐ飛んできてくれたお巡りさんも、
いつとられたか、はっきりしないので、正式な届出は難しい!、といっていた。
あわれ、今頃どこかの中古ゴルフショップに売られているのか?(そんなに高いクラブは使わないので、二束三文にしかならないと思うんだが・・)
鉄くずとして売られているのか・・・
まったく、どうして悪い奴がいるのかね!
このことをある人に話したら・・・
「あなたの奥さんが、あなたにレモンをなげてきたら、あなたはそれでレモネードが作れるじゃないか!
ゴルフクラブを盗まれたからこそ新しいセットが買えるのでしょう?」と、言われた。(外人なので、たとえが変っていると思った)
なるほど、見方によってはそういうことになる。
何事もポジティブに考えなくてはいけないと、感心はしたものの・・・・・
やっぱり腹が立つ!
こら、クラブかえせ!!
(平成20年10月13日)



驚愕の写真!

先日、ゐのはな同窓会報(千葉大学医学部の同窓会報)が送られてきた。
大学の最近の人事、動向や、各地区での同窓会報告などが掲載されている。
その中に「五味の会」の記事を見つけた。。
五味の会は自分と同じ、昭和53年に卒業した同級生の会で、
今年の7月6日(日)に千葉のホテルで久しぶりに開催された。
あいにくその日は当直だったので参加できなかったが、
今回は全部で38人が出席したらしい。
前回の同窓会は八重洲で行われ、出席したのだが、
同じように同窓会誌に掲載された出席者の名前の中に、なぜか自分だけが載っていなかった!
すでに3人の同級生が亡くなってしまったが、
5人もが大学の教授になっている!
母校の教授は、以前「小児外科緊急疾患」に書いた吉田教授と救急部の織田教授、
東京女子医大の耳鼻科の吉原教授と整形外科の加藤教授、
女子医大八千代医療センター小児科の寺井教授だ。
会報には写真も掲載されていたのだが・・・・
ぱっと見て・・・
え~~~~!!
あまりにも変っている顔が多く・・・名前を見ないと、誰だかわからない奴もいるし、
名前を見ても、あれ、同級生だったっけ?というやつもいるくらいだ。
しかも、みんな、どうしてこんなにふけっちゃってんの?(ふけて写っているだけ?)
確かに、もう卒業してから30年もたってしまった。
たぶん、自分が出席して同じように並んで映っていたら、自分もかなりふけて写っていたんだろうが・・・・
「そんなはずは無い!」と、写真を何度も見直してしまった。
しばらく見ていたが・・・「そうか・・・こんなにみんなふけちゃってんだ~」、と、ため息まじりにつぶやいてしまった。
写真や、名前を見ているときに、眼鏡をはずしてみていること自体、自分も年をとったことは完全に無視している。
いくらなんでも自分はこれより若いんじゃない・・・などと思いながらも、相当なショックを受けた。
でも、すぐ下に、平成2年卒同窓会の写真が載っていたが・・・・やっぱり顔がぜ~んぜん若いよな!
写真を見た息子が、
「父さん、大丈夫、この中だったらぜったい一番若いって!」
と、言ってくれたのがせめてもの救いか・・・
娘はといえば、「え?・・・みんな父さんと同級生なの?・・・ふ~~ん、ずいぶん年取ってない?」と、微妙な反応が返ってくる。
病院のホームページの「院長挨拶」の写真も、撮影したのはたぶん3年位前だからな
・・・
今度新しくする時には、だいぶ違っているのかもしれない。いっそこのままにしておくか!
(平成20年9月22日)

「凍結」という名の無策

先日、新聞に、75歳以上の入院基本料、報酬減額を「凍結」
という記事がのった。
今回の診療報酬改訂で、後期高齢者問題が取り上げられ、酷評を受けた厚生労働省は、すでにいくつかの内容を変更した。
75歳以上の患者さんが入院し、回復が思わしくなく入院期間が90日を超えた場合、
同じ治療を行っても、病院に支払われる診療報酬が大幅に減額されることになっていた。
平和病院の場合では、入院基本料が一人1日3000円弱、減額されることになっていた。
一人の患者さんで、月90000円の収入源となる。
仮にこのような患者さんが10人入院していて1年間にすれば・・・・
考えるだけでも恐ろしい!
この制度の「例外」とみなされる患者さんの中に、重度の肢体不自由者が含まれていたが、
認知症や脳溢血後遺症が原因の場合は除外されることになっていた。
当然、このような患者さんを抱えている病院は大幅に収入が減ることになり、
ただでさえ厳しい状況に追い討ちをかけられることになった。
このため、介護施設、医療療養病床、在宅へと患者さんの移動をお願いするケースが激増した。
ところが・・・
介護施設の整備は現実には全く追いついておらず、
療養病床の削減目標を大幅に修正しても、机上の空論であることが明らかになってきている。
野党や医療の現場からは当然、
「診療報酬の引き下げにより、病院は収入源で採算が取れなくなり、患者の無理な追い出しにつながりかねない
との批判があがり、
この運用を見直すことにしたようだ。
まだ正式な通知は届いていない。
病院は「
霞を食らって」運営されているわけではない!
急性期の治療を終えた高齢者」という現実が、どのような状態なのか、
このような報酬内容を作る人たちは、どこまで理解しているのか・・・・
首を傾げたくなるような内容があまりにも多すぎる。
まあ、今回は病院にとっも患者さんにとっても息のつける修正ではあるが・・・
いったん出された内容で、病院がどれだけ振り回され、
頭をフル回転し、ダメージを最小限に食い止めるために、人員配置、病床構成を変更し、
患者さんに制度の変化を説明し、
ひどい時には「人非人」のように言われながら、できるだけ迷惑のかからないように対応するため、
ものすごい労力を費やしていることか・・・
それが、間際になっての「凍結」だ!
凍結」されるまで、医療施設、患者さん、ご家族の方がどれほど右往左往したのか・・・
たぶん全くわかっていないに違いない。
なぜ、実現に無理のある玉虫色の改定を行う前に、十分考えて行えないのだろう・・・
今回、「凍結」の対象になった「脳溢血後遺症、認知症」が除外される改定内容は
他にもいくつかに絡んでいる。
それがどこまで拡大していくのか・・・
何回も今まで書いてきた「障害者施設等入院基本料」を算定する病床の入院対象もそのひとつだ。
今のところ、この部分の改定は「凍結なし」のようだが・・・
もはや、平和病院では病床変更に向けカウントダウンの状況になっている。
もう、いい加減にしてほしい!
と、この記事を見て何人の院長が天を仰いでいることか・・・
(平成20年8月10日)



え~っ キャンセルかよ!

救急患者さんの受け入れの円滑化を図る目的で、救急医療情報センターが運営されている。
外来で診察し、入院が必要な患者さんだが、その病院のベッドが満床だったり、
専門外の患者さんだったりした場合、受け入れ先の病院を、診察した病院が探すのは非常に苦労する。
このため、病院間の調整を行うための組織だが、
平和病院の場合は、たいていが「周辺の基幹病院が満床なので引き受けてほしい」との連絡を受ける場合が多い。
最近、平和病院は地域連携機能を充実させたので、
連携室専門のPHSを私か増田副院長が持ち歩き、受け入れや病床調整を行っている。
ただ、情報センターが間に入る場合、直接病院間のやり取りではないので、どうしても微妙な状況が伝わらず、
イザ引き受けてみると、「話が違うんじゃない?」というようなこともたびたびある。
ご高齢の独居の患者さんで、ADLが極端に低く、回復しても容易に退院できないような場合でも、
そこらへんの話しは触れずに、微妙に避けて患者さんを送ってくるケースもある。
大きな病院は平均在院日数の短縮にやっきだ。
患者さんの回転をよくしないと、病院の機能が果たせなくなる。
事情はよくわかるが、平和病院だって高齢者専門施設ではない!
ただ、地域における病院の機能、平和病院の位置づけを考えれば、やはり患者さんは受けるべきだと思っている。
今日も手術中(麻酔をかけていたが)に電話がかかってきた。
やはり、基幹病院からの要請で、憩室炎の疑い。手術は不要とのことだった。
受け入れは可能だと思うが、今は手術室にいるので、病床の状況をすぐ確認し、
その後、基幹病院の先生にこちらから連絡することを提案したが・・・
情報センターは「よろしくお願いします。こちらから5分後にまた連絡します」とのことだったので・・・
満床状態の病棟のベッドを必死で調整し、有無を言わさず受け入れベッドを確保し、外来にも患者さんの受け入れを伝え、
準備万端整えたところで、情報センターから電話がかかってきた。
「先ほどの件ですが・・・」
「お待たせしましたが、お引き受けできますので、さっそく患者さんを送ってください」
「申し訳ありません、あの後他の病院にも連絡をしたところ、すぐ引き受け病院が決まりましたので、またの機会に・・・
おいおいおい!すぐったって、こっちだって、そんなに待たせてたわけじゃないだろう!
またの機会にって・・・
受け入れ可能だと思うって言ったじゃないの!
5分間しかたってないのに・・・
こっちには病床の手配させといて、他の病院にも電話しまくってたわけ!?
さっきの話しによれば、患者さんだって、そんなに一刻を争うような状態じゃないでしょ!
そりゃあ受け入れ先の病院を必死で探すのはわかりますよ!
平和病院だって逆の立場で探してもらうことだって無いわけじゃない。そんな時は一刻も早く探してもらいたい。
ただ・・・この仕打ちは無いんじゃないの!?
情報センターは救急ベッド調整の切り札なのかもしれないが・・・・
こんなことが続くと、受け入れるほうも「何とか対応しよう!」という気も失せてしまうことになりかねない!
それとも、「ああ、他に受け入れ先が見つかったんだな。よかったよかった!」と、思わなければダメなの?
そこまで人間が出来てないからな~~
こんなひがみっぽい考えを持つのは、自分だけなんだろうか?
まだまだ修行が必要か・・・
(平成20年7月31日)


オレンジバルーン

7月4日(金)、5日(土)は静岡で日本緩和医療学会が開催された。
その1日前の3日(木)には、同じ会場で教育セミナーが開催された。
休みを取って、木曜から参加した。
朝10時からなので当日の朝出かけた。新幹線で静岡まで新横浜から40分ちょっとだ。
夕方の6時まで缶詰状態で、集中講義を受ける。
昼休みも弁当が出され、同じ席に座ったままセミナーを聞きながら食べる。
静岡だけに、わさび漬けが付いているが、
わさびが大嫌いなので(寿司についているくらいは大丈夫だが・・・)食べられない。
午後になると、座りすぎでさすがにお尻が痛くなってきた。
自宅から通えないわけではないが、新幹線代が往復10000円以上かかり、
病院からは出してもらえず、(参加費は、でるが)泊まったほうが安いので、
その日は静岡のホテルに泊まった。
毎回、学会でどこかに泊まると、その地方の名物料理でも・・・とは思うのだが、
最近は結局、毎回居酒屋になってしまう!
その日も静岡駅ビルの居酒屋で生ビールと枝豆という定番メニューになってしまった。
翌日、ホテルで寝ていると、朝5時前だというのにものすごい大きな放送の音がした。
火事かと思い、慌てたが、よく聞くと、静岡地方に大雨洪水警報、土砂災害警報が出ているとの広報車のアナウンスだった。
確かに、ものすごい勢いで雨が降っている!
それでも、7時までは寝ていたが、ニュースをつけると新幹線も東海道線も止まっている!
ただ、雨はすっかり上がって、ものすごい勢いで晴れているのに・・・
静岡駅は大混乱で、ニュース撮影のカメラまで出ていた。
会場までは電車で一駅なのだが、止まっているため、タクシー乗り場は長蛇の列で、会場に着くまでにけっこう時間がかかってしまった。
外科系の学会と違い、緩和医療学会は看護師さんや、他のパラメディカルの参加も多いので、
全く雰囲気が違う。何しろ女性の割合が圧倒的に多い!(いいよね!)
入り口近くにはPCを使ったアンケートなどがあり、景品がもらえるらしく、長蛇の列が出来ている。
ただでもらえるものは、もらう主義なので、列に並んでしまった。
進行がんの消化管閉塞の時に使用される「サンドスタチン」という薬(平和病院でも使っている)に関してのアンケートだが、
景品は、ハンドタオルと、化粧用ポーチだった。
会場では、以前、新大阪でおこなわれたEPEC-Oという教育用プロジェクトに一緒に参加した先生たちに4~5人会うことが出来た。
向こうからも声をかけてくれ、やはりみっちり泊りがけで朝から晩まで一緒に研修を受けた仲間なので、
とても懐かしく、みんなもがんばっているんだな・・・と、なんとなくうれしい気分にさせられた。
ランチョンセミナーはカナダ人の講演に参加した。
NOVAの実力を見よ!・・・と思って、そのまま英語で聞いてみたが・・・
途中で猛烈な睡魔が襲ってきたので、慌てて自動通訳機のスイッチを入れた。
日本緩和医療学会では、今「緩和医療」の啓蒙活動を行っている。
オレンジバルーンキャンペーンとして、オレンジ色の風船をキャラクターにして。
パンフレット、ポスター、ピンバッジなどを配布している。
症状を緩和すれば、がん治療と向き合う元気が出てきます。
治療と一緒に始めましょう「
緩和ケア
がんになったら、「
緩和ケア

という文章がパンフレットやポスターに書かれている。
バッジは、風船に書かれている顔がいまひとつかわいくないが・・・
平和病院の緩和医療勉強会に参加している職員にも配りたいので、申し込んできた(ただでくれる!)
学会はあと1日あったが、土曜日は外来もあり、当直でもあるので、1日残して帰ってきた。
お土産は・・・
やっぱり「夜のお菓子・うなぎパイ」と「安倍川もち」(わさび漬けは絶対買わない!)
日常の業務から離れた学会参加は、やはりリフレッシュになる。
明日からは新しいバッジをつけて勤務することにしよう!
(平成20年7月4日)


胸部CTに異常影!

今年もまた6月22日がやってきた。
手術をしてから4年がたった。
2年目の日3年目の日、微妙に違った感覚で迎えたが、
今年も再発や転移がないか、チェックするためにCT検査を受けた。
毎年、胃の内視鏡や注腸造影も受けるが、肺や縦隔のリンパ腺をチェックするCTは、やはり一番気にかかる。
放射線科の読影日を選んで検査を受けた。
CTの検査台に上るのは、何回やってもいやな気がする。
この検査が終わったとき、人生がガラッと変わる可能性だってあるのだ。
「息を吸って・・・止めてください」
CTの台がゆっくり移動する。
はじめのスクリーニング撮影が終わったとき、技師長が慌てて撮影室に入ってきた。
なんだろうと思ったら・・・
先生、変な影がいっぱい映っていますよ!!
「え~~~~!」さすがに動揺するのがわかる。
「どんな影なの?」
散弾銃に撃たれたような!
「えっ、何それ?」
「何か貼り付けてます?」
てっきり肺に多発転移が見つかったのかと思ったら・・・・
そういえば、検査の前日、猛烈に肩と背中がこりまくり、ピップエレキバンをそこらじゅうに貼りまくっていたのを思い出した!
うっかり剥がすのを忘れてそのまま検査を開始してしまったようだ。
あわてて全部むしりとって再検査を受けた。
翌日には読影結果が出るはずだったのだが、外来の手違いで、自分のフィルムが読影に回っておらず、
結果がお預けになった。
もちろん、自分でもチェックをして、大きな変化は無いとは思っていたが、やはり気になる。
改めて結果の出るまでの数日は、やはり心穏やかと言うわけには行かなかった。
さいわい結果は「異常なし!
結果のレポートは、通信簿で「オール5」をとるようにうれしい!
この安堵感はやはり格別なものがある。
寿命の目標」にも書いたが、自分はまだまだくたばるわけにはいかないのだ。
6月22日、朝、目を覚ますと隣に寝ている息子がいる。
手術前、同じように隣に寝ていた息子はまだ小学5年生で・・・
今より体の大きさが半分くらいしかなかったようなイメージがある。
手術前の不安もあり、寝ている息子を抱きしめたことを思い出したが、
今はとてもそんな半端な大きさじゃない!身長だってその違いは10センチをきってしまったし、足の大きさも変わらなくなってしまった!
それだけ時間が流れたことを感じる。
当たり前のように始まる何気ない1日の大切さを、この日は改めて感じる。
(平成20年6月22日)




寿命の目標

5月19日は父親の命日だった。
川崎の津田山というところに墓があり、今年も墓参りに出かけた。
父親が死んだのは昭和45年、自分が高校2年の時だった。
はじめに手術をしたのは自分が小学生の頃で、その後も長い間体調が悪く、母親はたいへんだったと思う。
毎年、この時期には自分もいろいろと検査を受けることにしている。
自分の病気が比較的早い時期に見つかったのは、今でも父親がCTの伝票にチェックをつけさせたからだと信じている。
5月にはいってから胃内視鏡、注腸造影、血液、尿検査、心電図などを受けた。
幸い、異常所見は無く、血液などは、数年ぶりにコレステロールも中性脂肪も正常値で、絶好調だった!
今年に入ってから体重が増えすぎ、一時は79.9キロになり、80キロの大台突破かと危ぶまれたが、
夜の食事量を減らし、昼も米の量を少なくよそってもらい、以前にも書いた「振動マシン」に乗りまくり、
77.7キロが続いた。
7のぞろ目で、縁起もいいので、もうこのままでもいいか・・・と思ったが、もともと75キロ台だったので、
さらにがんばった結果、最近は76キロ代前半をキープするようになった。
あとはCT検査を残すのみだ。
この6月で、手術後4年になる。さいわい今のところ再発や転移は無いようだが、
CTの結果を見るまでは毎年のことながら落ち着かない。
癌からの「サバイバー」と、自信を持って言えるのはいつのことなのか。
自分の寿命がいつまでなのかなどは、もちろん誰にもわからないが、
自分にはどうしてもクリアしたい3つの目標がある。
一つは、自分の父親より長生きすることだ。
父親が死んだ時は56歳、子供も小さく(妹はまだ小学生だった)、さぞかし無念だったと思うが、
自分は来年の1月で56歳、何とかクリアできるか・・・
二つ目は息子が、自分が父親をなくした年より大きくなるまで生きること。
今、息子は中学3年だ。高校3年、あと3年でクリアだ。
最期は、自分の母親より先に死なないこと。
母親は一人で自分と妹を育ててきた。父親が死んだ時、母はまだ42歳だったと思う。
ずいぶん苦労をかけたので、自分の子供を先に看取るなどの親不孝は何としても避けなければならない。
このことは自分が手術をしてから、ず~っと考えてきた。
いわば、寿命の目標だ!
もちろん母親には、いつまでも元気でいてもらいたいので、自分もまだまだがんばらなくてはならない。
来週にでもCTを撮ることにしようか・・・それとも手術日にあわせて検査をするか・・・
今年の6月22日、また昨年とは少し違った感覚で迎えるのだろうか・・・
この時期は、いつも「」を意識する。
(平成20年5月30日)

まるこちゃん・・ごめん!

今、我が家のトイレではロールペーパーには「ちびまるこ」の絵がかいてある。
はっきり言って、非常に使いづらい。
スーパーに行ったとき、大特価だったらしく、まだまだたくさん残っている。
クレヨンしんちゃん」のものもあったようだが、長考の末に「ちびまるこ」に決まったらしい。
ロールには、他にもたまちゃんやら、お姉ちゃんやら、ともぞうやら、多くの登場人物が描いてある。
みんなにっこり笑っているし、中には「手を洗ってね」だとか、「清潔にしてね」、「やあ、元気かい?」
「ずばり、きれい好きでしょう!」など・・・せりふまで入っている。
そんなこと言われたってね
・・・
使うたびに、ものすごく罪深い感じがしてしまい、なるべく絵を見ないようにして使う。
だいたい、トイレットペーパーにキャラクターを描くこと自体、神経がわからん!
やはり、無地が一番!躊躇することなく使えるじゃないか・・・
これが白雪姫や、アルプスの少女ハイジだったり、パトラッシュだったらどうよ!
とってもつかえたものじゃないと思う。
と言ってしまうと、まるこちゃんに失礼かもしれないが・・・
いつも心の中で「まるこちゃん・・・ごめん!」と、あやまりながら使っている。
早く使い切ってしまいたい・・
・(平成20年5月9日)



続:ウボイコール
高良健司とそのグループ

けっこう前に書いた大学の時に入っていたサークルの話しの続きだが・・・
先日、突然手紙が届いた。
ウボイコールの後輩からで、たまたまこのホームページを見てくれたらしく、病院宛に手紙を送ってくれた。
今は学校の養護の先生をしているらしいが、その学校に校医として就任したのが、
大学の1年先輩で、深谷日赤で1年間一緒に働いたことのあるS先生とのことで、世の中は本当に狭いと思った。
それはともかく・・・
学生運動のサークルから脱皮し、いわゆるバンドを組んで歌いだしたが、
ほとんどはその頃ブームになっていた、フォークグループのコピーだった。
五つの赤い風船、赤い鳥、アリス、南こうせつとかぐや姫、井上陽水、猫、吉田たくろう・・・などなど
しばらくすると、「コンサートでもやりたいな!
などと大それたことを言い出す奴がいて(私ではない・・)初めてのコンサートを千葉のセントラルプラザで開いた。
セントラルプラザは最近壊されて高層マンションが建設されることになったが、
当時は大ホールと小ホールがあったのだが、何をとち狂ったのか、大ホールを予約した。
大ホールの収用人員は1000人くらいだったと思う。
照明設備もむちゃくちゃ立派だったが、何せ楽器と言えばアコースティックギターとウッドベース、ドラムにピアノだけで
観客なんて部員の親兄弟と、同級生くらいで、せいぜい数十人・・空前の空席だらけだったことを覚えている。
設備の職員の人から、「小ホールでじゅうぶんでしたね~」と言われた。
それでも懲りずに、今度は「コンテストに出よう!
などと言う奴がいて(私ではない・・)
第1回山野ディスクコンテストに出演することになり、
コンテストなんだから、やっぱり曲はオリジナルがいいだろう・・ということになった。
その頃はシンガーソングライターなどがかっこいい!などと思っていたので、
自分でも作詞作曲をはじめて、何曲か作っていた。
今でもちゃんと覚えているものもあるが・・・
歌詞を娘に聞かせたりすると、「鳥肌が立つ!」とか言われるし、自分がいま見なおしても、
やっぱり若かったな・・・と思ってしまう。
確か、初めて書いた曲は「希望という名の若者」だったと思う。
「嵐の夜にやって来るのよ、そうよ、あなたのそばにやって来るのよ・・・・・・・・
あなたの前で微笑みかけて、いつも優しく守ってくれる、それは希望という名の若者なのよ
どんな嵐にだって負けないの」
とかいう非常にポジティブな?歌詞の歌で、今でも歌えるところが恐ろしい!
そんなわけで、コンテストも自分が作った曲で出場することになった。
題が思いつかないのでとりあえず「無題」とつける適当さでエントリーした。
バンド名もしゃれた名前が思いつかず、代表者の名前だけ書いたので、
高良健司とそのグループ」などという演歌歌手のようなグループ名になってしまった。
山野ディスクコンサートは当時、銀座の山野楽器が新人発掘の目的で開くことになったコンサートで、
千葉から楽器を抱え、花の都「銀座」に遠征した。
「悲しみだけで満ちた、人生ならばひとり、涙の海に深くおぼれてしまう・・・・」
など、けっこうネガティブな歌詞の曲だ。
プロを目指しているのであろう人たちも何人か来ており、それはうまかった。
そんな人たちの中には、それなりのステージ衣装のような格好で歌う人がいるってえのに、
こっちはそろいの黄色いTシャツ汚いジーパン、さらにTシャツにはマジックであだ名を書いている、という
最悪のファッションだった。
楽器だって、ぼろぼろで、ウッドベースに至っては、傷を隠すために真っ白なペンキを塗りたくってあった。
他のグループのメンバーが、ウッドベースの調子が悪かったらしく、
「ちょっと使わせてくれませんか?」と言ってきたが、
自分たちのあまりにひどいベースを見て、「やっぱ、いいです」と、速攻で断られたのを鮮明に覚えている。
さて、コンテストの結果は・・・・
何と「審査員特別賞」という、わけのわからない賞をもらい、トロフィーと賞状を手に、意気揚々と千葉に凱旋した。
あのコンテストが、その後何回開かれたかは知らないが、もちろんスカウトはされなかった。
トロフィーはリーダーの高良健司が持っているのか・・・今は手元には無いが、
賞状は押入れのおく深くに眠っているはずだ。(そのうち、つづく?)
(平成20年4月29日)

パパになる日!

いま、子供たちからは「とうさん」と呼ばれている。
ずっと小さかった頃は「お父様と呼びなさい!」などと言っていたが、
残念ながら一度も実現することは無く、ずっと「おとうさん」と呼ばれていたのだが・・・
いつの頃からか「」が取れてしまった。
自分が小さい時は、恥ずかしながら自分の親のことは「ママ」「パパ」と呼んでいたが(もちろん今は違う)、
なぜか自分の子供には「パパ」と、呼ばせないようにしようと思った。
まあ息子から「とうさん」と呼ばれるようになった頃には娘は「ねえちゃん」と呼ばれていたので、まだ許せるか・・・
話は変わるが・・・
以前から時々バーゲンに連れて行かれる。
横浜アリーナで行われる、かなり大きな規模のもので、年に数回ある。
以前は妻と二人で行っていたのだが、最近は娘が着いてくるようになった。
先日も3人で出かけた。息子はと言えば、全くバーゲンには興味が無く、留守番役に徹している。
入り口のところで集合時間を決めて、ばらばらになるのだが・・・
自分は服だって、サイズがあまりないし、靴は足が大きすぎて入らないので、時間をつぶすのがたいへんだ。
毎回3足1000円で28センチまで入る靴下を買うか、ネクタイを探すくらいだ。
このまえ、1本1000円のネクタイで、けっこういいな・・・と思うものがあったが・・・
選ぼうとしたら、自分より少し年配の夫婦が同じところにやってきた。
奥さんが、「あんた、これ、いいんじゃない?」と、自分では絶対選ばないような、どう考えても「いけてない」ネクタイを選んだのだが・・・
「なんだよ、1本1000円なんて、そんな安っぽいもん、みっともなくてつけられるかよ!」といいながら去っていった!
え~~、安っぽくてみっともない~?
そこまでいわれちゃうとなあ・・・さすがに目の前で「これください」とも言えず・・・
しばらく近くをうろうろしてから、こそこそもどってきて、あらためて2本も買ってしまった!
その日の買い物はネクタイ2本と靴下3足、しめて3000円!
翌日、さっそくその1000円のネクタイをつけていったが、ピンクなので「春らしくていいですね・・・」と二人くらいから言われた。
ほらみろ!1000円だっていいじゃんか!
それはともかく、集合時間近くに携帯がなった。娘からだ。
「ちょっと来てほしいんだけど・・・」とのこと。
いや~な予感がする。
呼びつけられたのは、かばんと靴のコーナーだった。いやな予感はますます高まる!
「ねえ、とうさん、これどう思う?」と、靴とかばんを持っている。
どう思う?って言われたってねえ・・・「いいんじゃない?」としか言いようが無いが・・・
そんなヒールが高くて魔法使いみたいにとんがった靴なんて・・・巻き爪になるぞ!と言いたくなる。
「今月、もうお小遣いが無いんですけど・・・」
「そんなの知るかよ!母さんに買ってもらえばいいだろ!」
妻はといえば、娘の後ろで無言で激しく首を横に振り続けている。
だ~か~ら、バーゲンなんていやなんだよ!
「ねえ、お願い
パパ!
パパだあ~!?
ふざけんなよ、何でこんなときだけパパなんだよ!と言いながらも、ついつい財布を探す自分が情けない。
おそるおそる値札を見ると、え~~!何でこれがバーゲンの値段なんだよ!と思うくらいの値段だ。
こんな靴1足とバッグで自分が買ったネクタイ20本くらい、靴下だったら60足以上も買えるじゃないか!
せっかく合計3000円の安い買い物をした!とのお得な気分もいっぺんに吹っ飛んだ!
まったく、パパなんて呼ばれるのはたくさんだ!
もう絶対娘をつれてバーゲンなんかに行くもんか!と、硬く誓った。
(平成20年4月13日)



鬼になる日!

診療報酬改訂の実施期日もせまってきた。
最近、同じようなことを何回も書いたが、今回の改訂で平和病院の1病棟は入院適応患者さんの適応が制限されたが、
今後、現状のまま1病棟を維持するのか、他の病床に転換するのか、
まだ最終的な結論を出せずにいる。
どの種類の病床に転換するにしても、現状維持にしても、それぞれの障害がある。
厄介なことに、病床の種類によって、病院に残れる患者さんと残れない患者さんが若干変わってしまう。
一般急性期の病床か、今のままの障害者病床か、以前のように医療療養病床に戻るか・・・
いろいろな要素が絡み合い、頭の中がごちゃごちゃになってくる。
最近は毎日そのことばかり考えてしまうが、あいにくとそればかり関わっているわけにもいかない。
まあ、院長なんだから当たり前のことだが、最終的には自分で判断し、病院の舵取りを行わなくてはならない。
もし方向性を誤れば、病床運営は困難になり、病院の経営状態は急速に悪化する。
責任は重い!
ただ、どのような病床になっても、今回の改訂で、入院適応外とされる脳卒中後遺症の患者さん、認知症の患者さんで
意識状態の悪くない場合、また、積極的な医療を行っていない患者さんは、少なくとも「病院」にはいられない。
調査の結果、1病棟では20人近くもの患者さんが該当してしまう。
3月31日(月)には、1病棟入院中の患者さんのご家族に対し、診療報酬改訂の説明会を開催することになっている。
資料作りもほぼ終わったが・・・
平和病院からどうしても退院していただく患者さんがいることを伝えなければならない。
あからさまに「出てください!」は言わないにしても、(とても言えるセリフでもない)、他の介護施設を早急に探していただくか、
在宅サービスを利用しながら、ご自宅で生活していただかなければならないことを理解していただく必要がある。
病院としては、国の方針に従うまでだ・・・といえばその通りなのだが・・・
実際に伝える身になれば、あまりいい気持ちはしない。でも、言わなければ事態は一向に進まず、病院は路頭に迷う!
胃がキリキリと痛んでくるが、月曜日は、鬼になってご家族に伝えなければならない。
おそらく、その後は「うちの家族は大丈夫でしょうか・・・」とパニック状態になった方々に、個別の対応をしていく作業に追われるだろう!
転出先を探す援助も膨大な作業になる。
桜の花も満開になり、春を感じて心軽くなる季節のはずなのに、
何でこんなにどんよりとした気分にならなくてはいけないのか・・・と、恨めしく感じてはいても、
頭の中では、最近少し萎縮してきた脳味噌を猛烈に回転させ、今後の病床のことを一刻も早く決定しなくてはならない。
春なのに、春は遠い。
(平成20年3月28日)

医師会のCM

いま、医師会のテレビCMが話題になっているらしい。
そのキャッチコピーが、今の高齢者医療、介護の問題を一言で端的に、明確に表していて、
視覚的にもわかりやすく出来ているらしい。
残念ながら、自分は実際にまだ見ていないが、車椅子に乗った患者さんが病院から退院していく映像が流れ、
退院するのにうれしくない」といったような内容らしい。
このまえ「
ねらいうち」という題で、今度の診療報酬改定について書いたが、
まさにその問題そのものが訴えられているようだ。
4月からの改訂の内容はほぼ出揃ったが、やはり現在病院に入院している高齢者にとっては、
まさに言葉は悪いが、「追い出し促進」の様相を呈してきた。
現在、「病院に入院」している高齢の患者さん、特に、国が定めた「医療」を受けていない患者さんは、
どうあがいても入院継続は困難になるだろう。
一般の急性期病棟では、在院日数の縛りがあり、よほど重症の治療をしていない限り、いることが出来ない。
障害者施設等入院基本料を算定している病床(現在の平和病院の1病棟がこれに相当する)では、
今回の改訂で脳梗塞、脳出血後遺症の患者さんは入院対象からはずされた
医療療養病床では24時間持続で点滴をしていたりしていない患者さんの場合は、
病院が、その経営を維持できないように極端に診療報酬を引き下げた。
資金が際限なくあり、ボランティア精神でこういった患者さんを入院継続させられる体力がないかぎり、
病院はそのままでは患者さんと「心中」せざるを得ない。
寝たきりになって、食事も出来ず、胃瘻や経管栄養にたよる患者さんも「介護施設」「高齢者住宅」「在宅」の対象になる。
ただ、入院している患者さんのご家族には「
危機感」が感じられない!
以前から医療情勢の情報を提供し、在宅復帰や施設への移動をお願いしても、
真剣に動いてくださるご家族は少ない!
このままでもどうにかなるだろう・・・、という根拠の無い安心感でがあるのか、「自宅では人手が無い」、「介護する人間が仕事を持っている」
「家は階段なので帰ってきても危険だ」、「何かあった時に対応できない」、「何とかもう少しおいてやってくださいよ」・・・などなど
確かに事情を聞けばその通りなのだろうが、残念ながら、国はそんな事情はこれっぽっちも考えてくれない!
ご家族の気持ちの根底には、病院が患者さんを無理やり退院させることは無い・・・という考えがあるのだろう。
中には「平和病院に入れば一生いられる」、などと話しているご家族もいる。
確かに、いままでは地元の病院という使命感もあり、多少の経営上の不利益は覚悟で、このような患者さんを受け入れていた。
他の病院では厳密に入院期間を決め、3ヶ月、あるいは半年たったら、何が何でも他の施設に移ってもらうことがほとんどだ。
今となっては厳しくそのようなことを行ってこなかったのが、良かったのか悪かったのか・・・
ただ、はっきり言って
平和病院には一生いられる」という考えは、もはや幻想にすぎない!
ご家族の方は国の方針を理解し、真剣に今後のことを考えていただく時期になっている!
ぜひ、現実を直視していただきたい!

平和病院でも、病状が安定し、医療の必要度が低い患者さんは、
不本意ながら医師会のCMのように、ご自宅か、他の施設に移っていただく
ことになる。
おそらく、どこの病院でも「転院」という形でこのような患者さんを引き受けるところは無いだろう。
もちろん、その前には病院が苦渋の決断をするに至った経緯をご家族に説明する機会を設け、
さしせまった現実の問題として、今後の体制を考えていただかなくてはならないが、残された時間はかぎられている。
MSW、居宅介護支援センターのケアマネージャーなどが、相談に乗り、最大の支援はするが・・・
中には、残念ながらほとんど病院にいらっしゃらず、ひどい場合は入院費も支払わず、連絡が取れない、
来院していただくよう再三お願いしても無視される方もいて、「姥捨て山」のような状況の患者さんもいるのだ。
福祉に相談しても積極的な動きが無い!
しかも「介護保険」対象の3病棟も廃止までに残された期間はどんどん少なくなっている。
厚生労働省は、このような病院からの強制排除のような状況を作るなら、
受け入れ側の介護施設を増やすだけでなく、受け入れの先の制約を強制的に撤廃させるよう指導、体制作りをすることが必要だ。
経管栄養はダメ、胃瘻はダメ・・・など、受け入れ側に制約が多すぎる!
もう3月、病院としての方針はほぼ決まった(というか、そうしないと病院が維持できない)!
これからは患者さん、ご家族への情報提供、個別の面談、在宅復帰や施設移動の支援など、想像を絶する作業が待っている。
もちろん、ご家族にもそれなりの覚悟と負担をお願いしなくてはならない。
こんなことが、高齢者を支えてきた全国の中小病院のあちらこちらで開始されるはずだ。
今は、その前の不気味な静けさの中、何事も無いように寝たきりの患者さん、介護する家族から見放された患者さんが生活している。
1病棟の窓からは、あと1ヶ月少しで満開の桜がみられるだろう。
ただ、患者さんにとっての桜は咲かない・・・
(平成20年2月29日)

疑惑の韓国旅行!?

娘の大学はもうとっくに「春休み」になった!
まだ冬の真っ只中だというのに!
何でも、日本の大学の中で最も休日が多いらしく、これ以上休みが多いと大学としての認可が下りない?らしい。
アルバイトの個別塾の講師も、このシーズンは生徒が受験で、働き口が無いらしい。
(そもそも娘に勉強を習っている受験生がいるというのが驚異だ!、どうしても合格する気がしない・・・)
そんなわけで、暇をもてあまし、友達と韓国旅行を計画したらしく、今日、出かけていった。
昨日は当直だったので、朝帰ってきたときにはもう出かけていたが、
「友達」と出かけるっていたって・・・・
まさか・・ボーイフレンドとの旅行じゃないんだろうな!
「学校で韓国語を一緒に勉強していて、クラブ(クリケット)も一緒の女の子」と行くらしいが、
親としては当然心配はする。
息子が同じように旅行するというなら、別に相手が男だろうが女の子だろうが、かまわないのだが・・・
「おい、友達って、声が太くて、ひげの生えてる友達じゃないんだろうな!」
などと疑り深く聞いてみても、「はあ~~?何言ってんの!」と一蹴される。
わざわざ飛行場まで出かけていくほどの執念は無いので、「ちゃんと写真を撮ってくるんだぞ!一緒にいった友達を入れてな!」
などと、最後のはかない抵抗を試みるものの、臨時の小遣いを渡してしまうのも情けない。
運悪く、先日、最大の観光スポット南大門が全焼してしまったが、
お土産は「ローレックスの腕時計な!」といっても「偽ブランドのね!」と速攻で返される。
成田空港から「着いた」とメールがきたが、添付されてきた写真は成田駅のホームだけだった!
おい! 友達はどうしたんだ!!
(平成20年2月17日)



右大臣・左大臣

昨日、幕張のホテルで大学の研究室の新年会が開かれた。
昔は肝臓研究室(第5件研究室)と呼ばれていたが、今や、胆道・膵臓も扱う肝・胆・膵研究室になり、
大学の外科が臓器別に分かれてからは、教室そのものが肝・胆・膵に特化した講座になっている。
今の宮崎教授が25年くらい前、カナダからの留学から帰ってきたとき、「抗癌剤研究室」から分かれて「肝臓」の研究をしたいと、
私の同級生3人とたった4人で始めたグループが、今や日本を代表する教室にまで育ったのは、
宮崎教授の並外れた努力によるものだと感心するとともに、自分たちが大学で研究してきたことより、
臨床的にも学問的にもはるかに高度なことをこなしている今の研究室の若いスタッフには尊敬の念さえ抱いてしまう。
新年会には大学を離れ、各基幹病院で中心的な役割を果たしているOBも含め、60人近くが集まった。
毎回、教授の次に学年が上(教授の3年後輩になる)という理由で、同級生の大網病院S院長と、教授を挟む形で座らされる。
右大臣、左大臣と呼ばれているようだが・・・・自分は特に何もしていないのに、OB会の会長ということになっているらしい。
その脇には学年順に現役、OBが座っていく。
なんだかやくざの会合のような感じさえする。
出席者の中には平和病院にも出張に来ていた若いDRも大勢いるが、
そんな先生たちが今や、出張先や就職先で難しい手術をこなしている近況報告を聞くにつけ、
時代は変わっていくことをひしひしと感じる。
自分に近い学年からは、管理業務につくことが多くなっているぶん、
厳しい病院運営の事情や愚痴ばかりが聞こえてくる。
教授の席には各病院のOBたちが挨拶に来るが、たいていが、「人員が足りない」「人を派遣してほしい」・・・・など
陳情の場になっていく。大学も人のやりくりがたいへんだ。
最後には、割を食う形で、「高橋!もう、手術症例の少ない病院にはだんだん若いスタッフは派遣できなくなるぞ!
と、教授から脅かされ、やぶ蛇の展開に、思わず「酔わせてしまえ」と、ビールを注ぎまくったが・・・
そりゃあ日赤とか公立病院とか、年間500~600例以上の手術症例数をこなす病院と比べられれば、さすがにかなわない。
確かに若いDRにとっては手術を数多くこなすことは重要だ。
来年度の人事はこの1~2ヶ月で決定になる。
各病院にとっては死活問題でもある。
特に、このままだと4月はに自分以外の外科の派遣医師が総取替えになりそうな平和病院にとって、
これからの人事には目が離せない。
教授や医局長への「陳情」もますます活発になっていくのだろう。
いくら研究室創世記のメンバーといっても優遇されることはない!
(他のメンバーからは、平和病院はえこひいきされているんじゃないの?などと言われるが・・・)
しばらくは、落ち着かない日々が続く。
(平成20年1月13日)

肺の値段

少し前、加入している保険会社から電話があった。
今、大手の生命保険会社の保険金未払い問題がマスコミなどにも大きく取り上げられている。
その未払い金額の合計は、天文学的数字だ!
以前は請求してもいろいろな理由をつけられて払ってもらえなかった、と言うボヤキを患者さんから聞かされることも多かったが・・・
最近は何年も前の診断書を書いてほしいと、保険会社の書類を持ってくる患者さんが多くなっている。
自分にかかってきた電話の内容も、以前手術を受けた時に請求した保険金支払い分を再点検したところ・・・
本来支払われるべき保険金が払われていないことが判明しました!
というものだった。
電話口の声は、いかにも申し訳なさそうな感じだ。
実は、自分が倒れる時は心筋梗塞や脳溢血だろう・・・と、勝手に思っていたので、「がん」に対しての備えは手薄だった。
もっとも、ほとんどの人が保険に加入する時には、自分が病気になったときの実感などないのだろうが・・・
同じくらいの掛け金でも、特約事項の欄の「○」をつける位置ひとつで、
いざ実際に病気になったとき、支払われる保険金の額が何百万も変わる事だってある。
考えてみれば賭けみたいなもんだ!
実際、自分の場合も、「がん」の特約をつけていなかったので
入院日数に応じた保険金と、手術特約でいくらかの支払いを受けたのだが・・・
電話での説明によると、契約内容のなかで、
手術を受けても、臓器によっては手術に対する支払い金額がになるはずだったらしい。
そんなことは詳しい説明書にも書いていなかったし、加入時には説明も受けていない。
保険会社の「調査」で判明したための連絡だったようだ。
「もう少し調べたら、もっと本当はもらえるんじゃないの?」
と言ってみたが、
「いえ、申し訳ありませんがこれ以上は・・・」との返事だった。
おそらくマスコミで大きく取り上げられたりしていなければ、再調査などは行われなかっただろうし、
保険会社にすれば、「請求」がなければ保険金も払わなくて済むのだから、会社の利益は上がる。
院長は「年報制」なので他の職員のように「ボーナス」は無い!
年末に臨時ボーナスをもらったようで、ラッキー!と一瞬は思ったが・・・、
よく考えてみれば、実際はそのときもらえるはずのものなのだし・・・
手術後3年半もたっていたため、「延滞料金」も若干上積みされてはいたが、
逆に、手術を受けた時のことを思い出したし、
もらったお金も、なんだか自分の肺の一部と引き換えにしたような思いがして、正直いい気持ちはしなかった。
今年は「NOVA」といい、「保険金未払い問題」といい、
新聞をにぎわせた話題に直接自分が巻き込まれてしまっていたのには驚いた。
大学病院にいた10年間、身分が「医員」だったり「研究生」だったり、短い時は半年間でころころ変わっていた。
出張時代の深谷日赤と、八日市場市民病院、浦賀病院、平和病院の分は確認できるだろうが・・・
今度は「年金問題」に巻き込まれるかもしれない。
(平成19年12月31日)



魔法の黄色い液

先日、以前亡くなった患者さんのご家族がわざわざご挨拶に来てくださった。
もう90歳を超えて亡くなられた患者さんで、以前私が胃の切除をおこない、その後も肺炎や、脳梗塞などで何回も入院した。
不思議に、私が当直をしたときに具合が悪くなって入院したり、
たまたま入院中の部屋を訪ねていたときに脳梗塞の発作を起こし、
緊急処置をして命を取り留めたりと、ご縁がある患者さんだった。
娘さんが言うには、
「先日、久しぶりに父の夢を見たんです。外科の外来のベットで父が亡くなって横になっているんですが・・・
先生が父の体に黄色い液体をさあーっとふりかけたら、父が急に生き返って・・・
『おい、もう治ったから帰るぞ!』・・・と言って歩き始めたんです。
もう、うれしくて・・・でも、顔の色が土気色なんで、『先生、父の顔色が少し悪いようですけど・・』と言ったら、
先生が、『まあ、一度死んじゃってるんですから、少し顔色が悪いくらいはしょうがないんじゃないでしょうかね!』
と言ったんです」
とのことだった。
まあ、アバウトな答え方が私らしいのかもしれないが・・・
「父は生前いつも、『先生は自分の守護霊だ』っていっていたんですよ。
だから・・・きっと天国でも先生が父の守護霊になってくれているんだなって思いました」
とまでおっしゃってくださったのは良いんだが・・・
守護って言われても・・・まだ生きてんだけどなあ。
しかも天国での守護霊って・・・どんな状態なのか・・などと考え出すと、もうわけがわからない。
いずれにしても、そこまでおっしゃっていただけるのは医者冥利に尽きるのだが・・・
どっちかと言うと、天国に行かれているんだから、私の守護霊になっていただきたいんだが・・・

(19年12月21日)

娘の逆襲

いままでこのホームページで、娘のことをあれこれと書いてきたが、娘は気に入らないらしく、
いつかは「裏院長室」を作って父さんの秘密を公開してやる!・・・などと言っていた。
パソコン音痴なのでそんなことは出来るわけがないと、たかをくくっていたら・・・・
大学でパソコンの授業があるらしく、最近、なんだかパソコンの前に座ってカチャカチャといじることが多くなってきた。
ついに「ホームページの作成」が課題になったらしく、
「家族の紹介」をそれぞれのページに作る作業にとりかかったようだ。
いったいどんなことを書くのか・・・
ついに娘の逆襲が始まるのか・・・
まあ、大学へ提出するものだから、それほどめちゃくちゃなことは書かないだろう・・・
とはいうものの、やはり気になる。
最近ついに完成したとのことで、頼み込んで見せてもらったが・・・・
う~ん・・・こんなの大学の授業の課題で出していいのか?
きっと、単位おとすよね!
とにかく、厳重な検閲の結果、公開はぎりぎり可能と判断したので、このホームページからリンクできるようにしておいた。
入り口はどこか・・・?
探してみてください
ね。(平成19年12月7日)

グリンピース

今更言うのもなんだが・・・
けっこう食べ物の好き嫌いが多い。
セロリ、パセリ、ミツバ、銀杏、山椒、ウニ、長ネギ、ミョウガ、納豆、わさび、にんにく、牡蠣、たらの芽、ふき・・・・
どうしても苦手だ。
病院での昼ごはんは職員食堂で患者さんと同じ常食を食べる。
当直の時は夕食や朝食も病院食だ。
まあ、当直医の好みに合わせて病院食を作るわけではないので、
いくら院長でも、わがまま言うわけには行かない。
自分の好きなメニューばかりではないのは仕方がないのだが、
当直の朝に納豆だったりすると、切ない思いがする。
一番苦手なメニューは豚肉、ピーマン、たけのこ、長ネギの炒め物だ。
ごちゃごちゃに炒めてあり、しかも、長ネギがとても細かく切っているので、
それを全部よけるの、にかなり時間がかかる。
しかも、このメニューの時は必ずわかめと長ネギのスープがついてくる。
おわんの中に、わかめと長ネギが入っていて、後からスープをよそってかけるのだが・・・
長ネギとわかめがけっこうくっついていて、長ネギだけよけることが出来ない。(わかめは大好きなんだが・・・)
箸で取っていたりすると、長ネギが苦手だとばれるので、汁だけをよそってのむ。
そもそも長ネギは、口に入れた瞬間に石鹸のにおいがするのがいやだ!
立ち食い蕎麦なんかを食べる時に、おばさんが最後にネギを入れる直前で、
あっ、ネギ入れないでね!」というのも、周りに人がいるとなぜか言えないことがあるが・・・
ネギも食べられないのかよ!・・・と思われるのもなんとなく悔しいし・・・
それでも、うまくいえた時は、ものすごく幸せな気持ちになる。
だいたいうどんやラーメンのつゆを、最後まで飲むのがすきなのだが、
ねぎが入っていると、邪魔でのめないじゃないか!
それはともかく・・・
先日のこと、メニューはハヤシライスだったのだが、普通はグリンピースが上にいくつか乗っている。
彩が鮮やかになるのだろうが・・・・
実はグリンピースも大っ嫌いだ。
あのぼそぼそとした感触と、青臭いにおいは、どうしても受け付けない。
その日は、外来がかなり遅くまでかかり、他の外科の連中は先に食事を済ませていたので、1人で食事に行った。
皿にご飯をよそって、厨房に「おねがいしま~す」と、声をかけると、ルーをかけてくれる。
いつもはけっこう職員が多いので、「グリンピースはのせないでください!」などとは、恥ずかしくていえないので、
こっそり脇によけるのだが・・・
その日に限ってグリンピースが乗らないまま出てきた。
ラッキー!
院長の嫌いなものを知っていて、グリンピースをかけなかったのか・・?
そうだとしたら、何とすばらしい、細かな気配り!!
機嫌よく食べ始めていたが、栄養課の職員もその時間に食事だったらしく、、
そのうちの1人が、私のハヤシライスにグリンピースが乗っていないのに気付いて・・・
「先生すみませ~ん」と、慌てて駆け寄ってきた。
小さな入れ物には、てんこ盛りのグリンピース
スプーンによそってどっとかけてくれた。
あ~~~~
思わず大きな声が出た。
「あの・・・グリンピース嫌いなんで!」
「えっ、そうなんですか?・・・知りませんでした。すみませ~ん!」
「いやいや、大丈夫。よけて食べるから・・・・」
とは言ったものの・・・
けっこう大きな声だったので、「先生、グリンピースだめなんですかあ~」・・・と、周りの職員に思いっきり笑われた。
よく、食堂でカツ丼を頼んでも、グリンピースが乗ってくることがあるが・・・、何の意味があるのかわけがわかんない!!
院長職権で、グリンピースの購入を禁止しようか・・・などと本気で考えてしまう。
(19年11月16日)



Oh No!

何日か前、英会話のNOVAが会社更生法の申請を行ったとの報道があった。
何を隠そう、自分も2年前からNOVA菊名校に「駅前留学」をしていた。
負債総額は439億円!
全国で900の教室を持ち、生徒数は40万人という。
少し前から、教師への給与不払いとか、経済産業省からの新規契約停止命令などが報道され、
雰囲気が怪しくなっていた。
経営合理化のために教室を閉鎖して集約していくと言う話は聞いていた。
最後の授業では「急に講師の体調が悪くなった・・・」との理由で、テレビ電話での授業になった。
建物は暗くなっており、あやしいな・・・とは思ったが・・・
25日の金曜日にレッスンの予定を入れていたのだが、24日(木)に突然葉書が届いた。
菊名校は25日で閉鎖するので、他の教室に転校してほしい。転校の費用はもらわない・・・という内容だった。
慌てて24日、菊名校に行った。
はじめは、菊名校の閉鎖だけで、ここまでひどい事態になるとは思ってもいなかったので、
とりあえず新横浜校に移ろうと思ったが、
「新横浜校も廃止になると思います。この近くですと綱島校か横浜校になりますが・・・」
ということだ。
そんなに遠くまで行く気もないので、ひとまず解約を申し出た。
解約手数料はNOVAの都合なので払わなくても良いとのことだったが、
菊名校はなくなるので、精算は綱島校で行い、日数は1~2週間かかる。
時期がきたら一度、綱島校に問い合わせてください、との話しだった。
その日の菊名校には、不安になった何人もの生徒が来ており、解約する人や、転校の手続きをする人など、様々だったが・・・
翌日になってみたら、問い合わせる先の綱島校はおろか、全教室が閉鎖になってしまった!
授業料は前払いしてある・・・・
○十万円・・・額も半端じゃないぞ!
生徒が前払いした受講料は255億円にもなるというが、
新聞によれば、
破産法制では受講料の返還に関しては講師や職員の給与や金融機関への融資返済に比べると、
優先順位は低く、大半が返済されないとみられる!

と書いてある。
え~~~~~~~~~!!!!!
返済されないって、泣き寝入りかい!
よく、いろいろな倒産、事業破綻によって被害者になる人たちが、テレビなどに出てきていても
ふ~ん、と言う感じで聞き流していたが・・・
まさか自分自身が騒ぎに巻き込まれ、被害者になるなんて・・・
しかもあの大手のNOVAがつぶれるなんて・・・
ついこの前までテレビで「いっぱい聞けて~~いっぱいしゃべれ~る~」なんてCMもバンバン流れていたのに・・・
こら!NOVAうさぎ!  ふざけんなよ!
Oh No!」と、英語で叫んでみたところで、払い込んだ授業料は帰らず、ローンだけが引かれ続けるという最悪の事態になっている。
(平成19年10月28日)

ウボイコール

今日は娘の大学の大学祭だった。
土曜日の当直は、超多忙で、一睡も出来ずにすごした。
おそらく平和病院で当直をした中で、と言うか、医者になってからの当直の中で昨日が一番忙しかったと思う。
朝には朦朧状態だったが、約束していたので、帰って朝食を食べたらすぐに出かけた。
(休むと眠ってしまいそうだったので)
自分が大学の時は、大学祭は毎年「歌声喫茶」を開いていた。
所属していたサークルは、以前にも何回か名前を出したが、「ウボイコール」という変わった名前だった。
今では完全なバンドサークルになっていて、大学祭でも「歌声喫茶」はもう無くなってしまったが、
サークル自体は脈々と続いているようで、この時期になると毎年OB会の案内が送られてくる。
もう現役の部員とは、年が30年以上も離れているので、さすがに参加はしないが、
自分と同じ世代の部員は何年かに1回、集まっている(残念ながら、今まで参加したことが無い)
ウボイコールの「ウボイ」はチェコ語で「仲間」、「コール」は「歌」の意味で、
「歌う仲間」と言う意味だと、入部した時に教えられた。
大学に入ってすぐ、昼休みに、中庭で「みんな一緒に歌いましょう!」などといいながら、
アコーデオンやギターで伴奏しながら、ガリ版刷りの薄い歌集を配っている連中がいた。
まだ友達も無く、暇だったので、歌うでもなく、なんとなく見ていた。
けっこう楽しそうだったし、特に運動をやっていたわけではないので、なんとなく部室をのぞきに行ったのが運のつき、
どんな活動なのか、たいして知らないうちに、なんとなく入部することになってしまった。
ウボイコールでは昔からの伝統で、部員は全員あだ名がつけられ、それで呼び合っていた。
結局、1年生は医学部から3人、自分(チビ)、M'(船橋で開業)、ガン君(今は大学の脳外の准教授になっている)、
園芸学部から2人(ツルオイドン)、工学部から2人(ハックカイ太)、教育学部から2人(コロロン)の9人が入部した。
あだ名の由来は今ではもう覚えていないが、自分の場合は背が高いので逆にチビになった。
入部してしばらくたってから、あのサークルは「民青」の出先で、歌で仲間を「オルグ」していると聞かされた。
当時は学生運動などがまだ行われていて、政治的な色合いの強いサークルだと思われていたようだ。
高校の時も学生運動で、授業はほとんどボイコットされ、嫌気がさしてしばらく学校をサボり、
目黒のボーリング場などに通っていた時もあった。今から考えると、よく補導されなかったもんだ!
それはともかく、入部してからは、実際「歌う会」などにかりだされたが、歌う歌はロシア民謡、労働者の歌や反戦歌なども多かった。
新歓合宿は千葉の岩井海岸の民宿で、全体の合唱やら、恵比寿太鼓やら、女の子たちは花笠音頭の練習やらがあり、
何のサークルだかわけがわからなかった。男たちはソーラン節の踊りを覚えなければならず、
この踊りは不思議なもので、今でも覚えており、少し前に病院の宴会で踊ってしまい、ひどく酔っ払った。
いつだったか詳しくは覚えていないが、部室が火事で全焼したのもその頃だった。
夏合宿は長野県の白馬村に行き、公民館を借りて「発表会」みたいなものをやり、
宣伝に、ガリ版刷りのチラシをもって一軒一軒民家を回り、「夕方公民館に来てくださ~い」など、呼びかけた。
こんなの見に来てくれるんかい・・とも思ったが、けっこう野菜などの差し入れを持って集まってくれたのには感激したのを覚えている。
はじめはそんな感じでけっこう楽しかったが、
そのうち雰囲気が変わってきた。
自分たちの学年は、政治のことなどほとんど興味も無かったが、先輩たちの中にはけっこう過激な人もいて、
当時は「ベトナム戦争反対」のため、部活の時間を使い、「ベトナムにハーモニカを送ろう!」などの話しを延々とするようになり、
歌はほとんど歌わなくなってしまった。
同じ学年の仲間は、「こんなのおかしいんじゃないの!?」
「自分たちはベトナム反戦のためにこのサークルに入ったんじゃない!」と反旗を翻し、分裂状態になっていった。
その頃は「南こうせつとかぐや姫」「井上陽水」「アリス」「赤い鳥」など、日本のフォークソングブームの走りで、
自分たちの学年と、一部の先輩が、政治的な活動は無視して、今で言う「バンド」を組んで歌を歌いだした。
今の「ウボイコール」でバンド活動を思い切り楽しんでいる後輩たちは、自分たちのサークルの前身が政治色の強いものだったことや、
何十年も前、先輩がほぼ1年近く歌を歌えず、ぶち切れてたあげく、

純粋な「バンドを組んで歌う」サークルにしたことなど知らないと思う。(そのうち、つづく)
  19年10月21日



考えることは・・・

このホームページの77777番目を開いたのは誰だったんだろう?
最近では、だいたい1日の訪問者の数は決まっていたので、77777人目がいつごろになるのか、予想は出来た。
実はこっそり自分で開けてしまおうとも思っていたのだが・・・
予想よりず~っと早く開かれていた!
きっと、自分と同じことを考える人も何人かいたのかもしれない。
自分だったら、もし77776番目を開いたら、きっと、あと1回は続けてクリックしちゃうよなあ・・・
そんなわけで、77777番目前後のヒット数は、稲垣吾郎のときほどではないにしても、明らかな有意差があった。
いずれにしても、
ぞろ目はやっぱりラッキー!という感じだったんだろうな~(19年10月14日)

「あのね、父さん・・彼が出来たの!」

ある晩、娘が何ともいえないような,うれしそうな顔で言った。
まあ、大学生になったのだから、彼が出来るのは不思議なことではないし、
30年も前の自分の周りの状況を思い返しても、下宿で半同棲みたいな連中もけっこういたので、
自然なことではあるのだろうが・・・・・
ど、ドンナやつなんだ?、年は?、名前は?、どこで知り合ったんだ?、どこでデートするんだ?・・・
などと、矢継ぎ早の質問でも連発したいところだが、
取り乱しても仕方が無い。
別に、結婚します、というわけでもなく、赤ちゃんが・・・というのでもないので
そうか・・・そりゃおめでとう!
と、ものすごくさりげなく答えた(つもりだが)・・・
「まあ、節度のある付き合いをしなさい」
とは言ったものの、昔の自分のことはすっかり高い棚の上に上げてしまう。
自分が女の子と初めてデートしたのはいつのことだったか・・・などと考えると
なんと37年も前になるのだから恐ろしい。
確か「スクリーン」という、今もある映画雑誌の「文通コーナー」みたいなもので、知り合った子だったと思うが、
そもそも「文通」なんてものは、今では死語になりつつあるが、
文通」の場合、写真を同封しない限りは今のメールと違い、画像も送れないので、どんな感じの子なのかは想像するしかない。
だいたい自分の都合の良いようにしか想像しないので、
相手の女の子はどんどん美化され、ものすごくかわいい子にイメージが作り上げられていく。
何回かの手紙のやり取りの後、ある日、実際に待ち合わせて、映画に一緒に行こうということになり、初めてのご対面だ!
待ち合わせ場所はなんと「有楽町の改札口
「あなたと私の合言葉・・・有楽町で会いましょう・・」という、歌の文句にぴったりだ。
ワクワクしながら出かけていったが、残念ながら、さすがに自分の中で極限の美女まで膨れ上がったイメージには若干届かかったが、
それなりにかわいい子であった(と思う)
映画はジャンポールベルモンドとカトリーヌドヌーブが出ていた恋愛映画だったと思うが、題名は忘れてしまった。
その頃は近視で、めがねをかけないと字幕が読めなかったのだが、
女の子の前でめがねをかけるのがためらわれて、そのままにしていた。
フランス映画なのでストーリーが全くわからず、映画が終わってからの話しが、ぜんぜん盛り上がらなかった。
その後のデートが「日比谷公園」なんだから、健全だよな~。
余談だが、その子が今勤めている病院のすぐそばにある聖Y学園の生徒だったので、
人生、わからないもんだ。
そのころ、彼女が通っている学校の、すぐそばの病院に自分が何十年か後に勤務するなんてことは、
もちろん想像すら出来ないんだから。
そんな自分自身のことをちょっと思い出したが、現実に戻ってみると、今はそれどころではない!
娘の話を聞いた妻も、「あなたがちゃんとしていなければ、お母さんとお父さんは、彼のことを悪く思うってしまうということを覚えておいてね!」
「自分の娘は、やっぱりかわいいと思うんだから、たとえあなたのほうがいい加減なことをしたって、彼が悪くなくたって、
私たちは彼のほうを悪く思ってしまうんだからね・・・それがいやなら、あなたがちゃんとしていてね」
なるほど、、母親は父親より冷静なのか・・・
「最初の彼の印象は大切よ。お母さんだって、実家で、お父さんの最初の印象が悪くて大変だったんだから・・・」って・・
え~~~そんなの今、初めて聞いたよ!
25年ぶりに明かされる事実!
思わぬ展開に動揺したが、
何でも、妻の実家に初めて電話をかけたときに、まず自分の名前を名乗らなかったそうで、
妻のお父さんが、「なんて常識の無いやつだ!」と、かんかんに怒ったとのことだったが・・・
そんなことはぜんぜん覚えていないし、今まで一度も聞かされてもいなかったので、驚いた。
まあ確かに、今、逆の立場で夜に電話がかかってきて、相手が名乗らず、娘を「○○さんいますか?」と、
呼び出すように突然言われたら・・・
誰だ、お前は!」くらいのことは口走るかもしれない。
もっとも、今は携帯電話の時代だから、そんなケースはまず無いだろうが・・・
娘の性格上、思い込むと突っ走る可能性もあるので、気が気じゃないが、まさかデートに付き添うわけにも行かず、
初めてのデートは八景島シーパラダイスだというので
水族館の水の中で見張ってるぞ!」とか、「着ぐるみに出会ったら、お父さんが中に入ってるかもしれないからな!
などと、わけのわからないことを口走ってしまうのが情けない。
ちょっと前までは子供だったのになあ・・・
なんて、少し寂しいような気もするが、
そんなことをいってたら、将来、「結婚したい」なんて言われたら、どうなっちゃうのかわかんないよなあ。
今は、相手がまともな奴なのを祈るしかないのか・・・!?
(平成19年10月5日)



どうして雨が降るのかね!

22日は当直を交代してもらい、23日は久しぶりにゴルフの予定をいれていた。
毎年2回ほど、近くの診療所の先生と一緒に出かけるのだが・・・
けっこう天候に恵まれないことが多い。
22日は仕事が終わるとすぐに退社し、宇都宮に泊まり、「存じやす」というステーキハウスで食事した。
この店は雑誌にも紹介され、以前にも行ったことがあるが、
少し前に新築移転して、以前の雰囲気とはすっかり替わり、メニューもふえ、
ワインも多くおくようになっていた。
横浜を出る前の天気予報では,23日の夜から天候が悪くなるとのことだったが、
日中は大丈夫ということだったので、一瞬合羽を手にしたが、結局、雨具は持ってこなかった。
ところが・・・
食事をして店から外に出てきたら、雨が降っているじゃないか!
いやな予感がしたが、23日の朝、起きてみると、本格的な雨になっていた。
若い頃は「ゴルフは格闘技だ!」などと言って、どんな天気でも気にしなかった。
台風の日に出かけ、暴風雨の中ラウンドし、
(そのときは猛烈な追い風に乗ってロングホールを2オンし、生まれて初めてイーグルをだした!)
帰りに電車が止まって帰れなくなったこともあったが・・・
最近はちょっと雨が降ると、年をとったせいなのか、すっかり気持ちが萎えてしまう。
しかも今回は雨具も無く、スイングは早くなるし、スコアはめちゃくちゃになるし・・・
どしゃ降りだったこともあり、さすがにパンツまでびしょぬれになってしまったので、
午前中だけでギブアップし、午後のプレイは泣く泣くキャンセルして帰ってきた。
宇都宮は(日光カントリーでプレイしたが)餃子ジャズカクテルの町というので、
土産は宇都宮餃子にして帰ってきたが、東京に近くなったら雨の気配は無く、なんと青空が出てきた!
横浜では全く雨が降らなかったようだ・・・
大学にいた頃は、年に10回くらいラウンドしていたこともあったが、
今は忙しくなって、年に2回開催される大学の医局のコンペや、元の教授が主催される「奥井杯」にも参加できなくなった。
テレビ父さんにも書いたが、毎年夏に八日市場の仲間と一緒に行くのと、
今回、一緒に行った先生と出かけるだけになっており、年に3回程度しか行かないので・・・
出かける前は、遠足の前の子供のように、けっこうワクワクするのだが・・・
何でそんな時に限って雨なんか降るかね
!!
来週からの年内の土曜日は、名古屋や大坂への出張やら、6回の当直が続き、
二日だけしか家に帰れない予定になっている。
当直している時は、雨だろうが風だろうが、かまわないのだが・・・
せめて、たま~のゴルフの時くらい、天気にしてくれても良いじゃないかとも思ったが、
なにせ相手が自然現象なので、こればかりは恨みようも無い。
なんだか今日は中途半端で、リフレッシュ効果も今ひとつのような感じがするけれど、
仕事は待ったなしだからな
・・・(19年9月23日)


このサポーターは何よ?

鶴見区医師会では、福祉保健センター(昔の保健所)で行われる予防接種業務などに協力している。
平和病院の医師も医師会に所属している以上、協力をしなければならない。
よく頼まれるのが「ポリオ」と「BCG」なのだが・・・
通常、このような予防接種は小児科の専門の先生方が主になってもらえると良いと思うのだが・・・
皆さん開業をしており、自分の診療時間を犠牲しなくてはならないので、
あまり特定の先生に集中させるわけにはいかない(小児科の先生はそんなに多くない)。
このため、じゅうたん爆撃のように、医師会に所属する全ての先生に順番がまわってくるため、
どんな診療科であろうと出かけていかなくてはならない。
病院は、病院単位で回ってくるので、誰か一人が参加すれば良いことになっている。
今回は、BCGの接種業務での協力要請だったのだが、
そもそも小児科の医師以外でBCGの接種など、あまり経験するものではない。
しかも平和病院には小児科が無い!
院内の内科医師に頼んでみたが、誰も引き受けてくれない。
「慣れていない注射など、医療事故のもとになる」
「この訴訟時代に、何かあって訴えられたら誰が責任を取るんですか!」
確かにもっともな話しではあり・・・
福祉保健センターに事情を話し、お断りしようと思ったが・・・
「誰かが断ると協力体制が維持できません!ぜひお願いします」
「接種は未経験の先生方も多く、簡単なので大丈夫です。事前の講習もありますし、ビデオも用意してあります」
「万が一のことがあっても、責任は先生にあるのではなく、行政が責任を負いますので心配ありません!」
といわれると、「やっぱり、万が一のこともあるんかい!」・・・とは思ったものの、やはり断れない雰囲気が猛烈に伝わってくる。
誰も行ってくれないということは・・・・やはり結局自分が行く羽目になった。院長なんてそんなもんだ。
自分だってBCGなんて、そんなに経験があるわけじゃない。
しかも当日は火曜日で自分の外来担当日だ。業務に協力している間は代診を立てなくてはならず、
患者さんにも迷惑がかかるのだが・・・
と、言っても始まらず、気が進まないまま、暑い中、重い足取りで出かけていった。
着くと、30分も前だというのに、もうすでに赤ちゃんを抱えたお母さんたちがぞろぞろと待合室に詰めかけている。
接種室に入ると、たくさんの保健師さんたちが待機している。
「ごくろうさまで~す」と、一斉に声がかかる。
「あのお、BCGってあんまり自信ないんですけど・・・」実際そうなんだから仕方が無い。
「大丈夫ですよ、初めての先生もたくさんいますし、念のためビデオ見てくださいね」
と、いきなりビデオのスイッチを入れる。
ビデオでは赤ちゃんの手の持ち方や注射のしかたなど、細かく、わかりやすく説明している。
確かにぜんぜん簡単だ。
保健師さんが消毒した腕に薬液をたらしてくれるので、それをシャチハタみたいな形の道具でならし、
その後で、それこそ「はんこ」を押すようにして2回押し付ける。
最後に、周りの薬液を針穴の上に塗っておしまいだ!
自分の娘の腕にもBCGの跡があるが、接種後、けっこう化膿したりして大変だったことを思い出した。
今は、昔と違い、肩の筋肉の部分はなるべく避け、肩と腕の中間に接種するのが良いようだが、けっこう「はんこの部分がでかい!
「なれない先生は、よくキャップをはずさないままで押し付けている人がいるので、注意してくださいね!」
など、念を押され、いよいよ接種業務がはじまった。
ふと気がつくと、テーブルの上に、親指から手首までのサポーターがおいてある。
「これ、何に使うの?」と聞くと・・・
「最近、何人も接種しているうちに腱鞘炎になってしまう先生もいて、用意してあるんですよ」とのことだった。
え~~!注射で腱鞘炎になんてなるわけ無いだろ!と思い、無視してそのままはじめた。
ふと見ると、接種待ちの長蛇の列が出来ている!
だれだ、少子化なんて言ってるやつは!
赤ちゃんがこんなにいるじゃないか・・・と叫びたくなるような人数だ!
最初のうちは赤ちゃんをあやしながら接種していたのだが、あまりに多くてだんだん余裕がなくなってきた。
その日は接種業務はセンター長を含め3人でやることになっていたが・・・
あとからあとから・・・途切れることが無い!
赤ちゃんの腕も、太いものから細いものまで・・・太った赤ちゃんは肉まんみたいで、ぐいぐいと押し付けないと針が届かないし・・・
やせた赤ちゃんは腕を握ると、接種する場所がなくなってしまうほどだ。
50人くらい接種が終わって、気がつくとなんだか親指の付け根が痛くなってきた。
みると・・・紫色になってるじゃないか!おいおい、内出血してるよ。
慌ててサポーターをつけることになってしまった。しまった!最初からつけてりゃ良かったよ。
その後も列は途切れず・・・80人くらい接種した。
接種していた時間は1時間半くらいだったが、なれない業務と、暑さと、赤ちゃんの多さと泣き声、お母さんたちの熱気に圧倒され、
めちゃくちゃ疲れた。小児科の先生は偉大だとつくづく思った。
単純な作業なので、うまい下手は無いのかもしれないが、隣で接種していた先生は明らかに自分より慣れていたので、
自分に回ってきた赤ちゃんには、ほんの少し申し訳ない気がして、接種の場所にものすごく気を使った。
自宅に帰って家族に接種の話しをしたが・・・子供たちの腕には今でもはっきりBCGの跡が残っている。
その日に接種した赤ちゃんは、これからずっと大きくなって、BCGの注射の日のことなんて忘れてしまうんだろうが
自分が死んでこの世から消えても、自分が接種したBCGの跡が消えずに残っていることを思うと
なんだかちょっと不思議な感じがした。
よく日、カルテを書いていても、なんだかおかしい。指がよく動かないし、動かすと痛い・・・
え・・・これって腱鞘炎
本当になっちゃったよ!腱鞘炎。
BCG接種、あなどれず!
(19年9月2日)


脳味噌からっぽ!?

最近はメタボリックシンドロームなどの言葉がそこらじゅうで聞かれるようになり、
健康ブームは一段と加熱している。
自分も少し前までは、朝早く起きて新横浜の鶴見川沿いをウォーキングしていたが、
同じように歩いている人の数はかなり多かった。(最近はサボリ気味だ)
歩くのが面倒な人のため、最近注目されているのが「振動マシン」で、台が高速で振動するだけの単純なもののはずなのに、
10分間乗れば10000歩の効果がある!とのことで、
いろいろなスポーツクラブや温泉施設などにも設置され、
菊名の駅前の狭いスペースに設置された店には、500円で10分間という、手ごろな料金設定もあり、
中年太りが気になる近所のおじさんやおばさんたちが、列を作っているようだ。
最近は運動不足で、座っている時間が多く、何とかしなくてはいけないと思っていたところ・・・
チラシ広告で、「自宅で手軽にボディーメイク!」の文字を見つけた。
振動マシンのやや小型版で、やはり10分間で10000歩!の効果があるという。
値段も、本格的なマシンは何十万円もするのに比べ、
500円で1回乗ることを思えば70回くらいの値段で買えてしまう。
スポーツクラブにいくと思えば、かえって安上がりだし・・・
今の時期、中国製というのが、少し気になるが、よく読んでみると・・・
手軽にお望みの場所をシェイプアップ!と、そそられる文句のオンパレードだ。
ついつい、インターネットで購入のボタンをクリックしてしまった!
何日か後、大きな箱が届き、組み立ててみると、確かに、振動マシンが登場する。
さっそく乗ってみたが・・・効いているのか、いないのか・・・
さすがにそんなにすぐには効果は出ないだろうから、買った以上は元を取らなければと、時間を惜しんで乗っている。
近頃すぐ腰が痛くなるので、背筋を鍛えたいのと、浮き袋をはめたような状態になってきた胴回りの脂肪を落としたい!
何しろ以前は84センチのウェストは、今では90センチを突破し、メタボの資格は十分だ。
見かけはそれほどには見えないらしいが「脱ぎ太り」する。
何とか、せめて数センチ・・・との期待は大きい。
話は変わるが、最近結婚式の引き出物も多様化し、昔はカップとかグラスとかが定番だったが、
自分で好きなものを選べるギフトなども出てきた。
先日招かれた式の引き出物もこのタイプだったので、悩んだ挙句、体重計を選んだ。
ただの体重だけを量るのではなく、体内脂肪率や、筋肉量、代謝量、肉体年齢、カルシウム量、なども出てくる優れものだ。
4人分まで登録でき、前回測定値も表示できるので、変化も一目瞭然だ。
送られてきたので、さっそく自分の身長、年齢をインプットし、測定する。
振動マシンの効果はいかに!
体重は76キロ、体内脂肪率は19%・・・けっこういけてるじゃないか!
肉体年齢は・・・・なんと30歳!!
何を基準にしているかはよくわからないが、単純に20歳以上も若く出るのは悪いことじゃない!
そうか~~、自分は30歳の肉体かあ~など、素直に感動してしまう。
筋肉量は60キロと出てくる。これが振動マシンでどう変化するか・・・
と、喜んでいたのだが・・・
待てよ、筋肉量が60キロだろう・・・体内脂肪率が19%なんだから・・体重をかけると14.4キロ、
骨の重さだってけっこうあるだろう?そうすると、自分の脳味噌の重さはどうなってんだ?と、ふと考え出す。
骨のことを考えると、どうしても脳味噌の重さが出てこないじゃないか!
それって・・・もしかして頭が空っぽってことになるのか?
それとも脳は脂肪にカウントされてしまうのか、あるいは筋肉にカウントされてしまうのか・・・
どっちにしても脳が脂肪だったり、筋肉だったりするのも、あんまり賢い感じはしないし、想像するのもぞっとする。
それで最近忘れっぽくなったか・・・など、納得しそうになるのもこわい。
それでも、あいかわらずせっせとブルブルと毎日振動している。
(19年8月5日)




夜のお仕事

まあ、これも院長業務といってしまえばそれまでだなのだが・・・・
先々週は病院での勤務以外に外に出かけることが多かった。
水曜日は済生会横浜市東部病院との連携の会があり7時半から10時頃まで、
木曜日は千葉大学腫瘍内科の関連病院会議で千葉まで出かけた。
腫瘍内科の関連病院会議は、毎年この時期、私が医者になった頃にはもうあった「ほてい家」というレストランで開催される。
医局が内科医を派遣している病院の責任者が一堂に集まり、病院の現状説明を行い、
大学からは医局の派遣可能人員などについての説明がある。
どこの病院も、医師不足は厳しい状況で、仕事がきつすぎるとか、院長になっても当直をしているとか、
派遣が増えなければもうやめたいとか・・・悲鳴のような切実な意見がつぎつぎと出てきた。
横須賀教授は、「うちの医局の医師だけが忙しくなっているようなら、私が責任者に話をつけます!
場合によっては総引き揚げも考えます」などと、派遣を受けている側が聞くと、何とも恐ろしい発言も出てきて・・・・
話しをつけられたらたまらないと・・・ひたすらおとなしくしていた。
この会では、浦賀病院の越川院長と何時も一緒なので、帰りも一緒に病院の厳しさを語りながら帰ってきた。
自宅に着いたのは夜遅かった。
金曜日は、また7時半から鶴見区医師会の訪問看護ステーションの情報交換会があり、病院の代表として出席した。
こんな調子で、昼の病院での勤務以外で、外での「夜のお仕事」が続いた。
常々院長は病院の看板、歩く広告塔の要素もあると思っているので、これも本来の業務なのだとは思っている。
土曜日は当直だったので病院で、医師としての「夜のお仕事」をしていた。
先週の水曜日は、うちの医局(臓器制御外科)が開催する「千葉転移性肝癌術後補助化学療法研究会」があったので、
また千葉まで出かけた。交通費だけでも馬鹿にならない!
講演が終わったのが、すでに9時半すぎだったので、懇親会も出ないで帰って来たが、
家に着いたのは12時少し前だった。
さすがに、こんな調子で「夜のお仕事」があまり続くと、ボディーブローのように、だんだんしんどくなる。
一昨日の土曜日は、また当直だったので病院に泊まった。
済生会東部病院が出来てからは、夜間の救急患者さんの来院は減少傾向にあるが、
その日は状態の悪い患者さんがいたので、明け方から起きて、診察したり、採血をして検査室の鍵を開け、
血液検査のデータを調べたり、、指示を出したりと・・・時間がバタバタと過ぎていった。
忙しいといえば確かに忙しいのだが、別に患者さんのことで夜中に起きたりするのは、
医者としてはあたりまえのことなので、何とも思わない。
院長業務も、院長なのだから、これも当然こなさなければならないので、
病院の仕事が終わってから出かけていく「夜のお仕事」も同じように「何とも思わない」、と、言わなければいけないのだろう・・・
そんな日々の中、先週の金曜日だけは、少しだけいつもと違う1日になった。
どういう風の吹き回しか・・・娘が「一緒に映画を見に行こう!」というので、夜の上映時間に合わせ、
「みなとみらい」の映画館に「パイレーツオブカリビアン3」を見に行った。
映画館で映画を見るのは、かなり久しぶりだ。
妻から言わせれば、「大学生の娘が父親と一緒に映画を見に行くなんて信じがたい!」そうだが・・・
終わったのが10時近かったので、菊名の居酒屋で一緒に遅い夕飯を食べた。
おじさんと若い娘が、居酒屋で飲んでいれば、たいていは上司と女子社員、お店のおねえさんと客の同伴出勤
(同伴出勤は、もっと高級な店に行くか・・・)
不倫のお忍びカップル・・・あたりが相場だが、
人から見れば、娘とは同じような顔をしているらしいし
(一重まぶただったり、たらこ唇だったり、悪いところばかり父親に似たことが非常~~に不満らしいが・・・)、
隣の席のカップルと違い、だまって見つめ合うこともなく、ひたすら食いまくっているので、まあ、親子と思われるんだろうな・・・・
などとぼんやりと思いつつ、それなりにほろ酔い気分で家に帰ってきた。
ついこの前まで、髪をひっつめ、てかてかのセーラー服を着ていたのに、
いつの間にか以前よりは化粧もうまくなり、ピアスもあけた娘と、たわいもない話をしながら、居酒屋で酒を飲むなど・・・
いやでも時の流れを感じさせられたが、
たまにはこんな時間のすごし方も悪くないのかな・・・とも思った。
それなりにリフレッシュも出来たので、少しばかり娘に感謝かな!
(19年7月31日)

テレビ父さん

めちゃくちゃ忙しかった6月もやっと終わった。
なにしろ緩和医療学会の教育セミナーに出席した1日以外は、当直明けの日を含めると、全ての日に病院にいたことになる。
毎年7月は、若いときに出張していた国保八日市場病院(現在は匝瑳市民病院)の仲間とゴルフに行くことにしている。
5日、6日と久しぶりに休みをもらい、今年も北海道に出かけた。
一昨年は帯広、昨年は旭川で、去年のことは以前、「大ブレイク」に書いたことがある。
今年は札幌だったが、毎年のごとく、4年先輩の市民病院の院長が、全てを手配してくれるので、
詳しいこともわからぬまま、集合時間に羽田に出かけていった。
いつもは集まる人数が多いのだが、去年築地で開業した先生は、平日は休めずに無理とのことで、
また一番若いT君は家族と1週間ハワイに行くので、続けては休めないとの理由で、
もう一人は直前に家族に不幸があり出席できず、男はK院長と私だけという寂しい状況だった。
女性はず~~~っと以前から市民病院に勤務しているNSが来るのだが・・・
一人は来年還暦をむかえる前に退職し、一人は私が勤務していた頃の新人NSだが、いまや看護副部長だ!
ちなみに市民病院の看護部長は、私が大学病院に戻った頃に入ってきた新人NSだった人が勤めている・・・・
美人で有名だったが・・そう考えると、時代が流れ、自分も年をとったことを実感する。
K先生は、院長になったとき、
「院長になったので、これからは個人的に看護師を連れてゴルフに行くのはまずいかもな~」などといっていたのだが・・・
確かに自分のことを考えてみると・・・
平和病院の女性職員を2~3人連れて、ゴルフに限らず泊まりで旅行に行くのが、他の職員にわかったら、
なにか言う人はいるのかな・・・という気もするが、結局はそのあとも何年も続いている。
去年は天気が悪く、帰りの空港でやっと雨が上がるという最悪のコンディションだった。
今年は、天気予報も晴れだというので張り切っていたのだが、だんだん雲行きが怪しくなり、
スタートの時には雨が降り出した
幸い、途中で雨も上がったが、スコアは惨憺たる状況だった。言い訳をするわけではないが・・・・
今は練習場に行く時間もなく、しかもスーツを着て出勤し、ネクタイを締めているので、
仕事の帰りに練習するのも面倒になる(やっぱり言い訳か・・・)。
夕食は札幌ビール園に出かけたが、
周りに大きなショッピングモールが出来たり、高層マンションが出来ていて、イメージがすっかり変わっているのには驚いた。
昔のような、緑に囲まれた雰囲気がなくなり、もったいないような気もしたが、これも時代の流れなのか・・・
でも、ビール園の隣にレストラン街なんか作ったって、周りは腹いっぱいジンギスカンを食って、
しこたま、ビールを飲む人ばっかりなんだから、誰も隣のレストランなんかで食事なんかはしないんじゃない?
ビール園の中に入ってからも驚いた!
なんと、火を使わない「オール電化」のプレートになっているし、このせいなのか鍋がまっ平らだ!
やっぱりジンギスカンの鍋は中央が盛り上がっていて、周りに野菜のせ、
盛り上がった部分に乗せた肉の脂でしっとりとしたのを食べるのが醍醐味だと思うのだが・・・
平らな電化の鉄板ではどうも「盛り上がりに欠ける!」といいつつも、いつもの夕食の倍以上食いまくった。
そのあとは、札幌に行くと何時もいくバー「やまざき」に出かけた。
大きな通りからちょっと入った小さなビルの4階にある。
「すすきの」のバー「やまざき」のマスター山崎さんは87歳の今も現役でシェーカーを振る、この世界では有名な人だ。
たまたま山崎さんの出身が八日市場ということで、たまに訪ねて行っても覚えていてくれる。
山崎さんの特技というか趣味は「切り絵」だ。
もう何十年も前の開業当時から、気が向くと、お客さんの横顔のシルエットを切り絵にして、
1枚はプレゼントしてくれ、もう1枚はスクラップブックにはって、店の棚にずらりと並べてある。
一見さんはまず作ってもらえない。
その日は運よく、「カウンターの席を空けましたのでシルエットを作りましょう!」と、声をかけてくれた。
さりげなくカウンターのテーブルに「予約席」の札を置いて「どうぞ」と合図する。(その仕草もかっこいい!)
はじめは「シルエット」というカクテルの名前かと思ったが、すぐに切り絵を作ってくれるのだとわかり、感激だった。
横顔なので、切る動作を見ることは出来ないのが残念だが、あっという間に出来上がり、
しっかり特徴をつかんでいて、すばらしい出来栄えだった!
平成19年7月5日、すすきの山崎作る」とサインしてくれる。
その下には通し番号が書いてあるが、なんと39859人目だった。
「何とか40000人を目指しています」、と言っていたが・・・大切にしたい。
翌日も朝早くからおきてゴルフ場に向かったが、またもや雨・・・
がっくりしたが、神様はたまの休みを見捨てなかったのか、着いたとたんに青空が見えてきた!
相変らず大叩きのスコアだったが、仕事を忘れ久しぶりにリラックスさせてもらった。
あとはお土産だが・・・・
去年見つけた「まりもっこり」は「大ブレイク」したことをものがたり、売り場面積が飛躍的に拡大されており、
以前は携帯ストラップだけだったのに、ぬいぐるみからTシャツから、パンツ、ボールペンやら、いろいろなものが売っている。
なんと、ガールフレンドも出来たようで、名前は「
まりこっこりん」とかいって、
女の子なのでさすがに股間はモッコリできないかわりに、なんとおっぱいがモッコリ膨らんでいた!
思わず買いそうになったが、どうせ子供たちには歓迎されないのはわかっていたし、
ブレイクしすぎてちょっとな~という感じもしたので、他のものを少し探してみると・・・
あったあった!
ジンギスカンマン」片手にビールジョッキを持ち、ストラップの中間にはジンギスカン鍋、
なんとテーマソングまである。こいつもそのうち大ブレイクするかも・・・・
さらに、大通り公園のテレビ塔を擬人化したキャラクター.
展望台の部分が緑の腹巻になっており、顔はちょび髭を生やした親父顔、
テレビ塔のキャラなので、「
テレビ父さん」というらしい。レトロな感じがとってもすてきだ!
これもノートやらクリアファイルやらいろいろそろっていて(ストラップは無い)、「喝!」とか「しっかり勉強しなさい!」などと書いてある。
子供の土産にはもってこいだ。
「まりもっこりん」の誘惑するような目を見ないようにして、「テレビ父さん」を選んだ。
たぶん、「テレビ父さん」もあと半年もたてば、津軽海峡を渡り、ブレイクするに違いない??
まあ、そんなわけで、2日間のつかの間の休日はあっという間に終わり、
土曜の七夕は当直で、日曜日の夕方5時まで仕事だった。
最近どうもパワーが落ちていたような気がしていたし、
ホームページの更新も、忙しいせいもあったとは思うが、なかなかする気にもならなかったが・・・
今日、当直明けで書き始めたところを見ると、休日はやはりリフレッシュするのには大切なのかもしれないと思った。
来週からは、膵臓切除や肝臓切除などの大きな手術が続く。
大学からもスタッフが応援にやってくる。
新病院建設の実現も目指さなくてはならない。
また忙しい毎日になりそうだ
!  (19年7月8日)


3本目のろうそく

今年も6月22日になった。
手術を受けてからちょうど3年になった。
去年の6月21日は、朝からずっと、今頃入院したとか、手術の説明を受けていたとか、病院の風呂に入っていたとか・・・・
いろいろ思い出していたのに、今年は岡山で開催された日本緩和医療学会の教育セミナーに出席して、
朝から晩まで講習を受け、とんぼ返りで新幹線に3時間以上も乗っていたりと、
あわただしく過ぎていったせいで、ほとんど思い出す時間もなかったからなのか
それとも、3年間という時間が流れたせいなんだろうか・・・
ただ、22日にはやはりいろいろなことを思い出した。
手術当日の朝の天気のこと、前日の台風が過ぎ去って、風は強かったが、
真夏のような太陽が照り付けていた病室の窓からの景色・・・
手術室に入る前にストレッチャーに乗って見た長い廊下の天井、
手術が終わって病室で目覚めた時、ベッドサイドにいた母と妻の顔・・・
手術当日の夜の何とも耐え難い傷の痛み、尿道に入れられた管の痛み・・・
病理結果が出るまでの不安と期待と恐怖・・・
3年間は長い様でもあり、あっという間だったような気もする。
22日の外来には、自分とちょうど同じ時期に手術をした乳癌の患者さんがやってきた。
「私もちょうど今日で3年なんですよ!」
と、聞かれもしないのに言ってしまう。
「そうそう、入院や手術の説明の時、先生が、自分もこれから手術ですって言っていましたね・・・
あの時はずいぶん勇気づけられました」
同じ3年でもそれぞれの病気に対する思いも違うだろうし、
同じ時期に、同じ病気で手術をして、先日亡くなってしまった患者さんもいる。
とにかく、自分は今年も元気でいる。やらなくてはならないこと、やりたいこともまだまだある。
家に帰ると,娘がケーキを買ってきてくれていた。
ろうそくが3本、「Happy Birthday]の飾りも付いている。
新しい命をもらった3回目の誕生日なのだそうだ。
その日の夜、自分が死んだ夢を見た!
死んでいるのに普通と同じ様に話しもできるし、姿も見える。
ただ、だんだん見えなくなっていくから・・・と、見えているうちに何かをしようとしているのだが・・・
目が覚めた時には、何をしようとしていたのかは思い出せなかった。
その日はいろいろ考えたせいもあるんだろうか・・・
自分が死ぬ夢は、「いい夢」だと、いわれているようだが、複雑な感じだった。
翌日の23日は、セミナーに出かけたりしていたせいで、雑務がてんこ盛りだった。
4年目の初日、また、いつもの毎日が始まった。
当直だったのでPCを持参し、ホームページの更新でもと思ったが、PCを触る時間もなく、そのまま持って帰ってきた。
最近、やろうとしていることが少しずつたまっていくような気がしている。
何とか先回りして余裕を持ちたいところだが・・・なかなか追いつけない。
職員に、眉間のしわを伸ばす様にいわれてしまう事もある。
明日は少し深呼吸でもして、家を出ることにしよう!
(19年6月24日)


道具なければ・・・

先日のこと、外出して夕方、家に帰ってくると、
家のすぐそばにパトカーが止まっていた。
お巡りさんが外に出ている。近所のおばさんもいる。
何かと思ったら、若い男が道に倒れて、お巡りさんが心配そうに覗き込み、声をかけている。
少し体は動かしているようだが声は出さない。
どうしようかと思ったが、そのまま通りすぎるわけにもいかず・・・
「どうしたんですか?」と聞いてみた。
その時は自分の格好がTシャツによれよれのズボンでサンダル履きだったせいもあり、
お巡りさんから、うさんくさそうな目で見られたが・・・
「あの・・・医者なんですけど・・・」と言うと、少しほっとした様子で、
「そこで倒れていたみたいですけど、返答がないんです。体は動かすんですけど・・・アルコールの匂いもないし・・・」とのことだった。
「ちょっと診ていいですか」と、いうと、「お願いします」とのことなので、
ひとまず診てみた。
完全な意識消失ではないが、反応はない。
体を時々起こそうとするので、麻痺はないようだ。
呼吸は保たれているので、ひとまずは大丈夫そうだ、嘔吐した形跡もない。
ここで呼吸がなかったらそれこそマウスツーマウスの人工呼吸をせざるを得ないが・・・
脈を診ても不整もないししっかり触れる。ひとまずは差し迫った命の危険はなさそうだ。
癲癇の発作とも違うようだ。
外傷も確かめたがひとまず頭に傷はない。
腕を見て驚いた!
無数の切り傷のあとが両腕にある。かすり傷ではない。よく自傷行為で見られる傷のようだ。
ただし出血はみられない。
お巡りさんのライトを借りて瞳孔をチェックしたが不同はない。
おそらく何かの薬剤を服用している可能性が高いとも思ったが・・・
もうそれ以上は何も出来ない。
状態は急変するかもしれないし、治療の道具は何も持っていない。
買い物帰りなので、たのまれた「におわなっとう」3パック(自分は納豆がだいっきらいなので食べない)と缶ビール1缶だけだ。
これでは治療の役に立たない。
熱があったら冷えた缶ビールをおでこに当てるくらいか・・・
起き上がろうとして急に倒れるのでアスファルトに頭を激しくぶつける可能性もあり、
気道を確保する体制で頭を支え、救急車を呼んでもらうよう頼んだ。
いくら医者でも、治療の道具がなければ何も出来ないことを思い知らされた。
救急車のサイレンが聞こえるまでの時間がものすごく長く感じる。
当直の夜などは、救急車のサイレンが聞こえると、「え~、連絡があるのかな・・」など、あまり歓迎しない音が頼もしく聞こえる。
救急車が到着し、救急隊に状況を説明し、ひとまず命に別状ないまま搬送されていった。
救急隊員が「におわなっとう」の入った袋を患者さんの持ち物と勘違いして持っていこうとしたので・・・
そのままもって行ってもらってもいいか!とも思ったが・・・一応、「それは私のです!」と返してもらった。
いずれにしても無事に回復してくれていると良いが・・・
そのあと、お巡りさんから名前や住所や勤務先やら電話番号やら聞かれ、
なんだか悪いことでもしたような感じだったが、
買ってきた缶ビールは坂道の下まで転がってへこんでるし、ぬるくなってるし(納豆は無事だったが)
変な姿勢で頭を支えていたので猛烈に首がこって痛くなってきた。
医者も、「道具なければタダの人」と思い知った。
在宅ターミナルも対応しているのだから、緊急の蘇生道具でも持ち歩こうかとも思った。(19年6月3日)




検査の季節

毎年5月になると、自分の健康チェックを行うことにしている。
3年前に肺の腫瘍を見つけたのも、この時期の検査で肺のCTを撮ったからなのだが、
肺のCTはその年に限ってたまたま検査した。(自覚症状は全く無かったので、今思い返してみてもラッキーだった・・・)
他にも血液検査、胃内視鏡、腹部CT、超音波検査(これは自分でやっている)などを受けることにしている。
大腸に関しては、便の潜血反応だけだったり、大腸内視鏡をする人もいるが、
今のところ、自分は10年以上も、バリウムを使う注腸造影を受けている。
大腸内視鏡は検査当日の朝から「スクリット」という下剤を2リットルものむ!
腸をすっからかんにして、午後から検査になる。
さらに、ポリープを切除したりすると、念のため翌日まで泊まらなければならず、
外来やら手術日などの仕事に重なるので、なかなか受けられない。
注腸造影は撮影が終われば基本的にはフリーなので、こちらを選択している。
自分が若い頃は大腸内視鏡検査はそれほど一般的ではなく、大学病院でも注腸造影が頻繁に行われていた。
内視鏡も「大腸グループ」の数少ない医師が担当していたし、検査時間もものすごく長かった。
今は一般病院でもほとんどが内視鏡検査になってしまい、
若い出張医の中には注腸造影をほとんど経験していない医師もいるようになってしまった。
ただ、注腸造影は前の日に「前準備食」を食べなくてはならず、これがけっこうつらい。
朝、昼はお粥、夜はスープのみ(と、思ったら今回は新しく「ポタージュフォー」なる微妙なものになった!)、
合間に食べられるのは「エニマクリン食」という、パックの中に入っているソフトビスケットふた切れと、
ビスコ(グリコ製なので)5個、飴玉サイズのゼリー2個のみ!
家族が普通の食事をしている中で、一人、うらめしそうな顔でスープをすするので、いやがられるし・・・
最近は前準備に「浣腸」がなくなり,「坐薬」に変わったが・・・
昨年までは2回も浣腸をしなければならず(自分で)、かなりトホホな状態だった。
さらに「マグコロール」なる下剤がめちゃくちゃ飲みにくい!
水に溶かして飲むのだが、変に甘ったるく、いつも、ものすごく薄めて(結局、薄めた分、飲まなければならない量は多くなるのだが・・・)
太いストローで味を感じなくても良いように一気に流し込む。
1年に1回だから我慢できるが、「検査はつらい!」と、毎年真剣に思ってしまう。
検査当日はお尻から管を入れられ、そこからバリウムを入れられる。
腹ばいの姿勢で入れられるのだが、バリウムが腸の中に入っていく時、腹が冷たくなるのを感じるので、
思わず尻からバリウムが漏れて検査台とお腹の間に流れているような錯覚を覚え、ものすごく不安になる!
「先生が検査の時、」バリウムをお漏らしした」、などと言われたらたまったもんじゃない!
さらにそのあと大腸が膨らむまで空気を入れられ、腸にバリウムをなじませるためにグルグル台の上で回転する。
猛烈に腹が張り、検査終了後は着替えるのもそこそこに、一刻も早くトイレに駆け込みたくなる。
そのあとも午前中はひっきりなしにトイレに行かなければならず、まず仕事にならない。
明日はいよいよ、その注腸造影の日だ!
今は空腹に耐えながらこの文を書いている。
先週にはCT検査を行った。
胸部のCTは手術後しばらくは4ヶ月ごとに検査していたが、
前回受診の時、手術をしてもらった先生から、「半年毎に延ばしても良い」といわれた。
もうすぐ手術を受けて3年になるが、いつになってもCTの結果がわかるまでは、あまり良い気持ちはしない。
平和病院では5月の連休明けに、いままでのヘリカルCTから、マルチスライスCTに機器を更新し、
画像も鮮明になり、検査時間もずいぶん短縮された。
実際、稼動初日に検査したが、前回に比べ、同じ撮影でも息止めの時間がずいぶん少なくて楽だった。
来週あたりには胃内視鏡を受けるつもりだ。
昨年、経鼻内視鏡を導入したが、経口よりもかなり細く、自分のように咽頭反射が強い場合、信じられないほど楽に受けられるので、
ずいぶん気が楽になった。皆さんにもぜひお勧めしたい!
検査の大切さは、自分に病気が見つかり、比較的速い時期に治療も出来たので、身にしみている。
いちど癌にかかった場合でも、転移や再発はなくても、他の場所に全く別に新しく出来る場合もいくらでもあるのだ。
自分の患者さんにも食道癌、肺癌、胃癌と全く別々に出来た患者さんや、子宮癌、直腸癌、胃癌と3回も手術を受けた患者さんがいる。
乳癌の場合でも両側に出来てしまう患者さんもいる。
そんな患者さんたちに会うたびに、どうして神様はこんなに不公平なことをするんだろう・・・・と思ってしまう。
自分だって、一度なったからといって、これで打ち止めというわけではないのだ。
1年に1回、空腹に耐えるくらい我慢しなくては・・・
全ての検査が終わって、「あ~よかった!」といえる時が早く来れば良いと、毎年この時期にはいつも思う。
(19年5月13日)


I記者へのエール

「病院よもやま話」のコーナーでも書いたが、毎日新聞に「平和病院通り」に関する記事が掲載された。
この記事は、毎日新聞横浜支局のI記者が書いたものだ。
I記者に初めて会ったのは、戦後60年を経て、あらためて「平和」の意味を問い直す昨年正月からの企画で、
平和病院のことが元旦の記事になり、その取材に来た時だった。
自分の考えていた「新聞記者」のイメージとは全く違った若い女性で、しかもとても美人だった!
その後、その企画は1冊の本にもなって出版された。
地方版の記事は、その記事のあとに、それを書いた記者の名前が書いてある。
ちょうど自分の家は毎日新聞をとっていたので、そのあとも、I記者の記事は注意して、見逃さないように読んでいた。
初めて取材に来た時は、新人で、その頃は彼女が書く記事も、大きな事件や事故などではなく、
「身近な話題」といったようなものが多かったが・・・
最近は選挙など、政治的な記事も任されるようになったようで、記者として成長していく様子がうかがえた。
今回の記事に関しても、そんな彼女が久しぶりに取材に来てくれた。
初めて会ったとき、院長室は改修前だったが、今回は少しきれいになった会議室で取材を受けた。
取材そのものは、あまり時間がかからなかったが・・・
その時、もうすぐ、さいたまに転勤になることを聞かされた。
若い女性もどんどん転勤させられるとは、けっこう厳しい世界なんだな・・・と感じたが、
記者になって2年間、一番思い出になったのが、「平和」の企画だったといってくれた。
彼女は彼女なりに、平和病院にも愛着を感じていてくれているらしい・・・のかな?
ほかの日の記事で、彼女の似顔絵とともに、彼女が行った地方選挙戦取材の時の感想が載っていたが・・・
あの似顔絵はあまり似ていなかったな

本物はもっとずっといい顔をしているとおもうのだが・・・
自分も平和病院に赴任する外科医師の似顔絵をずっと描いているので、
言ってくれればもっとかわいく描いてあげたのに・・・などとも思ったが・・・
いずれにしても、これから彼女の記事が見れなくなるのはとても残念な気がする。
それでも新天地で、もっと成長していくと思うし、そのうち全国版でバリバリ記事を書くようになるかもしれない。
取材の日、初めての土地への赴任に少し不安そうだったが・・・・
大丈夫!
がんばって!
そして、取材どうもありがとう。
(4月27日)


孤立無援の年度末

早いもので、年度末、外科の人事交代の時期になった。
最近は大学からの出張人事のうち一人が1年、一人は半年交代になっている。
18年度に1年間いた土田は以前にも1年間着任したことがあり、「外科ものがたり」にもすでに登場している。
土田は大学を離れて実家の開業を手伝い、橋場は大学に帰って研究生活に入る。
4月から着任する医師の引越しもあるので、毎年3月の末は勤務には出てこない。
3月31日は土曜日で、土田も橋場も休みだった。
土曜日の外来で、待ち時間が長くなった時は、たいてい病室勤務の若いDRに頼んで、傷の処置だけの患者さんや、
新患の患者さん、入院が必要で検査などに時間がかかる患者さんを診てもらい、
いつも通院している患者さんを私が診察している。
最近は以前に比べ薬の投与期間が長くなったせいもあるのか、はじめから2診で開始する事もなくなったが・・・
31日はいつもに比べ、時間がかかる患者さんも多く、また、予約外の巻き爪の患者さんが何人か受診してしまい、
机の上にはカルテの束がどんどんたまっていく。
外来の応援を頼める若いDRはいないので、トイレも我慢して診察を続けたが、それでも待ち時間はどんどん長くなり・・・
窓口には「もう呼ばれましたか?」「まだだいぶ時間がかかりますか?」「あと何番目ですか?」と聞きに来る患者さんが多くなる。
この「あと何番目」というのがくせもので、不思議なもので、一人が聞きに来ると、次から次に同じことを聞きに来る。
並んだカルテを見て、クラークが「いまのところ○○番目です」と、答えるのだが・・・
ずっと早い時間に来院し、検査をしていた患者さんが外来に戻ってくると、その患者さんが間に入ってしまうので、
答えた順番と違ってくる(だから、答えるときは、「今のところ」、とか「だいたい」、とかお答えしているのだが)。
遅くなることはあっても早くなることは無いので、中には「さっき○○番目だっていったじゃないか!」と、怒り出す患者さんもいる。
調剤薬局の閉まる時間もせまってくる。
ようやく終わったのが2時少し前で、受付終了が11時半なので、2時間以上もお待たせしてしまったことになる。
幸い、最後のほうの患者さんは長いこと私の外来に通院してくださっている方が多かったので、
怒られはしなかったが、「2時間も待ちました」とか「大繁盛ですね」・・・とかは言われてしまった。
入院の必要な患者さんも、外来での検査を終えて病室に上がっていった。
ただ、外来の仕事はこれで終わりではない。
患者さんを紹介してくださった診療所の先生方に検査の結果や、診療の結果の返信を書かなくてはならない。
これもためてしまうときりが無いので、診療が終わってから書き始める。
その他にも保険請求の診断書の作成、介護保険の医師意見書の作成などが机にたまっている。
これらの書類を書いている途中に、2時半過ぎに携帯電話が鳴った。
病棟からだ。
「先生、まだ院内にいますか?」って・・・「まだ外来で仕事中だよ!」と、飲まず食わずなので、少し不機嫌になる!
「入院した患者さんの指示が何にも出ていないんですけど、どうしましょう」
どうしましょうって・・・・そうか。今日は人がいないんだ!
病室担当は入院の時間が遅かったので、知らずに帰ってしまったらしい。
まさに孤立無援の状況だ!
「こっちが終わったらすぐ行くから!」と、急いで書類作成を済ませ・・・
ひとりだけかい!」と独り言を言いながら病室に上がったのがすでに3時半過ぎで・・・(さすがにトイレには行った)
それから患者さんのところに行き、カルテを記載し、指示を出し・・・
最近では病室業務は任せきりで、自分で指示を出すことがほとんど無いので、よけいに時間がかかる。
やっと自分の部屋に帰ったのは5時少し前、昼飯は食いそびれた。
4月、5月の土曜日は月3回当直になっているが、あいにくその日は当直ではなかった。
当直だったら、どうせ病院にいなくてはならないので、いくら遅くなっても、なんてことは無いのだが・・・
土田、橋場はなんと働き者だったのか!と、いまさらながら痛感した。
週末は若いDRがいない分、「ライディーン」の鳴る確率も高くなるのか・・・
(19年4月1日)



お墓へGO!

ついに娘が教習所の救急蘇生用の人形をぶち壊した末に、運転免許をとった。
正直なところ、娘の運転する車には、まだ乗りたくないのだが、
確かに若い外科医の手術と同じで、運転経験をつまなければうまくはならない。
ただ、何をしでかすかわからないので、まだ一人だけで運転させることも出来ない。
免許交付の翌日は、ちょうどお彼岸で、休日だったこともあり、家族全員で、川崎にある父の墓参りに行くことになり、
どの程度運転できるのかを見るためもあり、ためしに運転させてみることにした。
車庫から出す時に、いきなりこすられるのでは、あまりに悲しいので、途中までは自分で運転し、
広い道に面したコンビニの駐車場で交代した。
綱島街道は道も広いので、交差点を曲がる時に少しもたつく程度で特に問題は無かったが・・・
墓の近くの梶ヶ谷のあたりは道も狭くなるので交代しようと思っていたのに、運悪く、後続車が続いており、
左によって止まることも出来ないというので、「ええい、そのままお墓まで行かせてみよう!」と、
清水の舞台から飛び降りるような決断をしたのだが・・・
道は下り坂で狭く急なカーブが続き、見通しが悪いうえに、対向車はスピードを出してどんどんやってくる。
左側からは歩行者が車道にはみ出してくる、という最悪の状況になってきた。
もともと左側に寄る癖があるのか、車は歩行者の数センチ脇をすり抜けていく。
助手席に乗っていたので、もうだめか!と、思わず目をつぶりたくなる。
ジェットコースターのほうがまだましだ。
「おい!そんなに左を走ったら、人を引っかけちまうぞ!」
「教習所ではキープレフトって言われてんの!」
「もっと右側を走れよ!」
「だって前から車が来るんだからしょうがないでしょ!」
「ブレ~~~キ!もっと早く踏めよ!」
車内には絶叫が飛び交い、このまま事故でも起こしたら、お墓参りどころか、
そのまま家族全員が墓の中に入ってしまいそうな、いやな予感すらしてしまう。
結局、大騒ぎの末、ようやく墓までたどり着き、無事に花を供え、お参りすることが出来たが、
これも、墓の中の父が守ってくれたおかげだろうか・・・・
まだまだ前途多難な日は続きそうだ。

と、書こうと思っていたやさき・・・
今日のこと、娘が部屋の模様替えをしたいと言い出したので、また運転をさせて新横浜の「IKEA」に出かけた。
駐車場にたどり着くまでは順調だったが、
何でこんなに大勢の客が来るのかと思うほどの賑わい(入場制限までされている)で、駐車場も大混雑だった。
車庫入れは大変だろうと、駐車場の中で車が止まった隙に、運転を替わろうと、急いで助手席から降りて、
車の後ろを回って運転席側に回ろうとしたとたん・・・・
急に車がバックし始めた。よく見ると、娘も車から降りているじゃないか!
すぐ後ろには車が止まっているし・・・
「何やってんだ!車が動いてるぞ!」と、絶叫し、とめられるわけも無いのに、スーパーマンのように、
車を前のほうに押そうともがいている自分がいた。
人間、あせると、わけのわからない行動をするようだ・・・
ギアをパーキングに入れたつもりで、バックの位置にしたまま、おまけにパーキングブレーキを引かずに車を降りたようだ。
さすがに慌てて運転席に乗り込もうとしていたが、車の中では妻と息子が大慌てで、後部座席から手を伸ばして、
パーキングブレーキを目いっぱい引いたのも幸いし、
何とか車と車の間に挟まれずにすんだ。
後ろの車の人達も、たぶんかなり驚いたろう・・・
バックする車を押そうとしているおっちゃんがいるんだから!
事故なんてもんは、ほんとにいつおきるかわからない!ということがよ~~くわかった。
もしあの時、車に乗り込んだ娘があせってブレーキと間違えてアクセルなんて踏んでいたら、思い切り車がバックして、
自分は車と車の間に挟まれて完全にぺちゃんこになっていた!
さすがにこっぴどく説教したが・・・
試練は続く。
(19年3月25日)


ライディーン

最近テレビを見ていたら、聞きなれた曲が流れてきた。
キリンビールのCMにバックで流れているYMOの「ライディーン」だ。
CMに出演しているのもYMOのメンバーでなつかしい。
この曲は自分が初めて携帯電話を持ったときから一回も変えることなく「着メロ」にしている曲だ。
もう10年近くになるだろうか・・・
CMではかなり柔らかな感じの曲調になっているが、
自分の着メロのものは、けっこう勇ましい感じに曲調のものになっている。
少し前までは、この曲を着メロにしている人などはほとんどいなかったのに、
最近は「着メロのベスト10」にも入ってしまったらしい。
うちの家族には、この着メロは最悪のイメージがあるらしい。
子供がまだずっと小さかった頃、夏休みに軽井沢や、那須に旅行に行ったときや、
ディズニーランドに泊まりで遊びに行ったとき、遊んでいる真っ最中に「ライディーン」がなりひびき、
家族を残して、よばれて病院にいった時のことなどを思い出すらしい。
他の先生には連絡がつかなかったので、とのことだったが・・・
妻にしてみれば、理屈ではわかっていても、
「やっとの思いで取れた休みなのに、なぜ一番上の医者が、休みではない若い先生が捕まらないからといって、
旅行先から駆けつけたり、夜中に出かけなくちゃいけないの!?」と思ったらしい。
ライディーン」=「緊急呼び出し」=「おきざり」のイメージがあるようだ。
自分にとっても夜中に鳴り響く「ライディーン」は、進軍ラッパのように寝ぼけた頭を一気に仕事モードに切り替える。
病院でおこったいろいろな緊急事態のとき、何年間も「ライディーン」はそれを教えてくれ続けている。
そのうち、しばらくすれば、今のブームも落ち着き、携帯から響く「ライディーン」も少なくなるだろうが・・・
自分はこのまま変える気持ちは全くない。
プロレスラーがリングに登場するときのテーマ曲のようなもんだ。
今日の日曜日、家族の買い物にず~~~っと付き合わされたが、
さいわい、「ライディーン」は鳴ることもなかった。(19年3月11日)



救急蘇生失敗!

もう3月の声を聞き、いろいろな高校で卒業式が行われている。
早いもので、今日、娘も高校を卒業した。
中高一貫校だったが、、中学の入学式の時に校門の前で写真を撮ったのがついこの前のような気もするのに・・・
これから大学が始まるまでの一ヶ月はパラダイスで、友達との卒業旅行にも出かけるらしい。
この機会に運転免許も取りたいというので、近くにある自動車教習所に通い始めたのだが・・・
自分の娘が車を運転する」ということ自体が、どうしても想像できない!
あわれ、我が家の車はおそらく数ヶ月のうちに、ぼこぼこにされるのを覚悟しなくてはならないだろう。
まあ、車だけなら良いが・・・他人をぼこぼこにするのだけは勘弁してもらいたい。
自分が運転免許を取ったのは、はるか35年以上も前なので、よく覚えていないが、
今は事故を起こしたときの救急処置の講習も受けなければいけないようだ。
ちゃんと救急蘇生用の人形が用意されていて、講義の一環として心臓マッサージや人工呼吸の練習をするようだ。
確かに、運転中はどんな場面に遭遇するかもわからないので、このような講習を教習所で行うのは良いことだと思う。
ある日、娘も講習を受けた時、人工呼吸法の「マウス・ツー・マウス」をやらされることになった。
まず、気道を確保するのは救急蘇生の第1歩だ。
首を少し後ろにそらせるような体位を取ると、空気を送りやすくなる。
娘も教えられたとおりに始めたようだが、思うように空気が送り込めない!
きっと、首のそらせ方が足りないと判断したわが娘は、さらにグイっと人形の首を後ろにそらせた。
その時、バキっ!と聞きなれない音がしたらしい。
その後、人形の口から息を送り込んだようだが・・・
うまくいけば、肺の中に空気が入るので、人形の胸の部分が正常に膨らむような動きをする。
ところが・・・
何度息を吹き込んでも胸の部分は動かず、そのうち首のあたりから、ピュ~~~っと聞き慣れない音がして、
人形の首の部分が膨らんできたらしい。
娘も、さすがにおかしいと思い、首の位置を調節しようとしたとき・・・
人形の首は、映画「エクソシスト」の女の子のように、実際の人間なら、ありえない方向に曲がり・・・・
もはや、ぐらぐら状態で、とても修復不可能な状態になってしまっており・・・
どうやら、娘の救急蘇生は失敗しただけでなく、必殺仕事人のように、首の骨を砕き、人形の息の根を止めてしまったらしい!
人形といっても、そこらのリカちゃん人形と違い、救急蘇生の練習用の人形は特殊なので、かなり高価なものだ。
幸い、たまたま壊れる寸前だった?との温情的な判断をしてくれたようで、
太っ腹の教習所のおかげで弁償することはまぬがれた。おそらく10万円じゃきかないと思う。
もうすぐ免許も取れるめどがついたようだが・・・
我が家の車の助手席側にも、教習所の車のようにブレーキがついていれば・・・と、心から思っている。(19年3月3日)


真昼の動物園

平和病院は先日、医療療養病床42床を一般病床に転換した。
一般病床といっても、平均在院日数が比較的長くなっても入院していただける仕組みの病床だ。
ただこの病床も、おそらくは次回(2008年)の診療報酬改定で、入院できる患者さんの条件が厳しくなるだろう。
今入院している患者さんも、他の施設に移動をお願いしなくてはならなくなることが予想される。
また、54床は介護療養型医療施設で介護保険対応の療養病床だが、
この病床は厚生労働省の方針で2011年で閉鎖が決定している。
この54床分をどうするのか、難しい決断がせまられている。
要介護度は高いが、ほとんどの患者さんが「医療区分1」で、
医療の必要度は「ない」と判断され、医療療養病床に転換しても、病院は大幅な収益減になり、
運営は確実に維持できなくなり、消えていくしかなくなってしまう。
このため、平和病院に継続入院していただけなくなる患者さんの行き場の確保が、これからの大きな課題になる。
今でも入院期間の長い患者さんの比率は増えていき、
新しい、急性期の医療を必要とする患者さんが入院できなくなるケースもでてきている。
MSW(ソーシャルワーカー)もご家族に情報を提供するが、
有料老人ホームは値段が高いものも多く、近隣の特養、老健はとてもじゃないが数が足りず、
入所には申し込んでから、年単位で待つこともある。
平和病院から、これらの施設への道を作ることは、患者さんのためでもあり、病院の生き残りにも絶対必要だ。
最近、MSW,看護部長、看護副部長が、長期入院可能な病院、施設をまわり、患者さんの受け入れをお願いしている。
自分も知り合いの先生が運営する介護施設を訪問し、施設を見せていただき、
ご利用を希望される患者さんがいた場合の連携をお願いに「外回り」する。
当院の院長は「何でも屋」「苦情処理係」的な要素がある。
先日も大学の同窓の先生が運営する老健施設2件を訪問させていただいた。
金沢区にあるのだが、11時と2時の約束で・・
1件の訪問が終わったのが12時過ぎ、
2件目の施設の近くに着いたのが1時前だった。
昼飯を食わなくてはならないが、近くにファミレスがない。少し戻れば良いのだが、それも面倒だ。
さて、どうしたものかと思ってが、すぐ近くに金沢自然公園、動物園があった。
何かレストランでもあるだろうと駐車場に車を止め、「コアラバス」に乗って坂道を登り、動物園の入り口に着いた。
あったあった。
入り口のすぐ近くにレストランがある。
平日の昼まなので、外を歩いているのは、お孫さんを連れた老夫婦、幼稚園の団体、カップルくらいで、
自分のようにスーツを着たおじさんなどは、私以外には皆無で、完全に浮いている。
カレーライスを頼み、せっかく来たのだから少しだけ動物でも見るか、とも思ったが、そこまでの時間がない。
外は風も弱く、暖かな日差しが春のようで、気持ちが良い。
ふだんのストレスも一瞬忘れそうな感じだが、のんびりしてもいられない。
食事の間にも病院から携帯にメールが入ってくる。
たまにはのんびり平日の動物園で何も考えずすごしたいもんだ・・・との思いを振り切り、2件目の施設に向かった。
(平成19年2月23日)

大学受験に想う・・・

大学受験・センター試験の季節になった。
娘も高校3年生、受験組だ。
去年の2月は息子の中学受験でえらい苦労をした。中学受験もあと10日ほどで本番だ。
去年は朝の暗いうちから寒い中を二人で出かけていったことを思い出すが、
今年は受験の「お世話係」に借り出され、試験日にも「先輩」として出かけていくらしい。
娘の通う高校は大学までつながっていたのだが、将来自分の望む職業につくための学部が無いとの理由で、
わざわざ受験組になった。
まあ、途中でどう考えが変わるかもわからないが、はっきりとした希望を持つことは悪いことではない。
希望の学部のある学校を調べ始めたが、自分の時と違い、今の受験のシステムの複雑なのに驚いた!
「大学全入時代」などといわれているが、それなりの学校はやはりそれなりに入学するのは難しい。
そもそも「センター試験」なるものがピンとこない。
自分はその前の「共通一次試験」よりもさらに前の時代だ。
「センター試験」の成績だけで合格を決める方法、「センター試験」の成績に関係なく学校の試験の成績だけで決める方法、
それぞれが1次、2次、A方式やらB方式やらに分かれており、それに加え、学校推薦枠、AO方式やら、
ひとつの学部だけで6通りあるいはそれ以上の入り方があり、それぞれ受験料がかかる!
それを何校も受けたりしたら(合格しなければ受け続けるしかない)それだけでも馬鹿にならない!
親にしてみればたまったもんじゃない!
自分が大学入試を受けた時は、システムももっとずっと単純だった。
ひとつの大学は1回だけの試験だったので、本当の一発勝負だった。
医者になろうと思ったのは父親が死んでからなので、高校2年の時だった。
受験は医学部だけを狙ったが、理系にもかかわらず、物理は赤点だったので白旗を揚げ、
早々と選択科目からは、はずしてしまい、数学にしても、平均点を1回もクリアしたことが無かった。
生物を選択して受けられる学校は限られていた。
現役の時は英語の成績もいまひとつだったので、当然、受けた大学はぜ~んぶ落ちて浪人になった。
浪人の間の1年間はさすがに死に物狂いで勉強したが・・・
今考えるとあの時の集中力は年齢のせいもあるだろうが、二度ともつことは出来ないと思う。
2年目のチャレンジはさすがに2期校は少しでも受かりやすいようにと思い、
秋田まで試験を受けに行った。
「寝台車」にはその時、生まれて初めて乗った。
もともと、乗り物には弱いので、朝起きたらめちゃくちゃ酔っていて吐きまくった覚えがある。
さすがに寒かった。
1期校は現役の時と同じく千葉まで受けに行ったが、たしかその頃は総武快速は千葉までは開通しておらず、
津田沼までしか走っていなかったように思う。
西千葉の駅は、まだ木の駅舎だった。
ずいぶん遠くまで来たような気がした。
残念ながら、2回目の合格発表も自分の受験番号を見つけることが出来ず、
秋田からの電報も「サクラチル」で、2浪が決定し、仕方が無いので駿台予備校の組み分け試験を受けた。
1年目は上から9番目くらいの組だったが、さすがに2年目は1番上のクラスになったが、予備校の一番上でもなあ・・・・
というわけで、さすがに落ち込んで、鎌倉の海岸沿いを長いこと歩き、逗子にあった祖母の家によったとき、大慌てで出てきた祖母から、
何処行ってたの!今、大学から連絡があって、入学を許可しますって!」と知らされた。
携帯電話などない時代だ。ずいぶん連絡がつかず家中のものが心配していたようだ。
いわゆる繰り上げ当選みたいなものだったが、自分でもにわかには信じられなかった。
かくして劇的な大逆転満塁ホームランのように入学が決まったのだが、われながらしぶとかったと思う。
あと1点足りなかったら最高点不合格者になっていた!
まあ、今だから言うが、入学した時はクラスはM1、M2と2クラスに分けられていたのだが、
出席番号は「あいうえお」順に分けられていたにもかかわらず、一通り「」から「」までおわった後で
M2クラスに「」から始まる学生が10人以上いた。
私もその中の一人でクラスはM2だった。(3年になるときには組みかえですべて「あいうえお」順になったが・・・)
明らかに、こいつらは「繰上げ組みですよ!」とわかるようなデリカシーの無さには驚いた。
普通は、入学の時に、一緒にしないか?
そんなわけで、今、横浜労災病院の泌尿器科部長の山口君とは同級生だが、
順調に行けば同じクラスにならないのに、そんな理由で同じクラスになって、今でも近くで働いているので、時々酒も飲む。
明日はセンター試験・・・そんな、ずいぶん昔のことを思い出した。
各大学も「受験料」で、経営の安定化を図るのかもしれないが・・・
なんだか昔のほうがずっとすっきりしていたような気がする。
それでも、がんばれ受験生!
(19年1月19日)



年末年始

12月31日は、やらなければならない仕事が出来たので、午前中、病院に出かけた。
2病棟には大久保先生、磯部先生が担当患者さんの診療のために勤務室で仕事をしており、
外科の土田も回診のために来院していた。
祖父江先生も顔を出し、私を含めて5人の医師が勤務しているという、
普通の日のようで、とても大晦日とも思えない状況だった。
いつもの年なら、年末年始は入院患者さんも少ないのだが、
今年は比較的患者さんも多く、呼吸器をつけている患者さんもいて、病棟の看護師は忙しそうだった。
新しい年は実家の逗子で迎えた。
小坪」という昔からの小さな漁港の町だが、逗子マリーナがあるので、最近はテレビに出たりすることも多くなった。
漁港を見下ろす山のうえに「天照大神社」があり、毎年元旦には朝早くから雅楽の曲が流れてくる。
実家は神社のすぐ下にあるので、1年の初めの朝は雅楽の音で目が覚める。
いつもは2日に鶴岡八幡宮に初詣に行くのだが、今年は天気が悪くなるかもしれないとのことで、元旦に出かけた。
お賽銭を投げるだけでなく、毎年お払いも受けるので、祈祷受付まで行ったのはいいが、
元旦だからなのか、神頼みをする人が多いのか・・・
あまりにもお払いを受ける人が多く、本殿や、待合室に入りきれず、受付が一時中断されていた。
仕方が無いので並んで待っていると、急に雨が降り始めた。
2日が雨というので、わざわざ元旦に出てきたのに!
傘も持っていないのでずぶぬれになってしまった。
散々ぬれてから、ようやく受付が再開され、テントの中に入ったとたんに雨がやんできた。
自分が待って並んでいる時だけ大雨になっていた。
拝殿待合にたどりつくと、どこかで見たことのある顔に気がついた。
わかった! 私の外来に通っている患者さんだ!
患者さんは私に気づいていないようだ。
別に、悪いことをしているわけではないのだが・・・
自分の体調を管理してくれるはずの医者が、病気平癒だの身体健全だのと、神頼みのお払いを受けているのを見るのも、
なんか不安にさせてしまうかもしれないな・・・と思い、気づかれないように小さくなっていた。
あまりの混雑のため、一度に100人以上もまとめてお払いを受けるので、
神主さんが、それぞれの名前と頼みごとをずらずらと読み上げるだけで、かなりの時間がたってしまう。
足のしびれてくるし、しかも座らされた場所からは神主さんの姿が全く見えず、声もマイクのスピーカーから流れてくる。
自分の名前と願い事はちゃんと言ってくれたが、他の人の時には途中でつっかえてしまったりで・・・
ご利益は大丈夫なんだろうか・・・と、少し心配になったが、それでもお札をもらって外に出ると、
さっきの雨がうそのように上がり、晴れ間さえ出てきた。
お参り前が大雨で、あとにはすっかりいい天気になる!
きっと、あの雨で去年の悪いことがすっかり洗い流されたような気がして、
なんだか今年はいいことがありそうな予感がしてきた!
正月、自分がこんなにのんびりしている時にも、病院では患者さんを守って働いてくれるスタッフがたくさんいる。
そんなスタッフに感謝しつつ、屋台のジャガバタをほおばりながら神社を後にした。
(19年1月3日)



酒を見るのもイヤ!

いつの間にか今年もあと少しを残すだけになった。
世の中は忘年会の真っ盛りだ。
平和病院でも各部署ごとの忘年会も個々に開かれるが、
病院「親睦会」主催の全体の忘年会が毎年開かれる。
最近は出席率が下がり、毎年、「出来るだけ出席するように!」とのおふれを出すことまであった。
病院の職員数は今では300人にせまる勢いだ。
人が増えた分、他の部署の職員との関係は以前より希薄になりつつある。
ただ、病院は一人の患者さんを多くの職種の職員が密接に連携を取り合って治療を展開していかなければならない。
以前のように、医者のさじ加減だけで治療をする時代ではない。
そんなわけで、この「親睦会」の忘年会は、自分では大きな意味を持つと思っているが・・・
必ずしも若い職員には、今ひとつ理解されていないような面もある。
それはともかく、今年は鶴見駅前にある中華料理店で開催され、70人以上の出席者だった。
円卓なので、出席者全体の顔も確認でき、いつもよりまんべんなく各部署からの参加もあるようで、なかなかよかった。
最近はどの宴会に出席しても、以前に比べ、ほとんど飲まなくなった。
弱くなったのかもしれない・・・
ただ、今年の忘年会は、けっこうな盛り上がりを見せ、
多くの職員が自分の席に来てお酒(紹興酒)をついでくれるので・・
ついつい飲みすぎてしまったようだ(どれくらい飲んだか覚えていない)。
おまけに事務長はカラオケで歌うわ、前事務長はカラオケが無いのに歌いだすわ、
看護部長はその後ろで踊りだすわで・・・・
そのうち、「院長が、歌いま~す」などと前事務長が叫び、舞台に無理やり上がらされた。
歌いますったって、カラオケもないし、どうすんのよ!
舞台には立っちまったし・・・しかも酔っ払っちゃったし・・・・で、
やめればいいのに、何年間も封印していた「ソーラン節」をやってしまった。
この「ソーラン節」は大学のクラブ(ウボイコールという、今でも続いている音楽系のサークル)で
1年生の時に叩き込まれたもので、(そのうちホームページでも書こうと思っているが・・・
そこでは、後になって、いわゆる「バンド」のサークルになる前は、和太鼓をたたいたりもしていたことがある)
けっこう力を入れて踊りながら歌う。もう何十年も前なのに、不思議と振りを覚えている!
別に宴会芸でもないのだが、酔っ払ったせいもあって、ついついやってしまった!
その後、景品の抽選などもあり、お開きになり、鶴見駅からタクシーに乗って帰ったのはいいが・・・・
途中で気分が悪くなった。
タクシーを降りる頃は「吐く寸前」で、降りたとたんに吐いた。
いつもは早めにウーロン茶に変えるのに、注がれた紹興酒を際限なく飲んだのが敗因か!
自宅にやっとの思いでたどり着き、トイレに直行し、そのまま動けなくなった。
あとから聞くと、1時間半も入りっぱなしだったとのことで・・・
さらに悪いことには、自宅のトイレは自動でセンサーが感知して便座が開閉する仕組みになっている。
座り込んで、というより便器を抱え込むようにして床に座って吐いていたので、
センサーが感知せず、吐いている途中で、便座のふたが閉じてきて、頭を挟まれるという
何とも情けない状況になった。
少し落ち着いてトイレから這うように出てきたが、そのまま動けなくなった。
娘の、「きゃ~、何これ!、ただの酔っ払いの親父じゃない!」などの暴言にも対抗する気もおこらない。
結局朝の4時まで(自宅に帰ったのは11時前なのに)動けず、そのあとようやく着替えて布団に入った。
翌日が休みで幸いだった。昼過ぎまでダウンしていたが、
悪いことに、夕方からは親戚が集まる会があったが、とてもじゃないが酒など全く飲む気がしない
腹筋は痛むし、喉はあれてるし・・・頭は痛いし・・・
24日のクリスマスイブもアルコールは抜き!
今週は木曜日にもう一回、病棟の忘年会があり、金曜日は納会だ。
ただ、今は、ま~~~~ったく、酒は飲む気がしない!(あと2~3日すれば変わるかもしれないが・・・)
こんなにひどく酔ったのは何年も記憶にない。
まあ、それだけ楽しかったのかもしれないが・・・やはり「お酒は楽しくほどほどに!」というのを、イヤというほど実感した。
(18年12月25日)

「まりもっこり」津軽海峡を渡る!

半年くらい前、北海道に行ったときに空港の売店でお土産を買うとき、
北海道で大ブレイク!」の誘い文句につられて買ってきたまりもっこり」と「じゃがいもっこりのことを
書いたことがあるが・・・
子供たちからは全く相手にされず、娘は財布にいやいやながらもつけてくれたが、
息子は「じゃがいもっこり」を頑としてうけつけず、仕方が無いので、自分が病院で使っているPHSのストラップにしていた。
こんなのブレイクするはずもないか・・・とあきらめていたら・・・
なんと、いつの間にかその人気は、ついに津軽海峡をこえ、全国的になっていたようだ!
フィギュアスケートの安藤選手がトリノで撮られた写真の携帯に「まりもっこり」がついていたらしく、
また、タレントの真鍋かおりのブログでも紹介され、いまや、「まりもっこり」をインターネット検索すると25000件も出てくる!
ちなみに「まりもっこり」「じゃがいもっこり」「大ブレイク」で検索すると、このホームページも出てくるのには笑ってしまった。
外科のクラークの情報よれば、先日出かけた関内のもつ鍋屋にも、かなり大きな「まりもっこり」が飾ってあり、
なんと、モッコリした部分を触ると「あははは」とか声を出すものまであるらしい。
あまり触られすぎて、モッコリした部分がとれそうだったとのこと・・・
先日はテレビにも登場したらしく、まさか本当に大ブレイクするとは思ってもいなかった。
ネット販売では、なんとトランクスからTシャツまで販売されている。
なんだか知らないが、「ついにきたか~」と、自分のことのようにうれしくなる!
いま、病院用のPHSには「じゃがいもっこり」と「ゴーヤくん」(沖縄からのお土産でもらったもので、こちらはぜんぜんブレイクしていない)
がついていて、南北のコラボレーションといった感じだが、
なんだか今日あらためて見てみると、心なしか、いつもより誇らしげに
モッコリしているように見えた!(18年12月9日)



2ヶ月の差、2分の差

自分が手術を受けて、もうすぐ2年半になる。
幸い、体調は良好だ。
抗癌剤などを服用している訳ではないが、4ヶ月に1回はCTを撮影し、
手術を受けた秦野の神奈川病院を受診している。
先日も受診したが、診察室の机の上には今までになかったパソコンがおいてあったり、
電子カルテ化も近いらしい。
担当の先生が、CTをじっとながめている。
平和病院でCTを撮影し、自分でも画像を見て、放射線科の先生の読影結果を確認し、
大きな変化は無いことがわかってはいても、(手術した側の肺に小さな腫瘤はあるのだが、2年間大きさはかわっていない)
先生が口を開くまでは、やはりドキドキする。
自分がそうなので、最近は術後の患者さんが自分の外来を受診し、CTなどの検査結果を説明する時には、
所見を見て、まず「大丈夫ですよ!」と言ってから、細かい説明をするようにしている。
先生が話し始めた。もともとあまり口数の多い先生ではない。
「特に変わりは無いようですね!  もう仕事には差し支えありませんか?」
「はい!大丈夫です」
実際は、走ったりすると手術前よりずっと早く息が上がるのだが・・・
全力で走りながら仕事をしているわけではないので(もちろん気持ちは全力疾走だが・・・)
問題は無い。
「もう、半年に1回診せていただければいいでしょう。次は、連休明けにしましょう!」
4ヵ月毎の受診が6ヶ月になった
大して変わらないと思うかもしれないが・・・
この2ヶ月の差は、受診する側にしてみれば、その「期間」よりもずっと大きな意味を持つように感じる。
その期間だけ、病気から遠のいていく・・・
そんなことを実感する。
手術後5年たったら・・・・
と、よく言われる。
ただ、5年以上たってから再発する人や、転移が見つかる人がいることも、自分の目で見て知ってはいるのだが・・・
それでも、なんだか折り返し点にたどり着いたような気がした。
さて・・・
話は変わるが、最近、朝は冷え込むようになり、子供たちはなかなか起きてこない。
特に娘は何回起こしても、ぎりぎりまで起きてこない!
結局「いつもの電車に間に合わない!」と7時を過ぎてから大騒ぎになる。
「もう遅刻しちゃう!お願いだから駅まで車で送ってって!」
「やだよ!全力で走れば駅まで5分で行けるだろ!」
と、トイレに逃げ込もうとしても車の鍵を持って、トイレの前に立ちはだかる。
「だったらなんでもっと早く起きないんだ!2分早く起きて来りゃあいいだろ!」と、毎日言っていても、
その2分の差は大きいの!」だそうだ。
朝の2分は、短いようでいて、娘にとってはそれなりに意味がある?ようだ。
一方、息子は一緒に乗っていけるので、
「姉ちゃんのおかげだな!」と喜んでいる。
菊名の駅には、同じように哀れな親が多いと見え、次から次に車が止まり、子供が降りてくるが・・・
(たいてい運転しているのは母親だ)
この中で、うちの子達が絶対一番駅の近くに住んでるに違いない!(18年11月24日)

大善戦!(続:玉砕デビュー戦)

今朝、息子は5時半過ぎには浦和に出かけていった。
顧問の先生は「都合が悪い」とのことで、試合場には出てこられないというので、
何人かの父兄が付き添った。
妻も眠い目をこすりながら一緒に出かけていった・・・
試合はダブルス3組とシングルス2人の合計5試合で行われ、3勝したほうが勝ちになる。
息子は3試合目のダブルス1に出場した。
娘の予想では1試合8分で敗退するとのことだったので、開始後30分もすれば息子の出番が来ると思っていたが・・・
10時になっても何の連絡も来ない。
やはり気になるので携帯で連絡して見ると、なんと1試合目が長引いているらしい!
サーブが何とか入っているとのことだ・・・
そのあと自分は出かける用事があったので、気になりつつも連絡も取れなかったが、
昼過ぎにまた連絡してみると・・・
なんと息子の試合はタイブレイクの大接戦の結果、勝利を収めたというではないか!!!
え~~~!本当に勝っちゃったの??
しかも、そのあとのシングルスでも奇跡の1勝を勝ち取り、結果は3対2で負け、1回戦敗退したものの、
2試合をものにする大番狂わせになった。
ほぼ素人の中学1年に2試合も落とした相手校の選手は、
コーチに呼ばれ、試合の反省点を言わされていたとのことだった。
夕方、息子はピースサインで意気揚々と帰ってきたが、いやあ・・世の中何が起こるかわからないもんだ。
話によると、はじめは一方的な展開で負けていたのに、途中でブチ切れた息子のサーブが突然入るようになり、
開き直ってラケットを思い切り振り回したのが幸いし、ねばった末の逆転勝利だったそうだ。
選手全員が、負けたにもかかわらず、自分たちでも思わぬ善戦に大満足で帰ってきたようだった。
「惜しかったよ。もう少しで2回戦にいけたかもしれないナ!」など、
前日にルールブックを読みあさっていたとは思えない強気の発言も頼もしい!
でも・・・
何事も、やる前からあきらめちゃだめだってことだよなあ・・・
あらためて教えられたような気がする。
学校としては負けたけど・・・
息子よ!デビュー試合の逆転勝利・・・おめでとう!
(18年11月3日)



玉砕デビュー戦?

息子は中学生になって、硬式テニス部に入部した。
娘も今は引退したが、中学、高校とずっとテニス部に入っていた。
朝練習が7時からあるので、週2回は朝6時に出て行く。
一番下っ端なので、ボールはほとんど打てず、ひたすら筋トレとボール拾いのようだが・・・
中学受験の直前は運動など全くしなかったので、三段腹で肥満体系になりつつあったが、
半年で背も伸びたせいもあるのだろうが、あっという間に引き締まった体型になった。
自分の体型を見ると、メタボリックシンドロームまっしぐら!といった感じなのに・・・うらやましい限りだ。
息子が6時に出て行くときは自分も早く起きるので、最近は6時から1時間ほどウォーキングをするようになり、
新横浜にでて、鶴見川沿いを歩くことにしたのだが、悲しいかな、ウェストサイズは一向に変わらない!
それはともかく・・・
ある日息子がパンフレットを持ってきた。
アディダスカップ」と書いてあり、けっこう立派なもので、東京都私立中学高等学校テニス選手権大会のものだった。
試合にエントリーすることになったそうだ。
選手になったところを見ると、それなりの腕前になったのかと思いきや・・・
どうもそうではないらしい。
でたい者が全員エントリーしたらしく、同じ学校からずいぶん多くの生徒がエントリーしている。
どれどれ・・・と、パンフレットをみたら・・・
え!中学生と高校生は別々じゃないの?
対戦は中学、高校一緒くたで、組み合わせによっては中学生と高校生が対戦したりする。
息子のチームを見てみたら、ぜ、全員中1だ。
そもそも息子の学校のテニス部の顧問も、テニスの経験は無く、剣道一筋だった先生だという・・・
しかも相手の学校はといえば、全国大会にも時々出場する学校で、
おまけにメンバー表を見たら、対戦チームの中には高3、高2がぞろぞろいるじゃないか!
「おまえ、大丈夫なの?」と、思わず心配になってしまう。
話を聞けば、わがチームは息子を筆頭に、今まで1回も試合に出たことが無い連中ばかりで、試合のルールもおぼえているのやら・・・
中にはサーブがまだぜんぜん入らない子もいるとのこと・・・!
「お前はどうなの?」と聞けば・・・「う~ん、2回に1回はなんとか入るかな」って・・・・
同じ学校の中2と戦っても歯が立たないというのに、全国レベルの高校生とどうやって勝負するんだ!
中1なんて、中にはまだ小学生並みの体格の子だっているのに、高3なんていったら、大人なみでしょ~!
かなうわけ無いじゃない!
しかも自分たちで審判も務めなければならないとのことで、
チームの全員が、いま、泥縄でルールブックを必死で読んでいるありさまだ。
さらには、試合会場が埼玉にある相手校のグランドで、(テニスコートが何面もあるらしい)完全に「アウェイ」だ。
朝の6時には出て行かなければならない。
娘からは、「あ~・・・はっきり言って、試合は8分で終わるね!」と、ばっさり言われるし・・・
あわれ、息子のデビュー戦は、もはや玉砕しかないのか?
せめて相手のコートに一発でいいからサーブを入れてくれ!
試合は11月3日! 
結果は・・・・乞うご期待!
(18年10月29日)

いつの間にか5年!

このホームページは平成13年10月に開設しました。
いつの間にか今月でもう丸5年もたってしまいました。
自分のこと、病院のこと、家族のこと(娘のことを書くことが多いので、いつも娘からは怒られています!
娘は、いつか自分でパソコンが得意になったら、「ようこそ裏院長室へ・・」という名前のホームページを開設し、
私の自宅での姿のことをいろいろ暴露してやる!と言っています)
自分の医療に対しての考え方・・など思いつくままに書いてきました。
書き始めたころ中学1年だった娘は高校3年になり、
小学2年だった息子は中学1年になりました。
この間、自分も大きな病気を体験し、手術も受け、いろいろなことを考えました。
平和病院も大きく変わりました。
院長室も新しくなりました。
あらためて、5年の歳月は、やはりそれなりに長い・・・と感じています。
正直言って、始めたころはこんなに長く続けるとは思ってもいませんでした。
稲垣吾郎のことを書いていたときは、1日500件を超える驚異的なアクセス数だったこともあったり、
初めて平和病院に受診された患者さんからも、「ホームページ見ましたよ」といわれたり、
このホームページを見て、病院の職員になりたいと応募してきてくれた職員もいました。
最近は忙しさに、更新が遅れると、
「先生、最近、なかなかホームページが更新されてないですけど・・・忙しいんですか?」などとも言われてしまうことがあります。
とりとめもないない文章にもかかわらず、いつも読んでくださっている皆さんには本当に感謝の念でいっぱいです。
平和病院を利用される方が、少しでも平和病院のこと、その院長の考えを知ってくださり、
病院を選択するひとつの目安にしていただけたら・・・と思って始めましたが、
最近は、それなりに自分のストレス解消にもなっているような感じもします。
今後も病院の公式ホームページとは一味違う、本音の情報をお届けできたらと思っています。
6年目にはいった「ようこそ院長室へ」をよろしくお願いします。
(18年10月9日)



YS-11

先日、日本最初の国産旅客機、YS-11が現役を引退するとのことで、
鹿児島でのラストフライトの映像がニュースで何回も流された。
40年以上もの長い間、現役として日本の空を飛び続け、ラストフライトのチケットは発売後1分足らずで完売されたそうだ。
実は、YS-11には私にも思い出がある。
生まれてはじめて乗った飛行機がYS-11だったのだ。
YS-11がまだ正式に定期就航していない時期、叔父が観光会社に勤めていた関係で、お披露目フライトに搭乗できることになったのだ。
お披露目フライトといっても、たぶん何回も行っただろうから、自分が初めての乗客だったわけではないのだろうが・・・
それでもかなり早い時期に乗れたことには間違いない。
今でも当時の写真が残っているが、小学生の自分が、かなりめかしこんで写っている。
遠くに行くのではなく、羽田空港を離陸し、富士山の周りを回って帰ってくる、遊覧飛行のようなものだった。
そもそも自分はあまり乗り物には強くない!
ディズニーランドのダンボの乗り物でも酔う。ティーカップなどはとんでもない。
小学校の日光への修学旅行でも、電車に酔い、楽しみも半減した覚えがある。
ジェットコースターなどは「花やしき」のものでも恐ろしくて乗れない!
残念ながら、YS-11のフライトの時もそうだった。
始めのうちは、飛行機に乗れることで興奮していたが、
(何しろ、当時は飛行機に乗れる小学生などは、そんなにいなかったと思う)
富士山が見えるころには、顔面蒼白、生唾が止まらなくなり、
美しい景色など見る余裕も無く、旋回して帰路につくころには、ま新しい機内で吐きまくっていた!
せっかくの初飛行は散々な思い出になってしまったが・・・
ラストフライトの機内から出てくる人が満足そうな、誇らしげな顔をしている映像を見ているうちに、
もしかしたら、YS-11の40年以上の歴史の中での多くの乗客の中で、
自分が初めて「吐いてしまった!」乗客なのかもしれないと思うと・・・
なんだかそれは、それなりに「すごいこと」のような感じがして・・・
テレビに映るYS-11を懐かしく眺めていた。(18年10月2日)



ささやかな幸せ

最近自宅のパソコンの反応が遅い!
スイッチを入れてからおもむろにトイレに入り、出てきてもまだ画面が立ち上がっていない。
この前故障して修理に来てもらった時も、「メモリーを増やしたほうがいいですよ!」と、さんざんいわれた。
ふだんは自分のノートパソコンを使っているのであまり不自由を感じてなかったが、
家族からはきわめて評判が悪い。
息子がゲームソフトを買いにいくというので、新横浜のビックカメラについて行き、ついでにメモリーを買うことにした。
もっと安いかと思っていたら、11800円もした。
レジに並び、「ポイントはおためしますか?」の決まり文句を聞かれたので・・・
「お願いします」といったその時!
カラ~ンカラ~ンカラ~ン!!おめでとうございま~す!
何事かと思ったが、今ビックカメラでは「
100人に一人タダ!」のキャンペーンをやっており、
ラッキーにも自分が大当たり!になったようだ。
本当に一円も払わず、11800円のメモリーが自分のものになった!(しかもポイントはつけてくれる!)
こんなことなら、冷蔵庫も壊れかけてるし、掃除機だって・・・・とか、高額商品を買わなかったのが悔やまれる!
今から追加で買っちゃだめなんですよね」などと、未練がましくレジのお姉さんに聞いたが・・・
もちろん、「ええ、申し訳ありませんが・・・」と、丁寧に断られた。
「もっと高いものを買ったときにあたりたかったな~」と言うと・・・
お姉さんに、「そういう人には当たらないものなんですよ・・・」と、諭されてしまった。
実は、この100人に一人タダ!に当たったのは今回が初めてではない。
何年か前、数百円の本を買ったときにも当たったことがある!(10万円までタダなのに)
それにくらべれば、今回はずっとましなので、まあ、よしとしよう!
帰りがけ、「得したぶん、宝くじを買おう」といったら、
「父さん!そんなことしてるからいつまでたっても、お金がたまらないんだぞ!」と、息子にしかられた。
娘だったら、おそらく、「ぜったい買う!」と言うだろうに・・・などと考えながら家に帰ってパソコンのメモリーを増やすと・・・・
こんなにも違うものか!と、びっくりするほど反応が早くなった。
しかも、タダだからな~
病院では、厳しい状況を見せつけられている今日この頃・・・
すばやく動くパソコンの画面を見ながら、ささやかな幸せを感じた日曜日だった。
(18年9月10日)

ヨン様の凋落!

最近、東芝鶴見病院の院長だった倉田先生(今は鶴見駅前で開業している)から患者さんが紹介されてきた。
腹痛の治療のためだった。
はじめは大きな病院を希望していたようだが、
「平和病院のタカハシ先生によく診てもらいなさい」
と、言ってくださったようだ。
この患者さんは、私が鶴見病院の外科で外来を担当していた時に、何回か受診されていたため、
倉田先生も私宛に紹介してくれたようだった。
診察してみると、確かに顔に見覚えがある。
入院が必要な状況だったので病室の手配をした。
翌日のこと、ナースステーションの前にその患者さんがいたので「どうですか?」と話しかけると・・・
「ああ!やっぱり髙橋先生だったんですね!」と言う。
倉田先生から紹介され、外科の外来を受診した時には鶴見病院の時にかかっていた「タカハシ」と私が同一人物とは思わなかったようだ。
「鶴見病院の時にお世話になっていたときの先生なのかな・・・・と思っていたんですけど、その時よりずっとお若いので
もしからしたら違う先生かと思ってしまいました。でも、あ~よかった。先生で!でも・・・
本当に若くなっちゃって!
そこまでいわれると、さすがに悪い気はしない!
けっこう大きな声で話していたので、中にいた看護師さんにも聞こえたようだった。
その後ナースステーションに入り・・・看護師さんたちに、
「ほらほら、ちゃんと聞こえたかな!若くなっちゃったってよ!」と言うと・・・
「よかったですね~・・・でも、先生、最近テレビによく出てくる教祖に似てますよね!」ときた。
「あの人のニュースを見ると先生をイメージしちゃって・・・」
おいおい!
それってSとかいう韓国の新興宗教教団のCho教祖のことか?
しかも、それを聞いていた外科の梅木が「あ!」と思わず口走った。
え?その「あ!」は何?
ひょっとして、「あ!そういえば似てる!」の「あ!」かい?
なんか怪しげなイメージが似てますよね!」って・・・どこが怪しいんじゃい!
教祖の顔などまったく興味が無いので覚えてもいなかったが、どうしても気になってきた。
家に帰って娘に言うと、大うけで、
鼻かな・・髪型かな・・やっぱ雰囲気じゃないの?とか言って、
「おとうさん、そんなこと無いよ」などとはまったく言う気配も無い。
その後から、注意してニュースなどを見ていたが・・・
出てきた出てきた。
なんか、タクトを振ったりしている。思わず見入ってしまったが・・・
なんだ!、ぜ~んぜん似てないじゃないか!
めがねだってかけてないし。とか言いながらも、にてるのかな?などと考えてしまうのは、もはや洗脳されているのか?
かつては何人かの患者さんから、冬ソナのヨン様に似てる!などといわれていたのに・・・
ずいぶんな変わりようじゃないか!
ただ・・・患者さんも「ヨン様に似てますね」とはいえても「教祖に似てますね!」とはさすがにいえないだろうから・・・
もしかしたら、言われないだけで、思われているのかも!   18年8月7日


大ブレイク!

毎年、昔出張していた八日市場市民病院(今は、市町村合併で匝瑳市民病院になったそうだ。昔は国保、八日市場病院だった)の仲間と
1泊2日の北海道ゴルフツアーに行く。
自分が出張している時に一緒だった4年先輩が今は院長になっているが、
企画、手配はツアーコンダクターのように全部その先生がしてくれる。
毎年「今年は○○にしよう。との連絡があり、朝早く羽田集合になるのだが、
全部お任せなので、実際に羽田の集合場所まで行かないと、どこに泊まるのか、何時のフライトなのかもわからない。
一昨年は手術直後で行かれなかったが、去年は帯広、今年は旭川だった。
あいにくと天気が悪く、せっかく北海道まで行ったのに、
傘をさしながらのプレイになってしまったが、
夜は久しぶりに仕事も忘れ、飲んで食べて・・・
昔大学で一緒に働いていた2年後輩が旭川で開業しているので、その先生も呼び出して、遅くまで大いに盛り上がった。
翌日も雨だったが、なんと、終わったころに晴れ間がでてきた。
帰りの飛行機まで時間があるので、
最近有名になった旭山動物園に出かけた。
テレビなどでさんざん取材を受けていたせいで、大混雑だった。
来園者が増えたためと思われる大規模な改修工事の最中で、期待していたほどではなかったが・・・
他の動物園に比べれば確かに見せ方に工夫がこらされていて、
発想を変え、つぶれかけていた動物園を日本有数の観光スポットに再生させた経営者の手腕はすばらしいと思った。
旭川空港に着くころには夕焼けがきれいで・・・
明日ゴルフをする人はさぞかし気持ちがいいんだろう・・・と、思わずもう一泊したくなったが、そうもいかない。
とりあえずお土産を買わないと・・・・と、空港内の売店を見たら・・・
あったあった!
焼き鮭の形をした携帯ストラップ!
これは娘の携帯にもってこいだ!
昔買ってやった鮭のキーホルダーは壊れてしまい、今、かばんにはついていない。
やはり娘の持ち物には、どこかに鮭がついてないとね・・・
迷うことなく買ったのだが・・・
ふと隣のストラップが目に付いた。
今、北海道で大ブレイク!
まりもっこり!
と書いてある。
なんじゃそれ?と見てみると・・・
緑色をしたマリモに顔が描いてあり、アンパンマンのような格好で、マントをつけている。
パンツのところがポッコリ盛り上がっており・・・
なんと、まりものパンツの部分がモッコリしているので「まりもっこり」という意味だとわかった。
ほんとにこんなものが「大ブレイク!」しているのかと、疑いたくなったが・・・
なんと、その隣に、まりもっこりの仲間で顔はジャガイモ・・・・
そう!「じゃがいもっこり」も売っているではないか。
これは買わずにいられない。思わず両方買ってしまった。
家に帰って子供たちにお土産を渡すと、案の定、鮭のストラップは好評で、さっそく携帯につけてくれたのに・・・
まりもっこりと、じゃがいもっこりはきわめて不評で・・・
ふだんは娘と違い、気を使う息子にまで「こんなの恥ずかしくてつけられるわけないだろ!」
といわれる始末で・・・
せっかく買ってきたのに、結局自分で持つはめになってしまった。
北海道で大ブレイクしているとのことだが、いまだにブレイクが津軽海峡を渡ったという話が聞こえてこない!
いつか横浜で大ブレイクすることを待ちながら、もっこりしたまま引き出しの中で眠っている。(18年7月24日)

画伯

かなり前から毎年、新しく外科のスタッフが交代すると、その似顔絵を描き、外科外来の入り口近くに掲示している。
病院のホームページの「外科」のところに描いてある絵と同じものだ。
「写生」ではないので、ネームプレート用に撮った写真を見てデフォルメして描いているのだが・・・
描き易い顔と描きにくい顔がある。
その中でも、自分の顔は一番似ていないような気がする。
だいぶ前、私の外来に長い間通っていた患者さんが亡くなった。
ご自分の病気のことも理解されており、淡々と、最後は病院で息をひきとられた。
しばらくたったある日、奥様が外来を訪ねていらした。
以前から外来の入り口の似顔絵をご覧になっていて、
ご家族の似顔絵を私に描いてほしいと思っていらしたようで・・・
亡くなった患者さんを含めたご家族の写真とともにお手紙をいただいた。
宛名が、「画伯」髙橋先生!となっている。
おだてられるとすぐその気になるほうなので、「わかりました」と、かんたんにお引き受けしたのだが・・・
外来のスタッフの場合は、けっこうすぐ描いてしまうのに、
今回は、いざ描き始めても、なかなか気に入った絵にならない!
外来のものはコピー用紙に描けばいいので何回も描き直したり出来るが、
コピー用紙を差し上げるわけにも行かず、ちゃんとした色紙に描き始めたのはいいが・・・
なかなか描き直しも出来ず、お約束の期日はせまって来るのに、時間ばかりたってしまっていたが・・・
つい先日、やっと完成した!
数ヶ月かかった「力作」?だ。
患者さんご本人、ご夫婦、ご家族全員、の3枚セットになっている。
奥様が、外来に通っていらっしゃるので、この次に来院された時、お渡ししようと思っている。
気に入ってくださるといいが・・・・
      平成18年7月14日


2年前の6・21

2年前の6月21日・・・入院した。
いつもはあまり思い出さないのに、その日は、時計を見るたびに、
あの日の今頃は手術の説明を受けていたとか・・・風呂に入っていたとか・・・いちいち思い出していた。
去年の今頃にも同じようなことを書いた。
書いたまま、そのままにしてしまった。
さらに一年たった後、読み返してみると、やはり今とは少し違ったことを考えていた自分がいる。

1年前に書いたこと

6月22日:去年の今日、手術をした。
6月21日にも、去年の今日、入院したんだ・・・と思い出した。
一年間、長かったといえば、長かった。
こだわるつもりは無かったが・・・
6月21日に、再発や転移が無いかを確認するため、CTを撮った。
ひとまずは無事に生きている!
1年生存率」の数字を下げる側に回らずにすんだようだ。
去年の今頃は猛烈に暑かったことを思い出す。
同じ時期、同じようなことが繰り返される。
6月の社員総会、理事会・・・3期目の理事長に推挙された。
退院の日、何が何でもとの思いで出かけた息子の父親参観日も、
今年はせっかく土曜日の午後にあったのに、外来が終わらず見に行ってやれなかった。
賞与の支給式・・・昨年はメッセージをメールで送っただけで、授与式は行えなかった。
今年は予定はしていたが、手術予定の患者さんの麻酔導入に時間がかかり、
せっかく集まった幹部職員を待たせた挙句、すっぽかしてしまった。
同じような行事も、今年は少しずつ違って動いていく。
一年たっても深呼吸した時の右脇の傷の引きつれた感覚は治らない。
傷の痛みで天気がわかる」と、何人もの患者さんが言っていたことが「本当なんだ」とわかる。
自分が手術を受けた後にも、私の外来に通院している癌の患者さんは大勢いる。
体調を聞き、診察をし、時に検査をし、再発や転移が無いかを調べる。
抗癌剤をずっとのみ続けている患者さんもいる。
診察室にいる短い時間以外、それぞれの患者さんには、それぞれの手術後の長い時間がある。
その患者さんの周りには一緒に暮らし、患者さんを支えるご家族がいる。
手術後の、病気に対する思いはその人達の数だけいっぱいある。
3年、5年、10年・・・・
時間がたつにつれて、その思いは変わっていくんだろうが・・・
検査のたびに、その結果が出るまでの不安は、おそらくなくなる事なんて無いんだろう。
異常なし」の結果を説明できる時・・・
本当によかったですね!と、こちらも胸をなでおろす。
6月22日はさすがにず~っと1年前のことを思っていた、
最近はあまり自宅で飲むことも少なくなったが、久しぶりに「セブンクラウン」を口にした。
来年の今頃は今年と違った感覚で迎えているのだろうか・・・
最近は以前に比べ、1日、1月、1年という長さを実感するようになったように思う。
景色を見ていても、今見ている景色は、もう見ることが無いかもしれない・・・と思うと
旅先でのなんでもない麦畑の風景や、大豆の畑でさえも意識して見る様になっている。
たぶん・・・きっといいことなんだろう。
子供たちと過ごす時間、今までは当たり前のこととして意識もしなかったことを、
意識して行うようになっているのに気づく。
誰でも自分のゴールがいつ、どのような形でおとずれるのかなどはわからないのだろうが・・・
健康だった時には決して意識していなかった「その時」を、より現実的に考えるようになっているのかもしれない。
もちろん、まだまだやりたいこともある。見ておきたいことも山ほどある。それでも・・・
そんな考えにはおかまいなしに、今日も1日が過ぎていく。



2年目もやはり入院した時を思い出した。
来年の6月21日もたぶん同じなんだろう。
病気になったことは運が悪かったが・・・
あの時、CTを偶然撮ったのは、今考えても運がよかったと思う。
あのまま気づかずに症状が出てから検査をしていたら、
たぶん今の状況はずっと深刻だったろう。
もしかしたら、今頃、また入院していたり、もっと悪い方向にだって行っていたかもしれない。
自分が手術を受けたすぐ後、私の外来に通っていた患者さんのCT検査で肺腫瘍が見つかった。
その患者さんも、特に症状は無かったが、以前に受けた他の手術の術後チェックで発見された。
発見された時の、しこりの大きさは残念ながら私のものよりかなり大きかった。
手術後には抗癌剤ものんでいたのだが・・・
先日の検査で別の場所にしこりが見つかってしまった。
再発だった。
癌の術後の患者さんは私の外来にもたくさん通っている。
中には不幸にも再発や転移をおこしてしまう人もいるが・・・
この患者さんの再発は自分にとってもショックだった。
ついつい自分と重ねてしまう。
自分と同じころ、同じ病気で、同じ手術を受けているのだ。
自分もそろそろ検査の時期になった。
検査はしなくてはならないのだが、そのままにしてしまいたい気もする。
もし検査で何かが見つかったら・・・との思いは検査のたびに頭をよぎる。
咳が何日か続くと、もしかしたら・・・などとも思う。
自分でも、「まったくだらしが無い!」とも思うが・・・これはたぶん仕方の無いことなんだろう。
「抗癌剤はのまなくてもいいんですか?」と、一度担当の先生に聞いたことがある。
「先生の場合はのんでものまなくても、予後には変わりが無いので、のむ必要はありませんよ」とのことだった。
その代わり?朝鮮人参やらサプリメントやらをやたらにのんでいた。
アガリクス」ものんでいたが・・・
発ガン作用がある!との記事が新聞に載り、大慌てでのむのをやめた。
そんなことはともかく・・・
生きている、仕事をしている、呼吸が出来る、ものが食べられる・・・
そんな、当たり前のことが、実はすばらしいことだということは、手術以来ずっと感じている。
その当たり前のことが、出来なくなるかもしれない患者さんを何とかしたいと思う気持ちは、
前よりずっと強い(と思う)
その患者さんを自分の姿に置き換えて考えてしまい・・・
その人の苦しみを取ることができたら、自分がもしそんなことになった時、
同じように誰かが自分の苦しみを取ってくれ、自分も苦しまなくてもすむかもしれない・・・などとも思っていた。
ただ・・・
少し前、私が在宅ターミナルにかかわり、喉頭癌で亡くなった患者さんが、書いた言葉に
善きことを、行いいれば善きことが、我が身に及ぶ思い甘きか
というのがあった。
2年目の記念日、その言葉を思い出した。
6月22日、自宅に帰るとケーキが用意されていた。
ろうそくが2本立っている。
手術を受け、新しく命をもらって2歳の誕生日だから・・・らしい。
今、病院は大きなピンチにみまわれている。
2年目の感傷などに浸っている暇は無い。
1年前に比べれば、より現実に目を向けざるを得ない自分がいる。
こうして、毎年毎年6月21日を迎え、
ずっと先になって、ああ・・・そういえば手術を受けたんだっけ・・・
と言えるようになれば、それはとても幸せなことなのかもしれない。
(6月22日)

骨折ふたたび

土曜日の外来の最中に自分の携帯電話がなった。
診察中はもちろん電話などには出られない。
そのままにしていたが・・・
すぐ後に外来の電話が鳴った。自宅からだという。
診療時間中には絶対電話をしないように話しているのに・・・
いや~な予感がして電話に出たが・・・
妻のあわてた声がして・・・
息子が学校の体育の授業中に骨折したらしいとのことだった。詳しい様子はわからないが、
父親(私)の勤務先が病院なので、
救急車を呼んで近くの病院に運ぶ前に、どうしたらいいかと、学校から連絡があったようだ。
他の病院へ行かれても、様子がわからないので
整形外科の根本先生や、放射線技師に、少し残ってもらうように頼み、
平和病院まで連れてきてもらった。
妻も病院に駆けつけ、息子の来るのを待ったが・・・
外来診療を終え、しばらくして先生に付き添われた息子がタクシーに乗ってやってきた。
左腕がぐにゃっと曲がっているのがすぐわかる!ただ・・・傷は無さそうだ。
顔は真っ青で・・・・(息子は車にすぐ酔う!)
レントゲンを撮ると、手首の近くの骨が二本、みごとにポッキリ折れていた。
透視をしながら、ずれた骨を出来るだけ元に戻すのだが・・・
麻酔を使わず、腕を引っ張りながら位置をずらしていくので・・・
さすがに痛いらしく、大声を出す!自分も体を抑えていたが・・・見ていられない!
ただの素人さんになってしまう自分が情けないが・・・
何とかもとの位置に近いところまで整復したところで、仮のギブスを巻いた。
幸い、今のところは手術などは必要ないようだが、
骨がずれてきた場合には、固定の手術が必要になると言われた。
入院もすすめられたが、どうしても帰りたがったので、連れて帰ることにした。
自分は医者だし、妻はず~~~~っと前には看護師だったので、
まあ、自宅に帰っても入院しているようなもんだ。
その日は自分が外部からの当直医が来るまでの残り番に当たっていたので、
そのまま病院で待たせて、夕方、一緒に帰ってきた。
打たれ弱いのか、実際に痛いのか・・・
ぐったりとつかれきった息子は、そのまま横になってしまった。
寝顔を見ていると、息子が生まれる前・・・
上の娘が幼稚園の年少さんの時、階段から飛び降りて足の骨を骨折したことを思い出した。
その時は骨がなかなかつかず、平和病院に一ヶ月近くも入院した。
ちょうど今頃の時期で・・・子供が小さかったので、「暑い」だの「かゆい」だのとぐずり、
妻と交代でつきそったり、娘の病室で当直をしたりした。
もう、その時のことを知っている看護師さんは、今では10人くらいしかいない!
それよりず~っと前、自分が高校生の時、
学校でバスケットをしていて、右の小指を骨折したことも思い出した。
はじめは整骨院で治療したが、治っているといわれ、ギブスをはずしたら、指がまったく曲がらず、
父の勤務していた武蔵野日赤病院に入院して手術を受けた。
ちょうど関節の部分が折れていたので、結局手術はうまくいかず、今でも小指は不恰好に曲がったままだが・・・
(自分では変形を意識しているつもりはないのだが、ジャンケンをする時、昔からパーは出せなくなっている)
入院中は、自宅ではあまり具合のよく無さそうだった自分の父親が、
白衣を着て病室に入ってくるのが、なんとなくうれしかったような気がする。
父親が死ぬ一年くらい前の話だ。
いずれにしても、わが子の場合は右腕でなかったのが不幸中の幸いだ。
その後、家には担任の先生や、体育の先生から電話がかかってきた。
(翌日は日曜日だったが、また担任の先生からお電話をいただいた)
先生方の話を聞いていて・・・なんとなく、きっと、「学校は何をしていたんだ!」とか、「監督不行き届きだ!」
などと、わけのわからない文句を言う親もいるんだろうな・・・と感じた。
別に、今回は誰かが悪ふざけをしていたわけでもなく、運が悪かったんだろうし、
手のつき方がたまたま悪かったのだろうし、学校を責めるつもりなどまったくない。
ただ、月曜日から、ギブスをはめて毎日重いかばんをしょって、ラッシュの真っ只中に突っ込んでいくことを思うと・・・
どうしたものかと思うが・・・
せっかくクラブの朝練習や筋肉トレーニングで、毎日へとへとになりながらも、ようやく逞しくなって来たところなのに・・・
なまってしまうのが、もったいない!
楽しみにしていた夏休みの合宿には何とかいけるように、小魚と牛乳でも食わせまくるか!
  
おまけの話だが・・・・
骨折の知らせを聞いた妻が、病院に駆けつける時に乗ったタクシーの運転手さんと、
息子が骨折の治療をすることを話したら・・・
えっ?平和病院って骨折の治療が出来るんですか?老人病院だとばっかり思ってました!
と言われたらしい。
こら!
確かに、ご高齢の方が受診することも多く、療養病棟もあるが、
平和病院は「老人病院」じゃないぞ!(平成18年8月10日)


留守番を探せ!

在宅でターミナルケアを受けていたKさんの容態がだんだん悪くなってきた。
ほとんど意識もなく、眠っているような状態だったが、
ご自宅が病院からの帰り道の途中にあったので、時々臨時の往診にも出かけていた。
金曜日の夜、訪問看護師から連絡があった。
血圧が70台に低下してきており、尿量も減ってきたとのことだった。
その日の夜には呼ばれることを覚悟していたのだが・・・
朝になっても連絡はなかった。
もう、そのときが近いことは間違いがなかったが・・・
あいにく土曜日は当直、日曜日は夕方の5時まで日勤に当たっており、
その間はずっと病院にいなくてはならず、いやな予感がしていたのだが・・・
案の定、日曜日の朝9時ころに携帯電話がなった。
訪問看護師からで、Kさんのご家族から、呼吸が止まったとの連絡があり、これから出かけるという。
確かにKさんのご自宅は比較的病院の近くでもあり、
入院中の患者さんも落ちいてはいたが・・・
10時ころからは処置の必要な患者さんが5人くらい受診する予定になっている。
また、もし病院を留守にしている間に入院中の患者さんが急変でもしたら・・・と思うと、
やはり病院を離れるわけには行かない。
かといって、夕方までKさんをそのままにしておくわけにもいかず、
救急車で病院に連れてきてもらうことも考えたが・・・
そんなことをしたら、何のために今までご自宅にいたのかわからなくなってしまう。
自分ひとりで対応している限り、いつかはこういうことになる可能性があることは理解していたが・・・
実際その場に直面すると、在宅ターミナルの困難さをあらためて実感する羽目になってしまった。
病院の近くに住んでいるのは若い外科医だけだ。
祈るような気持ちで電話をかけてみたら・・・・
いたいた!
土田がつかまった!
さっそく事情を話し、往診に出かける間だけ留守番を頼むと、
快く引き受けてくれた。
準備を整え、病院の受付で待ち構えていると、10分ほどでやってきたので、
大急ぎでKさんの自宅に向かった。
すべてが終わって病院に戻ったころには、
受診予定の外来患者さんの処置はすべて終わっており、
一番忙しいときに留守番を頼んでしまったようだった。
今回はたまたま土田がバックアップを引き受けてくれたからよかったが・・・・
自分が往診できない場合のことも考えた二の矢の確保、
在宅ターミナルにかかわるネットワーク作りの必要性を
痛感させられた。

「サクラサク」

息子が中学生になった!
中学受験までの間、学校が終わってからも「]のマークがついた青いかばんを背負い、
電車に乗り、塾通いをし続けた。
夏休みも、正月もなく・・・
外で遊ぶこともなく、ゲームも出来ず、
ひたすら勉強していたが、
受験が終わってからは、すっかり開放され、
春休み中、我が家には毎日友達がやってきて、わいわいとさわがしかった。
休みの日には私とキャッチボールなどもするようになり、顔つきも生き生きしている様に思える。
もっとも、春休みの間にも、入学する学校の組分けテストがあったり、
まだ入学もしていないのに「宿題」が出ていたりで、緩みっぱなしになるわけにはいかないようだ。
今から2ヶ月前・・・
2月1日からの毎日は、今から考えても地獄のような日々で、たった数日間が、何ヶ月もの様に長く感じた。
そもそも、1月から「お試し受験」なるものがあり、
高知県の学校が、いろいろな都市で入学試験を行い、合否のほかに、
塾の試験のように成績順も発表される。
子供たちに、入学試験の雰囲気に慣れさせるために、かなりの人数が受験する。
合格しても、とても高知まで行かせるわけにもいかないので(全寮制ではあるが・・・)
まったくの「度胸試し」だけの試験だ。
さすがに「合格」したが、本番は2月1日からだ。
真冬の朝の6時過ぎ、まだ薄暗い中、息子を連れて試験場に向かう。
学校の門には、すでにいろいろな塾の先生たちが、通路の両側に並んでいて、
自分たちの塾の子供達が校門をくぐると、並んでいる先生の全員が握手をし、励ましの声をかける。
一種異様な雰囲気だ。
息子が試験場に入ったのを確認し、父兄の待合室に入る。
椅子は硬いし、たいていの場合、講堂や体育館が控え室に充てられているので、かなり寒い!
一応、単行本なども持って行くのだが、いくら読んでもストーリーなどはまったく頭に入らない。
そのうちに、前日受けた学校の合格発表の時間が近づくと、席を立ち、発表会場へと向かう・・・
結果を確認し、また試験を受けている学校に戻り、終わるのを待つ。
試験が終わり、出てきた息子に前日の試験の合否結果を伝えなければならない。
もちろん全部受かっていれば何の問題もないのが・・・・・
あいにくと、わが息子は連続で玉砕した。
合格発表を見るときの感覚は、本当に、口では言いあらわせないものがある。
自分の試験結果を自分で見に行くほうがよっぽどましだ!
学校にたどり着くまでの間、普段は不信心のくせに・・・
「神様!お願いします。息子を合格させてください!」とか「大丈夫!、受かってる!」など
意識しないのに、ぶつぶつとつぶやきながら歩いている。
学校につくまでの道の途中の道では、反対方向からニコニコ笑っている親子、
歩きながら涙を拭いているお母さん、
うなだれて歩く親子、
携帯電話で「受かったぞ~」などと叫んでいる親父など・・・いろいろな人たちとすれ違う。
校門をくぐり、だんだんと、合格者の番号が書いてある掲示板が近づいてくる。
受験票の番号を確認し、祈るような気持ちで番号を探す。
ない・・・」
一番違いの番号なら掲示されているのに・・・・
こればっかりは前後賞などありえない!
何回も何回も見直すが、息子の受験番号が浮かび上がってくるはずもなく・・・
それでも、どういうわけか、掲示板の前から離れられない。
周りにはガッツポーズをしながら携帯で結果を知らせる人、合格番号の写真をとる人、
掲示板の前で記念写真を撮る親子、抱き合って泣く親子・・・
何年もの苦労が一発の試験で決まる過酷な世界だ。
ようやくあきらめて、大きなため息をつき、掲示板の前からはなれる。
さて、息子にはなんていって説明するか・・・
何しろまだまだ試験は続いている。
結果を引きずり、総崩れになることもあるのだ・・・
「残念だったな」「駄目だったみたいだ」「また明日もある。気持ちを切り替えて頑張ろう!」
どんなことを言っても、がっかりすることには変わりない。
学校の出口が見えてくる。
もしかしたら・・・・
さっきはうっかりして、番号を見落としていたのかもしれない・・・との思いがわきあがってくる。
未練がましいとは思いながらも、今来た道を引き返し、もう一度掲示板のところまで戻ってしまう。
やっぱり・・・・ない!
重い足を引きずるようにして息子が試験を受けている学校に戻る。
試験が終わり、息子が出てくる。
「今日はどうだった?難しかったか?」
「うん、解けない問題があった・・・」
「そうか・・・」
「ところで父さん!、発表の結果はどうだったの?」
「う~~ん、残念だけど・・だめだった。でも、今日も頑張ったんだろ、明日も試験だし、
大丈夫、元気出せよ。父さんなんて、中学受験はぜ~~んぶ落っこちてんだぞ!
などと、わけもわからない慰めを口走る。
最近、身長が急に伸び、高さの差が少なくなった息子の肩を抱いて歩く。
悔しいんだろうな・・・悲しいのかな・・・
黙って歩いているのでよくわからなかったが・・・
家に帰ってきてから、部屋にこもって号泣する姿を見せられると、こちらも思わず涙が出てしまう。
しばらくの間は、何とかしようと思っても言葉のかけようもない。
同じようなことが2回続いた!
さすがに、こちらも精神的に相当のダメージを食らった。
もっとも、幸いなことに、しょっぱなに受けた学校の試験は、その日の夜に合格発表があり、
そこには合格していたので、ある程度の余裕はあり、まだ救われたが・・・
はじめの日に思いっきり喜びすぎた分、後のダメージがひびいた。
やはり、しり上がり・・というほうが気分的には楽なんだろう・・・
とにかく、学校も決まり、新しい制服も出来てきた。
ズボンなど、かなり長めに作ったはずなのに・・・もうぎりぎりという感じになってしまっている。
この時期の成長の早さには驚かされる!
高い声も出にくくなってきている。
桜の花はもう散りかけてきているが・・・
息子にとってはもちろん、親にとっても苦しい受験戦争だったが・・・
明日は入学式!
サクラサク!

(18年4月9日)

さすがにうるさい!

新しい年度が始まった!
4月1日は第一土曜日なので、年度のしょっぱなから当直にあたった。
現在2病棟では改修工事が急ピッチで行われており、
現在はトイレの入り口に自動ドアをつけたり、
車椅子用のトイレを増築したり、内視鏡室、超音波室部分の改装が行われている。
壁の一部を壊すので、すさまじい音がする。
患者さんには事前にお知らせしてはいるのだが・・・
実際当直で院長室に2日間いたが・・・
とてもじゃないが仕事どころではない!
廊下を隔てた病室の患者さんには、さすがに人間ドックの部屋に避難していただいた。
平日は外来の診療が行われているので音が出せず、
土日に集中的に工事が行われる。
最終的には病室部分も改修が始まるので、来月いっぱいはこの状態が続いてしまう。
今までも、「工事の騒音でご迷惑をおかけしますね・・・」などと回診の時にはいってはいたが・・・
これからは「
本当~にご迷惑を・・・」と、実感がこもるに違いない!(18年4月2日)


リハビリ難民・療養難民

この4月に診療報酬・介護報酬の同時改定が行われる。
「聖域なき構造改革」の名の下に、大幅な診療報酬、介護報酬の引き下げが行われる。
そもそも、医療や介護に金がかかりすぎるので、減らしてしまえ!という考えで行われているので、
一見すると、ごもっとも!・・と聞こえるような理由はつけられているが、
実際の現場とは相当かけ離れた認識の下に行われているので、
おそらく来年度以降、「つぶれる病院」がごろごろ出てくることが予想される。
介護保険制度が始まったころ、老人の介護はすべてこの保険でまかなう、との誘導の元、
多くの介護保険施設が作られた。
平和病院の介護療養型医療施設もそのひとつだ。
ところが、介護は「ビジネス」と考えた民間業者が数多く参入した。
病院の広告は厳しく規制されているにもかかわらず、
民間の介護サービス業者は堂々とTVコマーシャルまで行うようになり、
「ビジネス」である以上「顧客」の確保が必要になり、
要介護者の掘り起こしが行われ、あっという間に介護保険はパンクしてしまった。
今度は「介護予防」の名の元に、予防給付なるものが設定される。
介護療養型医療施設は平成24年には廃止されることが決定された。
平和病院の3病棟も何かしらの対応が迫られている。
13万床もある介護療養型医療施設が消えることになる。
医療療養病棟は25万床あるといわれているが、
「医療」療養なのだから、という理由で「医療区分」なるものが決められ、
医療の必要がない場合は診療報酬を極端に下げ、
病院がこのような患者さんを入院させておく場合、多大な損出をこうむるように設定し、
老健施設、特養、有料老人ホーム、グループホーム、あるいは自宅等へ移行させようとしている。
厚生労働省は、療養病床は医療保険対応の15万床にまで減らそうとしている。
現在入院している何十万の患者さんは本当に他の介護施設、老人ホーム、在宅へ移行できるのだろうか・・・・
今後も高齢者はどんどん増えていく。
逆に、介護する側の家族はどんどん少なくなっていく。
行き場のない療養難民があふれるような気がするのは私だけだろうか?
リハビリにしてもそうだ。
症状が固定し、効果のないリハビリが延々と行われている」として、
症状発生後、半年程度を経過した場合は、リハビリをしても医療保険からは費用が支給されなくなる。
病院は理学療法士の人件費すら払えなくなってしまう!
確かに、毎日、日課のように整形外科に通いリハビリを受けに来る患者さんもいる。
ただ、それだからこそ、現状のADLを維持できている人だって大勢いる。
「そんなことを言うなら、リハビリはやればいいじゃないか」といったって、
規定日数を超えた場合のリハビリは、理学療法士がどんなに一生懸命やっても、300円ほどしかいただけない
自己負担分の話ではない、全部でそれだけしかもらえないのだ!
高校生のアルバイト代のほうが、まだましだ!
病院は患者さんのためを思い、治療はするが・・・
ボランティアではない!
断腸の思いで、リハビリをお断りせざるを得ない患者さんが大勢出てくるだろう・・・
動けなくなる人、関節の拘縮が進む人が大勢出てくるのではないだろうか・・・・
リハビリ難民があふれることになりはしないだろうか?
病院は「お上」には逆らえない。
「誘導」されるまま、厳しい経営状況に追い込まれ、流されていくもの、沈んでそのまま消えていくもの・・・
生き残れるのはごくわずかだ。
平和病院は、どこまでしぶとく生き残っていけるのだろう?
いよいよ正念場だ!(18年3月24日)

バックアップは大切に!

2週間ほど前、パソコンを開こうと思ったら、画面が真っ黒のまま・・・・ウィンドウズが立ち上がらなくなった。
もともとパソコンには詳しくないので、途方にくれた。
しかも・・・
バックアップを取っていなかったので、ホームページのデータも全滅の可能性がある!
どうしようもなく、パソコンショップに持ち込んで調べてもらったが、
データを取り出せるかどうかは、やってみないとわからないとのこと。
本体はメーカー修理で1ヶ月以上かかり、しかも直せるかどうか、いくらかかるかもわからないとのことだった。
幸いデータは何とか無事だというので、外付けのハードディスクとやらにデータを移行してくれた。
ただ、移行まではパソコンショップの機器にデータが保存されており・・・
しかも「高橋様データ」などと書いてあり、ありふれた苗字なので同じような「高橋」のデータがいくつも保存されてある。
データ移行の際、「このデータかどうかご確認願います」、と見せられたものはまったく別人のデータだったりして・・・
個人情報保護がうるさい昨今なのに、大丈夫なんだろうかと不安になる。
自分のデータも見られている可能性があるわけで・・・
まあ、そんな機密のものはないとはいえ、あまり気持ちのいいものでもない。
そんなわけで・・・
このホームページもしばらく更新もできずにいたが、
別のパソコンでかろうじて復活することができた。
この4月からの医療報酬、介護報酬同時改定に関するお知らせや
また、新たな診療体制など・・・病院も変わらなくてはならないし、お知らせしたいことがどんどん多くなると思われる。
ホームページは大切な手段となる。
こまめにバックアップをとることの重要性を思い知らされた。(
18年3月5日)


家庭内隔離

昨年の大晦日、なんとなく腹の調子が悪く、おかしいとは思ったが・・・
元旦の朝、歯固め(歯が丈夫になるようにと食べるサイコロ状に切った餅)、
細く切った干し柿(なぜ食べるのかはわからないが、ずっと習慣になっている)を食べた後、
お屠蘇を飲み、雑煮を食べたあたりで、急に具合が悪くなった。
吐いて、下して、腹が痛くなり、身動きが取れない!
体はだるいし、その後3日間ほとんど何も食べられず、正月だというのに、粥をすする程度ですごした。
なんとか仕事始めまでには回復したが、
その後風邪気味になり、市販の風邪薬などを飲んでごまかしていた。
今年、息子は中学受験で、2月のはじめからは連日で入学試験が待ち構えている。
よく、試験当日に熱を出し、保健室で受験したり、
体調不良で「全落ち」する子のことを、毎年聞かされているので、我が家はピリピリムードだった。
1月の終わり、治ったと思っていた風邪がぶり返したと思ったら、
25日(水)にはかなり調子が悪くなった。
咳が出るし、喉も痛い。熱もある!
体がだるいし・・・
その日は外来日だったが、何人もの患者さんに、「先生、風邪ですか・・うつさないでくださいよ!」とか
「おだいじに・・・」などと言われた。
すぐに治るだろうと、たかをくくっていたが、家に帰ったら、だるくて動く気もしなくなった。
翌日は手術の予定があったので、なんとか出勤したが・・・
朝、家を出るとき、「必ずインフルエンザの検査を受けてくださいね!」といわれた。
この時期にインフルエンザになり、息子にうつそうものなら・・・
ちょうど受験のあたりにぶち当たるという、最悪の事態になる!!
そんなことのないように、去年のうちに、ワクチンの接種は受けていたが・・・
一応、念のため、朝一番で、検査を受けてみた。
綿棒を鼻に突っ込まれ、結果をみていたら・・・・
なんと、試験紙に「
陽性」を表す赤い線がくっきり浮かび上がった!!
え~~~!こんな時期に、ほんとにインフルエンザかい!
わが目を疑った。非常~にまずい事態になった。
自分のことより、受験を目前に控えた息子のことが気にかかる。
あわててタミフルをのみはじめた。
休んで横になりたいところだが、手術の予定はずらせない。
午前中は院長回診もせず、うだうだして、午後から厳重にマスクをして手術室に入った。
自宅には電話をし、インフルエンザにかかったことを知らせたが、それを聞いた妻は絶句した。
「うつったらどうしよう・・・」
なんせ受験まではちょうど1週間だ。確かにまずい!
自宅に帰ったら、いきなり2階の部屋に閉じ込められた。
絶対出てこないで!
とのことで・・・
食事も部屋まで運ばれ、それっきり息子との面会は出来なくなった。
トイレ以外は部屋から出られない、家庭内隔離の状態になったまま・・・
翌日の金曜日は休み、土曜日の外来も代わってもらったが・・・
午後からは当直にあたっている。
家にいられるよりはましだと思われたのか・・・
妻からの、「もう、しばらく当直して、帰ってこなくてもいいから!
とのひとことで、午後から出勤した。
ありがたいことに、いろいろな先生から「当直、代わりましょうか」との申し出をいただいたが・・・
帰るに帰れない状態だし・・・病院にいたほうが、自宅での隔離状態よりはよっぽど自由がきく!
ありがたいことに、その日も翌日の日曜日も、緊急の外来患者さんはほとんど来院せず、
(私よりひどいインフルエンザの患者さんが二人来院したが・・・)
病室にも顔を出さず、当直室にこもったまま過ごし、悪化せずにすんだ。
さいわい、1週間ほどでなんとか回復し、息子も無事受験を終えることが出来たが・・・
それにしても今年は年明け早々、本当についていない。
1月に2回も寝込むとは・・・・・
医者は、まずは自分が健康でなければならないのに・・・と大いに反省している。
今月は、術後のCT検査を受けなければならないのだが・・・
もう少し体調を整えてから受けることにしよう!
(18年2月12日)


お父さんのおねしょ!

少し前のこと、家族でテレビを見ていたら、CMで「頻尿」の治療薬を宣伝していた。
「そういえば・・・寝る前にコーヒーやお茶を飲むと、ひどいときには2回くらい、夜中におしっこに起きちゃうことがあるよな・・・」
などと、話したことがあったのだが・・・
それからしばらくたったある日、
娘がいつになく神妙な顔で、「お父さん、本当にゴメンネ!」と言い出した。
「なんだよ!」と、問い詰めてみると・・・・
学校の保健の授業中、「夜尿」のことが話題になって、その後で先生が、
「皆さんのお家にも、お年寄りとかでそんな症状の人がいるかもしれませんね・・・」と言ったとき、
何を思ったのか、娘は思い切り手を挙げ・・・
は~い。うちの父がそうです!」と大声で叫んだそうだ!
「おい!!、このまえ話したのは夜中におしっこに起きることがある、と言っただけで、
100歩譲っても、それは夜間の頻尿のことであって、夜尿じゃないだろう!」
それって、「自分の父親は、おねしょしま~す」と叫んでるってことだぞ!
全くとんでもないことをしてくれたもんだ。
神妙な顔をしてると思ったのもつかの間、
うっかり夜尿と頻尿を間違えちゃってさ、アハハハハハハ・・・・」って大笑いしている。
「それで、先生は何ていってたんだ?」
「えっ、あ~そうなんですか・・・・」って言っただけだった。
当たり前だ!父親がおねしょするあわれな娘に、コメントなんてしようがないだろう・・・・
フォローの仕様もなく、先生も困ったに違いない。
「そんなの、間違いじゃすまないだろう!きちんと訂正しといたんだろうな!?」
言ってからすぐに間違いに気づいたんだけどさ、いまさら引っ込みがつかなくてそのまま流しちゃった。アハハハ・・・
と、否定もしてくれなかったようだ!
さすがに、仲のよい友達には授業が終わった後、
「夜尿と、頻尿を間違えちゃった」と言ったようだが・・・・だいいち頻尿でもないやい!
するって~と、先生や、残りの生徒には、娘の父親、つまり私は、夜、お漏らしをすると思われてることになるじゃないか!
来年は卒業式だってのに、みっともなくて学校に顔なんか出せるか!
さらに話を聞くと、娘につられたのか、もう一人の生徒が勘違いをして「私の父も」と手を挙げたとのこと・・・
どうやら哀れな父親がもう一人いるようだ・・・なんともお気の毒としか言いようがない。
それにしても、先生もたまげたに違いない。
クラスの子の二人の父親が「おねしょ」してるんだから・・・
(18年1月14日)


琴の若

大相撲の人気も「若貴時代」をピークにしてどんどん落ちてきているらしい。
ただ、最近は朝青龍や琴欧州などの活躍もあり、復活の兆しも見せてきた。
琴欧州のいる佐渡が嶽部屋は、もと琴桜だった親方が今年限りで引退するため、
親方に恩返しをしようと頑張った琴欧州がめでたく大関に昇進しすることになった。
替わりに新しく部屋を継いだのが、今年で現役を引退した琴の若だ。
親方の娘婿になり、新しい佐渡が嶽親方になった。
琴の若といえば、私が診察した、ただ一人の相撲取りのこともあり
現役時代からひそかに応援していた。
もう、かなり昔のこと、私が浦賀病院に勤務していたときだから、15年以上も前の話だ。
当時は横須賀市の夜間救急診療所の担当当番があり、
月に何回か、夜中まで救急患者さんの診療をしていた。
かなりの患者さんがやってくる。救急車はひっきりなしだ。
ただ、内科、小児科の先生は別にいるので、
自分は怪我、交通事故などの外科、整形外科の患者さんだけを見ていればよく、
小児科の先生に比べれば、患者さんの数は少なかった。
ある日のこと、相撲取りが何人かやってきた。
浴衣姿で、診察室にはビン付け油のにおいがたちこめる。
患者さんはきれいな顔立ちをした若い力士で、それが琴の若だった。
横須賀巡業に来ていて、稽古中に膝を打撲したとのことで、付け人と一緒に来たようだった。
診察を始めたのはいいがが・・・
「どうしました?」
「だいじょうぶッス!」「たいしたことないッス!」
「いたくないですか?」
「痛くないッス!」「平気ッス!」
と、わけがわからない。
さいわい、創もなく、腫れもないし、赤みもない。
関節の動きにも問題はなさそうだ。
付き人が心配そうに見守っている。
何しろ、当時は十両だったが、佐渡が嶽部屋のホープ、将来大関、横綱を狙う大器といわれるほど有望な力士だった。
「念のためX線検査でもしましょうか」と言ってみたが・・・
「いや、いいッス」
と、全く取り付く島もない。
「じゃあ、なんで来たんだよ!」とも言いたくなったが(当然、けんかを吹っかけるには体力差がありすぎるので、黙っていた)、
しかたがないので、湿布だけは貼って帰ってもらった。
普通の人と違って、さすがに体がでかく、湿布が切手くらいにしか見えなかったのを覚えている。
その後、今場所までかなりの年月を現役として幕内で頑張ってきたのは、立派としか言いようがない。
これからは、力士としてではなく、部屋の責任者としての重責をになっていかなければならない。
大変だと思うが、大相撲を盛り上げていってほしい。
これからも、応援してるぞ~!(17年12月17日)



説得力「0」

久々に風邪を引いた。
去年の冬は、手術後すぐのことでもあり、「ここで風邪を引いたら大変なことになる・・・」と思っていたので
めちゃくちゃ用心した。
その甲斐あってか、ぜんぜん風邪も引かず、順調に乗り切った。
今年はインフルエンザ大流行の兆しもあり、
また、新型インフルエンザのことなどが、連日マスコミで騒がれているので・・・
平和病院でも去年に比べ、予防接種を受ける人がずっと多くなっている。
自分も毎年受けているので、今年も注射をしたのだが・・・・
その翌日から鼻がつまった。
あら?と思っているうちに、さらに喉がいたくなり、ついには声が出なくなった。
熱もなく食欲もあったのだが、声が出ないと仕事にならない。
そのうち咳もでてきた。
外来の患者さんからは、「おだいじに」と言われる始末で・・・
この症状が出る直前に、胸部のCTを撮影しており、大きな異常はなかったので、「風邪」と割り切れたが、
そうじゃなければ、こんなに咳が続けば、それこそ「きたかな・・・」の世界になってしまう。
あまり精神的にもよくない。
毎年冬になると、職員にはインフルエンザの予防接種を積極的に受けるよう指導している。
職員が患者さんにうつし、それが原因で病棟中に広がって・・・なんてことがあったら大変なことになる。
よく、ご高齢の患者さんが多く入院している施設で、インフルエンザ、肺炎の集団感染が起こり、
お亡くなりになる方が出たりして・・
それがマスコミにセンセーショナルに取り上げられ、
施設管理者がカメラの前で「申し訳ありませんでした」などと、頭を下げるシーンが毎年のように見られている。
もしそんなことにでもなったら、取り返しのつかないことになる!
自分がカメラの前で頭を下げるようなはめになるのは、想像するだけでもぞっとするし、絶対あってはならないことだ。
先日、各部署の責任者が集まる会議があったので・・・
病院の職員は健康管理に気をつけるように!インフルエンザの予防接種は特別の理由がない限り
全員が受け、風邪など引いて、患者さんにうつしたりすることが無い様に!厳重に注意し、
ウガイ、手洗いの励行を徹底すること!自分の体調管理には責任を持つように!

と言ったのはいいのだが・・・
そんなことをえらそうに言ってる本人だけが、マスクをして鼻をすすり、咳をしながら、つぶれた声で言っているので・・・
誰が見ても、「そういう自分はどうなんだよ」・・・という情けない状態で、
全くもって説得力の無いこと、はなはだしい状況になってしまった。
幸いにして治りつつはあるようだが、まだハナが止まらない。
寒さもきびしくなっている今日この頃・・・皆さん、くれぐれもご用心を!(17年11月21日)

検察審査員候補予定者

9月の終わり頃、横浜市港北区の選挙管理委員会からなにやら分厚い封書が送られてきた。
選挙の時期でもないし、何事かと思い、開けてみると・・・
選挙管理委員会において、あなたは検察審査員(候補予定者)として選任されました!
と書いてあった。
いきなり選任されましたって言われても・・・
そもそも検察審査員が何なのか全然わからない!
しかも「候補予定者」って何よ!
よく読んでみると
検察審査会といって、検察官が不起訴処分にしたことの当否を審査するところがあり
有権者から選ばれた11人の検察審査員がこの任務にあたるらしい。
任期は半年で、中にはパンフレットも同封されていて
あなたのためのイレブン!、検察審査会」と書いてあり、
なんだかかっこいい!
検察官は常に厳正公平に仕事をするように心がけてはいるが・・・
多くの事件の中には調べが足りなかったり、判断を誤ったりして
起訴すべき事件を不起訴処分にする可能性が「0」ではない。
被害者がこの処分に納得できない場合に、「検察審査会」に審査を申し立てるようだ。
20歳以上の有権者の中から、選挙管理委員会が「くじ」をひき、
まず検察審査員の「候補予定者」を選ぶらしく、港北区では34人が選ばれるそうだ。
港北区の有権者全員の数はむちゃくちゃ多いのに・・・
その中の34人に選ばれたことになる!
かなりの低い確率にあたったわけだが・・・
どうして宝くじとかで、そういう「運」を使えないのだろうと思ってしまう。(実はこの後、急いで宝くじを買った)
さらに、この34人の中からもう一度「くじ」で「候補予定者」から「候補者」を選び、
さらにもう一度「くじ」で最終的な11人が選ばれるとのことだった。
審査会議は月に3~4回開かれるようで、そのたびに裁判所に出かけなくてはいけないようだ。
選ばれると、原則的に毎回出席しなくてはならないようで・・・
ただでさえ忙しいのに、「裁判所に行くので休診にします」ということにもなりかねない。
なんだか、こっちが裁判にかけられていると思われても心外だし・・・
困ったことになったと思っていたが・・・・
先日、また選挙管理委員会から封書が届いた。
急いで開けてみると・・・あなたは「くじ」で外れました!とそっけない。
「はずれ」と言われると、今まではめんどくさいと思っていたのに、
「え~~外れちゃったよ!」と、なんだかものすご~く残念なような気分になってくるから不思議だ。
そんなわけで、結局「検察審査員」にはなりそこなったが、
めったになれるもんじゃないようだし・・・
よかったような、残念なような、複雑な心境になった。
このホームページを見ている人も、
ある日突然、選挙管理委員会から手紙が届くかもしれない!(17年11月3日)



介護保険改訂での愚痴

来年の4月には診療報酬、介護保険報酬の同時大幅な改訂が行われる。
改訂といっても、基本的には医療費・介護報酬費が増加しすぎたために、
この伸びを押さえ込むことが大前提になっているため、
今までと同じ診療をや介護をやっていても病院の収入はどんどん減らされ、
また倒産する病院も出てくるだろう。
平均寿命は延びているのだから、ご高齢の方も当然増えていく。
どうしたって80歳でも90歳でも手術の必要な人も出てくる。
元気なお年寄りに、もう80年も生きたんだから・・・
治療費をかけずに自然のままでいきましょうよ・・・
なんてことは、どうやったってできないのだ。
介護保険の改定も、年間3000億円の支出を減らすことが大前提になり、
後からもっともらしい理由がつけられる。
内容の検討の前に、削減目標額が決まっているのだ。
病院は設備を維持し、医療レベルを向上させるため、
新しい機器を導入し、優秀な職員を採用し、給料を払わなければならない。
患者満足度をあげる原動力は、職員満足度によるものが大きい。
霞を食って生きてはいられないのだ。
今回、10月から前倒しで行われた介護報酬改訂内容は、
自宅で介護を受けている人たちは、住居にかかる費用も食費も自分たちで負担しているのだから
介護施設に入所している人だけに居住費、食費が介護保険から支給されるのは不公平だ!
だから、入院しているに人は今後、保険給付は出さないので、全額自己負担しなさい!と、いうものだ。
施設利用者の自己負担額は大幅に増える。それを今頃になってマスコミが騒ぎ出している。
役所からはパンフレットが郵送されるだけ。
後はそれぞれの施設が、利用者に対して十分に説明し、了解を得た上で契約を結びなさい、と言われる。
しかも、金額の設定には「基準額」なるものが設定され、病院がそれ以上の額を設定する場合は、
行政が「ヒアリング」を行います。と、脅しのような通達が出される。
食事にかかわるコストを綿密に計算すれば、
平和病院では実際にかかる金額は基準額を超えている。
その実際額を利用者の人たちに負担していただこうとすると・・・
年金収入などが低い人たちに対して、国からの補助が受けられなくなる仕組みになっている。
ある程度の収入のある人に対しては、説明と了解があればいくら高く設定してもかまわないと言うが・・・
同じ食事で、人(収入)によっていただく値段が違うなど・・・
どう考えてもおかしいことになり、実際は病院が持ち出しとなって食事を提供しなくてはならない。
利用者も負担増、病院は収益減、負担が減るのは国だけ!という構図になる。
先日は、利用者の方、ご家族の方たちに集まっていただき、今回の改訂と、食事・居住費の自己負担化の説明会を行った。
「申し訳ありませんが、国の制度が変わり、負担増をお願いすることになリました」と、大勢の人の前で話す事になった。
皆さん、あきらめの雰囲気の方もあるが、「どうしてなんだ!」と恐い顔で質問される方もいる。
今回の件に関して、病院も大幅なダメージを受けるのに・・・
中には、自己負担増は「病院がそれだけ収入を増やしている」などと考える人もいる。
説明会の前、数日は資料を作ったりで、胃に穴があきそうだった。
不思議なもので、自分でお金を払う分が増えると、
今までと同じ食事内容でも不満・苦情が急激に増える。
当然、病院の食事だっておいしくなければいけない。
メニューを考え、栄養のバランスを考え、1台100万円以上もする温冷配膳車も導入し、食事の質を上げなければならない。
病院はさらに出費を迫られる!
来年は、おそらく医療保険でも同じ動きがあるだろう・・・
病院はこのまま存続していくことが出来るんだろうか?
近い将来、国の保険でなく、民間の保険が主流になる時代が来るかもしれない。
保険の加入者は、その保険会社から指定された病院しか受診できなくなる可能性もある。
病院は保険会社からの指定を受けたいために、ディスカウントストアのように治療費の割引を始める。
病院間の競争は熾烈になり、コストダウンをしつつ、質の向上をめざす。
今、国に保険料を払わない人が増え始めている。
元気なうちはいい。
ただ、いったん入院し、手術などする事態になれば、当然全額が自己負担になる。
病院はソシャルワーカーが相談に乗り、福祉の手続きもお手伝いする。
その時点で保険料を払えればいいが、その頃には保険料自体もかなりの金額になっている。
結局、病院への支払いは滞り、そのうち何回連絡しても電話が通じなくなる。
居留守を使われたり、逆切れされることだってある!
病院には未収金がどんどんたまり、経営を圧迫する。
「サラ金」のような取立ても出来ない。
こんな世界が他にあるんだろうか?
普通レストランで食事をしたり、ものを買ったりしたら、必ずその対価を支払う。
これを行わなければ警察沙汰だが・・・・どういうわけか病院ではそうはならない。
日本人の心には「赤ひげ」の意識が深く根ざしており・・・
医者が病気の人を治すのは当たり前のことで、それでお金をいただくほうが、まるで悪人のようになってしまうようだ。
どう考えてもおかしな世界だ・・・・
と、愚痴を書き出したら止まらなくなってしまう。
こちらのストレスは日に日に強まっていき、気力までも蝕まれていくようだ!
千葉大の臓器制御外科の関連病院でも、大学病院で一緒に働いていた、自分と年代の近い仲間がだいぶ院長になってきた。
大学の会合などで顔を合わせると、誰に聞いても、抗潰瘍剤か精神安定剤をのんでいる!
血圧の上がった同級生の院長もいる。
最近は、子供たちが独り立ちしたら、後をついでくれる人に病院を託し・・・
元気なうちに、無医村の診療所に勤めようかな、などと、ぼんやり考えはじめている。(17年10月5日)


眼科受診はいかが?

最近どうも視力が落ちたように感じた。
少し前、学会に参加した時、スライドを見ていて思った。
特に右側がぼやける。
今のメガネは作ってから2年しか経っていない(初めて遠近累進レンズとやらで作った)
平和病院の眼科にはベテランの視能訓練士がいるので、
せっかくなので視力を測ってもらい、メガネの処方箋を書いてもらうことにした。
メガネをかけても左は1.0なのに、右が0.6しかない。
どうも見えないはずだ。
しかも、乱視の軸は左が少しゆがんでいて、
右は少し改善しているとのことだった。
私くらいの年齢になると視力や調節能力がずいぶん早い周期で変わってしまうらしい。
またすぐ変えなくてはいけなくなるのなら、あまり高いレンズは使いたくないが・・・
そうすると牛乳瓶の底のような厚いレンズになってしまう。
なにしろ、裸眼視力は自慢ではないが相当悪い。
視力検査表の一番上も読めない。
「これ、見えますか?」
と聞かれ、目を細めて「、ですか?」
と答えても・・・
「あっ、これは穴の開いた方向を答えてもらうやつですけど・・・」とか言われる始末だ。
しまいには、視能訓練士が輪のかけたマークの書いてあるカードを持ち出し、
「これは?・・・じゃあこれは?・・・」と言いながら、カードの方向を変えながらどんどん近づいてくる!
今は運転のとき、ふだんのとき、仕事のときと3つのメガネを使い分けているので、
それぞれのときはいいのだが、いちいち持ち歩いたり、代えたりするのが面倒でたまらない。
外科医は目がおかしくなったらやるもんじゃない、と言われるが・・・
今でもメスを持って切りまくる、というよりは、
総合診療みたいなことや、よろず相談、苦情処理のような仕事のウェイトがどんどん多くなっている。
それはそれできらいではないし(苦情処理は出来ればかんべんだが・・・)
こんな医者がいてもいいのかな・・・と、
新しく出来るメガネを待ちながら考えている。

と、書いたすぐあと、メガネが出来てきた。
さすがにしっかりと視力が測られており、非常~~に調子がいい!
皆さんもぜひ一度、平和病院で視力検査をしてみてはいかが?(17年9月3日)



スマップ独身

娘はSMAP のファンクラブに入っている。
SMAPのコンサートのチケットはファンクラブに入っていても競争率が高く、なかなか当たらないのだそうだが、
たまたま8月6日、7日の日産スタジアムコンサートのチケットが手に入ったようで、大喜びだった。
6日分、7日分2枚ずつ、4席分だった。
娘は両方行くつもりで友達に連絡を始めたようだが、
妻から、大ブーイングがおきた。
会費を出してあげているのは自分なのだから、チケットの権利の半分は自分のもので、
自分も友人(この前、稲垣吾郎が平和病院に撮影できたときも、見に来た)と二人で行きたい!とのことだった。
しばらくはチケットをめぐる激しいバトルがくりひろげられたが、
結局娘がしぶしぶ折れて、
6日は娘が友達と、7日は妻が友人と行くことに落ち着いた。
私は6日(土)が当直で、7日(日)も5時までは日直で仕事だった。
自宅は菊名なので、会場の新横浜にある日産スタジアムからは、風向きによってコンサートの音が聞こえてくるらしい。
7日は子供たちだけなので、早く帰ってきてくださいね!と、きつくいわれたので、
5時には病院を出た。
家に帰ると娘がぶつぶつ言っている。
「も~~~~、今日も絶対行きたかった!お母さんなんて、きっと疲れたとか言って歌の時だってしらけて、手なんか振らないんだよ。
せいぜい2曲目くらいまでは手を振ったって、3曲目にはもう座っちゃうんだから。
もう、そんなの絶対許せないし・・・」
などと言いながら、網戸にへばりついて、競技場からかすかに聞こえてくる音に耳をすませている。
そんなことより、こっちは晩飯の心配をしなくてはならない。
「母さんはなんか作っていったの?」と聞くと、
「もう4時過ぎにはママチャリで出かけっちゃった。3人で外食してだって!」
(スマップのコンサートにママチャリで出かける姿がなんかしっくりこないような気もするが・・・)
このくそ暑い中、また外に出て行くのかよ・・・と思ったが、自分で作る気もしない。
そもそも私の手料理は子供たちにはすこぶる評判が悪い。
一度作ってやったラーメンがめちゃくちゃまずかったのが原因だ。
独身の時は15年以上も一人暮らしをしていたので、料理はそれなりに作ったし、
ケーキを焼いたり、シュークリームだって自分で作ったのに!
出前をとるのも子供たちから却下された。
だいたい上の子と下の子は食べたいものが全然違う。
下の子は肉ばかりだし、上の子はシャケばかりだ!
意見はまとまらず、それならアミダで決めよう!ということになった。
ロイヤルホスト、おがさや(菊名駅前の定食・中華屋だが、けっこういける)、夢庵、笑笑、かっぱ寿司、とのさま飯店
(新羽にある中華料理屋だが、ここの鳥のから揚げは絶品だ!)、ジョナサン、セブンイレブンの弁当
を候補に上げ、娘がひいた。
「笑笑」が見事当選したのだが・・・
「え~~!居酒屋なんてまじめな高校生の行くところじゃない!」とか、わけのわからない異議を唱えだした。
息子のほうが「姉ちゃん!アミダで決まったんだからしょうがね~だろ。僕はなんでもいいよ」と、素直なのに・・・
結局、娘の意見でロイヤルホストになってしまった。
7時頃、大倉山にあるロイヤルホストは混み合っていた。
家族連れが多かったが、父親と、子供二人の組み合わせはいなかった。
周りをみまわした娘が、
「父さん、私たちってなんだか妻に逃げられたあわれなオヤジが、たまに子供たちにサービスするために、
ファミレスにつれてきたか、離婚したオヤジがたまに子供に会える日みたいに見られてるよね」
などと、とんでもない発想をする。
まあ、確かに妻は今頃スマップのコンサートで、うっとりしているか、大はしゃぎしてるんだろうから・・・
子連れの独身みたいなもんだし、そんな風に見えることもあるかもしれない、と思い
せいいっぱい必要以上に明るくふるまったら、なんだか疲れてしまった。
ママチャリを運転してぐったり疲れて帰ってきた妻の話では、スマップのファン層は相当ひろいらしく、
周りはお母さんたちのグループばかりで、娘くらいの年の子がかえって目立つくらいだったとか・・・
猛烈な暑さの続く今日この頃・・・
我が家では笑顔のキムタクと香取真吾の顔写真うちわが風をおこしている。(17年8月21日)

弱肉強食!

以前から我が家はめだかを飼っている。
飼っているというか、下の子が学校の授業で使ったものを水槽に入れているだけだが・・・
今いるのは学校から持ってきためだかが去年卵を産んで、孵化したもので、2代目になる。
あいにく、オスが全滅したので、メスしか残っておらず、
むなしく卵は産むものの、孵化することはなく、このまま絶滅の危機にある。
いつの間にか水槽の中には小さな貝が繁殖し、猛烈な勢いで増え始めている。
水槽についた藻を食べるので、きれいになるのはいいのだが、水草の根を食い荒らす。
めだかは徐々に減っていき、2匹しかいなくなってしまった。
このままだと、貝だけを飼育する、というとんでもないことになると思っていたが・・・
ある日園芸センターに行った時、併設してあるペット売り場で、「赤ひれ」の安売りをしていた。
名前のとおり、ひれが赤く、めだかより断然かっこいい!
しかも「丈夫でっせ!」と店員さんが保証するので、つい買ってしまった。
袋に入れられて売られていたのだが、その隣には、同じような袋に入れられた小さな「沼エビ」が売っていて、
水槽の掃除屋」とかのキャッチコピーがついている。
水槽の底にある余ったえさを食べてくれるようだ。
しばらく悩んだが、結局エビも買ってしまい、水槽は一気に華やいだ。
娘も、エビはいざとなったらから揚げにして食べられそうだから・・・と歓迎していた。
ところが、何日かたって、赤ひれの数がずいぶん減っているのに気づいた。
ただ、死骸が見当たらない!
よくみると、尾びれが半分以上なくなっているのがいる。
まるで食いちぎられたようだ・・・
まさか、エビが同じくらいの大きさの魚を食うなんて聞いたこともないし・・・
原因がわからないままだったが、どんどん数が減っていく。
そのうち、娘が水草にへばりついている奇妙な生き物を発見した。
半透明で、ちょっと見ただけではわからない。エビではなさそうだ。
しかも、ものすごく俊敏な動きをしている。
これが犯人か?
なんとか網で捕まえてみると・・・
でかく飛び出た目玉と二つに割れた尻尾・・
どうやらヤゴらしい!
新しく買った水草に、トンボの卵がついていて、それが育ったようだ。
体が赤ひれと同じくらいなので、どうやら、行方不明の赤ひれは、こいつに食われたようだ!
殺すのもかわいそうなので、コップの中にいれていた。
これでもう大丈夫と思ったが、まだ、赤ひれが減っていく!
水槽をよく見ると・・・
もう一匹いた!
こいつも苦労して捕獲し、この前つかまえたヤゴのいるコップにはなしたが・・・
仲間が来たと思って喜んだのか、先輩のヤゴがものすごい勢いで近寄ってきたと思ったとたん・・・
後輩のヤゴの尻尾から食いつき、あっという間に食ってしまった!
体の大きさはほとんど同じだったのに、まさに跡形もなく食い尽くした。よほ腹が減っていたのか・・・
これでは赤ひれもひとたまりもなかったろう・・・
いつまでも飼っておくわけにも行かず・・・
考えた挙句、結局名案が浮かばず、苦し紛れに
病院の池に放すことにした(ないしょで・・・)。
病院には以前、中庭に比較的大きな池があって、鯉とか亀とかが住んでいたのだが・・・
療養病棟を作るときにつぶしてしまい、
今では透析室の裏に池のような入れ物を設置し、そこで飼っている。(亀はいつの間にか逃げて以来行方不明だ)
もう、魚も30センチもあるので、いくらなんでも1センチの赤ひれのように、ヤゴに食われることもないだろう・・・(と、勝手に考えている)
次の日、ヤゴをビニールに入れて、家を出ると
玄関のすぐ側に、かなりでかい蛇がとぐろを巻いていた。
よく見ると、いつも外の階段のところで見かけるヤモリがとぐろの中心でもがいているではないか・・・
ヤモリは家を守るといわれている。
いつも見かけるたびに、「我が家を守るんだぞ・・」と頼んでいたのに・・・
それを食い殺そうとは・・・
あわてて殺虫剤をかけたが、蛇は、あわれヤモリを捕獲したまま、隣の家の藪に逃げ込んでしまった。
そもそも、隣も家はいまどき珍しいくらいの、ものすごい藪があり、しかも伸ばし放題だ。
やぶ蚊やら、団子虫やら、でんでん虫やら、ものすごい!蔦やら雑草が我が家に侵入し放題だ!
たまに草を刈ったりしようものなら、わけのわからない虫が、皆、我が家の方向に避難してくるので、たまったもんじゃない!
ゴキブリ退治用のえさ箱など設置しようものなら、それこそ、翌日には何百匹もの団子虫の死骸が散乱している有様だ!
おそらく、その蛇も、隣のうちの藪に生息しているようだ。
あわれ我が家のヤモリ・・・
守り神が食い殺され、地震でもあって、我が家がつぶれるような気になってしまう。
赤ひれといい、ヤゴといい、ヤモリといい、弱肉強食といえばそれまでだが・・・
わずかの間に、なんかすさまじいものを見たような気がした。
結局その日は、池にヤゴを無事放流したが・・・
大丈夫だとは思うが、鯉が一匹もいなくなって、巨大なトンボが飛び立ったら・・・
などと思うと、恐くて池の中が見られない。(17年7月31日)


「おっさん、空を飛んでみたくはないか?」

6月19日は父の日だった。
娘は毎年誕生日や父の日には、手作りのカードをくれる。
もう、幼稚園の頃からのことで、今でも全部大切にとってある。
今は高校2年生なので、幼稚園の時に描いた、わけのわからない絵に比べると、さすがにこった作りになっている。
最近は下の子も影響されて、カードを作ってくれるようになった。
今年の作品は「おとうさん解体新書」とかいって、
口から肛門までの絵が描いてあり、口から順番にメッセージが書き込まれ、
最後のウンコの中に「これからもよろしくお願いします」と書いてあった。
最近はどうも涙腺が緩んできているのか・・・
このてのプレゼントやメッセージを読むと、たとえウンコの絵でも、すぐにほろりとしてしまう。
今年は泣くまいと思っていたのに・・・やはりダメだった。
娘のことは、あまり書くと怒るので、最近は書かないようにはしているのだが・・・
近所のお年寄りが重い荷物を持って坂道を歩いているのを見て、遠回りしても荷物を持ってあげ、
家まで送っていってあげていることは、すごく素敵なことだと思うので、
書いてもいいんじゃないかと思うし、父親としてはそういうことをやれる子は自慢でもある。
そりゃあ・・・
「先生にほめられた!」と超ハイテンションで帰ってきたので、「なんで褒められたの?」と聞いた時、
最近は授業中寝てないわね」と言われた事だったとか・・・
電車の中で携帯の麻雀ゲームをしていて、前に立っていた全然知らないオジサンから、
「その牌はきっちゃだめだ!」と怒られたこととか・・・
「おとうさん、肩がこってるよ」といって、もんでくれたので、「あ~なんて優しい子なんだ・・・」
と、思わせておいて、
終わった後に、石鹸でいきなり念入りに手を洗うこととかは
あんまり書かないほうがいいのかもしれないが・・・
それはともかく・・・
いつもはカードだけなのに、「これ、プレゼントだよ」といって
娘から一冊の本を渡された。
珍しいこともあるもんだと思い、見てみると・・・
講談社の「FLY,DADDY,FLY」という本だった。作者は金城一紀だ。
帯には「おっさん、空を飛んでみたくはないか?」とのサブタイトルが書いてある。
「どんな本なの?」と聞いても「読んでみて!」としか言わない。
題名からすると・・・啓発本の一種なのか?
はじめのページには「立脚点さえくれたら、私が世界を動かしてみよう」 ーアルキメデスー
などと書いてあった。
せっかくもらったんだから・・・と読み始めてみたが・・・
これは・・・おもしろいじゃないか!!
主人公は47歳の平凡なサラリーマン、鈴木一。
毎日毎日変わりばえのしない日々を送っているが・・・
ある日、家に帰ると明かりがついていない。
不安に駆られながら家の中に入ると、
「高校生の娘が入院した」との書置きがある。
あわてて病院にいくと、娘がカラオケボックスで一緒にいた他校の男子生徒に殴られたのだという。
自分の娘は、見ず知らずの男とカラオケボックスにいくような子だったのか!頭の中はパニック状態になる。
待合室には言葉では謝るものの、ふてくされた態度の生徒と、その担任、教頭が来ていて・・・
慇懃無礼な態度や高圧的な態度で、事件をもみ消そうとする。
主人公は病室に入るが、包帯をぐるぐる巻かれ、痛々しくよこたわり、
「おとうさん」と弱々しく自分のほうにさしだされる娘の手を見ても、
どうしていいのかわからず、足も動かせず、、声もかけられずに、
そのまま何もいわず病室から出てきてしまう。
その日以来、病室に見舞いに行っても娘は父親に会いたがらず、「入ってこないで!」「出て行って!」
と、拒否されてしまう。
何日かが過ぎ、ふと見たテレビのニュースで、娘を殴った生徒が映っているのを見つけた。
高校ボクシング界のスーパースター、将来有望な選手と知る。
インタビューに答える生徒は、さわやかそうに笑い、いかにも好青年のように振舞っている。
それをみた鈴木は家から包丁を持ち出し、かばんに入れ、その生徒のいる高校へとむかう!
ところが・・・
なぜか学校を間違えてしまい、そこの高校生数人にあっという間に取り押さえられてしまう。
しかし、その高校生たちは鈴木の話を聞き、警察につき出すこともせず、
刃物など使わず、自分たちが最高の舞台を整えるから、相手に勝負をいどみ、復讐することをすすめる。
それから、鈴木は会社に休暇届を出し、高校生の一人と夏休みの間、相手を倒すために徹底的に特訓を行うことになる。
はじめはすぐに息切れがして、弱音を吐きそうになるが、娘のために、死に物狂いでがんばる!
そしてついに始業式の日・・・
父の日に娘からプレゼントされたネクタイをしめ、相手を打ちのめすため、高校に乗り込んでいく・・・という話だ。
結末に至るシーンも手に汗にぎり、
単純なストーリーにもかかわらず、一気に読んでしまった。
年頃の娘を持つオヤジにはピッタリの本で、是非お勧めしたい!
娘がどこでこの本をみつけたのか・・・
どんなつもりでプレゼントしてくれたのか・・・
いろいろ考えてしまうが、
「がんばれ!」とうい娘の声が聞こえてくるようで、変な啓発本より、何十倍もパワーが出た。
さあ~て、手術後1年!
お父さんはお前たちを守るために、まだまだがんばるぞ!!(17年6月22日)

(追加)
この本を読んでいるとき、話の内容が、映像で浮かんだ。
読み終わった時、これって映画にしたらぜったいおもしろいよな・・・と思ったのだが、
なんとすでに映画化されていて、この夏に公開が決定しているらしい!
脚本も、作者の金城一紀とのこと・・・
ぜひ見に行ってみたい!



稲垣吾郎の威力!

最近このホームページのアクセス数が極端に増え始めた。
確かに始めた頃は1日数件だったが、
最近はだいたい30件ほどで安定していた。
患者さんの中にも時々読んでくださる方もいるし、
平和病院に就職希望の人も、私のホームページが応募のきっかけになった人もいる。
また、そんなにたくさんではないが、このホームページを読んで、今まで全く平和病院を知らなかった患者さんが
私の外来に、わざわざ遠くから受診してくださるようにもなってきた。
自分の思うまま勝手に書いている文章を読んでいただけるのはありがたいし、
病気で悩む方が、少しでも共感してくださったり、元気になったりしていただければ望外の幸せではある。
ところが、数日前から、1日100件以上のアクセスがあり、
極端な日は200件近くにもなってしまっている。
どう考えてもおかしいと思い・・・
誰かがいろいろなコーナーを見るたびに、いちいち開きなおしているのかとも思ったが、
それにしても多すぎる!
ず~っと考えていたのだが・・・
もしかしたらと思い当たった。
どうも「病院よもやま話」で稲垣吾郎のことを書いたすぐ後のような気がする。
ためしにインターネットで検索をかけてみた。
「稲垣吾郎」だとものすごい数のサイトが出てくるが、
「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」の「飛鳥」を追加してみると・・・・
なんとこの「病院よもやま話」の「稲垣吾郎がやって来る!」が出ていることに気づいた。
サイトの数もかなり絞られており、題名がストレートなので目に付く可能性がある。
そもそもSMAPは熱狂的なファンも多いので、
関連のサイトは片っ端から見る人も多いのだろう。
たまたま、先日、朝の番組の「めざましテレビ」の芸能コーナーで
稲垣吾郎がドラマに出演することが放送され、そのことに関するもサイトも増えたため、
そこにアクセスする人たちが、このホームページを見つけて開いているのだろう。
おそらく平和病院のホームページからではなく、検索サイトからダイレクトにこのホームページを開いている人が多くなっているのだ。
検索では直接「病院よもやま話」のページが開くようになっており、
おそらく他のページは見ないで閉じているのだろうが・・・
稲垣吾郎のことは「つづく」などと書いてしまっているので・・・・
この異常なアクセスの状態はしばらく続くかもしれない。
早いところ続きを書きあげて、いつもの落ち着いた状態に戻ればいいとも思うが・・・
まあ、その中の一人でも二人でも、他のコーナーを読んでくれる人もいるかもしれないし、
逆に病院のホームページを開き、平和病院を少しは知ってくれる人も増えるかもしれないので・・・
それはそれでいいのかな・・とも思っているが、
それにしても・・・稲垣吾郎の威力、恐るべし!(17年5月23日)


白髪が・・・

私の外来に長く通っているSさんは視力が悪く、いつも黒縁の厚~いレンズのめがねをかけていた。
知人に白内障の手術をした人がいて、手術後はっきり物が見えるようになったようで・・・
その人から手術を勧められたようだ。
この4月に手術を行い、この前外来に受診した時、今までと違って素敵なメガネをかけてきた。
レンズはずっと薄くなり、ふち無しで、顔つきもずっと若返ったようで・・・
「Sさん、ずいぶん雰囲気が変わりましたね!若返ったようですよ」
とお話しすると・・・
「いや~こんなに物がよく見えるようになるなんて、夢のようです」
「今までは先生の顔もだんだん見えにくくなって、ぼやっとしか見えなかったのに・・・
今は、はっきりとお顔が見れます。こんなことならもっと早く手術を受ければよかったです」
と、ここまでは良かったのだが・・・
「でも先生、いろいろご苦労が多いようですね、そんなに先生に白髪が増えていたなんて・・・驚きました!
どうも、今までは視力が悪く、ずっと若い頃の時に見えていた私のイメージがあったらしく・・・
視力が回復したら、白髪まではっきり見えるようになって驚いたようだ。
そういわれると、自分がなんだか急に老けてしまったようで・・・
そういえば、院長になってから、仕事の時はスーツを来て出勤しているのだが、
休みの日にどこかに出かける時には、ジーンズなど、思い切りラフな格好をしていても
少し前までは自分ではあまり違和感を感じなかったのだが・・・
(もっとも、娘に言わせると、「ありえない若作り」なのだそうだ)
最近さあ出かけるぞ!と鏡を見ると、自分でも、あれ?ぜ~んぜん似合わない!と思うことがある。
いかんいかん!と自分を叱咤激励してそのまま出かけるのだが・・・帰ってくるまで妙に気になってしまう。
最近ミドルエイジ向けのファッション雑誌がかなり売れているようだ。
そんなもの必要ない!などと強がっていても・・・
本屋で見かけると、どうしても立ち読みしてしまうのが情けない!
(17年5月14日)


初めてのぎっくり腰

もう何ヶ月か前のこと、自宅で、子供と風呂に入っていて、ちょっと振り向いた時、一瞬フリーズした。
腰に激痛が走り、そのまま身動きが出来なくなった。
これがぎっくり腰か!
やっとの思いで風呂場から出て、子供に体を拭いてもらった。
膝が伸ばせず、腰も曲がったままだ。
痛み止めをのみ、シップをはってすぐに横になった。
その日は寝返りも打てず、手術直後の夜のようだった。
朝になっても全く状態は改善せず、よほど休ませてもらおうと思ったが・・・
看護部長が、「その日の朝になって、突然電話一本で休む職員がいて、全く困ったものです!」
と、よく言っているのを思い出し・・・・
外来担当日でもあったので、なんとか車に乗り込み、病院までたどり着いた。
病院の敷地の中の駐車場に停めようとも思ったが・・・
割り当てられた駐車場は病院から少しはなれた場所にあり、
坂を下りたり、階段を登ったりしないと病院までたどり着けない。
患者さんの駐車場を使うと、職員からは罰金を取っている以上、自分が破るわけにもいかない・・・
いつもの倍以上の時間をかけて何とか病院にたどり着いた。
歩き方は、誰が見てもおかしい。
能を舞うときのように膝を折り曲げ、亀のようにのろい!
すれ違う職員がぎょっとしたように振り向く。
院長室に行く前に、整形外科の外来により、注射を打ってもらい、コルセットをはめたが・・・
ほとんど改善しないまま外来が始まった。
平和病院では、患者さんが造影剤を使ってCTをとるとき、副作用が出ないかどうかをチェックするため、
必ず医師がついているのだが、そのたびに外科外来からCT室まで呼ばれる。
外科外来は外来ブースの一番奥なので、はじからはじまで歩くことになる。
その日はなんと遠く感じたことか・・・
ちょうど、待合室で患者さんが待っている前をのそのそ、かべにつかまりながら、
顔をゆがめて何回も往復するので、
外来に入ってきた患者さんのほぼ全員から、「先生、具合が悪いんですか?」と聞かれるはめになった。
午前の外来は何とかこなしたものの、もうだめだと思い、午後からは帰らせてもらうことにした。
帰ろうとしたとき「外来手術」の患者さんが手術室に入っていった。
病室の担当はまだ手が離せないらしく、そのころは、まだ鶴見病院の外来もあったので、鶴見病院からもまだ帰ってこない。
「こまったわ~」と手術室の看護師さんがつぶやく・・・もうすぐ病室担当が来るのだろうが・・・・
「先生、とっととやってちょうだいよ!」と無言の圧力を背中に感じる。
とても「腰が痛いんで、じゃあ失礼!」と帰れるような雰囲気ではない。
「じゃあ・・・・私がやるか・・・」といって、手術室に入ったものの、
服が着替えられない。靴下が脱げない。
ものすごい時間をかけて、何とか術衣にきがえ、のそのそと手術台までたどり着いた。
腕の小さな腫瘤の簡単な摘出手術なのだが、腰を曲げられないので手術台をめちゃくちゃ高くして始めた。
外来手術は、器械だしの看護師さんもつかないので自分で道具も取らなければならない。
体をひねれないのだが、やり始めると、ついいつものように体をひねってしまい、
「ぎゃ~」と叫びたくなるような激痛が走る。
終わったころは、10時間程度の手術をした後のようにぐったりしてしまった。
「もう帰る!」と捨て台詞を残して自宅に帰り、すぐ横になった。
痛み以外はなんともないので、真昼間からテレビをみた。
痛みさえなければ、こんな生活もたまにはいいのかもしれない。
何しろ、他の人はまだ働いているのに、寝転がって「水戸黄門」が見れるのだ。
再放送なので、石坂浩二が黄門さまだ。
いつものパターンの進行なのだが、「え~い、はやく印籠をだせよ!」などとイライラしながらも手に汗握る。
最後の人情場面では、殺された医者の息子が「父上のような立派な医者になって、困った人たちを助けるんだ!」
などというくさいせりふに、ほろりと涙ぐんだりする。
それが終われば次はSMAPの中居が医者になっているドラマだ。
この医者は自分が病に侵されているのだが、クールでめちゃくちゃもてる!
院長の娘に迫られたり、ものすごい美人の看護師さんに「ずっと先生のそばにいたい!」などと言われている。
(こんなせりふ、一度でいいから言ってもらいたいもんだ!)
あんな美人の看護師さんのいる病院なんてあるわけないだろう!   (平和病院以外は・・・・)
などと思っていると、せっかく部屋までたずねてきたというのに、「二度と来ないでくれ」と、部屋から追い出してしまう!
こら!なんてもったいないことをするんだ~~
などと思っているうちに夕方になってしまった。
翌日はついに休んでしまい、その次の日、コルセットをぎっちり締め付けてどうにか出勤した。
体を傾けて背中を曲げて歩くので、
事情を知らない古株の看護師さんなどからは、「なによ先生、年取っちゃって!」
などと、言いたい放題言われた。
2週間ほどでようやく軽快したが、「腰は要」ということを実感した。
最近運動不足だったし・・・少しきたえなおさないとだめかな・・・
(17年4月23日)


初めての肝切除

千葉大学の臓器制御外科(旧・第一外科)はいまでは肝・胆・膵を教室として専門に扱うようになっているが、
私が入局したときには肝臓を専門に扱う部門はなく、
今の教授がカナダからの留学から帰ってきた後で、私と、同級生二人
(一人は千葉の大網病院の院長になり、ひとりは開業している)に声をかけ、4人で細々と始めたのが始まりだ。
はじめは抗癌剤研究室の中で一緒に活動し、枝分かれをしていった。
そのころは大学病院でも肝臓の切除などはほとんどなく、年に数例といった程度だった。
手術の成績も今と比べれば格段に悪く、手術中の出血量も多かった。
一度などは体からあふれた血液が、外回りをしてかがんでいた頭の上に落ちてきたことさえあった。
今思えば隔世の感がある。
私が最初に肝臓の切除を体験したのは医者になって4年目に出張していたY病院のときだ。
真夜中に救急車で、貧血と腹部の膨満を訴えた患者さんが運ばれてきた。
明らかに腹腔内の出血があり、血圧は低下し、一刻の猶予もゆるされない状態だった。
そのころのY病院の外科は、私と、私の4年先輩(今はY病院長)と、そのまた4年上の先生の3人のスタッフで運営していた。
私が卒後4年目だったから、8年目、12年目のトリオだ。
卒後12年目といえば、私が浦賀病院でのんびり働いていた学年だ。
もちろんそのころの市中病院などでは、肝切除などほとんどやっていない時代だ。
輸血を準備し、緊急手術になった。
ところが私のすぐ上の先生は千葉から通っており、あいにくその日は自宅でお酒をたくさん飲んでおり、
とても来院できる状態ではなかった。
しかたなく、内科の先生に麻酔の管理をお願いし、私と、もう一人の先輩の二人だけで手術を始めた。
開腹すると、肝臓の右側に腫瘍があり、その表面が破れて出血していた。
私はどうしていいかもわからず、手が動かないので、全くの戦力外だ。
先輩は、まだ4年目のひよっこを相手にして肝臓の手術をやらなければいけない状況に追い込まれたのだ。
残念なことに、その先輩も肝臓の切除はしたことがなかった。
さぞかし心細い思いだったろうが・・・私が逆の立場だったら自分の血圧が低下してしまうだろう・・・
手術書を持って来い!
その先生は看護師さんに、絶叫に近い声で指示を出し、肝臓切除の部分を開かせた。
それを見ながら手術をするという、とんでもない状況になった。
ものすごい量の輸血をしながらの手術になったが・・・
幸いにもその患者さんの出血はコントロールされ、一度は退院が可能なまでに回復した。
もともとが肝臓の癌だったので、それほど長生きは出来なかったが・・・
外科医は現役のうちに何回かは、とんでもない修羅場を経験するといわれている。
横浜には基幹病院がいくつもあり、状態の悪い患者さんは大きな病院へ転送されるが、
Y病院は田舎にあったが、その地域では基幹病院だったので、けっこう忙しい思いをした。
最近、千葉で大きな地震があった。
震源地に近いY市はかなり大きく揺れたようで、Y駅がテレビに写っていた。
病院に被害はなかったようで安心したが、久しぶりに見るY駅は懐かしかった。
近頃、あ~昔は良かったな・・・などと思うことがある。
今は今で、それなりに充実はしているが、全く今と違う自分を懐かしむのは、年をとってきた証拠なのかな?(17年4月16日)


個人情報保護法に思う

4月1日から、個人情報保護法が施行され、各病院でも対応に追われている。
院内に掲示も必要だし、パンフレットも作成し、患者さんに、病院の扱う個人情報に関しての取り扱いについて、
了解を得なければならない。
もともと、病院はプライバシーの保護には敏感で、
平和会でも、プライバシーの保護に関しては職員行動基準にも謳われている。
病院の行うべき対応のガイドライン、掲示文のサンプル、Q&A集などが次々に送られてくるが・・・
中には、そこまでしなくても・・・と思うようなことがあることも事実だ。
患者さんが入院しているとき、面会の人がやって来る。
今は、勤務室の前においてある名簿に記入してもらい、「部屋はどこですか」聞かれれば、
「○○号ですよ」と、教える。
ところがこんな日常的なことも、4月からは考えを変えなくてはならない。
まず、患者さんに、面会を許可していいかを確認しなくてはいけない。
いいとしても、誰が良くて、誰はいけないのか・・・まで確認が必要だ。
部屋の番号を教えることも、病室の入り口に名前を書くことも、あらかじめ、許可を得ておかないと、個人情報を漏洩したことになる!
自分も、入院した時は、家族以外には誰にも面会に来てほしくなかったことを考えると、
患者さんに確認することは確かに必要だと、実感として理解はできる。
病気の説明も、今までは家族には当たり前の様におこなっているが、
これも、あらかじめ家族に説明をしていいか、誰に説明をしていいのかを、いちいち患者さん本人に確認しなくてはならない。
癌の患者さんの家族に病状を説明し、「本人に告知はしますか?」などと聞くのは、これからはとんでもない!ということになる。
まず本人に癌であることを告げ、家族にも話していいのか、家族の中の誰に説明していいかを聞かなくてはいけないのだ。
(もちろん、はじめに、「どんなに悪い結果でもすべてを知りたいですか?」との確認も必要だが・・・)
患者さんが望まない人には、どんなに身近な人にでも病状は伝えられないのだ。
電話で家族から状態を尋ねられても、電話の相手が、本当に家族かどうかわからなければ、何とかして確認しなくてはいけない。
「申し訳ありませんが、確認が取れませんので、お電話番号をお聞かせいただけますか?」と確認し、カルテの連絡先との照合が必要だ。
その番号に、患者さん本人から折り返し電話をかけてもらうのが確実だが・・・
手術直後や、状態の悪い場合は、そう簡単にもいかない!
必ず「なんで教えないんだ!」と怒る人が出てくるし・・・
逆に、「自分が許可もしていないのになんで個人情報を伝えるんだ!」と言い出す人がいる。
細かいことを気にする人は、本当に、なんでそこまで?というようなことも、病院の不備だ!と指摘してくる。
もちろん改善が必要なことは謙虚に受け入れ、可能な限り対応するし、今までもそうしてきた。
今は訴訟の時代だ。
だれでも、頭を下げることは出来れば避けたいのだ。
病院はひたすら防衛の姿勢をとり始める。
もちろん病院が、大切な個人情報を扱うことは紛れもない事実だ。
その中には、人に知られたくないような情報も含まれることも確かだ。
ただ、それをわざわざもらしたりすることなど、まともな病院、職員なら、以前から考えにくいことなのだが・・・
確かに情報の漏洩は、個人の不利益になることがあり、全力で守らなくてはならないし、
平和会でもこれを期に、あらためてその重要性を認識し、指針を作り、職員にも指導していく。
ただ、あまりに神経質になりすぎると、なにか無機質で、乾燥した医療、介護になるような気がしてならない。
そんなことを感じるのは自分だけだろうか・・・
こんなことを書くのは、私が個人情報への認識の足りない、今の時代に合わないノスタルジックな医者だからなのだろうか・・・(17年3月20日)


恐怖の3ヶ月

今も、手術をした病院には定期的に通院している。
毎回CT,腫瘍マーカー、呼吸機能を平和病院で検査し、その結果をもって受診する。
前回は12月に受診することになっていたので、11月の末にCT検査をした。
胸水がどれ位とれているか・・・肺の膨らみ具合はどうか、などが気になっていたが、
放射線科の読影結果報告を見て目をむいた!
S6、S7境界付近に小さな結節が認められます。質的診断は困難です。経過を観察してください・・・・
ショックだった!
あわてて、9月に撮影したCTを見てみたが、そのころは胸水の量が多く、隠れてしまっている。
さらに、手術前のCTを見たが、この場所には結節などは写っていない。
手術前にはわからなかった、新しい腫瘍が出来たか・・・
肺内転移がもう出現したのか・・・
もし、この時点で転移が出たのなら、残された寿命はあまり期待できそうもない。
まだ1箇所だけなので、また手術でとればいいといえばそれまでだが・・・
これにはかなりへこんだ。
おまけに、肺機能検査でも、かなり手術前に比べ機能が低下していた。
CTで認められた結節は、術後の変化の可能性もあるので、確かに質的な診断は困難だし、
今度は肺の末梢にできており、今、気管支鏡で調べても、診断はつかない。
放射線科の読影医師の言うように、経過を見るしかないのだが・・・
術後の病理検査の結果では、こんなに早く再発することは考えにくいとは思っても・・・
こういう場合はどうしても楽観的にはなれないようで、結節が自分の中でどんどん育っているような気がする。
今回はいたずらに心配をかけるので、妻にも言わなかった。
ただ、誰にも言わずに、一人で心配しているのは、かなりのストレスになった。
仕事にも復帰していたが、外科は10月から減員にもなっていたし、鶴見病院の閉院決定だとかが重なり、
かなり忙しかったので、仕事の手を抜くわけにもいかない。
顔には出せないが、ついイライラしたり、がっくり落ちこんだりすることも多くなった。
考えてもしかたがないとは思っても、どうしても悪い方に考えてしまう。
新しい結節がどんな状態になっているのか、次のCT検査のころには急激に大きくなっていることも想像してしまう。
3ヶ月も何もしないで大丈夫なのだろうか・・・
咳が出るだけでも、悪化しているのではと考え、毎日でもCTをとりたい思いがした。
検査結果を持って秦野の神奈川病院を受診した。
先生がCTををみている。
「ここに結節が」と、たまらずに自分からきりだした。
「ああ、そうですね・・・大きくならないといいですねぇ!これがあるので、また3ヵ月後に検査しましょう!」
そりゃそうだ・・・大きくなられたらたまらない!
大丈夫ですよ・・とか、心配ないんじゃないですか・・との期待した言葉を聞くことができず、あっけなく診察が終わった。
妻と一緒に病院まで行ったのだが、診察室からすぐに出てきたのに驚いたようで
「どうだったの?順調なんだって?」
「順調だよ!今度は3ヵ月後でいいって。心配無いみたいだよ」
その後の3ヶ月は、かなり精神的にきつかった。
ちょうどそのころ、私の外来にかかっている乳癌術後の患者さんのCTで、私と同じような結節が見つかった。
「この前の検査ではわからなかった小さな結節が、いくつか見られます。小さいので、転移かどうかはわかりません。
炎症性の変化の可能性もあります。また、3ヶ月後にもう一度CT検査をしてみましょう」
自分が言われたのと同じことを言っている。
自分にむかって言っているような感覚になる。
その患者さんは診察室で泣き出してしまった。
自分と同じ状態なので、気持ちは手に取るようにわかったが・・・
確かに様子を見るしかないのだ。
「きっと大丈夫ですよ。でも・・・気になっちゃいますよね・・・」と言ったきり、後の言葉が出てこない。
その患者さんは、私が手術を受けているのも知っているし、病名も知っている。
「実は・・この前のCTで、私にもおんなじような結節があって・・・3ヵ月後の再検査なんですよ。私と一緒ですね。
だから・・・今の気持ちも本当にわかります。でも、気にしていてもしょうがないし・・・3ヵ月後は一緒にお祝いしましょうよ!」
と、はげました。ひとまず自分のことは開きなおらなければ、癌の患者さんの相手など出来なくなってしまう。
毎月受診するたびに、その患者さんは診察室で涙ぐんだ。
3月のはじめ、その患者さんのCT検査結果が出た。
前回指摘された結節はほとんど消えていた。
結果が出たので、ご自宅に電話をするようにクラークに伝えたのだが、連絡する前にご本人が来院した。
「おめでとう!今回の検査では大丈夫でしたよ!」
「よかった~」といって、またその患者さんは泣いてしまった。
「実は昨日始めて主人に前回の結果を話したんです。なんで早く話さなかったって、怒られちゃって・・・
今日は一緒に来てくれたんです。でも、本当によかった。もう生きられないと思った・・・」
本当に良かった、と自分のことのようにうれしかった。
少し遅れて、ついに自分がCT検査を受ける時期になった。
心臓がバクバクする。
検査後、モニターに次々と出てくる画像を食い入るように見つめた。
結節のあった場所も、大きさも、形も、そのあと何回も何回も見直しているので頭の中に叩き込まれている。
だんだんその場所に近づいてくる・・・
少なくても、ぱっと見てわかるような腫瘍はない!
外来のモニターで何度も見直した。
ほとんど消えている!
よしっ!
この「よしっ!」の気持ちは、この3ヶ月間の、言いようもない恐怖を体験しないとわからないかもしれない。
今日、CT、血液検査呼吸機能検査の結果を持って神奈川病院を受診した。
「大丈夫みたいですね」
おすみつきだ!
この「だいじょうぶ」という言葉は、なんて頼もしいんだろう・・・
自分でも大事に使いたい。
さて、術後1回目のCTでは胸水の多さに驚き、2回目のCTでは「結節」におびえ、
今回のCTで、やっと普通の術後の患者になったような気がする。もうすぐ術後9ヶ月だ。
今、平和病院は大事な時期を迎えている。手を抜くわけには行かない。
この3ヶ月間は、どうしてもエンジンが全開にならなかったが・・・
明日からはターボをふかして全速力に向けパワーあげていくことにしよう!(17年3月14日)



入院・手術体験記
残念!やはり・・・


退院日、授業参観を終えて自宅に帰ってきた後、
ガーゼ交換のために平和病院を受診した。
1週間前は、まだ仕事をしていたのに・・・
こんなに早く手術を終えて帰ってこれるとは思わなかった。
夕方近くだったが、何人かの職員が、驚いたような顔で迎えてくれた。
努めて背中を伸ばし、なるべく早足で歩いている自分に気づく。
職員たちも、こんなに早く退院するとは思っていなかったようで・・・
何人かが見舞いの寄せ書きを書いてくれて、神奈川病院に送ってくれていたのだが、
届く前に、本人は退院してしまったため、病院から自宅に連絡があった。
1週間後には再受診することになっていたので、そのときまで病棟で預かってもらうことにした。
退院後、しばらくは体がかなりきつかった。
数日はほとんど横になっていたのだが、何しろ背中、肋骨の部分の痛みが強く・・
寝返りも出来ず、頭を高くしていないと呼吸も苦しくなってくる。
本当にこんな状態で退院してきて大丈夫だったのかと、正直、かなり不安だった。
自分で宣言した復帰時期までは2週間しかない!
体力を付けなければ・・・と、気持ちはあせる。
毎日、新横浜の国立競技場まで出かけ、周囲をウォーキングすることにした。
はじめの1週間は、自分でもだいぶ体力が戻ったような感じがしたのだが・・・
そのうちだんだん息苦しさが出るようになり、咳も出るようになってしまった。
今思うと、この時期、無理をしたため、胸水が増えたようだ。
結局、この咳には、かなり長い間悩まされることになってしまった。
体重も急に増えてしまい、体全体が水ぶくれのような状態になった。
退院後は映画でも見て、おいしいものを食べに行き・・・
などと、いろいろ考えていたのだが、そんなことも出来ないまま、あっという間に復帰の時期が近づいてくる。
復帰前に、神奈川病院を受診した。
切除した肺やリンパ節の病理結果が出ているはずだった。
はじめて肺のCTをとってから、長い間、確定診断がつかない状態がつづいていたが・・・
これでやっと自分の置かれていた状態が判明する。
予想どうりの癌なのか、もしそうなら摘出したリンパ腺の転移状況はどうなのか・・・
組織型は、浸潤の程度は?
この結果によって、これからの人生の状況は大きく変わってくる可能性がある。
外来につくと、まず胸部のX線検査があった。右の横隔膜が想像していた以上に上がっている。
肺の膨らみはまあまあか・・・
加勢田先生はX線写真を見て「まあまあ、いいんじゃないですか」と言った。
「先生、病理の結果は・・・
「ああ、少し遅れているようで、まだ結果が返ってこないんですよ、出たら先生のところにコピーを郵送します」
診察は創の状態のチェックがあり、あっという間に終わってしまった。またお預けの状態だ。
帰りに病棟に挨拶に行き、預かってもらっていた寄せ書きをもらってきた。
やっぱり、入院してたんだな・・・と感じる。
復帰後数日して、神奈川病院から速達が届いた。
一刻も早く開けて内容を見たい、という気持ちと、知りたくない気持ちが交差する。
はじめに見えたのはcarcinoma(癌)の文字だった。
やはり・・・一発大逆転は起こらなかったようだ。
高分化型腺癌、腫瘍径1.5cm、摘出されたリンパ腺(番号を見ると、けっこう広範囲にとってあった)には転移(-)
癌細胞は肺の表面には達しておらず、摘出された肺には肺内転移は認めない。
いわゆるステージⅠaという状態だった。
何も症状がなく、偶然見つけたことを考えれば、やはりラッキーだったのかもしれないが
どう考えたって、癌になることはやはりアンラッキーなのだ。
どんな癌でも、5年生存率とか、10年生存率とかの統計が取られており、各施設で発表されている。
今、「87%」という、テレビドラマで乳がんの生存率を題にしたものがあるが、
残念ながら、肺癌の生存率はこの数字よりも低い。
この前、週刊誌を読んでいたら、肺癌の治療に関しての記事があった。
国立がんセンターの数字が出ており、
いまや肺癌は早期に発見すれば、4分の3の人たちが癌を克服できるのだ!
と、力説していた。
そうか、そんなに多くの人で癌は治るんだ!
ということかもしれないが、その数字は、残りの4分の1の人たちは5年生きられなかった・・・ということの裏返しなのだ。
確かに早いうちに手術を受けたことは良かったと思う。
ただ、自分がかかった病気は、常に再発や転移と隣りあわせなのだ。
それは一生やって来ないかも知れないし、すぐそこにいるのかもしれないのだ。
「生存率は、あくまでも統計上の数字にすぎません。どんなに進行した状況でも、手術をして、ず~っとお元気な人はいくらでもいます。
逆に、大丈夫だと思っても、意外に早い時期に再発や転移をおこしてしまう人がいることも事実です。
かんじんなのは、今しっかりと治療をし、その後は体力を整え、再発や転移をおそれず、
生活していくことで、私たちは定期的な検査をしながら、これからもしっかりとサポートしていきますが・・・
それを決めるのはあなた自身の力であり、知っているのは神様だけだと思います。
一緒に頑張りましょう!」

私がいままで癌の患者さんに言ってきた言葉だ。
今、それを自分に返すしかない。
確かに、これからどうなるかは誰にも判らないのだ。判っているのは統計上の数字だけなのだから。
いま、自分の外来には癌の術後の患者さんが何人も通っている。
その人たちは、それぞれの思いで、術後の1年、3年、5年、10年と過ごしているのだ。
その心の中の葛藤を判ることは決して出来ないのだろう。
ただ、自分は、「なるようにしかならない!」と開き直って、
自分と同じような悩みや葛藤を抱えてるであろう(あくまで、感じ方は個人個人で違うだろうから、想像に過ぎないが)患者さんにとって
少しでも共感する部分を持ちながら、頼りにしてもらえる医師になるしかないのだ。
何が出来るのかはわからないが、ただ、出来れば避けたかった人生の不運を体験した医師として、
ある部分だけでも共感できる医師として接していける可能性はある。
今度の体験は、医師としての考え方に決してマイナスにはならないと思っている。
だいぶいたい思いをしたが、この教科書は誰にでも手に入るものではないのだ。
大事に使っていきたい・・・

早いもので今、術後8ヶ月、体調もずいぶん回復してきた。
癌になったこと、入院で体験したことを、忘れないうちに・・・と思い、書き始めたのだが、
今思うと、もうずいぶん思い出せないことも出てきている。
つらいことは意識して頭から追い出そうとしているのか・・・
あるいは脳の血流が悪くなっているのか・・・
これからも定期的な検査は自分でも受けていく。毎年5月に受けていたのだが、早いもので、その時期もあと3ヶ月だ。
入院・手術体験記も今回で終わりにして、新しい入院体験記など書くはめにならないよう健康に留意したい。
やはり、医者は治療するのが仕事なのだから。(17年2月27日)


連続TVドラマ

TVドラマなどで、病院のシーンはよくでてくる。
平和病院にも、撮影で使わせほしいと、頼まれることが以前からときどきあった。
数ヶ月前にも事務長のところに依頼がきたようだった。いつもはたいてい断っていたのだが・・・
話を聞いてみると、フジテレビで放送されていた「牡丹と薔薇」の次の作品だとのことで・・
石野陽子や、石田ゆりなどが出演するらしい。
話だけでも聞いてみるか、ということになり、院長室で話を聞くことになった。
企画書なるものを見せられ、題名は仮題で「冬の輪舞」となっている。
何でも、数奇な運命にもてあそばれた二人の少女の、30年にわたる物語で、
主人公は裕福な病院長の娘と、乳母の娘だとか・・・
院長の娘が生後まもなく乳母の元に預けられる。乳母にもちょうど同じころに生まれた娘がいるのだが・・・
うっかり、院長の娘に火傷を負わせてしまい、自分の子供を院長のもとに取り替えて返したため、そのまま育てられる!という
ありそうで、ありえないような話だ。
さまざまな出来事の中で、「人間の愛とは何か」を問いかける作品!と書いてあった。
何でも病院の近くに、撮影の舞台になるような、お屋敷風の家が見つかり、近くで病院を探していたら、
たまたま平和病院が目に付いたとのことだった。
病院の中の撮影は無しとのことで、
許可をもらえれば、監督などのスタッフを連れて下見に来るとのこと。
面白そうなのでOKをだした。
その後、日曜日にスタッフがかなりの人数で病院の見学に来て、事務長が対応した。
病院の文字の寸法まで測っていったと言うので、てっきり使われるのかと思っていた。
個人の病院という設定なので、あまり大病院でも困るらしかった。
気になったのはドラマのストーリーが30年にも及ぶとのことで、
回想シーンかなにかに出てくるセピア色の、古めかしい病院のイメージで選んだんではないだろうな・・・とも思ったが・・・
撮影が始まったら、エキストラで使ってもらおうか・・・などと考えていたのに、
いつの間にか放送開始になってしまった!
使わないなら使わないと、連絡もないのには、ずいぶん失礼な話だと思ったが、
先日往診に行ったとき、患者さんの部屋でテレビがかかっていた。
よく見ると石野陽子が出ている。
「あ~このドラマだ!」と、しばらく患者さんと一緒に見てしまった。
主人公は、もうかなり大人になっていて、院長の娘のほうは、かなり高慢ちきなキャラクターで、
乳母の娘は、いかにも清純そうなイメージになっている。
その日の放送では、育ての親(乳母の夫)が美しく育った娘に「あかの他人を今まで育ててやったんだ!」とか言って襲いかかるシーンで終わり、
今後の、かなりどろどろとした展開が予想された。
どんな病院が使われたのか、見てみたいが、あいにく放送時間は真昼間で、勤務中であり、そんなこともできない。
ビデオを撮るのも馬鹿らしいし・・・
誰か知っていたら教えてほしいものだ。
今度の往診は放送時間に合わせて行って、患者さんに聞いてみようと思っている!
(17年2月6日)


娘から学ぶ・・・

何事もそうなのだろうが、医者の世界でも、実際に経験するのとしないのとでは、雲泥の差がある。
いくら本を読んで知識があっても、実際に一回でも見てみないと、わからない事も多い。
最近、娘の舌があれて、「食べ物がしみる」と言い出した。
「ウガイでもしとけば治るんじゃないの?」とか答えていたのだが、
一向によくならない。
「お父さんは病院では患者さんをよく診てるかもしれないけど、私のことになると全然心配してくれない!
と、娘には評判が悪い。
あまり治らないというので、「どれ、見せてみな」と言って、娘の舌を見て驚いた。
舌がまだら模様になっている!
頭の中の引き出しをいくら引っ掻き回しても、何の病気か判らない!
口内炎とかなら、いくらでも経験したことがあり、治療も簡単だが・・・
「わかんないの!?」と攻められた。
しかたが無いので、自分の歯の治療のついでに、口腔外科の先生に診てもらう事にした。
先生は一目診るなり「これは
地図状舌ですね」といわれた。
初めて聴く言葉だったが、ホルモンのアンバランスや、疲れがたまったときなどに出やすく、心配なものではないが、
最近多いのだそうだ。
若い子が昔に比べ、あまり硬いものを噛まなくなっており、歯がとがった状態になっている事が多く・・・
それが舌に刺激となることも要因のひとつで、若年性の舌癌の原因になることもあるそうだ。
娘の犬歯もかなりとがっており、その日のうちに削られてしまった。、
「とがった歯が気に入っていたのに!」と、わけのわからないことをいっていたが、
軟膏を処方され、しばらくたったら治ってしまった。
ず~っと昔のことだが、娘が幼稚園の時、舌の真ん中が真っ黒になったことがあった。
このときもなんだか判らず、
「海苔かひじきでも食べ過ぎたんじゃないか?」などと適当なことをいっていた。
しばらくして自然に治ったのだが・・・
その少し後で、皮膚科のアトラス(写真入の本)をめくっていると、
娘の舌と全く同じ状態の写真が載っていた。
抗生物質などをのんでいる場合、カンジダが舌にでき、このような状態になると書いてあった。
そういえば、そのとき娘は小児科からもらった抗生物質をのんでいたっけ・・・
そのまた少し後、外来に「舌が黒っぽくなっているんですが・・・」と言う患者さんが来た。
どれどれ・・・とみると、娘の時とおんなじ状態になっている。
「あ~これはですね・・・」と、さも以前から知っているように説明し、治療できたことがあった。
今度も娘の舌が治ったすぐ後、外来に「舌が荒れているんですが・・・」と言う娘さんがやってきた。
見せてもらうと、これまた娘の状態とおんなじ、まだら模様になっている。
「これは、地図状舌の可能性がありますね!」
その子も風邪を引いて疲れがたまっているとのこと。
娘が言われてた通りのことを説明し、口腔外科の受診を勧めた。
受診の結果は、やはりそのとうりだったようで・・・
娘には2度も身を持って教えられたことになった。
うちに帰ってこのことを話したら・・・
「どうせ、さも前から知っているように話したんでしょう!、私がなるまで知らなかったくせに!私はモルモットじゃないんだからね!」とズバリいわれた。
まさにその通りなので、何も言い返せなかったが・・・
確かに、何事も経験しているのと、いないのとでは大違いだ。
もちろん、家族はいつも健康であってもらいたいのだが・・・・
(17年1月30日)


入院・手術体験記
一番初めにやったこと

CTの所見を見て、検査を受け、がんの告知を受け、手術まで・・・
今思い出してみると、あんなに長く感じたのに、いざ入院してから退院するまでは6日、
手術後5日目での退院は、あっという間に過ぎていった。
術前はいろいろなことを考え、悲観したり、自分を叱咤激励したり・・・
まともな精神状態を保つのに苦労したが、手術後は体のきつさ、痛みなどに紛れ、余計なことも考える余裕が無かった。
とにかく、自分の肺の中にできたできものは、最終診断はついていないものの、ひとまずはなくなったわけだ。
とにかく、後は体力の回復を急がなければ・・・ただ、想像していた以上にダメージが大きい・・・
入院前に宣言した復帰予定を、少し先にしておけばよかったと思った。
とても電車に揺られて帰る気力も体力も無く、車で帰った。
退院した日は土曜日だったが、その日は下の子供の父親参観日だった。
最近は土曜日が休みの会社も多く、父親参観日や、運動会などの学校行事が土曜に行われることが多い。
平和病院は土曜日にも診療をしているので、今まではほとんど参加することが無かった。
ただ、今年の運動会は(6月にある)、手術が決まっていたし、
ひょっとしたら、子供の運動会など二度と見られなくなるかもしれない・・・などと弱気なことも考えていたので、
休みをもらって見に行った。
子供たちは今回のことをどう捉えていたのか、今もってよくわからないが・・・
妻とも相談し、はじめは手術を受けることだけを言って、術後は「なんでもなかったよ」というストーリーだったのだが、
上の子は、ただならぬ気配を感じていたのか、妻に盛んにカマをかけていたようだ。
ある日の夕食のとき、あまりにさりげなく、
「ねえ、お父さんの病気って、癌なの?」と聞いてきたので・・・
思わず「うん、そうかもな・・・」と言ってしまった。
しまった!と思ったときにはもう遅く・・・
「そうなんだ・・・」と黙り込んだ。「いや、まだ決まったわけじゃなく、そうだと困るから手術をするんだ」と言っても後の祭りで・・・
今回の騒動では、一番の失敗だったと、今でも悔やまれる。
下の子は手術の話を聞いて、声を出して泣き出した。
これには自分でも猛烈にショックを受けた。
その下の子が、「今日は学校行かなくちゃ行けないのかな」と、退院の日の朝、言ったらしい。
学校旅行のことを、生徒たちで決める様子を参観するとのことだった。
退院してくる父親が気になるのか、
誰も見に来てくれないのが嫌なのか・・・・
自宅に着いたのは10時半ころだった。
今から学校に行けば、参観が終わるまでに間に合うかもしれない。
「このまま学校に行こうか」
たかが参観日なのだが、なぜかその日は不憫な気持ちが強く・・・・
何が何でも行ってやらなくては!という気持ちになっていた。
荷物もそのままにして、すぐに学校に急いだ。
急いだといっても・・・学校まではふだんなら歩いて15分くらいだが・・・・
坂を上って一山超えなくてはいけない場所にある。
正直、坂道は厳しかった。いつもなら平気で上れる坂なのに・・・
息が切れてあがれない。歩幅を少なく、亀のようにのろのろと、ハアハア言いながら倍以上の時間をかけて、何とか学校までたどり着いた。
残りの授業時間は半分くらいになっていたが・・・
なんとか、授業が行われている体育館にたどり着いた。
子供は、はじめは気づかなかったが、目が合った。
手を上げると、子供の顔が変わった。目立たないように手を上げて笑った。
ほんとうにうれしそうに見えた・・・・普通の教室での参観で、立ちっぱなしだったら、少しきつかったかもしれない。
さいわい、体育館だったので、腰を下ろすことができた。暑い日だった。
終わるまでがとてつもなく長く感じた。
体力が落ちているのを嫌と言うほど思い知らされた。
授業が終わって、子供がそばにやってきた。
父さん、お帰り、来ないと思ってたから・・・びっくりした」
ああ、帰ってきたんだな・・・と思った。
無理して来て良かった・・・心からそう思った。
(17年1月4日)


入院・手術体験記

退院決まる!

早いもので、もう手術後半年が過ぎてしまった。
この体験記も、早く書き終えて、気持ちを切り替える時期にはとっくに来ているのに・・・
なかなか書き終わらない。もうそろそろ終わりにしよう!

この日は車椅子に乗せられて、胸のレントゲン写真を撮りに行った。
前の日はポータブルで、自分のベッドに寝たままで撮影したので、一歩前進した。こんな小さなことで、回復を実感する。
夕方の回診のとき、さっき撮影した胸の所見を見た先生から「順調に経過していますから、胸のドレーンを抜きましょう!」といわれた。
えっもう!?という感じだ。
外科で、乳がんの患者さんなどではドレーンからの量が数十cc程度にならないと抜かないが・・・
200cc以下になりましたから、大丈夫でしょう・・・とのことだった。
感覚的に、あまりの違いにとまどったが、管が一本でも少なくなるのはいいことだ。動きも自由になる。
ドレーンの入っている部分に局所麻酔が打たれ、傷をふさぐ準備をしてからドレーンが抜かれる。
「いきますよ!」といわれ、息を止めると、ズロズロ・・・と管が抜けていくなんともいえない感覚がある。
いともあっけなく、胸の管は、術後わずか2日目でとれてしまった。
「あとはどんどん深呼吸をして、歩いてくださいね!」と、いわれても・・・・・そんなに簡単には行かない
体から余計なものが抜けていくのは、確かに治っていく感じはしてくる。
明日、具合がよければ帰りますか?」と言われた。
「え~~!もうですか?」
さすがにこの状態では自信がない。「週末まで様子を見させてくれませんか」と、お願いした。
食事は全部食べられるのだが、点滴の量が減らない。
水もどんどん飲んでいるし、間食も、やることも無いのでがばがば食べている。
そのせいか、尿の量がものすごく多い。
トイレまでソロソロ歩いていき、バックの中にためるのだが、ほかの患者さんのバックの量に比べても、断然多い!
こんなところで勝負しても始まらないのだが、パンパンに膨らんだ袋が、なんだか頼もしい。
ただ、しまいには入りきらなくなってしまい、こっそり捨ててしまった(ごめんなさい)
夕方、宮崎教授から花が届いた。殺風景な病室が、急に華やかになる。大学に御礼の電話をした。
「さすが髙橋、しぶとく回復も早いな!」との言い方もなんだか懐かしい。
それにしても、ここの病院の食事はおいしい!
熱いものは熱く、冷たいものは冷たくでてくる。
やはり、病院食はこうでなくてはいけない。配膳車ががどんなものなのか、興味があり、食事のときに廊下に出てみたが・・・・でかい!
とても、平和病院の配膳用エレベーターには入らない・・・
退院したら、何とかして平和病院の食事もこんな風にしてみたいと思った。
仕事のことを考えだしたところを見ると、少しは余裕が出てきた証拠なのか、とも思った。
金曜日、術後3日目だ。胸の写真は、歩いて放射線科まで撮りに行った。
私を見た放射線技師がにっこりしながら行った。「あ、髙橋さん、今日は自分で歩いてこられましたね!、回復が早くてよかったですね
正直言って驚いた。言われて初めて、ああ、そうなんだ。順調に治っているんだ!と実感した。
外来、入院と、たくさんの患者さんがいるだろうに・・・
患者の変化をとらえて、声かけができていることに感心した。
実際、この一言は、今回の入院中で一番うれしかった本当に涙が出た。
病院の職員のたった一言の声かけが、こんなにも一人の患者に喜びと、勇気を与えることができるんだ、ということを痛感した。
いままで、接遇とかには気を使っていたし、職員にも教育してきたつもりだが・・・それはもちろん大切ではあるけれど、
本当に大切なのは、今、自分がかけられたような、何気なく出る一言にこめられた、ささやかな気持ちなんだということがよくわかった。
平和病院の職員も皆が、患者さんやご家族の方たちに、こんな声かけをしてもらいたい!そう思った。
創の痛みはしょうがない!ただ、横を向けない。体の向きを変えようとすると、猛烈に痛む。創の痛みというよりは、肋骨の部分がいたい。
手術中に、術野の視野をよくするため、肋間をかなり広げるためなのだろう。
レントゲンの所見は問題が無いとの事で、ついに次の日、退院が決まった。
もちろん退院はうれしい!ただ、不安も大きい。まあ、いざとなったら、平和病院の患者になればいいか・・・とも考える。
確かに創の処置以外にはやることも無く、処置だけなら、平和病院の外来でも可能だ。
歩くのもやっとの状態で、大丈夫なのかとも思ったが、結局、退院を決心した。(16年12月26日)


入院・手術体験記

手術が終わった日の夜は
ほとんど眠れないうちに朝になった。
深呼吸ができない。ネブライザーが枕元に用意され、「痰を出してくださいね」
とは言われるが、咳などしようものなら体中を激痛が走る。
胸には手術後の浸出液を体外に出す管が入っており、持続で吸引されている。
先生や看護師さんが部屋に入ってくるたび、空気の漏れがないか、出血はないか、などをチェックする。
そのたびに「咳をしてみてください」と、言われるが、喉だけで「コホンコホン」というだけで、とても力を入れて咳などできたものじゃない。
ただの咳がこんなにもつらいものとは思わなかった。
ありがたいことに、午前中の回診のとき、ついに尿の管を抜いてくれることになった。
昨日から続く、この管によるおちんちんの違和感、痛みから解放されると思うと、ほっとする。
と、思ったとたんに管が抜かれた。
抜かれる瞬間のなんと痛かったことか!
体中が浮き上がるような・・・
おちんちんで体だがつる下げられるような(もちろん実際にそんなことはされたことが無いが・・・)
思わず叫びたくなるような痛みだった。しかも、抜いた後も異様にピリピリとした痛みが残っている。
尿瓶が枕元におかれ、
「出たおしっこはこれに入れて、トイレの蓄尿袋に入れてくださいね」と、看護師さんに言われた。
トイレには自分の名前が書かれた袋がおいてある。自分のほかにも何人かの名前が書かれた袋が並べられているらしい。
手術してまだ24時間もたっていないのに・・・
もう自分で歩いてトイレに行かなくてはならない。
胸には吸引のチューブが入ったままなので、トイレに行くときには、その管から空気が漏れないように、器具ではさんで移動しなければならない。
「クランプの道具はここにおきます。、判っていると思いますので、自分でクランプして歩いてくださいね」
私が医者とわかっているので、説明は要らないと思っているらしく(実際わかっているのだが・・・)実にあっさりしている。
病室はトイレの斜め前で歩く距離は短いのだが、初めて歩いていくトイレは、とてつもなく遠く感じた。
何キロも先にあるような感じがする。寝巻きの前をはだけ、胸からの管をぶら下げ、やっとの思いでトイレの前に立ち、
尿瓶の中におしっこを出す。
出る瞬間、おちんちんの先に「ぎゃ~」と叫びたいほどの激痛が走る。情けなくて、涙が出そうだ。
尿瓶にたまった尿を、自分の名前が書いてある袋に流し込む。
また病室まで、のろのろと這うようにして戻った。
昼からはもう食事も出る。
流動食だ。腹部の手術ではないので、全部食べられるのだが・・・
飲み込んだ後、食事が流れていく感覚がやけにはっきりとわかる。
食べ物がしみるような、冷たいような不思議な感覚だ。
手術のとき、食道の周囲の組織もとってくるので、食道がむき出しになっているせいなのかもしれない。
次の日、頭もだいぶしっかりしてきたので、改めて、妻と母から、手術後の説明の内容を聞き出した。
肺の腫瘍を迅速検査に出したのだが、たまたま機械の調子が悪く、判断できなかった。肉眼的には癌は間違いない。
摘出したリンパ腺には転移は無かった!とのことだったらしい。
腫瘍の組織的な診断はつかなかったが、癌としてリンパ腺のカクセイを行ったようだ。
まあ、自分が執刀していても、この状況では癌の手術をするしかないので、そのこと自体は問題ないのだが・・・
それじゃあ、まだ組織的には癌と確定していないんじゃないか!
すっかり覚悟を決めていたのに・・・こんな話を聞くと、あきらめの悪いもので、
摘出した腫瘍を良く調べたら、癌じゃなかったという可能性だって、まだ「0」ではないことになる。
もしかしたら・・・などと思い始めてしまう。
もちろん、逆にもっとたちの悪い腫瘍の可能性だってあるわけだ。
痛い思いをした割には、また精神的に中途半端な状態に逆戻りしてしまった。
「あきらめろよ!」という思いと「いや、もしかしたら!」という思いがぐちゃぐちゃに混ざり合う。
自分でも、往生際が悪いと思うが、良い結果のほうにすがりたい思いはとめられない。(16年12月11日)



同門会

一昨日、千葉大学臓器制御外科学の集団会(大学の医局員の研究発表や、関連病院の症例発表など)が行われた。
毎年この時期にあるのだが、
平和病院からも演題発表をおこなった。
懐かしい同級生や先輩などにも多く会え、、また、自分が役員にもなっている関係で、毎年出かけている。
受付には現役の医局員が並び、やれ同門会費だ、千葉医学会費だ、懇親会費だと、請求され、
あっという間に財布が軽くなるのには閉口する。
集団会のあとには懇親会が開かれるのだが、
広い会場にテーブルが用意されているが、今年は椅子に座れるのは昭和46年卒業の先輩方までだった。
あとは会場の後ろにぞろぞろとっ立っている。
私は53年卒業なので、イスに座れるのはまだまだ先の話だ
数年前、教室開設110周年が行われたが、今回も、私より何十年も前に卒業された先生もいらっしゃっているので、
私などはまだまだ若い方になるのか?
ただ、毎年何回も大学には顔を出すが、だんだん後輩の顔がわからなくなっている。
若い先生たちとは、彼らが平和病院に出張にならない限り、あまり接点が無く、
知った顔を見ると、ほっとする。
大学の時には「おい」とかいってこき使っていた新人が、いまでは助教授や講師になっているので
あまりなれなれしくするのも悪いように感じてしまう。
同じ時期に一緒に大学にいた連中も、白髪が増えたり、禿げ上がったり、太ったりで、年を感じさせる。
まあ、自分もそうなんだろうが・・・
今年は「病院で死ぬということ」で有名になった山崎章郎先生が来ていた。
山崎先生も、いつものマスコミや、講演の時の顔と違い、仲間に囲まれてリラックスしているようだった。
今をときめく有名人と、気軽に話す機会などめったに無いので、しばらく話していたが・・・
もうすぐ今のホスピスを辞めて、ターミナルの診療所を作るそうだ。
自分も、在宅を含めて、ターミナルにかかわっていることや、まだまだ悩みが多いことを話すと、
あまり深く患者さんやご家族の方に感情移入をしてしまうと、逆に、重荷を背負うことになり、大変になる」といわれたのは、少し意外だった。
もちろん、機械的に診るということではないのだろう。
その「さじかげん」は山崎先生の数多くの経験からから裏打ちされたものだろうが・・・
実感としてよく理解できなかったのは、少し残念だった。
平和病院に勤務したあと、山崎先生のホスピスで働いたS君も、
今は聖路加病院の緩和ケア病棟に勤務していると知らされた。
このホームページの「外科ものがたり」には、次に登場する予定だ。
宴もたけなわといったころ、椅子にちょこんと座っている懐かしい女性の顔が見えた。
野村さんといって、今の教授が医局に入る前から、ず~~~っと努めている。
もう78歳だそうだが、今も現役で医局の雑用を引き受けてくれている。もう35年以上も努めているはずだ。
今は偉そうにしている先生たちの、ひよっこの頃の事も良く知っており、
「今度、臓器制御外科の裏話でも書いてみようかな、と思ってるんですよ・・」といっていた。
「いや~、私も大学にいるころはやんちゃだったからな~」といってみたが、全く否定する様子が無lく、にやっと笑われた
具体的な話が決まっているのではないようなので、大丈夫だとは思うが・・・
「お手柔らかに」と、ビールをついで、ご機嫌とっておいた。
平和病院で勤務していた先生たちも何人か出席しており、挨拶に来てくれたが、
皆あの頃に比べ、たくましくなり、立派な外科医の雰囲気が出てきているのを目にすることができ、
こちらもうれしい気持ちでいっぱいになった。
(16年11月23日)


入院・手術体験記

いざ出陣!

病室の冷房がベッドの真上にあるせいで、暑いのに、体が寒い。
さすがに熟睡はできず、朝、4時ころには目を覚ました。
体には汗がへばりついている。
タオルで体を拭き、ひげをそり、歯を磨いた。
昨日の台風とうって変わって、ぬけるような青空が広がっている。
いよいよあと数時間で手術が始まる。鯉は、まな板の上に乗せられてしまう・・・
6時には浣腸、8時15分に前投薬の注射をうたれた。
8時半ころ、妻と、母がきた。
努めて明るく振舞おうとしているのが判って・・・
8時50分、病室を出た。手術室には、病室のベッドに寝たまま連れて行かれる。
妻とは母はベッドのあとを手術室の入り口までついてきた。
がんばってね~」と、やけに大きな妻の声が聞こえた。手を振っているのが見えた。
手術室の廊下でストレッチャーに乗り換え、執刀される部屋に入った。
寝たまま見る手術室の風景は、いつも見慣れたものとは全く違って感じる。
視界に昨日、部屋に来てくれた看護師さんが目に入る。やっぱりニコニコ笑っている。
なんだか少しほっとする。
麻酔の先生は女性だった。
「じゃあ、エピドゥラを入れますから、体位をとってくださいね」
ここでも、説明無しだ。
自分で横を向き、背中を丸くする。
痛いかな・・・と、思うまもなく、あっという間に終わった。非常に上手だ!
仰向けにされ、マスクを当てられた。
手術室での記憶はたったこれだけで、それからあとは全く記憶が無い。
目が覚めたときには自分の病室に戻っていた。
バルンカテ(尿道に入れられている管)が異常に痛い!
術後麻酔からはっきりさめていない患者さんが「おしっこが漏れる!」
と、言うことがよくある。「大丈夫!管が入っているから、そのままやっていいですよ・・・」
と、いつも言っている。
なるほど、この感覚のことを言っていたのか・・・と思ったが・・・
この違和感はたまらない!
おちんちんの先に異様に神経が集中してしまう。
ベッドサイドに妻と母がいるのが見えた。
手術の時の検査で、リンパ腺には転移が無かったって!
自分では全く覚えていないのだが、あとから聞いた話だと、そのときには、「うそついてんだろ!、隠しているんだ・・・」とか言ったらしい。
やはり、進行しているのではないか・・・と、かなり気になっていたようだ。
そのあとも、うつらうつらの状態が続く。
面会時間終了のぎりぎりになって、妻と母は帰っていった。
痛い!!
創の痛みはもちろんだ。体を少しも動かせない。動くと激痛が走る!
ただ、それよりもおちんちんの先がどうしようもないほど痛い!
看護師さんがラウンドしてきた。「痛みはどうですか?」
「痛くてもしょうがないのは判っているんですが・・・、バルンが痛くて・・・」
痛がりでしょうがない!などと思われたくないので、見栄を張ってなるべく我慢をしていた(自分ではそのつもりだったが・・・)が、
ついに我慢できなくなり、注射をお願いした。
麻酔のときに入れた背中の管からは、持続で痛み止めがながされていたのだが・・・
注射は効いた!
しばらくすると、スーっと痛みが引いていくのがわかる。
鉛筆で書いた「痛み」という字を消しゴムで消していく感じで、はっきり消えていくのが判る!
薬が癖になる患者さんがいるのが判るような気がした。
(16年11月7日)


入院・手術体験記

医者から患者へ:

6月21日、子供たちは、いつものように学校に出かけていった。
また会えるかな・・・などと、気の弱いことを考えてしまう。
確定診断のつかない中途半端な状態からようやく開放されるという感覚と、
突きつけられる現実を直視しなくてはいけない、という恐怖に似た感覚が入り混じり・・・
なんとも言いようの無い複雑な心境だ。
妻は朝早くから起き、入院の準備、子供の世話、洗濯・・・と、いそがしそうに動き回っている。
明日、自分が麻酔からさめる前に、診断結果を初めて聞かなくてはならない。
まだ、子供も小さいのに、夫に「」の宣告がくだるのを聞かなくてはならない現実。
いつもと変わらず接してはいるが、話している途中で時々見せる涙を見ると、申し訳ない思いでいっぱいになる。
8時少し過ぎに家を出た。
いつもの月曜日と同じように「ゴミだし」が行われるが・・・
自分の行き先は平和病院ではなく、国立神奈川病院だ。
横浜線、小田急線を乗り継いで、秦野の駅に着いた。
途中の電車は込んでいた。通勤、通学・・・
いろいろな人が乗っている。こんなにたくさん人がいても
この車両の中で明日手術を受けるのは、自分だけなんだろうな・・・など、
どうしようもないことを考える。
病院に着いた。
このまま帰ってしまいたい・・・などと、まったくもって意気地の無いことも考えてしまう。
夢なら早く覚めてくれればいいのに・・・
入院の受付を済ませ、加勢田先生の外来を受診した。
実は、先生とは、これが初対面だ。
前回受診した時には会えなかった。その後、何回も電話では、やり取りしていたが・・・
温厚そうな雰囲気に、ほっとしたのもつかの間、
CT所見を見て、「まあ、腺癌の可能性が高いと思います。また、午後に病室で詳しくお話しましょう」と、言われた。
手術は朝の9時から始まるようだ。
外来の看護師さんに案内され、長い廊下を歩き・・・病棟にたどり着く。
病棟の看護師さんに引き継がれ、病室に案内された。
「それでは寝巻きに着替えてお待ちくださいね」といわれたが・・・
なかなか着替える気がしない。
ぐずぐずしていると、妻にせかされた。
パジャマに着替え、ベッドに座ると・・・
医者は、あっという間に患者に変身する
しばらくして入ってきた看護師さんに手術に必要なものの説明を受けた。
T字帯、胸帯、タオル、ストッキング(血栓形成を予防するために手術のときにはくもの)・・・
いつも見慣れているものを明日は自分が身につけることになる。
私が外科の医者ということはわかっているらしく、いともあっさりと説明は終わってしまう。
足りないものを買いに、妻と一緒に売店に出かけた。
いかにも、「病院の売店」といった感じだ。
隣には喫茶店と床屋がある。喫茶店は寝巻きでは入れないらしい。
食事は食べられるんだから・・・と、妻はプリンだとかヨーグルトだとか、お菓子などをいっぱい買い込んでいる。
遠足じゃないんだから・・・という気もするが・・・なんだか痛々しくて、何もいえなくなる。
病室に帰り、しばらくすると食事の時間になった。
配膳車が異常に大きい。食事は、ご飯も、おかずも、味噌汁も温かい。デザートのゼリーは冷たい。これが温冷配膳車の威力か・・・
完全に平和病院の負け!
食事も終わり、しばらくしたころ、妻と一緒にナースステーションに呼ばれた。
シャーカステンにはわたしのCTがかけられ、3人のDRが待っていた。
加勢田先生が話し始めた。
CTから判断して、まず腺癌だと思います。部位がやや深いところなので、部分切除をしても上葉はほとんど残りません。
はじめから上葉切除を胸腔鏡を使って行います。
普通は6センチくらいの創ですが、先生は体格がいいので深い場所の操作になると思われ、
少し大きめの創になります。
手術時間は2時間程度ですが、術中に細胞検査を行うので、30分から1時間程度余計にかかる可能性があります。
出血量は通常50cc程度で、輸血は行わないですむ予定ですが、万一の時には日赤の照射血を使用します。
術後、胸腔ドレーンを入れますが、浸出液の量が1日200cc以下になったら抜去します。
細胞の検査で癌と確定した場合は縦隔郭清を追加しますが、その場合には術後の浸出液の量は多くなると思います。
手術創は埋没縫合で閉鎖しますが、ドレーン抜去部だけは抜糸が必要です。
先生は外科のDRなので、処置は自分の病院でできるでしょうから、なるべく早く退院していただくようにします。
日曜には何とか帰れるでしょう・・・
特殊な組織型の場合には、抗がん剤の治療も考慮します。

まだ、癌と決まったわけじゃない・・・
と考えてはいたが・・・どうやら年貢の納め時のようだ。
あとはリンパ腺に転移が無いことを祈るだけだ。
まだそんな簡単にくたばるわけにはいかない!
せめて10年、下の子が成人になるまでは死んでも死に切れない!
明日の運命を象徴しているのか・・・外は台風6号の影響で大雨、大風だ。
病室に帰ると看護師さんが「てい毛」にやってきた。
手術のときに邪魔な毛を剃りにくるのだ。
先日、医療機能評価を受審したときのポイントでは、
術前の「てい毛」は手術当日に電動クリッパーで必要最小限に行うことが望ましい・・・とされているのだが・・・

床屋で使うような道具で、石鹸で泡を立て、徹底的に剃られた。つるっつるだ!
危うく右の乳首まで無くなるかと思ったくらいだ!
なんか・・どっかから血が出てるような気もするし・・・
妻は5時に帰った。
5時半、手術室の看護師さんが術前訪問にやってきた。
「もう、手術のことはご存知だと思いますので・・・」
と、あまり細かいことは説明してくれない。今は医者じゃなくて、患者なんだから、・・・
判っていることでも言ってほしいのに・・・と思ったが、そんなことも言えずに「大丈夫です」と、つい、強がってしまう。
ただ、この看護師さん、決して美人じゃないくせに、なぜかほっとする雰囲気がある。
私の目を見て、にっこり笑っている。
やっぱり、看護師さんの笑顔は患者を安心させる不思議な力があると実感した。
「また、明日お会いしましょう。心配要りませんよ。大丈夫!」
そういうと看護師さんは出て行った。
そうだよな、だいじょうぶだよな・・・と、情けないが、涙が出る。
しばらくして、入浴の時間になった。今日のさいごのお仕事だ。
浴室に案内されたが・・・広い!
ちょっとした旅館の風呂なみだ
ただ、湯船につかる気はせずに、シャワーだけ使った。
大きな鏡があり、全身が写っている。
創は今のところ無いが・・・
この体も今日までか・・・明日には創ができ、今まで生まれてから50年以上、体に酸素を取り入れてくれた右肺の一部がなくなってしまう・・・
手術には100%ということはありません。麻酔に関しても、事故は0ではありません
自分がいつも手術の前に患者さんに言っている言葉が頭をよぎる。
消灯は9時だ。明日は6時から手術の準備が始まるらしい。
眠れるだろうか・・・と、心配する前に眠ってしまったらしい。(16年11月2日)


入院・手術体験記

入院までに、めげたこと:

①ねまき

平和病院は、入院する場合、業者と契約すると、体ひとつで、何も用意しなくても入院に必要なものが一切そろうシステムになっているが・・・
入院を決めた病院は、そのようなシステムはなく、
それこそ、石鹸、ティッシュ、コップ、はし、スプーン、バスタオルなどなど・・・
一切を用意しなければならなかった。
手術後は、胸に管が入っているし、おしっこの管も入れられているので、
普通のパジャマは使えない。
いわゆる、浴衣のような寝巻きになる。
私は身長が高いので、デパートで特別に注文して用意した。
いかにも、病気になったときの寝巻きとわかるような・・・
センスのかけらもない柄で・・・見ただけで具合が悪くなった。
妻は、使う前に、一度洗濯をするとのことで・・・
ある日病院から帰ると、部屋の中に干してあった。
ハンガーにかけられて、やけに大きな寝巻きが、目の前ぶら下がっているのを見ると
なんとも言えず暗い感じになっていく・・・
まるで自分がつるされているような気分にもなり・・・
たまらなくなって、ほかの部屋に持っていってもらった。

②おむかえ

あと数日で入院という日、往診に出かけた。
5軒ほど回るのだが、その中に、最近幻聴、幻覚が出現してきた患者さんがいた。
患者さんが寝ている部屋を訪れ、声をかけた。
「○○さん、おかげんはいかがですか?」
「これはこれは先生・・・わざわざおいでくださって、ありがとうございます」
そういったあと、患者さんは壁のほうを向き、ぶつぶつ誰かと話している。
そのあと、にっこり笑って私のほうに向き直り・・・
「いま、兄が先生をお迎えに来たと言っていますの」
どうやら、自分のお兄さんと話していたようだ。
これを聞いて、患者さんの娘さんが・・・
「もう、しょうがないんですよ、母の兄はとっくに死んじゃってるんですけどね・・・」とポツリ・・・
おいおい、冗談じゃない!
死んだ人が私を迎えに来てるってことか???どこに連れて行くつもりなんだ?
まったく縁起でもない・・・
「ははは・・・」顔は笑っていたが、本当にがっくり来た。

③すごく痛いんです!

私の外来に、最近、肺切除を受けた患者さんがきている。
手術は2ヶ月ばかり前に受けていたが・・・
ちょうど私が受ける予定の手術と同じ術式だ。
もちろん患者さんはそんなことは知らないが・・・
入院の少し前、ちょうどその患者さんが受診した。
ついつい、患者さんの状態を、根掘り葉掘り聞いてしまう。
「手術はどうでした? あんまり痛くなっかたですか? 今はもう楽になりましたか?」などなど・・・
「いや~つらいですよ! 息をするのもつらいし、手術後は体を少しでも動かそうもんなら、激痛が走るんです。
胸の管もつらいし・・・今だって、少し動くとまだまだ痛みが強く・・・」

え~~~!そんなにつらいのかよ!
これから手術を受けるってのに・・・
聞くんじゃなかった・・・と、後悔したが、
その患者さんは延々と手術のつらさ、今も残る痛みについて激しく語り続ける。

早く・・・話題をかえたい!(16年10月15日)


もはや歴史!

小学校5年の息子の勉強で、日本歴史が始まった。
細かさは違うが、高校生の娘も日本歴史を勉強している。
2~3週間程度で1000年分くらいすっ飛ばすのだから、覚えるほうは大変だ!
歴史なんだから、自分が習ったものとは変わりがないはずなのだが・・・
教科書を読んで驚いた。
日本最大の古墳は「仁徳天皇稜」と習ったのに、以前はそう呼ばれていたが、仁徳天皇のものと確認できないので
大山古墳」と呼ぶんだそうだ。
日本で一番古い金属貨幣は「和銅開宝」と覚えていたのに・・・・
1998年に「富本銭」なるものが発見されたそうで・・・
過去の歴史も変わるんだ!と驚かされた。
歴史と言えば、年号の暗記がつき物で・・
息子は中学受験ズバピタ暗記カードなるもので、必死に暗記している。
794年、「鳴くよウグイス平安京」など・・・昔と変わっていないのでなつかしい・・・
カードは全部で123枚あり、一番初めは57年、奴の国王が金印をもらった年で
コンナ金印もらっちゃった」などと書いてある。
パラパラとめくっていくと・・・
いつの間にか106枚目が1956年の「日ソ共同宣言」になっている。
まてよ・・・自分の生まれたのは1953年だ!
自分が生まれてからあとのカードが17枚もあるじゃないか!
2000年以上の歴史の中の123枚のうち17枚もが、生まれたあとの出来事なんて・・・
なんだかクラクラしてきた。
若いつもりでも、人生もはや過去の歴史の中に組み込まれているのか・・・
なんだか急に年をとったようで、不思議な感覚がした。
(16年10月8日)


オレオレ詐欺

母はことし76歳になるが、今も現役の医師として新橋の診療所に週4日勤務している。
私が入院したときには退院するまで毎日見舞いに来てくれた。
ずいぶん心配をかけ、すまないことをしたと思っている。
母は父と14歳の差があり、父が死んだときは、母はまだ40台前半だった。
女手ひとつで私と妹を育て、ずっと苦労をかけていたので、
今回自分が病気になったときには、自分のことはともかく、
「その母より先に自分が死んで、これ以上寂しい思いをさせ、親不孝をするわけにはいかない」と、本気で思った。
実家は比較的近く、車で1時間弱でいけるが、忙しくて、そう頻回にも顔をだせない。
ただ、退院後は今までより意識して電話で声を聞かせるようにしていたが・・・
先日電話で彼岸の墓参りの日程を決めようとしたときのこと、
いつものように「私だけど・・」
と言ったのだが、「どなた様です?」
と、いつもと違った感じの返事が返ってきた。
私だよ・・・私」と言っても
「どちらにおかけです?・・・お名前は?」などと言う。
これはいかん!息子の声もわからなくなるほど急にぼけたか・・・と、一瞬うろたえた。
「なに言ってんだよ!修だよ・・・お・・・さ・・・む!」
と声をあげると、やっと判ったのか、「なんだ・・いつもと違う声だったんで、てっきりオレオレ詐欺かと思った
と言われた。
実の息子をオレオレ詐欺と間違うなど・・・と、あきれたが、たしかに電話の声はわかりにくいらしい。
まあ、それほど用心深いのは大いに結構だが、息子としては複雑な心境だった。
(16年10月1日)


入院・手術体験記

栗原君は二人の先生を推薦してくれた。
「もし自分が髙橋先生の立場になっても、手術をしてもらいたいと思う先生ですよ・・・」
とのことだった。
一人は東邦大学大森病院の肺外科の教授、もう一人が済生会神奈川病院の呼吸器外科部長の加勢田先生だった。
済生会神奈川病院は自宅からも遠くない。
見舞いに来る家族のことも考え、加勢田先生にお願いすることにした。
ただ・・・神奈川病院は、平和病院からも近い。
自分が入院し、手術をして、寝ている姿などは「絶対人には見せたくない」との思いが強かった。
特に、病院の職員にはなおさらだ。
ところが、あいにく、というか、幸いというか・・・加勢田先生は、6月から、転勤で、秦野にある国立神奈川病院に移ってしまっていた。
今度はかなり遠い・・・ここならあまり人も訪ねてこないだろう・・・との考えもあり、この病院に決めた。
栗原君はさっそく先生に連絡をとってくれた。
手術は6月22日に決まった!
6月7日、初めて秦野の神奈川病院に受診した。
菊名から横浜線で町田まで出て、町田から小田急線に乗り換え秦野まで・・・
秦野からタクシーに乗って病院まで・・・
病院は昔、療養所だったようで、山の上にあり、くねくねとした細い道を登っていく。
登りきったところが急に開け・・病院が現れた。
患者として病院の玄関を入るのは、はっきり言って、あまり気持ちのいいものじゃない。
受け付けを済ませ、待合室で待っていると、看護師さんが私のカルテと写真を持ってうろうろしている。
少し不安になっていると・・
「申し訳ありません、加勢田先生は、急用でお出かけになってしまい・・・」とのこと。
「え~せっかく来たのに!」と、愕然としていると・・・
「代わりに院長が診察しますのでお待ちください」とのことだった。
しばらくして診察室に呼ばれた。
院長(呼吸器内科)はわたしのCTをじっくりなめるように見つめている。
「う~ん・・・加勢田先生から話は聞いています。手術は22日ですが、入院の日は、また電話ででも相談してください」
「ほぼ癌に間違いないんでしょうね・・・」と鎌をかけても、「どうでしょうか・・・なかなか難しいですよね・・・まあ一応病名は肺癌の疑いにしておきますね」
と、カルテの病名欄に「肺癌疑い」と書き込んだ
もちろん、癌でないのにこしたことはない。あきらめる気持ちがある反面、わずかな可能性にすがりたい気持ちも大きい。
あくまでも、まだ確定診断がついているわけではない。
確かに、今はまだ「肺癌」じゃなくて「肺癌の疑い」なんだから・・・
それからしばらくして、玉川病院でおこなった気管支鏡の細胞検査結果が判明した。
「今回の検体には悪性細胞は見られません!
「やった~」といってそのままにしておくわけにはいかない。
もし癌だったら、様子を見ているうちに手遅れになる可能性が高い。気管支鏡の結果に関係なく、手術は受けるつもりでいた。
ついに手術は「確定診断のつかないままで」おこなわれることになった。
もっとも、気管支鏡で診断がつくようでは、すでに進行していることになるし、診断がつけばあきらめるしかないことになる。
手術で右肺の上葉を切除し、その場で検査して、良性ならばそれでおしまい。悪性ならばさらにリンパ腺の切除を追加することになる。
自分は麻酔がかけられているから、診断結果は手術が終わってからでないと判らない。
いくらCTの所見で「癌にほぼ間違いない」と言われても、確定診断がついていないだけに、気持ちの整理が全くつかない。
なまじ良性かも知れないとの希望を抱いてしまう。
それから入院までの期間は、言い表せないほど長く感じた。
日常業務はこなすが、集中が出来ない。
毎日、また、1日のうちでも考えがコロコロ変わる。
最悪のことから最善のことまで・・・いろいろ考える。
腫瘍が小さくても悪性度が高く、転移があり、もう長くは生きられない・・・、術後に抗がん剤の治療を受ける自分を想像する。
子供が成長する姿も見られないかもしれない・・・
残された寿命は長くない・・・今でこそ言えるが、そんなことまで考える。
今、下の子供と一緒の部屋で寝ているのだが、夜中、寝ている姿をず~っと見ていたこともあった。
自分が父親を亡くしたのが高校3年のときだ。この子はもっと早く、小学生のうちに父親を亡くすことになるかもしれない・・・
自分がいなくなっても、この子は自分のことをちゃんと覚えていてくれるのだろうか・・・
自分が死んでも、子供たちを、ちゃんと学校に通わせられるのだろうか・・・
どんどん悪いことを考えて、奈落の底に落ちていくような感じになる。眠れない夜は長い・・・
もう今すぐにでも麻酔をかけて肺をとってもらいたいと思った。
生殺しの状態には耐えられない。
良くても悪くても、本当の結果を早く知りたい
!(16年9月16日)


コットンクラブとセブンクラウン

今では、あまり飲んで帰ることがなくなったが、ずっと昔はよく飲みにいった。
居酒屋で大勢で飲むのもいいが、一人でカウンターで飲むのも好きだ。
「セブンクラウン」という銘柄が好きなのだが、カウンターバーなどでは、おいてある店が意外に少ない。
高い酒ではなく、ハワイのABCストアなどでも売っていたし、酒の量販店では、むちゃくちゃ安売りをしている。
赤い7の字と、その周りに王冠が7個描いてあるラベルだ。
独特の甘い香りが気に入っている。
初めてセブンクラウンを知ったのは、大学病院時代、京成千葉駅の近くのバーだった。
裏道の雑居ビルの3階の小さな店で「コットンクラブ」という店だ。もう20年以上も前の話で・・・
赤い7の字に惹かれてはじめて飲んでみたのだが、はじめて「おいしい酒だ」と思った。
すごく気に入って、それ以来こればかり飲んでいた。
この前大学に行った時、たまたま裏道に入って、「コットンクラブ」の看板が目に留まった。
どう考えてもあの「コットンクラブだ」。昼間だったので当然あいていなかったが・・・
黒地に黄色い文字のあか抜けない看板がなつかしかった。
20年以上もずっと変わらずに営業しているのだろうか・・・
夜に来ることがあったら、ぜひ行ってみようと思った。
今日、宮崎教授に会いに大学に行った。
今回の自分の病気の件の報告と、お見舞いのお礼、平和病院の現状報告のためだ。
教授室で5時から1時間ほど話をして、6時すぎに大学を出て、千葉駅行きのバスに乗った。
「寄り道しないでまっすぐ帰れよ!」と教授に言われたが・・・
ふとコットンクラブのことを思い出し、途中下車をして京成千葉駅のほうに歩き、裏道に入っていった。
店の前まで来たが、残念ながら、看板に明かりがともっていない。
つぶれたのかと思ったが、あきらめきれず、細い階段を上って3階に行くと、店はまだつぶれておらず、
懐かしい木のドアがあいていた。
店の中はまだ暗かったが、雰囲気は変わっていないような気がした。
開店時間が遅いのか、とも思い、しばらく待っていたが、明かりがつかないのであきらめて帰ってきた。
次回はぜひ営業中に訪れ、セブンクラウンを飲んでみたいが・・・
店の雰囲気が変わっていたらがっかりするだろうし、セブンクラウンがおいていなかったら、もっとがっかりするだろう。
そう思うと、昔の思い出のまま、看板だけ見ているほうがいいのかもしれないが・・・・
やっぱりもういちど「コットンクラブ」のカウンターにすわってみたい。
(16年9月1日)


夢で泣く

今回の自分の病気は、肺のCT検査を受けたことで見つかったのだが・・・
未だに自分でも、なんでCTを撮ろうと思ったのかが判らない。
本当に、たまたま何気なく、CTのオーダー票にある肺の部分に丸をつけた。
症状は全くなかったし、健診で、胸のX線写真は撮影していた(病変は見つけられなかったが・・)
ただの「虫の知らせ」なのか・・・
検査したのは、父の命日に墓参りをし、実家の仏壇に手を合わせてすぐあとだった。
「まだ墓に一緒に入るのには早すぎる!」と、父が伝票にチェックをさせて、知らせてくれたのかもしれないと思っていた。
少し前に夢を見た。
朝起きたときには断片的になっていたが・・・
病院で何かの宴会をやっている。
かなり広い座敷だ。
よく見ると、離れた席に父が座っているのが見えた
なんでこんなところにいるのだろう?と、不思議に思っていると・・・
なぜか薬局長が出てきて
「先生が癌になったので、大変だと思い、お父様に連絡してみたんです」と言っている。
「え!連絡ついたの?」
「いえ、何回連絡しても電話がつながらなくて・・・」
そうだろうな・・・父はもう何年も前に死んでるんだから・・・
と思って父のほうを見ると、もういなくなっている。
「何処にいった?」と誰かに聞くと・・
「もう帰りました」と・・・
何十年かぶりに会えたっていうのに・・・なんで一言も話さないうちに帰っちゃったんだ・・
一言くらい話がしたかったのに・・・
と思ったら、なんだか悲しくて涙が出た。というところで目が覚めた。
なんと、本当に泣いていた。
おきてもしばらく涙が止まらなかった。
朝になって、妻に夢の話をしていたら、涙腺が弱くなっているのか、気弱になっているのか・・・また泣けてきた。
父が夢に出てきたことなど、あまり記憶にない。
やはり、今回のことは父が教えてくれたのか・・・
「ちゃんと守ってるぞ・・・」と言いたくて夢に出てきてくれたのか・・・
逆に、そう思っているから、こんな夢を見たのか・・・
どちらかは・・・いまだにわからない。
(16年8月16日)


入院・手術体験記

気管支鏡検査の準備のために内科外来に呼ばれた。
吸入をおこない、前投薬といって、準備のための筋肉注射を打たれた。
上腕に打つのだが、これが猛烈に痛い!
筋肉注射はもちろん初めてではないが・・・こんなに痛いのは初めてだ。
大柄な看護師さんが、注射のあとを猛烈な勢いでもむ。
後で気づいたら、けっこう内出血していた。
こら!・・・といまさら言っても始まらないが・・・
そのあと、車椅子に乗せられてレントゲン室に行った。
けっこうたくさんの医者が来て、私のCTを見て、話し合っている。
癌かどうか・・・話し合ってるのだろうな・・・などと思って耳をダンボにしたが、何も聞こえない・・・
もう少しで、あの死ぬほどつらそうな検査が始まるかと思うと、落ち着かない。
一人の若い女医さんが入ってきて、「それではもう一度ノドに麻酔をしましょうね。大きく口を開けて~」とスプレーの局所麻酔剤を噴霧しはじめる。
もともと自分はノドの反射がむちゃくちゃ強く、胃の内視鏡のときもゲーゲー、オエオエとやかましい。
何回麻酔をしても、スプレーされるたびに、いつまでもオエオエ言っているので、
ついに女医さんが看護師さんに「もうひとつ持ってきて」と、おかわりを注文する始末だ。
後で聞くと、この女医さんは、今、平和病院の外科にいる門脇君の大学の同級生だそうで、
世の中狭い、などと思ったが、とにかくその時は、そんなことを考える暇も無く、検査も始まっていないのに、涙と鼻水を流している。
さすがに見かねたのか、先ほど外来で診てくれた先生が、「先生、ドルミカムを使って、ねますか?」と言ってくれた。
この一言は、天使の囁きに聞こえた。
「その代わり、車の運転はしないでください。一人で来ているなら、誰か家の人を呼んでくださいね」
「ぜひ・・・お願いします」と、速攻で返事をし、さっそく家に電話し、妻に迎えに来てもらうことにした。
医者は自分が病気になったときには、からっきし意気地が無く、痛がりで、かつ、わがままでしょうがない!とは、よく言われている。
大学病院の教授が、やはり気管支鏡検査を受けるとき、大騒ぎをして、結局全身麻酔をかけた、との話はけっこう有名だ。
ドルミカムは大腸内視鏡検査の時にもよく使う薬だが、あらぬことを無意識のうちに口走ることがある、といわれている。
自分が毎年大腸内視鏡を受けずに、注腸造影検査で済ませているのも、これが心配で・・・というのも理由のひとつだ。
ただ、今回はそんなことは言っていられない。
素直に使ってもらうことにした。
検査台に上り、横になる。
「じゃあ、薬を使いますよ・・」と言われたあとは、まったく覚えていない。
気がつくとまだ台の上には寝ているが、検査は終わっていた。
「苦しそうだったので、ドルミカムを追加しましたが・・・」と言われても、苦しかったことも覚えていない。
ただ、ノドに違和感が残っているだけだ。
ずっと後になって門脇君が、「先生、気管支鏡ではかなり暴れたようですね・・・」とポロリといったところを見ると・・・
ノドの麻酔をかけてくれた同級生から話を聞いたらしい!何か口走ったんじゃないだろうな・・・?覚えてないのでなんともいえない。
「気管支には特に変化は見られませんが、腫瘍の場所と思われるところから、細胞を取ってきました。結果は後日お知らせします」
「ありがとうございました」と言おうとしても呂律が少し回らない。
「ありがとうごらいました。らいりょうぶれす」とか言いながら、そのまま車椅子に乗せられて、外来のベッドに寝かされた。
「はっきり覚めるまでここで休んでいてください」
看護師さんに言われて、カーテンで仕切られた狭いベッドに横になっていたが、
隣にも、もうひとつベッドがあり、誰かが寝ている気配がする。
「看護婦さ~ん・・・看護婦さ~ん・・・お願いしま~す・・・お願いしま~す」
か細いお年寄りの声が遠くから聞こえるようなのだが・・・どうやら隣のベッドから聞こえてくるらしいのだが
朦朧とした頭には、まるであの世からの声のようにも響き、あまりいい気持ちはしない。
どれくらい時間がたったのか、だいぶ頭がはっきりしたころ、カーテンが開いた。
「もう大丈夫です」といって待合室まで歩いた。
妻が来ていた。
「どうだった?」
「検査は麻酔をしてもらって、全然苦しくなっかよ。でも・・・やっぱり癌だろうって!」
「そう・・・」短く答えたあと、何も言わなかった妻が・・・泣いた。
(16年8月8日)


入院・手術体験記


今回の治療に関しては、どこで手術をするのか、決めかねた。
自分の専門は消化器、一般外科なので、腹部の病気なら、自分の病院で手術も可能だが・・・
平和病院では胸部外科は、自然気胸しか扱っていない。
自然気胸の手術は、日本で一番症例数の多い玉川病院の気胸センター長、栗原先生が来院して執刀する。
彼は、同じ大学の1年後輩で、大学では私と同じ肝臓研究室に所属していた。
今の教授と一緒に新しく作った肝臓研究室の創世期のメンバーとして、一緒に苦労した仲だ。
いつ間にか胸部外科に転進し、今では、海外から講演を頼まれるほどの第一人者になっている。
腫瘍が見つかった時、まず教授に相談した。と言うより、誰かに話を聞いてほしかった。
教授は「髙橋は昔から運が良いんだから、まず悪性じゃないと思うけどな・・・診断がつかないなら、呼吸器内科の腕のいい先生に頼んでやるから、千葉まで来るか?」
と言われた。
大学は確かに頼りがいがあるかもしれないが、逆に知っている医者も多すぎて、ことが大げさになる恐れがある。
しかも、やはり家から遠い。手術になった場合、家族のことを考えると悩んだ。
ちょうどその頃、自然気胸の患者さんが入院し、栗原先生が来院する予定になっていたので、
「栗ちゃん(今でもそう呼んでいる)に相談してみます」と言った。
「結果がわかったらすぐ連絡しろよ、心配するな」と言ってはくれたが・・・
心配しないわけが無い!
栗原先生に、自分の肺に腫瘤が見つかったので、今度来院したときに、CTの所見を診てほしいとメールした。
その日のうちに、電話がかかってきて、「先生、今度行くときなんていったら来週でしょう!早く診断をつけないと、心配でしょう!
すぐに写真を送ってください」と言われた。
肺の小さな腫瘍は診断がつきにくい。気管支鏡の検査を受けなければならない。それでも診断がつかないことも多い。
胃の内視鏡は自分でも何回も受けているが・・・
気管支鏡は、見ていてもかなりつらそうな検査だ
だいたい、呼吸をする場所に管を入れるなんて、苦しくないわけが無い!
どうやったら息が出来るんだ・・・などと、とても医者とは思えないようなことを考えてしまう。
実は何年も前、咳が続いたことがあり、胸部X線検査でひっかかり、CTを撮ったところ、両側の肺に細かい影が多発していて、
気管支鏡を受けるように言われた。
どうしても嫌で、検査当日に「咳も治ったので、もう一度X線検査で調べてくれ」、と駄々をこねた。そのときはアレルギー性のものだったようで、
しぶといことに影はすっかり消えており、検査が中止になったことがある。
CTを見た栗原先生から「やはり悪性と考えたほうがいいですね。なるべく早く気管支鏡をやりましょう。
千葉大の後輩の呼吸器内科の先生に頼んでおきますので、3日後に来てください」
と連絡があった。今回は逃げられそうにない。
妻にはこの時点で初めて話した。
「良性と確実に診断されればいいが、診断がつかない場合は、経過を見るなんて、まっぴらごめんだ!
今なら悪性でも間に合う可能性が高い。結果がどうあれ手術を受けるからね・・・」
検査当日、一人で玉川病院に出かけた。
呼吸器内科の先生は、外来に入るなり、CTを見て、静かな口調で、いきなり「まず肺癌に間違いないと思います」と言われた。
ある程度覚悟はしていても、この「癌」と言う短い言葉は、実際に聞いてみると、かなり強烈なインパクトがある。
いつもは何気なく患者さんに言っている言葉の重さがずしりとのしかかる。
「これから気管支鏡の準備をします」
ボーっとして外来の待合室にいると栗原先生がやってきた。
「先生、まだ小さいし、ラッキーですよ。今回の検査で診断がつかなくても、手術は絶対やるべきだと思いますよ。今なら治りますよ。
場所がやや奥のほうなので、右の上葉切除は必要になるでしょうけど、それでも1週間も入院すれば大丈夫ですから・・・」
「手術といってもどこでするのがいいか、全然わからないな・・・栗ちゃんのところではやってくれないの?」
「先生・・・やらないことは無いけど・・・やっぱり先生のことを手術するなんて、平常心じゃとても出来ないよ・・・」
「自分が先生の立場だったら、やってもらいたい先生が何人かいますから、私がその先生を紹介します」
と言ってくれた。(16年7月19日)



さすがにペースダウン!

早いもので、あと3日で入院となった・・・
4日後には手術が行われ、白黒はっきりとした診断がくだる。
手術が終わったころは、まだ朦朧としているだろうから、翌日に「告知」されることになるのだろう・・・
いままで、このホームページでも「告知」のことを書いてきたし、これからもターミナルの患者さんにかかわりながら
何とか患者さんの気持ちを思いやり、その闘病や看取りに長く携わっていこうと思っていたが・・・
まさか、こんなに早く自分が逆の立場になるかもしれないとは、思いもしなかった。
それでも、おかまいなしに、院内で処理しなければならないことは、途切れることが無い。
ただ、さすがにペースが落ちる・・・
気がつくと、何を考えるでもなく、ボーっとしている。
いままで、窮地に立たされたときには、いつも、「あと1ヶ月もすれば、なるようになっている・・・」と考えて乗り切ってきた。
ただ、今度ばかりは、まだどうしても、さらに先のことを考えてしまう。
手術をのり切っても、その先はもしかしたら・・・
と、思う反面、一番望ましい結果に終わっているかもしれないと考える瞬間もある。
この2週間は、そんなことの繰り返しだった。1日のうちに何回も考えが変わる。
楽観的な自分と、悲観的な自分がめまぐるしく入れ替わる。
一昨日、、私が外来でずっと診察していた患者さんが亡くなった。
結腸癌の末期だったが、すべて告知してあった。もちろん再発も告知した。
話し方はいつもつっけんどんだったが、家族思いの優しい方だった。
一時は自宅で最後を・・・とも話していたが、そんなときに私がこのような状況になってしまった。
何日か前、病室を訪れたときに、自分が3週間ほど留守にすることを伝えた。
「私も手術を受けなくてはならなくなって・・・」
「3週間もいないのかぁ・・・」そういったきり、しばらく黙り込んでしまった。
「今でも十分頑張っていることは知っていますから、これ以上頑張ってとは言いません。今度は私が何とか頑張って戻ってきますから、待っててくださいよ!」
そういって約束したのに・・・
そんなことがあったせいか・・・今は余計に気持ちが晴れない。
まあ、どちらにしても、自分のことは、なるようにしかならないし、結果はひとつだから・・・
あるがままを受け止るしかないのだろう。
結果さえはっきりすれば、それがどちらにころんでも、自分のモチベーションを高めることが出来るような気がするのだが・・・
この中途半端な状態はなんともいいようがない・・・
このまま1週間先にタイムスリップ出来たらどんなに楽だろう・・・
今までかかわってきた患者さんたちの強さに、いまさらながら感心すると同時に、
考えていたようで・・・患者さん達の心の動きを、いかに理解していなかったかを思い知らされた。(16年6月17日)


え!・・・癌?

毎年5月は自分で健康診断を受けるようにしている。
血圧、心電図、腹部超音波検査、胃内視鏡、注腸造影、腹部CTなど、ひと通りの検査を受ける。
もう10年くらい続けて受けているが、大きな異常所見も無くすごしてきた。
今年もいつもと同じメニューで検査を受けたが、何の気なしに肺のCTも撮っておこうと思った。
平和病院で撮影されたCTは、放射線科の専門医師による読影が行われている。
別に何の症状も無く、健康状態もいいのでまったく心配していなかったのだが・・・
読影結果報告を見て、一瞬目を疑った。
右上肺野に1センチ前後の結節が見られます。炎症とも思われますが、悪性を否定する根拠はありません!
あわてて写真を見てみると、なるほど確かに結節が写っている。
何が起こったのか・・・頭の中が白くなった。
悪性も否定できません・・・ということは肺がんの可能性があるということになる。
頭の中をめまぐるしく、いろいろな考えが猛烈なスピードで駆け巡る。
さて・・・どうする!!
(16年6月11日)


背が高い理由

この前、初めて往診に行った家の人に、「先生は背が高いんですね」といわれた。
以前はよく言われたが、最近は身長の高い人が多くなり、電車に乗っても人より頭が飛び出るよいうことも少なくなってきた。
それに、年をとってきたせいか、前より縮んできたような気もする。
「なんでそんなに大きくなったんですか?」ともよく聞かれたが
そんなこを言われても、わかるわけが無い。
「小さいころに、肥溜めに落ちたから、養分がいきわたったんでしょう」と、答えていた。
そのせいで大きくなったかどうかは知らないが、肥溜めに落ちたのは事実だ。
肥溜めなど、今はなかなか見られなくなったが、昔は少し郊外に行けばどこにでもあった。
小学校の3年の時の社会科見学で、世田谷の蘆花公園に出かけた時のことだ。
畑の中の道を歩いてると、誰かが「バスが見える」と言った。
どれどれと、道から少し外れた草の中に入ったとたん、ずぼっと体が地面にめり込んだ。
表面に草が生えてはいたものの、小さな肥溜めだった。
頭までつかる寸前、ヘリに捕まったが、首まではしっかりつかった。
運悪く、そのとき好きだった子の目の前での惨事だった。
ほかの景色や友達の事は覚えていないが、